落款を押すとまばたきする椿 合田瑠美子
フランス人画家が描いたイラスト
慶応2年の正月、祝賀のために登城した家臣たちとの謁見の様子
「西郷どん」 将軍慶喜
幕府による長州征伐の試みは、停戦という名の敗北に終わる。
これによって幕府は、広く世間に弱体化を示すことになってしまった。
こうした状況を見極めた薩摩藩は、日本の政治をこれ以上幕府中心で
動かすことの無意味さを痛感。そしていよいよ朝廷を動かして、
武力による政権交代を正当化する為の倒幕の密勅の獲得を画策し始めた。
こうした薩長の動きに遅れをとったのが土佐藩だ。土佐藩の尊攘派中心
人物であった武市半平太は、慶応元年(1865)5月、前土佐藩主の
山内容堂により切腹させられていた。
だが予想以上に幕府が弱体化しているのを見せ付けられたため、
後藤象二郎を登用して議論を再び尊王方向に転換したのである。
潮騒にしばらく心ゆだねよう 柴田園江
慶応2年8月20日、大阪城内で没した徳川家茂に代わり、慶喜が徳川
宗家を相続。しかしながら将軍職は固辞し続けた。そして15代将軍に
就任したのは12月5日になってからのこと。これは周囲に恩を売るこ
とで政治活動が有利になる、という考えがあってのことと言われている。
この年の12月25日、攘夷勢力の拠り所とも言える孝明天皇が崩御。
外国嫌いの天皇が逝き、慶喜ははっきりと開国を指向するようになる。
将軍職を引き受けることで、以降は開国政策が本格化していく。
なかでも幕府が肩入れしているフランスから240万ドルもの巨額援助を
受け、横須賀製鉄所や造船所などを設立。軍事顧問団も招聘し、幕府軍の
大幅な軍制改革も行った。言い換えれば、フランスに取り込まれる不安を
作ったのである。
緞帳が降りる迄夢追い続け 石田ひろ子
そんな中、西郷は徳川慶喜に対して複雑な思いを抱いていた。
西郷にとって、神のように慕い、絶対的な存在であった島津斉彬は慶喜が
14代将軍に就任することを熱望し、一橋派の最先鋒として行動した。
西郷もまた、救世主として期待した時期もあった。
だが、複雑に進行する幕末政局のなかで、慶喜が目指した政治目標は幕府
の再生だった。そのため、西郷が新しい政治体制を築くためには、
「慶喜は排除すべき危険な存在」として認識せざるを得なかった。
めまぐるしく動く政局のなかで、西郷は、慶喜を政権の中枢から追い落と
すだけでなく、その生命を奪い取る気概を抱きつつ、新国家建設のための
策謀を練った。
雷鳴へ少うし野生をとりもどす 笠嶋恵美子
慶応3年10月13日、慶喜は在京中の幕臣を二条城内に集め「大政奉還」
を決意したことを表明した。もともと大政奉還は、倒幕を目論む西郷らが
提出する予定のものであった。ところが後藤象二郎を通じ山内容堂からの
進言により、西郷の考えに気付いた聡明な慶喜は、先手を打ったのである。
大政奉還により政権は朝廷に返還されても、それは名目に過ぎず徳川家が
外交事務を行うなどは継続され、実質的な変革へのガイドラインは示され
なかった。また御所の警備は、京都守護職の会津藩が統括しており、天皇
の身柄は旧幕府の監視下に置かれていた。
そのため慶喜は自身に叛く勢力に対し天皇への反抗者、つまり朝敵として
討伐できる大義名分を確保していたのである。
慶喜が打った起死回生の大博打は、この時点では功を奏したように見えた。
いい線行ってるなどと他人のいいかげん 青砥たかこ
慶喜にしてやられた西郷は、大久保一蔵や岩倉具視らとともに、天皇の
身柄を奪取するためのクーデターを計画する。
そしてそれは12月9日、実行された。
薩摩藩兵を主力とするクーデター部隊が御所に迫ると、不意を突かれた
会津藩兵は、追い払われた。
西郷と大久保と密議を重ね、クーデターを演出した岩倉は、薩摩藩兵が
御所を制圧したことを確認すると、天皇の名のもと「王政復古の大号令」
を発令し天皇親政の原則が宣言された。
そして同日夕刻、新政権の基本方針を決定する小御所会議が開会される。
この小御所会議には、明治天皇も列席した。
三角定規のするどいほうで掻く頭 萩原五月
この会議で土佐の山内容堂は、クーデターを主導した岩倉に論戦を挑んだ。
「本日の政変は、やり方が陰険である。慶喜公が大政奉還を断行したのは
忠誠心の現われであり、排除すべきではない」
小御所会議は、前将軍の慶喜を新政府に参画させようとする容堂と排除し
ようとする岩倉が対立して紛糾した。議論が堂々巡りとなり、空転すると
休憩がとられた。
この間に御所の警護を担当していた西郷は、次のような言葉を伝言する
ように依頼した。
「短刀一本で立派に片がつくではごわせんか。岩倉さんへも一蔵どんへも、
西郷がおはんの短刀は切れ申すかと訊ねたと、よろしゅう言うて下され」
西郷は「容堂が異論を唱え続けるなら、刺し殺せばすむ」と混迷する会議
の流れを単純に片付けようとした。
分が悪くなると化石になっている 小谷小雪
岩倉は西郷の一言で覚悟を決め、土佐藩士の後藤象二郎らに対して容堂が
抗論しないように説得したことから、会議が再開されると、岩倉の思うよ
うに議事は進行した。慶喜は王政復古のクーデターにより、新政権から排
除されたものの、容堂や越前の松平春嶽が慶喜復権のために尽力を続けた。
そのため、12月中旬の段階では、王政復古の大号令によって成立した新
政権が有名無実化されかねない状況に陥りつつあった。
崖上の水仙崖の下のぼく 井上一筒
襖前右・岩倉具視 向い羽織袴・山内容堂 手前背中・大久保利通
【付録】 徳川慶喜
慶喜は幼い頃から聡明さは知られていたが、要職について以降は立場が
ころころ変わることでも知られるようになり、「二心殿」と叩かれること
もあるほどであった。
14代将軍・家茂没後の緊急事態においても将軍就任に激しく抵抗して、
幕閣を悩ませ、長州征伐においても最終直前まで自身が出陣するつもりで
いながら、それが無理となるとすぐに朝廷に停戦の勅許を求めて、朝廷を
呆れさせた。
鉤裂きはあなたが逃げた跡ですね 米山明日歌
[2回]
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