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川柳的逍遥 人の世の一家言
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逃げ道をそっと残して責めてやる  奥野健一郎

 勝海舟と西郷会見
第一次長州征伐の前に西郷は、当時幕府海軍創設のために活動していた
勝海舟と面会した。この時西郷は海舟を高く買い、こうしたことが後の
江戸開城へと繋がっていった。
また【長州への処罰を穏当なものにするよう」西郷に持ちかけたのも勝
海舟であるともいわれている。
「西郷どん」 薩長同盟前夜
禁門の変の後に実施された「第一次長州征伐」では、戦になる前に西郷

が長州藩との折衝により停戦への協定を妥結した。
大久保一蔵との協議により、長州に反幕府勢力としての決定的なダメージ

を与えるよりも、温情的な態度を示し、和解へのシグナルを送っておいた

ほうが、得策と判断したからである。
そのため第一次長州征伐を中途半端に状態で終幕へ導いた。
一橋慶喜は、長州藩を屈服させ、幕府の威信を回復させる好機だったにも

拘わらず、参謀の西郷が第一次長州征伐を終幕させたことに対して憤慨し、
このように語ったという。
「総督のやる気がまったく感じられないのは、芋焼酎の方が、酒より

酔いやすいからという説がある。芋焼酎の銘柄は大島と言うらしい」
(西郷は錦江湾入水自殺したと幕府に届けていた為、大島と名乗っていた)
善人でいる息継ぎが続かない  美馬りゅうこ
慶喜の芋焼酎発言の裏には、次のような思惑も働いていた。
当時の薩摩は琉球との密貿易や、薩英戦争後のイギリスとの繋がりにより

財政が潤っていた。

これは疲弊していた幕府からすると、脅威そのものである。
そこで慶喜は長州征伐という名目で薩摩に長州を攻めさせ、力を削ごう

と考えたのである。薩摩からすれば、長州と戦争をすれば多くの犠牲や

軍費が生じて、国力が衰えるのは目に見えている。ゆえに薩摩は無駄な

戦争には参加したくない。そして討幕運動の表に立つ気はないが西郷は、

あまり幕府側に肩入れしても、将来はないことを見越していた。
西郷は海舟との面会で、

「公武合体策の限界と幕府の内情」を聞かされてもいたのである。
選ばれたつもりが実は排除され  伊藤良一.


  幕末の江戸城

かつて西郷は幕政改革の旗手として慶喜に期待感を抱いた時期もあった。
だが混迷を続ける政局の中で、両者が対立関係にあったことは、慶喜の

「芋焼酎発言」から知ることができる。

西郷は三条実美をはじめ八・一八政変によって長州藩領へ亡命した5人の

公卿たちを太宰府へ移転する案を示し、実行へと導いた。
この五卿移転は反幕府派の三条らにとって温情的処置であり、土佐脱藩の

中岡慎太郎は西郷が反幕府への接近を模索しているのではないかと感じた。
そこで中岡は、盟友の坂本龍馬と共に薩摩藩と長州藩の首脳部と接触した。
黒百合の香に誘われる禁猟句  笠嶋恵美子
長州はともかく武器が欲しい。

しかも藩の方針は、「攘夷から討幕へ」と変わってきた。
実は両者の思惑は一致していたのである。
だが長州からすれば薩摩は恨み骨髄の相手。この度の長州征伐にしても、

幕府軍の中核に薩摩がいたことも分かっている。戦わず停戦になっても、

恨みこそ残るものの恩など微塵も感じられない。

このように激しく対立する薩長両藩を龍馬と中岡は、現状の政治体制を

壊し、将来の国造りのために、どうしても協力体制にあるべきと説いた。

結果、西郷は鹿児島から汽船を利用して上洛する途中、下関において、

長州藩の桂小五郎と会談することを約束した。
人を憎めば河原の石もなま臭い  森中惠美子 
【付録】 薩長同盟 はどうなった
慶応元年(1865)閏5月、歴史的会談が下関で行われるはずだった。
だが、西郷は「長州藩領の下関で会談が行われれば、長州藩主導で同盟
交渉が進行する」と判断した。そのため、同盟締結の意志がありながらも、
会談を土壇場でキャンセルしたのである。
松茸はまだかと花屋に聞いている くんじろう

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