川柳的逍遥 人の世の一家言
騒乱に泳ぐワラにすがりながら 山口ろっぱ
薩 州 屋 敷 焼 撃 の 図
西郷は旧幕府を挑発するため、江戸市内を攪乱させるテロを考案。 その密命を受けた薩摩藩士・益満(ますみつ)休之助は、討幕、 尊王攘夷派の浪士を集め江戸市中で放火、強盗、辻斬りなどの 作戦を実行。さらに江戸市中の警護にあたっていた庄内藩邸へ 発砲して挑発。旧幕府サイドは薩摩藩邸に攻撃を加えて制圧した。 が、西郷は鳥羽・伏見の戦い開戦の口実とした。 「西郷どん」 倒幕への動き 慶応3年(1867)5月、西郷と大久保は協力して諸侯合議によって
「長州の名誉回復」と「兵庫開港」という懸案の解決を幕府に迫ること
を藩父・島津久光に説いた。 久光もそれに同意して、京都で久光のほか、松平春嶽、山内容堂、伊達
宗城の4人で協議した。これを四侯会議という。 そして、この二大懸案を将軍慶喜に提案した。
しかし、慶喜は巧妙で提案を受け入れる素振りをみせながら、
自身の外交権に関わる兵庫開港を優先して勅許を得た。 長州の名誉回復は後回しにされた。
久光は怒って、京都に潜伏している長州藩の山県狂介(後の有朋)と
品川弥二郎を呼んで、「慶喜の反省がみられず、もはや尋常の手段では とても大勢挽回できない。薩長連合して大義を天下に示したい」 と伝えた。これを機に薩摩藩は武力行使方針を決定するのである。
(兵庫開港とは、外国嫌いで兵庫港が京都にも近いことから、
孝明天皇が開港を断固反対していた案件である) 聞こえないふりにはもってこいの雨 山田ゆみ葉
6月には、薩摩藩は土佐藩と「薩土盟約」を結ぶ。
これに小松帯刀と西郷、大久保が同席した。
慶喜に「政権返上や将軍辞職」を求め、加えて倒幕が主な内容だった。
もっとも土佐藩は、大半は倒幕へと意思統一されつつある薩摩と異なり、
藩上層は倒幕に反対的な立場を取っていた。
藩祖・山内一豊は徳川家によって土佐を与えられた恩顧大名であり、
公武合体の立場をとっていたからである。
藩の中間的立場の後藤象二郎もこの頃には、龍馬から船中八策を授けら
れており、幕府に大政を奉還させることで徳川家を存続させるという 方針をとる意向でいた。
従って、この会談では土佐側は倒幕を原則回避するという方向性を示し、 薩摩側もそれを容れるしかなかった。
明日なら飛べると思う水たまり 瀬戸れい子
そして、このことを長州藩にも伝える。
京都に同藩使者を迎えた西郷は有名な「三都同時挙兵計画」を長州側に
披露する。三都とは京都・大坂・江戸のことである。
京都では、兵1000人で禁裏御所の警固、会津邸や幕府屯所の襲撃、
大坂では、兵3000人で大坂城襲撃と軍艦の乗っ取りという内容だ。
壮大な計画で、西郷はこれを薩摩藩だけで断行するつもりでいたが、、
さすがにリスクが大きく、9月、大久保が長州に赴いて「薩長芸三藩
挙兵計画」を提案した。 薩摩・長州・芸州の三藩が海路、大坂に集結し、薩摩藩の京都制圧を
残り2藩が助けるというものだった。しかしこれは失敗に終わった。 歯車の一つがダダをこねている 嶋澤喜八郎
これら表向きのものとは別に、西郷は武力討幕を開始する導火線として、
慶応3年10月頃から「秘策」の準備を進めていた。
薩摩藩士・益満休之助に対し、
「江戸周辺で浪人を集め、江戸市中や関東を騒乱に陥れるようにせよ。 徳川家が討伐の兵を派遣したなら、可能な限り抵抗せよ」 という密命を下した。 益満は、約500名の浪人を集め、12月上旬から江戸周辺の治安悪化
工作を開始した。浪人たちは商家に押し入って金品を強奪すると、 三田の薩摩藩邸へと引き揚げた。 西郷は江戸を錯乱状態に陥らせ、幕府の方から薩摩藩に武力行使をする
ように仕向けたのである。 足し算の途中で夕陽が沈んだ 森田律子
西郷の思惑通り、江戸市中は三田の薩摩藩邸を根城とする浪人集団に
よって錯乱状態に陥った。 対する幕府内部では、「まずは上洛中の慶喜公の指示を仰ぐべき」
という慎重論を唱えるものもいた。
だが「即刻、薩摩藩邸を焼き討ちにすべきだ」との意見が大勢を占めた。
旧幕臣たちにとって、薩長両藩は徳川将軍に歯向かう敵には違いない
ものの薩摩藩は八・一八政変では蹴落とした長州藩と、いつの間にか 手を結び、幕府に背いたため、長州藩よりも薩摩藩を敵視した。 薩摩藩の首脳部では、裏工作の推進役である大久保よりも、政界の表
舞台で活動する西郷の知名度が高く、憎悪や反感の対象となった。 白黒をはっきりさせたがる右手 清水すみれ
一方の慶喜は、武力衝突を避けて、まだ基盤が確立されていない新政府
を有名無実化することを策していた。 旧幕臣の大多数は、慶喜が大政奉還を実行したことに不信感を抱き、
そのような高等戦術を理解しようともしなかったのである。
12月23日、薩摩藩の息がかかった浪人部隊は、庄内藩邸へ発砲した。
このころ庄内藩は江戸警備を下命されていたことから、
庄内藩邸への発砲は最上級の挑発行為だった。
江戸の旧幕府首脳部は、強硬論を抑制するのは無理と判断し、
慶喜の指示を仰がないまま、25日未明、薩摩藩邸への攻撃を開始した。
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戦闘は翌日の午前中には決着がつき、薩摩藩士の大多数は品川沖に停泊
していた軍艦に乗って退却した。 なお益満は逃げ遅れて捕縛され、のちに江戸無血開城交渉の使者として、
重大な役割を演じた。
「薩摩藩邸焼き討ち」の報せは、3日後の28日大坂城にもたらされた。
9日の王政復古の政変以来、会津藩を中心とする強行派は慶喜に対して
武力による新政府の打倒を訴えた。
慶喜はそのような動きを封じていたものの、事件の一報がもたらされると
強行派を抑止することは無理と判断し、不本意ながらも、
薩摩藩討伐のため京都に向けて進軍する命令を下した。 慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いの開戦である。
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【付録】 龍馬暗殺の謎
鳥羽伏見開戦の2ヶ月前の11月、龍馬は暗殺された。
西郷が暗殺事件の黒幕だったとされる説も提起される。
西郷にとって多くの秘密を知った龍馬は、もはや危険で 無用な存在となりつつあった。口封じだったのか。 龍馬暗殺の実行犯は、幕府見廻組である確率が高い。
だが、龍馬の動きを密告し、教唆した黒幕として西郷が関与した
可能性は残される。 レッテルを剥がせば違う別の顔 与三野保 PR |
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