騒乱に泳ぐワラにすがりながら 山口ろっぱ
示現流構え
「西郷どん」 暗殺剣・示現流
薩摩藩に伝わる門外不出の剣。それが示現流である。
開祖は戦国時代末期の武士、東郷重位。もともと重位は薩摩で
盛んだったタイ捨流の剣士。タイ捨流は、飛び回り飛びかかり
相手を攪乱して討つなど激しい剣技で知られる。
その重位、藩主・義久に従って京に上った際、京都鞍馬口
天寧寺の和尚・善吉より天真正自顕流を習い、印可をもらった。
そして双方の流派を取り入れて新流派を創設したことに始まる。
慶長9(1604)年、藩主家久の命で重位はタイ捨流の師範
東新之亟と御前勝負をした。
地上5センチを横這いする殺気 井上一筒
木刀を額近くで水平に構えた重位の気迫に、新之亟は動くこと
すらできない。
家久に叱責され打ち込んでみたが、木刀は真っ二つ折れた上に、
新之丞はへたりこんでしまった。
業を煮やした家久が自ら打って出るが、重位は扇で家久の手を
痛打、圧倒的実力を見せつけた。
この時から薩摩藩では、示現流が重用されるようになった。
心臓がいきなり止まることもある 北山惠一
さて、この示現流、どのような剣法なのであろうか。
まず示現流には「防」の技がない。攻撃は最大の防御が特徴で、
初太刀にすべてを賭けて切り込んでいく。
そのため初太刀の勢いは凄まじく、受けた相手の刀をへし折っ
てしまったり、受けた刀もろとも相手へ押し込み脳天を割って
しまうこともあるという。
「受け太刀も二太刀も必要ない」剣法なのである。
実際、江戸時代末期まで防具を見たことがないという薩摩武士
も多かったそうだ。だから新選組局長の近藤勇は、常に隊士た
ちに「薩摩ものと勝負する時は、まず初太刀をかわせ」と
口酸っぱく注意していた。
それも誠だ火葬場がそこにある 筒井祥文
修行方法も独特な面がある。まず他の流派で見られるような、
竹刀を持って2人で戦うことはない。修行はすべて木刀を使い、
1人で行うものである。ユスという木で作った木刀を用いて、
6尺ほどの丸太を立てて、左右への袈裟懸けでひたすら打ち込む
のが基本。この時「猿叫」といわれる独特の気合い、
「チェーイ」「チェスト」のように聞こえる声を発する。
達人になると打ち下ろした丸太に煙りがくすぶるという。
この他にも、丸太を数本立てて、その間を駆け巡りながら打つ
修行もある。一人対多数を想定した野戦剣法といえるだろう。
骨太で実践的な示現流は、薩摩武士の性によくあった。
江戸時代、薩摩藩の流儀となり、門外不出の剣として守られた。
長い歴史の中では、示現流から独立した小太刀流や薬丸示現流
などの流派もある。
丹田に闘志燃やしている寡黙 上嶋幸雀
では、示現流にはどのような剣豪がいたのだろうか。
まず名前が挙がるのが中村半次郎。
薬丸示現流の使い手で、西郷隆盛腹心の武士だった。
西郷と敵対する政敵や過激な攘夷志士を斬りまくった。
敵も味方も恐れた、かの「人斬り半次郎」である。
もう1人の人斬り、田中新兵衛も示現流の使い手であった。
関白側近・島田左近の暗殺、本間精一郎暗殺などで恐れられた。
つねに実践を想定して修行し、尚且つ「一撃必殺」の技を誇る
示現流は暗殺に適していたのだろう。
鹿児島では、現代でも東郷家の手で示現流が受け継がれている。
汗拭い明日が広がる位置に立つ 上田 仁
【付録】 西郷の腹心といわれた「人斬り」桐野利秋
薩摩藩下士の三男に生まれる。元の名は中村半次郎。
家は貧しかったが、15歳で道場に通わせてもらった。
しかし父が流刑になり兄が病没したため、半次郎が家族の面倒
を見ることになる。貧しく忙しい中、それでも半次郎は鍛錬を
欠かさなかったという。半次郎の剣は一応、示現流の体だが、
目録や皆伝は得ていない。そんな金はなかったからだ。
野山に生えている木に向かってひたすら斬りつける日々。
そうやって「神速の剣」を身につけた。
小指からけらけら鬼の笑い声 くんじろう
まだ少年の頃に出会った西郷を訪ね、面会を果たし、西郷の下で
働くこととなり、国主島津久光の京都行きにも加えてもらった。
久光帰国後も京に残り青蓮院宮の警護にあたる。
公武合体派の青蓮院宮は攘夷志士に狙われたが、すべて半次郎が
返り討ちにしていたという。この頃から「人斬り」と呼ばれた。
やがて西郷は、半次郎を長州藩に送り込み、情勢を探らせた。
これが大いに薩長同盟に役立ったという。西郷は半次郎の恩人だ。
嬉嬉として西郷のために働いた。新政府樹立後は陸軍に配属。
この頃、桐野利秋と改名する。
桐野の絶対だった西郷と西南戦争の最前線で戦い、戦死を遂げる。
裸一貫惜しいものはなにもない 前中知栄
[4回]
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