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川柳的逍遥 人の世の一家言
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シーザーの気持が分かる冷や奴  瀬渡良子


  大久保満寿(利通の妻)

「西郷どん」 尊皇攘夷

江戸期、官学は朱子学だった。朱子学は尊王と攘夷に直結しているが、

当時、夷というものが国内におらず、近隣にもいなかった。

ところが、幕末ぺリーショック以来、にわかに「尊皇攘夷」という言葉が、

流行語になり、その大合唱が討幕運動へと転化していくのである。

この尊王攘夷という思想が急速に広まったのは、黒船の脅威もあるが、

孝明天皇が大の外国人嫌いであったこともあり、幕府の弱腰に対する批判

朝廷への期待に変わり、また幕末の日本が、何度も大災害に見舞われた

ことによる、生活苦を招く経済状況の悪化も幕府への不満と
なり、

朝廷期待の裏返しになった。


朝顔の蔓からぬっと湿度計  くんじろう

諸藩においても、特に下級武士の中の若い武士達は、現状への不満、

現状打開への意識から、尊皇攘夷活動へと身を投じるものが増えていた。

西郷大久保もそうした流れを汲んでいたのであり、彼らを中心とした

精忠組が有力な組織として島津久光の機構に組み込まれた。

このような時代背景のなかで尊王攘夷を大合唱する志士達は、朝廷のある

京都へ多数集まって来ていた。ただ当面、尊皇攘夷の為に
何をするという

プランがあったわけではなく、攘夷の邪魔になりそうな者達
を排除しよう

とテロを起こし、そのテロが波及して、京はテロが横行する街
と化した。

闇鍋の中で嗤っているダスト  中村幸彦

こうした状況の中で久光が上京する話が京にも伝わってくる。

多くの尊皇攘夷派は久光こそ尊皇攘夷の牙城と捉えており、

「これを機に、島津の殿様を頭に据えて倒幕をも実現しよう」

とより過激なテロ計画を立てるようになった。

しかし久光は攘夷は考えていたものの、倒幕ではなく公武合体を考えて

いたため、過激な尊皇攘夷が増えることは望んでいなかった。

ゆえに久光は、京都に着く前から尊皇攘夷派を抑えつけるように命じた。

ちりもほこりもぼくの財産だと居座った 神野節子

この事態に驚いた薩摩藩の尊皇攘夷派は、有馬新七、柴山愛次郎、

樋口壮介が中心となり、実力行使によって久光を無理矢理尊皇攘夷活動

に取り込むことを計画した。

具体的には関白・九条尚忠と京都所司代
を暗殺して、その首を久光の下に

持っていこうというのである。


この2人は朝廷と京都における幕府機関においての、公武合体派の中心

人物と目されており、特に和宮降嫁に貢献したことで尊皇攘夷派から

目の敵にされていた。

うす皮をはがすと欲が浮いてくる  靍田寿子

しかしこうした動きは、まもなく久光の知るところとなる。

ただ彼らは寺田屋に
集まっていることは分かっていたため、

まず彼らの決意を変えさせるべく
側近の大久保一蔵、海江田武次、

奈良原喜左衛門を次々と送り込んだが
交渉は不調に終わった。

彼らが説得に応じない場合、上意討ちも視野に


いれていた久光は、次の手段として腕達者な奈良原とは別に、

7人の剣術の優れた藩士を
寺田屋へ同行させていた。

寺田屋に乗り込んだ藩士は、志士側としばらく議論を交わしていたが、

なかなか拉致があきそうもなく遂には、「上意である」と斬りつけた。

よろしいですかと良心を片付ける  山口ろっぱ



斬り合いの末に志士側は有馬新七、柴山愛次郎、樋口壮介、西田直五郎、

弟子丸龍助、橋口伝蔵
の6人が死亡し、2人が重傷を負った。


久光側も1名が死亡、1名が重傷を負った。

尚、久光側の唯一の死者は、道島五郎兵衛であるが、有馬ともみ合いに

なったところ、有馬が「五郎兵衛もろとも、俺を刺せ」と仲間に叫んで

相討ちになったもの
である。

惨劇の末に寺田屋にいた志士達の大半は久光側に従い連行さ
れた。

このうち薩摩藩の者は謹慎処分を、真木和泉ら他藩
のものは追放された。

こうして一時的ではあるが尊皇攘夷派の主要人物
は京からいなくなった。

(因みに、西郷の弟・信吾(後の従道)は寺田屋騒動に参加したが、
 年少(19歳)だったため謹慎処分となっている)


あの頃はレールを食べて生きていた  井上一筒


利通の京都妻おゆう

【付録】 大久保利通の鹿児島妻、京都妻
安政4年(1857)12月、薩摩藩士・早崎七郎右衛門の二女・満寿は、
御徒目付(おあかちめつけ)を務める28歳の大久保利通(当時・正助)と結婚。
満寿21歳であった。。新婚当初の大久保家は貧しく生活は厳しかった
が、
夫の利通は愛情深く満寿に接したようで、夫婦仲は睦まじかった。

ただ、満寿に関する史料はほとんど残っておらず、詳しい人物像はよく
分か
っていないが、利通が倒幕運動から明治新政府の樹立へ向けて各地に
飛び回り、留守となる家をよく守り、利通も満寿を思ってか、子煩悩で
大変家庭的だったという。安政6年には長男・利和(としなが)を生み。
4人の男児、1人の女児を産んでいる。
ふるさとは余白の多い時刻表 ふじのほろし
 冷徹で非情な人という印象のある利通には、意外にも京都妻がいる。
名は「お雄(ゆう)
おゆうは京都・祇園のお茶屋一力亭の芸妓である。
2人が知り合うのは、薩摩の仲間同士が斬り合うという寺田屋騒動から
間もなくのこと。おゆうは久光のこと西郷のことなど、悩みが絶えない
利通を精神的に支え、出入りの多い来客の接待から、身の回りまでのこと
すべてにわたり誠心誠意、利通に尽くしたという。

そして、おゆうとの間にも、4人の男児をもうけている。
戊辰戦争の勝利の決め手となった「錦の御旗」はおゆうが生地を調達して
作ったと言うエピソード
が残っている。
頷いているだけでいい苦労人  近藤北舟  
 明治6年(1873)利通が初代内務卿となり翌年、満寿たちも東京に移る。
利通は、本妻と実子は本邸に、おゆうと庶子は、高輪別邸に住まわせた。
明治10年、満寿は長女・芳子を生むと、利通はこの娘を溺愛した。
この翌年5月14日、利通は東京・紀尾井坂で士族6名の襲撃を受け死亡。
その後の10月、おゆうが利通の8男を出産するが、満寿は12月17日、
夫の跡を追うようにして世を去った。一方おゆうは長生きをしたとだけ伝わる。

 余談だが、利通の次男・伸顕の娘・雪子が吉田茂に嫁ぎ3女・和子を生む。
その和子が副総理・麻生太郎を生む。あの
寡黙な大久保利通の子孫に口の軽い
麻生太郎がいるとは、とても信じられません。

聞こえない振りもときには良いものだ  瀬川瑞紀

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