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川柳的逍遥 人の世の一家言
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虹消えた後は私の彩で描く  みぎわはな


   和宮の婚礼

「文久2年の出来事」
坂下門外の変 老中安藤信正暗殺未遂 (1月 )
皇女和宮と第14代将軍・徳川家茂の婚礼 (2月)
薩摩藩・島津久光上洛 (4月)
徳川慶喜・将軍後見職に就任 (4月) 
武蔵国生麦村にて生麦事件起きる (8月)

「西郷どん」 文久2年の出来事

「所詮、わしと久光公とは性が合わぬ」と覚悟し西郷は鹿児島に戻った。

そこで久光の命により文久2年(1862)西郷は、大島吉之助と改名させら

れた上で、最初は徳之島、やがては沖永良部島に流されることになった。

半年前まで滞在していた奄美大島での生活と異なり、今回は流人としての

生活であるから、藩からの生活費の保障はなかった。

西郷が徳之島につくと、奄美大島から愛加那が子供を伴ってきていた。

徳之島の渡海途中に2人目の子・菊草も生まれており、西郷はひととき

家族との生活を楽しんだが、いい状況はそんなに長くは続かない。

すぐに沖永良部島での厳しい生活が待っているのである。

言い勝って胸のあたりに水たまり  嶋沢喜八郎

鹿児島から一番遠い島に流されたのは、暗に「西郷よ、飢え死にせよ」

という久光の意志が込められていた。

久光の気持ちを察した藩の保守層は、残った西郷の家族に謹慎を命じ、

知行など、全部没収してしまった。

それだけ久光の怒りは、大きかったのである。

沖永良部島に着いて西郷は牢に入れられた。

牢は風雨にさらされやすい
劣悪なものであり、

心身への負担が非常に大きかった。


牢内ではさすがに健康を害し、西郷の印象であるでっぷりした体型も

見る影をなくしていたというほどである。

転落はあのこつんから始まった  寺島洋子


太った面影も消えた西郷

しかし、沖永良部島での西郷は奄美大島に渡った時とは、ガラリと人が

変わったように、もう島民たちに対し偏見も蔑んでみる気持もなかった。

最初から、苦しい生活をしている島民たちに同情をした。

今度こそ鹿児島へは戻れない覚悟の上で、彼は島民たちの生活向上に

力を尽くし、学問をどんどん島民たちに教え、また生活向上のための知恵

を与え、労働には自分も参加した。

そんな西郷に感動した現地の役人・土持正照が、まともな座敷牢を造り

住まわせるようにした。

やがて西郷の知己が役人として赴任してきたこともあり、西郷の生活は、

いい方向に改善された。

言い勝って胸のあたりに水たまり  嶋沢喜八郎

ある日、この島に西郷より先に流されていた川口雪蓬という学者が

西郷を訪ねてきた。そして川口は「上杉鷹山を名君にしたテキストです。

鷹山はそこに書かれたことを実行したと言われる本です。」
                                  おうめいかんいそう
といって西郷に一冊の本を差し出した。細井平洲の「嚶鳴館遺草」である。

川口は首を傾げる西郷に言った。
西郷はその本を読んだ。

本に書かれていたのは、


「藩主や藩士のために藩民がいるわけではない。藩民のために、

藩主や藩士が存在するのだ」

西郷は驚き、目から鱗が落ちた。こんなことは考えたこともない。

その夜、西郷は天を仰いだ。無数の星が輝いていた。

「西郷よ、民のためにもう一度立ち上がれ」と告げているようだった。

このとき「敬天愛人」の思想が閃いたときだった。

水際に立って明日を考える  岸井ふさゑ


   生麦事件

一方の島津久光は無位無官の立場ではあったがなかなかの政治家だった。

文久2年4月、計画通り勅使を立てて勅使の供をして江戸城に乗り込んだ。

そして、自分や藩の希望を強引に押しつけた。

人間面でも大きな改革を求めた。幕府は腹を立てた。

しかし勅使がいるので、虎の威を借りるキツネのような久光に対しても

文句が言えなかった。

同年8月、久光は意気揚々と京都へ引き揚げた。


その途中、鹿児島にとっては大事件となる「生麦事件」が起こる。

武蔵国生麦村で行列を横切ったイギリス人を斬殺した事件である。

このことが誤解されて諸国に伝わった。

つまり、「久光は攘夷を実行した」という評判である。

きわどさを選んでしまうハッカ飴  美馬りゅうこ

当初の上洛こそ、幕府人事の変更などの成果を収めたものの、

その後は、尊攘志士を押え切ることができず、更には幕府、朝廷、

雄藩との
折衝にも苦労していた。

久光は尊攘志士の暴発を抑えるために会津藩と手を組んで、

「八月十八日の政変」を起こしたものの、勤皇派とみられていた薩摩が、

会津と組んだことで、薩摩藩自体が諸勢力から「信用ならない」という

目で見られるようになった。

ともかくも政治の前面に出てきた久光だったが、大きな不足があった。

人の世はモヤモヤモヤの繰り返し  喜田准一

それは西郷の存在だ。鹿児島藩内のもならず京都・大坂・江戸でも、

「西郷待望論」は渦巻き、絶えなかった。

政治面に厳しい立場に追いやられた久光に対し、「西郷さんを呼び戻せ」

というシュプレヒコールは大きくなっっていく。

久光もバカではない。

やはり自分の野望を遂げる過程で、西郷を抜きにしてはとても薩摩藩が

まとまらないことを身に染みて知っていた。

久光はしぶしぶながら「西郷を呼び戻せ」と命じた。

西郷は戻ってきた。

レンコンの闇から生還を果たす  山本早苗


   坂下門外の変

鹿児島で西郷を切望していたのは、精忠組と呼ばれるグループである。

「誠」を信条とするこのグループは、あまりにも野望を露骨にした

政略を
展開する久光に嫌悪感を覚えていた。

彼らもまた、「斉彬公は違った」と口々に唱えあった。

これが久光の癇の虫にさわる。

久光が何よりも嫌ったのは斉彬との比較だ。

したがって、久光は考えた。

「西郷を使って、自分に悪感情を持つ連中を手なずける必要がある」と。

そうしなければ、自分の幕閣参加の野望が実現されないからである。

身の丈を知らぬ天狗の転び癖  上田 仁

戻ってきた西郷は、もう久光に面と向って罵るようなことはしなかった。

彼は成長していた。

「大きなことをするためには、小さなことは我慢しなければならない

場合がある」と悟っていた。

小魚が大きな魚になり、その大きな魚に磨きがかかっていたのである。

久光は西郷に「軍賦役を命ずる。京都に在駐せよ」と命じた。

他藩との意見の調整や、諸事の斡旋役をつとめる外交官である。

西郷は承知した。

城から退る西郷の後ろ姿を睨みながら、

久光は、銜えていた煙管をガリガリと噛み続けた という。

技ありも一本もない日曜日  くんじろう

【付録】 「南洲遺訓」
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。
この始末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は為し得られぬ也」
という言葉が「南洲遺訓」の中にある。西郷はこの言葉の実行者だった。
自分では一切私利私欲もなく「敬天愛人」の心情を基に、生涯の生命を
燃焼し尽くした。2回の島流しで得られたものは、この言葉の体感であり、
その実行力を身につけたことではないだろうか。その芽を育てるために、
肥やしになったものが沢山ある。何といっても、島流しはこの世で言えば、
地獄に落ちたことだから、彼には、そこから這い上がる力と勇気を持って
いたということである。

考える機会あたえてくれた水  立蔵信子

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