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打たれ傷見えぬ角度に席をとる 安土理恵
「真田昌幸の決断」
真田昌幸はかつて武田信玄と戦い、
滅亡した城主や討死将兵の無残な姿を見続けてきた。
その惨状から得たものはただひとつ、強かに生き延びることであった。
討死を選ぶより、第一に生きる手段を模索し、
窮地に追い込まれたときの決断の決め手としたのである。
生き残るため、少ない兵力で戦うには、
謀略をめぐらし調略を仕掛ける必死の戦略を展開した。
昌幸が生き延びるための手段とした身の処し方は、卑怯ではない。
いわば、戦国武将の常套手段だが、
ただ実に巧みであり成功させている事実から「謀将」などと呼ばれた。
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武田家滅亡に至る過程で、昌幸の行動が忠臣として語られている。
武田家が存亡の危機にあるとき、昌幸が武田勝頼に岩櫃城に
避難させようとした話である。
勝頼や重臣の賛同も得られ、昌幸は天正10年(1582)2月28日、
勝頼を迎える屋敷建設を理由に、軍議中の上原城を発ち岩櫃城に戻った。
だが岩櫃城避難は中止となる。
ここに昌幸が胸中に秘めた決断が見える。
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武田家の滅亡は明らかだった。
穿った見方をすれば、勝頼の側近として、
お側にあれば、武田家と滅亡をともにすることになる。
昌幸は家を守るためにも、生き延びなければならなかった。
そこで疑われなくてすむ、
岩櫃城での屋敷建設を理由に勝頼から離れた。
なにより、武田討伐の総大将・織田信長と戦わなければ、
心証もよく、命は助かる。
勝頼の避難中止を知ると昌幸は、
新府城に人質同然の妻と長女、信之、信繁の救出に向かわせた。
昌幸の決断は誰にも悟られず、美談を残して生き延びたとしか思えず、
ちいさがた
その結果、思惑通り信長より、小県郡と吾妻領を安堵された。
生きてゆく宇宙人など待ちながら 小川佳恵
その一方で、昌幸は武田氏が危急依存謀のときを迎えている間に、
北条氏重臣・八崎城主・長尾憲景を介して、
二度にわたって北条氏への帰順を打診している。
北条氏邦から昌幸の申し入れを歓迎する旨の書状が届いた日付けは、
勝頼自刃の翌3月12日、即ち、
勝頼の死の以前に帰属を打診していたことになる。
へき
この昌幸帰属の実務を担ったのは日置五左衛門という人物だった。
五左衛門は昌幸の命令を受けて北条氏の陣に赴き、
「麾下に属すべき由」を申し入れた。
これに氏直がどれほど喜んだかは、
彼がこの五左衛門に西上野の小島郷をあたえたことでもわかる。
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26日、昌幸は北条氏に人質を提出する。
ここでも北条氏は大いに喜び、
窓口となった矢沢頼綱に高井郡井上で千貫文の土地を与えている。
しかし、昌幸の目は常に周囲を油断なく観察していた。
結局、昌幸は織田氏に臣従したが、
直後の6月2日に本能寺で信長が急死するという事態が発生。
信濃は北条氏だけでなく徳川家康も狙っており、
のぶしげ
武田旧臣の依田信蕃を派遣して国人衆の切り崩しをはじめさせている。
さらに北からは上杉景勝が川中島に兵を出し、景勝自ら馬を進めてくる。
旧武田領は無主の地として徳川氏、上杉氏、北条氏の草刈場と化した。
「天正壬午の乱」と呼ばれる争乱の中、昌幸は6月、上杉氏に従属。
7月、上杉氏から離反し北条氏に従属。
10月には家康に従属し北条攻めに参加。
なぜ真田が生き延びることができたのか、そのひとつひとつを糾していくと、
知られざるリアルな昌幸の顔が見えてくる。
借景をヒタヒタしてる蟹歩き 岩根彰子[4回]
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