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川柳的逍遥 人の世の一家言
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運だけでここまで来れぬ大河の一滴  小林満寿夫


 上杉  徳川   北条    (拡大してご覧ください)

「大勢力の狭間で」

武田滅亡後、真田昌幸は武田の旧領は北条氏政が手中に収めると考え、

北条氏政の弟である武蔵鉢形領主の北条氏邦と通じた。

だが予測に反して甲斐は河尻秀隆、信濃の佐久郡と小県郡は、

滝川一益が領した。

両名とも織田信長の重臣である。
                     よしみ
そこで昌幸は信長に名馬を贈り、好を通じることにしたのだ。
                                   こうづけ
こうして昌幸は信長に臣従し、信濃小県郡内の所領と上野国内の沼田領を

領した滝川一益に従うことになった。

そうした矢先に、信長が本能寺で配下の明智光秀に謀殺されてしまう。

大吉を引いた帰りに蹴躓く  合田瑠美子


 北条氏直
小田原を本拠に関東を統べる北条5代目当主。
信州を中心とする旧武田領をめぐり、徳川、上杉らが対立した、
天正壬午の乱において、昌幸は最初に北条氏に与した。

天正10年(1582)6月2日に起こった「本能寺の変」のおかげで、

織田領となっていた甲斐・信濃・上野は混乱をきたし、

一気に勢力の空白地帯となってしまう。

その旧武田領を狙って徳川家康、北条氏直、上杉景勝らが、

触手を伸ばしてきた。

駿河から甲斐、そして信濃へと進軍した徳川軍と、

相模から武蔵を通り甲斐・信濃へ進軍した北条軍。

この時の昌幸は北条方に与し、信濃への進軍を手助けし、

難なく川中島まで攻め入った。

だがそこには、北信濃を手中にしていた上杉軍がいた。

大大吉と凶は談合してはった  田口和代


 上杉景勝
越後の戦国大名。徳川家と決別した昌幸が次に手を結んだのが
上杉家だった。これを契機に徳川家との間で第一次上田合戦が
勃発。神川合戦とも呼ぶ。

徳川と上杉に挟撃されたくない北条は、

上杉方にすかさず講和を持ちかける。


その結果、北条は上杉の北部4郡の所領化を認め、

上杉は川中以南へ出兵しないと約束。

北部を除く信濃に関しては、北条軍の切り取り次第とした。

この講和を受け、北条は主力4万を、

対徳川に向けることができるようになった。


南へと転進した北条軍は8月12日、甲斐の黒駒で徳川軍と激突する。

1万の大軍で攻め込んだ北条軍に対し、徳川軍はわずか2千で果敢に応戦。

遂には北条勢300を討ち取り、これを撃退した。

この敗北により、北条に味方していた信濃諸将に動揺が起こった。

8月22日には木曾義昌、9月に入ると真田が徳川方に寝返ったのである。

運勢もやっぱり渦を巻いていた  森田律子


  徳川家康
信州のキーマンたる昌幸との連携を強く望む家康に応え、
昌幸は北条家と手を切った後、徳川家に従属した。
昌幸は対上杉の拠点として上田城築城を要請している。

昌幸は北条方が入城していた自分の城・沼田城を急襲してこれを奪取する。

この事態に北条方は攻略目標を真田方の岩櫃城や沼田城に定め、

大軍をもって真田の諸砦を攻め落としていく。

だが沼田城代の矢沢頼綱に撃退されたり、

昌幸の嫡男である信之が率いた800の手勢に、

5千の守備兵を置いた手子丸城が一日で奪還されたりと、

肝心の戦いで、北条軍は真田勢に負けてしまうのであった。

忙しいようだな運も素っ気ない  今井弘之
          おだのぶかつ
10月になると織田信雄の仲介により、

徳川と北条の間に講和が結ばれることになった。

その条件は、


「氏直に家康の娘督姫を娶らせる」

「甲斐と信濃は家康、上野は北条の切り取り次第としお互いに干渉しない」

というものであった。

信濃と上野の両方に領地を持っていた昌幸にとって、

この講和条件の二項目は承服しかねる。 

しかしこの時は、

さすがに家康も昌幸からすぐに沼田城を取り上げることはなかった。

気がかりを形にすれば干しぶどう  嶋沢喜八郎

上方では信長の仇をとった羽柴秀吉の勢力が増し、

同じ織田家の重臣であった柴田勝家と敵対する。

柴田に対抗するため秀吉は上杉景勝に接近。

家康にとっては上杉への抑えとして、昌幸の存在が大きかったのである。

家康は北条との和睦の仲介をしてくれた織田信雄に接近し、

秀吉に対抗していた。

虫好かぬ奴だが敵に回せない  上田 仁


   沼田城跡
天正年間の初め頃、沼田氏によって築城された沼田城。
現在は公園となっているが当時を忍ばせてくれる。
                                      かんか
天正12年3月、織田信雄・徳川家康の連合軍は秀吉と、干戈を、

交えることとなった。


その際、家康は北条にも援軍を求めている。

この時に棚上げとなっていた沼田城の問題が話し合われた。

北条への譲歩として、

家康は昌幸に沼田を北条へ明け渡すことを求めたのである。

しかし昌幸は、「沼田は自らの力で切り取った領地。

家康殿から北条へ渡せと指図されるいわれはない」 と突っぱねた。

さらに上杉軍に備えるという名目で新築した上田城に本拠を移し、

そのまま上杉方に寝返ったうえ、徳川と敵対したのであった。

運試しトサカを青に塗り替える  森吉瑠里惠

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十字架を背負う男は祈らない  くんじろう


    歩き巫女
左手に扇子を持ち、右手で鈴を打ち鳴らしている歩き巫女

「真田家に関わる人々―②」

権謀術数の渦巻く戦国時代、国を守り、生き残るためには、

迅速で的確な情報が必要だった。

その情報収集を担ったのが「忍び」である。


忍びは諜報、謀略、攪乱などを役割とする専門集団だった。
      すっぱ  らっぱ  とっぱ    のきざる かまり
忍びは「透波・乱波・突波・草・軒猿・奸」などさまざまに呼ばれるが、

任務に大きい差はない。

忍びの出身地は近江の甲賀と伊勢の伊賀
有名だが、

紀伊や相模など、忍びの発祥地は全国に散らばっている。


甲賀と伊賀が特に有名なのは、彼らが忍びの術に優れていたことに加えて

本拠地が都に近く、中央政府の情報に接したことが大きい。

(家康の家臣となった服部半蔵は伊賀の忍者と言われる。
「本能寺の変」が起きた時、家康が敵の多い伊賀を通って堺から三河へ
 無事に帰れたのは、半蔵や伊賀者の働きのおかげという)


歴史書の隅でしているボタン付け  大沼和子


  「出浦昌相」 (盛清)
出浦昌相は、昌幸や室賀正武の本領がある信濃の小県郡の一角を治める。
武田氏のライバルの村上氏の一族だとされ、
信玄、森長可(信長家臣)
に仕えた後に、表裏比興(裏切り者)真田昌幸という
男に惚れ込み、真田
の臣下となり、更級郡上平の城を預かる。
信玄に臣従した折、武田家の素っ
(忍者)を預かり、
武田忍者集団・「甲州透破」を統率。
昌幸の臣下として働く
ようになると、この経歴も活かし佐助ら隠密集団を
統率。豊臣秀吉の関東
平定においても真田軍として奮戦し、
影となり真田を支えた。


(文庫などの物語の影響で真田家は忍びと深く結びついていると見られるが
   現実にそう考えられる背景があった。真田家が属する信濃の滋野一族は、
   山岳信仰医術歩き巫女といった芸能などと関係が深かったため、
   真田家に注がれる目もその影響を受けていたと考えられる)

青汁は石を搾っただけのこと  井上一筒


    「佐助」
昌幸に才能を見いだされ、真田の忍びとなる。
信玄のもとで素っ破の集団を
率いた出浦昌相に甲賀流忍術の鍛錬を受ける。
武田家滅亡後他家の情報
を、どれだけ早くつかめるかが生き残りのカギと
なる中、佐助はその重要な役
割を担った。
また、真田家の者たちの護衛も務めた。


「立川文庫」によって著された『真田の十勇士』の中に佐助の名が見える。
甲賀流忍者・猿飛佐助である。
はたして佐助はこの猿飛佐助なのだろうか。

十勇士は、真田家に仕えて昌幸の九度山配流の頃から大坂の夏の陣・
冬の陣までの間で、家康の動静を探りながら縦横無尽に動き活躍をした。


江戸時代中期頃に刊行された軍記物語り『真田三代記』『難波戦記』
猿飛佐助以外の9人が登場し、佐助の名前は、江戸時代に描かれた「大阪
の陣図」のなかに見える。また真田家の一族の海野、禰津、望月、穴山など
実在した名前もある。ところから見ると、少年向け『真田の十勇士』は、
あながち作り話ばかりでないと考えるべきだろう。


かかとから滑り火打ち石になった  森田律子


  「本多忠勝」
本多忠勝酒井忠次・榊原康政・井伊直政らと共に徳川四天王の一人。
また、本多忠勝・榊原康政・井伊直政の3人を徳川三傑とも呼んでいる。
ともかく、忠勝にまつわる英雄伝は数々ある。
鹿角脇立兜と呼ばれる兜を
かぶり、肩から大数珠を袈裟懸けに巻き、
三国黒と呼ばれる馬に跨り、
戦場に出陣していた。
得物は、「天下三名槍」の一つ、
刃長43.8cmの笹穂型の大身槍。
その切れ味から刃先に止まったトン
ボが真っ二つに切れたという逸話から、
「名槍・蜻蛉切」と呼ばれている。


天正10年(1682)「本能寺の変」が起きたとき、
家康は忠勝ら少数の随行
とともに堺に滞在していたが、
家康が京都に行って織田信長の後を追おう
と、取り乱したのを忠勝が諌めて、
「伊賀越え」を行わせたという。
このとき、
帰路の途中の木津川で船に乗った際、
渡し終わった船の船底を槍の石突
で突き破り、追手が使用するのを
防いだという逸話もある。

天正12年4月の「小牧・長久手の戦い」では、
忠勝は留守を任されたのだが、
豊臣方16万の大軍の前に、
「徳川軍が苦戦して崩れかけている」ことを聞き、

わずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、
5町(約500メートル)
先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、
さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて
悠々と馬の口を洗わせたが、
この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃を躊躇い
戦機は去った。
生涯参加した57の合戦において全て無傷で生還し、
「戦国
最強の武人」として伝えられる。

「徳川には過ぎたるものが二つあり、唐のかしらに本多平八」と武田が、
「花実兼備の勇士」信長は称え、秀吉は
「東に本多忠勝という天下無双の
大将がいるように、
    西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」
と褒めている。

踊りたいから操り糸を全部切る  みつ木もも花


  「室賀正武」
天正11年(1583年)、本能寺の変により武田遺領の甲斐・信濃をめぐる
「天正壬午の乱」が発生し、武田遺臣の真田昌幸らが相模国の北条氏直
に属すなか、室賀正武徳川家康によって信濃豪族とともに所領の安堵
を受けている。
一方、真田昌幸は、織田、上杉、北条へとと主を替えながら
吾妻郡から
上野西部の沼田まで自領を守っていた。その後、昌幸は家康
に寝返り
本領を安堵されると、対立する室賀正武への圧力を強めていった。
正武
は守戦で自ら出撃して対戦したが、間もなく和睦する。
不本意ながら昌幸に
属することになる。
その後、家康は正武が昌幸に対する不満を延べていることを聞きつけ、

「謀りごとを持って真田を討つべし」と昌幸暗殺を命じた。
というのも、
沼田領土引渡し問題で家康は、反抗的な昌幸に
激怒していたからである。

しかし、この暗殺計画は内応していた正武の家臣の室賀孫右衛門から
昌幸
の知るところとなる。
それから間もなくして昌幸から上田城へ招待を受けた正武は、
計略が
漏れているとも知らず、のこのこ昌幸の城へ参上。
書院に通され、そこで待ち
構えていた真田の家臣・長野舎人
木村渡右衛門に斬り殺されてしまう。


腹式呼吸の途中で賛美歌をうたう  前中知栄

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打たれ傷見えぬ角度に席をとる  安土理恵

「真田昌幸の決断」

真田昌幸はかつて武田信玄と戦い、

滅亡した城主や討死将兵の無残な姿を
見続けてきた。

その惨状から得たものはただひとつ、強かに生き延びることであった。

討死を選ぶより、第一に生きる手段を模索し、

窮地に追い込まれたときの
決断の決め手としたのである。

生き残るため、少ない兵力で戦うには、

謀略をめぐらし調略を仕掛ける必死の戦略を展開した。

昌幸が生き延びるための手段とした身の処し方は、卑怯ではない。

いわば、戦国武将の常套手段だが、

ただ実に巧みであり成功させている事実から「謀将」などと呼ばれた。

家系図にしっかり残す蒙古斑  笠嶋恵美子

武田家滅亡に至る過程で、昌幸の行動が忠臣として語られている。

武田家が存亡の危機にあるとき、昌幸が武田勝頼に岩櫃城に

避難させようとした話である。

勝頼や重臣の賛同も得られ、昌幸は天正10年(1582)2月28日、

勝頼を迎える屋敷建設を理由に、軍議中の上原城を発ち岩櫃城に戻った。

だが岩櫃城避難は中止となる。

ここに昌幸が胸中に秘めた決断が見える。

ゆらゆらとふらつくことが基本形  伊東志乃

武田家の滅亡は明らかだった。

穿った見方をすれば、勝頼の側近として、

お側にあれば、武田家と滅亡をともにすることになる。

昌幸は家を守るためにも、生き延びなければならなかった。

そこで疑われなくてすむ、

岩櫃城での屋敷建設を理由に勝頼から離れた。


なにより、武田討伐の総大将・織田信長と戦わなければ、

心証もよく、命は助かる。

勝頼の避難中止を知ると昌幸は、

新府城に人質同然の妻と長女、信之、信繁の救出に向かわせた。

昌幸の決断は誰にも悟られず、美談を残して生き延びたとしか思えず、
                    ちいさがた
その結果、思惑通り信長より、小県郡と吾妻領を安堵された。

生きてゆく宇宙人など待ちながら  小川佳恵

その一方で、昌幸は武田氏が危急依存謀のときを迎えている間に、

北条氏重臣・八崎城主・長尾憲景を介して、

二度にわたって北条氏への帰順を打診している。

北条氏邦から昌幸の申し入れを歓迎する旨の書状が届いた日付けは、

勝頼自刃の翌3月12日、即ち、

勝頼の死の以前に帰属を打診していたことになる。

                      へき
この昌幸帰属の実務を担ったのは日置五左衛門という人物だった。

五左衛門は昌幸の命令を受けて北条氏の陣に赴き、

「麾下に属すべき由」を申し入れた。

これに氏直がどれほど喜んだかは、

彼がこの五左衛門に西上野の小島郷をあたえたことでもわかる。

さまよっている転調を繰り返す  竹内ゆみこ

26日、昌幸は北条氏に人質を提出する。

ここでも北条氏は大いに喜び、

窓口となった矢沢頼綱に高井郡井上で千貫文の土地を与えている。

しかし、昌幸の目は常に周囲を油断なく観察していた。

結局、昌幸は織田氏に臣従したが、

直後の6月2日に本能寺で信長が急死するという事態が発生。

信濃は北条氏だけでなく徳川家康も狙っており、
          のぶしげ
武田旧臣の依田信蕃を派遣して国人衆の切り崩しをはじめさせている。

さらに北からは上杉景勝が川中島に兵を出し、景勝自ら馬を進めてくる。

旧武田領は無主の地として徳川氏、上杉氏、北条氏の草刈場と化した。


「天正壬午の乱」と呼ばれる争乱の中、昌幸は6月、上杉氏に従属。

7月、上杉氏から離反し北条氏に従属。

10月には家康に従属し北条攻めに参加。

なぜ真田が生き延びることができたのか、そのひとつひとつを糾していくと、

知られざるリアルな昌幸の顔が見えてくる。


借景をヒタヒタしてる蟹歩き  岩根彰子

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なぞなぞは解けたが記憶は点滅  山本昌乃


   真田三代  (拡大してご覧下さい)

戦国時代に登場する人物の名前は覚えにくいし分かり難い。
例えば、今回の大河「真田丸」ひとつ取り上げてみても、真田では
真田幸隆、真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信幸、真田信繁、
真田信尹、真田幸昌、真田昌親の名が出てくる。北条では氏政、氏直
上杉は憲政、景勝。本多では正信、忠勝などなど。
また、誰と誰がが主従関係、どれが敵対関係、加えて昨日の味方は
今日の敵という裏切りありで、思考回路はグッチャグチャ。まさに、
洋画に
登場するカタカナの役名に匹敵するほど覚えられませんね。
そこで大河
を分かり易く見るために『真田家に関わる人々』を記す。

梟のボス目ぐすりが離せない  美馬りゅうこ


「真田信繁(幸村)」
真田昌幸の二男。祖父・父・の血を引く智謀に加え、逆境に決して屈し
ない闘士をあわせもつ。大阪夏の陣では徳川家康の本陣を突き崩した
戦国最後の英雄と称えられる。大河「真田丸」の主人公でブログには、
再々登場するので、信繁の説明はこれだけにて御免蒙る。

ふるさとを見たくて高い木に登る  合田瑠美子


  真田幸隆(真田信繁の祖父)
信濃・真田郷を本領とし平安時代から信州小県郡を統べる豪族・海野
の血縁とされる。村上・武田氏らの侵攻で一度は本領を飛び出した
ものの、
武田信玄にスカウトされて信濃に戻り、武田に加担するよう
土豪たちを調略。
天文20年には、信玄も攻め落とせなかった砥石城
を奇襲で乗っ取っている。
「智略の真田」の礎を築いた。

大波のうねりに乗って来たゆとり  井澤壽峰


 「真田信綱」 (信繁の叔父)
幸隆の長男。武田家の侍大将。三尺三寸あまりの大太刀をふるって
24将のひとりに数えられるほどの豪勇の士で川中島合戦や岩櫃
城攻めで
奮迅。三方ヶ原の戦いでは、徳川家康を討ち取る寸前まで追
い詰める活躍
を見せた。父・幸隆が死去すると家督を相続したが長篠
合戦で織田・徳川
連合軍に突進し、銃撃されて戦死する。

トンネルを逆に抜ければ春なのに  真鍋心平太


「真田昌輝」 (信繁の叔父)
幸隆の次男。兄と同じく真田姓を名乗る侍大将。信玄の先鋒の一番手を
つとめたことから勇猛果敢・猪突猛進を得意としたようで、50騎の長
として
活躍。信玄の子・勝頼の家臣・相木市兵衛の娘を正室としたが、
天正3年、
長篠合戦で自ら首二級をとったあと、兄・信綱とともに討ち
死にしている。


安全神話誰がおめおめ聞くものか  都倉求芽


「真田昌幸」 (信繁の父)
幸隆の三男。幼少から人質として武田家に預けられ、信玄のもとで武将
としての才を開花させる。武藤家の跡取りとして養子に入ったものの、
兄二人を長篠合戦で亡くしたことで、期せずして「真田家」を継ぐ。
信玄と
いう統率者を失った空白の地に押し寄せるという窮地の連続にも、
的確
に時勢をとらえ、乱世をわたり歩いた智謀の武将。

カベというカベに大判サロンパス  雨森茂喜


「真田信之」 (信繁の兄)
昌幸の長男。武田家で育つが、武田家が滅亡後、父を追って上田へ。
武力・智略だけでなく、その血筋に流れる生真面目、反骨・一徹・頑固
という一面を有し表面は柔らかく、その内面は質実剛健な人となり。
また卓抜した政治力もかねそなえ、こうした信幸がいたからこそ、真田
家は戦国から徳川時代までの300年間を生き残れた。

私のどこを押しても灯がともる  嶋沢喜八郎

    のぶただ
「真田信尹」 (信繁の叔父) 
真田幸隆の四男。昌幸の弟。武田滅亡後は上杉家に仕え、その後、徳
川家に仕え、真田本家とは別行動を取っている。兄・昌幸が北条家から
徳川家に乗り換える際には橋渡しするなどし、また外でも絶えず昌幸の
下に情報を送り続け真田本家が生き残るための助力を分家として惜しま
なかった。

まだ一つも極めていない活きている   田中博造


「薫」 (信繁の母)
真田昌幸の妻。公家出身で武田信玄を介して昌幸と結婚。公家出身で
誇りが強く、 野放図でわがままな癖がなおらず、武家生活との価値観
に戸惑いながらも、昌幸を心から愛した、今風でいえば天然な女性。

つぶれそうな骨なんですのハグはだめ  柴本ばっは


「松」 (信繁の姉)
真田昌幸の長女。夫・小山田茂誠の縁戚・小山田信茂が主君・武田勝頼
を裏切って逆賊となり、茂誠が厳しい立場におかれると、信繁と協力を
して、
匿うなど、まさに祖母・とりの血を継いでいるのだろう、情の篤
い反面、猛々
い男まさりな女丈夫の一面を持つ。

真ん中の積乱雲が私です  森田律子


「とり」 (信繁の祖母)
真田幸綱の妻。信綱、昌輝、昌幸、信尹ら果敢な男子を産み育てる。
家督を
継いだ昌幸をもりたて、その采配を信頼し続けた。「本能寺
の変」後、諸
大名の駆け引きが活発になると、自ら人質に志願。
滝川一益、木曽義昌、徳川家康
人質となるが、常に泰然と構えた。
肝の据わったゴッドマザーである。


不定期に菩薩になっているわたし  田口和代


「梅」 
信繁の妻。
真田の地侍・堀田作兵衛の妹。相思相愛の信繁の子を解任する。
真田
家と堀田家では家格が違うため、母・の反対に遭い、側室として嫁
りする。しかし、信繁が上杉家の人質となってのち、ひたすら信繁の帰
りを待つ
梅を待っていたのは、波乱万丈の人生であった。

単3が三ツ入っている背中  阪本こみち


     しげまさ
「小山田茂誠」 (信繁の義理の兄)
の夫。小山田信茂は主家筋。信茂が勝頼を裏切り窮地にいた時は、
妻・松の助力を得て乗り越える。家康に従ったのち、昌幸に仕え、小県
の村松を与えられた。その後、信幸に仕え、大坂の陣では、病に臥せて
いた信幸の長男・信吉・二男・信政兄弟と共に従軍。信幸が松代移封の
際は松代に居を住し、代々次席家老を務めた。信繁から茂誠宛に出した
況を伝える手紙は、信繁が最後に出した手紙であったという。

羊羹の山が崩れて生き埋めに  井上一筒


「矢沢頼幸」
真田昌幸のいとこ。昌幸が家康から上杉景勝に寝返ると頼幸は上田城の
隣の矢沢城を守り、800人の兵をもって徳川軍を撃退、その混乱に
乗じ
て沼田城に攻め寄せた後北条軍も防いでいる。また信繁が上杉景勝
の人質となる際、小県の武士5騎12名を率いて随行した。関が原合戦
後は信幸に仕え、大阪冬の陣・夏の陣に参陣、活躍している。

無いとアカンのんでしょうかキャラクター 雨森茂喜


「矢沢頼綱」(頼幸の父)
幸隆の弟。兄・幸綱ととともに信玄・勝頼に仕え、上野、名胡桃城、
沼田
城などを攻略。沼田城代となる。武田滅亡後は甥・昌幸に仕え、
沼田領
支配を任される。昌幸が仕える家康から沼田城を北条家に譲
れと迫られ
た際は、城の明け渡しを拒否。そのため北条軍に攻めら
れるが、秘策を
もって撃退した。気骨の人である。

手の平で叩く程度のテロでいい  藤井孝作


「こう」 信幸の妻) 
真田幸綱の長男・信綱の娘。信幸・信繁とは従兄弟。父・信綱は長篠の
戦いで
戦士。こうは乱世の中で真田家の生き残りに心血を注ぐ夫・信幸
を支える。
元来病弱なため、人質候補とはならないが、真田家の役に立
ちたいという
思いはことのほか強い。

逢える日の種なしぶどうを舌先に  奥山晴生


「堀田作兵衛」
信繁の側室・梅の兄。真田の郷の地侍で、村のリーダー的存在。真田家
の忠誠心があつく、中でも信繁と親しく交流。の夫・小山田茂誠
行き
場を失うと信繁に頼まれて茂誠を匿う。また妹の梅が信繁の妻にな
り、
梅の娘・すえはのちに作兵衛が引き取って養育する。人質として各
地を
転々とする信繁を常に気にかけ、信繁が大坂夏の陣に参戦した時、
上田
から大坂城に駆けつけ、奮戦の後討ち死している。

ふるさとを見たくて高い木に登る  合田瑠美子


「高梨内記」
信繁の側室きりの父。昌幸の帰属先が次々と変わる状況に冷静に対応し、
家臣団のまとめ役を務める。妻は信繁の乳母を務めた。真田家の武将
であることを誇りとし、娘は信繁の側室となり、次女・於市と三女の
阿梅
を産む。関が原合戦後、信幸・信繁に従って紀州九度山に住んだ
16人
の家臣たちのひとりで、昌幸が死去した後も信濃に戻らず、引
きつづき
九度山に残って信繁に仕えた。慶長19年信繁の大阪入城に
も随行し、
翌年、大阪夏の陣で討ち死にしている。

隙間から無事に帰れたら飲もう  くんじろう


「きり」
真田家重臣・高梨内記の娘。臆せずにものをいうストレートな性格。
実は
信繁に思いを寄せているが、本人を前にすると素直になれない。
そして、
思いを伝えられぬまま、信繁と梅の恋を応援する。父の勧め
で真田家の
奥勤めをし、信繁の祖母・とりが人質になった際も付き添
い、行動をとも
にする。いちずに信繁への思いを貫き、真田家で起こ
る事件や騒動に
巻込まれながら、信繁の波乱の人生に寄り添い続ける。
歴史的には、
信繁の側室となり、次女・於市と三女・阿梅を産んだと
いう、説がある。


過去捨てて女電池を入れ替える  上田 仁

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肋骨の中のレンジでチンをする  河村啓子


「天目山勝頼討死図」 (歌川国綱)

織田軍に攻められた勝頼は岩櫃城へ退くことを薦めた昌幸の言を退け、
小山田信茂の居城である岩殿城へ向かう。
その途中、信茂の裏切りに遭い天目山へ退去。そこで自刃して果てた。

「武田氏滅亡」

真田昌幸は天文16年(1547)真田幸隆の三男として誕生。

天文22年には、わずか7歳にして甲斐武田家に人質に出され、

以後は武田晴信(信玄)の元で暮らすことになった。

通常、人質というのは過酷な立場のものだ。

実家が裏切った場合などは、容赦なく命を奪われてしまう。

だが、昌幸の場合、かなり恵まれた環境であった。

信玄は早くから昌幸が父の幸隆に劣らない才覚の持ち主だと見抜き、

奥近習衆に取り立て寵愛した。

コップには水が空にはおれからが  徳永政二

信玄は6人いた近習を「耳効き」と呼んで重用。

なかでも昌幸曽根昌世の2人は「我が両眼である」とまで語っている。

昌幸は信玄の元でその薫陶に触れ、

武将としての器に磨きをかけていったことは疑う余地のないことである。

その後、もともとは外様であり、しかも人質であったにも関わらず、

昌幸は異例の出世を遂げる。

元亀2年(1571)頃、信玄の生母の実家である大井氏の支族である

武藤家の後継ぎがいなくなったため、昌幸が養子に入った。

そして武藤喜兵衛を名乗り足軽大将となったのだ。

その軍役は騎馬15騎、足軽30人である。

昌幸は父の幸隆、二人の兄である信綱、昌輝とともに、

「武田24将」に数えられていることからも、信玄の信任の厚さがわかる。

日が昇るなしのつぶての向こう側  筒井祥文


  真田昌幸

信玄が病死すると、昌幸は武田家を継いだ勝頼に仕えた。

長篠の戦い後は真田家を継ぎ、父や兄同様に武田家の上州支配を担った。

同時に勝頼の命に従い、「新府城」の普請にも携わっている。

この城は天正9年初頭頃から、築城が開始された武田家最後の城である。

昌幸は普請のための人夫を徴発している。

同年12月24日、勝頼は早くも府中の館から新府城に本拠を移している。

勝頼としてはこの城を中心に、本格的に領国である甲斐の経営に

乗り出すつもりでいたのだろう。

夜爪切る恙無き事祈りつつ  木村良三

しかし、翌天正10年(1582)に入るとすぐ、

織田信長による本格的な甲斐への侵攻が始まった。

勝頼は諏訪方面に出陣していたが、2月28日には新府城に戻ってきた。

だがすでに織田の大軍が間近に迫っていたため、

3月3日には、城に火を放ったうえ、

小山田信茂の居城である岩殿城へと退去する。

結局、勝頼は小山田信茂の裏切りに遭い、「天目山で自刃」

ここに名門大名家であった甲斐武田氏が滅亡したのであった。

この時、昌幸は勝頼に自らが守る「岩櫃城」へ籠もることを進言し、

籠城戦の準備を整えるために一足先に岩櫃城に戻っていた。

善人の耳をかすめた流れ弾  皆本 雅

勝頼の自刃を知った昌幸は、「武田の旧領は北条氏政が手中に収める」
                           うじくに
と考え氏政の弟である武蔵鉢形城主の北条氏邦と通じた。

だが予測に反して甲斐は河尻秀隆

信濃の佐久郡と小県郡は滝川一益が領した。

両名とも織田信長の重臣である。

そこで昌幸は信長に名馬を贈り、好を通じることにしたのだ。

こうして昌幸は信長に臣従し、信濃・小県郡内の所領と上野国内の

沼田領を領した滝川一益に従うことになった。

そうした矢先に、信長が本能寺で配下の明智光秀に謀殺されてしまう。

天正10年6月2日、「本能寺の大事変」である。

足せば二に成るしかないの青りんご  山口ろっぱ


        小山田信茂

小山田信茂の裏切りに関して、武田側の史料・『甲陽軍鑑』に拠れば、

勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬において、7日間逗留し

信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、

勝頼一行に対して、木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、
                          のぶたか
小山田八左衛門(信茂の従兄弟)と武田信堯(勝頼の従兄弟)が、

信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼に虎口から鉄砲を放ったという。

その後、織田・徳川勢により甲斐が平定された後、

信茂は、嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、

織田信忠から武田氏への不忠を咎められ、処刑された。

冗談はハミングほどがいいのです  山本早苗

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