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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ジェラシー風味なンよプロローグのコロン  山ろっ


   真田24将

「真田家ー遠望」

『智謀は七日の後れあり』

かの上杉謙信が、智謀の面で自分は後れをとっていると認めたのが、

真田幸隆であった。

信州の真田氏といえば、一般に知られるのは、知将・真田信繁(幸村)である。

しかし信繁の活躍は、祖父・幸隆、父、昌幸の存在なしにはあり得なかった。

武田信玄篤く信頼された幸隆。

その幸隆の鬼謀の才を受け渡され、信玄から軍略用兵の妙を学び、

精強徳川軍を撃退して独立大名に至った昌幸。

真田家のルーツはずっと古く存在するが、

明治へと続く真田家の歴史を形づけたのは、

幸隆と昌幸であることに異論を挟む余地はない。

「という時」のあなたの背骨  徳山泰子


     真田幸隆

天文10年(1541)、信州小県・真田の地を本拠としていた真田幸隆が、


「海野平合戦」村上義清・武田信虎らの連合軍に破れ、

故郷を追われたときを起点にして、真田家の名前が歴史の1ページに

登場してくる。

この時、幸隆とともに落ち延びたのが、縁戚関係にもあった海野氏宗家・

海野棟綱の一族で、彼らの多くは当時権勢を誇る関東管領・上杉憲政

を頼ったが、幸隆は、
        そくぶん
「信州で仄聞していたが、憲政がうつけたる大将だというのは間違いない。

   いかに関東管領の高位にあるとは、あまりにも事々しい。

   上杉家は危うく見える」

として、幸隆が最終的に頼ったのが、甲斐の武田信玄であった。

風を聴く心になってきましたね  森田律子

幸隆にとっては武田氏は武田信虎の代に村上義清とともに自分たちを、

故郷から追い払った仇敵である。

しかし、幸隆は、信虎を家中から放逐した信玄が、

杉氏を上回る勢力を持つこと、

また真田の地を占拠する村上義清と対立関係に入ったという情報を入手し、

失地回復の望みを信玄に託し帰属するのである。

やがて関東管領・上杉氏が没落し、武田氏が大躍進を遂げたことからも、

幸隆の眼力が正しかったことは、歴史が証明している。

方程式が生んだ答えにまだ何か  山本昌乃


     武田昌幸

幸隆の活躍もあり、真田氏は武田家家臣の中でも極めて特異な存在となる。

というのも、外様で真田氏ほど取り立てられた一族は、皆無だからである。

幸隆の三男が官僚機構を担う奉行を務めたのも顕著な例である。

この三男が武田昌幸である。

昌幸は当初、人質として信玄のもとに送られたが、

信玄の身の回りをする奥近習衆に取り立てられて、

頭角を現し、奉行を任されるに至ったのである。

信玄は昌幸を、「武田の宿老分にしたい」 とまで語ったというが、

幼い頃から、昌幸の将才は抜きん出ていた。

笑い声二重とびらの向こうから  合田瑠美子

そして昌幸は15歳の時、「第4次川中島合戦」で初陣を果たす。

初陣以後、昌幸は信玄の側にあって「風林火山」の実践を学んだ。

父・幸隆の戦略からは、調略による寡兵ならではの戦い方を覚えていく。
                                        みませとうげ
永禄12年(1569)10月、北条氏照との「三増峠の戦い」で、
                             ごけんし
昌幸は信玄より馬場信春隊に御検使として派遣され、

攻撃にも加わり一番槍の戦功をあげた。

翌元亀元年(1570)1月の「駿河花沢城攻め」では3番槍をつけている。

わたし臼あなたは杵でええ仕事  田口和代

天正元年(1573)4月、育ての親ともいうべき信玄が病没。

そして、信玄の後を追うように、武田家にあって譜代並みの待遇を受けた

幸隆が、その一年後62歳で死去。

真田家を相続をした長兄・信綱も「信州先方衆」のひとりとなり、

騎馬「200騎」を率い、「武田24将」に数えられた武将である。

信玄が没し、武田勝頼が家督を継いだが、信綱の真田家は安泰であり

昌幸は武田家に仕え重職の務めを果たすことに何ら変りはなかった。

逢える日の種なしぶどうを舌先に  奥山晴生


   武田勝頼

そんな昌幸の運命を変えたのが、

天正3年武田勝頼による「長篠の戦い」である。

威厳に満ちた信玄に比べ、勝頼の存在はやはり薄かった。

さらに直情型で一本気な性格は父に負けまいとする意識から、

強引な決断を下し、重臣の顔を曇らせた。

織田信長・徳川家康との「長篠の戦い」で、

重臣たちの撤退の主張を聞き入れず、大敗する。

勝頼は馬場晴信、山県昌景ら重臣の多くを一挙に失い、

真田家も長兄・信綱と次兄・昌輝が奮戦の末に戦死した。

この後、図らずも昌幸が真田の家を継ぐことになる。

力学のはじめ小豆の花咲けり  河村啓子

当主となった昌幸の任務は幸隆・信綱同様、上野に拠点をおき

吾妻領を支配する一方、甲府に出向き武田家奉行人として

朱印状発給に携わる「奉者」の重責を努め、
                      とうおみ
さらに勝頼の求めに応じ、駿河や遠江に出陣するなど、

昌幸の背負った責任は父兄にも増して、厳しく重かった。

しかし勝頼の器量では武田家のの軍事力は維持できず、急速に衰えていた。

戦い続けても好転する見込みは乏しい。

「武田家はやがて滅びるのではないか」

昌幸はそんな不吉な思いに駆られながら、勝頼を支えていかねばならない。

しかし、昌幸の思いは一つ、

幸隆が興した「真田家を守らねばならない」であった。

星のカフェ 星が星生む話聴く  西田雅子

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  天王寺での富突

現在の谷中天王寺(東京台東区)。天王寺は天保4年まで感応寺と称した。
当り番号が決まるのを見物する観衆が大勢描かれ、
富くじの盛んな様が伺える。



   富突用具

番号が書かれた札(右写真)が、天辺に穴の空いた箱に詰められ、
錐でついて当り番号が決められる。

「富くじ」
                            きり
時代劇を見ていると、木製の番号札(富札)を錐でついて、

当りを決めるシーンが出てくることがある。

その後、当り札をめぐって悲喜こもごものドラマが展開されるのが、

時代劇ではお決まりのパターンになっているが、

このイベントこそ、「富突」とも呼ばれた『富くじ』である。

富くじを興行できたのは、幕府の許可を得た寺社のみである。

そのため、富くじは富くじは「御免富」とも呼ばれた。


  江戸大富集(賞金が百両の記載が見える)

当りの最高額、つまり一の富についてみると、

千両から百両までかなり幅があった。

二の富、三の富のほか、一の富の前後賞や組違い賞まであった。

高額賞金に魅かれて、江戸っ子のあいだでは富くじは大人気であり、

最盛期には二日に一度くらいの割合で興行された。

特に感応寺、湯島天神、目黒不動の三ヶ所のが大変な賑わいをみせた。


    富 札  

富札の価格だが、寺社によってかなりのばらつきがある。

金一朱(一両の16分の1)、あるいは銀二匁五分(一両の16分の1)という

事例が多かったが、裏長屋住まいが多かった江戸っ子の立場でいうと、

奮発して一枚買うのがせいぜいだった。

現代の貨幣相場に換算すると、5千円前後だろう。

(現在宝くじ一枚300円が相場だから、結構高額である)

そのため、高額賞金を夢見て富札を数多く買いこんでしまうと、

やがては身代を潰すことになる。

身代だけでなく、みずから命を絶つものも出てくる。

借金までして富札を無理して買ったからである。

富くじが招いた悲劇が社会問題化することで、

幕府は富くじの全面禁止を決断する。

時に天保13年(1842)3月6日のことであった。

(さて皆様の10億円のジャンボ宝籤は如何だったでしょうか)

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「三猿」
                             しんきゅうしゃ  なげし
日光東照宮の神様に仕える神馬をつなぐ厩・『神厩舎』の長押の上に、
江戸初期の左甚五郎作と伝える16匹の猿が彫られている。


(1)幼児時代
子猿の将来をみるように、母猿が手をかざして遠くを見つめている。
全てに興味を持つ子猿は怪訝な表情で、母猿の顔をのぞき込んでいる。


(2)幼年期
悪いことを見たり、言ったり、聞いたりしないで、良いものだけを受け入れ、
素直な心のまま成長せよという。(耳、口、目を押さえた三匹の猿)


(3)独り立ち
独り立ちする時期に、呆然と未来を見つめ、何を考えているのだろう。
不安と夢が交錯しているのだろう。



(4)青年期

口元をきっとしめ、大きな志を抱いて大天を仰ぐ。
右の青い雲は「青雲の志」を表していると言われている。


(5)挫折と慰め
人生、楽なことばかりはない、挫折すること、悲嘆に暮れることもある。
そんな時も励まし、慰めてくれる友や仲間がいる。


(6)青春謳歌
若い猿にも、やがて青春を謳歌する季節がやってくる。
物思いに耽ったり、はしゃいだり、それが恋なのである。


(7)結婚
二人は夫婦という契りを交わす。そして様々な荒波と出会うだろうが、
手を携えて、乗り越えて行かねばならないと教えている。


(8)堕胎
様々な経験を積み、やがて次の世代の子供を宿し、
あの子どもだった猿も母猿になる。へと戻る。


『論語』の一節

【非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動】


「礼にあらざれば、視るなかれ、礼にあらざれば、聴くなかれ、

   礼にあらざれば、言うなかれ、礼にあらざれば、おこなうなかれ」

こうした「不見・不聞・不言」の教えが8世紀ごろ、

天台宗系の留学僧を経由して、日本に伝わったという。

三猿のモチーフは、「庚申信仰」の伝播とともに、

近世以降広く用いられるようになり、主尊の青面金剛を描く際、

その足元に「三猿」が添えられた例が多い。

また庚申塔にも多く「三猿」が彫り込まれている。

天台宗は比叡山の鎮護社の日吉大社と密接な関係にあり、

日吉大社を本尊とし、猿を神使とする山王信仰が、

庚申信仰と習合した結果ともいう。


鎌倉時代の説話集『沙石集』に、

「言ハザルト 見ザルト 聞カザル 世ニハアリ思ハザルヲバ イマダ見ヌカナ」

(言わない、見ない、聞かないは口と目を閉じ、耳をふさぎさえすれば、

   出来るが, 「思わない」のは、至難の業だ)という歌がある。

                      (ウィキペディア参照)




今年一年有難うございました。

さる年もどうぞよろしくお願いいたします。

                      茶助

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褒められてスパンコールになりました 美馬りゅうこ


  『日本百美人』

「文芸倶楽部』(明冶41年)上下2枚の大判に50名ずつ掲載。
読者投票で9万票を獲得し一等となった萬龍など、
美人芸妓が名を列ねている。


「明治の美人コンテストー②」

当時の社会状況を端的に表すエピソードがある。

学習院中等部に在学中であった末弘ヒロ子を、

美人コンテストに
推挙したのは、姉の夫、義兄にあたる人で、

可愛い妹を自慢するつもりで、本人にも家族にも無断で送ったのだった。

後になってそれを知ったヒロ子が、

「もし選に入ったりしたら学校で叱られます。どうか取り戻して下さい」

と泣いて抗議するも、運良くか、運悪くか、1等に当たってしまった。

学校でも、世間でも評判になるのは当然のなりゆき。

それに噛み付いたのが、当学院院長の乃木希典であった。

二等辺三角形の斜辺にて迷う  清水すみれ


 『日本美人帖』中の各地の一次審査通過者。

芸妓のような「くろうと」感はなく、
着るもの等に工夫をこらしオシャレする一般参加者たち。

「女子部にありては、軽佻浮薄の弊を戒むるに努め居れるが、

   先頃某新聞社が美人写真募集せしみぎり、

   2年末広ヒロ子が、1等と発表せられしに至れり。

   良妻賢母を育てる教育方針のなかで、

   自分の容姿を誇示することは、
生徒としてあるまじき行為」

 「良家の子女が自分の容姿美をひけらかすとは何事だ

   他の生徒の取締上停学、又は諭旨退学に処す」

本人は優勝したことに困惑して、

「写真は一等かもしれないが、自分は一等でない」

と、一等の報告に出向いた記者に話したが、

学校側の一方的な見解によって、
結局は退学処分となった。

(教育現場の最重要課題である良妻賢母を育てることに反する行為
 として受けとめる層が、厳然として存在したのである。)

接木して踏み絵をひとつしのばせる 上田 仁


   森 律子

一次審査通過者となった律子は帝劇女優養成所を主席で卒業し、
帝劇女優第一号として活躍した。

入賞者のなかには、これを契機に社会へ飛び立つ女子も存在した。

前国会議員令嬢の森律子は、帝劇女優一号として活躍し、

雑誌の化粧品広告にも、多数登場している。

しかし、当時の女優の社会的地位は極めて低く、

女学校の交友会から脱会させられた。

弟の一校祭にでかけると、

「女優風情に神聖な校庭を汚された」
塩をまかれた。

ミスコン出身出身令嬢の女優は、相当に目立つ存在だったであろう。

目立つ姉のことも影響してか、弟は数年後に自殺したという。

シーソーも @マークも雨ざらし  森田律子

   
   
 左、『婦人世界』(大正2年)に掲載、白粉広告の森律子と

『婦人世界』(明治41年)掲載の乳白化粧水レート広告の土屋ノブ子。

律子は舞台に立とうとした動機について、

「婦人が男に余りに頼りすぎているような感じがするし、

   依頼心の増長等につながり、身体の弱くなる素だ」

と話している。

ほか、三等の土屋ノブ子など、

化粧品のイメージキャラクターとして登場する令嬢もいた。

二次審査通過者214名の写真集『日本美人帳』をめくってゆくと、

日本髪に和服、女学生姿、洋風の髪に着物、最先端のアールヌーヴォ―

スタイルの洋装に洋風の髪の令嬢たちが、

おしゃれに工夫を凝らしている。


表情の硬さは否めないが、明冶美人の凛とした姿がそこにある。

鏡には映らない顔模索する  都司 豊


  「日本美人帳」(一般応募者)

一冊の写真帳は、深窓の令嬢が歩みだした小さな一歩が、

大きな未来へつながることを語っている ようだ。

令嬢写真競争の噂は全国に広まったのであろう。

時期を同じくして「文芸倶楽部」が、

明冶41年新年号付録に、
『日本百美人』を発行した。

全国から集まった芸妓三千枚の写真から百枚に絞り込み、

読者投票で20名の美人芸妓を選ぶという趣向であった。

許すってちょっと広めの歩幅だね  山本昌乃


高島屋呉服店用 クラブ化粧品広告の芸妓たち

ここでは9万票を獲得し、明治を代表する美人芸妓、

赤坂の萬龍が一等となった。

また明冶44年、「日曜画報」も『新全国百美人』の選抜を行なった。

こうして美人芸妓は、全国的に知られる存在となっていった。

ちょうどそのころ、芸妓の写真絵葉書もブームとなり、

人気タレントのプロマイドのように全国に流布していった。

やはりこちらでも筆頭は、萬龍であった。   <津田紀代>

(萬龍の写真は12月2日の明治のファッションにて掲載)

蓋は勝手に開きます念のため  森田律子

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尾翼から女は白くなってゆく  くんじろう

「明治の美人コンテストー①」

明治になり「写真」という新しいツールの登場によって、

まず皇族華族の写真が、次いで、令嬢、令夫人の写真が

雑誌などのマスメディアに登場した。

上流紳士淑女の写真が、庶民の羨望の的となる役割を担った。

またそれまで浮世絵で人気を博していた芸妓も美人写真となって、

人々の心を捉えた。

日露戦争前後となると、これまでの貴顕(身分の高い人)肖像写真、

外国土産用、
古物調査や戦争記録のほか、

軍事郵便、私製はがきなど、
より実用的になり、普及していった。

スマホの画面に目ヤニがついている  井上一筒


時事新報社美人写真募集一等「末弘ヒロ子」

ピアノ、お茶は表千家、生け花は池坊。好物は薩摩芋、鰻、柿、蜜柑。
末弘トミ子の偽名で義兄が応募。一等の副賞は総額1823円93戦に
のぼったというが、彼女は受け取らなかったようだ。

こうした時期の明冶40年、アメリカ・シカゴのトリビューン新聞社から

「世界第一の美人を見出さんとす、貴社この競争に参加して、

    日本第一の美人を提供する意なきや」

と、「時事新報者」に依頼が飛び込んだ。

これに応えて、
        じょうしぐん    ていしんこれ
「戦後日本の娘子軍、敢えて挺身之と姿を競い色を闘わさんと

   欲するものあらば、あわれ速やかに名乗りて、いでられよ。

   本社がとりあえず、全国幾千万の美人に代わりて、
   おうだく
   開戦応諾の旨をシカゴ・トリビューン社に、電答仕置きたる」

と時事新報社は、美人写真募集を宣言した。

国際的な一大事業であるから、選抜を一社に独占せず、

「全国の有力新聞社の協力を得て実施」

と銘打ったのは賢明な策であった。

充電の途中で呼び出しがかかる  合田瑠美子


時事新報社美人写真募集二等「金田ケン子」

振り袖に立矢の字の帯の正装姿。
首掛け時計の鎖や指輪で流行を取り入れている。

トリビューン社は、日本以外に、フランス、カナダ、スペイン、

イタリア、
イギリス、スウェーデン、ロシア、オーストリアなど、

12カ国へ
参加を呼びかけたという。

日本への要請は、日露戦争を契機として、

日本が欧米から感心を寄せられる存在となっていた、表れかもしれない。

翌年6月に時事新報社は、報告としてトリビューン紙が、

3名の
競争審査の実況、本紙一面大の特別付録を発行したこと、

日本がいち早くこの競争に応じたこと、

未曾有の熱狂ぶり、
当選者の経歴、審査員名、審査会の模様を紹介、

アメリカ(マーガレット・フレー)、カナダ(ヴァイオレット・フッド)

スウェーデン(ジェーン・ルンドスツロム)、日本(末弘ヒロ子)

イギリス(アイヴィーリリア・クローズ) とある。

喝采を浴びて呼吸を忘れそう  嶋沢喜八郎


時事新報社美人写真募集三等「土屋ノブ子」

写真募集には「美人写真集12か条規則」が告知された。

「女優、芸妓、その他容色を以って職業の資とする者の写真は採用せず」

というのが第一条件であった。

「また本人の名前、現住所、年齢、職業の有無、及び父母の職業、

   若しくは身分を記載し、身長・胸囲・腰囲も併記せらるれば最も妙」

とある。

身分というのが、封建制社会をよく表している。

ボディサイズがあるのは、欧米的な発想である。

写真はポーズが異なれば、複数の応募も可で、投稿写真は返却しない。

被写体となってをんなは美しい  徳山泰子


第一次審査は各社で行い、

一等から五等までの当選者には相当の賞品を贈呈。

容貌鑑定に適した人材によって最終審査を行い、

全国優秀三名を選定し賞品を授与する。 

1等    18金ダイヤモンド指輪 (300円相当)
2等    18金梨地無双ダイヤ入モンド入り婦人持ち懐中時計、
             及び、18金ルビー真珠入り緒〆付首掛鎖り (150円相当)
3等    18金白金製桜花流水図透し彫りダイヤ入り帯留 (100円相当)

となってる。

食べ過ぎて肥えているなら痩せられる  前中知栄                      

尚、一時審査通過者の商品には,

1等~3等        18金ルビー真珠入り指輪 (30円相当)
          18金真珠入り勝形ブローチ (15円相当)
          18金結形根掛 (10円相当)
4等~5等      銀製鍍金草花文丸彫り束髪用簪 (5円相当)

(因みに当時の小学校の教員の初任給は8円。巡査は9円である)

親戚、知友写真師らが本人に代わって写真を投稿することも可だが、

本人の許諾を含めて投寄者が責任を負う。

一等から三等の写真投寄者には、

それぞれ、金50円、25円、10円の賞金を
寄贈するといった内容。

スキップを同封します良い報せ  太下和子


『ゆびわ』(石版画)  岡田三郎助画
左薬指にめのうの指輪をはめている。
「時事新報」明冶41年新年号付録。

最終の二次審査は、各界の名士13名によっておこなわれた。

審査員のひとり岡田三郎助は、時事新報社から明冶41年の新年付録の

絵を依頼され、石版画『ゆびわ』を制作した。

写真募集の賞品からインスピレーションを受けて、制作したのであろう。

さて、第一次審査通過者214名は、順次新聞で紹介された。

読者は、審査は出来ないが、経過を知って臨場感を楽しんだ。

深窓の令嬢が、公衆の面前で美醜を競うことなど、

受け入れられない社会であったにも関わらず、

七千枚の写真が集まったことは、画期的なことであった。

裏を返せば、明治の人々は新しいものに敏感に反応する、

楽しいことを察知する能力に長けた人々であった 

といえよう。       <文・津田紀代>

                       つづく

暗闇のふくみ笑いを聞いたよな  筒井祥文

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