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川柳的逍遥 人の世の一家言
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カベというカベに大判サロンパス  雨森茂喜



浪士狩りと称し洛中の取り締まりを行っていた「新撰組」は、
元治元年(1864)6月5日早朝、武田観柳斎らにより
桝屋喜右衛門と名乗る古高俊太郎を捕らえ、壬生屯所へ連行。
土方歳三による激しい拷問で志士密会と大謀議を自白させられた。

同日夜半、池田屋にて会談中の尊王攘夷派志士たちを、
池田屋近辺を警邏していた新撰組の近藤勇、沖田総司、永倉新八
藤堂平助の4名が、古高自白の報を受け、池田屋に突入。
死闘は2時間にも及んだ、末、宮部鼎蔵、吉田稔麿、松田重助らが
闘死した。以下は、彼らの遺書となる和歌を掲げました。


        吉田稔麿遺品の財布
「吉田稔麿」

池田屋事件のとき、吉田稔麿は、24歳の若さであった。

稔麿の遺品となった紙入れには、次の言葉が書かれていたという。

「すぐれた才能の持ち主は当代を危うくし 

   巧妙な策略は多くの人々をもてあそぶ」

「反省は先にするべきものだ」と稔麿は、

常に自分を戒めていたにもかかわらずの池田屋事件であった。
 
「辞世の句」

「むすびてもまたむすびても黒髪の  みだれそめにし世をいかにせむ」

稔麿は、池田屋に赴く前に髪結いで髪を整えたという。

「よろづ代も流つきせぬ五十鈴川 きよけき水を汲みてとらまし」

とも詠んでいる。

去りぎわの言葉と広い肩幅と  嶋沢喜八郎


   宮部鼎蔵

「宮部鼎蔵」

嘉永3年の東北の旅先で吉田松陰に出会い、尊皇攘夷の考えが一致。

全国行脚へ攘夷論を説きながら、自藩にも尊皇攘夷を説得する。

しかし佐幕一辺倒の熊本藩は動くことはなかった。

それに嫌気をさした宮部は藩に見切りをつけ脱藩、

尊攘派志士たちと政治活動に奔走する。

そして、文久3年「8月の政変」で長州藩が京を追放され、

警備にあたっていた熊本藩士たちも解散となると、

宮部は京都に潜伏したまま、尊攘活動を続ける。

そして宮部45歳のとき、池田屋事件に遭遇するのである。

あじさい闇どうにまならぬ事もある  山本昌乃

(宮部が松陰との東北の旅で辞世の句と決めて句を作った歌)

「宮部の殉難遺章」

陪臣執命奈無羞   
(陪臣(家来)命を執り羞(は)づるなきをいかんせん)
天日喪光沈北陬   
(天日、光を失ひ北陬(ほくすう:北国のかたすみ佐渡に沈む)
遺恨千年又何極   
(遺恨千年又何ぞ極まらん)
一刀不断賊人頭   
(一刀断たざりき賊人の頭(こうべ)

嘉永5年(1852)吉田松蔭21歳の時、2月27日~13日間

佐渡に渡り、宮部鼎蔵 と旅を共にしている。

そのときの松陰の日記に宮部憤慨するの一文がある。

「2月28日晴。小木を発す。・・・陵下に真輪寺あり。
   余乃ち宮部と迂回して陵に登る。
   拝哭(はいこく)して曰く、
  『万乗(天子)の尊きを以て、孤島の中に幸したまふ。
    何者の奸賊乃ち此れを為す。
    宮部覚えず悲憤して、扉に題して云はく と。
上記の詩がそれにあたる。

くちぴるは傷痕なぞりゆく朧  増田えんじぇる

「望月亀弥太」

望月は土佐勤皇党に所属し、池田屋遭遇の年に脱藩。

6月4日の新撰組の池田屋突入に際し、

白刃をかいくぐり、2階から飛び降りて脱出に成功する。

しかし執拗な幕府の警備兵の追撃に深手を負いながら、

長州藩邸門前に辿りつき、必死に助けを求めるも門扉は開かれず、

その場で自刃した。27歳の最後であった。

「あづさ弓八阪の岡にまどいして なほおもひ入るふるさとの空」

「待ち待ちし秋にあひけり大君の みために消えむ草のへのつゆ」

堤防とぶっかけ飯の狭間にて  井上一筒

「松田重助」

肥後の出身。宮部鼎蔵に師事し、嘉永6年、尊皇攘夷活動に参加。

「八月十八日の政変」後、公卿達(7卿)と共に京都を離れる。

再上洛して古高が営む京都・桝屋にしばらく逗留し、

同志らと再挙を謀っていたところを池田屋事件に遭遇、

新選組に捕縛される。

翌朝、脱走して河原町まで逃げたが、

見廻りの会津藩士らによって殺害される。

35歳死亡。辞世ではないが、次の歌が残る。

「山にのみすめる人にはかたらじな 青うな原のそらのけしきを」

「ひとすぢにおもひこめてし眞心は 神もたのまず人もたのまず」

リスト・カットの助走をつけて檻の中  高橋 蘭


  古高俊太郎

「古高俊太郎」

文久元年(1861)ころから古高俊太郎は、枡屋喜右衛門と名乗り、

京都・西木屋町四条で順調な商いをしていた。

ところが文久4年6月5日早朝、桝屋の番頭の密告を得た新選組は、

その屋敷を襲撃し、不審者として古高を逮捕する。

罪状は、

「風の強い日に京の町に火を放ち、その混乱に乗じて、

   公武合体派要人を暗殺。さらに孝明天皇を長州へとお連れする」 

というも謀反計画であった。

古高は壬生屯所に連行され、計画を吐かせる拷問が行われた。

率直に見届けようコオロギの臨終  山口ろっぱ

志士たちは、古高逮捕に色めき立った。

「京都放火計画」の露見を恐れてのことだ。

彼の逮捕を受けて在京の尊攘派志士たちが池田屋に集まった。

目的は古高の奪還である。

当時、長州藩の京都留守居役・乃美織江の手記に、

「壬生浪士屯所へ罷り越し一戦に及び候ても、

    俊太郎を取返し申すべし」


という志士の文言が記されている。

桂小五郎の覚書にも、

「此夜諸士ト会同シ 、古高ノ縛ラレテ新選組中ニ在ルヲ急襲シテ

    奪還セント欲スルノ議アリ」と記している。

長州の志士たちが「古高救出」を考えていたことは明らかである。

ところが、池田屋にてそんな計画をしているところへ、

新選組が先手の襲撃をかけてきたのである。「池田屋事件・真相」

ゆっくりと毒がまわってくるhなし話  くんじろう



「土方歳三の行った古高俊太郎への拷問」

「まず(古高の)足の甲から足の裏まで、五寸釘を打ち貫き、

   足首にロープを縛りつけて逆さ釣りにする。

   そして足裏に突き抜けた五寸釘に、百目蝋燭を立てて火を点ける。

   すると溶け落ちる熱い蝋燭が、釘を伝わって傷口を焼いてくる。

   それまで、頑として口を割らなかった古高は絶叫し、

   討議の内情を吐いた」 というのである。
            (永倉新八が<<新選組顛末記>>より)

手をあげて天誅殺を横断中  徳田ひろ子


拷問の後、古高が送られた六角獄舎

「古高俊太郎という人物」

古高俊太郎は、父・周蔵正明と父の同志・梅田雲浜の影響を受け、

自然と熱心な勤王志士となった。

30才の時、父が亡くなり、その後を継いで毘沙門堂の家士となり、

その人柄と優れた才能により、有栖川宮家の信頼を得、

また京都の勤王志士達にその盟主と仰がれ、

倒幕運動の中心となって、活動するようになる。

その後、古高は尊王倒幕で一致する長州藩と親交を持つようになる。

長州藩にとっても、勤王派の宮家や公家と繋がりを持つためには、

古高は貴重な同志なのだ。

有象でいもたこ 無象でリスペクト  田口和代

やがて幕府から古高は危険人物と見られるようになった時、

丹波の同志で豪農郷士の湯浅五郎兵衛のすすめで、

文久元年に諸藩御用達・枡屋を継ぎ、枡屋喜右衛門を名乗る。

こうして表面は商人、

裏は倒幕志士として活動をつづけるようになった。

また、志士として何時死ぬかもしれない我が身を考え、

妻を娶らないと決めていたので、

湯浅五郎兵衛の息子のを養子とし、

弟・正裕に託し、後顧の憂いのないようにした。

その後、六角獄舎に収容されたが、「禁門の変」の際に生じた

「どんどん焼け」で獄舎近辺まで延焼、

火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、

判決が出ていない状態のまま、他の囚人とともに斬首される。

享年36。
       こそ    く   
「大原を思ひ社やれ九ろ木う利 声もきこえぬ今朝の志ら雪」

(降る雪に閉ざされたのか、いつもの大原女の売り声がきこえない)

大丈夫みんな死ぬから大丈夫  蟹口和枝

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生きたまま製氷室を出入りする  河村啓子

(各写真は拡大してご覧下さい)
  菊が浜土塁屏風

文久3年、馬関海峡における外国船からの報復事件をきっかけに、
萩の住民の間にも「自らの手で城下を守ろう」とする機運が高まり、
外国からの再襲撃に備えるた為、萩藩は日本海に面した菊ヶ浜に、
土塁の築造するよう領民たちに命じた。

武士たちの留守をあずかる老若男女たちは、身分や貧富を問わず、
奉仕作業し、この時ばかりは滅多に外に出ることのなかった武士の
妻や奥女中までが参加したという。

極まれば涙も出ないものと知る  岡本 恵

 (各写真は拡大してご覧下さい)

このときの作業唄として歌われたのが山口県の民謡「男なら」である。

【男なら】歌詞

男なら  お槍かついでぇ   お中間んとなって
ついてゆきたや下の関    お国の大事と聞くからは
女ながらも  武士の妻   まさかの時には しめだすき
神功皇后さんの 勇々しき姿が鏡じゃないかいな
オオシャリシャリ

 「(もしも私が)男だったなら、槍を担いで中間として下関について行き、
   外国との戦に参加をしたい。
   自分も女ではあるが、武士の妻であるから、

(敵の軍勢が萩に攻めてくるようなことがあったら)神功皇后のようにこの国を守る」
「オーシャーリシャーリ」とは(おっしゃるとおり)という意味

男なら三千世界の 烏を死なす   主と朝寝が してみたい
酔えば美人の ひざまくら   さめりゃ天下を 手で握り
咲かす長州 さくらの花    高杉晋作さんは 男の男よ
傑いじゃ ないかな        (オオシャリシャーリ)
どうせなら明るく楽しく生きましょうと意味をこめているのだろう。
 (3番の歌詞では、高杉晋作の作った都々逸をもじっている)

計り売りしておりますよ今日の空気  北原照子


            女台場

萩の菊ヶ浜沿いの海岸に女たちが中心になって築いた土塁
高さ3メートル、幅12メートルの土塁が50メートル
比較的よく旧態を保っている。


ワーグマン下関戦争の絵

「長州の危機」

文久3年(1863)5月10日、幕府やその他の藩が躊躇する中、

ひとり攘夷戦を決行した長州藩。

馬関(関門)海峡付近を航行する外国船への砲撃を行なった。

しかし、その結果はアメリカとフランスの軍艦に報復され、

貧弱だった長州海軍は壊滅、砲台も破壊された。

さらに外国からの攻撃をうけている際、長州藩内では一揆が勃発。

外国の軍隊に協力する領民まで現れる始末だった。

うかつにも直し忘れた未来地図  新川弘子             


馬関に錨を留める外国艦隊

その後、長州藩は8月18日の政変で京都を追われ、

さらに冤罪を晴らす目的で兵を御所に向けやが、

手痛い敗北を喫した。

それでも攘夷の姿勢を崩すことなく、

馬関海峡は修復された砲台により、閉鎖されたままであった。

この事態は日本との貿易を行なう諸外国にとって、

大いなる不都合を生じた。

この時期、アジアで最強の戦力を保持していたのは

イギリスだったが、対日貿易での利益は順調に上がっていたうえ、

海峡封鎖では、イギリス船が直接被害を受けていない。

そうしたことからイギリス本国は、

多額の戦費のかかる武力行使には消極的であった。

半熟のままで主張を持ち歩く  大嶋都嗣子


 受難続きのイギリス

一度目、日本初のイギリス公使館(高輪)が水戸藩浪士に襲撃され。
2度目はオルコックが帰国している間に、代理公使ジョン・ニール
の寝室に松本藩の浪士が侵入している。’写真左)
右・オルコック

しかし駐日公使のオールコックは、海峡が封鎖されていることで、

長崎での貿易が麻痺状態となっていることを問題視した。

加えて攘夷運動が全国的に波及することも危惧したのである。

実際、幕府が横浜港を閉鎖したい旨を持ち出している。

オールコックはこの際、

「西欧文明の実力を思い知らせ、攘夷などは不可能なことを

   日本人に痛感させる」 ことを思いついた。

この考えに実害を受けたフランス、オランダ、アメリカも同意し、

元治元年(1864)4月に四カ国連合艦隊による、

長州への武力行使が決定する。

タグ付けて越前蟹がやって来る  佐波正春

英国留学中であった伊藤俊輔井上聞多が6月10日に緊急帰国。

オールコックに面会し藩主の説得を約束した。

オールコックも承知し、2人を軍艦で豊後まで送る。

伊藤らは藩庁に到着し、藩主・毛利敬親や藩の重役たちに

戦いの無謀さを説いたが、説得することはできなかった。

竹の皮に包んでおく喧嘩状  井上一筒
  

  占拠された長州の砲台

長州藩は米仏艦による報復攻撃で破壊された砲台を修復し、
引き続き海峡封鎖を行なった。
しかし、17隻の艦隊と陸戦隊により占拠・破壊された。

7月27日から28日にかけて、

17隻からなる四カ国連合艦隊が横浜を出航。

総員は5000人という兵力を有していた。

8月4日になり艦隊接近を知った長州藩庁は、

ようやくことの重大さに慌てた。

というのも同じ頃、朝廷から勅命を受けた幕府は、

尾張、越前および西国諸藩を以って征長軍を編成していたからだ。

結局、8月5日の午後になり、

連合艦隊は前田から壇ノ浦にかけての砲台を粉砕。

さらに前田浜に陸戦隊を上陸させ、砲台を占拠・破壊。

翌日は山縣狂介(有朋)が一時敵艦を砲撃して混乱させるが、

態勢を立て直されると陸戦隊が上陸。

下関市街へと向かい進軍を開始する。

8日には高杉晋作が家老の養子・宍戸刑部を名乗り、

講和の使者に立った。

幾層の闇 剥がしても剥がしても  赤松ますみ

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氏素性たどれば おでんの厚揚げ  山口ろっぱ


            鍵曲 (萩の町造り)

鍵曲は、道を鍵の手にように曲げ、
左右を高い土塀で囲んで見通しを悪し、敵を迷わせ、
追いつめやすいように工夫して造られたものです。


「名前の話」

現代の日本社会において、人間は産声を上げて

この世に生まれる時から、他人と区別されるように名前が与えられ、

そして、成長するとその「名前」を以って社会に入り、

社会生活を営んでいくことになる。

しかし、いかに識別のためとはいえ、中世の時代においては、 

日本の個人名の種類は多く、幼名・実名・通称・字・別号・

法名・戒名と場面が変わるごとに変えている。

今時の寿限無寿限無を何と読む  藤本秋声

それを名前研究科に説明してもらうと、次のようになる。

「飛鳥から院政時代までの日本人の個人名の変遷を

   一言にまとめると、名前の種類とその役割分担が

   徐々に明確化してきた歴史である。

   個人の識別という名前の基本機能からすれば、

 一個人の名前の種類が多ければ多いほど、

 識別に支障をもたらすことになる。

 にもかかわらず、古代の日本人は、

 何種類もの個人名を同時に持つことに,喜びさえ覚えたのである」

歳月をコント仕立てにして暮れる  佐藤美はる



例えば、吉田松陰の場合、

幼時の名字は杉。幼名は寅之助。

吉田家に養子入り後、大次郎と改め。通称は寅次郎。
いみな のりかた
諱は矩方。字は義卿、号は松陰、戒名は、二十一回猛士となる。

一般的には 武士の名前は「姓・通称・諱」で構成される。

この本当の名前をといい普段使用する名前をという。

また元服により名前を変える前の名前は、幼名という。

幼名を使う理由は、時代的に兄弟の数が多い割りに元服するまで、

生きる子供が少なかったために、二郎や次郎などのように  

番号的な名前をつけ、元服を無事果たしてののち、

ちゃんとした名前を与えた。

番号で呼ばれる暗いところかあら  河村啓子

西郷隆盛の場合、

幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、

吉之助と順次変えた。
                                 なんしゅう
元服時には、隆永、のちに武雄、諱は隆盛。号は南洲。

尚、隆盛の名は、王政復古の章典で位階を授けられる際に、

親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名を届けたため、

それ以後は父の名と同じになった。

都合よく拾って脚色する耳だ  岩根彰子


  楫取素彦が寄進した井戸

「改名変名」

幕末の尊王攘夷派の武士は、幕府の追及を逃れるために、

多くの「変名」を名乗った。

楫取素彦は、松島家に生まれ、幼少の折は松島久米次郎

小田村家を継いで小田村伊之助となり次いで文助という名も持つ。

元治元年の禁門の変で、義弟の玄瑞は責を負い自刃したものの

変の主謀者のひとりとしてのレッテルを貼られ、

実兄の松島剛蔵は、洋学の第一人者として活躍していた罪で

処刑されている。この時、

これらの連座を心配した藩主の計らいで、素太郎と名乗っている。

また藩命で大宰府に赴いた時には、

塩間鉄造の名をつかっている。

将軍・徳川慶喜「大政奉還」を上申し、

さらに「王政復古」の大号令が出されて

世の中がさらに騒がしくなったころ、藩命により、

楫取素彦と改名している。(慶応3年〔1867〕9月24日)

とぼけたいシーンで使うホホホホホ 清水すみれ

木戸孝允は生家では、和田小五郎と言ったが、

家名存続のために桂家を継いで桂小五郎と名乗った。

元治元年の「池田屋事件」では運よく難を逃れ、

「禁門の変」で長州藩が敗退すると、但馬での潜伏後に帰藩。

対幕抗戦の藩論で活躍した。

また坂本龍馬の斡旋で小松帯刀、西郷隆盛らと「薩長同盟」を結ぶ。

(因みに、坂本龍馬と桂小五郎を引き合わせたのは、小田村伊之助で、
   そこから薩摩・西郷との
同盟につながっていことを忘れてはならない)

そして慶応元年、幕府の追及から逃れるために、

藩主・毛利敬親に願い出、「木戸姓」を許されて、

木戸準一郎を経て、木戸孝允と改名した。

男には黙って渡る橋がある  小林妻子


  井上 馨

井上馨は生家が井上家だが、一時、志道家の養子となって、

志道聞多と称した。

後、井上姓に戻り井上聞多となるが、幕府から逃れるために

春山花輔、高田春太郎、山田新助など多くの変名を用いた。
                    りょうてき
久坂玄瑞は、長州藩の医師・久坂良迪の二男として生まれ、

久坂秀三郎・誠・義質・義助へと名前を変えている。

文への手紙にも、京の危険な現状を伝え、変名を使用している。

因みに西郷隆盛変名は、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門

大島吉之助などを使っている。

「余談」

どうして天皇には、姓名がないのか?

大名から町人に至る民衆は、出自を明確にするため、

姓を名乗らされた。

一方、天皇は「出自」が明確な為に姓を持つ必要がなかったのである。
          おもうさま  おたあさま
家に帰れば御父様  御母様  田口和代

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ライオンの昼寝に出会う現在地  菅野泰行


      池田屋密会場所再現写真

「池田屋事件」

8月8日の政変以降、京都は公武合体派が実権を握っていた。

しかし長州藩の攘夷派や三条実美らは、そうした逆境にも屈せず、

再び京へ復帰することを画策していた。

また元治元年(1664)6月13日には、

毛利藩世子・定弘が本隊を率いて京に進発することが決定していた。

そんな折に京都において、クーデターを計画していた攘夷派が

集まっていた三条木屋町の旅籠「池田屋」を新撰組が急襲した。

6月5日のことである。

請け負った刺客はネコに化けていく  井上一筒


 永倉新八

新八は新選組の副長助勤として近藤勇らとともに池田屋へ斬り込んだ。
新選組随一の遣い手として幾多の戦闘に加わり、十三人の大幹部のうち、
ただ一人生き残った。

「新撰組として一番最初の仕事が”池田屋事件”」

テロを計画していた長州藩士を中心とする、過激派の藩士たちを、

新選組が斬り捨て、幕末動乱のきっかけを生んだ「池田屋事件」

実は、池田屋にいた勤王の志士たち、二十数人に対し、

当初、邸内に突入した新選組は、総勢34名のうち、

近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助のわずか4人だった。

「御用改め、手向かいいたすにおいては、容赦なく斬り捨てる」

これが近藤勇の斬り込み時に発した最初の言葉である。

そんな少数のなか、沖田は戦闘中に持病の喀血で戦線から離脱。

藤堂もまた、汗で鉢金がずれたところに、太刀を浴び、

額を斬られ戦線を離脱した。

痛み痒みギブスは何も答えない  山本芳男

かたや倒幕集団の土佐藩の望月亀弥太らは、

裏口から必死に脱出をはかり、

そこを守っていた新選組み浪士たちと、斬り合いになった。

3名の浪士安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門は、倒したものの、

望月亀弥太も深手を負う。

そして長州藩邸付近まで逃げたものの、

追っ手に追いつかれ望月は自刃。

一方、新撰組側は、一時は、近藤・永倉の2人となるが、

土方隊が応援に入り、戦局は新選組に有利に傾き、

9名討ち取り、4名捕縛の戦果を上げる。

勝利の背景には、武士身分でないが故に、手柄を挙げて、

「武士になりたい」という隊士たちの悲壮な、思いがあった。

真剣になるまで研いでいる竹光  板野美子

戦闘後に、会津・桑名藩の応援が到着した時、土方歳三は、

手柄を横取りされぬように、一歩たりとも、近づけさせなかった。

そして、新撰組の面々は、闇討ちを警戒し、翌日の正午になって、

壬生の屯所に帰還。

沿道は、見物人であふれていた。

この戦闘で、数名の尊攘過激派は逃走したが、

新撰組は、翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し20余名を捕縛。

市中掃討はふたたび激戦になり、死闘の末、

会津藩5名、彦根藩4名、桑名藩2名の即死者を出した。

                〔ー永倉新八の報告書より〕

(新撰組は、この「池田屋事件」で名を上げるが、
   逆に、幕末騒乱の火薬庫に引火させたといってもいい。
   この事件から時代は、物凄い勢いで流れていく)

指めがねあの世も細い雨が降る  梅崎流青


 吉田俊麿最後の死闘

帰国していた玄瑞には、難を逃れた桂小五郎から一報が入った。

長州藩士・土佐藩士などの尊皇攘夷派志士の多くが、

新撰組に斬り捨てられ、または捕縛された。

斬り死にした中には、松下村塾の朋輩・吉田俊麿や、

松陰の盟友・宮部鼎蔵もふくまれている。

これに激怒した長州藩の過激派は、

平和的な解決を望んだ慎重派を抑え込み、

武力を用いてでも京へ向かうことを決意する。

ヤッホーが向こう岸から戻らない  嶋澤喜八郎


 来島又兵衛上申書案

そして同月15日、来島又兵衛が遊撃隊300人を率いて先発し、

翌16日には家老・福原越後の460人と真木和泉、入江九一

久坂玄瑞が出発。さらに家老・国司信濃も続いた。

先発した玄瑞ら長州勢は、約2千。

玄瑞は21日に大坂に到着し、300を率いて淀川を遡り、

京都への入口である山崎、天王山を占拠し本営とした。

他の隊は伏見、嵯峨などに布陣した。

しかし玄瑞は、戦に逸っていたわけではない。

武力を背景にして、長州の冤罪を訴えるのが目的だった。

ゆえに朝廷、幕府、在京諸藩主に嘆願書を差し出した。

忍耐を磨く地獄の一丁目  西美和子

こうした長州の行動に孝明天皇は不快感を示し、会津や土佐、

そして薩摩などが長州と睨みあう。

7月18日、玄瑞らは、

筆頭家老、益田右衛門介が陣取った男山で軍義を開いた。

即決戦を主張する来島らに、玄瑞は、

「一旦、兵庫まで退いて世子の到着を待ち、

   大軍を擁して京都にはいるべきである」 と宥める。

この時点での玄瑞の目的は、あくまで長州藩の失地回復であり、

その上で異国の脅威を斥ける日本をつくろうとの決意を抱いていた。

血と汗と油絵具が塗ってある  牧野芳光


   大専坊跡 (遊撃隊が本陣とした)

しかし来島は容れず「臆病者」と罵倒する。

玄瑞は歯噛みをした。

藩主・敬親からは「先に手を出すな」と強く命じられていたが、

もはや止めようがなかった。

軍議後、玄瑞は入江九一らと淀川の谷水を手ですくい、

永久の別れとして水杯を交わした。

同日夜半、長州勢は伏見、嵯峨、山崎の三方から遊撃を開始。

来島、国司らの部隊は、御所の中立売御門や蛤御門に向かった。

鴉止まれりバーコード付きの門  筒井祥文

拍手[3回]

ある時は熟れたバナナで釘を打つ  本多洋子


         三田尻御茶屋

萩藩2代藩主毛利綱広によって設置された萩藩の公館で、
藩主の参勤交代や領内巡視時の休憩、また迎賓に使用された。

「長州藩の御茶屋」

長州藩の「御茶屋」は、藩主が参勤交代や城内巡視する折、

宿泊や休息のために利用するほか、

幕府の役人や諸藩の大名の迎賓館として用いられた。

藩庁のある萩は、日本海に面している為に

情報の伝達に時間がかかった。

そのため、激動の時代に藩主となった毛利敬親は、

萩から瀬戸内海に至る街道などに設置された複数の御茶屋に滞在し、

政務の多くをそこで行なった。

伝統という磐石の包み紙  三村一子



       藩主謁見の間及び庭

その一つ、「三田尻の御茶屋」は、承応3年(1654)

2代藩主・毛利綱広によって建てられた。

瀬戸内海に面した三田尻は、

古くから水運の要衝として栄えた港町である。

毛利水軍の根拠地でもあった。

三田尻はまた、瀬戸内の製塩業の西の中心地でもあり、

塩の生産と販売の統制に当る役所が置かれた。

8月18日の政変で長州に逃れてき三条実美ら7人の公卿を、

最初に迎え入れたのも、この御茶屋であった。

入口が二つで出口も二つある  河村啓子

もう一つの重要な御茶屋は、「山口の御茶屋」と言い、

敬親は、長州藩の中心に位置する要のこの地に、

三田尻以上に長く滞在している。

文久3年(1863)晋作はここで敬親に騎兵隊結成を上申した。

幕府への武備恭順が決められ、

2ヶ月後にはそれを翻す倒幕方針が宣されるなど、

衆議が沸騰したのもここだった。

脳内をたまにひょうたん島にする  田中博造


         一力茶屋
「茶屋」

江戸時代後期には、寺社の門前、芝居小屋の周辺、

遊郭の内外などに、飲食や遊興、あるいは貸席などを業とする

「茶屋」が数多く生まれていた。

一方、政治の世界では、

勤皇派と佐幕派が激しい争闘を繰り広げていた。

「茶屋」をはじめ、「料亭」「旅籠」などは、

勤皇の志士ばかりでなく、幕府や諸藩の佐幕派の役人たちや

新撰組などに、秘密裏の会合を持ち、

情勢や人の動きなどの情報を交換し、

襲撃計画を立てたりするための場を、

提供するようになっていた。

重なっているので明日が見えにくい  大嶋都嗣子



   お茶屋街


諸藩と茶屋・料亭・旅籠などとの間には、

いつしか連帯関係が生まれ、「定宿」が決まっていった。
             うおしな
京では、長州藩の「魚品」(祇園縄手)、薩摩藩の「寺田屋」(伏見の船宿)

肥後藩の「小川亭」(鴨川東)、土佐藩の「曙亭」(清水坂)などである。
                       わちがい
新撰組は下京区西新屋敷の置屋・「輪違屋」を馴染みとしていた。

とはいえ、長州藩の久坂らが使った「角屋」「一力亭」などは、

新撰組も出入りしており、勤皇派・佐幕派を問わず、

さまざまな立場の人に場を提供していた。

図太くも賽銭箱で発芽する  筒井祥文

茶屋や旅籠に伝説を残した人物もいる。

寺田屋の女将・登勢は姉御肌で、体を張って志士たちを庇護した。

小川亭の主人・てい「勤皇ばあさん」と呼ばれて、

志士たちに信頼された。

玄瑞の馴染みの芸者・君尾は、一力亭で薩摩藩の西郷隆盛

新撰組の近藤勇を袖にしたというエピソードがある。

太目が好き細目が好きと使い分け  三好聖水


 翠紅館にかかる看板

「翠紅館」「送陽亭」
西本願寺が建物内の二つの部屋を提供された茶室・翠紅館は、
三条実美、桂小五郎、坂本龍馬ら、志士たちの会合に使用した。
文久3年1月27日には、土佐藩 武市半平太、長州藩 井上聞多
久坂玄瑞ら多数が集まり、
同年6月17日には、長州藩 桂小五郎、久留米藩 真木和泉守らが
攘夷や討幕などの具体的方策を検討。
京都・翠紅館内の送陽亭では、桂小五郎、武市半平太、久坂玄端
井上馨、真木和泉守が集まり、会合を開いている。

吊革をぎゅっと握ってアジア立つ  井上しのぶ


川柳集・『末摘花』初篇の挿絵に描かれた出合茶屋

もっとも有名な不忍池のほとりの出合茶屋は平屋だった。
座敷を池の上に張り出すように造作していたため、
当時の技術では二階建ては無理だった。

「出合茶屋」

出合茶屋は人目を偲ぶ男女の密会の場として使用された。

川柳や小咄では不忍池のほとりの出合茶屋が有名だが、

実際は江戸の各地にあった。

神社仏閣の門前など人が集まる場所に位置し、

目立たないようにひっそりと営業していた。

出合茶屋の構造は二階建てで、

入口を入るとすぐに二階にあがる階段があった。


 川柳集・『末摘花』

出合茶屋  あんまり泣いて  下り兼ねる

階段わきの小部屋に老婆が座っている。

無愛想でろくに目も合わせないが、

男女に決まりの悪い思いをさせないためだった。

客が煙草盆と茶盆を受け取って二階に向かうと、

老婆が履物を下駄箱におさめた。

客に煙草盆などを運ばせるのはあとから行って、邪魔をしないため、

履物を隠すのは、金を払わずに逃げるのを防ぐためである。

指定された二階の座敷にはすでに布団と枕二つが用意されていた。

あとは2人の世界である。

そんなところに挟んだらバレますよ  田口和代


岐阜県大垣市のお茶屋屋敷

お茶屋屋敷」

慶長14年(1609)徳川家康が上洛する際、中山道の要衝で、

徳川家開運の地であるお勝山の北方に、

自らが上洛の往復をするに当っての「お茶屋屋敷」を設置した。

設置は美濃国の諸大名に命じ、廻りには土塁や空壕が設置され、

宿泊施設であると同時に緊急時の砦、城郭の要素もあったという。

このお茶屋屋敷は、宿場の本陣の原型となったものという。

交通手段が徒歩に限られていた時代には、

宿場および峠やその前後で見られ、

これらを「水茶屋」「掛茶屋」と言い、

街道筋の所定の休憩所であった。

又、性風俗を売り物にする店は当時「色茶屋」と呼ばれており、

その頃は単に「茶屋」と言う場合にはこの「色茶屋」を指していた。

他にも、「引手茶屋」「待合茶屋」「出合茶屋」「相撲茶屋」

「料理茶屋」など、様々な名称の様々な営業形態の茶屋があった。

雲間から一部始終を見てた月  藤井孝作

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