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川柳的逍遥 人の世の一家言
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肋骨の中のレンジでチンをする  河村啓子


「天目山勝頼討死図」 (歌川国綱)

織田軍に攻められた勝頼は岩櫃城へ退くことを薦めた昌幸の言を退け、
小山田信茂の居城である岩殿城へ向かう。
その途中、信茂の裏切りに遭い天目山へ退去。そこで自刃して果てた。

「武田氏滅亡」

真田昌幸は天文16年(1547)真田幸隆の三男として誕生。

天文22年には、わずか7歳にして甲斐武田家に人質に出され、

以後は武田晴信(信玄)の元で暮らすことになった。

通常、人質というのは過酷な立場のものだ。

実家が裏切った場合などは、容赦なく命を奪われてしまう。

だが、昌幸の場合、かなり恵まれた環境であった。

信玄は早くから昌幸が父の幸隆に劣らない才覚の持ち主だと見抜き、

奥近習衆に取り立て寵愛した。

コップには水が空にはおれからが  徳永政二

信玄は6人いた近習を「耳効き」と呼んで重用。

なかでも昌幸曽根昌世の2人は「我が両眼である」とまで語っている。

昌幸は信玄の元でその薫陶に触れ、

武将としての器に磨きをかけていったことは疑う余地のないことである。

その後、もともとは外様であり、しかも人質であったにも関わらず、

昌幸は異例の出世を遂げる。

元亀2年(1571)頃、信玄の生母の実家である大井氏の支族である

武藤家の後継ぎがいなくなったため、昌幸が養子に入った。

そして武藤喜兵衛を名乗り足軽大将となったのだ。

その軍役は騎馬15騎、足軽30人である。

昌幸は父の幸隆、二人の兄である信綱、昌輝とともに、

「武田24将」に数えられていることからも、信玄の信任の厚さがわかる。

日が昇るなしのつぶての向こう側  筒井祥文


  真田昌幸

信玄が病死すると、昌幸は武田家を継いだ勝頼に仕えた。

長篠の戦い後は真田家を継ぎ、父や兄同様に武田家の上州支配を担った。

同時に勝頼の命に従い、「新府城」の普請にも携わっている。

この城は天正9年初頭頃から、築城が開始された武田家最後の城である。

昌幸は普請のための人夫を徴発している。

同年12月24日、勝頼は早くも府中の館から新府城に本拠を移している。

勝頼としてはこの城を中心に、本格的に領国である甲斐の経営に

乗り出すつもりでいたのだろう。

夜爪切る恙無き事祈りつつ  木村良三

しかし、翌天正10年(1582)に入るとすぐ、

織田信長による本格的な甲斐への侵攻が始まった。

勝頼は諏訪方面に出陣していたが、2月28日には新府城に戻ってきた。

だがすでに織田の大軍が間近に迫っていたため、

3月3日には、城に火を放ったうえ、

小山田信茂の居城である岩殿城へと退去する。

結局、勝頼は小山田信茂の裏切りに遭い、「天目山で自刃」

ここに名門大名家であった甲斐武田氏が滅亡したのであった。

この時、昌幸は勝頼に自らが守る「岩櫃城」へ籠もることを進言し、

籠城戦の準備を整えるために一足先に岩櫃城に戻っていた。

善人の耳をかすめた流れ弾  皆本 雅

勝頼の自刃を知った昌幸は、「武田の旧領は北条氏政が手中に収める」
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と考え氏政の弟である武蔵鉢形城主の北条氏邦と通じた。

だが予測に反して甲斐は河尻秀隆

信濃の佐久郡と小県郡は滝川一益が領した。

両名とも織田信長の重臣である。

そこで昌幸は信長に名馬を贈り、好を通じることにしたのだ。

こうして昌幸は信長に臣従し、信濃・小県郡内の所領と上野国内の

沼田領を領した滝川一益に従うことになった。

そうした矢先に、信長が本能寺で配下の明智光秀に謀殺されてしまう。

天正10年6月2日、「本能寺の大事変」である。

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        小山田信茂

小山田信茂の裏切りに関して、武田側の史料・『甲陽軍鑑』に拠れば、

勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬において、7日間逗留し

信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、

勝頼一行に対して、木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、
                          のぶたか
小山田八左衛門(信茂の従兄弟)と武田信堯(勝頼の従兄弟)が、

信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼に虎口から鉄砲を放ったという。

その後、織田・徳川勢により甲斐が平定された後、

信茂は、嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、

織田信忠から武田氏への不忠を咎められ、処刑された。

冗談はハミングほどがいいのです  山本早苗

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じいちゃんの影 東塔の相輪に  井上一筒


  武田信玄

「真田家の流れ」

真田氏の祖・滋野一族。
                      しげの
真田氏は上田盆地一帯を支配した滋野党の一員だった。

滋野党は平安時代前期に清和天皇の皇子・貞秀親王が、

海野平に土着した子孫だという。〔『真武内伝』『長国寺記』〕
                  つねかげ       じょうがん
一方真田家の家譜では、滋野恒蔭という人物が貞観10年(866)
ねず
滋野に土着したともいい、その後海野氏、望月氏、禰津氏に分かれる。

真田氏はこのうち海野氏の庶流で、鎌倉時代にはすでに一家を建て、

応永7年(1400)「大塔合戦」に参陣したことが知られている。

お地蔵さんに話す生まれた日のことを  墨作二郎

海野平合戦に敗北。箕輪城主・長野業政のもとに身を寄せる。

天文10年(1541)5月、甲斐の武田信虎が、

信濃の村上義清、諏訪頼重と連合して海野平に攻め込んだ。

海野平は一日で制圧され、真田郷を領した真田幸隆は、

3月11日、宗家の海野棟綱らとともに上野国へ逃亡する。

天文10年、幸隆、武田氏に臣従。

だが、天文12~18年初頭の間に信虎の子・信玄に召し出され、

信濃先方衆として土豪たちの調略に従事。 (天文16年昌幸誕生)

天文17年2月、上田原の戦いで信玄が、村上義清に敗北。

天文19年、幸隆、信玄より

「村上氏を攻略すれば小県郡諏訪形など、1000貫文を与える」

旨の書状を受ける。 

10月、信玄が再び義清に敗れる。 (砥石崩れ)


天文20年5月、幸隆、村上氏の砥石城を攻め取る。

トランポリン楽しむひとよ 雲わらう  八木侑子

つづいて、上野先方衆となり武田家の西上野の攻略に貢献。

信玄は外様の信濃国衆ながら真田父子(幸隆・幸隆の長男信綱、二男昌輝、三男昌幸)

をすこぶる厚遇した。


それは、村上義清や上杉謙信との戦いをはじめ、

信州平定過程での貢献を高く評価したからである。

信玄の晩年に成立したという武田家に残る書上には、

信綱200騎、昌輝は50騎を率いて、

信濃先方衆の筆頭に
位置づけられていた。〔武田法性院信玄公御代惣人数之事〕

兄弟合わせて250騎という軍団は、武田家臣でも一門衆や

有力譜代衆と同等かそれ以上である。

ねじ山がこわれて台風が生まれ  前中知栄


  真田昌幸

天文22年8月、三男・昌幸が、人質として武田家へ送られる。

昌幸は真田氏服属の証として、7歳で信玄の人質となった。

はじめ奥近習衆だったが、信玄は昌幸の明敏を見抜いて、

跡が絶えた甲斐の名族、武藤家の家督を継がせ、

武藤喜兵衛と名乗らせた。

その後、信玄は昌幸を奉行人に抜擢し、龍朱印状の奉者として、

大名武田家の行政の一翼を担わせている。

軍事面においても、先の書上では昌幸は足軽大将として、

騎馬30騎、足軽30人を預けられている。

(永禄10年(1567)信繁誕生)

剪定の枝は希望に満ちていた  安土理恵

元亀元年(1570)、信隆は隠居し嫡男・信綱に家督を譲る。

信玄の昌幸への信任を示した逸話として知られるのは、

元亀元年9月、信玄が伊豆韮山で北条軍と対陣したときのことである。

信玄が北条方と決戦する決意を示すと、重臣の馬場信春が、

「敵の様子や地形をご存じなくてはいかがなものか」

と疑問を呈すると、信玄は、

「安心せよ。わしの両眼のような者を遣わそう」 と答えた。
                                    そねまさただ
諸将が誰だろうと不審に思っていると、そのうち昌幸と曽根昌世

物見から帰ってきて、信玄に敵情を報告した。

信玄が懇切に指導しているのを見て、諸将が、

「彼らは弓矢巧者になるだろう」 と羨んだという。

目の上の瘤はやんわり咬んでおく  本多洋子

昌幸、養子に入っていた武藤家から真田家に服し、家督相続。

信玄は、親子二代にわたって真田氏を厚遇し、

とくに昌幸を我が子のように教え諭した。

天正3年(1575)、その謝恩に応えるかのように、

信綱、昌輝は「長篠の戦い」で壮烈な最期を遂げている。

兄2人が戦死すると、昌幸が真田家を継ぐ。

天正8年、昌幸、名胡桃城、小川城調略、沼田城無血開城に成功。

武力による攻撃もあれば、調略による無血の勝利もあり、

昌幸の戦い方は、父・幸隆の遺産であり、信玄の遺産であった。

生きるって思った以上に死闘です  清水すみれ


  武田勝頼

武田氏滅亡。 

天正10年、織田信長、徳川家康連合軍が三方から、

さらに、北条氏直も武田領に侵攻した。

信玄の嫡男・武田勝頼は3月11日、天目山麓の田野で自害する。

その後、昌幸は織田氏に臣従したが、

直後の6月2日に織田信長が本能寺にて、

急死するという事態が発生、旧武田領は無主の地として、

徳川氏、上杉氏、後北条氏の草刈り場と化した。
    じんご
「天正壬午の乱」と呼ばれる騒乱の中、昌幸は北条氏直に属し、

家康から勧誘されて徳川氏に寝返るなど、昌幸は生き残りを模索。

戦国時代における真田家のクライマックスの幕が開く。
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ごまよりも小さな虫がいるんです  三輪幸子

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ジェラシー風味なンよプロローグのコロン  山ろっ


   真田24将

「真田家ー遠望」

『智謀は七日の後れあり』

かの上杉謙信が、智謀の面で自分は後れをとっていると認めたのが、

真田幸隆であった。

信州の真田氏といえば、一般に知られるのは、知将・真田信繁(幸村)である。

しかし信繁の活躍は、祖父・幸隆、父、昌幸の存在なしにはあり得なかった。

武田信玄篤く信頼された幸隆。

その幸隆の鬼謀の才を受け渡され、信玄から軍略用兵の妙を学び、

精強徳川軍を撃退して独立大名に至った昌幸。

真田家のルーツはずっと古く存在するが、

明治へと続く真田家の歴史を形づけたのは、

幸隆と昌幸であることに異論を挟む余地はない。

「という時」のあなたの背骨  徳山泰子


     真田幸隆

天文10年(1541)、信州小県・真田の地を本拠としていた真田幸隆が、


「海野平合戦」村上義清・武田信虎らの連合軍に破れ、

故郷を追われたときを起点にして、真田家の名前が歴史の1ページに

登場してくる。

この時、幸隆とともに落ち延びたのが、縁戚関係にもあった海野氏宗家・

海野棟綱の一族で、彼らの多くは当時権勢を誇る関東管領・上杉憲政

を頼ったが、幸隆は、
        そくぶん
「信州で仄聞していたが、憲政がうつけたる大将だというのは間違いない。

   いかに関東管領の高位にあるとは、あまりにも事々しい。

   上杉家は危うく見える」

として、幸隆が最終的に頼ったのが、甲斐の武田信玄であった。

風を聴く心になってきましたね  森田律子

幸隆にとっては武田氏は武田信虎の代に村上義清とともに自分たちを、

故郷から追い払った仇敵である。

しかし、幸隆は、信虎を家中から放逐した信玄が、

杉氏を上回る勢力を持つこと、

また真田の地を占拠する村上義清と対立関係に入ったという情報を入手し、

失地回復の望みを信玄に託し帰属するのである。

やがて関東管領・上杉氏が没落し、武田氏が大躍進を遂げたことからも、

幸隆の眼力が正しかったことは、歴史が証明している。

方程式が生んだ答えにまだ何か  山本昌乃


     武田昌幸

幸隆の活躍もあり、真田氏は武田家家臣の中でも極めて特異な存在となる。

というのも、外様で真田氏ほど取り立てられた一族は、皆無だからである。

幸隆の三男が官僚機構を担う奉行を務めたのも顕著な例である。

この三男が武田昌幸である。

昌幸は当初、人質として信玄のもとに送られたが、

信玄の身の回りをする奥近習衆に取り立てられて、

頭角を現し、奉行を任されるに至ったのである。

信玄は昌幸を、「武田の宿老分にしたい」 とまで語ったというが、

幼い頃から、昌幸の将才は抜きん出ていた。

笑い声二重とびらの向こうから  合田瑠美子

そして昌幸は15歳の時、「第4次川中島合戦」で初陣を果たす。

初陣以後、昌幸は信玄の側にあって「風林火山」の実践を学んだ。

父・幸隆の戦略からは、調略による寡兵ならではの戦い方を覚えていく。
                                        みませとうげ
永禄12年(1569)10月、北条氏照との「三増峠の戦い」で、
                             ごけんし
昌幸は信玄より馬場信春隊に御検使として派遣され、

攻撃にも加わり一番槍の戦功をあげた。

翌元亀元年(1570)1月の「駿河花沢城攻め」では3番槍をつけている。

わたし臼あなたは杵でええ仕事  田口和代

天正元年(1573)4月、育ての親ともいうべき信玄が病没。

そして、信玄の後を追うように、武田家にあって譜代並みの待遇を受けた

幸隆が、その一年後62歳で死去。

真田家を相続をした長兄・信綱も「信州先方衆」のひとりとなり、

騎馬「200騎」を率い、「武田24将」に数えられた武将である。

信玄が没し、武田勝頼が家督を継いだが、信綱の真田家は安泰であり

昌幸は武田家に仕え重職の務めを果たすことに何ら変りはなかった。

逢える日の種なしぶどうを舌先に  奥山晴生


   武田勝頼

そんな昌幸の運命を変えたのが、

天正3年武田勝頼による「長篠の戦い」である。

威厳に満ちた信玄に比べ、勝頼の存在はやはり薄かった。

さらに直情型で一本気な性格は父に負けまいとする意識から、

強引な決断を下し、重臣の顔を曇らせた。

織田信長・徳川家康との「長篠の戦い」で、

重臣たちの撤退の主張を聞き入れず、大敗する。

勝頼は馬場晴信、山県昌景ら重臣の多くを一挙に失い、

真田家も長兄・信綱と次兄・昌輝が奮戦の末に戦死した。

この後、図らずも昌幸が真田の家を継ぐことになる。

力学のはじめ小豆の花咲けり  河村啓子

当主となった昌幸の任務は幸隆・信綱同様、上野に拠点をおき

吾妻領を支配する一方、甲府に出向き武田家奉行人として

朱印状発給に携わる「奉者」の重責を努め、
                      とうおみ
さらに勝頼の求めに応じ、駿河や遠江に出陣するなど、

昌幸の背負った責任は父兄にも増して、厳しく重かった。

しかし勝頼の器量では武田家のの軍事力は維持できず、急速に衰えていた。

戦い続けても好転する見込みは乏しい。

「武田家はやがて滅びるのではないか」

昌幸はそんな不吉な思いに駆られながら、勝頼を支えていかねばならない。

しかし、昌幸の思いは一つ、

幸隆が興した「真田家を守らねばならない」であった。

星のカフェ 星が星生む話聴く  西田雅子

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  天王寺での富突

現在の谷中天王寺(東京台東区)。天王寺は天保4年まで感応寺と称した。
当り番号が決まるのを見物する観衆が大勢描かれ、
富くじの盛んな様が伺える。



   富突用具

番号が書かれた札(右写真)が、天辺に穴の空いた箱に詰められ、
錐でついて当り番号が決められる。

「富くじ」
                            きり
時代劇を見ていると、木製の番号札(富札)を錐でついて、

当りを決めるシーンが出てくることがある。

その後、当り札をめぐって悲喜こもごものドラマが展開されるのが、

時代劇ではお決まりのパターンになっているが、

このイベントこそ、「富突」とも呼ばれた『富くじ』である。

富くじを興行できたのは、幕府の許可を得た寺社のみである。

そのため、富くじは富くじは「御免富」とも呼ばれた。


  江戸大富集(賞金が百両の記載が見える)

当りの最高額、つまり一の富についてみると、

千両から百両までかなり幅があった。

二の富、三の富のほか、一の富の前後賞や組違い賞まであった。

高額賞金に魅かれて、江戸っ子のあいだでは富くじは大人気であり、

最盛期には二日に一度くらいの割合で興行された。

特に感応寺、湯島天神、目黒不動の三ヶ所のが大変な賑わいをみせた。


    富 札  

富札の価格だが、寺社によってかなりのばらつきがある。

金一朱(一両の16分の1)、あるいは銀二匁五分(一両の16分の1)という

事例が多かったが、裏長屋住まいが多かった江戸っ子の立場でいうと、

奮発して一枚買うのがせいぜいだった。

現代の貨幣相場に換算すると、5千円前後だろう。

(現在宝くじ一枚300円が相場だから、結構高額である)

そのため、高額賞金を夢見て富札を数多く買いこんでしまうと、

やがては身代を潰すことになる。

身代だけでなく、みずから命を絶つものも出てくる。

借金までして富札を無理して買ったからである。

富くじが招いた悲劇が社会問題化することで、

幕府は富くじの全面禁止を決断する。

時に天保13年(1842)3月6日のことであった。

(さて皆様の10億円のジャンボ宝籤は如何だったでしょうか)

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「三猿」
                             しんきゅうしゃ  なげし
日光東照宮の神様に仕える神馬をつなぐ厩・『神厩舎』の長押の上に、
江戸初期の左甚五郎作と伝える16匹の猿が彫られている。


(1)幼児時代
子猿の将来をみるように、母猿が手をかざして遠くを見つめている。
全てに興味を持つ子猿は怪訝な表情で、母猿の顔をのぞき込んでいる。


(2)幼年期
悪いことを見たり、言ったり、聞いたりしないで、良いものだけを受け入れ、
素直な心のまま成長せよという。(耳、口、目を押さえた三匹の猿)


(3)独り立ち
独り立ちする時期に、呆然と未来を見つめ、何を考えているのだろう。
不安と夢が交錯しているのだろう。



(4)青年期

口元をきっとしめ、大きな志を抱いて大天を仰ぐ。
右の青い雲は「青雲の志」を表していると言われている。


(5)挫折と慰め
人生、楽なことばかりはない、挫折すること、悲嘆に暮れることもある。
そんな時も励まし、慰めてくれる友や仲間がいる。


(6)青春謳歌
若い猿にも、やがて青春を謳歌する季節がやってくる。
物思いに耽ったり、はしゃいだり、それが恋なのである。


(7)結婚
二人は夫婦という契りを交わす。そして様々な荒波と出会うだろうが、
手を携えて、乗り越えて行かねばならないと教えている。


(8)堕胎
様々な経験を積み、やがて次の世代の子供を宿し、
あの子どもだった猿も母猿になる。へと戻る。


『論語』の一節

【非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動】


「礼にあらざれば、視るなかれ、礼にあらざれば、聴くなかれ、

   礼にあらざれば、言うなかれ、礼にあらざれば、おこなうなかれ」

こうした「不見・不聞・不言」の教えが8世紀ごろ、

天台宗系の留学僧を経由して、日本に伝わったという。

三猿のモチーフは、「庚申信仰」の伝播とともに、

近世以降広く用いられるようになり、主尊の青面金剛を描く際、

その足元に「三猿」が添えられた例が多い。

また庚申塔にも多く「三猿」が彫り込まれている。

天台宗は比叡山の鎮護社の日吉大社と密接な関係にあり、

日吉大社を本尊とし、猿を神使とする山王信仰が、

庚申信仰と習合した結果ともいう。


鎌倉時代の説話集『沙石集』に、

「言ハザルト 見ザルト 聞カザル 世ニハアリ思ハザルヲバ イマダ見ヌカナ」

(言わない、見ない、聞かないは口と目を閉じ、耳をふさぎさえすれば、

   出来るが, 「思わない」のは、至難の業だ)という歌がある。

                      (ウィキペディア参照)




今年一年有難うございました。

さる年もどうぞよろしくお願いいたします。

                      茶助

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