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川柳的逍遥 人の世の一家言
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思いはその人に寒暖計下がる  森中惠美子

 

「八重と襄‐結ばれる」

「幕末のジャンヌ・ダルク」と讃えられるほどの武勇伝を

のこした八重は、明治4年8月に兄・覚馬を頼って京都に行き、

いち早く英語を学んで洋装のモダンレディへと変身する。

日本は明治5年に「キリシタン禁令」を解いたが、

それは諸外国の圧力をうけて黙認したというにすぎない。
           いてき
人々が「夷狄」とよんでおびえている外国人とつきあい、

宣教師から聖書まで習っている八重の大胆不敵さに、

保守的な京都人は腰をぬかさんばかりに仰天した。

さざなみへ石を投げてはいけません  北川ヤギエ

そうした八重の、向こう見ずな女傑ぶりに惹かれて

プロポーズしたのは、アメリカ帰りの新島襄である。

八重は洋学者・川崎尚之助と一度結婚をしているが、

八重が新島と出会ったときには、

すでに川崎尚之助は病死していたから、

二人の結婚に障害となるものはなかった。

夕日にも予防注射しておいた  井上一筒

 
                            どくりつふき
襄にとって八重は、まさに「独立不羈」の魂を持った女性だった。
      
「政府や国家に依頼心を持たず、独立不羈の一己の見識と

  品格に基づいて、天地に恥じない『一国の良心ともいうべき者』 

  であり、そのような者は、キリスト教の普遍的真理に基づく

  徳育により養われる」

これが新島襄の考える近代国家を支えるべき人間なのだ。

独立不羈=どこからも何の束縛も制約も受けることなく、

        自らの考えに従って事を行うこと。

鍵のないドアで自由が出入りする  河村啓子

しかし、いくら英語を学び、キリスト教に感心をもっていたとしても、

相当の覚悟と勇気がなければ、

クリスチャンとの結婚には踏み切れない。

八重だからこそ受け入れたのだ。

明治9年1月に、八重は京都で初めての洗礼をうけ、

新島襄とキリスト教による結婚式をあげた。

凶のみくじはコヨリにしておこう  山本昌乃



明治9年1月2日、襄と八重のキリスト教式の結婚式が行われた。

これは京都では初めてだった。

2人とも洋装で、襄はフロックコート、八重はドレス姿。

参列者は家族、宣教師、同志社の学生たち10数人で、

質素なものだった。

襄が32歳、八重は30歳だった。

R30指定手前の固結び  酒井かがり

そして襄と共に理想の教育実現に全力を尽くしていくこととなる。

八重はキリスト教の洗礼を受けたこともあって、

女紅場を免職されるが、

結婚後、同志社女学校の設立に力を注いだ。

また、襄の理想に従い、

西洋的な「レディ」の生き方を実践してみせた。

洋装し、夫を「ジョー」と呼び捨てにし、一緒に並んで人力車に乗る・・・。

そんな態度は、京都の人々には決して理解されるものではない、

同志社の生徒たちからすら白眼視された。

くるぶしの辺りを騒いでいるカモメ  森田律子

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方程式を研ごう答えがひかるまで  たむらあきこ

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「会津の女」⑤-高木時尾

高木時尾は弘化3年(1846)

会津藩大目付・高木小十郎藤田克子の長女として生まれる。

山本家の隣家、高木家の長女で八重の一つ下の幼なじみ。

祖母は盲目ながら、大変器用で裁縫を得意とし、

八重や日向ユキと三人でその祖母から裁縫を習った。

時尾の母・克子は藩内でも評判の美人であったが、

その血をうけて時尾は才色兼備を謳われ、

藩主・松平容保の義姉・照姫の祐筆に抜擢された。

私だけ照らすひかりにやっと逢う  真鍋心平太

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会津戦争では照姫に従って籠城戦に加わり、

男装する八重の髪を切る。

会津城開城後は斗南に移住し、そのとき、

会津藩若年寄を務めた倉沢平治右衛門の養女となった。

明治7年、元新選組隊士であった斉藤一(藤田五郎)と結婚。

時尾28歳、斉藤30歳である。

東京での挙式は、上仲人を松平容保、

下仲人を山川浩、佐川官兵衛がつとめた。

改札を抜けて涙を折りたたむ  岡本 恵

住居は東京・本郷にあり、藤田は警視局に勤務。

明治9年に長男・

西南戦争を経て次男・、三男・龍男が誕生。

藤田は明治24年に退職し、のち、

東京女子高等師範学校の庶務係(警備職)として奉職。

これを機に、自宅の二階に女子学生を寄宿させ、

時尾は礼儀作法などをしつけた。

寄宿生のひとり西野みどりが勉と結婚。

明治42年には初孫にも恵まれた。

ちょい悪を手玉黄色いさくらんぼ  北川ヤギエ

大正2年、会津若松にて、会津戦争の戦死者を

埋葬した阿弥陀寺墓地への寄付が募られると、

時尾は「若松外発起人」の総代となって活動している。

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阿弥陀寺の藤田五郎と時尾の墓

会津戦争の戦死者埋葬に尽力したため、

時尾は墓所の一角を譲り受け、

その場所に夫妻の眠る墓がある。

藤田71歳、時尾74歳で没した。

結末はハッピーそっと本閉じる  三村一子

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一枚のコピーで人を売り渡す  森中惠美子

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 襄密出国時の姿 (画面をクリックすると拡大されます)

「ハンサム・ウーマン」

新島八重のニックネームとして「ハンサム・ウーマン」

定着しつつあるが、

八重のことを最初にハンサムと称したのは、

実は二番目の夫となった新島襄だ。

襄は恩人に宛てた手紙の中で、

結婚を報告するにあたり、八重について、

「彼女は決して美人ではない。

  しかし、生き方がハンサムなのだ」


と書いている。

よく弾む毬をときどき持て余す  山崎美千代

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  23歳頃の襄

京都の名門・同志社大学(同志社英学校)を設立しただが、

八重と同様に、もとは京都の人ではない。

安中藩(群馬県安中市)出身の祐筆(秘書)の家に生まれ、
         し め た
幼名を七五三太といった。

彼もまた江戸で蘭学を学んで海外に興味を持ち、

『ロビンソン・クルーソー』の日本語訳版を読んで、

挑戦心にかられ、アメリカへの密航を決意。

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歯車が合って明日が動き出す  寺島洋子

襄は幕末の元治元年7月、箱館からアメリカに密航した。

その際に乗船したワイルド・ローヴァー号の

船主・ハーディー夫妻の援助を受けて進学し、

明治3年にはアーモスト大学を、

さらに明治7年には、アンドーヴァー神学校を卒業。


同時にキリスト教の洗礼も受けた。

この経験を通して襄は、

「欧米文明の基礎は、国民教化にある」


との確信を抱くようになる。

襄の名前が生れたのは、密航の船上で、

「ジョー」と呼ばれていたことから改名したものである。

少しづつ動くわたしの座標軸  たむらあきこ

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     襄がアーモスト大学時代に学んだノート

その後、正式な日本の留学生として認可され、

岩倉具視の使節団が訪米した際には、

語学力を買われて通訳として同行している。

帰国を果たし、教育者としての道を進みだした襄は、

キリスト教の伝道と近代学問を教える学校の設立を目指す。

その際に紹介されたのが山本覚馬で、

宣教師・ゴードンの家で、八重は襄と初めて会う。

花束の語尾にかすかな静電気  美馬りゅうこ

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襄はこの頃、自身の結婚観について、

「亭主が東を向けと言えば、

  3年でも東を向いている東洋風の婦人はごめんだ」
と。

西洋文化の中で成長した襄にとっては、

つつましい日本女性よりも

自己主張の強い西洋的な女性を理想としていたのだ。

それを知った京都府知事の槇村正直が、

うってつけの女性として、

彼に改めて紹介したのが八重だった。

水色の耳垢だけが取れました  井上一筒

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襄と八重の初めての出会いはゴードン家の玄関

ゴードン家で靴を磨いていた襄を八重はゴードンの書生と勘違いする。

正直は、「女紅場(女学校)の補助金を増額しろ」

とたびたび八重に押しかけられ、

その自己主張の強さにほとほと手を焼いていたのだ。

逆立ちが出来なくなった太郎さん  大森一甲

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襄が八重と結婚を決意したのは、

ある暑い夏の日に知人の家で再会した時のこと。

八重は、井戸の上に渡した板の上に腰かけて、

裁縫をしていた。

板が折れてしまえば大ケガは避けられない。

その大胆な振る舞いに襄は感心し、八重と婚約。

八重もキリスト教に入信し、

同志社英学校設立の翌年に二人は夫婦となる。

夫婦仲は大変によかったという。

それは、レディーファーストが当たり前の西洋文化を、

身に付けていた襄自身が妻に望んだことなのだ。

狙いますあなたのハート鷲摑み  藤内弥年

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鮟鱇の提灯ひとつこの旅路  ふじのひろし

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西南戦争時の斉藤の写真 (前列右が斉藤)

「斉藤一」

斎藤一という名前は、新選組全盛期時代の名前で、

何度も改名している。


(山口一~斉藤一~山口二郎~一戸伝八~藤田五郎)

謎が多い男である。

彼の生き方の中にある軸は、「愚直である」ということ。

純粋に何かを成したいと思っているが故に、

眉ひとつ動かさずに人を殺す、

汚れた仕事を平然として為した冷徹な人物だとされる。


ある日ある時カビから生まれ人間に  谷垣郁郎

幕末の文久3年(1863)春、

庄内藩士・清河八郎の発案により、

将軍・家茂上洛の警護の為に浪士が集められる。

一行は「浪士組」として京を目指すが、

「浪士組を天皇配下の兵にする」という清河の計画が発覚。

浪士たちは江戸へ戻ることに。

しかしその中で、壬生・八木邸を宿所としていた芹澤鴨

近藤勇ら、13名は浪士隊から分かれて京に残り、

「壬生浪士組」を結成する。

クモの巣に捕まってからお友達  森 茂俊

(13名とは、芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、

新見錦、原田佐之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、


平山五郎、平間重助、永倉新八 である)


そしてまた同日、斎藤一を含めた11人が入隊し、

京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなった。

造花を飾るあさっての式次第  筒井祥文

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斉藤は新選組幹部の選出にあたり、

20歳にして副長助勤に抜擢される。

のちに組織再編成の際には三番隊組長となり、

沖田、永倉らとともに撃剣師範も務める。

沖田総司、永倉新八と並び、

新選組最強の剣客の一人であった。

永倉は弟子に、

「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」 と語っている。

人間の都合で仕分けされる虫  三村一子

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戊辰戦争では、新選組を率いて会津へ。

敗戦の色が濃くなった後も、会津にこだわり戦い続けた。

斉藤ら新選組は会津藩の指揮下に入り、

白河口の戦いや母成峠の戦いにも参加した。

敗戦により若松城下に退却。

土方と合流したのは、この退却の最中、猪苗代でのことだった。

いつからか拳の中の一人旅  くんじろう

その後、土方らは庄内へ向かい、

大鳥圭介ら幕軍の部隊は仙台に転戦したが、

斎藤は会津に残留し、

会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けた。

9月22日に会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、

容保が派遣した使者の説得によって投降した。

壁のないカベかも知れぬグイと押す  本多洋子

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降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、

会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送った。

明治維新後、八重の幼なじみの高木時尾と結婚する。

時尾との間には、三人の男子を儲けている。

漁火が海を銀河に変えてゆく  竹内いそこ

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風もないのに揺れてしまったココロ  森田律子

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八重と同志社女学校の教え子たち
                        (画像は拡大してご覧ください)
「八重と襄の出会い」
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慶応元年、アメリカ・ボストンに渡った新島七五三太(襄)は、

日本において国民教化を進めるべく、

明治7年に帰国。そのまま「米国伝道会社」に所属し、

宣教師として布教活動を行う。

大阪や神戸から伝道活動への協力を求められた襄は、

キリスト教と近代科学を教える学校を設立したかった。

しかし大阪府知事は、学校設立は容認するが、

キリスト教主義の学問や宣教師を教師に当てることを禁じ、

学校設立は暗礁に乗り上げてしまう。

山門があり遊郭があり梅雨があり  くんじろう

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しかし、大阪にいた木戸孝充らの援助で、

京都の大参事・槇村正直と知り合うと状況が変わる。

一度は諦めた大学設立を京都で行うことになる。

やがて、襄は槇村の知恵袋のような存在だった

覚馬と知り合い、そして、のちの妻となる八重と出会う。

八重は、兄・覚馬に勧められて、紅場の勤めが終わると、

木屋町のアメリカ人・ゴルドン宅に行き、

聖書と英語を学んでいた。

余っても時間は明日に回せない  牧浦完次

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     新約聖書

八重や覚馬がキリスト教に関心を持つきっかけを作ったのも、

宣教師・ゴルドンの家でのことであった。

八重が聖書を習いにゴルドン家を訪れた時、

ゴルドンの靴を磨いていた新島襄に出会うのである。

ある日、玄関で靴を磨いている男を見た。

一見、ボーイと思ったが、ゴードン夫人から、

「宣教師の新島襄」と紹介された。

身の上をしずかに語るほうれい線  八上桐子

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明治8年5月、襄と八重の初めての出会いだった。

八重と襄はしばらくの間は、

お互いを意識することはなかった。

が、最初に相手を意識したのは襄の方だった。

ある時、襄は京都府知事の槇村に、

「君はどのような妻君を迎えるのか」

と問われると、襄は

「亭主が、東を向けと命令すれば、

  三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」


と答えた。 すると槇村は、

「それなら、ちょうど適当な婦人がいる。

 山本覚馬の妹だ。

  度々私のところに女紅場について難しい問題を持ちかけて、

  私を困らせているのだ」


と語った。

ストレートな人だきっと馬が合う  佐田房子

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そんなやりとりがあった後の、ある夏の日のこと。

覚馬を訪ねた襄は、井戸の上に板を渡し、

その上に座って涼みながら縫い物をする八重に出会う。

襄が、覚馬に危ないと促すと、

「妹は大胆なことをする」 と取り合わなかった。

そんな姿を見て、襄は八重に惹かれてしまう。

落ちそうですよ幅十センチの海  森 茂俊

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襄はアメリカのハーディー夫人への手紙で、

『彼女は見た目は決して美しくはありません。

  ただ、生き方がハンサムなのです』


と書いている。 また実の父には、

『日本はいないかもしれない女性』

と綴っている。

そして、この年の10月、2人は婚約する。

凸レンズで覗く結実の経過  井上一筒

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 教科書(裁縫の手引き)

しかし、その直後、八重と襄、覚馬は職を失う。

八重は女紅場を解雇され、

覚馬は京都府顧問を罷免され、

襄も博物館ご用係を辞めさせられた。

京都という土地柄、

仏教界の圧力で3人の行動は、

「英語教育やキリスト教を布教する学校設立だ」

と懸念されたのだ。

なるようにしかならぬもの ちぎれ雲  新川弘子

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