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川柳的逍遥 人の世の一家言
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幻覚の馬は石臼で挽かれた  井上一筒

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平家物語「朝敵揃えの事」

福原の自邸で頼朝挙兵の報告に激怒する清盛

(画面は拡大してご覧下さい)

「治承4年(1180)のこと」ー以仁王の反乱

2月20日 大輪田泊の修造が認可される。

2月21日 高倉天皇が上皇となり、高倉院政の開始。

かわって3歳の安徳天皇が践祚(天皇の位を受け継ぐこと)し、

藤原基通を摂政とした。

ここに清盛の血統が皇位を継承する体制が確立した。

ピカピカのブランド着た日は疲れます  梅谷邦子

3月17日  

高倉上皇が清盛の妻・時子の八条邸に入る。

高倉院の退位後初の社参として、

厳島に参詣する予定であったが、

園城寺・比叡山・南都の大衆が、

後白河院と高倉院を奪取、

両院の御所を警固して、御幸は3月19日に延期された。

≪従来の院は、退位後の社参で、京近辺の神社に参詣しているため、

 京近辺の神社よりも、厳島神社を重視するという宗教秩序の改変に

 つながる計画に対して、大衆は抗議の意を示したのである≫


指きりの語尾の辺りの生返事  美馬りゅうこ

3月20日~3月26日 清盛、高倉上皇を厳島に迎える。

(上皇一行は福原で清盛と別れ、4月8日帰洛)

4月22日  

安徳天皇即位式が紫宸殿で行われた。

しかし水面下では、

すでに4月9日に、後白河院の第2皇子・以仁王が、

「清盛追討」を呼びかける令旨を、

八条院蔵人となった源行家に命じて諸国に発していた。

感情の正面衝突おお危な  柴本ばっは

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高倉宮跡(以仁王の御所があった)

「以仁王」


以仁王は仁平元年(1151)

後白河天皇と藤原季成娘・成子の間に生まれた。

高倉院のライバルとなることを危惧した建春門院等の、

圧力により、親王宣下を得られなかった。

その後以仁王は、天台座主・最雲に預けられたが、

応保2年(1162)の最雲の死去により、出家しないまま、

永万元年(1165)12月に人目を忍んで元服し、

八条院の猶子となり彼女の支援を受けていた。

さらに安徳天皇の践祚により、

以仁王が天皇となる可能性はほぼなくなっていた。

髭も髪も白優勢となるオセロ  村岡義博 

5月10日、清盛が急遽上洛し、翌日には福原に下向した。

当日の京は騒がしかったというが、

それは以仁王の「謀反」が露顕したからである。

吹雪襲来わたしがなにをしたという  夏井せいじ

5月15日、以仁王の乱が発覚し、

臣籍降下・土佐国配流を決定する。

しかし、検非違使・源光長・源兼綱が以仁王の、

三条高倉邸に到着した時には、

以仁王はすでに園城寺に逃亡していた。

その後数日間、以仁王の捜索を続け、

5月18日、園城寺に以仁王の引き渡しを命じたが、

悪僧たちは拒否した。

≪園城寺悪僧・律上房は、下総の武士・千葉常胤の子息であった≫

目を閉じて見えてくるのは過去ばかり  笠原道子

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「芳年武者无類(ぶるい) 源三位頼政」

平等院境内で頼政は自決する

5月21日、平宗盛以下9人の平氏一門と源頼政で、

23日に、園城寺を攻めることに決まったが、

同日夜には、源頼政と仲綱・兼綱等の子が、

軍勢を率いて、以仁王に合流した。

頼政の養子兼綱も、15日に以仁王邸を捕縛に向っていた。

そんな彼らが、以仁王方として動いたことは衝撃であった。

≪以仁王が逃げおおせたのは、

    彼らが事前に内部情報を伝えていたからであろう≫


歯車の一つがダダをこねている  嶋澤喜八郎

5月22日、比叡山の大衆300人が以仁王に与力し、

大和の興福寺衆徒も蜂起したという情報が京に伝わった。

5月23日頃には、天皇の行幸、院の御幸に合わせて、

官兵が、洛中の諸人を引率して、

福原に下向するという風聞もあった。

5月25日には、

天台座主・明運が比叡山に登り、

叡山僧に園城寺を攻めるよう伝え、過半が承諾した。

叡山が頼れないとなった以仁王らは、

5月26日未明、園城寺から南都に向った。

足し算の途中で夕陽が沈んだ  森田律子

5月26日、以仁王等の脱出を知り、

平氏家人で検非違使の藤原景高・忠綱・兼綱

300騎を派遣した。

景高等は、宇治の平等院で以王に追い着き、

合戦して源頼政とその男仲綱・兼綱を討ち取った。

藤原景綱等が出撃した後、京で平宗盛と相談して、

平重衡・維盛が主力を率いて宇治に向ったが、

すでに合戦は終っており、

彼らは敵軍の首を見たのみであった。

こうして以仁王の乱は、鎮圧(宇治川橋合戦)

清盛、福原から上洛。

方程式狂って影を切り刻む  上田仁

宇治平等院境内の塔頭最勝院にある頼政の墓

5月28日、高倉上皇を自邸に招き、

源頼政の首を実見に供する。

5月30日、以仁王・頼政追捕の賞で、

清宗(三男・宗盛の長男)が従三位に叙任される。

「福原潜幸」が6月3日と決定する。

『平家物語』は、

源頼政が、子息・仲綱が平宗盛に侮辱されたことを怒り、

以仁王に挙兵を勧めたとする。

しかし、政治的立場を考えれば、

以仁王こそが、反平家活動の起点であり、

養母・八条院に祗候していた頼政を動員した、


と考えるべきである。

裸一貫惜しいものはなにもない  前中知栄

拍手[4回]

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そのままで雲は移ろいゆくアート  新家完司

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          福原遷都

以仁王が寺社勢力と組んで反乱を起したため、

清盛は福原に遷都を断行する。


(画面は拡大してご覧下さい)

「福原遷都への総括」

日宋貿易は後白河にも多大な恩恵を与えている。

畿内まで宋船を入れる許可を下すだけで、

清盛から捧げられてくる謝礼も、莫大なものとなった。

しかし、福原の別荘に居館を移して以来、清盛は、

あたかも陰の上皇であるかのように振る舞っている。

後白河法皇を中心とした院の勢力は、

こうした清盛の肥大を、好まなかった。

てっぺんに登ると見えぬものもあり  河村啓子

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「この国を統べる者は一体誰だと思うておるか」

後白河の憤懣は、8年後の安元3年(1177)に,

「鹿ケ谷の陰謀」となって奔出した。

延暦寺の大衆との軋轢が嵩じ、

左大将の平重盛と右大将の平宗盛に対して、

武力討伐を命じたものの、

「清盛公の指示がない限りは動けない」

と拒絶されたことから、

遂に「平家打倒の謀議」を凝らしたものだった。

癇癪玉なら何発も打ち上げた  高橋謡子

だが、院近臣の藤原成親・西光・俊寛などから、

平家討伐の大将に望まれていた摂津源氏・多田行綱が、

裏切り、京にある清盛の西八条邸へ駆け込んで、

密告したことから、露顕したのである。

かくして事件関係者のあらかたは処罰された。

が、後白河だけは処分されなかった。

胸底の礫低温火傷する  荻野浩子

そのため、2年後にまた別の事件が生じた。

治承3年(1179)の政変。

清盛による武力革命である。

事の起こりは、後白河の清盛に対する報復行為だった。

摂関家へ嫁いでいた清盛の娘の白河殿・盛子が急逝し、

重盛が病を患って死去したのだが、

その知行地を後白河法皇が、

何の前触れもなく没収したのである。

患部から出るのが好きな奇人変人  山口ろっぱ

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この処置について怒髪天を衝いた清盛は、

六千騎という尋常でない数の兵力を擁して上洛し、

院政を止めさせた。

「もはや後白河を野放しにしておくことはできない」

と考えたからだ。

後白河は京の南にある鳥羽離宮へ幽閉されたが、

事件の処置は、それだけではない。

おどり食い喉を過ぎるころ臨界  松原末湖

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常に自分の周りには自分が殺した者たちの怨霊や,

源氏の呪縛がつきまとい、神経が休まることがなかった清盛


後白河の第3皇子の以仁王も所領を没収され、

関白の藤原基房が大宰府へ配流された他、

太政大臣の藤原師長をはじめ、

39名の公卿や殿上人などが、

一気に官を解かれてしまったのである。

肉食の顔で雑草抜いている  毛利由美

こうして清盛は、おのが手に国家の実権を握り締めた。

ただ、この強引な権力奪取は新たな問題を生んだ。

基房の配流に異を唱えた興福寺

後白河と密接な絆を持った園城寺などとの確執である。

とはいえ、元より清盛は、仏敵ではない。

出家したのも、寸白による高熱に魘された折の

奇蹟的な快癒は、仏法に護られたためであると思い、

その謝意を表すには、

仏教に帰依するのが良いと、判断したからである。

大根の白あくまでも平和主義  新川弘子

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  福原怪異

厳島神社への篤い信仰心を見ても解ることながら、

常より神仏を敬い仏法を尊んできた。

後に南都の焼討が行なわれて、

東大寺などの大伽藍を灰燼に帰させてしまったのも、

家の子の狼藉は、おのが責任であるとし、

自ら悪逆の汚名を着た結果であろう。

「度の過ぎた家族への愛着が為してしまったもの」

と言っていいが、清盛にしてみれば、

「家族を罪に陥れるよりも、己を穢させる方がよい」

と言ったところだったのだろう。

真夜中の神と卵は同じ罪  定金冬二

ところが、興福寺や園城寺といった寺社は、

清盛の信心などどうでもよく、

ひたすら旧来の朝廷と結託して、

平家との対立姿勢を深めていった。

かのように旧態依然とした都で、夢が語れるものか。

清盛は数珠を振り上げ、

「福原へ都を遷す」 と叫んだ。

マテ貝は泣きだすぼくは手を合わす  湊 圭史

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    厳島神社神殿

いまだ大輪田泊は修築工事の真っ最中だったが、

都や港の完成を待っていたのでは、

何の進歩も発展もない。

天皇家すらも意のままになるような立場となった今、

日宋貿易は平家の私貿易ではなく、

国家事業とできる。

ならば、福原に政事の機能を全て遷してしまった方が好い。

大宋国と対等となるような海の都を築くのだ。

かくして、治承4年(1180)6月2日、

行幸が行なわれるとともに、行宮もまた置かれた。

平安京が築かれて以来、実に386年ぶりの遷都である。

浮気ならしましょうスープ皿をあけ  森中惠美子

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(べに)引くと生きてゆく気がする不思議  時実新子

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       白拍子

「白拍子」とは、平安末から鎌倉期にかけて大ブームとなった舞姫である。

水干(すいかん)、烏帽子に白鞘巻(しろさやまき)の太刀をさした男装で、

当時の流行歌謡である「今様」を歌いながら舞う男舞で、

鎌倉時代の朝廷には遊興のときに、

白拍子を集める
「白拍子奉行人」なるポストまであったという。

わたくしは遊女よ昼の灯を点もし  時実新子

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  静御前

徒然草によると、平治の乱で犠牲となった信西入道が、

舞女のなかから、特に芸道の熱心なものを選び、


磯禅師に教えて舞わせたのが始まりで、

それを娘の
が継いだのであるという。

静とは、いうまでもなく
源義経の愛妾であるが、

静こそ白拍子の正統の継承者であり、

義経を慕う歌を歌いながら舞う姿に、

並みいる御家人たちが、感動をもよおしたという。


(画面は拡大してご覧ください)

一月に生きて金魚の可能性  時実新子

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       祇 王

「祗王・祗女」

平家物語によると祗王・祗女の姉妹は、

都で評判の「白拍子の上手」だった。

この芸が時の権力者・清盛の目にとまり、

姉の祗王は邸に迎えられて、寵愛を受けるようになる。

清盛はふたりの母・とじにまで家をつくって与え、

毎月米百石に銭百貫文を送ったという。

清盛の祗王への執心が増すにつれ、

祗王の名声はますます高まり、

祗王にあやかろうと「祗」の字をつけた白拍子が急増した。

二ン月の裏に来ていた影法師  時実新子

それから3年ほどたったころ、

またしても白拍子の上手が現れた。

加賀生まれの16歳で名を(仏御前)という。

たちまち都の人気者となった仏は、

「天下に名前は知れ渡ったけれども、

 今をときめく太政入道殿に召されないのは残念なこと」


と思い、自ら清盛の西八条邸を訪れた。

三月の風石に舞うめくるめき  時実新子

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しかし清盛は、

「遊び女は呼ばれてから来るものだ。祗王がいる以上、

  神も仏も出入りは無用、さっさと帰れ」


と追い返そうとする。

それをとりなしたのが祗王だ。

「呼ばれなくとも参上するのが遊び女のならい、

 すげなく追いかえすのは同じ白拍子として、

 可哀そうでなりません」


といってとりなした。

四月散り敷いて企み夜になる  時実新子

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それならばと、清盛が仏を招いて歌い舞わせたところ、

これが祗王に勝るとも劣らない、至高の芸であった。

清盛はたちまち仏に心を移し、西八条にとどめようとする。

慌てたのは仏である。

「祗王御前のとりなしで舞を見ていただいたのに、

 邸に召し置かれたら祗王御前はどのように思うでしょうか」


と固く拒んだ。

ところが清盛は、

「祗王をはばかるならば、祗王を追い出そう」

といって祗王を邸から追いたてたのである。

美しい五月正当化す別離  時実新子

噂を聞き伝えた都人たちは、

それならば祗王を呼んで、

遊んでみようとしきりに使いを送ったが、

いまさら人に芸を見せる気にもならない。

そんなある日、

傷心の祗王のもとに西八条から使いがやってきた。

「仏が退屈そうだから邸にきて舞をみせよ」 という。

六月の雨まっさきに犬に降る  時実新子

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あまりの仕打ちに祗王が返事をしないでいると、

重ねて清盛の使いがやってきて、

「どうしても来ないならこちらにも考えがあるぞ」

と威しをかけた。

「都を追い出されるのはつらい」

という母の言葉に背中を押され、

しぶしぶ西八条へ出頭する祗王。

七月に透ける血脈陽を怖れ  時実新子

清盛の前に姿を現した祗王は、涙をおさえて、

「仏もむかしは凡夫なり、我等も終には仏なり、

  いづれも仏性具せる身をへだつるのみこそかなしけれ」


と歌った。

〔仏もむかしは人であった。我々も悟りを開けば仏になる身である。

  いずれも仏性をもっているのに差別されるのは悲しい・・・〕


仏と仏御前をかけて、

このように悲しみを歌に託したのである。

八月の蝉からからと完(おわ)りける   時実新子

これを見て、平家一門の公卿、殿上人、家人にいたるまで、

涙を流さない者はいなかったが、

清盛だけは彼女の心のうちに気づかず、

上機嫌で、

「舞も見たいが今日は忙しい。

  今度は呼ばれなくてもくるように」


と命じるのだった。

脈うつは九月の肌にして多恨  時実新子

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悔しさに打ちひしがれて、泣く泣く家に帰った祗王は、

「これほど辛い目にあうくらいならいっそ死んでしまいたい」

と打ち明けたが、

「娘に死におくれ、生きながらえてもしかたない」

という母の言葉を受けて、ようやく思いとどまる。

そして親子三人は、髪をそって尼となり、

嵯峨野の奥に庵を結んで、念仏三昧の日々を送り始めた。

祗王21歳、祗女19歳であった。

十月の藍の晴着に享(う)く光  時実新子

ところが、その年の秋、意外な人物が庵を訪れた。

いつものように三人が念仏を唱えていると、

竹の網戸を叩くものがいる。

仏道修行を妨げる悪魔が来たのかと思いながら、

恐る恐る戸を開けてみると、

立っていたのは何と仏御前であった。

あくまでも白し十一月の喉(のんど)かな  時実新子

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      祇王寺

仏は、

「いずれ自分も同じ身になると思うと,

  嬉しくありませんでした。

  この世の栄華は夢の夢、一時の楽しみに誇って、

  来世の幸福を得られないのは悲しいとおもい、

 邸を出てきました」


といい、被っていた布をとるとすでに尼姿になっていた。

それから4人は、一緒に念仏を唱えながら日を送り、

ついに極楽往生の本懐を遂げたのであった。


(うてな)=極楽に往生した者の座る蓮(はす)の花の形をした台

極月のてのひらなれば萼(うてな)です  時実新子

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影があるかと振り向いてばかりいる  森田律子

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       源行家


新宮十郎行家(源行家)は、

源氏の総帥・
八幡太郎義家の孫であり、源為義の十男である。


「新宮十郎行家」

為義後白河院の熊野御幸に検非違使として随行した際、

第15代熊野別当・長快の娘をみそめて結ばれる。 

「熊野の女房」とか「立田の女房」とか呼ばれていた彼女は、

生地の新宮で一女一男を産んだ。

女児が丹鶴姫で、男児が新宮十郎行家だ。

頼朝義経にとって、

丹鶴姫は叔母であり、十郎は叔父になる。

卵焼きの匂いがする始発駅  神乃宇乃子  

為義の10男として生まれた行家は、

最初は源氏の御曹司らしく「義」の一字をいただいて、

「義盛」と名乗っていた。

新宮で生まれ育った行家が、

源平の争乱のなかに乗り出すきっかけとなったのは、

同じ源氏の源頼政の口ききによる。

見せ掛けはスムーズだった方程式  北原照子

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 頼政のにらみ

まっさきに平家に反旗をひるがえした頼政にとって、

血筋がよく、弁舌達者な行家は重宝な存在だった。

頼政は、行家を八条院蔵人に推したうえ、

「平家を討つように」 という、

以仁王の令旨を伝達する使者として白羽の矢をたてた。

≪頼政、
以仁王主役説に別の見解もある≫

その泥は冷えたご飯に合うのです  中村幸彦

以仁王の令旨を携えた行家は、

治承4年(1180)5月1日、鎌倉の北条館に到着した。

令旨を受け取った頼朝は、水干の装束をつけ、

男山八幡宮に向かって遥拝してから目を通したという。

鎌倉から信濃へと足を伸ばした行家は、

甥の木曾義仲に会って挙兵を説くなど、

諸国の源氏一族に伝えた。

行家には、天性の情報収集能力と、

今でいうコーディネーターとしての、

才能に抜きんでたものがあったと伝わる。

ピノキオの鼻は味方をたんと持ち  森中惠美子

行家が「義盛」から「行家」に改名したのは、

熊野別当第19代・行範と関わる「行」がついているほうが、

諸国に散らばっている熊野山伏たちの、

庇護を受けられると考えたからと解釈される。

地元では仮面はずして輪に入る  佐藤正昭

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    源頼政

「源頼政」


頼政は、武将であり歌人である。

その才が後白河天皇に愛され、

保元の乱(1156)では、後白河方の源義朝の下で戦う。

続いて義朝が起こした平治の乱(1159)では、

清盛に味方し、

源氏でありながら平家の政権下に名を残す。

しかし、出世は遅く、昇殿を許されたのは63歳のとき、

清盛の推挙で従三位に叙せられたのは、

75歳になってからである。

空遠く消して眼球だけ残す  富山やよい

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     頼政句碑

平家物語によると清盛は、

頼政の階位について完全に失念しており、

そのため長らく正四位であった頼政が、

"のぼるべきたよりなき身は木の下に椎(四位)をひろひて世をわたるかな"

という和歌を詠んだところ、

清盛は初めて頼政が正四位に留まっていたことを知り、

従三位に昇進させたという。

ゆで卵ツルンとむけた今日の運  山本昌乃

治承3年(1179)11月、法皇と対立した清盛は、

福原から兵を率いて京へ乱入して、クーデターを断行、

院政を停止して法皇を幽閉する挙に出た。

「治承三年の政変」と呼ぶ。

たこ焼きが焼けた革命始めよう  石橋芳山

翌治承5年(1180)2月、清盛は高倉天皇を譲位させ、

高倉帝と清盛の娘・徳子との間に生まれた3歳の、

安徳天皇を即位させた。

これに不満を持ったのが、

後白河法皇の第三皇子の以仁王である。

以仁王は法皇の妹・八条院暲子内親王の猶子となって、

皇位への望みをつないでいたが、

安徳天皇の即位で、その望みが全く絶たれてしまった。

頼政はこの以仁王と結んで、

平氏政権打倒の挙兵を計画した。

ピリオドのために踏み出す第一歩  植田斗酒

諸国の源氏と大寺社に、

「平氏打倒」を呼びかける令旨の伝達は、

先述の源行家にまかされる。

しかし、5月にこの挙兵計画は露見、

平氏は検非違使に命じて以仁王の逮捕を決めた。

だが、その追っ手に頼政の養子・兼綱が含まれていたことから、

まだ平氏は、頼政の関与に気付いていなかったことがわかる。

以仁王は園城寺へ脱出して匿われた。

海は弧に砂のトルソを覗き込む  湊 圭史

5月21日に平氏は園城寺攻撃を決めるが、

その編成にも、頼政が含まれていた。

その夜、頼政は自邸を焼くと、

仲綱・兼綱以下の一族を率いて園城寺に入り、

以仁王と合流。

平氏打倒の意思を明らかにした。

ピボットのガスは斑に腐敗する  井上一筒

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    源頼政vs鵺

「頼政エピソードー鵺(ぬえ)退治」ー(平家物語から)

仁平3年(1168)夏、近衛天皇は奇病に悩まされていた。

深夜になると黒雲が御所をおおい、

鵺の鳴き声が聞こえてくる。

その度に天皇は苦しまれた。

薬も名僧たちの祈願も効かず、

やがて雲の中に住む妖怪の仕業と考え、

弓の名手・源頼政に妖怪退治が命じられた。

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きっと見上げた頼政は弓をひき

「南無八幡大菩薩」と心の弓に祈念して、

矢を力一杯放つと見事命中、

落ちてきた妖怪を家臣の者の早太が刺し殺した。

火をともして見ると、

顔は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、

恐ろしいという以上である。

天皇は感心され獅子王という名剣を下された。

破れ目をつくろいにゆく接続詞  たむらあきこ

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今朝一つピラカンサスの実がはじけ  河村啓子

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「平家物語」(御産の事)

徳子の皇子誕生。

御簾から顔を出し皇子出産を喜ぶ後白河法皇の言葉に、

思わず泣いてしまった清盛。


(画面は拡大してご覧ください)

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点滅にいよよ華やぐ膝頭  酒井かがり

「1178年」

治承2年(1178)11月12日、高倉天皇徳子の間に、

清盛念願の男子が生まれた。

のちの安徳天皇である。

皇子の無事の生誕を見届けた清盛は、

11月16日に京から福原に戻っていった。

しかし、京で廷臣達が、皇子の立坊の儀(皇太子になる儀式)を、

2~3歳の先例が不吉なので、

1歳の時に行うか、4歳で行うかで意見調整していると、

清盛は急遽26日夕方に京に上洛した。

もう少しわくわくせよと山笑う  新家完司

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     妙順寺(京都市東山区)安徳天皇産湯の井戸

当時の年齢は、産まれたときに1歳で、

正月毎に歳をとる数え年で計算するため、

皇子は生まれた次ぎの年に2歳になる。

1歳で立坊するのであれば、残り2ヶ月をきっているが、

上洛した清盛の意向が影響して、

皇子は1歳の時に立坊することに決まった。

決まったが四十八手にない決め手  松井富美代

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  安徳天皇(泉湧寺)

皇子は12月8日に親王となり、言仁と名付けられた。

同日、近侍する者を任命する「侍始の儀」も行われた。

こうして12月15日に言仁親王(安徳天皇)は、

生後1ヶ月あまりで皇太子となった。

満ちて今影の形を整える  上田 仁

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「武者鑑ー源三位頼政」

「源頼政が従三位に出世する」

さて、治承2年(1178)12月24日に摂津の源頼政が、

「従三位」に任じられた。

清盛一門を別とすれば、

公卿としての待遇を得る従三位が武士として、

きわめて高い位階であることは言うなでもなく、

頼政の父祖で、三位に昇進できた者もいない。

家格からすれば分相応な昇叙に、

貴族たちは大いに驚いたが、

それは清盛の奏請によるものであった。

木星へビオラの弦を張りにゆく  くんじろう

清盛の奏請の状には、

「源氏と平氏は我国の堅めである。

 平氏は、朝恩がすでに一族に広く行き渡り、

 威勢が天下に満ちているが、これは勲功によるものだ。

 一方、源氏の勇士は、多くの者が逆賊に味方し、全て罰を受けた。

 頼政はひとりだけ正直で、勇名が世に知られているが、


 いまだ三品に昇進していない。

 すでに70歳余の年齢で、かわいそうである。

 しかも、近日は重病だということだ。

 黄泉に趣く前に、特に紫綬の恩を授けよう」


とあったという。

青以上に青い君のアンビシャス  和田洋子

朝廷を守護する武力の第一人者となり、

さらには将来の天皇となる孫が生まれ、

得意の絶頂であった清盛の様子が窺える。

安徳誕生の喜びに満ち溢れた清盛の内祝というべき、

推挙である。

頂点のあたりで赤ん坊が叫ぶ  湊 圭史

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「安徳天皇誕生の様子」

「清盛の政治構想」

安徳天皇が誕生し一歳で皇太子となり、

後白河院との対立が明白なものとなった清盛は、

後白河院の代わりとなる政治体制を発足させようとした。

より具体的にいうと、

高倉天皇を王家の家長とし、

「治天の君」とすることを考えていた。

高倉天皇の子が天皇となり、

上皇となった高倉院が院政を敷き、

それを清盛が誘導するというのが理想形であった。

蓮根の穴になれたらしめたもの  森田律子

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「1179年」

「摂関家領をめぐる後白河院方の介入」

治承3年(1179)6月17日、清盛の娘・盛子が没する。

享年24歳。

盛子は、摂政・藤原基実の室であり、

基実没後は、その遺領たる摂関家領を継承していた。

永万2年(1166)の基実の急死により、

藤原基房が摂政に就任し、氏長者に相続される興福寺や、

方上荘などの殿下渡領を伝領したものの、

基実の遺領の大半は、

後家の盛子が伝領していたのである。

幕が開きいきなり雪が舞いしきる  嶋澤喜八郎

当時11歳の盛子が伝領した摂関家領が、

実質的に清盛の支配下にあったことは言うまでもない。

亡くなった盛子の遺領は、高倉天皇が伝領した。

この措置は、

盛子が高倉天皇の准母であったことに基づき、

盛子の遺領となった摂関家領を、

高倉天皇が伝領することで、

平氏による実質的支配の継続を狙っていた。

≪准母=天皇の生母ではないが、母に擬して優遇するための待遇≫

断捨離をそのまま持ってお引越し  森中惠美子

それに対して、藤原基房と後白河院は結託して、

摂関家領の奪取を企てた。

摂政となった藤原基房は、

盛子の没時に「一ノ所ノ家領文書」

伝領を後白河院に申請した。

基房にしてみれば、基実の死去時に、

その遺領の大半を獲得できず、

清盛の娘・盛子に押領されたも同然であった。

しかも嘉応2年(1170)の所謂「殿下乗合事件」でも、

平重盛の逆恨みを受けるなど、平氏との対立もあった。

目立たないように白旗上げている  高橋謡々

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基房の摂政就任・摂関家領奪取の野心は、

平氏に対する恨みと連結していたのである。

後白河院は、高倉天皇領となった盛子の遺領の年貢を、

実質的に管理しようとして、

白河殿倉預に近臣の藤原兼盛を補任した。

10月8日には、基房の三男・師家が従三位に叙され、

10月9日には、

従二位右中将で20歳の藤原基通をさしおいて、

師家が僅か8歳で権中納言に補任された。

師家が将来の摂関となり、

摂関家領を伝領する予定であることが、

明示されたのである。

埴輪のような目にしてもらう手術  井上一筒

さらに同じ10月9日の除目で、

後白河院は、平維盛の知行国であり、

通盛が国守をつとめる越前を、

清盛に断りなく没収して、院分国とし、

院近臣・藤原季能を国守としてしまった。

これら摂関家領への介入、

師家の任権中納言、越前没収といった諸問題を、

主たる動因として、


清盛は政変を決断することとなる。

辛抱の箍がはずれてくる夕日  たむらあきこ

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