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川柳的逍遥 人の世の一家言
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アドリブを重ね塗りして抽象画  美馬りゅうこ

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平家六波羅邸

二条天皇が移った「六波羅」は、

もともと京の住民の葬送の地で、


清盛の祖父・正盛が一門の供養塔を建てたことから、

平家との関わりが始まった。

この地は、京と東国を結ぶ交通の要所でもあったので、

清盛の父・忠盛が、ここに一町四方の屋敷を建設し、

寿永2年(1183)の都落ちまで、

平家の京での邸宅・軍事基地の役割を果したのである。


                         (画面をクリックすれば大きく見れます)

軒下にアトランティスがあったはず  井上一筒

「六波羅邸」

平治元年(1159)12月25日、

院近臣と称される公卿がひしめく

六波羅に、歓喜の声が湧き上がった。

公卿たちが口々に喜びの声を上げる。

「これで朝廷は救われた。

 もはや謀叛人どもは手も足も出ないであろう」


この日、藤原信頼、源義朝らの手によって、

幽閉されていた二条天皇の身柄が、

とうとう奪還されたのだ。

水の無い所にあなたもういない  西川節子

反信頼派から事の次第を通告された後白河は、

信頼派・反信頼派双方から孤立する道を選択し、

仁和寺に逃げ込んだ。

反目する二条側につくことはありえず、

かといって、上皇といえど、

天皇と敵対すれば、正統性はなくなることを、

「保元の乱」における兄・崇徳上皇を見て理解していた。

回廊を渡ると寒い過去が見え  森中惠美子

後白河は信頼を見捨てたのだ。

翌26日朝、

二条ばかりか、後白河までも消えた大内裏で信頼らは、

「アブノ目ノヌケタル如ク」

(目が抜けた虻のように)  『愚管抄』

おろおろとし、義朝は信頼を

「日本第一ノ不覚人ナリケル人ヲタノミテ、

  カカル事ヲシ出シツル」


(日本一不注意な人間をあてにして、こんな事になってしまった)

と言い捨てて、にわかに鎧を着したという。

えの具が足りぬ人間百景  北川アキラ

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天皇・上皇を失った勢力は、謀叛人となってしまった。

謀叛人とされた武士がどうなるか。

保元の乱で父・為義を処刑した義朝には、

もはや、武装蜂起に走る以外に道はなかった。

もうちょっとなのに海まで行けぬ泥  森 茂俊

天皇の六波羅行幸が知れわたると、

後白河上皇はじめ、

上西門院・美福門院、藤原忠通・基実父子以下、

公卿・殿上人のすべてが、六波羅に集まった。

信頼の支持者であった忠通が、

清盛についたことで、

信頼の孤立は、決定的になったといってよい。

その26日、信頼・義朝追討の宣旨が下された。

ここに平清盛率いる平家は「官軍」になり、

義朝率いる源氏は「賊軍」になった。

そうかそうか僕は咲かない芽のほうか  中野六助

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両者の戦いは、26日朝にはじまった。

内裏の焼亡を避けるよう要請された清盛は、

内裏に立て籠もる信頼・義朝軍を誘い出す作戦をとった。

まず内裏に押しよせ、敵が出撃してきたら引いて、

六波羅におびき寄せる。

その間に、内裏を占拠するという作戦である。

平家軍は、3000余騎で内裏の3門を襲った。

迎え撃つ信頼・義朝軍は800余騎。

走れ走れ正気に戻らないように  田中博造

重盛を大大将に清盛方は、内裏に一気に攻め寄せた。

待賢門(御所の東)を守るはずの信頼は、

戦わずして退き、やすやすと重盛軍は門内に入った。

しかし、義朝の子息・悪源太義平の奮戦で、

一旦門外に追いやられた重盛軍だが、

今度は義朝軍を、内裏からおびき出す作戦に出た。

計略にかかり内裏から出た途端、

義朝軍は門扉を閉められ、かくなる上は、

清盛の本拠六波羅を攻めんとして進軍するが、

平家軍は五条橋を壊し、

鴨川の東岸で待ち受けていたのだった。

そして六条河原での交戦となり、敗北を喫した。

≪また、この平治の乱では、頼朝が初陣を戦った≫

矢印が盗まれ日々が疎くなる  谷垣郁郎

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東国へ落ち延びる義朝

義朝は六波羅に迫ろうと奮戦したが、

六条河原で敗戦を覚悟し、戦場から離脱する。

信頼は、いつの間にか姿を消していた。

前線の地雷をいくつ踏んだのか  清水すみれ

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酸化した油で大安を揚げる  森田律子

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「大内裏から脱出する二条天皇」(歴史と民族の博物館・埼玉)

二条天皇は女装して密かに六波羅へと脱出した。

25日夜、二条は女装して牛車い乗り、

清盛の六波羅の私邸に迎え入れられた。


                     (画面をクリックすれば大きく見れます)


水底で月は檸檬になりました  古田祐子

「第二幕・六波羅合戦」

藤原信頼源義朝が挙兵したのは、

平治元年(1159)12月9日、

憎んでも余りある信西を三条鳥丸の院御所に襲い、

続いて内裏を占拠して、二条天皇の身柄を押さえた。

天皇を確保した反乱軍は、一時京都を完全に制圧し、

その兵革は、成功したかに見えた。

空想が碁盤の石の下にある  筒井祥文

しかし「六波羅」が動き出すと、

しだいに雲行きが変わっていく。

六波羅の主人、清盛の帰還とともに、

政局は此処を中心にまわりはじめたのだ。

ドアはいま 隣の部屋を出ていった  山本早苗

「平治の乱  二条天皇奪還」

天皇脱出の手立てをする密命をおびて、

内裏に入ったのは、

藤原惟方の義兄弟である藤原尹明(ただあき)だった。

尹明は、天皇を女装させて女房用の車に匿い、

25日夜を待った。

手筈どおりに大宮二条で火災がおこり、

警備の武士が気をとられている隙をついて、

内裏を出た。

後発に棒高跳びの特技あり  井上しのぶ

そのとき警備の者が怪しんで、

車の御簾を上げさせたが、

17歳の天皇を女性と見誤ったともいう。

天皇が六波羅に入ったのは、

26日の晩だった。

天皇の脱出計画を知らされた後白河上皇も、

同日、ひそかに内裏から逃れ、仁和寺に身を寄せた。

六波羅を臨時の皇居として、

天皇を奪い返す策は、見事に成功した。

水紋の夥しきは水面下  蟹口和枝

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信頼義朝は天皇を奪われた瞬間、

謀叛人に転落するのだ。

「これで反乱も終わった」

と公卿たちが喜ぶのも、無理はなかった。

それが院政期に、天皇権力に寄生することで台頭した、

院近臣たちの常識である。

法則を背負って登る豆のつる  桜 風子

「平家の棟梁はいかがした」

と、公卿たちは、浮かれ気分で、

この六波羅の主人の姿をさがす。

なんといっても、第一の功労者だ。

皆で褒め称えてやれば、

「あの遠慮がちな六波羅の主人も感激するだろう」

と、わいわい騒ぎあう。 

一匹の魚の笑い見にゆこう  森中惠美子

「いずこにおる、平家の棟梁」

公卿たちは、

「恥ずかしがらずに出て来い」

とでも言いたげな口調だった。

祝宴でも始めそうな公卿たちは、

なかなかお目当ての、平家の棟梁が出てこないので、

車座になって、お喋りを始めた。

きらきらと単孔目鯉苔を食う  大西泰世

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   清盛像

「お待たせいたしました」

出し抜けに頭上から声が降ってくる。

訝しげに見上げた公卿たちは、息を呑む。

そこにいたのは、確かに平家の棟梁・平清盛だった。

オーロラの裏の座敷牢に居ます  井上一筒

だがいま、公卿たちの前に現れた清盛には、

いつもの腰の低い微笑はない。

口調こそ丁重だったが、

別人のように厳しい表情だった。

それにしても、清盛のいでたちは何たる有様であろうか。

此処はいま臨時の皇居だ。

殿上である。

しかし清盛は、公卿たちが後ずさるような、

武者姿で現れたのだ。

絶句した公卿たちは、

眼を見張って、清盛の武者姿を仰ぐ。

まず嗚咽漏らしたのは袖口  酒井かがり

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   平清盛公日招像

そこにいる清盛は、冒し難い威厳に満ちていた。

しかも、見る者の眼を奪う美しさがあった。

清盛の軍装は、黒で統一されていた。

鎧の縅毛は黒、太刀も黒漆、

矢は柄も羽根も黒で、沓まで熊毛だった。

だがただ一点、冑の立物だけが銀だった。

その白く輝く立物が、ひた黒の装束を、

心憎いまでに引き立てていた。

沈黙を買いに行く万札のシワ  山口ろっぱ

公卿たちを圧倒した清盛の大音声が、

殿上に響きわたる。

「殿上の方々、お喜び召さるのは、まだ早い。

 本当のいくさが始まるのはこれからじゃ」


殿上が水を打ったように静まり返る。

清盛は続けた。

「主上の玉体を奪われて観念するのは公家の習い。

 なれど武家の習いは違い申す。

 殿上の方々、もしやお忘れか」


これを聞いて、水を打ったようだった殿上が、

ふたたびざわめき始めた。

いま私積乱雲の中にいる  ふじのひろし

一座の公卿たちに、不安げな表情が広がっていく。

清盛のいかめしい軍装が、いやでも思い出させた。

「このたびの兵革の張本人・中納言信頼とともに、

 蜂起した者の名を」


「義朝・・・」 

公卿の誰かがつぶやき、

清盛は大きくうなずいてみせる。

緞帳の糸のほつれか悲の匂い  嶋澤喜八郎

「左馬頭義朝は源氏の棟梁。

 主上の玉体を奪われたからといって、

 おめおめと引き下がる者ではござらぬ。

 再び玉体を奪い返さんとして、

 かならずやこの六波羅へ、攻め寄せてまいりましょう」


ある日ふと保険証書が気にかかる  山本昌乃

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法則を守って雑巾が乾く  山本早苗


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「平治物語絵巻・信西巻」 (国立国会図書館)

信西の首は獄門に晒された。

そして信西の息子たちは、一斉に配流されて一族は壊滅した。

「信西の首」


平治元年(1159)12月9日、「平治の乱」が勃発する。

清盛が一家をあげて熊野参詣のため、

京を留守にしていた最中だった。

後白河の近臣・藤原信頼源義朝らの軍勢が、

後白河上皇の院御所・三条殿を突如襲撃した。

彼らの目的は信西である。

信西は下級官人出身だが、

非常に有能で、実務官僚系の院近臣として、

鳥羽院に接近し、

後白河の乳母を妻にしていることから、

後白河の側近にもなり、「保元の乱」後の混乱の中

政治の中枢に躍り出た人物だ。

ポケットの中の心が見つからず  くんじろう

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信西の生首を持ち帰る道中 前列の4人が首を掲げる

後白河を大内裏に移し、

義朝らは信西を捜索するが、

信西は危険を察知し、逃亡したあとだった。

のちに、自ら胸に刀を突き刺し自殺した姿で、

信楽山の山中で発見され、

その首は落とされ西獄門に晒された。

謀叛罪として梟首に処せられたのである。

子息たちも解官、配流された。

50年前、鎮西で反乱をおこした源義親(義朝の祖父)以来の

「梟首の刑」である。

一昼夜拍手を浴びてオポッサム  富山 悠

信頼義朝はさっそく「除目」をおこない、

自らはもちろん、一門や同志の貴族たちの官位を進めた。

しかし、反信西では一致していた彼らに、

早くも分裂が始まっていた。

除目=官職に任命する儀式。

知らぬところで鏡の割れる音がする  洗い慶子

すなわち二条天皇の外戚・藤原経宗(つねむね)

側近・藤原惟方(これかた)など親二条派が、

9日の事件に、

強い危機感を抱いた内大臣・藤原公教(きみのり)が、

秘密裏に進めていた反信西派の結集工作に、

加わったのだ。

彼らの手引きで、公教は二条天皇を内裏から、

密かに脱出させるという作戦を企て、

その実行役として、清盛が起用された。

終りでも始めでもある判を押す  中川隆充

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   「六波羅合戦図」 (国際日本文化研究センター)

赤い旗をなびかせながら出陣する平氏軍。

中央の赤い甲冑を着た武士が、清盛。
 (デジタル復元図)

もともと、二条親政派であった藤原経宗、

惟方にしてみれば、

後白河院政派から鞍替えしたばかりの、

信頼、義朝が、自分達を差し置いて、

二条天皇を擁立し、政権を牛耳るのは、

バカバカしい話であった。

そこに目を付け、反信西派に打ち込んで分断した、

藤原公教の目の付け所は見事というほかない。

≪公教は、信西によって荘園整理のために設置された、

  記録所の責任者とされた人物だが、

   信西にそれだけ高く評価されるだけのことはあったのだろう≫


砂時計倒れたままの裏表紙  笠嶋恵美子

拍手[4回]

幕間のコントに痛烈なジョーク  荻野浩子

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「平治物語絵巻 三条殿焼討巻」

平治元年12月9日、藤原信頼、源義朝によって、

後白河の院御所三条殿に火が放たれた。


信西は自害、二条天皇・後白河上皇も確保したが、

周囲の支持を急速に失ってゆく。


(画面をクリックすれば映像は大きくなります)

矢印の反対側へ置くこころ  井上裕二

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「義朝、クーデターを決行」

平治元年(1159)12月9日、

義朝の軍勢が、後白河上皇「御所三条東殿」を襲撃し、

上皇を内裏の一本御書所に幽閉した。

軍勢は御所に火を放ったうえ、

外からさんざんに矢を射かけたため、

多くの女官が御所内の井戸に身を投げて、

命を落したと言われる。

一本御書所=書籍の書写や管理が行なわれた場所。

俎板の窪みに溜まる雨の音  笠嶋恵美子

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信西はからくも京を脱出し、

宇治に近い自身の荘園に逃れたが、

助かる見込みはないと観念して、

土中にもぐって自害した。

この時、信西に従った郎党のひとりに、

後年「鹿ヶ谷事件」で斬首される藤原師光がいた。

信西の死体は、追手の武士によって

堀り起され、首は獄門にかけられた。

実権を握って、わずか3年の短い天下であった。

配役に首塚とある暑さかな  石田柊馬

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一方、内裏では、

信頼が天皇の名のもとに論功行賞を行い、

自身は念願の大臣・大将に就任。

義朝は、清盛が保元の乱で任じられた播磨守に、

三男の頼朝は、右兵衛佐に任じられた。

ここに信頼・義朝連合によるクーデターは、

ひとまず成功をみた。

かくて決着A4の夢の中  筒井祥文

熊野参詣の途上にあった清盛が、

都の異変を知ったのは、田辺宿の付近であった。

一緒にいたのは次男・基盛、三男・宗盛

それに郎党が15人ほどである。

義朝勢に対抗するには、あまりにも数が少なすぎる。

驚いた清盛は、

「いったん九州へ落ちて手勢を集めるべきであろうか」

と気弱なところを見せた。

刻々とメルトダウンが進む脳  泉水冴子

ところが、紀州の在地武士である湯浅宗重が、

37騎の武士を、熊野別当湛快が、

鎧7領と弓矢を提供してくれた。

これに力を得た清盛は帰京を決意し、

一門・郎党を引き連れて京への道を急いだ。

                            『愚管抄の記述より』

運のいいタケノコそっと生き延びる  新家完司            

軍記物語・『平治物語』だと、さらにドラマティックになる。

急報を受けた清盛は、

「朝廷の御大事となった以上、帰京するしかない。

しかし武具がないのはどうしたものか」


というと、平家第一の郎等と言われた平家貞が進みでて、

「少々は用意してございます」

と長櫃の中に隠してあった甲冑や弓矢を取り出した。

家貞は、

「大将軍に仕える者はこのように用意をしておくものだ」

といい、侍たちは、

「あはれ高名かな」 と感心したという。

前頭葉あたりで葦のそよぐ景  福光二郎

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「余談」

清盛の熊野詣は、

「義朝の挙兵を促すための偽装だった」

という説がある。

ライバルの義朝や、

将来政敵になる可能性のあった信西を,

滅ぼすために、"清盛が仕組んだ大芝居だった"

というのだ。

しかし、先の清盛の狼狽ぶりを見る限り、

そのような計画があったとは思われない。

悪役の今日はなんだか芋けんぴ  くんじろう


清盛一行は、義朝の長男・悪源太義平

天王寺、阿倍野で待ち伏せしているという情報に接し、

戦々恐々としながら京への道を急いだが、

それは義平ではなく、

決戦に備えて集まっていた平家の軍勢であったという。

                               『平治物語より』 

汐目が変わりここからは喜劇です  筒井祥文 

義平は15歳のとき、

武蔵国大蔵で叔父の源義賢(木曾義仲の父)

攻め滅ぼしたという豪の者。

普段は鎌倉を拠点として、

関東における義朝の勢力拡大を助けていたが、

このたび義朝の挙兵に応じて、

関東の精兵を率いて上洛していたのである。

確かに、清盛一行は兵も少なく武装も軽微で、

帰京を阻むには、絶好の機会であった。

流れ矢の一つがにじり寄ってくる  谷垣郁郎

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しかし、義朝たちのクーデター計画は、

隠密裏に進められたため、

大規模な軍勢の動員はできなかった。

少ない戦力を割いて、

清盛の帰京を阻むゆとりはなかっただろう。

あるいは平家と二重の姻戚関係を結ぶ信頼が、

身内意識から、清盛の反撃を警戒しなかった可能性もある。

いずれにせよ、清盛は何ら抵抗を受けることなく、

12月17日に、京に帰ることができたのである。

表紙からサソリ2匹も生き延びた  井上一筒

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茶碗の中にも爆発音はある  森中惠美子

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  平治の乱対立の構図

(画面をクリックすれば大きくみれます)

「くすぶる官邸」

保元3年(1158)「中継ぎ」だった後白河天皇が、

皇子の守仁(二条天皇)に譲位した後も、

信西は引き続き権力を握り続けた。

平家も一門をあげて、大内裏の再建に貢献する一方、

信西の引き立てを受けて出世し、清盛も乱の翌年、

播磨守から大宰府の長官である「大宰大弐」となった。

「三位の公卿」が就任することもある高官である。

半開きのドアの向うで笑う海  酒井かがり

しかし、信西と平家一門の繁栄の陰で、

不満をかこつ者も増えていた。

1人は保元の乱勝利の立役者義朝

もう1人は、後白河上皇の近臣・藤原信頼である。

当時、後白河の引き立てにより、

右衛門督となっていた信頼は、

大臣・大将を望んだが、

信西に阻止されて恨みを抱いていた。

今日を紡いで首に巻く夜風  近藤真奈

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「義朝の恨み」

信西政権を経済・軍事面で支えたのが、

清盛と平家一門だった。

保元の乱の恩賞が平家に厚く、

源氏に薄かったのは、両者の同盟関係が、

前提になっていたのである。

義朝も、この実力者に取り入ろうと、

信西の子息の1人を、娘婿にもらいたいと申し出た。

しかし、信西は、

「我が子は学者であり 武者の婿にふさわしくない」

とはねつけた。

永遠に弐ひく壱はさみしかり  中野六助

その一方で清盛の娘との縁談を進めて、

義朝の面目をつぶした。

信西としては、冷静に清盛と義朝の器量を比べて、

「清盛こそ頼むに足る人物である」

と判断したのだろうが、

義朝が信西に恨みを抱いたのも、また当然であった。

裏側に解答欄がある鏡  山本早苗

「信頼のこと」

信頼は、『平治物語』に、

「文にもあらず、武にもあらず」 と評され、

後白河の男色相手だったこともあり、

ひ弱な公卿のイメージが強いが、

政治的な力量は、なかなかのものであったとも言われる。

武蔵国の知行国主として、支配権を握っており、

その関係から、東国を基盤とする義朝を、

自らの武力として活用することができた。

ひらがなのように男がやってくる  大西泰世

また、当時、信頼の兄弟や一族は、

武具や駿馬の一大供給地である陸奥の国守を、

歴任していた。

良質の武具や馬の確保は、

武門の棟梁としての地位を左右する、

重要な要素であったから、

義朝が東国で影響力を保ち続けるためには、

奥州に顔がきく信頼との提携は、必須だったのである。

経由地に立派な塔ほか指の影  兵頭全郎

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さらに、信頼は平家とも姻戚関係を結んでいた。

異母兄の藤原隆教は、忠盛の娘(清盛の姉妹)を妻とし、

信頼の嫡男・廼信親は、何と清盛の娘婿になっていたのだ。

後白河の寵愛もさることながら、

源平の武士との二重三重のつながりも、

信頼の政治力の源泉になっていたのである。

息止めて太刀の笑くぼを選り分ける  井上一筒

また、以上の姻戚関係をとおして、

信頼は平家に親近感を抱いており、

清盛が敵対してくるとは、思いもよらなかったのであろう。

ここに、信頼が大胆なクーデターに踏み切った

要因の1つがあったと考えられる。

この両者に、

天皇親政を目論む二条の外戚の藤原経宗

乳母子の藤原惟方が加わり、

打倒信西のクーデターは、決行された。

パンパンと叩いて洗濯物を干す  笠嶋恵美子

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