忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24]
人生の今四コマ目仕上げ中  広瀬勝博





         三河一向一揆  (月岡芳年画)



「どうする家康」ー 俺は腹を切る!




「名将言行録」より。
秀吉は家柄の低いことをコンプレックスにするのではなく、有効に利用
している。1586年(天正14)対立していた家康をとうとう大坂へ
ひきだすことに成功した秀吉は、宿舎となった弟の羽柴秀長邸に家康を
ひそかに訪ねた。そして
「自分の家柄の低いことは世間周知だから、大名どもは本気で心服して
 くれない。そこで徳川殿の協力が欲しい。
 明日は私の前に平伏してくれないか」 と、頼みこむ。
さてここで「家康 どうする?」ということになるが、こう言われては
家康も断れない。 大名たちの前で「臣下の礼」をとることを約束した。
その決意を聞いた家康の家臣は、敵対する相手が相手だけに、罠ではな
いかと家康の身を案じた。その時家康は、家来たちにこう言ったという。
「われ一人腹を切りて、万民を助くべし」
               「俺は腹を切る」といったのである。
ここに一つ、やたら腹を切りたがる家康のエピソードとして残る。


急ぐ事ない人生は長いんだ  青木公輔



家康が江戸に幕府を開くまでに「家康、どうする」の状況が数個ある。
 桶狭間の戦い
  家康初陣で味方の大将がヤラレタラあなたならどうする?
 三河一向一揆 (第一幕・三大危機
 三方原の戦い (第二幕・三大危機
  家康、戦いで死ぬほど怖いおもいをしたらどうする?
 姉川の戦い
  家康、敗戦色の濃い戦いで殿を頼まれたら…どうする?
 築山殿・信康の処分
  信長にこの二人を殺せといわれたら…どうする?
 伊賀越え (第三幕・三大危機)  
 石川数正、秀吉方へ出奔
  家康、最も信頼していた家臣に裏切られ、どうする?
 関東移封 
  家康、秀吉からど田舎に行ってくれと言われ、どうする?
 関ヶ原合戦真田幸村の追撃に家康は肝を冷やした、などである。



物干しにライトアップの雪明り  市井美春




     家康(松本潤) VS 本田正信 (松山ケンイチ)




「第一幕・三河一向一揆」


1563(永禄6)7月、今川方の諸城を落とし、西三河の制圧に成功
した松平元康は、晴れて今川氏のくびきから脱しようと、今川義元から
もらった「元」の字を捨て「家康」と名乗るようになった。
しかし、安心したのも束の間、同年9月5日、国内から新たな敵が発生
する。 「三河一向一揆」が蜂起したのである。
家康の生誕地・岡崎は、本願寺門徒の多い土地柄で、本願寺一族の本宗
本証寺、勝鬘寺、上宮寺の三河四寺を中心に強い勢力を保っていた。
こうした寺は、その権限を保つため、寺の持つ諸権利について部外者が
容喙することを一切許さないと決めていた。
これを「寺内不入権」という。



昔からあるので誰も抜かぬ釘   有澤嘉月



ところが、三河全土の掌握をもくろむ家康にしてみれば、所もあろうに、
「わが領国の三河域内に、自分の勢力が及ばないところが、1カ所でも
 あっては沽券にかかわる」
家康は、この「寺内不入権」を断固無視し、一向宗の影響力が強い寺内
にも入ることを強行した。
西三河は、もともと旧領主の今川氏が一向宗(浄土真宗)寺院を優遇し
たこともあり、北陸とならんで、一向宗が盛んな土地柄であった。
ところが家康は、急速な富国強兵策をとらなければならない事情もあっ
た。
これに一向宗門徒は猛然と反発した。



免罪符どこの店でも売り切れだ  川嶋 翔





      一向宗門徒と三河武士の壮絶な戦闘模様



本願寺宗派の独立性が保たれ、一向宗門徒たちの団結力は強かった。
家康の家臣には、一向宗門徒が少なくなく、一揆方についた者も少なく
なかった。家康に取って代わろうという国内の有力武将も何人か一揆勢
に加わったことで、鎮圧はさらに容易でなくなる。
門徒たちは、4カ寺に立てこもり、家康側と激しい戦闘状態になった。
攻めても、攻められても家康軍は疲弊する。
このままでは家康軍は分裂、弱体化するのは目に見えている。




洗っても削っても金太郎飴  森井克子



結局、家康は一時追放した4カ寺側の勢力の復帰、復活を許し。
さらに、一揆側に参加した「家臣たち」をも許した。
一時は、家康の身の危険も間近にあった戦闘状況だったが、この「戦後
裁定」であの結束力の堅い三河武士の本領が復活、永禄7年2月28日、
形の上で家康方の勝利として、半年かけた三河一向一揆は終焉をみた。
家康が一揆に勝ったのをみた東三河の今川方諸武将が続々と降り、
「三河統一」がなされたのだが、これでようやく一国。
以後、4年間ほど家康は、国内統治に専念せざるを得なくなる。
(三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大
危機とされる。 家臣団の多くが門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろ
しさをまざまざと見せつける事となった)



涙目でジッと見つめて許される  近藤北舟





   三河一向一揆を主導した空聖上人



「一揆側に参加した家臣たちのその後」
本多正信=戦後は出奔。松永久秀に仕えるなど諸国を流浪し、
     のち大久保忠世の執り成しで帰参し重用される。
本多正重=滝川一益、前田利家、蒲生氏郷に仕えたのち帰参。
渡辺守綱 = 赦免帰参。のち徳川義直の附家老となる。
蜂屋貞次=永禄7年に降伏帰参。
夏目吉信=野羽城陥落の際、松平伊忠の嘆願により赦免帰参。
内藤清長=蟄居処分。子の家長は父から離反し家康方として勤めた。
加藤教明=戦後出奔。室町将軍足利義昭に仕えた後、秀吉に仕える。
酒井忠尚=一向一揆収束後も抵抗したとあるが詳細不明。
石川康正=父・清兼は三河の本願寺の信徒総代で宗徒との関係は続く。




複眼で見れば許せることばかり 原 洋志





       伊賀越えルート




「第三幕・伊賀越え」




伊賀越えを無事にはたし安堵の表情の家康

「神君、よくぞ御無事で! あの伊賀を越えられてお戻りになった
 とはスゴイ」


「本能寺の変」信長が、「まさかの死」に遭ったとき、
信長の4人の師団長は、京都に誰もいなかった。
筆頭師団長・柴田勝家は、北陸で上杉を監視し、
丹羽長秀は、長曾我部対策に四国に渡る最中――、
滝川一益は、関東の相模に張り付き北条対策――、
羽柴秀吉は、中国で毛利と奮戦中といった案配だ――。
で、家康はそんな時、軍隊も連れずに、堺の町をふらついていた。
他国の空で明智光秀勢に捕まって辱めを受けて殺されるなら、
「今ここで潔く死ぬことを選ぶことこそ、武人」と、
家康は一人、うなずいて「追い腹を切る」と側近に伝えた。


それはもう棺の中に入れました  柴田桂子


突然の決意表明に驚いた重臣の本多忠勝らは、必死に説得する。
「こんな所で客死するのは、それこそ末代までの恥。
 とにかく、この際、とりあえず、三河に帰りましょう。
 すべてはそこから!」
家康もようやく、その場での切腹は翻意した。
ただ、街道筋は光秀軍が全部抑えているだろうからと、一行はまだ
誰も通ったことのない伊勢志摩半島を縦断するコースを選んだ。
何とか伊勢に出て、そこから海路、三河に帰るしか方法はない!
そして、本多や茶屋四郎次郎、服部半蔵らの必死の働きで、
ようよう三河にたどりついた。



ご葬儀はなかったことにして笑う  井上一筒




       大坂夏の陣・家康大仁村難戦之図   (楊斎延一図)
真田と家康の戦績はなんと真田の3勝1敗の記録が残る。



「第四幕・大坂の陣」




家康「死に急ぎ癖」はまだある。
「大坂夏の陣」でのこと。戦況は家康軍の圧倒的優勢。
そんな時、敵騎一騎。家康の本陣に向かって疾駆してきた。
真田幸村である。彼が狙うは家康の首だ。
幸村のこの遮二無二の気迫に、家康陣営は旗本たちが慌てふためき、
旗を捨て幟を捨てて、我先にと家康を残して本陣を離れてしまった。
一人残された家康は、幸村たった一人に、
「天下人が斬られたとあっては末代の恥。
            その恥をさらす前に自決する他はない」
この時も真剣にそう思った。
しかし、ようやくわれに返った家康警護が役目の旗本たちは、
また家康の周りに集まってきた。
幸村はすんでのところで長蛇を逸した。




生きている証薬が溜まりだす  靏田寿子

拍手[4回]

PR
金出した分は口かて出しまっせ  藤原一志





                                             徳川15代勢揃い

中央家康から時計回りに(家康右横)2代秀忠→6代家宣→9代家重→
11代家斉→10代家治→7代家継→8代吉宗→4代家綱→5代綱吉→
15代慶喜→14代家茂→12代家慶→13代家定

秀忠の治世は、1616年(元和2)家康が没してから、病気のために
1623年(元和9)に息子の家光に将軍職を譲るまで7年と短い。
その間に入内した和子が産んだ興子内親王(のちの明正天皇)が女性の
身で、異例の即位を行い、秀忠は、天皇の外祖父にのしあがっている、
など、この7年間で幕府を盤石なものにする仕事を成している。
 ここに徳川15代将軍の、政治力・知力・外交力・カリスマ性を評価
基準に採点し「最強の将軍は誰」と、ランキングした本がある。
一位は家康、二位は吉宗慶喜、三位は秀忠。5位以降は、家光、家宣、
綱吉と続いている。
秀忠が家康生存中におけるいろいろな失敗を払拭し、3位に挙げられた
のは徳川一族を含む諸大名を次々と改易し将軍の権威を不動にし、幕府
の長期政権への礎を確かなものにしたことなどが評価される。




悔し涙流した数で強くなる  柳川平太


 


                        徳川秀忠



家康ー永井路子、秀忠の凄を読み解く。


秀忠は法を守り、組織を守るためにはかなり冷酷なこともやっている。
弟の松平忠輝松平忠直といった一門の改易がそれである。
わが子家光の前途を守るためともいえるが、同族会社の安定の為には、
時にはこうした荒療治も必要なのだ。
長い目でみれば、これも幕府を長持ちさせる秘訣である。
また秀忠は、キリシタンを大量に処刑したり、外国貿易に制限を加えた
りしている。
次の三代家光の時に行われた「鎖国・島原の合戦」は、いわば秀忠路線
の総仕上げともいえるのだ。
こうしてみると、秀忠の政治姿勢はかなり厳しい。
それでいながら、彼自身、冷酷な政治家というイメージを与えていない
のはなぜか。それは彼らしい細かい配慮を常に怠っていないからだった
と思われる。



大丈夫大人のキミが決めたこと  大久保真澄



たとえば、彼が江戸城近郊に鷹狩りに行ったときなど、必ず獲物を佐竹
義宜に贈っている。
それは東国の名門である外様大名に対するゼスチャーではないか。
また九州の有力大名には、時折、自筆の手紙を書き送っている、
鳥とか手紙とか、考えてみれば、それをやったところで、秀忠の身代が
へこむわけでも何でもない。
領土などをやる代わりに、こんなことで義理を果たす。
なかなかの気配りであり、要領もいいのだ。



忖度を散りばめ薬の盛り合わせ  通利一遍






        徳川和子(東福門院)



「episode」 前代未聞を演出
秀忠の本領を遺憾なく発揮したのは、娘の和子入内問題である。
彼女を後水尾天皇の許に輿入れさせるという内約は、すでに家康在世時
代に交わされていたのだが、「大坂の陣」に続く家康の死によって実現
の運びにいたらなかった。
秀忠は父の死、東照宮造営などが一段落すると上洛して、天皇に銀子千
枚を献じたほか女院、天皇の生母、関白、宮家などにもふんだんに銀を
ばらまいた。 和子入内のための懐柔策である。 が、
その直後、後陽成天皇が世を去ったので、この時も入内は延期になった。


がらくたと言いつつ戻す元の棚  津田照子


その数年後、秀忠は再び上洛する。
それまでに和子の輿入れの準備は着々進行していた。
ある公家の日記に、「和子や侍女たちの衣装が作られていた」とあるの
をみてもそれがわかる。 
ところが、秀忠の上洛中、突如、
「女御サマノ御供ノ衆ノキヌ調マジキ由」
という命令が伝えられる。
この公家はびっくり仰天するが、どうやら支払の方は、幕府が引き受ける
と知って胸を撫でおろす。
では、なぜ衣装の調整は中止されたのか。 
秀忠が「今度の縁談はやめにしよう」と言い出したのだ。
理由はひとつ、後水尾天皇が、側近に仕えるおようという侍女に、去年と
今年にわたって子供を産ませたからである。



たんこぶを三つ上皇に送信  井上一筒




「うちの娘の輿入れの矢先、そういうことをさせるとは、不謹慎極まる。
 そんなところに嫁にはやれぬ」
と秀忠は開き直ったのだ。
その強硬な態度に、驚き慌てた後水尾天皇の書簡が残っている。
「さだめて我等行跡、秀忠公心にあひ候わぬ故とすいりゃう申し候。
 さように候へば、入内遅々候事、公家、武家共以て、面目しかるべか
 らざる事に候条…」
<自分の行跡が、秀忠の癇に障ったのだろう>と言い、
「自分は弟もたくさんいるから、それを即位させ、自分は出家する」
とまで言っている。 後水尾としても、多少ふてくされ
「出家するぞ、それでいいな」
と、凄んでいるが、何と言っても面目を失うのは、不行跡を天下に公表
される後水尾である。



和解するまで天使のラッパお蔵入り  山口ろっぱ





        後水尾天皇


天皇ともあろうものが、将軍から縁談を破棄されるなど前代未聞である。
結局、後水尾は譲位を思い止まり、和子入内は先約通りになるのだが、
秀忠はこのとき、凄みを利かせた強硬な条件を持ち出す。
「こうした宮中の風紀紊乱は、周囲の公家たちの不行跡にある」
として、数人の公家の配流や出仕停止を要求したのだ。
その中には、もちろん、おようの実家である四辻家の季継(としつぐ)
も入っている。
つまり、天皇個人の不行跡ではなく、公家たちに責任転嫁したわけだが
このときも秀忠が、根拠としたのは「公家法度の違反」であった。




落ち込んだ穴から今日も出られない  勝又恭子




「法度の前では、天皇も公家も例外は許されない」
ということを彼は天下に公表したのだ。結局、和子入内は、
その後に行われるのだが、ここでも後水尾は抵抗を見せる。
「先に処罰された公家を赦免すること、それが行われなければ、
 入内させない」
幕府はこれを受け付けなかった。
「すべては将軍姫君の御入内後ということにいたしましょう」
その方針通り、公家たちが許されたのは和子の入内が実現した
後であった。家康「公家法度」を作って宮廷の動きに枠をはめたが、
秀忠はこれを楯に、具体的に宮廷勢力を捻じ伏せたのである。




どの色を塗れど違憲は許されぬ  稲垣のぶ久




それにしても……この大業は秀忠にして成し得ることである。
もし家康だったら、女にはかなりだらしない彼は、かくまで正面切って
後水尾から一本とることは出来なかったに違いない。
秀忠は自分の身辺の「御清潔」を売物にした。
しかし、秀忠とて木石ではない。
実をいうと二度ほど側近の侍女に子を産ませているのだ。
前の一人は早逝したようだが、後の男の子は保科氏に預けられて
ひそかに養育された。
これが後に会津藩主になる保科正之であるが、秀忠は正室のお江を
憚って、彼女の生前は、この脇腹の子と対面しなかったという。
それで彼については恐妻家というレッテルを貼られているのだが、
真相はむしろ<御清潔ムードの秀忠>というイメージに傷がつくのを
恐れたからではないだろうか。
それにしても、側室腹の子が二人というのはいかにも少ない。
歴代将軍の中では謹直な方であることは確かである。
しかしこれは、彼が噴き上げる欲望を抑え込んでストイックに生きた
、というのではなさそうだ。




マナーモードにしてから人間に戻る  谷口 義



もしかすると、秀忠は政治がメシよりも好きだったのではないだろうか
そういえば、和子の事件の折でも、上洛中に実に秀忠はさまざまの手を
打っている。
一つはキリシタンを処刑している。
これはキリシタン弾圧の見せしめである。
あるいは天台宗の僧を招いて論議を行わせている。
 天台宗の教義を聞くとは殊勝だが、これは宗教工作の一つである。
朝廷が比叡山と歴史的な密接なつながりを持ち、その宗教的権威を
利用したのと同じ狙いを抱いてのことであろう。
その趣旨に沿って東叡山寛永寺が江戸に建立されるのは、秀忠の死後で
あるが、構想はすでに彼の時代に始っていたと思われる。
また朝廷工作の一貫として、九条忠栄が関白に再任されているが
この忠栄は、秀忠の妻・お江が先夫・羽柴秀勝との間に設けた
女の子の夫である。
この娘はお江が秀忠と結婚するにあたって、淀殿の手許にひきとられ
成人して忠栄の妻となったのだ。
秀忠は公家の処罰に先立ち、お江ゆかりの忠栄を起用した。
まさに彼の手にかかっては廃りものはない、という感じである。



四股を踏む切り取り線の真ん中で  菊池 京





興子内親王(のちの明正天皇)




「紫衣事件」




当時、名門の寺院の住持になるには、勅許を得る必要があった。
勅許があって後、はじめて紫の衣を着ることが許されるのであるが幕府
はこの制度にも歯止めをかけ、勅許を得る前に幕府の承認を得なければ
ならない、という「法度」を作っていた。
ところが、後水尾時代、法度を無視して勅許を願い、紫衣を着る僧が現
れたというので幕府はこれに文句をつけ、元和以降の勅許を無効とした
ーこれが「紫衣事件」である。
秀忠はここでも「法度」を持ちだす姿勢を貫いている。
しかも後水尾の勅許を取り消させたのだから、天皇の勅許よりも「法度」
が優先するという考え方であり、あきらかに後水尾への挑発である。



アンダーライン生きた証を残さねば  古久保和子




この事件は大波瀾を巻き起こした。
有名な沢庵宗彭(そうほう)が出羽に流されたのもその一つである。
しかし、幕府の狙いは宗教界を統制するだけでなく、もう一つの狙いが
あった。
後水尾が怒って「退位するぞ」というのを待っていたのだ。
そうすれば、ただちに高仁即位ーという計画だったが、これは見事に外
れた。 肝心の高仁が早逝してしまったのである。
(秀忠の娘・和子は、興子の前に後水尾との間に、高仁という息子を設
けていた。秀忠はこの皇子を即位させるべく、後水尾にかなりの圧力を
かけていたのだ)




全方位矢が向いている光の字   村上蝸風




これを機に、逆転攻勢に出たのは後水尾である。
幕府の手詰まりを見越して「退位する」と言い出したのだ。
「興子内親王を即位させれば文句あるまい」
というのが、その言い分である。
奈良時代の称徳女帝を最後に歴史から姿を消していた女帝の出現に秀忠
は難色を示すが、後水尾はかまわず退位を強行してしまう。
実は、後水尾の狙いは院政の開始にあった。
当時の興子は七歳未満の童女である。
政治が行えないのがわかり切っている。
だから上皇として後水尾が実権を握り、平安末期の「院政」を復活させよ
うという計画だったのだ。
事実後水尾は、幕府に相談もなしに、院の別当を任命したりして着々その
準備を進めはじめた。



くすぶった不満が出口探してる  相田みちる



秀忠家光は、ここで素早い対抗策に出る。
興子の即位を認めた上で、後水尾の待遇については、「万事後陽成院の
通り」とした。 院領は三千石、大名にも及ばない少額である。
これでは膨大な院の所領をふまえた平安末期のような院政をおこなえる
わけがない。
一方では、興子の周辺に眼を光らせ、何事も幕府の許可なしに公家たち
が独断で行えないように厳重な枠をはめてしまった。
期待せざる興子の即位であったにもかかわらず、この時点で幕府の朝廷
に対する統制は強化されている。
損して得を取った秀忠は、やはりしたたかというほかはない。
まさに虚々実々の駆け引きだ。
これだけ見ると、後水尾の抵抗もなかなかしぶといが、しかし、その過
程で、実は、秀忠は家康の成し得なかったこと、いや初代の征夷大将軍・
源頼朝以来の重要な課題を一気に解決しているのだ。




スゴイッと言われて凄くなってきた  下谷憲子






     公家を抑え込む秀忠




「狙いあやまたず」



画期的な課題の解決ー武家の官位の叙任、昇進についての権利をすべて
幕府が掌握してしまったことだ。
逆にいえば、朝廷は公家の官位についてだけしかタッチできなくなった。
権限の大幅縮小である。
これまでは、たとえ秀吉が関白になったときは、公家社会の序列の中
に組み込まれる形をとった。
もちろん、秀吉自身の権力にものをいわせての割り込みであり、家康
征夷大将軍になったのも、内大臣になったのもすべて同じ形である。
しかし、秀吉も家康も天下の実力者ではあるが、形だけは公家秩序の中
に入った、ということになる。
つまり、官位の任免は、天皇を頂点とする公家的な序列に一本化されて
いたのだ。



結論を髪のにおいが惑わせる  宮井元伸




それが今度は、公家は公家、武家は武家の二本立てになった。
武家は、公家社会の序列や定員制に関係なく、幕府の権限で任命できる
ことになったのである。 例を現代にとってみよう。
春秋に行われる大量叙勲ーーこれは政府が内定し、天皇が勲一等なり何
なりを授ける、という形をとる。
ともかく叙勲は国家、すなわち政府の手で一本化されている。
それが、たとえば労働者には労働団体が、政府に断りなしに、独自に同
じ勲一等を授けられる、ということになったらどうであろう。
幕府がこれを打ち出したのは、いわばこういうことなのだ。
政府がかりに誰かを勲四等にしたい、と思っているところを労働団体が
さっさと勲一等を授けてしまったら、政府のお値打ちはガタ落ちだ。



A4でなくても僕に陽が昇る  三浦蒼鬼




日本の歴史はじまって以来、天皇と朝廷が握り続けていたこの権利は、
大きく制限される。
もちろん形の上では従来通り、朝廷から任命される形をとるが、幕府は
割り込み制をやめて独立性をとったのだ。
これは朝廷の権威・権力を制限するとともに、もう一つの意味がある。
たとえば、朝廷が有力な西国大名に官位を与えて、何かを企もうとする
ことは、もう不可能になったのだ。
その意味で、これは幕府の有力大名への牽制球でもあり、福島正則の改
易と表裏一体をなす政策であった。
このあたりに、秀忠の政策の凄みがある。


週末になると赤鉛筆が減る  中村幸彦




たしかに幕府は一応の安定期に入った。
その次に行うべきは、心の許せない外様大名と朝廷に睨みを、きかせる
こと、それ以外はない。
わが娘の入内という、見かけは平安朝を復活させるような大時代な行為
の蔭で、秀忠<狙いあやまたず>この両者を押さえ込んだのである。
その意味で秀忠は優れた政策マンである。
にもかかわらず、秀忠が正当な評価を得ていないのはなぜか。
それは、誰にも気づかれず、こっそりと大仕事をやってのけることこそ
秀忠のナンバー2的精神の真髄なのだから、はじめは父家康を、ついで
は息子の家光を表面に押し出して、でき得る限り最小の名声で我慢する。
これこそ秀忠の望むところだったのだ。



音も匂いも位置もあの日のままの部屋  藤本鈴菜




「ナンバー2」は名声をほしがってはいけない。これは鉄則である。
ー名もなく、したたか、狡猾にー秀忠はその見本のような存在だった。
<あるいは、有名にならなくては何の生き甲斐があるか、という向きも
あるかもしれない>
が、こういう目立ちたがりやには、ナンバー2はつとまらない。
ましてナンバー1を出し抜いて檜舞台で踊ってみたいといようなタイプ
は失格である。
ーじゃあ、何を生き甲斐にー
歴史というものは、史上の有名人ではなく、秀忠のようなナンバー2に
甘んじられる人間によって作られ、動かされていくのである。
そして秀忠が、「幕藩体制固め」という大仕事をやりぬけたのも、ナン
バー2時代の我慢と、その間に事態を見極め、あらかじめ独自の組織作
りを行い、緻密な現状分析を怠らなかったためなのである。



戦場に角を失くしたカタツムリ  湊 圭伍

拍手[4回]

二代目の振る舞い方は方は鷹だけど  新海信二





      女性を遠ざけてみる秀忠





家康は1603年(慶長8)に征夷大将軍となってからたったの2年で
将軍職を嫡子・秀忠に譲った。どうしてなのか?
「関ケ原の戦い」の後、豊臣家は領地を削減されて約60万石の一大名
となったが、秀頼を主君と仰ぐ大名は少なからずいた。
早期に将軍職を自らの嫡子に継承することで、家康は、日本の統治者が
徳川家であることを天下に示そうとしたのである。
1611年には、二条城で「三カ条の法度」を発し、諸大名に幕府法へ
の遵守を誓わせて、幕府が最高権力機関であることを示した。
1615年には「大坂の陣」によって豊臣家を滅ぼした家康は、諸大名
を伏見城に集め、「徳川秀忠の命」という形で、諸大名統制のための全
13ヶ条の法令を発布した。 いわゆる「武家諸法度」である。
秀忠は、凡庸な2代目とされ、家臣の人望やカリスマ性はなかったが、
知力・政治力は家康も認めるところであり、幕府の礎づくりを任せた形
である。 豹変して、秀忠は家康の期待に応えて、強権政治を行った。


色落ちしてはならぬと武家諸法度  酒井かがり






 甘える女性にご満悦の家康




家康
ー永井路子さんが語る秀忠




「親父殿も女に目がなかったが、息子も…というのは芸がなさすぎる」
秀忠はどうやらこれの逆手を使ったらしい。
どうやら、こうしたマジメ人間秀忠の話は、彼自身の演出によるところ
も多いらしい。 (秀忠の)マジメ人間が定着したころ、家康
「ああ、律儀でも困ったものだ。世の中律儀だけではいかぬからな」
と、側近の本田正信に洩らしたという。正信が秀忠に
「ですから、たまにはウソを仰ったほうがいいのでは」
と、すすめると秀忠は大マジメに答えた。
「父君の空言なら買う者もあろうが、俺のウソなど誰が買うものか」
が、これで見る限り、秀忠は全くのクソマジメ人間ではなく、なかなか
ユーモアに富んだ人物ではなかったか。
ともあれ、秀忠は密かに父と違う自分を印象づけるのに成功した。


快晴の笑いを放つメロンパン  川畑まゆみ





   女性には興味のない家光





秀忠はあまり趣味のない男だが、「鼓」を打つことだけは好きだった。
が、家康が死ぬと、その楽しみもぴたりとやめてしまった。
側近が見かねて
「何もそこまでなさらぬとも…お道楽とてなさらぬ上様、せめて鼓ぐら
いのお楽しみはお続けになったら」
というと、彼はきっぱり答えた。
「いや、これまで自分は大御所さまの蔭に隠れていたから、何をしよう
 とも世間の注目をあびなかった。しかしこれからは違う、世の耳目は
 自分に集まる。自分が鼓好きとわかれば、ゴマを擂ろうとして、天下
 の者みな鼓打ちになってしまうだろう」
よく読めば、彼がかなり意識して、家康の蔭に隠れていたことがわかる。
またそれが彼のゼスチャーだったということを人々に分からせるために
彼は鼓という絶妙な小道具を使ったのである。



海老反りで小股掬いをしのぎ切る  宮井元伸




しかも秀忠の言葉は、意味深長でもある。
鼓を愛すれば大名もこの真似をする。
いやそれだけではない。 鼓打ちが政治的にチョロチョロしはじめる。
秀吉「茶」が好きだったのにつけこんで、茶堂の利休が政治的に暗躍
したこともある. 秀吉もはじめは茶を政治に利用しようとした。
ここでは身分の違う者が、かなり自由に顔をあわせることができる。
たとえば、武士と町人が政治がらみの密談をするには、絶好のチャンス
であり、事実、利休やそれ以前の茶人たちも、こうしたフィクサー役に
はうってつけだった。こうして利休は私設官房長官的存在になってゆく。
が、秀吉が博多商人と接触し、次の膨張策を考え出したとき…、
利休は<小うるさい存在>になってしまったのだ。


誰もいなくなるあさってのニュース  森田律子




「今まではオヤジ(家康)に従っていた、が、もうこれからの俺はこれ
 までの俺ではないぞ」
こうして、秀忠は、二代目将軍として腕を揮い始める。
そして、その一つ一つが、実は、徳川幕藩体制を固めるための重要施策
ばかりだった。 この秀忠時代こそ幕府の基礎を固めた時代ともいえる。
もし彼が、世評のように凡庸な二代目だったら、たちまちに徳川政権は
崩壊してしまったろう。
しかもそれらの施策は、実は秀忠がナンバー2時代に温めてきたもので
あり、それが実現できたのは、彼の握った人脈のお蔭である。




二度とない今生きていく骨密度  靏田寿子




秀忠がもっとも力を入れたのは、大名の転封、改易、つまり人員の配置
転換と人事掌握である。
江戸時代大名は、将軍が変わるたびに、改めて朱印状をもらわなければ
ならない。 このしきたり元祖が秀忠なのである。
これによって、秀忠と大名との主従関係が再確認される。
とりわけ領地が増えるわけではないが、朱印状を頂いたというだけで、
<ありがたきしあわせ> なのである。
同時に効果的な配置転換や加増も行われた。
大坂の陣などの論巧行賞も含んでいる。
とりわけ近畿の場合は、京都及び西国大名に眼を光らせるために、拠点
を信頼できる譜代の連中に守らせた。
<そなたたちを頼みに思うぞ>という意思表示であったえ、彼らは秀忠
への恩義を感じ、忠誠を誓ったはずである。


猫の肉球ネットワークができましいた  市井美春


「宇都宮釣天井事件」


なかでも注目すべきは、福島正則本田正純「改易」である。
広島の大名・福島正則は、周知のとおり秀吉の子飼いである。
が、関ヶ原の合戦にあたっても、いち早く徳川支持を打ち出した正則に
ついては、家康もさすがに手を伸ばしかねてかねていた。
その大物を、秀忠はついに改易してしまった。
理由は、幕府の許可を得ずに広島城の修築を行ったからである。
そして、もう一人の本田正純の改易も、それを理由にしている。
つまり「法度違反」である。
こうして改易させられた二人だが、正則と正純の場合はいささか事情が
違っている。



出し抜いたのは鴨ですか葱ですか  田口和代





     福島正則




福島正則の場合は、あきらかに秀吉系の大名の取潰しであり、西国九州
筋の有力大名への見せしめだった。
<いかなる大身でも容赦はしないぞ> というゼスチャーなのだ。
一方の本多正純の事件は、「宇都宮釣天井事件」として有名である。
<正純が釣天井という怪しげな仕掛けをつくり、日光東照宮参拝のため
 にここに泊った秀忠を亡き者にしようとした>、というのだが、
これはもちろん作り話である。
真相は<秀忠宿泊の折に手落ちがあっては>、と正純が密かに城の防備
を手直ししたということらしいのだが、この時も秀忠は、
「動機は何であれ、無断修築は法度違反」
として正純を改易してしまった。




張り紙は禁止と書いてある背中  笠嶋恵美子




     本多正純




正純は父・本多正信とともに、亡き家康の側近だった。
若年ながら、幕閣の最高機密にタッチし、人から一目おかれていた。
諸大名も、何かといえば、正純に、<取りなしを頼む>、というような
ことが多かったらしい。
こうした先代の側近という人間くらい扱い難いものはない。
<少しはウソをつきなさい>と進めたのは、正純の父・本田正信である。
このような調子で、<正純にも人生の指南役などされてたまるか>
というのが、秀忠の本心であったのではなかろうか。



父に似た信楽焼をなでてみる  宮原せつ



秀忠がこれだけ思い切った手を打てたのは、もちろん彼の周囲によき側近
がいたからである。 ただし彼らは、いわゆる怪物的な側近ではない。
年寄衆と呼ばれ、のちに老中にあたる。
安藤重信、酒井忠世、土井利勝、酒井忠利らがそれで、つまり彼らが一つ
の組織として機能し、秀忠を支えたのである。
<俺が乗り出せば、社長もいやとはいえない>といった類の、得体のしれ
ない人物をのさばらせるのではなくて、組織による運営、合議による決定
という合理性を打ち出したのだ。
家康もその方向に向かって進みつつあったが、その形を強化・固定させた
のは秀忠なのだ。




人様に知られていない腹黒さ  大高正和




「宇都宮釣天井7コマ解説」















箇条書きすると私が見えてくる  津田照子

拍手[5回]

おい不死身 右が二重になってるで  酒井かがり





         「東京開化名勝ノ[内]」 (東京中央図書館所蔵)
家康から精神的解放され快活な秀忠。左・本多正純。



生まれながらにしてナンバー2を予約されたような人物がいる。
個人会社的な色彩の強い企業体の二代目・三代目がそれにあたる。
ナンバー2、いや3,4,5…だって至難のこのごろ、羨ましいような
話だが、しかし、ある意味では、最も危険にさらされているのは彼らか
もしれない。
現代よく見られる同族会社の内紛は、それをよく示している。
<ー創業時代の苦労を知らない坊ちゃん育ち…だ…>
と言われることが多い。二代目の辛いところはそのあたりにある。
うまくいってもともと、少しでも失敗すれば、やはり器ではないの何の
とたちまち袋叩きに遭う…。
と、始まる「はじめは駄馬の如く」を執筆をされた永井路子さんが令和
5年1月27日、老衰で死去された。97歳だった。

記憶とや鍋にいっぱい羊雲  山本早苗



「歴史をさわがせた女たち」「一豊の妻」など女性の視点から描いた
歴史小説やエッセイを数多く執筆。「北条政子」「毛利元就の妻」
どは、それぞれNHK大河ドラマの原作になった。
「炎環」65年直木賞、「永輪」82年女流文学賞、菊池寛賞、そして
「雲と風と」88年吉川栄治賞と数々の賞を受けている。
「言葉ってものは用心しなきゃいけない。美しい言葉の裏に何が隠れて
 いるか。そこまで見なければ、歴史ものはかけない」
「これは私の遺言状」と笑いながら熱のこもった口調で話していた姿が、
心に残っている。


亡き人の宴だろうか茜雲  佐藤 瞳






       秀忠と家康  やっぱり親子



家康ー2代将軍・徳川秀忠



ー創業時代の苦労を知らない坊ちゃん育ち…?
歴史上にも、こうした「幸運」に泣いた人物が何人かいた。
その一人として、徳川秀忠をとりあげてみたい。
いうまでもなく家康の息子、徳川幕府の「二代将軍」である。
実をいうと彼は生まれついてのナンバー2ではない。
何故なら彼は家康の三男坊、そのままの地位でいれば、とうてい将軍の
座は廻ってくるはずがなかった。
ところが、長兄の信康は悲運の最期を遂げた。
まだ家康にさほど力がなかった頃、信長の娘・督姫と結婚させられたが、
さまざまの経緯があって、信長のために自刃させられてしまった。
<政略結婚の悲劇であるが、これは信長が信康の才幹を見抜き、
 生かしておいては、将来の憂いになると思って殺してしまった>
とも言われているが、真偽のほどは、とにかく、そう思われても当然な
くらい、信康は優秀な若者だった。


洗濯場霊安室の横にある  富山やよい




次兄の秀康も早死にした。
秀康秀吉の養子となり、中世以来の名門結城氏を継いでいる。
これも秀吉と家康との政治的な取引で、いわば家康が秀吉に息子をむし
りとられたようなところがある。
しぜん秀忠が徳川家の後継に決まった形になったが、勇猛な武人タイプ
の秀康に比べると秀忠はどうも冴えない。
<こいつではなぁー> 家康も秀忠を後継にすることには、
内心不安を感じたのではないだろうか。
大人しくて、正直なのが取得といえば取得だが、しかし、戦国乱世では
むしろこんな取得は最大の欠点であるからだ。




誤作動のまんま冷や汗かいている  山本昌乃




      お 江 与




もっとも秀忠にとっても、後継の座は決して、有難いものではなかった
かもしれない。そう決まると、秀吉お声がかりで、八つも年上の女を妻
にしなければならなかったのだから…。
彼女の名は、おごうお江、小督などとも書く。
淀殿の妹、つまり、信長の妹のお市が近江の浅井長政に嫁いで設けた三
人娘の末妹だ。 このときおごうは23歳、すでに二度の結婚歴がある。
一度は生別、二度目は死別。
いずれも秀吉の決めた縁談で、二度目の夫は秀吉の甥の秀勝だった。
秀勝が朝鮮半島出兵の折に病死したので、その間に生まれた女の子を姉
の淀に托して、秀忠と結婚することになったのである。


マジシャンの指の先から日が昇る  笠嶋恵美子




17歳の秀忠はもちろん初婚、選りに選って年上の古女房をあてがわれ
るとは…。 嬉しくもなんともなかったろうが、おとなしくこの古女房
を受け入れた。その後も浮気らしい浮気もせず、2人の間には多くの子
女が生れた。
思えばこれが、ナンバー2としての我慢の第一歩である。



手を振って笑ったような猫だった  森  茂俊




  胸を張って失敗をする秀忠




その後、秀忠は取り返しのつかない大失敗をしてしまう。
秀吉の死後に起った「関ヶ原の合戦」に後れをとってしまったのだ。
このとき、家康は東海道を進んだが、、秀忠は中山道を進んだ。
ところがその行く手に、真田昌幸の守る上田城があった。
昌幸は音に聞こえた戦さ上手である。
秀忠はその城を攻めあぐね、やっと関ケ原に着いたときは、戦いはすで
に終わっていた。
「何たるドジ、マヌケ!」
家康が怒るのも無理はない。
天下分け目の戦いに間にあわなかったのだから。
「面目次第もござりませぬ」
秀忠は平謝りに謝るばかりである。
「父上だって途中で抵抗されたら、うまく関ケ原で戦えたかどうか」
などとは言えない。ましてや
「父君だってお若いころは、三方ヶ原の戦いにお負けになったではあり
 ませんか」
などと言ってしまえばおしまいである。



緊張の糸はそんなに伸ばせない  上坊幹子




しかしこのことは、秀忠にはかなりこたえたらしい。
のちに大坂冬の陣の折りには、
「今度こそは、関ヶ原の二の舞はしないぞ」
とばかり、先鋒の伊達政宗を追い越さんばかりの猛スピードで、息せき
切って大阪に駆けつけた。
が、そのために、またもや家康から大目玉を喰う。
「隊伍を乱して慌てて駆けつけるとは、何ごとか。それで大将がつとま
 ると思うか」
なるほど、この時は、秀忠の本隊だけが先行してしまって、彼の率いる
大部隊はこれに追いつけなかった。
総指揮官としては、確かに手落ちである。
重ね重ねの大失点、大失策。
正直すぎてはったりがきかない。秀忠らしい生き方が丸出しである。


屋根裏に埃被っている兜  但見石花菜



このとき秀忠はすでに父の譲りをうけて将軍の座についている。
名目的にはナンバー1であるはずの彼が、作戦=つまりそのころの中心
課題で落第点をつけられるとは、まったくの形なしではないか。
「もう俺がナンバー1なんだ。隠居は黙っていてもらおうじゃないか」
こう言いたいところである。あるいは
「文句があるなら、そっと伝えてくれりゃいいのに。あれじゃ、こっち
 の面目丸潰れだ。今後、下の者への示しがきかなくなる」
というようなことにまで発展しかねない。
では、秀忠はどうしたか、じっと堪えて家康に頭を下げた。
思えば秀忠は、ナンバー2にとって慰めの星である。
彼は決して凡庸な二代目ではない。
こうして我慢しながら、彼は彼なりの生き方で、じわじわ独自の世界を
築き上げていたのである。



ほんのりと海馬の裏が赤くなる  蟹口和枝




   これはこれは忝い賜りもの…




「一方美人」 episode
家康が駿府に引退してからのことだ。
あるとき、秀忠がご機嫌伺いに罷り出ると、
「よく参った。ゆるりと休んでゆくがよい」
家康は手回しよく、側の女房の中から目鼻立ちの整ったのを選んで、
秀忠の許に菓子を届けさせた。
<独り寝は寂しかろうから…>
女好きの家康らしい粋な計らいである。 ところが秀忠は
「大御所様からのお使い」
と聞くと、恭しく招じ入れ、彼女を上座に据えて、
「これはこれは忝い(かたじけない)賜りもの」
四角張って菓子をおし頂いた。
が、会話はそこまで、一向にその先へと進展しない。
意を含められてきた若い女房ももじもじしている。
と、秀忠は訝しそうに言った。
「はて大御所さまからの菓子も頂戴つかまつった。
 もうお役目も終ったはず。ほかに何か大御所さまよりの御伝言でも」


凡人と呼ばれ気楽なシャボン玉  下林正夫


「いえ、あのー…」
「あ、左様か。もう伝言もないか。ご苦労であった。では、お見送り
 つかまつろう」
あくまでも大御所さま御名代として、丁重に扱い、彼女を送り返して
しまった…さすがの家康も、
「そこだけは真似られぬ。梯子をかけても俺はあいつには及びもつかぬ」
と、言ったという。
何とも融通のきかぬ石部金吉!
家康ならずとも、こんな真似はできるか、「阿保くさ!」と言いたいと
ころだが、実は、ここにセールスポイントの秘密があるのだ。
家康は知っての通りの多妻主義。
それも後家やら素性の知れない庶民の女など、手あたりしだい、
という趣がある。


ごめんねと金平糖を五つほど  指方宏子


                        秀忠②へ つづく



【永井路子ー作品プロフィール】
1925年(大正14)東京生まれ。東京女子大学国語専攻部卒業後、
小学館勤務を経て文筆業に入る。64年(昭和39)『炎環』直木賞
82年『氷輪』女流文学賞、84年菊池寛賞、88年『雲と風と』
一連の歴史小説吉川英治文学賞、2009年(平成21)『岩倉具視』
毎日芸術賞
著書に『絵巻』『北条政子』『つわものの賦』『この世をば』『茜さす』
『山霧』『元就、そして女たち』などのほか、『永井路子歴史小説全集』
がある。

拍手[2回]

いらっしゃいませどの淋しさにしましょうか 赤石ゆう




                          阿根川大合戦の図      (月岡芳年)




織田信長
には妹がいた。近国無双の美人と讃えられたお市である。
このお市を浅井長政に嫁がせて、「同盟」を結ぼうと考えた。
浅井長政さえ味方にしてしまえば、京の都への道は開けたも同然になる。
長政は信長の本拠・岐阜と京の間にあって、強固な基盤を築いていた戦
国大名である。その長政の城・小谷城は、「信長が、天下布武の理念を
実現し、天下に覇を唱える」ために京を目指す途上に聳えていた。
1568(永禄11)兄・信長の命に従ってお市長政に嫁いだ。
絶世の美貌を持つお市を娶った長政は「大果報の人」と羨まれた。
見も知らぬ他国へ輿入れした花嫁を、長政は優しく迎えた。
政略結婚で嫁いだとはいえ、お市は夫・長政を深く愛するようになった。




人生は薔薇を受けたり渡したり  市井美春





       浅井長政・お市画像



「どうする家康」
 お市の悲劇




永禄11年9月26日、信長は6万の軍勢を引き連れて京へ進撃した。
長政を味方にし、側面から攻撃される憂いをなくしていた信長軍は敵対
勢力を破竹の勢いで蹴散らして、上洛を果たした。
京に上った信長は、すかさず諸国の武士に命令を下した。
天皇や将軍に挨拶をする為に、ただちに京に馳せ参じよというのである。
この命令は、「天皇・将軍のために」という名目を掲げていたが、実質
的には「信長に従え」というものであった。
日出の勢いともいえる信長の力を恐れ、多くの大名が京の都に集まった。




ヘタを切り落とすと大人しくなった  竹内ゆみこ




だが信長の命に対し、中々態度を明らかにしようとしない大名がいた。
越前国(福井県)を支配する朝倉義景である。
朝倉家は、五代百年にわたって続いてきた名門で、古い家柄と格式を誇
っていた。 信長の命令に対し、朝倉家の家臣たちは口々に異を唱えた。
ー朝倉家は、代々、大国を預かってきた由緒ある家柄である。
どうして成り上がりの信長如きに従う必要があろうか。
義景は結局、信長の命令を無視してしまった。
これは信長にとって、思う壺であった。
天皇・将軍のためにという命令を無視したからには、
逆賊として討伐できる。




少量のニンニク添えた減らず口  宮井元伸




    浅井長政が、織田信長と戦っていた陣中から出した書状




1570(永禄13)4月20日、信長は3万の軍勢を率い、朝倉の越
前一乗谷に侵攻した。先陣をつとめるのは、売り出し中の木下秀吉
の若き盟友・徳川家康である。
不意を打たれた朝倉勢は壊滅した。
奇襲は成功し一気に朝倉の本拠に迫ろうとしていた矢先、思いがけない
知らせが、信長の陣にもたらされた。
「江北浅井備前手の反復の由」
浅井長政が朝倉方について、信長に叛旗を翻したというのである。
この時の信長が吐いた言葉は「虚脱たるべき」であった。
ー嘘であろう。まさか、あのお市を嫁がせた長政が裏切るとは……。
長政の「裏切り」を知ったその日、意外なことが起った。
信長が突如として戦場から姿を消してしまったのである。
「是非に及ばず」 あとに残したのは、このひと言だけであった。
戦場に3万の軍勢を残して、信長は消えた。
同盟者として参戦していた家康にすら、その行動は知らされなかった。



裏切りの予感は蜜を抱いている  前中知栄



目まぐるしく動く永禄13年は、元亀に改元された年でもある。
信長が消えてからの「姉川合戦」へと続く、激しい戦況を見てみると、
4月28日 取り残された織田軍に朝倉軍は、逆襲を開始した。 
      織田勢の殿(しんがり)となって敵を防いだのは、
      家康・秀吉・光秀の三武将であった。
      戦場から姿を消した信長は突然京の都に姿を現した。
6月19日 信長、近江に侵攻し長政の居城・小谷城に迫る。
6月21日 信長、小谷城に火を放ち虎御前山に布陣。
6月24日 浅井家の横山城を包囲。
6月25日 長政、小谷城を出て大依山に陣を移す。
6月26日 朝倉景建が長政の援軍として着陣。
      浅井・朝倉軍の兵力1万8千となる。
6月27日 浅井・朝倉軍、姉川北岸の野村三田村に布陣。
      織田・徳川軍、姉川南岸の上坂に布陣。
6月28日 徳川軍の朝倉軍への突撃から「姉川の合戦」がはじまり、
      浅井朝倉軍が敗退する。
合戦城周辺には「血原」「千人斬りの丘」などの地名が残り、戦いの
壮絶さを偲ばせる。
(血原とは兵卒たちの血で真っ赤に染まったとされる場所)



最後尾の星が一番泣いていた  矢沢和女





     日本五大山城の一つに数えられる小谷城。


標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の
方との悲劇の舞台として語られる城である。



「姉川の合戦」から3年。越前の朝倉義景を滅ぼしてのち、信長は満を
持して長政の小谷城を攻めた。
浅井の軍勢に昔日の面影はなく、孤立無縁の長政は、城を枕に討ち死に
を覚悟する。
この寸刻の後、城外門前から秀吉が、長政に大声を張り上げていた。
「城を明け渡してくだされば、命だけはお助け申そう」
だが長政は、生きながらえることなど望んではいなかった。
「命を惜しんで信長に屈するよりも、たとえ浅井が滅びようとも武士と
 して潔く冥途へ参る」
と、長政は開門を拒否した。




生命戦確かめるのは辞めておく  津田照子





           お 市




「一緒に死にます」
縋るお市長政は諭した。
「そなたは死んではならぬ。吾等のなからん跡までも、菩提を弔うて得
 さすべし」
<生きて私の菩提を弔ってくれ>というのが長政の最後の言葉であった。
やがて総攻撃の日、信長はまたもや城の前で兵を止め、攻撃を中止した。
信長はあたかも暗黙のうちに、長政と言葉を交わしたかのようにお市が
城を逃れるのを待ったのである。
この三日後、長政は小谷城落城とともに自刃する。
1573(天正元)8月28日のことである。
享年29歳。お市と長政の蜜月は、7年で幕を閉じた。



終点を降りてひとりの靴の音  荒井加寿





         浅 井 長 政




小谷城脱出の夜に、信長お市を近くに呼んで、
「長政には男子が一人たというが何処に行ったのか?近い親類のことで
 心配だ」
と言いくるめて、居場所を聞き出し、市に浅井の家臣・喜内之介へ手紙
を送らせて戻ってくるように伝えさせた。
喜内之介は、「北の方(お市)が迎えを寄こす」と、仰せられているが
信用できないと考え、「殺して捨てた」とウソの返事を送った。 が、
お市が重ねて信長が「…<良きにいたわる>と言っている」と手紙を送
ってきたので、喜内之介は、納得できないと思いながらも、万福丸に伴
って、9月3日に近江国本之木に着いたところ、待っていた羽柴秀吉
万福丸を受け取った。 (『浅井三代記』)



予感かなドアノブに手が凍りつく  笠嶋恵美子




これを秀吉が報告すると、信長は、「その子を串刺しにして晒せ」と、
秀吉に命じた。(万福丸が)串刺しにされて晒されたのは哀れなことだ
ったが、生まれたばかりの次男・万寿丸がいることを知る者はいなくな
ったのでは難を逃れたという。
『浅井氏家譜大成』では、万福丸と次男は市の出子でなく継母となった
お市の養子となったとされている。
お市の方が、秀吉嫌いになったと言われてるのは……嘘つきで万福丸を
助けると、城から連れ出したにも係わらず、処刑したから、といわれる。




雲は髪ほどけて雨の糸となる  野口 祐





         柴田勝家とお市




お市
長政との間に3人の娘を儲けている。
長女・茶々(淀君)1569年(永禄12)生れ。
次女・お初(常高院)1570年(永禄13)生れ。 
三女・お江(秀忠正妻)1573年生れ。である。
(尚、10数年後、この三姉妹は予測もしない人生を送ることになる)
このほかに長政には、少なくとも2人の息子が居たことが知られている。
先の万福丸と出家していて命は助かった万寿丸である。
(いずれも市との間に設けられた子供ではないと考えられている)
それから10年。
1582年、お市は、織田筆頭家老・柴田勝家と結婚をし、
三人の娘を連れて越前国北ノ庄城へ移る。
そこでもお市に幸せが来ること無く、争いの悲劇に翻弄される事になる。



ひだまりの猫は戦を語らない  越後朱美

拍手[5回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開