川柳的逍遥 人の世の一家言
ドライフラワーだったとしても薔薇に刺 美馬りゅうこ
「家康及び徳川十六将図」 久能山東照宮博物館蔵
鉄壁の結束を誇ったといわれる三河武士団だったが、「石川数正出奔」
という「あり得ない事実」に動揺が走った。 家康ー石川数正の背信
石 川 数 正
石川数正とは、剃刀のような切れ味鋭い頭脳の持ち主で、遠慮なく正論
をぶち、 外交役も務め、戦国武将と渡り合う度胸の持ち主。家康独立 の後も股肱の臣として支えた家康が最も信頼する古参の家臣である。 「数正のヘッドハンティングに走る秀吉、秀吉に奔る数正」
石川数正は、主君・徳川家康が今川家の人質だった時代から、随従して
いた譜代の重臣だ。彼は家康が自ら行った徳川軍団再編成のとき、三河 東部の旗頭である酒井忠次と並び、西三河の旗頭に任じられた。 この2人は「両家老」と呼ばれ、徳川家臣団の双璧として三河譜代衆の
尊敬を集めていた。 友達のまんまで鬼灯は熟す 安藤哲郎
戦場を馬でかける数正 その石川数正が、1585年(天正13)11月13日の夜、妻子や一族、
家臣など100余名を引き連れて岡崎城を脱出し、大坂城へ赴いて豊臣 秀吉に臣従した。 家康にとって、重要拠点である岡崎城代を務めるほどの数正が何故、また
突如出奔し、敵対する秀吉に臣従しなければならなかったのか。 「二君に仕えず」という、儒教一辺倒の考えが定着する江戸時代と異なり、
戦国の世は、むしろ複数の主君を渡り歩く武将の方が優秀であり、美徳だ とされてはいた。 しかし、それにしても、三河衆の柱石である石川数正の出奔は、鉄壁の団
結を誇る徳川家臣団にとっては、衝撃的な出来事だったのである。 岩盤のひびわれ仄かな反逆 森井克子
数正が出奔した直後、家康は小田原の北条氏直に書いた手紙のなかで、
数正の背後には、「秀吉の勧誘の手が伸びていた」と、言明している。 数正は秀吉の誘いに篭絡され、家康を裏切ったというのだ。
この裏切り行為によって受けた損害は、計り知れないものがあった。
家康が最も恐れたのは、三河軍団の戦術軍法が、敵側に筒抜けになるこ
とである。そこで家康は、急遽、武田信玄の軍法を研究させ、武田家の 軍法を取り入れた、新たな徳川軍団を再編成せざるを得なくなる。 蘭鋳は忘れぬ黒子だった過去 森山盛桜
数正は家康からの贈り物「初花肩衝」を秀吉を届けにきた。 「両雄の板挟みに苦しんだ数正」
数正が初めて秀吉に接触したのは、1583年(天正11)5月21日の
ことである。賤ケ岳合戦の戦勝の賀詞を述べるために近江坂本を訪れ、
家康からの贈り物「初花肩衝」の茶壷を持参した時だった。
秀吉はこれを喜び、数正を厚遇した。
『…十一年五月豊臣太閤に初花の茶壷を贈りたまふのとき、数正於使を
つとむ。十二年四月長久手合戦のとき、仰によりて酒井忠次、本多忠勝 とともに小牧山の御陣営を守り、六月前田甚七郎長種が前田の城をせめ、 城兵降をこふて引しりぞく…』 海 海 海 現場から以上です 兵頭全郎
2度目は、翌年の3月、「小牧山の陣」においてであった。
数正の部隊が掲げる金の馬蘭の馬標(うまじるし)を望見した秀吉は、
それを気に入り、使者を遣わして譲ってほしいと所望する。 数正が請われるまま馬標を秀吉に贈ると、秀吉は返礼として黄金を届
けてきた。 数正にそのことを告げられた家康は、「もらっておけ」と答えたが、
結局、数正は返却したという。 ノーヒントですとほほえむ地蔵さま 新家完司
家康が秀吉と信雄の仲立ちをした書状
1584年の小牧・長久手の戦いでは、秀吉、家康の両雄が激突した。
書状は翌年10月14日付で、家康が重臣を秀吉へ派遣したことに関し 「今後について相談することはとても結構なことだ」と記述。 「秀吉も慎重に事を進めるだろうから安心してほしい」として、
再戦を避けて秀吉に従うよう望んでいる。 つぎの会見は同年11月16日。 「小牧長久手の合戦」において、家康の形式的な主将である織田信雄が 秀吉と講和したとき、家康は数正を遣わして「和議」の成立を祝賀させ たのである。 このとき、家康との「和議」をはかろうとしていた秀吉は、家康の子を
養子にしたいと申し入れてきた。この場合の養子とは、実質上の人質と 考えてよいだろう。家康の2男で11歳の於義丸(のちの結城秀康)を 差し出すための使者もまた数正であった。
同年12月12日、数正は自らの子・勝千代(のちの康長)らを同伴し
大坂城へ向かったのである。
記憶とや鍋にいっぱい羊雲 山本早苗
家康・秀吉の板挟みに悩む数正・松重豊
1585年(天正13)秀吉は、紀伊の根来衆と雑賀衆を討ち、四国の長 曾我部元親、越中の佐々成政を降伏させ、家康を孤立無援に追い込んで いった。その上で秀吉は、まず数正を上洛させ、彼を通じて家康の上洛 を求めてくる。 しかし、長久手での実質的な勝利で自身を持っている三河衆は、「秀吉 との手切れも辞さず」と、主張するばかりで、数正は、天下の情勢を説 いて「和議」を唱える。 『…秀吉天下の半を領して諸将おほく其下風にたつ。今御麾下の士彼に
比すれば其なかばにもたらず、かつ北に上杉あり東に北條あり、三方 の敵を受ば、たとひ一旦利を得るとも永く敵しがたし…』 手の平で豆腐を処刑して ひとり 平井美智子
秀吉に洗脳されてしまったという声が囁かれ始めた頃、ひとり浮き上が ってしまった数正は、悩みを解き決意をするのである。 『…十三年十一月数正かつてより岡崎の留守たるのところ、ゆへありて
岡崎を出奔し、大坂にいたりて太閤につかふ。のち、従五位下に叙し、 出雲守にあらたむ。十八年七月小田原落城の後、信濃国松本の城主と なり八万石を領す。文禄二年卒す』 そして同年12月12日、数正は自らの子・勝千代(のちの康長)らを
同伴し大坂城へ向かったのである。 1585年(天正13)53歳の時、徳川家を去り、秀吉に仕える。
1590年(天正18)信州松本に8万石を与えられ大名になる。
1593年(文禄2)61歳で死去。
はじかれてスマートボールの一日 中野六助
法螺を吹く秀吉 (月岡芳年) 「秀吉の人心収攬術」
数正の背信行為の真相はなお謎とされているが、これまで、その出奔に
ついては、さまざまな憶測が語られてきた。 ① 数正は家康が秀吉のもとへ送り込んだ、というスパイ説
② 秀吉強硬派である本多忠勝らが、数正が秀吉と内通していると猜疑
し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したため、という説。 ③ 秀吉との間で「秀吉のところに行けば家康との戦を回避する」とい う密約があった、とされる説。 ④ わが陣営に来れば1、0万石の知行をとらせると度々、秀吉に言われ
数正がその気になった、という説。 ⑤ 家康が他の大名と別格であることを見せつけるため、つまり「数正
ほどの者が出奔して、やっと腰を上げた」と見せつけるために仕組 んだ芝居だった、という説。 等々である。 封筒の厚さにころり軟化する 木口雅裕
数正の本心は、彼自身に聞いてみなければ分からないが、1つ確かなこと
は、秀吉の「人心収攬術」に数正が嵌ったということだろう。 秀吉は敵陣衛のキーマンに狙いを定めると、その人物と友好的情報交換
を繰返すうちに戦わずして、隠れた味方変身させるという高等戦術を編 み出していたからだ。一種の洗脳である。 さすがの石川数正も「人たらし」と呼ばれる秀吉の前では、冷静にいら
れなかったのでは……ないだろうか。 胸奥を覗きましたねラフロイグ 宮井元伸
優しく理知的な御面相の結城秀康 【一筆知恵蔵】 結城秀康の奔放ライフ
家康の二男・秀康は「小牧長久手の戦い」の後、人質同然の身で秀吉の
養子となった。しかし案に相違して秀吉は、この養子を可愛がっている。 下総の名家・結城家を継いだのも秀吉の計らいによる。 関ヶ原の時は、宇都宮に軍を止めて上杉勢を牽制。
その功で越前国67万石の太守に任じられた。しかし秀忠が2代将軍と 決まったころから、秀康にわがままな行状が多くなる。 「徳川より太閤に受けた恩のほうがずっと深い」と公言して、大坂方を
贔屓にしたり、鉄砲を持ったまま関所を押し通ったり。
家康は秀康を責めなかった。
誰が見ても、弟の秀忠より優れている秀康を、将軍にしなかったことを、 すまないと思ったのかもしれない。 家康にしてみれば、器量抜群の秀康よりは、親の言うことを何でも素直
に聞く秀忠の方がコントロールし易かったのである。 秀康は、慶長12年(1607) に34歳で急逝した。
容態を案じた家康が、「病気が治ったら百万石やるぞ」と、励ましたが
その知らせは間に合わなかった。 薄味に慣れて性格まで変わる 瀬戸れい子 PR 美しい言葉にもあるうらおもて 津田照子
小田原城屏風絵
城下の人々の賑わいが描かている小田原城は、城郭内に田や川、
町までを備えており、兵糧攻めが不可能と思える程に巨大で、
難攻不落の様相があった。
「episod 1」 「猿の放った一芝居」 秀吉が死ぬまでは面従腹背の「タヌキ」ぶりを発揮していた徳川家康。
家康と秀吉との戦いは心理戦だった。小牧・長久手の合戦を契機とした
エピソードが伝わっている。
『戦いの後、秀吉との和議に応じた家康と信雄だったが、家康が本心か
ら秀吉に臣従しているか』、疑う声も多い。
そこで秀吉は、のちに北条氏の小田原城攻めへの途上、先鋒として出陣
していた家康と信雄を訪ね、やおら刀を抜くと、
「信雄・家康に逆臣有りと聞く、一太刀まいらん」
と、叫んで斬りかかる格好をした。
秀吉にすると相手の反応を見るための演技だったが、動揺したのは信雄。
真に受けてオロオロと逃げ回ったが、家康は全く動じず秀吉の供の者に、
「殿下が軍始に御太刀に手をかけられた。めでたいことだ。みなお祝い
なされ」 と、軽くいなし、その場を丸く収めたという。
かき揚げにするとお酒にあう台詞 西澤知子
タ ヌ キ と サ ル 家康ータヌキはサルに化かされた
戦いに利のないことを、互いに悟って和議を結び、終戦とした小牧・長
久手の合戦。これによって、それまで、三河の一地方勢力にすぎないと 見られていた家康の名は、一気に天下へ鳴り響いた。 日の出の勢いの秀吉に伍して、兵力に劣りながらも一歩も引かずに戦っ
たからである。 「小牧・長久手の合戦」の後、家康は、本拠地三河を中心に、東海地方
や甲斐・信濃に勢力を固め、秀吉との新たな戦いに備えた。
ところが、そんな家康に、秀吉は思いがけない提案をしてきた。
どうしてもあと一ミリが届かない 吉松澄子
秀吉の母・大政所
家を支える多くの門閥を持たない秀吉にとっては、頼れるのは家族以外 にはいなかった。すなわち秀吉にとって家族は宝であり、とりわけ母に 対する孝心に厚かったことは、家族に宛てた多くの書状に垣間見える。 大政所が病床にふせたときには、諸寺社に病気回復の祈祷を頼み込んだ ほどで、愛し信頼していたがゆえに、秀吉にとって家族は最後の切り札 だったのである。 秀吉の妹・旭姫を家康に嫁がせるというのである。 それは、家康と身内でありたいという秀吉の意志を示すものであった。
家康は秀吉の意を酌んで、旭姫と結婚した。
しかし、家康はあくまで三河の地を拠点として、秀吉のもとには赴かず、
対等の立場でいつづけようとしていた。 そんな家康に、秀吉は二の矢を放ってきた。
なんとか自分のもとに出向いてくれるようにと、秀吉は「自分の母を人
質に出す」と、言ってきたのである。 こうまでされては、家康も断り切れるものではなかった。
身を焦がし鳴かぬホタルがいとおしい 都 武志
金ぴかの大坂城 1586(天正14)10月、家康はついに秀吉がいる大坂城に赴いた。 面会を明日に控えた夜のこと。
秀吉は前触れもなく、突然、家康のもとを単身訪ねてきて、こう言った。 「明日の面会の時は、ほかの武将たちの前で、この秀吉の顔を立てて、
頭を下げてほしい」と、 翌日、家康は、約束どおり秀吉に頭を下げた。
その刹那、秀吉は前夜とは打って変わった高圧的な態度で、家康に言い
放った――「上洛大儀」 手も足もまるで他人のふりをする 石川和巳
万座の席で、秀吉の家来であることを見せつけるーその演出に、家康は
まんまと嵌められてしまったのである。 家康は、もはや秀吉には逆らえぬと覚悟した。
家康さえ味方につけてしまえば、もう秀吉に怖いものはない。
中国・四国の大名を従えた秀吉は、その勢いをかって、翌1587(天
正15)には、早くも九州を平定、つづいて1590年には、関東の大名・ 北条氏政の攻撃に乗り出したのである。 この戦で、家康は遠征軍の先鋒を務めさせられた。
秀吉軍は、家康がかけた橋をわたって進軍してきた。
総勢21万余、北条氏政の居城小田原城を取り囲み、悠然と攻略する構
えを見せた。 自画像の線が微妙にズレている 立蔵信子
『新撰太閤記 小田原征伐』(歌川豊宣)
眼下に小田原城を石垣山にて意見を交わす秀吉と家康。
石垣山城は秀吉がわずか80日程築いたといわれる。
「episode 2」 「秀吉と連れ小便」話
これは豊臣秀吉の小田原征伐における一幕である。
秀吉は、家康と今後の領国経営の話をするために、小田原が一望できる
場所に「連れションしようぜ!」と誘った。 家康もこれに応じ、二人で連れ小便をすることになった。
秀吉が切り出した話は、
「北条氏政が滅ぶのは、もはや時間の問題。 そこで家康殿、ものは相談
じゃが……、この広大な関東の地を家康に任せる代わりに、家康殿が 長年に渡って守り続けてこられた三河を含む旧領をわしにくれまいか? どうかな?」 と、いうのである。
硬く考えれば、領地替えの話をざっくばらんに言い出す秀吉であった。
熱い茶とぬるい会話のワルツです 舟木しげ子
なかなか言い出しにくい話も、連れ小便なら腹を割って話せるだろうと、
小賢しい知恵で秀吉は、家康を連れ小便に誘ったのだった。 <営々と拠点を築いてきた三河を捨てて遠い関東へ行けとは……>
あまりにも無理な要求である。
家康の家臣たちは、口々に反対した。
「これは罠に違いありません。
殿!ここでまた、秀吉の口車に乗せられてはなりません」 ところが、家康は意外な行動に出た。家臣たちの反対を押し切り、僅か
2週間後には、秀吉の命令どおり、先祖伝来の地・三河を離れ江戸に向 かうのである。 心変わりを決断させた円舞曲 靏田寿子
――今となっては、秀吉と自分の勢力には差がつきすぎており、到底、
逆らうことはできない。しかも、秀吉が与えるという関東八か国は、 石高250万石である。今の秀吉の所領200万石よりも多い。 <それほどの好条件を出されて、なお断れば、非はこちらにあるという
ことになり、難癖をつけられて攻め滅ぼされてしまうかもしれない。 ここは秀吉の言うとおりにするしかない……>
それが家康の胸中だった…に違いない。
アドリブで生きてきましたこれからも 合田瑠美子 鍵括弧の中が沸騰しています 雨森茂樹
「長久手合戦図屏風」 (徳川美術館蔵)
長久手の追撃戦における井伊直政の活躍が中心に描かれており、
康政の姿をみることはできない。
右から5番目の第5扇・上部には森長可、第4扇の下部には、
池田恒興の討死の様が描かれている。
第5扇 黒い旗印は森長可か 第4扇 二本の槍に倒れる池田恒興 1584年(天正12)3月、織田信長亡き後の覇権を争って羽柴秀吉
と徳川家康の両雄が対決した。 「小牧長久手の合戦」である。
両軍は、相手が動き出すのを待って睨み合ったまま、戦線は膠着状態に
陥っていた。その最中、家康の陣営から一枚の「檄」が発せられた。 屏風図にはっきりと描かれている旗印 井伊直政 酒井忠次 森長可 池田恒興 流氷のにおいを抱いている手紙 赤松ますみ
家康ー榊原康政の檄文 榊原康政の石像 東岡崎駅近く桜城橋に立つ
右手に筆をもち檄文を書き終えた様子で立つ。
「家康ー危ない檄文の中身」
「檄」とは、敵の罪悪などを挙げるとともに、自らの主張も述べて広く
知らせる文書のこと。 これを読んだ秀吉は、烈火のごとく怒った。 書かれていた内容は、凡そ次のようなものである。
『信長公が倒れると、秀吉はその恩も忘れて、まず信孝公(信長の3男)
を殺し、今また信雄公(信長の2男)を討って主家を倒そうとしている。 これは大逆無道の振る舞いで、言うも愚かである。 一方、家康公は、信長公との親交を想って憤慨に耐えず、信雄公を助け
て大義のために立ちあがり、秀吉を討とうとしている。 天下の諸侯よ、逆賊・秀吉に味方して千載の恨みを残すより、我ら義軍 に味方して逆賊を討ち、その名を後世に伝えられよ』 セレナーデ流す壊れた鍵穴に 河村啓子
これより先の1582年(天正10)6月、信長が本能寺に倒れると秀吉
は、「山崎の合戦」で主君の仇・明智光秀を討ち、自ら天下取りに乗り 出した。 翌年4月には、「賤ケ岳の合戦」で柴田勝家を倒し、勝家に 味方した信孝を自害させている。 次に邪魔になったのは、事実上、信長の跡を継いだ信雄や、今川義元亡
き今「海道一の弓取り」と称される徳川家康だ。 秀吉は、信雄の家老たちの離反をはかるなど、得意の外交で揺さぶりを
かけるが、信雄は、家康に応援を求め、両者の同盟が成立した。 一丁噛み流れに棹をさしたがる 油谷克己
榊 原 康 政
これによって家康には、「主君信長の遺児に味方して逆賊を討つ」とい う大義名分ができ、一方の秀吉には、「主家の織田家に弓を引く」とい う弱みが生じていたのである。 家康陣営から発せられた「檄」は、秀吉の一番痛いところを突いていた。
秀吉が激怒したのも無理はない。
檄を書いたのは、徳川四天王のひとり・榊原康政で、怒り心頭の秀吉は、
「康政の首を取った者には恩賞望み次第」という触れをだしたという。
人間味嗅ぐとあの人鼻つまみ ふじのひろし
榊原康政小牧山檄文檄文の図 (揚州周延)
「榊原康政とは」
筆一本で秀吉を激怒させた男・榊原康政は、1548年(天文17) 三河
上野郷で生まれた。榊原氏は、代々松平家に仕えた三河武士で、康政は 15歳のときに、家康にその器量を認められお側付きとなった。
当時の三河では一向宗が強い勢力を持っていたが、康政が家康に仕え始
めた翌年の1563年(永禄6)、大規模な一向一揆が起った。 16歳になった康政の初陣の相手は、この一揆軍であった。
三河上野の戦いで、彼はめざましい働きをする。
その功により、家康から「康」の一字を与えられ、それまでの小平次と
いう名を改めて「康政」と名乗るようになった。 未使用の命につけるGPS 森乃 鈴
「三河一向一揆」は、翌年の2月にようやく平定され、家康は勢力拡大
へと動き始める。康政も家康とともに、数々の戦塵を潜ることになった。 「三方ヶ原の戦い」では、武田信玄のために手痛い目に遭ったりしたが、
領国拡大のための多くの合戦では、常に先陣を切って戦い、 「あるいは城を攻め、あるいは野に戦うこと数えきれず、およそ康政が
向かうところ、打ち破らず、ということなし」 と、称えられたほどの活躍をしている。 連帯の覚悟を問うている戦禍 前中知栄
小 牧 山 陣 形 1584年(天正12)3月、信長の遺児・信雄を支援するという大義名
分をもって家康は、秀吉と戦端を開く。 家康は小牧山に本営を置いたが、これは康政の進言によるものであった。
小牧山は標高86m。たいして高くはないが、平坦な野にあるため周囲
を一望できる戦略上の要地である。 当然、秀吉方もそこに目をつけ、ただちに配下の森長可(森蘭丸の兄)
軍を8km北方の羽黒へ進出させたが、康政らが奇襲をかけて、これを 潰走させた。 秀吉軍は、小牧山の北東3kmに本営を構え、徳川軍と向かい合う。
4月6日、羽黒での敗戦の挽回を狙う森長可とその義父・池田恒興らは、
家康が留守にしている三河の本拠地を攻撃する作戦を立て、ひそかに出 発した。 ウインナーワルツ鳴門の渦になる二人 井上恵津子
小 牧 山 康 政 秀 吉 を 追 う しかし、家康はこの行動をすぐに察知し、康政らを率いて追撃に入った。 池田恒興と森長可は、まっすぐ三河へ進むべきなのに、途中の小城の攻
略に時間をとられ、長久手の付近で徳川軍に追いつかれてしまう。 池田・森軍は、背後から急襲されて大混乱に陥り、池田恒興も森長可も、
乱戦の中であえなく討死。徳川軍の大勝利であったが、いうまでもなく この戦いでも康政は奮戦した。 この「長久手での戦い」の後、両軍は対陣したまま相手の出方を窺って、
戦線は膠着状態に入った。 康政の檄はこのときに書かれたものである。
青かった地球に少し焦げ目つき 真鍋心平太
初花肩衝 和議に際し秀吉から家康に贈られた信長の茶壷 結局「小牧長久手の戦い」は前哨戦の「羽黒の戦い」と「長久手の追撃」
以外には、戦闘らしい戦闘は行われず、11月に秀吉からの申し入れで、 講和が成立した。 これら一連の功績に家康は、康政に千貫を加増し「笹穂の槍」を与えて、
その功を賞している。 しがらみをやっとたち切り無重力 松浦英夫
2年後、秀吉は、家康の後妻として妹の旭姫を輿入れさせることにし、
その結納に際し、家康側の使者として、榊原康政を希望した。 康政と対面した秀吉は、例の「檄」について
「あの時は腹が立って、そなたの首をとってやろうと思ったが、今は主
君に対する忠誠の志と感じ入っている…。それを言うためにここに呼 んだ。儂もお主を小平太と呼んでよいか。徳川殿は小平太殿のような 武将を持っていて羨ましい。その功を賞して、従五位下・式部大輔の 官位を贈ろう」と言い、祝宴まで開いたという その時はその時深く考えぬ 柴本ばっは
奮闘虚しく徳川軍に捕らえられる木下勘解由利匡
「小牧長久手の合戦、終了の模様」 岡崎城を目指し三河に侵攻した秀吉軍は総勢2万。
秀吉の甥・三好信吉(のちの秀次)が総大将を務める主力8千は、 その最後尾を進んでいた。これを徳川追撃軍の先遣隊4千5百が密かに 追尾していることに、三好隊は全く気付いていない。 1584年(天正12)4月7日早朝、徳川軍の銃口が一斉に火を噴く
と先遣隊が三好隊に襲いかかった。 凄まじいばかりの猛攻に、秀吉軍はたちまち総崩れとなり、信吉も馬を
倒され歩いて逃げざるを得ないほど。 この大ピンチを救ったのが家来の木下勘解由利匡(としただ)である。
利匡の差し出す馬に乗って信吉は、命からがら犬山城に逃げ帰った。
利匡は奮戦したものの、徳川軍の前に戦死。
ここに小牧長久手の合戦は事実上終戦した。
終止符を打った古傷又疼く 大島美智代 黄昏の風船ガムはぶどう味 宮井いずみ
小牧・長久手合戦屏風 (水野年方) 山手に陣を張る家康vs平地に陣を張る家康
「天下分け目の戦い」といえば「関ヶ原の合戦」が通り相場だが、江戸 後期の学者・頼山陽の評価は違うようだ。 『公(家康)の天下を取る。大坂にあらずして関ケ原にあり、関ケ原に
あらずして小牧にあり』と、『日本外史』で頼山陽は述べている。 ――家康の天下は、関ケ原の戦いではなく、小牧長久手の合戦によって
決まった――と言っているのである。 この戦いは、信長亡き後に出遅れた家康が、「われこそここにあり」と、
ライバル秀吉に、敢て喧嘩を売ったデモンストレーション行動であった。 秀吉勢10万に対して、家康勢は1万6千。 しかし家康は、北条や伊達と同盟を結び、四国の長曾我部や根来・雑賀 衆を味方にして強気であった。実際、局地戦では家康側が勝利しており、 秀吉は数で勝りながら、とうとう家康を破れなかった。 つまり、この戦いによって家康は、自分の存在を天下に知らしめること
に成功したのである。 ここにいる私の前に立たないで 日下部敦世
タヌキ顔の顔
vs サル顔の秀吉 家康ー天下の分け目となった小牧・長久手の戦 家康の本音―本能寺の変以降、織田家の決める「清須会議」からも排除
されてしまうなど、秀吉にずっと先を越されっぱなし家康、すべてが秀 吉の思惑通りに動いていくのを、家康は苦々しく思っていたに違いない。 浜松城・本丸北富士見櫓――酒井忠次、石川数正、本田正信ら家康の重
臣が眉根を吊り上げ、厳しい表情の家康を囲み会談をしている。 家康 「秀吉め!1年前までは織田殿の家臣の1人にすぎなかったに…
今では、すっかり天下人気取りじゃ!」 忠次 「それにしても秀吉の勢いはすさまじいものがござる…。我らが
甲斐と信濃を制し、ようやく五ヵ国を手中にしたと言うに…」 数正 「今、秀吉が領する国は、なんと三十ヵ国じゃ!」
正信 「もはや西は完全に秀吉に握られてしもうた」
食べてから気付いてしまう誤配送 宮井元伸
家康 「西のことなどどうでもよいわ‼ 東じゃ ‼」
3人 「……⁉」
家康 「わしの目標は東国の覇王となることじゃ ‼」
3人 「……⁉」
家康 「じゃが わからぬのは、どうして秀吉がこうも短期間に勢力を
伸ばし得たかじゃ…秀吉に織田殿と同じような力量があるとは わしには思えぬ!」 家康はこの時点で、政治のダイナミズムをよく理解できていなかった。
家康 「まるでわしが一歩進む間に秀吉は、十歩も進むような気がする!
わからぬ…」
忠次 「しかし殿! 秀吉の勢いを指を咥えて見ておるわけにはまいり
ませぬぞ!」 数正 「左様!西を制した秀吉は必ずや、東にも手を伸ばすはず!なん
としてもここらで秀吉の出鼻を挫かねば!」 間違いを探して膝の曲げ伸ばし 森田律子
徳川16神将掛軸ゟ (山道翁雲岳)
家康の本音――。 秀吉が信長の長男・信忠の子である三法師を推す中、家康は3男の信男
が、家督を継ぐのが筋だと考えていた。 勝家側から「味方につくよう」に働きかけがあったとき、「反秀吉」と
いう点で一致しながら、結局、勝家に乗らなかったのは、一つにこの後 継問題があったのである。 また秀吉と勝家が争って互いに消耗することは、「自分にとってプラス」 だという計算もあったのだろう。 自らの力を温存しっつ、家康は、「賤ケ岳の合戦」に対しては、静観を
決め込んだ。 のどちんこに隠す三日分のガム 井上一筒
家康 「わかっておる!じゃが戦には大義名分がいるぞ」
正信 「それはなんとでもなりましょう。ひとつ織田信雄どのを焚き付
けてみてはいかがかと…」 家康 「ようし、ならば信雄を煽り、織田家再興の名目で秀吉としょう。
家康 「信雄……あのうすらバカを…か?!」
正信 「信雄殿は 武将としては凡庸とは申せ、とにもかくにも信長公
の二男…本来なら秀吉の上に立ってしかるべきなのに…秀吉に 家臣扱いされ、憤っておるとの事でございます」 家康 「…なるほどのぅ!それは面白いかもしれぬ……」
3人 「……」
家康 「織田家再興の名目で秀吉と一戦交えるか! 直接の戦なら負けは せぬぞ ‼」 正信 「殿 今こそ…!」
家康 「秀吉なにするものぞじゃ!
わしらの目標は、この城から見ゆる日本一の富士じゃからのぉ」
と、唇を一文字に引き結ぶ家康であった。
水団をかきまぜている目玉 笠嶋恵美子
山手の本陣から秀吉軍を見下ろす家康 「タヌキ親父の狸ぶり――賤ケ岳の戦い」 秀吉と仲良いふりをするタヌキ―家康は最初から秀吉有利と読んでおり、
賤ケ岳の勝敗がつく直前に「私はあなたの勝利を願っています」といっ た白々しい内容の手紙を秀吉に送っている。 家康は、戦況や秀吉の動きを細かく把握していたのだ。
そして、天正11年4月、勝家がお市の方と自害し、秀吉大勝利の報が
もたらされると、家康は、その祝いの品として天下の名品「初花肩衝」 を贈っている。茶の湯好きな秀吉は大喜びし、家康が秀吉と勝家両方に 距離を置いていたことは、これによってチャラになる。 こうして表面上は、秀吉と友好的な振りを装いながら、一方で北条氏直
に娘の督姫を嫁がせ、関東を統べる北条氏との同盟を結ぶなど、家康の 「タヌキ親父」ぶりはさすがである。 白菜のやや媚びを売るかたち 蟹口和枝
「賤ケ岳の合戦が終わって――約1年後」
1584年(天正12)3月、秀吉打倒を信雄に焚きつけた家康は信雄
とともに秀吉と戦うべく浜松城を出陣した。「小牧長久手の戦」である。 その報を受けた秀吉は、
「なにっ⁉ 家康が信雄と組んで兵を挙げたじゃと! 家康めはわしが
九州平定を進めるに目の上のたんこぶ ‼ むしろ戦は望むところじゃ ‼
天下人たるわしの力をとことん見せてくれるは ‼」 と、いきまき10万の大軍を率い、濃尾平野へと向かい犬山城へ入った。
トナラーがハシビロコウの顔で来る 小池正博
本多忠勝に思い切り暴れてこいと発破をかける家康
一方、家康は犬山城近くの小牧山城に先着していた。 家康 「物見の報告では秀吉の兵は10万ときくが…なるほど犬山一帯
は兵の海…秀吉は是が非でも決着をつける気じゃな!」 忠次 「こちらが1万6千でござるから ざっと5~6倍」
数正 「なんのっ! 戦は数だけで決まるものではないわ!」
家康 「この戦は秀吉に一泡吹かしさえすれば それでいいのじゃ」
忠次、数正唖然の表情をみせる。
家康 「勇みすぎず、じっくり構えておれば、必ずむこうがてを出して
くる…そこを叩けば…」 忠次、数正唖然!
家康 「まっ、この戦は負けなければよい…」
それからおよそ10日間…両者の睨み合いが続いた。
そして焦れたように秀吉は動いた。
天下人の矜持が、是が非でも家康を屈服させようとしたのである。
1584年(天正12)4月6日の深夜、徳川勢の大半が小牧山に集結し、
守りが手薄となっている家康の本国・三河に1万6千余りの別動隊を攻 め込ませようとの作戦であった。 迷ったら音符になって突き進む 北山まみどり
本多忠勝軍功図 加藤清正(みぎ)と槍を交える忠勝 「秀吉vs 家康 唯一の直接対決ー小牧長久手の合戦」
家康と秀吉が満を持して激突した「小牧長久手の合戦」は、智将同士の
名勝負だといわれている。しかし、長久手の戦い以外にほとんど合戦ら しい合戦は行われていない。 山に陣を張った家康は山に、平地に陣を張った秀吉は平地にと、それぞ
れ自分の土俵に相手を誘い込もうと、10日以上も延々知恵比べ・我慢 比べを展開したに過ぎなかった。いやそれどころか、何とか相手を怒ら せようと、あの手この手、まるで子どもの喧嘩のような、挑発行為を行 ったりしている。 伸び切った生命線があくびする 田中 薫
秀吉が家康に一戦交えようという内容の手紙を送ると、家康はその返事
をわざと部下に書かせて送り返す。 これは格下の者に対する扱いで、つまり、秀吉をおちょくったわけだ。 怒った秀吉は、敵陣近くまで迫り、尻を向け叩きながら大声で、家康を
侮辱する言葉を発した。家康もムキになり、2騎の武将を秀吉の前で走 らせ、相手は手も足も出せない「臆病者!」だとからかう。 天下の智将どころか、子どもでもやらないような低レベルなやり口だが、
もちろん、こんな下らない駆け引きばかりだったわけではなく……、 戦国らしい武勇の士の逸話も生まれている。 プロペラをつけたら笑ってくれますか 酒井かがり
「その逸話のひとつ」 家康の忠臣・本多忠勝は、主の進退の時間稼ぎに、わずか5千の兵を率
いて出陣した。3万8千の秀吉軍に対して、小川を隔てて並走してみせ た忠勝は、さらに馬を川に乗り入れ、悠然とその口を洗ったという。 士卒がはやって鉄砲で撃とうとすると、秀吉は、
「あのような者は生かしておくものぞ」と言って止めた。 その武勇を愛するとともに「人たらし」の秀吉は、いつの日か忠勝を自
陣に招きたいと考えていたのだ。 スイッチを切りなさいよと茜雲 新家完司 藻になった屍が絡む高瀬舟 くんじろう
新 撰 太 閤 記
左から佐久間盛政・柴田勝家・羽柴秀吉 (柔能勢剛) 秀吉は勝家に何を言い寄っているのか…!盛政の顔が怖い。 秀吉が惜しんだ猛将の潔くも意外な死に様 賤ケ岳の敗将・佐久間盛政は、秀吉の軍勢に守られながら、槙島へと向
かった。その身を縛る縄はなく、乗り物に乗せられ、優雅ともいえなく もない道中である。さらに、槙島到着後には、秀吉の腹心・蜂須賀正勝 (小六)の来訪を受け、 「これからは勝家の代りに、この秀吉を慕ってほしい。近々空いた国が
あれば、それを貴君に進ぜる」 というメッセージ迄受け取っている。
(実際、秀吉は、盛政に肥後を与えようとしていたともいう) 一代で成り上がった秀吉には、いわゆる譜代の家臣がおらず、有能な
武将は喉から手が出るほど欲しかった、というお家の事情は確かにある。 とはいえ、一回刃を交えただけでここまで思わせたのだから、尋常では
ない。 (槙島=京都府宇治) 海の絵はどこを切っても濡れている 村山浩吉 佐久間盛政は討死を覚悟し、鉄棒ひっさげて単騎、敵陣の中に駆け込む。 そして、秀吉の馬印に近づき、馬上の秀吉に襲い掛かろうとするが……、 秀吉は「尾籠なり下郎め」と一喝してかっと目を見開いた。 その眼光の鋭さにたじろいだ盛政は、無念ながら退散する。 家康ー鬼武者・佐久間盛政 佐久間氏は、鎌倉幕府の創設者である源頼朝の有力御家人・三浦義明の
末裔である。尾張国御器所(ごきしょ)を本拠に勢力を伸ばした佐久間 一族は、12代盛通の息子たちの時代に、織田家に仕えるようになった。 4人の兄弟のうち3男・朝信の子が、信長の重臣でありながら石田本願
寺攻めの不手際を責められて追放された信盛であり、4男・朝次の孫が 盛政だ。 (御器所=名古屋市昭和) 風を切る肩に一片のはなびら 下谷憲子
1568年(永禄11)9月、のちに室町15代将軍となる足利義昭とと
もに、織田信長が上洛をする。このとき、15歳の盛政は初陣を飾るが、 一方で従軍していた父・盛次が、行軍途中の戦いで命を落すという不運 に見舞われた。父の死により盛政は、信長の重臣・信盛が率いる佐久間 一族を離れ、母の実家の多大な影響を受けて育つことになる。 母・末森殿の兄が柴田勝家であり、実子のない勝家は盛政を可愛がった。
以後、盛政の人生は、常に勝家とともに推移していく。 がむしゃらにおのが運命切り開く 都 武志
特に盛政が活躍したのは、一向一揆との戦いにおいてであった。
信長もそれを認めていたようで、一揆を制圧した勝家に、越前を与え、
北陸方面の最高指揮官に任命した上で、 「盛政を加賀方面討伐の大将に任じ、これを制圧したらすべて盛政に
与える」よう勝家に命じたという。 1576年(天正4)盛政弱冠23歳のときのことである。
存在を点で表し無限大 日下部敦世
絵 本 太 閤 記 卷 4
1579年(天正7)、京で行われる正親町天皇の観兵式「大馬揃え」 に臨むため、柴田勝家はじめ織田諸将が上洛した。 しかし、北陸防備が手薄になることを恐れた勝家は、盛政を留守番とし て尾山城(のちの金沢城)に残す。 すると案の定、一向一揆が蜂起、 鳥越・二曲両城を奪取してしまった。 これを撃滅すべく馳せ参じた盛政は、槍を大車輪のごとく振り回す勇猛 ぶりで、たちまち、2つの城を奪い返し、一向宗門徒から「鬼玄蕃」と 恐れられた、という。 貸金庫に入れる二つ目の命 合田瑠美子
賤ケ岳での不覚
本能寺の変に信長が倒れたという一報が勝家のもとにもたらされた時、
盛政は、「すぐさま京へ攻め上りましょう」と、進言した。しかし、
慎重派の勝家は、北陸情勢が予断を許さないことを理由に、これを退け ている。結果、 勝家は、信長没後の織田家中で「秀吉に後れをとる」ことになり、挽回
するためには、もう秀吉を倒すしかない。 こうして北陸から勝家が南下し、秀吉がこれを迎え撃つという直接対決 は回避できない状況になった。 秀吉は勝家を阻むため、余呉周辺に着々と砦を築いていった。
意地という厄介者を飼っている 通 一遍
しかし、盛政には勝算があった。
秀吉軍の主力1万5千が岐阜の織田信孝を討つため余呉を離れるという
情報を入手しており、この間に砦の普請の中途で、兵員も少ない賤ケ岳 砦と大岩山砦を落とせば、勝家方にとって有利になるという判断をした のだ。 盛政はまず、3砦の真ん中に位置する大岩山砦を攻めようと、 勝家に進言した。ところが勝家は難色を示す。 歴戦の将は、敵陣の奥深く攻め入ることの危険性を熟知していたのだ。
最終的には、盛政の策をいれたものの、大岩山陥落後はただちに帰還す
ることを条件とした。 岐阜までの逆に走っている時間 宮井いずみ
勇躍、大岩田砦に向かった盛政は、豪傑として知られる中川清秀が守る
この砦を難なく落とした。その戦いぶりは「合戦の申し子」盛政の面目 躍如であったという。 だが勝家の待つ玄蕃尾城には、戻らなかった。 勝家から何度も督促があったが、「将兵を休ませるため」などと称して
兵を引かない。盛政は、秀吉が岐阜で戦っているものと信じ込んでおり、 周囲の砦を砦を次々と落とすつもりでいたのである。 腹心の友森の中から出てこない 靏田寿子
捕縛の盛政に「仲良くやろう」と声をかける秀吉。
しかし、秀吉は戻ってきた。大垣で「盛政、大岩山砦襲撃」の報を受け た秀吉は、本能寺の変後の「中国大返し」同様の素早さで余呉に戻って きたのだ。 勝家が危惧した通り、敵中に孤立した盛政軍は、敵に推し 包まれ潰滅した――。 賤ケ岳の合戦後、捕縛され「まな板の鯉」となったとき盛政は、秀吉の
「これからは勝家の代りに、この秀吉を慕ってほしい」という申し出に 「お申し出は嬉しいが、命長らえてお会いすることがあれば、きっと
あなたを討つでしょう。是非とも死罪をお申しつけください」 と、答えたという。
ボタンひとつ間違え武士を降りる 酒井かがり
この潔さに感嘆した秀吉は、生粋の武士である盛政に対して、これ以上
の勧誘は無駄であろうと判断し、切腹を申しつける。 しかし盛政は、「武士の情け」である切腹を拒み、あくまでも処刑され
ることを望んだ。 自己の判断ミスから、勝家を死に追いやったという悔悟の念から敢えて
「敗者らしい」死に様を選んだのかもしれない。 秀吉の最後の厚意として贈られた派手な小袖に身を包んだ盛政は、6尺
の長身に縄をかけられ、車に載せられて、京都市中を引き回された。 1583年(天正11)5月12日、槙島にて斬首。
享年30歳、勇士として恥ずべきところのない最後であった。 誰もいなくなるあさってのニュース 森田律子
宣教師のルイスフロイスが「安土城に比肩する壮大な城」と、 いった北ノ庄城のものと伝わる鬼瓦。
北ノ庄城
episode・「不幸続きで改名された北ノ庄城」
越前一向一揆の鎮圧に功があったとして、信長は勝家に越前8郡 49万
石を与えた。その後8年もかけて建設されたのが北ノ庄城で、城下の 規模は、信長の居城・安土城にも匹敵したともいわれている。 勝家を祀る柴田神社に、城の天主閣と本丸があったといわれるが、
城跡に福井城が築城されってしまったので、正確な位置関係はわかっ ていない。
ところで、勝家が悲運の死を遂げて北ノ庄城が落城した後、この城の
城主となった者には不運がつきまとった。
徳川家康の2男である結城秀康は将軍になれなかったし、秀康の長男・
松平忠直は、不行跡で配流の憂き目に遭う。 北ノ庄には、「勝家の怨念」が籠っていると噂された。
そこで不吉な「北ノ庄」から、幸運をもたらすという意味の「福居」
(ふくい)に改名したのが、秀康の2男松平忠昌。
現在の「福井」となるのは、江戸前期、元禄の頃である。
真夜中のコンセントから細い声 富山やよい |
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