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川柳的逍遥 人の世の一家言
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生きていた証 地べた一面  くんじろう

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    平将門

清盛の妻は2人がわかっている。

最初の妻は、右近衛将監・高階基章の娘・明子という。

保延4年(1138)、清盛22歳の時、

清盛後の平家を背負って立つ逸材として、

期待された長男・重盛を生み、

年子で次男・基盛を生んでいる。

このころの清盛は、23歳で従四位に叙され、

仕事にも家庭にも恵まれ、充実した家庭を送っていた。 

ハンカチでつまむとあなたてるてる坊主  小林満寿夫

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しかし、次男・基盛を生んでまもなく、

明子は病に倒れ早世する。

清盛の初めて恋心をおぼえた相手でもあり、

心底から愛した明子であっただけに、

清盛の悲しみは、いかばかりのものであったか。

ただ、明白に言えることは、

父の身分がそれほど高くないので、

生きていても、
正室の地位に、

とどまっていたかどうかはわからない。

≪次男・基盛は23歳で早世しており、

  兄・重盛と違い、その活躍の記録はほとんど分からない≫

だいこんに忍び笑いの癖がある  牧浦完次

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明子の死後、清盛の正室となったのが時子である。

太治元年(1126)生まれだから、

清盛の8歳年下になる。

清盛と同じ「桓武平氏」ではあるが、

時子の家系は、高棟王流の「公家平氏」である。 

立ち位置を変えて入り日にまた出会う  笠原道子

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   平正盛

「桓武平氏」

平忠盛、清盛たちの血筋を「桓武平氏」という。

桓武平氏とは、桓武天皇の皇子の子孫のうち、

平姓を賜り、「天皇の臣下になった家」 のことである。
                                                  
桓武平氏には、いくつかの流れがあるが、

最も有名なのが、

桓武の第三皇子・葛原(かずらわら)親王の系統である。

そのうち長男・高棟王(たかむねおう)の子孫は、

京の宮廷貴族として栄え、

「公家平氏」「堂上平氏」などと呼ばれる。

清盛の妻・時子は、この血筋を引いている。 

友だちを沢山もっている音だ  森中惠美子

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一方、

忠盛・清盛が輩出した武家平氏の祖となったのが、

高棟王の弟の高見王(たかみおう)の子、

高望王(たかもちおう)である。

武勇にすぐれていた高望王は、

「平姓」を与えられ平高望になると、

九世紀末ころ上総介(かずさのすけ)に任じられて関東に下った。

当時、坂東では、徒党を組んで、

盗賊行為を働く群党の蜂起が問題になっており、

天皇家出身という血統と、武勇をあわせもつ高望に、

その鎮圧が期待されていたといわれる。 

卍から卍を盗み見る角度  井上一筒

 

やがて、高望の子孫は、

常陸や下総、武蔵など関東各地に土着し

「坂東平氏」として繁栄した。

後世、鎌倉幕府の御家人として名をはせる、

千葉、三浦、上総、大庭などは、その末裔である。 

面影はいつも笑顔で現れる  河村啓子

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     納 経

東国は、源氏のふるさとのように思われがちだが、

武士の勃興期にあっては、

平氏こそが坂東の覇者だったのだ。

「桓武平氏」に転機をもたらしたのは、

十世紀に勃発した「平将門の乱」であった。

高望の孫である将門が、

常陸や上野(こうずけ)で、大規模な反乱を起こすと、

鎮圧に功をあげた従兄弟の貞盛は、

従五位上に叙され、

その子供たちも朝廷の官位をもらい、

桓武平氏が中央軍事貴族として、

繁栄する足掛かりを得た。 

臨海を見るまで磨く大ふぐり  上野勝彦

 

このうち貞盛の子で伊勢を拠点とした維衡(これひら)は、

藤原道長など、中央の上流貴族に奉仕しつつ、

常陸や下野(しものつけ)、伊勢の受領を歴任して、

力を蓄えた。

この維衡こそ、「伊勢平氏」の祖といわれる人物であり、

正盛の曽祖父にあたる。 

場所としてアシタが見える筈ですが  山口ろっぱ

 

拍手[4回]

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美しい死語を女は抱いている  森中惠美子

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       美福門院得子

「保元物語」で、美福門院得子は、

「鳥羽院をたぶらかして世を乱させた悪女」

と書かれている。

≪この肖像画も悪意があるのか,かなりきつい顔を描かれている≫


前向きに生きた女の意地を言う  長谷川きよ子

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   鳥羽上皇

「美福門院得子」

美福門院得子は、永久5年(1117年)に生まれ、

父は藤原長実

長実は、祖母・藤原親子(ちかこ)が、

白河上皇 “ 唯一人の乳母 ” であったことから、

白河院政期には、院の判官代や別当を務めるなど、

院の近臣(権中納言)に名を連ねた。

母は左大臣・源俊房の女、方子。 

裏表開けて私と風の道  原田久枝

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               長 秋 記

 

上向き指向の長実は、愛してやまない得子を 

「ただ人にはえゆるさじ」 

 

(そんじょそこらの男なんかには嫁にやらない)

と語り (『今鏡』)、

臨終の間際には、

「最愛の女子一人の事、片時も忘るゝなし」

と落涙したという。(『長秋記』) 

わが死後を思うは自由日向ぼこ  大西泰世

 

父の死後は、二条万里小路亭で暮らしていたが、

以前から美しいという評判の得子に、

鳥羽院が関心を持ち、

長実の喪が明けるや、彼女に手紙を書き、 

「隠れつつ参り給ひける」
 
ようになり、  

「やや朝まつりごとも、怠らせ給ふさま」 

 

(ややもすると、政務もおろそかにする)

ほどだったという。 

いつも唯笑って君の傍にいる  森吉留里

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鳥羽上皇の寵愛を受け、

まもなく得子が、男児(体仁親王)を産むと、

御所内は、
恨みと憎しみが絡まって、カオスの森と化す。

白河の愛妾・璋子と叔父子と呼ぶ崇徳を冷視する鳥羽上皇

鳥羽に疎まれ、なかなか政治の実権を握れない崇徳天皇

白河と鳥羽に翻弄されつづける待賢門院璋子

国母の座を狙い野望すさまじい美福門院得子

まさに四角関係の醜い争いになっていく。  

雪憎しみて雪に似て兎死す  阪本きりり

  

鳥羽は21歳で上皇となり、

憤怒の炎を燃やす日々を送ったが、

それから6年後、40年余りにわたって院政を敷き、

独裁者として君臨してきた白河が、

77歳で亡くなると、
崇徳帝はまだ幼く、

鳥羽が、院政を引き継いで、

権力を掌握したのは言うまでもない。 

写生する人と重ねる遠い声  富山やよい

 

そして、ここから鳥羽の報復が始まった。

璋子は、入内した後も朝廷人や誰彼との浮名を流し、

鳥羽の愛情は得子へと傾いていった。

その得子が産んだ近衛が三歳になると、

鳥羽は、自分が白河にされたと同じように、

崇徳に譲位を迫り、 

「近衛を崇徳の養子の形にする」 と説得して即位させた。

従って、崇徳は新帝の父親格で、上皇になったと思い、

院政への道が開けたと喜んだ。 

三月の雲菜の花の匂いする  墨作二郎

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「恨みが恨みに帰る」

璋子は17歳で鳥羽のもとに入内し、

翌年、崇徳を産んだものの、

ほどなく、これが白河の子と明らかになり、

驚愕の噂が京を走った。

白河はこの" ひ孫 "に対して、

異常なほどの偏愛ぶりをみせ、 

崇徳が5歳になると、鳥羽に譲位を迫って即位させた。 

 

黒色火薬砂嘴種馬の蹄  井上一筒

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「得子の権勢」

永治元年(1141)12月7日、

鳥羽は崇徳に譲位を迫り、

体仁親王(近衛天皇)を即位させた

体仁親王は、崇徳帝の中宮・藤原聖子の養子であり、

「皇太子」のはずだったが、

譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた。(『愚管抄』)

天皇が弟では、将来の院政は不可能であり、

崇徳帝にとって、この譲位は大きな遺恨となった。 

目隠しをされて大根曲がりだす  谷垣郁郎

 

近衛帝即位の同年、

得子は、「国母」であることから皇后に立てられる。

皇后宮大夫には源雅定

権大夫には藤原成通が就任した。

得子の周囲には、

従兄弟で鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成や、

縁戚関係にある「村上源氏」、

中御門流の「公卿」が集結して、

政治勢力を形成することになる。 

二歩三歩後ずさる軽薄な展望  山口ろっぱ

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待賢門院彰子

 

翌年の永治2年正月19日、

台頭する得子の陰で、すっかり権勢を失った璋子は、

これまでの自身の振る舞いを省み、

堀河局らとともに仏門に入る。

得子の地位は、磐石なものとなり、

久安5年(1149)8月3日、

「美福門院」の院号を宣下された。 

塩辛い水になってしまわれた  井上しのぶ

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"身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけり"

勅撰和歌集に「詠み人しらず」として収められた西行の歌。

大意は、

身を捨てても(出家しても)、

その人は本当に世を捨てたことにはならない。

捨てないで、世に残っている人のほうが、

真に世を捨てたことになるのだ。

清盛はこの歌を崇徳帝の前で読み、

北面の武士として成功しながらも、

世(政)をはかなんで、

出家の道を選んだ佐藤義清の心情を代弁する。 

美男子と好男子の差を剃りあとに  森中惠美子

 

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抽象画吊るす迷路の入り口に  嶋澤喜八郎

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   沙羅双樹ー1 

 

仏教では、自分の寿命を悟った釈尊は、

「形あるものは必ずこわれ、生あるものは死ななければならない」

と最後の説法をして、

沙羅双樹の下で、涅槃に入ったとされている。

  

人は皆何時かは一人 林檎剥く  吉川幸子

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  沙羅双樹-2

「平家物語ー①」

「生者必滅」の言葉で、綴られてきた『平家物語』は、

作者の意識で、いつの頃のころからか、

「盛者必衰」に書きかえられ、 

"祇園精舎の鐘の声  諸行無常の響きあり

  沙羅双樹の花の色   盛者必衰の理をあらわす

  おごれる人も久しからず   ただ春の夜の夢のごとし

  たけき者もついには滅びぬ   偏に風の前の塵に同じ "

 

という誰もが知っている書き出しで、いまに伝わる。 

沙羅の花いつもこぼれてしまう恋  たむらあきこ

 

物語は、十三世紀初頭に生まれ、

琵琶法師たちによって、語り継がれた「語り本」と、

物語として読むことを目的に作られた「読み本」に分けられる。

内容には、ともに「祇園精舎の鐘の声」で始まる。

今日、文庫本や文学全集などで、

一般的に読まれているのは、前者である。 

切り口は鋭角 春は定位置に  森田律子

 

「語り本」は、

平家嫡流・六代維盛の子)の処刑で幕を閉じ、

全体的に「平家滅亡の物語」という性格が強い。

一方、「読み本」は、

関東における源頼朝の動向に詳しく、

「頼朝の世の到来を喜んで終わる」というふうに、

源平の抗争や源氏政権樹立に、軸足がおかれている。 

※ ≪「覚一本」、「延慶本」、「源平盛衰記」≫

 

パプリカの定理を喋り過ぎる赤  くんじろう

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平家物語を普及する琵琶法師

『覚一本』最も有名な琵琶法師の権威書、

室町時代の初期、琵琶法師たちは、

「平家物語」を弾き語るコトで生活をしていた。

しかし、 

「琵琶法師の数だけ、平家物語を語る人がおれば、

どれが正しい平家物語なのか、後世の人は混乱するだろう」

 

と懸念した足利尊氏の従兄弟・明石覚一(検校)が

足利家の支援を受けながら、

琵琶法師の組織を立ち上げ、
その長として弟子たちに、

口述筆記の形で「平家物語」を一冊の本にまとめさせた。

これが「覚一本」である。 

※ ≪琵琶法師=職業的名称で、琵琶を弾く盲目僧≫

 

(この様な経緯があって、

この本には、平家物語の正当な本としての権威がつき、

平家物語といえば殆どが、この本を指すようになる)

高炉から出したばかりの琵琶法師  井上一筒

 

『延慶本』平家物語中、最も古い本

延慶二年(1309)夏から約一年の期間を要し、

高野山・根来寺で筆写された。 

綿ぼこり積もってなぐさめられている  岩田多佳子

 

『源平盛衰記』源氏、平家の盛衰興亡を著した軍記物語

「語り物」として流布した『平家物語』に対し、

「読ませる事」に力点を置かれた「盛衰記」は、

平家物語を下敷きに改修されたもので、

源氏側の加筆、本筋から外れた挿話が多く、

冗長さと加筆から生じる、矛盾が多々ある。

≪ただ、「読み物」としての様々な説話の豊富さから、

   後世の文芸への影響は大きい)

しゃきしゃきと嘘の上塗り胡瓜もみ  岩根彰子

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   平家物語絵巻

ともかく、「平家物語」ほど、謎の多い古典はない。

「何時、誰が、どのような目的でつくったのか?」

ほとんど解っていない。

13世紀頃と推測されるが、正確な成立時期も不明である。

もっとも古い記録では、

延応2年(1240)『治承物語 六局号平家』

正元元年(1259)『平家物語 合八帖本』 

13世紀半ば、『原・平家物語』

これらのものをテキストにしたのかどうか、確証はない。 

さくらさくら確かなことは分からない  清水すみれ

 

「作者はいったい誰か?」

『徒然草』で紹介されている信濃前司・行長が本命といわれる。

朝廷で恥をかいたことから出家し、

天台座主・慈円の世話を受けていた行長が、

平家の物語をつくって、  

「盲目の生仏に語らせた」  のが始まりであるとするが、

もちろんこれも、決定的な証拠があるわけではない。

≪この世に生存する総ての者は、何時かは必ず滅びる

  という「生者必滅」の原文を、行長が「盛者必衰」に替えたという話がある≫

真四角になりたがってる楕円形  合田瑠美子

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琵琶法師ー蝉丸

「盛者必衰」

祇園精舎にある鐘の音は、

諸行無常の教えを唱えるかのごとくに鳴り響きます。

釈迦入滅の時に白色に変じたという、

沙羅双樹の花の色は、

あたかも盛者必衰の道理を表しているかのように思えます。

驕り高ぶった人も、

いつまでも驕りにふけっていることはできません。

耳の奥ほら潮騒が聞えてる  河村啓子

それはあたかも春の夜の夢のように儚いものです。

勇猛な者でさえ、ついには滅びてしまうものです。

それはあたかも、風の前の塵のようなものです。

遠く外国の古例を捜し挙げてみると、

秦の趙高、漢の王莽、梁の朱昇、唐の安禄山、

これらの人々は皆、

旧主先皇の政治に従わず快楽を極め、

他人の諫言を真剣に聞こうとせず、

このままでは天下が乱れてしまうということを、

予測しませんでした。

タマシイノモロサ飴細工の危うさ  山口ろっぱ

また、嘆き、悲しみ、憂い、戸惑う民衆を、

顧みなかったので、

末永く栄華を続けることができませんでした。

そしていつしか、

滅びてしまった人たちでありました。

※ 「生者必滅」=この世に生存する総ての者は、何時かは必ず滅びる。

" これやこの行くも帰るもわかれては しるもしらぬも逢坂の関 "

                                                             百人一首・10番 蝉丸

花冷えのましてや拭いきれぬもの  山本芳男

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【蛇足】-琵琶法師
                        
琵琶法師の組織は、全国各地にあり、

時の権力者は、それに保護を与え育成した上、

「検校」という階位も与えた。

保護を与えた理由の一つは、

当時は都の情報を地方に伝え、

地方の情報を、都へ吸い上げる手段が少なく、

琵琶法師を、情報発信と収集の手段として、

権力者が、利用したものと考えられている。

≪その政策は、江戸時代まで続いたが、明治になって、

   保護政策が廃止され、、琵琶法師も衰退する≫

情報のひとつに入れる鮭の貌  筒井祥文

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豆の蔓自分探しはすんだのか  たむらあきこ

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           西  行

大河ドラマ・「清盛」で、

佐藤義清役演じている俳優(藤木直人)の、、

知名度の割りに、
「佐藤義清」の名は、

歴史的にはあまり知られていない。

この義清を即座に誰といえる人は、かなりの歴史通である。

というのは、義清(のりきよ)としての名は、

凡そ5年ほどしかないからだ。

彼は武士(北面)として生きて、世に無常を感じ、

23歳で出家してしまう。

崇徳院待賢門院・彰子(たいけんもんいん)という

2人の人への愛を、
こころに偲ばせ、

旅の僧となった。

百人一首で知る「西行」である。 

片方の目だけ造反したようだ  牧浦完次

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    宴の絵巻

「佐藤義清」

義清は、元永元年(1118)、

祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に生まれる。

16歳ごろから徳大寺家に仕え、

この縁で、後にもと主家の実能公能と、

親交を結ぶこととなる。

保延元年(1135年)18歳で左兵衛尉に任ぜられ、

同い年の平清盛とともに、

御所の北側を警護する「北面武士」として、

奉仕している。

「北面武士」の採用には、ルックスも重視されており、

   義清は、容姿端麗だったと伝えられている

眼や鼻の置き場をちょっと間違える  中野六助

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北面生活では、「歌会」が頻繁に催され、

そこで義清の「歌」は、高く評価された。

武士としても、実力は一流で、

疾走する馬上から的を射る「流鏑馬」の達人であり、

さらには、鞠(まり)を落とさずに蹴り続ける、

「蹴鞠」の名手でもあった。 

神さまの前の市松模様かな  岩根彰子

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"君が住む宿のつぼおば菊飾る ひじりのみやといふべかるらむ"


徳大寺家は、藤原道長の叔父・公季(きみすえ)から、

分かれた家系で、院政時代に法皇の信頼をえて、

その家運は上昇していた。

義清を取り立てた徳大寺実能(さねよし)は、

鳥羽院の中宮・璋子の兄であり、

璋子に仕えた義清の前途は、

洋々と開けているように思れた。 

色即是空 流れるままの春の雲  美馬りゅうこ

 

が、保延6年(1140)、23歳のとき、

とつぜん出家して円位を名のり、

後に、西行と名乗る。

"身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ" 
 

流されて今日という日に辿りつく  河村啓子

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   彰 子

その動機には、

友人の急死にあって「無常」を感じたという説、

また、「失恋説」がある。   

「御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして、

  苦悩から死にそうになり、

  女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、

  「あこぎ」と言われて出家した」
 
とある。     『「「「
室町時代物語・「西行の物かたり」

 

この女院は、中宮・璋子であると考えらている。 

「小倉百人一首・八十六番に選出」

 

”嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな”
 

何もかも知っていたのねお月さま  竹内ゆみこ

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百人一首「86番」・西行

出家後しばらくは、京都の嵯峨や東山に草庵を結び、

歌会へ出たり、

鞍馬寺で、仏道の修行を行ったりしたと
伝えられる。

その後、

旅の歌人として知られる能因法師の足跡を辿って、

奥州を旅している。

白河関、信夫の里、衣河など「歌枕」を訪ねつつ、

平泉より、出羽にまで至った。

その後は高野山に庵を結んだ。

"世の中を捨てて捨て得ぬ心地して 都離れぬわが身なりけり"
 

縦長の字に変節を潜ませる  奥山晴生

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そこでは、毎年、吉野山で花見を行い、

また修行を兼ねて、

天王寺、熊野、厳島等の寺社に参詣し、

大峯で修行したとも、伝えられる。
 
その間に、「鳥羽院の葬列」に参会し、

また、「保元の乱」に敗れて、仁和寺に籠もった、

崇徳院を訪ねたりしている。

"花見ればそのいはれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける" 
 

そう言えば自粛のように散っていた  山本早苗

西行崇徳院への思いは止みがたく、

院の、讃岐への配流後も、

歌の遣り取りをしていたようである。

さらに、院崩御後の仁安二年(1167年)には、

四国讃岐国の崇徳院の陵を訪れて、

「鎮魂の歌」を捧げている。
  
"よしや君昔の玉の床とても かからむ後は何にかはせむ"

    
さよなら三角そんなかたちの雲がある  田中博造

また富士山を詠んだ次の歌も、

この旅の折りのものと伝えられる。
  
"風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへも知らぬわが思ひかな"

                                                                

陽炎が人の形になるよすが  蟹口和枝

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「エピソード」ー『吾妻鏡』

文治2年(1186)8月、

鶴岡八幡宮に頼朝が参詣すると、

鳥居の周辺を徘徊する老僧がいた。

怪しんで家臣に名を尋ねさせると、

これが、西行と分かり、

西行の過去を知る頼朝は、館に招いて、

流鏑馬、歌道の事を詳しく聞いた。 

触れてみる昨日が遠くならぬよう  山本早苗

 

西行は、 「歌とは、花月を見て感動した時に、

 僅か三十一字を作るだけのこと。

 それ以上深いことは知りません」

 

と飄々と答え、 

「流鏑馬のことは、すっかり忘れ果てました」

 

とトボケた。  

取り立てて言うこともない冷奴  新川弘子

 

が、頼朝が困惑するので、

馬上での弓の持ち方、矢の射り方をつぶさに語り始めた。

2人の会話は終夜続き、

翌日も滞在を勧められたが、

西行は振り切るように、昼頃発った。

頼朝は土産に,高価な「銀製の猫」を贈ったが、

西行は館の門を出るなり、

付近で遊んでいた子どもにあげてしまったという。                            

リンゴの皮むき 出ておいでわたし  岡本久栄

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西行法師の墳墓の傍に建つ歌碑。 

"願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ"

 


西行が晩年に詠んだ歌のその意味のとおり、

陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂した。

僧の人として50年、享年73歳。 

天竺を越えてきた銀の前置詞  井上一筒

 

拍手[5回]

五階まで若葉をつれた人が来る  森中惠美子

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「エピソードー清盛のやさしい一面」

清盛が若い頃の話である。 

「ある人が嫌なことをしたとしても、

 その人が、戯れでやったことと思い、

その人をいたわる気持ちから、

おかしくなくても笑ってあげた。

誰かが間違いをおかしたり、

 

ものを散らかしたりしても荒々しく声を立てることもなかった。

流れ行く一部始終を見た辛夷  山下怜依子

冬の寒い頃には、

若い奉公人たちを、

自分の衣のすその下に寝かせてやり、

彼らが寝坊したら、

そっと寝床から抜け出して思う存分寝かせてあげた。

善人の面そおっと置いていく疲れ  山本昌乃

身分の低い召使であっても、

その者の、家族や知り合いの見ている前では

一人前の人物としてあつかったので、

その者は、大変名誉に感じて心から喜んだ。

うどんの神様 コタツの佛さま  壷内半酔

このような情けをかけたので、

ありとあらゆる人が清盛に心を寄せたのだった。

人の心を感動させるというのは、

こういうことをいうのである」

焦点にずらし具合を聞いて情  蟹口和枝

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『平家物語』で知られる横暴な清盛像とは、

だいぶかけ離れている。

清盛の若かった頃の話ということだから、

「保元・平治の乱」前か、

もしくは、その直後のことであろう。 

大つぶの涙ファイルの中の染み  オカダキキ

 

明治以降の「国定教科書」」では、

「皇室への反逆者」 として、

その「横暴ぶり」が強調された清盛だが、

平家全盛の時代から、

さほど遠くない鎌倉時代の「少年向け教訓書」の中で、

「理想の上司」として、描かれているのはおもしろい。 

B面を辿れば焼きいもに出会う  山本早苗

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『十訓抄』が成立した鎌倉中期は、

平家に対する懐古の雰囲気が、

色濃い時代であったといわれる。

平家の全盛時代を懐古した『平家公達草紙』が、

編まれるのも、鎌倉初期のことである。 

筆太に書いて信号青にする  谷垣郁郎

 

『平家物語』による、

「悪者」のイメージが定着していない時代でもあり、

平家の世を、正当に評価しようという機運が、

このような逸話を掘り起こさせたのかもしれない。

では、「この逸話の信憑性やいかに」

ということになるわけだが、

晩年の清盛は、「福原遷都」「南都焼き打ち」など、

その活動はお世辞にも、

「やさしい」とはいえない。 

オーロラは強く掴むと消えてゆく  井上一筒

 

その一方、権力を握る前の若かりしころは、

「十訓抄」の第7の項にあたる、

「アナタコナタ」する「気配りができる人」だった。

「十訓抄」が、

「若かったころ」 とあえて限定しているところに、

かえって、真実味が感じられるのだが・・・

どうだろうか?!。

追い出した鬼をときどき思い出す  河村啓子

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    『平家公達草紙』

「十訓抄の内容」

第一 人に恵を施すべき事
   情けは人のためならず、人に与えた恩は必ず自分に帰ってくる。

第二 傲慢を離るべき事
   美貌で知られる小野小町の尊大な態度を例に、戒めのこと。

第三 人倫を侮らざる事
   倫理ばかり尊重していてかえって馬鹿を見る。

第四 人の上を誡むべき事
   無知のまま、べらべらと色々しゃべると恥をかく。

第五 朋友を選ぶべき事
   友達選びに失敗し、人生を棒に振った悲しき人々の話。

第六 忠直を存ずべき事
   忠義の善悪について話そう。

第七 思慮を専らにすべき事
   人の立場を思いやる気持ちの大切さ。

第八 諸事を堪忍すべき事
   忍耐こそが最高の徳である。

第九 懇望を停むべき事
   人に罪の意識を植え付ける。

第十 才芸を庶幾すべき事
   誰にも一つ優れた才能がある、それを伸ばして世の中に役立てよ。

というように、道徳の教科書になっている。

ここにこそ、本来の清盛の内面がみえてくる。

欲張らず等身大で生きてゆく  田中荘介

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