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川柳的逍遥 人の世の一家言
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戦は済んだポッカリ浮いている  谷垣郁郎

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     鬼の柴田

「柴田勝家伝」

武勇に秀で、無骨な性格のため「鬼柴田」とも称された柴田勝家

織田信長の筆頭家老であった勝家は、最初から信長の家来ではなかった。

信長の弟・信勝の家臣で、最初に信勝が兄・信長に反旗を翻したときは、

信勝軍として戦っている。

ところが、二度目の謀叛のときには、

その動きを信長に密告し、信勝は殺されている。

その功があって勝家は、信長の家臣として迎えられることになった。

遮断機の前に待つのも命がけ  三宅未知子

こうしたいきさつがあり、赦免されてからは信長に絶対の忠誠を誓い、

重鎮として重用された。

天正3年(1575)、信長が”越前一向一揆”を平定したあと、

越前のほとんど、といってよい八郡を勝家に与え、

その後、越後の上杉謙信・景勝との戦いで最前線に置かれ、

北陸方面軍司令官として、

”加賀一向一揆”との戦いでも活躍している。

ジャンプして月に手形をつけました  嶋澤喜八郎

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    北ノ庄城の模型

居城の北庄城には、「九重の天主」が聳えていた。

これは、信長の安土城天主を上回る大きさである。

これからでも、いかに勝家が信長に、信頼されていたかわかる。

しかし、信長死後の明智討伐しかり、

勝家の大きさは、信長がいての勝家だった。

軽トラで盗めぬ知恩院の鐘  井上一筒       

信長死後、お市の方と結婚。

三姉妹ともども越前の北ノ庄城に暮らすが、

義父として、無骨ながらも深い愛情を注ぐ。

父・長政の記憶がないおにとっては、

男親の愛情というものを、身をもって教えられた男かも知れない。

握られた火照り今夜は眠れない  杉本克子

天正10年(1583)、賎ヶ岳の戦い」で敗れたあと、

北庄城での勝家の最期は、「鬼柴田」の異名をとった、

いかにも、「勝家らしい身の処し方」として、

のちのちまで、伝えられている。

落城前夜、最後の酒宴を張り、

そのあと、茶々、初、江の三姉妹を城から出し、

再婚したばかりのお市の方と自害する。

このとき、天守閣にのぼり、

「修理(勝家のこと)が腹の切りざま、見申して後学に仕候へ」

と叫び、

”腹を十文字に割き、五臓六腑までかきだしてから介錯させた”という。

≪これが切腹のときの正式な作法だった≫

石よりも固い頭が邪魔になり  橋本 康

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二人の辞世の句は、次の通り。

『夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ  山ほととぎす』

                          柴田勝家1583年4月24日没 享年62歳

≪名を惜しむ武士の心が読み取れる≫

『さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎす』

                          お市の方1583年4月24日没 享年37歳

≪夫婦共に、ほととぎすを読む情の深さを感じる≫

勝家の”夏の夜の”を、市がそれを拾い句に添えた、市の愛情の証拠である。

≪これは、二人が自害する数時間前に、向かい合って詠み残したものと推測される≫

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柴田神社(北ノ庄城の跡地)

≪北ノ庄城公園の中に柴田神社がある。

  柴田勝家を主祭神とし、妻のお市を配祀している≫

男は土に女は風に死ぬという  森中惠美子

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いくさが消えぬ父の波母の波  森中惠美子

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               市

「市の再婚を考察する」

天正10年(1582)6月の清洲会議で、

お市柴田勝家のもとに輿入れすることになり、

お江たち三姉妹も母親とともに、北ノ庄城(福井市)に移り住むことになった。

この時、お市の方は37歳。

当時としては、孫がいてもおかしくない年齢である。

三姉妹の長女・茶々は15歳くらいで結婚適齢期。

次女のは、女好きの秀吉の食指がうごかなかったことからすると、

14歳ぐらいでも、まだまだ、こどもこどもしていたのであろう。

三女・お江は10歳ぐらい。

3人とも、もう物心がついた年齢である。

身の丈に合うた暮らしを謳歌する  亀山 緑

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   三姉妹

お市の方と柴田勝家の夫婦仲は、

「熱愛といっていいほどだったのでは」 ないかと思われる。

明らかに、秀吉が有利に天下獲りを進めるための、

”政略結婚”
であったにもかかわらず、

2人の仲はよかった。

ラーメンの汁に沈んでいた指輪  井上一筒

これはなぜか。

お市の方は、小谷城が落ちたあと、出家せずに伊勢に10年間あずけられた。

信長から、政略結婚を命じられたが、すべて断っている。

けれども清洲会議では、勝家のもとに嫁ぐのを承諾している。

お市には再婚相手は、「勝家意外にはありえなかった」 のだと考える。

さらに柴田勝家には、正室がいた様子がない。

当時の感覚から言えば、出家してでもいない限り、

家名を維持するために、子をもうけるのが普通である。

フルーツの分だけ胃袋空けてある  山田昭九朗

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    勝家の像

勝家は、「市のために正室の座を空けておいた」 のではないか。

この2人が、10年のブランクを経て、ようやく結ばれたのだ。

勝家にいたっては、お市が浅井長政に嫁いでいる間も、

「男の操」
を守っていた。

これで熱愛にならないほうが、どうかしている。

上流に向けて利き足から入る  森田律子

では三女・お江はどういう生活をしていたか。

お江は、小谷城から脱出したときは、乳飲み子だった。

実父・浅井長政の記憶はない。

お江が物心ついてから、北ノ庄城に移るまでの10年間、

後見人の織田信包が父親がわりだったが、しょせん父親がわりである。

信長の命令でと東奔西走しているうえ、

本能寺の変で、秀吉に従うと決めたら、

即座に、お市と三姉妹を秀吉に差し出す程度の、関係でしかなかった。

お江たち三姉妹と、お市が柴田勝家と暮したのは、

わずか9ヵ月間ほどだったが、

一緒に過ごす時間は、充分にあっただろう。

束縛はシルクの紐にしてほしい  清水すみれ

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天正10年10月15日、京都大徳寺で秀吉が、

信長の法要を大規模におこなったときも、勝家は動かず、

同年12月に、秀吉が岐阜城の織田信孝を包囲して、投降させたときも、

勝家は豪雪で動けなかった。

言い方をかえれば、勝家はもっぱら北ノ庄城で待機し、

水面下で調略戦をおこなっていた。

つまり、ずっと北ノ庄城にいたわけで、お江たち三姉妹や市たちと、

家族団欒の時が充分にあったわけだ。

今日風を見ました青い色でした  河村啓子

お江にとっては、柴田勝家が最初の「父親像」だったといえる。

女に極端に清潔で、剛直な柴田勝家を最初に見てしまっては、

後年お江が、徳川秀忠のもとに輿入れしたとき、

温厚な秀忠に違和感を覚えても、不思議ではない。

切り取ってみても独りという指紋  山本早苗

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『お江ー「初めての父』 あらすじ』

激動の天正10(1581)年も、秋が訪れようとしていた。

尾張・清洲城では、市(鈴木保奈美)と三姉妹の引っ越しの準備で、

おおわらわだった。

市と柴田勝家(大地康雄)とも婚儀により、

勝家の居城である越前・北ノ庄城に移る為だ。

だが、茶々(宮沢りえ)初(水川あさみ)は相変わらず、

この婚儀には批判的だった。

2人は、実父の浅井長政のことをまだ覚えており、

「父は長政意外には、あり得ない」

という考えだ。

暴れ川の気持ちが痛いほどわかる  西美和子

だが、江(上野樹里)だけは少し違っていた。

長政が亡くなったとき、江はまだ赤子で、殆ど父の記憶はない、

今度の母の婚儀で、父と呼ばれる存在が出来る事を、

密かに期待しているところがあったが、

姉たちの考えに、逆らうわけにはいかなかった。

姉の言い分妹の泣きボクロ  山口ろっぱ

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清洲城での婚儀が終わった市は、三人の娘たちと一緒に、

越前・北ノ庄城に向かう。

北ノ庄城では、勝家と、家老の佐久間盛政(山田純大)が一行の到着を迎えた。

勝家は、家臣たちの前でも、

市に対しては、主を仰ぐような平身低頭のもてなしである。

「後悔しておいでなのではないかと・・・」

それを聞いて市は、呆然とした。

自分の心が、定まっていなかったことに気づいたのだ。

確かに秀吉への恨みから、勝家へ嫁ぐ決意をした。

だが、一旦嫁いだからには、勝家の妻なのだ。

絵に描いた餅はこんがり焼いて食う  井丸昌紀

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市は、娘たちの前で素直な気持ちを訴える。

 「・・・・私は・・・間違えておった」

初 「間違い?」

 「勝家様に父になれ、そなたたちに勝家様を受け入れよ、と言う前に、

     ・・・おのれ自身の思いが定まっておらなんだ」

茶々 「何を・・・仰せなのですか?」

 「私は本日より、勝家様の妻となる。

     秀吉への恨みからではなく、心より勝家様を受け入れ、暮らして参ろうと思う」

 「(呆然と)母上・・・・」

 「その上で、そなたたちに言いたい。・・・勝家様を実の父と思うて接してはくれぬか?」

茶々 「私の父は・・・・浅井長政ひとりにござりまする」

 「茶々・・・」

 「その通りにございます」

茶々 「お許しくださいりませ」

ため息をつく市・・・・。

ただ江だけは

「なんとか父上と呼んでみたい」
と思うようになっていた。

耳垢のせいか小言が聞えない  新家完司

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そんなある日、江はひとり馬で駆け出す、が、嵐となり城に戻れなくなる。

慣れない土地での馬での遠出。

道に迷ったのではないか・・・?

崖から落ちたのではないか・・・?

熊に襲われたのではないか・・・? 

皆の脳裏に様々な思いが巡る。

はたして、城内は大騒動。

市も姉たちも、心配だった。

それ以上に勝家は心配し、方々に手配して、江の行方を追った。

折り悪く空には稲光が走り、やがて豪雨になっていった。

勝家は、表門に仁王立ちになり、まんじりともせず、

江が帰ってくるのを待った。

うねるもの遠ざかるもの砂時計  本多洋子

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やがて、夜が明けた頃に、江は馬を引いて戻ってきた。

皆、江の無事を喜ぶ中、勝家がつかつかと江に近づくと、

思い切り平手で江の頬を打った。

勝家 「何じゃ! そのいけしゃあしゃあとした面は!

     おのれが仕出かしたことが、わかっておるのか?」

 「勝家様、そこまでなさらずとも・・・」

勝家 「(厳しい表情で)そなたは黙っておれ!」

そう言うと、江を厩番の与助のところに連れて行って、謝罪させる。

勝家 「詫びよ、江。・・・そなたが帰らなんだら、この者は首を討たれておったのだぞ!」

分が悪くなると化石になっている  小谷小雪

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泣きながら与助に許しを請う江に、勝家は静かに言う。

勝家 「わかるか? 上に立つ者は、つねに下の者に心を配っておかねばならぬのじゃ」

 「・・・はい」

そして、茶々と初に向かって、

勝家 「そなたたちとて同じこと。

     皆に支えられておること、断じて忘れてはならぬ」

泣いている江を抱きしめながら、

勝家 「どこにも怪我はないのだな?」

江はいつの間にか、自然に「父上!」と言えるようになっていた。

さらに、茶々や初も勝家に父親の強さ、たくましさを感じていた。

そのときから、勝家と市、そして三人の娘は、本当の家族となった。

父の手紙と酒蔵にたどりつく  浜田さつき

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赤いブーツがいま静脈を通過する  岩田多佳子

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  柴田勝家とお市の木像

「お市と勝家の結婚、そして、お市はなぜ秀吉を嫌ったのか・・・?」

お市、「清洲会議」のまえに、柴田勝家と結婚することが決まっていた

そこで、お江たち三姉妹たちも、越前の北ノ庄に移ることになる。

「勝家とお市の結婚が、どのような経緯で決まったのか?」

このことの詳しい事情は、分かっていない。

「信孝の斡旋」でと、一般には言われているが、

実際のところ、お市と信孝が、とくに親しかったわけではない。

≪大河ドラマでは、信孝斡旋説をとりあげているが≫

誰の手に預けるべきや紐の端  中野六助

傍にいた織田信包は、羽柴秀吉に付き従う行動をとっていたから、

反秀吉派の信孝の指図を、受ける立場ではない。

あくまでも推測になるが、信長の生前から、

「お市を勝家の後添えに」

という話があったのかもしれない。

もしくは、信包とお市の母である土田御前あたりの意向が、

あったのかも知れない。

だまし絵の中に真実隠される  杉本克子

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信長が亡くなったあと、

「市やお江たち三姉妹の面倒を誰が見るか」

が、難しい問題になっていた。

土田御前が娘のことを心配して、

「旧知の勝家さまに嫁がせては・・・」 

と思いつき、

「信包らと相談して、決められた」

という考え方が、いまは主力をしめている。

こうして三姉妹たちは、越前への旅に出ることとなった。

浅井の旧領である湖北を通る途中、

宿泊した寺院などには、浅井家の縁者たちが、たくさん訪ねてくる。

お市にとっては、懐かしくはあっても、

辛い記憶を思い出すことになる、旅でもあった。

どうしても流れの先を見てしまう  立蔵信子

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 柴田勝家

その年の秋、信長の葬儀をめぐって、さや当てがあった。

勝家は、主導権をとりたいところであったが、

京都周辺は、羽柴勢が支配しており分が悪く、

結局、10月11日から7日間にわたって秀吉が、

養子である秀勝を喪主に、大徳寺で葬儀を執り行うのを、

指をくわえて、見ているしかなかった。

こころざし詰めた鞄が野に沈む  吉川哲矢

秀吉の勝家への対抗心は、懸想していたお市を勝家に、

「取られたからだ」

と、いうことを言う人もいるが、それは、大いなる間違い。

秀吉がお市のことを”好きだった”などというのは、

江戸時代になってから、言われ出したことである。

そもそも、秀吉が市と会ったことがあるのか、

そのことすら、怪しいものなのだ。

そんなに拭いたらメッキ剥げまっせ  森田律子

浅井長政とお市の結婚を、

「いつとみるか?」

にもよるが、秀吉は、そのころ織田家の重臣でもなかったから、

二人が会える機会は、ほとんどなかったと考えるのが普通で。

小谷城落城のときにも、秀吉は城の背後から攻撃をしかけていて、

信長の陣営には、いなかったはずである。

お市と会う可能性は低かっただろう。

そしてその後にも、西国を転戦していた秀吉が、

市たちがいた上野とか、清洲に立ち寄ったという記録もない。

こうして考えていくと、秀吉がお市に、

「特別な思い入れがある」

と考えるには、少し無理がある。

もう一度跳ねる本当を見るために  田中博造

お市のほうが、秀吉を個人的に、「毛嫌いしていた」と推測する人もいる。

それには、浅井攻めの司令官だったのだから、

当然、好感は持たなかっただろう、また、

三姉妹の兄である万福丸の処刑などを、理由にあげている。

これもまた、あくまでも秀吉は、信長の命令で動いただけで、

戦国の世にあっては仕方のないことなのだ。

このことが秀吉に対してお市が、

「特別に悪い感情をもっていた」

と、決めつける根拠にはならない。

信号が青になるまで揺れて待つ  中村せつこ

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『豆辞典』

-「信長の死後、歴史の流れを変えた清洲会議を、なぜ、

  織田家の家臣団は、安土城でなく、この清洲城で行ったのだろうか?」

清洲は尾張の中心部で、信長が生まれる前は、

守護である斯波氏が治めていた。

信長の父・信秀の家筋は、守護代の一家老に過ぎなかったが、

斯波氏の権勢が弱まったとき、

信長が守護を襲った織田氏を制して、清洲を奪取した。

”桶狭間の戦い”のときには、この清洲城から出陣している。

まさに、清洲は信長が、

天下統一への「第一歩」を踏み出した土地であった。

すなわち、信長と同様に、家臣団にとっても、清洲は特別の場所だった。

そして、織田家の一大事となったとき、

やはり彼らの足は、自然と「清洲城」に向かったのだろう。

我慢みな避けてこころに渇く音  笹川恭子

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  清洲城対岸にある石垣

大城郭があった場所は、そのまま大都市になることが多いが、

清洲は、そうはならなかった。

”清洲越し”といい、

家康が、清洲を城下町ごと、そっくり名古屋に移転したためだ。

清洲は水運の便がよい反面、水攻めには弱かった。

豊臣方との戦いを見越した家康は、清洲城を名古屋に移転させ、

西の反徳川大名が、関東に攻めてきた場合の守りを、固めたと推測されている。

一身上の都合で夜がやってくる  竹内せつこ

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     清洲城の櫓

JR・名古屋駅から二駅、清洲の駅から線路沿いに10分ほど歩くと、

清洲城の天守閣が見えてくる。

≪かっての清洲城は、対岸の清洲公園の一帯にあった。天守閣は平成元年の再建≫

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清洲城のすぐ近くには、尾張の中心地として栄えていたころは、

物資を積んだ数多くの船が行き交っていたのだろう、

五条川が流れる。

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そして今も、信長の銅像が、その流れを見つめるように建っている。

一城の夢を見ながら耳掃除  油谷克己

清洲観光ー「清洲には、時代を偲ぶ史跡が点在する」

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織田家の菩提寺である”総見院”にある、信長公所用「焼兜」

≪本能寺の変の後、信長の次男・信雄が焼け跡から探し出したものだという≫

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日吉神社の猿(秀吉を指しているのか)

≪秀吉の生母・なかが祈願をして秀吉を授かったという≫

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家康の四男・松平忠吉ゆかりの正覚寺

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清洲城があった敷地の真ん中を、新幹線が通り過ぎていく。

清洲城の天守閣から見下ろす真下の敷地に、

もし、清洲越えがなければ、

名古屋城のような、大城郭があったのだろうと思うと、

複雑な感慨が湧く。

ロゼッタストーンに書いてあった痴話  井上一筒

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時を吸い尽くす紫色の蛭  井上一筒

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     清 洲 城

「清洲会議のちょっとした史実」

清洲会議は事実上、柴田勝家羽柴秀吉の対決となった。

柴田勝家は信長の父・信秀の代からの重臣である。

その一方、秀吉がかなり身分が低かったのは、衆知の通り。

しかし、経歴以上にこの二人は、

性格的にもまったく合わなかった。

ライバルはおヘソの裏に棲んでいる  小谷小雪

天正4年(1576)8月、柴田勝家を総大将とする”加賀平定の陣”で、

秀吉は勝家といさかいを起こし、

信長に無断で戦線を離脱してしまう。

あの信長の直命を蹴ってまで、秀吉がなぜそこまでしたのかは不明だが、

「死んでも勝家の下にはいたくない」

と、思うほどの関係になっていた。

何事も斜めに読んで平のまま  西内朋月

清洲会議では、まず、

「信忠の後継者を誰にするか?」 が話し合われた。

先に述べたように、次男・信雄は、もともと人望がなく、

さらに光秀の討伐にあたっても、功がなかった。

さらに、理由なく安土城に放火するという失態を犯し、

まず外された。

引き潮がさらっていった桐の下駄  嶋澤喜八郎

その一方で、三男の信孝は、光秀討伐にも功があった。

勝家は、秀吉に対抗してというよりも、

「織田家が安泰であればよい」

と言った、消極的な理由で、信孝を推した。

これに対して、秀吉はかなり強引だった。

さよならの形に紐が絞められる  谷垣郁郎

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当時わずか3歳の信忠の子・三法師(秀信)を織田の後継者にして、

秀吉が、「その後見人になる」 と主張したのだ。

もちろん三法師に譲るのは、”織田の名跡だけ”。

織田の遺領の実権は、秀吉が握ることになる。

勝家が秀吉に対して、激怒するのも当然であった。

片頬に笑み乗っ取りは丸らしい  高原まさし

ただ秀吉も勝家の反応が、

「織田の家臣団全体に、広がるかもしれない」

と考えたのだろう。

勝家に、二つの妥協案を提示している。

一つは、秀吉の所領である北近江長浜を勝家に渡すこと。

これにより、雪に閉ざされ勝ちな北陸の地から、

勝家は、秀吉を監視しやすくなる。

横道へそれるローマ字の弁解  山口ろっぱ

もう一つは、お江たち三姉妹と、お市の身柄を勝家に渡すことであった。

お江たち三姉妹は、浅井の子であると同時に、

織田の血を引く重要な存在であった。

光秀討伐にあたって、柴田勝家は、まったくなにも働いていない。

にもかかわらず、

秀吉がここまで申し出るのは、かなりの譲歩であり、

勝家としても、妥協できるぎりぎりの線だったと言えるだろう。

先輩の猫に子猫がごあいさつ  末盛ひでみ

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   三法師丸

『ドラマの展開・「織田家の跡目相続」』

天正10(1581)年6月半ば。

山崎の戦で光秀(市川正親)が自刃したことで、騒動は一段落し、

市(鈴木保奈美)と三姉妹は、そのまま尾張の清洲城で過ごしていた。

市たちの関心事は、織田家の行く末だった。

跡取りとしては、信長の嫡男・信忠が亡くなったことで、

次男・信雄(山崎裕太)と、三男・信孝(金井勇太)のどちらが継ぐかが焦点だった。

芯のない色鉛筆で夢を描く  前田咲二

一方、信長の敵を討った秀吉(岸谷五朗)は、

織田家中における存在感を一気に高め、気分上々。

信長の茶頭だった宗易(石坂浩二)を、新たに自分の茶頭に迎え、

彼がたてた茶を楽しみながら、

さらなる影響力拡大をもくろんで、策を練っていた。

ザラザラと流れる私のなかの音  河村啓子

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いわゆる跡継ぎのノミネートは、表向きのことで、

実際には、筆頭家老の柴田勝家と、

山崎の戦いで、明智を破った秀吉の戦いだった。

勢いでは秀吉だが、

「勝家が信孝を担いで決まるだろう」

というのが、大方の予想だった。

しかし、秀吉の機転の良さを熟知している家康(北大路欣也)は、

「秀吉が何かアッと驚くような裏技を用意しているのではないか」

と感じていた。

水面下天狗の鼻を折る話  下田幸子

やがて、清洲城で跡継ぎを決めるための評定の日が来た。 

江(上野樹里)は、誰が伯父上の跡を継ぐのか興味津々で、

こっそりと覗きにいく。

その途中で、おね(大竹しのぶ)に会う。

久しぶりの再会だった。

おねは、男児を連れていた。

江はおねと秀吉の子供かと思ったが、そうではないらしい。

秀吉が連れて来た子供で、素性はまったく、知らされていないらしかった。

ただ、秀吉は「ほうし様」と呼んでいるという。

ポーカーフェイスで躱す怪しい雲の向き 池田はるみ  

77026717.jpeg     

そこに秀吉が戻ってきた。

秀吉は、江と男児が一緒にいることに気付いて慌てる。

江は何処の子か聞いてみると、秀吉は、

「親戚の子で、戦で身寄りがなくなったので引き取ったのだ」

と、その場を取り繕う。

だが、その表情から、嘘をついていることは明らかだった。

雑魚なりに心に描いてきたビジョン  木村徑子

それから数日過ぎて、天正10年6月27日。

清洲城で、織田家の跡継ぎを決める評定が開かれた。

筆頭家老の柴田勝家は、早速三男の信孝を推した。

勝家  「お二人のうち、長幼の序からすれば、次男の信雄様となろうが、

    それがしは、あえて信孝様をご推挙申し上げたい。

    わけは他でもない。

    お屋形様の弔い合戦となった明智討伐に、信孝様が加わっておられたゆえである」

その勝家の言には、誰も異議を唱えるものはなかった。

静寂のひととき金柑が熟れる  菅野泰行

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もう信孝で決まりだと誰もが思ったとき、突然秀吉が立ち上がる。

秀吉  「待たれよ、柴田殿!」

勝家  「羽柴殿は異論でもおありか?」

秀吉 「 いやいや、どなたかを、お忘れではないかと思いましてなあ」

勝家  「どなたかとは?」

秀吉  「我らが主君たる織田信長様のお世継ぎともなれば、やはり筋目を通さぬわけには・・」

勝家  「筋目?  筋目とはいかなる意味じゃ?」

秀吉  「後継には嫡流をもってすべきかと」

勝家  「嫡流?」

秀吉  「一家の長男、そのまた長男と連なるお方のことにて。

         ゆえに推挙致しきお方はただお一人。

    お屋形様のご嫡男にして、本能寺の折、共に亡くなりし、

         ご長男信忠様のご嫡子にござる」

召し取った音出し閉じる改札機  小川しんじ

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そう言うと襖を開けると、

先ほどの男児が入ってきて、秀吉に抱きつく。

秀吉  「一同、頭が高い!

         こちらにおわすは、畏れ多くも織田信長公のご嫡孫、三法師様にあらせられるぞ!」

その言葉に場内の人々は、一斉に平伏してしまう。

その瞬間、後継は、三法師で決まった。

未来図へわがまま色を足している  浜田さつき

部屋に戻った秀吉は、全員をまんまと出し抜いたと大得意。

それには、妻のおねや、母のなかも知らなかったとはいえ、

加勢したことになり、あまりいい顔はしていなかった。

秀吉  「わしは織田家のために、やっておるのじゃ。

     ・・・いかなる形であれ、このわしが支えなんだら、

     他の大名衆が寄ってたかって、織田家を裸にひん剥いてしまうではないか」

おね  「わたしには難しいことはわかりませぬが、ひとつだけ、分ってることがございます」

秀吉  「な、なんじゃ」

おね  「猿が天下人になるなど、聞いたことがございません」

秀吉  「やかましい!」

たくらみの罠へ我が身も落ちて行く  森 廣子

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その頃、秀吉に出し抜かれた形で、家督相続を逃がした信孝が、

市の部屋を訪れていた。

信孝は、市に折入って話があると言う。

  「母は、嫁ぐことにした」

  「ええーっ!」

茶々  「お、お相手は、どなたなのでしょうか?」

信孝  「それはわしから言おう。柴田修理亮勝家である」

それは三姉妹にとっては、思いもよらぬ名前だった。

捕まえた熊の哀しい顔を見よ  新家完司

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勝家は、市とは年が離れすぎており、

さらに見た目がさつで、秀吉と変わらないぐらいの醜男だったからだ。

とても市と釣り合うとは思えなかった。

勿論、3人とも大反対だった。

  「柴田殿をお好きなのでしょうか?」

 「(吐き捨てる)そんなわけがあるまい」

 「好きでもないのに嫁ぐのですか?」

市 「それは違う」

茶々  「違う、とは・・・・?」

市  「私は柴田殿を猿に勝たせたい。 ゆえに妻となる。

     ・・・誰かの思惑に縛られ、操られて動くのでもない。

    母は武将の心で嫁ぐ。そう申してもよいのかもしれぬ」

その言葉は、以前に浅井家に嫁ぐときに言った言葉でもあった。

夫婦の幸せどんな色ですか  前田紀雄

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一方、市の婚礼話を聞いた秀吉は驚いていた。

そして、勝家に対して怒りを露にした。

秀吉  「織田家を危うくするのは、この秀吉じゃと?

         それを防げるのは勝家だけである・・・そしてもっと言うならば、

         お屋形様の妹君が嫁いだ先を、わしが攻めるはずがなかろうと?」

秀長  「兄者、ちっとは落ち着け!」

秀吉  「望み通りにしてやろうではないか

         ・・・わしが織田家を危うくする、そこをまことにしてくれようぞ・・・・!

         これはお屋形様の命じゃ。

         お屋形様が、わしをお試しになっておられるのじゃ・・・

        よくぞ明智を討った、しかし次は、天下をおぬしのものとすることができるか?!

        とな・・」

秀長  「て、て、天下じゃと?」

太陽に向かって羽の生えた下駄  くんじろう

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秀吉 おのれ見ておれ勝家!

    おぬしを討ち滅ぼし、その首、お屋形様の墓前にそなえてみせようぞ・・・。

    天下取りはその次じゃ。見ておるがよい・・・・!」

秀長  (呆然と)天下・・・・取り・・・・」

決意の表情をする秀吉。

その頃、勝家は市の部屋を訪ねていた。

市と三姉妹の前で、小さくなり顔を真っ赤にしていた。

とても市の顔をまともに見れそうもまかったが、

市は背筋をまっすぐに、勝家を見据えていた。

三姉妹は、勝家に対して敵愾心を露にしていた・・・。

安定剤が寒い畳を転がって  森中惠美子

拍手[6回]

どの紐を引いたら鐘がなるのだろう  中野六助

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    本能寺焼討ちの図

右端に槍に貫かれた信長、左端に森蘭丸、槍を突くのは安田作兵衛

天正10年(1582)6月2日未明、

わずかな手勢のみで、洛中に滞在していた織田信長とその長男・信忠は、

家臣・明智光秀の軍勢に包囲されて自害した。

この「本能寺の変」、たまたま、

信じられないような、絶好のチャンスが到来したのに気づいた光秀が、

”出来心で実行した”ともいう説があるが、

”光秀が信長・信忠親子を襲った理由”は、今もなお、大きな謎である。

『逆順無二の門 大道は心源に徹す 五十五年の夢 覚来(さ)めて一元に帰す』

                                          〈光秀辞世〉

おとぎ噺の切手が貼ってある別れ  森中惠美子

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 織田信忠

信忠は、優秀な息子であり、信長も家臣からも、将来を嘱望されていた。

天正10年3月には、独力で甲斐・信濃の武田勝頼を制圧し、

信長の正式な後継者と目されていた。

この本能寺の変によって、

二本の柱を失った織田家は、大混乱となった。

封印を剥がすと波が荒れてくる  早泉早人

滝川一益森長可(ながよし)らの重臣は、逃げかえるので手一杯。

柴田勝家は、北陸攻め、羽柴秀吉は、中国攻めで身動きがとれず、

残された息子・信雄(のぶかつ)と信孝は、いずれも凡庸であった。

お江たち三姉妹とは、本能寺の変を安濃津で知るのだが、

身動きはとれなかった。

織田信包が、津城から動かなかったためだ。

光秀討伐を目的として、次男・信雄が出陣したため、

織田の留守居として、残ったためである。

クッキーの袋上手に切れなくて  泉水冴子

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     清洲会議の図

和歌山県すさみ町の王子神社に奉納されている清洲会議の絵馬。

山崎の戦で、光秀が敗北した後の6月27日、

織田の後継者を決める会議が、清洲城で行われる。

「清洲会議」である。

この清洲会議で、信長の跡目について話し合われた。

・・・というのは間違いで・・・。

織田家の家督は、信長が安土に引っ越したときに、

すでに信忠が継いでいたから、

これは、”信忠の後継者を決める会議”というのが正解である。

 出世組消えて2次会盛り上がり  八木 勲       

ただ信忠には、正式な嫡子はいなかった。

永禄10年(1567)信忠11歳の時に、

7歳だった武田信玄の五女・松姫との、婚約がととのっていた。

ところが、元亀3年(1572)に織田と武田が手切れになったことから、

この婚約は、棚上げになってしまう。

しかし、完全に破談になったかどうかは不明である。

というのは信忠が、その後、正室を迎えなかったからである。

亡くなったとき、信忠には三法師丸、吉丸という二人の庶出の男子がいたが、

いずれも幼年で、後継者選びは、すんなりとは運ばなかった。

枝ぶりもながめて紐は思案する  笠嶋恵美子

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織田信雄

そうなると、織田家内の序列では、信長、信忠に次ぐ、

信忠とは同母弟の、信雄という考え方になる。

ところが、この信雄は早くに母の吉乃を失い、お伝役がよくなかったのか、

軽薄で、疑い深く残忍で、勝れているのは、歌舞音曲だけという人物。

父の了解もないまま、伊賀を攻めて大失敗をし、

織田家中でも、「三介殿のされることよ」 とあきれられていた。

本能寺の変のときにも、伊勢のあたりをうろうろしたあげく、

明智軍が撤退したあとになって、

安土城にはいり火を放っただけに終わったという。

うっかりで済まぬ豆腐の角である  山本早苗

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      織田信孝

また、柴田勝家が推していた三男・信孝は、信雄と同年であるが、

正室に準じるような存在だった、吉乃の子と同じ扱いをされず、

叔父の信包よりも、下の扱いだった。

織田家代々の家臣である勝家にすれば、

織田家の家臣という意識はあっても、信長個人の家来とは思っていない。

まして信長が、どの女性を愛していたか、など考えにもいれず、

いちばん出来がよい息子を、跡継ぎにすればよいと考えていた。

≪信孝の母は、斉藤道三の三女・濃姫

 ちなみに信孝から4番目下の、信高という弟が、スケートの織田信成くんの血筋である≫

節穴のまなこのほうを開けている  清水すみれ

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  三法師丸(秀信)

それに勝家にしてみれば、

明智討伐を、秀吉だけの功績にしたくなかった。

信孝こそ総大将であるという理屈で、

秀吉の手柄を矮小化しようとしたのである。

しかし、この勝家の主張には無理があった。

結局、秀吉が推す三法師に、信忠の跡を継がせ安土城に移ることとなる。

信孝は岐阜城へ、信雄は清洲城を継ぐこととなった。

難題次々もぐら叩きの其の侭に  木村良三

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   清洲会議2幕目

清洲会議にこのとき、出席した重臣は、

羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興(つねおき)の4人。

池田恒興は、実績よりも、「信長の乳兄弟」という地位で選らばれたに過ぎない。

丹羽長秀は、山崎の戦で信孝とともに、光秀を討ち果たしていたが、

それも、秀吉の中国大返しがあってのことであり、秀吉派といってよかった。

一方の重臣・滝川一益は上野国で地侍の一揆に大敗したばかりで、

出席の資格がなかった。

暗示から動けぬ腰になっている  たむらあきこ

信包は、会議には同席しなかったが、清洲城の別室で待機しており、

すでに、秀吉派につくことを表明していた。

そして、秀吉が強く推すこととなる信忠の嫡男・三法師もまた、

岐阜城から呼び寄せられ、

三姉妹とお市もまた、清洲城に呼びつけられて待機していた。

つまり

「誰が同席させるか」という準備の段階で、

すでに会議の場は、秀吉派で固められていたのである。

けっして妥協しない男にある狙い  柴本ばっは

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