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川柳的逍遥 人の世の一家言
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しゃっくりを短く曲げる銀細工  井上一筒

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「慶長10年からの4年間の出来事を描く」

慶長10年(1605)

4月
秀頼が右大臣となり、秀忠が2代将軍になった。

秀忠の将軍就任ついては、徳川家の、

「豊臣に天下を返すつもりはない」

という意思表示として、とらえられている。

しかし、これは間違った解釈である。

というのも、この時点での統治は

「二重合議制」
であって、
 

「徳川が豊臣の大老として、天下の統治を預かっている」

 

という建前は、否定されていないからだ。 

眼や鼻の置き場をちょっと間違える  中野六助

 

この年の 5月、「秀忠の将軍宣下を祝いに上洛しないか」

という家康からの打診に、茶々が怒った。 

「無理にと言うなら、秀頼と心中する」

 

などと、茶々は、息巻いた。

ただ、茶々が、怒り反対したのは、 

「秀頼が秀忠に、臣従することになるからだ」

 

と解釈するのには、多少の無理があるのではないか。 

≪のちに、二条城で家康と秀頼が会見した時も、

   いろいろな儀礼上の配慮はあったが、

   臣従といったもので、なかった例があるように・・・≫

 

パロデイーにするには中途半端です  美馬りゅうこ

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     秀 頼

仮にこの時に、秀頼が上洛しても、

公家衆と将軍が会う時と同じで、官位の高い秀頼が、

秀忠の下に位置することには、ならなかったはずである。

茶々の心配は、 

「秀頼の身に何か起きないか、

 そのまま京都とか、伏見に留めおかれるのではないか」

 

ということだった。

こうした理由で、茶々は、秀頼の上洛を毅然と拒否している。 

屋根裏を君はときどき散歩する  寺島洋子

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       淀 殿

 

その後の茶々の親馬鹿ぶりを、

推察しても分かる通り、、

茶々は、秀頼が自分と引き離されることを、

極端におそれたのだ。

このことに家康も、

「少々、刺激が強すぎた」

と思ったのか、六男・忠輝を大坂に派遣して秀頼に

拝謁させるなど慰撫につとめている。

6月 に、高台院が三本木から、高台院に移る。 

悪癖は星に行ったり帰ったり  くんじろう

 

慶長11年(1606)

3月、高次の妹・マグダレナが、若くして亡くなった。

姑のマリアは、大変これを悲しみ、

朽木宣綱を強引に説き伏せて、

京都四条に新しく完成したイエズス会の聖堂で、

器楽の合奏隊まで用意した、盛大な葬儀をおこなった。 

ソプラノもアルトもあって虫時雨  合田瑠美子

 

ところが、このことを知って怒ったのが、

またまた茶々である。

キリシタンに改宗したとは違い、

茶々は、とても信心深い仏教徒である。

僧侶たちから頼まれたこともあり、 

「家康にキリシタン禁制を強化するように」

 

と要求、片桐且元が高札を立てて、禁制を掲げた。 

≪もっとも、翌年には、秀頼の意向もあり、少し緩和されている≫

 

記憶から遠いところに置くナイフ  瀬川瑞紀

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    お江ー崇源院

6月、江戸ではお江が次男を出産する。

二男・国松である。

のちの駿河大納言忠長だ。

長男・竹千代を、お福にとられてしまったお江が、

この子を可愛がったのは、自然の成り行きだろう。

 宇喜多秀家が、関が原の戦いの後、

薩摩に隠れていたが、

島津と徳川の関係が、安定したのを機会に出頭し、

八丈島に流されることになったのも、この年である。 

手の上に手を置くやわらかい時間  片岡加代

 

慶長12年(1607)

家康、富士山が美しく見える駿府城に引っ越す。

家康が江戸城に滞在した時期は、それほど長くなく、

将軍になってからも、

秀忠に将軍を譲り大御所になってからも、

伏見城に住んでいた。

実務も秀忠が行うようになり、

江戸と連絡を取りやすくするための、手段でもあった。 

≪家康が江戸に近く住むのは、江には煙たがったが・・・≫

 

倫理観少し削って生きてみる  高橋謡子

この頃、茶々が京都近辺に盛んに、社寺を造営する。

特に、高台院の頼みでもある北野天満宮は、

今も残る華麗で、見事な権現造りなものになっている。

これらは家康が、

「豊臣の財力を減らす目的」 があったものだが、

かえって、豊臣の人気をあげることとなり、

家康にとっては、忌々しいことになってしまった。

そして 10月 には

お江が五女・和子(東福門院)を出産する。
 

万緑の中で虫歯がうずきだす  三村一子

 

慶長13年(1608)

大坂・夏の陣のあとの、慶長20年5月、

8歳の少年が処刑された。

秀頼の隠し子で、この年に生まれた” 国松 "である。

秀頼が16歳のときの子供で、

秀頼が成人したところへ、お側につけた女性が、

妊娠してしまったのだ。

 この年の 2月、秀頼が疱瘡にかかった。

「北野天満宮造営の功徳で助かった」ということで、

秀頼も,多くの社寺の造営をはじめた。 

反省のドアを閉めたり開いたり  小西カツヱ

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     高 台 院

 

慶長14年(1609)

8月高台院の兄であり、

小早川秀秋の父でもある木下家定が死ぬ。

その遺領をめぐって、騒動が起こった。

当初、勝俊・利房兄弟で折半して、

相続することになっていたのだが、

高台院が、お気に入りの勝俊に,

「すべて継がせるよう」 に命じた。

それを聞いた家康が、自分に相談もなく、

そんなことを命じた高台院を、 

「耄碌している」

 

と罵倒し、木下家を取り潰してしまった。 

≪いわゆる家康と高台院の親密度は、この程度のものということか≫

 

その向こうはジンベイザメの領分  山口ろっぱ

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     初ー常光院

5月3日、初の夫・高次が47歳の若さで亡くなる。

京極家は、長男・忠高が跡を継いだ。

夫を亡くし、剃髪して「常高院」となった初は、

夫・高次の菩提を弔いつつ、関が原での心痛を胸に、

徳川・豊臣両家の「和睦の使者」となるべく、

懸命に奔走した。
 

「淀と江の絆をつなぐのは、自分しかいない・・・」

 

その一心で、女の身でありながら、

両家の間を行き来する。

ただひたすら姉妹の絆を保つため、

身を呈して戦国の世を駆けたのだ。

この年、秀頼の姫が生まれている。

のちの天秀尼である。 

うつくしく跳べたら昆布茶を飲もう  田中博造

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大河ドラマ・「お江」-第39回-「運命の対面」  あらすじ

秀忠(向井理)が、

征夷大将軍に就任すると、

江(上野樹里)

" 御台所 ”
という敬称で呼ばれるようになった。

大姥局(加賀まりこ)は、江に、釘を刺す。

「武家のおなごでは日の本一である御台所として、

  ふさわしく振る舞うよう」 と。

江としては、我が子・竹千代(橋爪龍)を、

好きな時に抱くこともできないのに、

「何が日の本一じゃ」 という思いだった。 

価値観の違い空気になれませぬ  山本昌乃

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ともあれ、江は、武家の女性の頂点に立ったのだ。

やがて、江は2人目の男子・国松を産む。

またもや、男子を授かった徳川家は、

竹千代をめぐる江と福(富田靖子)の確執こそ、

続いていたものの、

まず順風満帆といってよかった。 

それからは川の流れにゆだねてる  杉野恭子

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一方、淀(宮沢りえ)は、国松の誕生を知り、

豊臣家の当主・秀頼(太賀)に、

まだ世継ぎがいないことが、気になりはじめる。

徳川家が支配体制を固めていく中で、

豊臣家の威光を保つには、

できるだけ早く、世継ぎをもうけるべきではないか。

悩んだ末、淀は秀頼に側室をとらせる。 

掌の黒子は北斗七星より自由  蟹口和枝

 

正室の千(芦田愛菜)は、

子を産むにはまだ幼すぎたのだ。

だがこの措置は、江に、 

「娘と思って育てる」

 

と約束して迎え入れた千の心を、

傷つけてしまいかねないもの。

淀は、徳川家への対抗心から、

非情な決断を下したのである。
 

遺伝子の部品ひとつが足りません  清水すみれ

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家康(北大路欣也)は、そんな淀をさらに追い詰める。

京に上る自分に、

「挨拶すべし」 と秀頼に上洛を求めたのだ。

それは明らかに、豊臣家を下に見ての要求だった・・・。

加えて家康は、新将軍・秀忠の名のもと、

新たな江戸城の普請と、江戸の町づくりを諸大名に命じ、

徳川幕府の力を天下に見せつける。 

安定剤が寒い畳を転がって  森中惠美子

 

秀忠は、なんとか豊臣家との融和を図ろうと、

完成した城には、家康に入ってもらい、自分は、 

「江とともに大坂に近い伏見城に移りたい」
 
と主張するが、家康は息子の甘い考えを一蹴。

そのうえで、自分はなじみのある駿府に城を築き、

そこで、隠居すると言い出す。 だが、

隠居が表向きのことであるのを、秀忠は見抜いていた。

家康は、江戸と大坂の間にある駿府で、

双方ににらみをきかせながら、

政治の実権を、握り続けるつもりだったのだ。 

自分らしさの裏も表も見せている  森 廣子

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一方、関が原戦いでの功績により、家康から、

若狭国の城主・高次(斎藤工)初(水川あさみ)は、

若狭小浜で、以来、平穏に暮していた。

だが、そんな2人の幸せな暮らしに、終りが訪れる。

高次が病に倒れ、初の献身的な看病もむなしく、

世を去るのだ。 

生涯の一誌ありけり天の川  大西泰世

 

死の直前、関が原の戦いで、

結果的に豊臣家を裏切る形となったことを、 

「今も申し訳なく思っている」
 
と明かした高次。

その思いが、

夫亡き後、落飾して「常高院」と号する初の人生に、

大きな影響を与えることになる。 

こころが疲れたら物置きに閉じ籠る  新家完司
 

 

拍手[4回]

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秋風の中をつらぬく陽の行方  川上三太郎

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  江戸城(元和時代)

≪大奥の広さは、江戸城の5割以上を占め、2万平米といわれる≫

「大奥こぼれ話」

徳川八代将軍・徳川吉宗は、

ご存じ紀州からの暴れん坊将軍として、
有名だが、

「享保の改革」「目安箱」など、

数々の善政をおこなった名君である。

この吉宗が、将軍就任とともにまず断行したのが、

「大奥」の統制である。

この目的は、

膨大にふくれ上がった大奥の、経費削減を行うことにあった。

琵琶湖へうっかりはめこんだ淡路島  藤井孝作

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    大奥櫛あげの図

当時、大奥には、巨額な人件費と服飾費がかかっていた。

そのため吉宗は、千人程いた大奥の人員削減を考えた。

しかし、当時の大奥の勢力といえば、

政治にも影響を与えるほど強大なもの。

もし、リストラなど口にしようものなら、

いくら吉宗が将軍とはいえ、

側室や将軍の実母、正室など強い権力を持つ大奥から、

反発を喰らうに違いない。 

言いたいこと言って空気が尖りだす  高橋謡子

 

全力で逆襲されれば、

将軍職の地位すら危うくなるかもしれないのだ。

大奥の勢力を恐れた吉宗は、

なんとかして、彼女らの怒りを買わないように、

「リストラすることは出来ないか」 と考えた。

そこで、吉宗が出した答えが、

” 美人だけをリストラする ” という作戦だ。 

どくどくと黒い媚薬がそそがれる  太田のりこ

 

吉宗はまず、奥女中の中から、

「美人といわれる者を50名ほどリストアップせよ」

と要求。

それを聞いた大奥の女たちは大騒ぎ。

それもそのはず、彼女らは吉宗からのその要求を、

「将軍様の側室選び」 と勘違いしたのだ。

当時、出世するための一番の近道は、

将軍から寵愛を受けることだった。

そのため、側室選びとなれば、

大奥中が騒ぎとなるのも無理はない。

彼女たちは胸躍らせながら、

大奥の ”美人リスト ”を吉宗に提出した。 

これからを踏ん張らねばと青もみじ  山本昌乃

 

しかし、それを受け取った吉宗の口からいい渡されたのは、

その美人たち50名の「解雇処分」だったのである。

側室選びだと期待していただけに、

彼女たちのショックは、大きかった。 

しょんぼりをこぼす夕焼け色の酒  北村幸子

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   大奥歌合せの図

 

吉宗は、女たちに理由を問い詰められると、こう言った。

「美人なら大奥を出ても、良縁も多いはず。

  だが、美人でない人は、なかなか嫁のもらいてがないものだ。

  だから美人は解雇して、不美人は大奥に置いておく!」

リストラされた女たちは、嬉しいやら悲しいやらで、

怒るにも怒れなくなったとか。

女心をうまく利用した吉宗の機転である。 

もも色の言葉で弱味ついてくる  本多洋子

 

こうしてうまく、女中のリストラに成功した吉宗だったが、

実のところ、

大奥上層部の経費削減には手をつけれなかった。

というのも、吉宗を将軍に指名してくれたのが、

大奥のトップに立っていた天英院だったからだ。 

追い詰めてみると陽炎になった  美馬りゅうこ

 

天英院に頭が上がらなかった吉宗は、

彼女に、年間1万2千両もの格別報酬を与え、

天英院と敵対していた月光院に、居所として吹上御殿を建設。

さらに、1万両の報酬を与えるなど、

女中の数を削減する以外には、何も出来なかったのである。

さすがの革命家・名君も、

女の園の解体までは踏み込めなかった。 

薄切りのメロン自分を見失う  河村啓子

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「天英院」

甲府の優しいお殿様・徳川綱豊に、近衛熙子(このえひろこ)が

嫁いだのは、延宝元年(1679)、14歳の秋であった。

近衛熙子のちの天英院である。

天皇家の血を引く熙子は、教養があり、思慮深く、

そして、心根のやさしい人柄で、

綱豊とは、とても中睦まじかった。 

人柄が色紙の上でよく踊る  中島正和 

 

それから25年後の、宝永元年12月(1704)、

綱豊が43歳のとき、5代将軍・綱吉の後継者として、

 

水戸の徳川光圀からの強い推挙により、

「家宣」と改名し、江戸城西の丸に入ることとなる。

熙子も「御台所」として江戸城大奥に入った。

華やかな大奥に入って、皮肉にも、

熙子の人生が空しいものになっていく。 

四六時中片隅だけど君のこと  中岡千代美           

綱豊が六代将軍として、綱吉の遺志に逆らっても、

最初に実践したのが

「生類憐みの令」「酒税」の廃止などなど。

庶民の痛みが判る家宣の人柄が、見えてくる決断であった。

この優しさで庶民の人気も高く、政務に多忙な日々となる。

そして甲府時代とは異なり、大奥へ通じる一枚の扉で、

夫婦生活は一変、

熙子は、憂鬱な生活を送っていたといわれる。

さらに、お喜世の方(月光院)が4人目の側室に迎えられ、

綱豊とは、ますます疎遠になっていく。 

手間取っています二人の周波数  下谷憲子

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このお喜世の方が、7代将軍・家継を生む。

熙子も豊姫・夢月院という二子を儲けたが、

早くに夭逝しており、

正徳2年(1712)家宣は病により没し、

お喜世の子が、将軍後継となったのだ。

そして熙子も剃髪して、院号を天英院と号する。 

≪この辺から、天英院と月光院の確執が表面化してくる。

  ” 絵島事件 ” は、 いろいろなドラマ・映画にも扱われ、有名なところ≫

 

点線が実録となるプロフィール  合田瑠美子

しかし家継は、病弱で5歳の時に将軍職につくが、

在職4年にして病の床に臥せる。  

「家継が危篤になって、徳川将軍の空位が起こってはいけない」
  
と、閣僚が騒然となる中、

まず尾張家、紀伊家、水戸家から将軍候補が上がってくる。

それぞれの支持者たちが、工作してきたが、

一向に決まらない。

日一日と、家継の容態がわるくなっていく。

鳩の首ぽっぽっぽとずれてゆく  ひとり 静

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ますます城中が慌ただしくなる中、天英院が動いた。

 

天英院は、将軍後継に紀州の吉宗を指名したのだ。

理由として、 

「家宣と吉宗の考え方が、一番近かったから」

 

だと言われている。

熙子は、当時の江戸城内の最高権力者であったが、

彼女が吉宗を指名したことに、幕閣や譜代門閥は驚嘆した。

大奥の女性が、将軍を指名する事は今までに無く、

また女性が、政治に口出しをする事すら、

考えられなかったからである。 

自然の雷に添加物少し  井上一筒

 

そこで天英院は、  

「先代将軍家宣様の御遺志です」

  

という切り札をつかい、幕閣や譜代門閥を納得させた。

決断力の早さは、夫・家宣譲り、

早速、紀州から吉宗を呼びよせ、

「将軍職を継ぐよう」 に説得した。

吉宗も最初は固辞したが、ここでも、 

「家宣様の御遺志です」

 

の一言に押し切られてしまう。 

いらっしゃいませ三日月のドア開く  赤松ますみ

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追記ー「絵島事件」

側室・月光院は、7代将軍・家継の生母として力を持ち始めて、

正妻・天英院とは不仲であった。

御年寄にして、月光院の腹心であった絵島(当時34歳)が、

月光院の代理で、徳川家の墓参りへ行き、

その帰り、芝居見物に興じて、

当代人気俳優を酒の席に呼び、
一行と親密なときを過ごした。

経由地に立派な塔ほか指の数  兵頭全郎

そして、予定の時間を6時間も過ぎて、

江戸城に戻った。

天英院は、これを期に老中達を動かして、

月光院と側用人・間部詮房(まなべあきふさ)、

新井白石らの権威失墜を謀った。

絵島は、信州へ流罪、

大奥と町方を合わせて1500人が処罰された。

女ひとりの心を変えて豪雨去る  森中惠美子

拍手[6回]

骨肉の盥はまいにちがドラマ  たむらあきこ

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     お福(春日局)

「将軍の乳母・お福」

秀忠が伏見城に朝廷からの使者を迎え、

将軍に任命されたのは、

慶長10年(1605)4月16日のことである。

御台所・お江が、誕生した年でもあった。

その前年にお江は、

秀忠の世継ぎとなるべき男児を産んでいた。

竹千代の名前が与えられた、後の3代将軍・家光だ。

お江にとっては、初めての男の子である。

雲ちぎって獏一頭編みあげる  岩田多佳子

この時代、上級の武士は子供が生まれると、 

「生母に授乳させるのではなく、乳母を付けるのが普通だった」

 

当時は、授乳次第で、

子供の成長が大きく左右される、

医学水準だったことに加え、子育ては、 

「妻が家において何より優先すべき役割」  とは、

必ずしも考えられていなかった、社会風潮が背景にあった。 

山道の梔子沈黙を零す  岩根彰子

竹千代を産んだ江は、その乳母の選定について、

「東国の女性は気性が荒い、京都近辺の女性がいい」

と指示を出した。

そこで京都所司代の
板倉勝重が、人選に当たることとなり、

「公募」の立て札を諸所に立てた。

応募してきた中に、福もいた。

結果がどうなろうと、誰が選ばれようと、

勝重にまかせたことだから、江は、受け入れざるを得ない。  


愚かさの中になんじゃもんじゃの種  前中知栄

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      春日局

≪文京区礫川公園に”誰にも負けないぞ”という表情をみせている≫

 

結果、竹千代には、

稲葉正成という武将の妻・お福という女性が、

乳母につけられた。

後の、春日局である。

お福の夫・正成は、関が原の戦いで、

家康の勝利に、おおきく貢献した小早川秀秋の重臣だったが、

お福が乳母になった頃は、

小早川家を去り、浪人の身だった。

その時すでにお福は、正成との間に3人の子供を儲けていた。

ちょうど、三男の正利が生まれた頃、

乳母に指名された格好である。 

帯の芯女ひとりの火山帯  板野美子

 

そのお福が、なぜ、その任に就くことができたのか、

はっきりしたことは分からない。

「家康の愛妾だった」 という説もあるが、

ただ、乳母になるに当たっては、

夫・正成とは離縁する形をとっている。

この離縁についても、

夫が浮気したので怒った福が、刺し殺したとか、

諸説あるが、ほとんどが江戸時代の創作であり、

確かなことは、分かっていない。 

生涯のいま午後何時鰯雲  大西泰世

 

いずれにせよ当時の乳母の地位は、決して軽いものではなく、

実母より強い絆で、結ばれているケースもあった。

家光と春日局も、そのような関係にあり、

家光は、実母の江よりもお福を慕い、

強く信頼していたという。 

「春日局」の称号は、寛永6年(1629年)10月10日に、

   さまざまな画策の経路を経て、朝廷から賜ったものである≫

 

慕われているしあわせの髪を梳き  時実新子

御台所である江と、

家光の養育をめぐって、対立したとも言われているが、

これにはお福の出自が、関係しているのかもしれない。

お福の父は、斎藤利三という明智光秀の家来だったが、

”本能寺の変” 後の ”山崎の戦い”で秀吉に敗れ、

光秀とともに、六条河原で処刑され、首を晒された。

その首を涙をいっぱいためて、見上げていたのが、

まだ幼かった福である。

その秀吉の養女でもあった江に、

恨みを抱いていたとしても、不思議ではない。 

A型の鬼としばらくおつきあい  森中惠美子

 

だが、お江もまた、父・浅井長政が同じように、

罪人としてその首級を晒され、

お福と同じような境遇にいるのだ。

一方的な思い込みで、対立軸を太くするお福は、

かなり、「直線的で、負けん気の強い性格」

の女性であったものと推測できる。

それは、将軍の権威を背景に、

老中をも上回る、実質的な権力を握り、

権謀術数が渦巻く「大奥」という世界で、

隠然たる権力をふるっていく姿にも、

顕著にあらわれている。 

ぺちゃんこのところに触れてゆく鳥語  ひとり静

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歌舞伎「吹上御庭花見の場」錦絵

 

慶長11年9月、新築・江戸城・本丸御殿で

秀忠とお江の新しい生活が、始まると同時に、

お江が取り仕切る「大奥の歴史」もここに始まった。

大奥というと、

とりわけ男性の出入りが、制限されると言われるが、

この頃は、男性の出入りも結構みられたようだが・・・。

大奥を、江の手から、春日局が取り仕切るようになり、

出入りが極度に厳しい空間に変貌する。  

責任の範囲で白粉をはたく  山本早苗

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大河ドラマ・「お江」-第38回-「最強の乳母」  あらすじ

慶長9(1604)年7月、

江(上野樹里)は待望の男子を産んだ。

徳川の世継ぎの幼名・

「竹千代」と名付けられたその子を囲み、

秀忠(向井理)ヨシ(宮地雅子)大姥局(加賀まりこ)も、

満面の笑みを浮かべる。

それを見た江は、

やっと肩の荷が下りた思いで、心から安堵した。 

無花果の花ひらり人間になった  河村啓子

 

だが、和やかな時間は長く続かない。

竹千代の乳母として、

家康(北大路欣也)が送り込んできた福(富田靖子)が現れ、

挨拶もそこそこに、竹千代を連れ去ってしまったのだ。

まだ床に伏せっていた江は、

福に抱かれた息子が去るのを、

ただ見送るしかなかった。 

伏線に動かぬものを潜ませる  内藤光枝

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やがて、江が床上げしても、

福は何かと理由をつけて、彼女を竹千代に近づかせない。

江は、そんな福の態度に少し異常なものを感じ、

不安を覚えた。

はたして福は、乳母としてふさわしい人物なのか・・・。 

字余りのようなだるさに落ち着かず  新川弘子

 

そこで江は、感じている不安と、

思うように竹千代を抱けない不満を、秀忠に打ち明ける。

しかし彼は、 

「やきもちだな」

 

と言って取り合わない。 

風になったか雲になったか あなた  森田律子

 

ならばと、江は、家康に宛てて文を書くことにする。 

「竹千代の乳母を替えてくれるよう」

 

頼むために。

それからしばらくして、

家康が京・伏見城から江戸へ戻ってきた。

江は早速、家康に、「乳母を替えることができるか」

確かめるが、家康の判断は、

「福をそのままでおく」 というものだった。 

落花生ポリポリ会いたい人が遠ざかる  合田瑠美子

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がっかりした江。

そんな彼女に、追い打ちをかけるかのように、

家康が衝撃的な話を切り出す。

なんと秀忠に、「将軍職を継げ」というのだ。

将軍職を継ぐよう言われた秀忠は、

自分の考えを整理する時間が、欲しかった。

そこで江とともに熱海へ向かう。

熱海といえば温泉。

ゆっくり湯につかれば、頭もほぐれると思ったのだ。 

首置き忘れましたか秘湯の足湯  山口ろっぱ

 

『余談』 

実は、熱海温泉は、家康ゆかりの温泉である。

家康自身が逗留した記録が、残っているほか、

病気療養中の大名に、

熱海の ”湯” を送ってもいる。 

≪また秀忠についても、家康の影響からか、

たびたび湯治に行っていたとか、温泉好きだったという、説もある≫

 

朝食に琵琶湖 夕食に比叡山  清水すみれ


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       豊臣の紋                   徳川の紋

一方、淀は、甥である竹千代の誕生を知って不安になる。

後継者に世継ぎができたことで、

秀頼(武田勝斗)、「政権を返す」 と言った家康の、

気が変わるかもしれないからだ。

だが、秀吉の七回忌に京で行われた祭りの様子を聞き、

不安は解消される。 

パニックのところどころに酔芙蓉  赤松ますみ

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祭りは大盛況で、人々は

今も秀吉を慕い、懐かしんでいるとか。

豊臣家の威光は衰えておらず、

家康はいずれ、政権を返上せざるえないだろう。

淀はそう思ったのだ。

同じ頃、家康にも祭りの様子が伝わる。

そして彼も、改めて豊臣家の存在の大きさを感じていた。

「徳川の世になった」 と天下に示さなければならない。

そう考えた家康は、

秀忠に将軍職を譲ることを思いついたのだ。 

野仏が見ている雲は流れてる  和田洋子

 

拍手[9回]

風の駅まもなく電車が入ります  時実新子

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浜松城(秀忠はこの城で生まれた)

”家康の名言”

『誠らしき嘘はつくも、嘘らしき真を、語るべからず』

「家康の征夷大将軍」

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  岡崎の家康

≪岡崎は家康誕生地(1542~1616)≫

慶長8年(1603)、

徳川家康は、朝廷から「征夷大将軍」に任命された。

だが実は、本来なら家康は、

「征夷大将軍」になれない人間であった。

源頼朝以来、慣例とし将軍職には”源姓”のつくものしか、

付くことが出来ない。

ゆえに、源姓でない豊臣秀吉の場合は、

室町幕府15代将軍、足利義昭の養子に入り、

「将軍たらんことを切望した」 

が拒否され、朝廷の最高職たる「関白」として、

国家を統べる方法を、選択したのだった。

立秋にちょっと歩幅の微調整  前中知栄

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  浜松の家康像

≪三河を平定、浜松城へ(1568~1586)

   三男・秀忠浜松城にて誕生(1579)≫

永禄9年、三河統一を成し遂げた家康は、

織田信長と同盟を組み、戦国大名への道を歩み出していた、

この年の12月、家康は、従五位下・三河守への官位認定と、

松平から徳川への改称を申請した。

だが、正親町(おおぎまち)天皇は、

「先例がないため公家にはできない」

とこれを拒否した。

たとえばのはなし枯木に花が咲く  荻野美智子

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 駿府の家康

≪駿府へは、今川家の人質として入る(1549~1560)

   浜松から駿府へ再び(1586-) その後、五奉行直前から京都へ。

   秀忠将軍職を譲り、再度駿府に居住(1605~1616)≫

そこで家康は、浄土宗の僧侶を通じて、

関白の近衛正久に協力を仰ぐことに・・・。

すると、近衛家の家来であった京都吉田社の神主が、

先例として、利用できる古い記録を発見した。

それは、

「源氏の新田系の得川氏の流れで藤原氏になった家があった」

ということだった。

神主が、その場で書き写したものを、

前久が清書し、朝廷に提出したところ、

天皇の許可が下ったという。

曲がるとこ曲がってまっすぐも曲がる  清水すみれ

対して、徳川氏は、

「源姓の家系だから、スムーズに将軍になれたのだ」

と誤解している人もいる。

家康は、慶長7年(1602)まで、「藤原氏」を名乗っており、

将軍就任を意識して、この年、源氏に復姓したのだ。

復姓とは、妙な言葉だが、家康の言い分によれば、

「もともと徳川は源氏だったが、

  いつのころからか,藤原氏を名乗るようになった」

のだそうだ。

だから、元の姓に戻るのだと主張する。

朝顔は系統好きをもて弄ぶ  岩根彰子

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 最も表情の優しい家康画

このとき家康は、証拠の家系図を朝廷に提出したが、、

それは、『偽系図』である可能性が高い。

なにはともあれ、慶長8年、家康は征夷大将軍に任命され、

名実ともに、豊臣秀頼に代わる天下人となった。

この徳川幕府の誕生は、

豊臣家に大きな衝撃を与えることとなる。

たましいの束の間ほたる二三匹  河村啓子

大坂城にはまだ、秀頼がおり、

大坂方では、家康が将軍になったことに、

ショックを覚えたが、それでもまだ

「天下の家老」
という受けとめ方をしていた。

「秀頼が成人した暁には、政権を返すはず」

という思いがあった。

そうした大坂方の思惑を、完全に打ち砕いたのは、

その2年後である。

隣の椅子でたぬき寝するゲリラ  山口ろっぱ

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    駿河城復元模型

家康が将軍職を辞し、息子の秀忠が二代将軍になった。

これは、

「江戸幕府は徳川氏が世襲する。

 政権はもう秀頼には返さない」

という、意思表示である。

「秀頼が成人すれば」

「家康が死ねば」

と考えていた大坂方は、喩えようもないショックを受けた。

モザイクをはずすとそうかそうなんだ  山本昌乃

このように老獪に、「大坂の陣」は、

準備されていったわけだが、

時代の流れは、完全に徳川方であり、

豊臣氏は、結局、滅ぼされるしかなかった。

慶長19年(1614)10月からはじまる「大坂・冬の陣」、

そして、翌・元和元年5月の「大坂・夏の陣」によって、

豊臣氏は、滅亡させられてしまう。

常識を埋める とぶための儀式  松本としこ

拍手[5回]

火柱の中にわたしの駅がある  大西泰世

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       御座船

≪豊臣家をしのぐ徳川家の力を見せつけるように、

    数千艘の伴船を従えて、山科川を下っていく千姫の御座船≫

「千姫の婚礼」

慶長8年(1603)、家康が、「征夷大将軍」に任命されて、

5ヶ月後の7月28日、千姫秀頼のもとに嫁ぐ。

秀吉の生前に婚約していた2人だが、

家康の将軍職就任直後に、千姫を輿入れさせた背景には、

徳川家の政治的配慮があった。

豊臣家の心証はもちろん、

関が原の戦いで
勝利に貢献した、

豊臣家恩顧の諸大名への、配慮があったのだろう。

福島正則らは、家康を天下人にするために、

関が原で、奮戦したわけではなかったからだ。

カタログをタヌキキツネが零れ出る  谷垣郁郎

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7歳になった千姫は、秀頼との婚儀を執り行うべく、

伏見へと向かう。

それには、お腹に ”4人目の子” を宿しながら、

江も、同行することとなった。

娘の婚儀に、母親が同行するなど、

前例のないことだったが・・・。

それが、江らしかった。

さすがに、婚礼には出られなかったが、

伏見に行ったことで、姉のとの再会を果たした。 

≪ここで身籠っていた子は、やはり女児で、、初姫と名付けられ、

 子供の出来なかった姉・初との約束で、姉の養女となる≫

 

悲しいときは嬉しい顔の叩き売り  前中知栄     

伏見城から大坂城へ、船で下る千姫の輿入れは、

盛大なものだった。

千姫が乗った「御座船」の周りには、

葵の紋所が染め抜かれた幔幕が張られた。

迎えの数千艘の船を従えた御座船を、

大坂城に向かわせることで、

徳川将軍家の威光を、

豊臣家の影響力が強い上方に、知らしめようとしたのだ。

手応えを握りこぶしは知っている  片岡加代

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当時、家康は伏見城にいたが、秀忠は江戸城にいた。

実は、徳川家側は、この婚儀をあまり歓迎していなかった。

そんな徳川家の姿勢を物語る、次のような話がある。

婚儀となれば、

諸大名は、自ら婚儀に出席するが、

出席できなければ、

祝意を述べる使者を、派遣することになる。

考える葦一本の生き上手  皆本 雅

例えば、妻のガラシャを、

関が原の直前に失った小倉城主・細川忠興は、

7月11日に、小倉城から大坂に向かう。

21日、大坂に到着し、

26日に、伏見城にいた家康に、祝意を言上した。

婚儀から2日後の晦日には、秀頼に祝意を述べている。

忠興は、小倉にいた嫡子・忠利に、

婚儀に祝意を述べる、使者の派遣を命じようとする。

処方箋裂けたぎょうにんべんと0  井上一筒

家康にとっては孫娘、

秀忠にとっては長女の、輿入れであり、、

徳川家への配慮にもつながると、判断したに違いない。

忠興は、使者を送る前に、

徳川家に、この件を問い合わせている、

が、意外な指示が下る。 

「使者をわざわざ、豊臣家に送るには及ばない。

  祝意を述べる書面を送れば充分である」

 

というのだ。

約束の指で消去のキーたたく  斉藤和子

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11歳で政略結婚をした秀頼

この婚儀を通じて、

「豊臣家が、天下の注目を浴びるようなことは避けたい」

という、徳川家の意向が伝わってくる。

新しい天下人の徳川家としては、

かっての天下人・豊臣家の印象は、極力薄めたかったのだ。

こうした徳川家の姿勢を、当然、お江は察していただろう。

お江がわざわざ、大坂城に赴くことに、

家康が、あまり歓迎しなかった理由は、ここに明白である。

しかし、豊臣家と徳川家の間が、

「将来、手切れになる事態は、
どうしても避けたい」

との気持ちが、お江を動かした。

秀忠も、黙認せざるを得なかったのかも知れない。

リセットができないままのトコロテン  山口ろっぱ

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大河ドラマ「お江」・第37回-「千姫の婚礼」 あらすじ

「関が原の戦い」が終わって、1年余、

力を増すばかりの家康(北大路欣也)は、

主君である秀頼(武田勝斗)への新年のあいさつを、

なんと、2月になってから行う。

治長(武田真治)は、その不遜な態度をとがめるが、

家康はまったく気にする様子もない。

それどころか、 

「征夷大将軍を拝命することになりました」

 

と、さらりと宣言し、秀頼とともに、

挨拶を受けた淀(宮沢りえ)を驚愕させる。

もちろん淀は、

「秀頼様が成長するまでの仮の将軍」

という家康の説明を信じてはいなかった。 

心してかかる相手は宇宙人  山内美代子


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「征夷大将軍といえば、亡き秀吉も就きたいと望んでいた、

 武家を束ねる役職である。

 今、武家の頂点にあるのは、

 秀頼ではなかったのか・・・・」

 

家康が、その将軍職に就くと聞き、動揺する江に、

秀忠(向井理)が、さらなる衝撃的な話を聞かせる。

長女の千(芦田愛菜)を、

秀頼に輿入れさせるというのだ。

秀頼と千の婚姻は、秀吉の遺志でもあり、

既定の流れだったとはいえ、千はまだ7歳。

かつて、わずか3歳で嫁に出した次女・珠(渡辺葵)が、

不憫でならず、

今も泣いてばかりいる江(上野樹里)としては、 

「もう少し先でも」

 と思わざるをえない。 

油断した隙に尻尾が生えてくる  合田瑠美子

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しかし江は、自身の経験から、

こうした話が動き出せば、まず拒めないことをよく知っていた。

ゆえに、 

「この婚姻を、豊臣と徳川の ”和平の証し” としたい」

 

という秀忠の意もくみ、

しかたなく千の嫁入りを受け入れる。

そして今度は、千とともに

「自分も大坂に行きたい」
と願い出る。

江は婚儀直前に、千の気持ちを確かめ、

もし嫁入りを心底嫌がっているなら、

どうあっても、連れかえるつもりだったのだ。

また、千の姑となる姉・淀に会い、

「直接話をしたい」 とも考えていた。

臨月のあなたの中のダイナマイト  河村啓子

拍手[5回]



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