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川柳的逍遥 人の世の一家言
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折れた矢を集めて今日の火を炊こう  奥山晴生

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勝龍寺公園に建つ細川忠興とガラシャの像(長岡京市)

「たま・珠・玉とも称されるガラシャ」

細川ガラシャ(たま)は、明智光秀の娘として越前国に生まれた。

文化人でもあった父の教育を受け、

聡明で美しい娘へと成長したたまは、

15歳で信長の家臣・細川忠興のもとに嫁いだが、

平穏な日々は、長くは続かなかった。

うっかりとニーチェの森に迷いこむ  浜田さつき

父・光秀が、本能寺で主君・信長を討ち、

たまは、「逆臣の娘」の烙印を押されることになる。

そして、夫・忠興が羽柴秀吉側についたため、

本来なら離縁されるのが当然であろうが、

たまを愛していた忠興によって、丹後の山深くにある味土野に幽閉された。

妊娠中だったたまは、ここで次男を出産する。

運命線ところどころでわらう鬼  赤松蛍子

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隠棲地の碑が建つガラシャ幽閉の地

”身をかくす 里は吉野の奥ながら 花なき峰に呼子鳥啼く”

2年に及ぶ幽閉を解かれ、

大坂の細川屋敷に戻ることが出来たが、

そこで彼女を待ち受けていたのは、

忠興が、側室を置いているという事実だった。

しかも幽閉地で生まれた次男に対する、忠興の態度は冷たかった。

* (呼子鳥ー鳴き声が人を呼ぶように聞こえるところから、カッコウといわれるが・・・)

黒い火に油注いじゃなりませぬ  山口ろっぱ

おそらく、そのような辛い日々が、

彼女をキリスト教に向かわせたのだろう。

忠興が秀吉に従って、九州征伐に出向いている間に、

たまは洗礼を受け、「ガラシャ」という洗礼名を授けられた。

それを知った忠興は、ガラシャに執拗に棄教を迫ったとされるが、

彼女の信仰が、揺らぐことはなかった。

開かない扉むこうの乱気流  合田瑠美子

関が原の戦いの直前、挙兵した石田三成は、

諸大名の妻女を人質に取ろうとするが、

”ガラシャはこれに抵抗し、三成軍に屋敷を取り囲まれると、

ガラシャは、家老に槍で胸を突かせて死んだという”

キリスト教では、自殺は大罪であり、

それを避けるための覚悟の死だったといわれている。

ポリシーを通し続けてきた氷柱  赤松ますみ

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”散りぬべき とき知りてこそ 世の中の 花は花なれ 人は人なれ”

                               (ガラシャの辞世の句)

死なねばならないとしたら、

その時に向かって人生を全うして、無駄に過ごすな。

そして桜の花のように、見事に散ってこそよい。

こうした長く辛い運命と流れて・・・なお、

ガラシャは夫・忠興を励ましているという切ない解釈がされている。

慶長5(1600)年7月17日没  享年・38歳

(ガラシャとは、ラテン語で”神の恵み”という意味)

自分への弔辞自分で書いてある  井上一筒

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「蛇足」

キリスト教の一派イエズス会の創始者の一人、フランシスコ・ザビエルは、

インドのマラッカで、アンジローという日本人に出会い、

その聡明さに心打たれ、日本への布教を決意する。

そして1549年、ザビエルは鹿児島に上陸、

山口・堺・京都と布教の旅を続け、2年3ヶ月の滞在ののち、離日した。

糊代を無視して描いた設計図  井丸昌紀

彼に感化されて、入信した者の数は1000人にも満たなかったが、

以後、続々と宣教師が来日、教徒は急増してゆく。

そして信長の時代に最盛期を迎える。

信長が、仏教勢力を抑制する目的で、

キリスト教を公認したからだ。

貝の口あの手この手を持っている  和田洋子

だが天正15(1587)年、九州を平定した秀吉は、

突如バテレン(宣教師)追放令を出す。

その理由としては、

「教徒の団結を恐れた」

「長崎が教会に寄附されていたのに激怒した」

「宣教師が日本人を奴隷として海外へ売ったのを知った」

など諸説あるが

「南蛮貿易」
は奨励されたので、追放令は不徹底に終わった。

未来図が描ききれない骨密度  上嶋幸雀

また、徳川家康もはじめのうちは、貿易の利を重視し、

キリスト教を黙認してきたが、

慶長17(1612)年直轄地に「禁教令」を出し、

翌年には、適用範囲を全国に広げ、

高山右近ら多くの信徒を国外追放した。

唐突な禁教は、オランダとイギリスがお互いの詰りあいで、

「カトリック系宣教師の目的は、日本侵略にある」

と吹き込んだためとされる。

磨きあげたとたんにワワワッと棘  森田律子

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その以後、寛永14(1637)年、

島原で天草四郎を首領とする農民2万が、反乱を起こした。

明治5(1873)年、キリスト教は、明治政府が公認するまで、

約300年間の、厳しい弾圧と詮索に耐えて、

父祖の信仰を守り抜いたというのは、まさに奇跡的な出来事である。

待つための日めくりを吊る釘を打つ  森中惠美子

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