- 2010/12/06
- Category : ポエム&川柳
坂雲こぼれ話ー美談と英談
『日清戦争「武士道の精神」にみる美談』
日清・日露に活躍した将官には、
戊辰戦争や西南戦争に出動した経験の持ち主が、
非常に多いという事に気づく。
いわば、これらの男たちは、幕末まで”武士として”育ち、
明治日本の近代化と並行して、”軍人として”の道を歩み始めたのである。
ということは、日清・日露戦争には、
「まだ、武士道の精神が生きていた時代に行なわれた対外戦争」
という一面が見えてくる。
草に寝て空をわたしの空にする 宮崎ただじ
たとえば、旧薩摩藩に生まれ、薩英戦争に参加して、
イギリス海軍の強さを、間近に見せつけられた『伊東祐亨』(いとうすけゆき)という、
豪放磊落な薩摩人がいる。
これを契機として海軍を志した伊東は、
西南戦争に際しては、軍艦「日進」の艦長として薩軍追討に参加。
日清戦争がはじまると、連合艦隊の初代司令官として、
黄海海戦、威海衛突入戦で、清国の北洋水師を、鎧袖一触してみせた。
☆ 鎧袖一触(がいしゅういっしょく)
(鎧の袖を少し触れた程度の力で敵を倒す意から、相手をたやすく打ち負かすこと)
そして、北洋水師の提督・丁汝昌が敗北の責任を取って、
服毒自殺したと報じられた時。
伊東はその柩が、不潔なジャンクに載せられて、故郷に運ばれると聞くや、
戦利品として、捕獲したばかりの運送船・「康済号」を清国側に返還し、
これに、「丁汝昌の遺体と遺品を載せて送るように」指示した。
そればかりか、「余裕があれば将士を乗せてもよい」と付言した。
腐葉土の中にも半跏思惟像 井上一筒
北清事変講和条約
大日本帝国憲法のもとでは、
宣戦講和や条約締結は、天皇の大権に属するから、
いかに司令長官とはいえ、戦利品の一部を勝手に敵国に返すことは許されない。
というのに、あえてこのように命じたところに、
伊東なりの武士道の精神があったのだ。
この美談は、博文館発行の『日清戦争実記』に大きく報じられ、
一夜にして伊東は、英雄としてもてはやされることになった。
しかし彼は、つぎのような和歌を詠むばかりであった。
”もろともに建てし功をおのれのみ世にうたはるる名こそつらけれ”
富士山の肩にマフラー巻きつける 松下ヒロス
日英の蜜月関係にロシアが嫉妬している様子を描いている。
(1902年英『パンチ』誌)
日英同盟は清国と韓国において互いの権益を承認保護し合う。
「日英同盟」
日清戦争に敗れた清国は、
大国にもかかわらず、弱体だったことが暴露される形となり、
ロシア・ドイツ・フランス・イギリスなどの列強が、
一気に中国へ進出してくる状況を迎えた。
特にロシアには、悲願があった。
”凍らない港”の確保である。
≪結果、ロシアは、満州北部横断の東清鉄敷設権と旅順・大連・金州の租借権を獲得。
フランスは、安南鉄道延長権、広東三省等の鉱山採掘権と広州湾の租借権を、手に入れ、
ドイツは、膠州湾の租借権と山東省の鉄道敷設権・鉱山採掘権を、手に入れた。
イギリスもまた、九龍半島と威海衛の租借権を、手に入れている≫
抹茶椀水の甘さを知りつくす 亀山 緑
こうした列国の中国進出を怒った民衆が、反乱を起こした。
「義和団の乱」である。
義和団というのは、農民を中心とする宗教的秘密結社で、
「扶清滅洋」(ふしんめつよう)をスローガンに、
明治33年(1900)蜂起し、鉄道を破壊したり教会を焼いたり、
北京の外国公使館などを襲撃したりした。
≪当時、清国の利権は列強諸国に食い荒らされ、とくに鉄道の敷設によって、
地方では、重い税金をかけられ、清国の農民は死ぬ苦しみを味わっていた≫
このとき、地理的にも一番近い日本は、
すぐ鎮圧のための軍隊を、出そうと思えば出せたのだが、
「列国を困難に陥らしめて後、これを救うのが得策」 (桂太郎)
という”作戦”によって、すぐには派兵しなかった。
事実、その作戦は当たり、イギリスからは日本軍の出兵を求め、
財政援助まで申し出てきたのである。
結局、日本は1万2千の兵を送り、義和団鎮圧を成し遂げた。
≪翌34年、「北京議定書」が調印されることになった。
この一連の動きを「北清事変」とよんでいるが
日本の「極東の憲兵」としての位置づけを、列強も認めはじめる出来事だった≫
この北清事変を通して、日本とイギリスとの間は、さらに接近する形となった。
イギリスは、果てしないロシアの南下政策を止めるには、
「日本の武力」が必要と考え、
また日本は、「イギリスの資本と技術」を高く評価し、
明治35年1月30日、ロンドンにおいて、
「日英同盟協約」が結ばれることになる。
当面する利害の一致で、結ばれた日英同盟が、
その後の、「日本の軍国主義的方向を決定づけてしまった」といえる。
かさぶたの剥がれるときを待てません たむらあきこ




