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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ちりめん雑魚数える元気ありません  西澤知子





 天中から地閣までの13の相を示す陰陽道





江戸時代の仮名草子『安倍晴明物語』には、陰陽道による人相の見方が書かれ
ています。人の顔には、天中から地閣まで13部の位があり、13部が整い、
豊かであれば、「富貴の相」、陥没、偏りがあると「貧賤の相」とされる。
因みに、弘徽殿女御に描かれる黒子は、精力的でライバルを作りやすい相な
のだとか。










「桐壺~夢枕」
の住む清涼殿への道をふさがれた桐壺更衣。素足で雪の庭を歩き、帝のもと
に辿りつきます。その後、病弱な桐壺更衣はさらに弱り、その年の夏には、
ついに里に下がることに。それは「死」を意味していました。
 身分も低く、しっかりした後見もいなかったのに、帝の寵愛を一身に受けた
桐壺更衣。他の妃たちの恨みの的になり、もともと、繊細な神経と身体は疲れ
はて、精神的なストレスが、更衣の生命を縮めたのです。
無念の死ともいえるその亡くなり方は、帝にとっても悔いを残すものでした。





今さらの今が一番逢いたい日  真鍋心平太





桐壺更衣を「女御」と、呼ばせてあげられなかったことがとても心残りで
した。 力関係がものをいう宮中。「更衣」という低い身分で、寵愛を受ける
のは、相当プレッシャーだったはず。
それを知りながら、とうとう帝は、あれほど愛した女性の位階を生きている間
に上げることが出来なかったのです。
帝という地位にありながら、「思い通りに事を進められない」桐壺帝の苦悩
も見え隠れします。
 <物の怪でもよい。もう一度逢って触れたい。あの体に。あの心に>
当時は、病気や不吉なことの原因は殆どが物の怪の仕業と考えられていました。
帝がいくら物の怪でもいいから「もう一度、逢いたい」と願っても、あんなに
愛した生身の更衣はもう、この世にいないのです。
夢に出ることはあっても、体温も匂いもない、ただの幻…。




立ち竦むスクランブルの真ん中で  野邉富優菜






      帝の夢枕に出てくるのは桐壺更衣のことばり





式部ー夢枕




「同じ煙になりたい------更衣の火葬に悲痛の北の方」
『限りあれば、例の作法にをさめててまつるを、母北の方、同じ煙にのぼり
 なむと泣きこがれたまひて、御送りの女房の車に慕ひのりたまひて、愛宕
 といふ所に、いといかめしうその作法したるに、おはし着きたる心地。
 いかばかりかはありけむ。「むなしき御骸を見る見る、なほおはするもの
 と思ふがいとかひなければ、灰になりたまはぬを見たてたてまつりて、
 今は亡き人と、ひたぶるに思ひなりなん」とさかしうのたまひつれど、車
 よりも落ちぬべうまろびたまへば、さは思ひつかしと、人々もわずらひき
 こゆ』
【辞典】
限り=葬儀のきまったしきたりがあるので。
泣きこがれ=こがれは煙の縁語。
『訳』
いつまでも亡骸のまま、というわけにもいきません。
桐壺更衣は火葬されることになりました。更衣の母君(北の方)は、自分も同
じ煙になって空に上りたいと、泣き叫び、ついには女親は葬儀に参列しない決
まりなのに、野辺送りの車に追いすがり乗り込んでしまいます。
それまでは、「亡骸が灰になるのを見届け、諦めをつけましょう」と、気丈に
言っていたのに、いざ斎場につくと気は動転し、足元はふらつき車から転げ落
ちそうなほどです。
手塩にかけたひとり娘に先立たれる不孝。その嘆きは深すぎて、やはり母君が
ここに来るのは無謀だったのでは…と誰もが、どうお相手をしてよいのかわか
らないと当惑するばかりでした。




「捨てるかな」までに時間がかかりすぎ  川本真理子





        高 貴 な 人 の 葬 儀





『内裏より御使いあり、三位の位贈りたまふよし、勅使来て、その宣命読むなん、
 悲しきことなりける。女御とだに、言はせずなりぬるがあかず口惜しう思さる
 れば、いま一階の位をだにと贈らせたまふなりけり。
 これにつけても、憎みたまふ人々多かり』
【辞典】
三位=臣下の位は、最高位の正一位からもっとも低い少初位下まで
  30階級。男性では、公卿と呼ばれるエリートは三位以上の官人
  のこと。女性では、女官の最高位。尚侍(ないしのかみ)が三位
  相当。また女御も三位。桐壺更衣は死後、三位になった。
宣命=漢文で書かれた(詔勅天皇の命令書に対して、国語で書かれた
  ものを宣命と呼ぶ。三位は「みつのくらい」と読むように。
【訳】
亡くなった更衣に、三位の位を贈るという帝の命が伝えられましたが、そのお
使者を迎えるのもまた哀しいこと。
帝とすれば更衣「女御」と呼ばせてやれなかった心残りからですが、この期
におよんでも、更衣への扱いを憎む人が多くいました。




穴埋めに二、三個土用干しの梅  山本早苗




『もの思ひ知りたまふは、さま容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだら
 かにめやすく憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。
 さまあしき御もてなしゆゑこそ、すげなうそねみたまひしか、人柄のあはれ
 に情ありし御心を、上の女房なども恋ひしのびあへり。
「なくてぞ」とは、かかるをりにやと見えたり』
【辞典】
もの思ひ知りたまふ=人の世の道理・情理をよくわかっている人。
さまあしき=人の目を気にしない。見苦しいまでの帝の寵愛ぶりをさす。
すげなう=冷ややかな目で見ること。
上の女房=帝のお側に仕える女官のこと。
なくてぞ=ある時はありのすさびに憎かりきなくてぞ人は恋しかりける
 (生前は憎くてたまらなかった人だ、が亡くなった後は恋しく思われる)
【訳】
でも反対に、人を見る目が確かな人々は、更衣がとても綺麗で物腰も柔らかく
穏やかだったことなどを今になって思い出していました。
度を越した帝の寵愛のせいで妬んだものの、のお側の女官たちは、
更衣の優しい人柄や細やかな心配りをなつかしく思っていたのです。




七転び少しは知恵も貰ってる  津田照子



『はかなく日ごろ過ぎて、後のわざなどなどにもこまかにとぶらはせたまふ。
 ほど経るままに、せむ方なう悲しう思さるるに、御方々の御宿直なども絶え
 てしたまはず、ただ、涙にひちて明かし暮らさせたまへば、見たてまつる人
 さへ露けき秋なり。
 「亡きあとまで、人の胸あくまじかりける人の御おぼへかな」とぞ、
 弘徽殿などには、なほゆるしなうのたまひける。
 一の宮を見たてまつらせたまふにも、若宮の御恋しさのみ思ほし出でつつ、
 親しき女房、御乳母などを遣はし、つつありさまを聞こしめす』
【辞典】
はかなく=あっけなく。
後のわざ=死後に7日ごとに49日まで行われる法事のこと。
御方々の宿直=女御・更衣などを夜、侍らすこと。
露けき秋=ついつい涙してしまう、しみじみとした秋。
親しき女房=弘徽殿女御と通じている女房もいたので、帝は信頼できる
  者を選んで若宮のもとへ遣わせた。
【訳】
時は過ぎていきます。は7日ごとの法事も決して忘れません。
心の痛みは和らぐどころか深まるばかりで、他の妃たちは遠ざけて更衣の面影
に涙する日々。
その痛々しい姿に、周囲もついもらい泣きしてしまうほどでした。
気がつけば季節はすっかり秋。
「まあまあ、死んでからも胸がむかむかするような御寵愛ですこと」
弘徽殿女御は相変わらずのもののいいよう、相手が故人とて容赦はありません。
帝は弘徽殿との間にもうけた一の宮を見るにつけ、
逆に更衣の忘れ形見である若宮が恋しく、思い出されてしまいます。
気心の知れた女房や乳母をたびたび里に遣わし、若宮の様子をお聞になります。




不意に秋足の裏から訪れる  井上恵津子




       靱 負 命 婦 弔 問





『野分たちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて
 靱負命婦(ゆげいのみょうぶ)といふを遣わす』
【辞書】
靫負命婦とは=命婦というのは、女性の地位を示す称号で、後宮に仕えた中位の
 女房のこと。父や夫などの官職にちなむ固有名詞で呼ばれるので、靫負の命婦
 は、家族に宮中の警護をする衛門府の官人(靫負)がいたことがわかります。
 『源氏物語』における「靫負命婦」は、使いとして桐壺更衣の母君、北の方へ
 弔意の文を届けたり、帝の気持ちを伝えるなど、その信頼は絶大なものでした。
【訳】
野分めいた風が吹き、急に肌寒さを感じる夕暮れ、帝はいつにもまして
感傷的になり、靱負命婦という女房を更衣の里へ遣わせます。




台風禍藻のなき海の愁いとなる  平田のぼる




『夕月夜のをかしきほどに出だしたてさせたまひて、やがてながめおはします。
 かうやうのをりは、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなる物の音を掻き
 鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、人よりはことなりしけはい容貌の
 面影につと添ひて思さるるにも、闇の現にはなほ劣りけり』
【辞典】
野分=秋の始めから野の草を分けて強く吹く風。台風。
面影=幻影
闇の現にはなほ劣りけり=更衣の幻は、闇の中で見る生きている。
  更衣のはっきりしない姿にもかなわない、解釈する。
【訳】
命婦を送り出したは、美しい夕日を見つめながら、
「ああ あの人はこんな夕べに奏でる琴の音も上手で、ふと漏らす言葉も
心に響いたものだなあ」と、しみじみと思い出します。
でも、その幻をどんなに追いかけても、桐壺更衣はもういないのです。




流れ星願い聞く気のない速さ  片山かずお




                    靱 負 命 婦 帰 参





『命婦、かしこにまで着きて、門引き入るるよりけはひあわれなり。
 やもめ住みなれど、人ひとりの御かしづきに、とかくつくろひ立てて、
 めやすきほどにて過ぐしたまひつる。
 闇にくれて臥ししづみたまへるほどに、草も高くなり野分にいとど荒れたる
 心地して、月影ばかりぞ、八重葎にもさはらずさし入りたる』
【辞典】
八重葎(やえむぐら)=うっそうと生い茂った雑草。
【訳】
命婦が、更衣の屋敷に到着します。未亡人とはいえ、以前は、一人娘に恥をかか
せないよう、気を配って、小奇麗に暮らしていた母君ですが、泣き暮らしている
うちに、庭は草ぼうぼうで荒れすさみ、屋敷には月の光だけが、生い茂る雑草の
間からさしこんでいるような状態でした。




十億年私に駆けてきた光  沼澤 閑

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O 脚もネコ背もわたし自身です  安土理恵







紫色に彩られた源氏庭白砂部分の多い庭園に桔梗の花が咲き誇り、
何とも雅な庭園がつくり出される。
源氏庭の奥には、青もみじがみずみずしく佇んでいる。
この桔梗の花咲く庭で[
「源氏物語」は生まれたのです。

  紫式部の邸跡に建てられた寺・廬山寺



紫式部中宮彰子の女房として出仕したのは、1004年(寛弘元)12月。
そこから4年後の寛弘5年7月、「紫式部の日記」の執筆がはじまる。
紫式部、36歳、彰子21歳、道長、43歳のときである。
日記は、土御門殿における藤原彰子の出産の話から始まる。
このような記録を書くことは、紫式部にとっては気の進まないことであったが、
道長の要請により、やむなく書くことを決意した。
それでも、さすがに紫式部である。 堂々たる名文で書き始めた。



不意の客もてなす腕の見せどころ  竹尾佳代子





         源 氏 物 語 を 執 筆 す る 紫 式 部





式部ー紫式部名文鑑賞





『秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。
 池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、
 おほかたの空も艷なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさ
 りけり。やうやう凉しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もす
 がら聞きまがはさる』
【訳】
(秋の気配が濃くなるにつれ、土御門殿のお邸の様子は美しくなる。
池の辺のこずえたち、庭の遣水に茂る草々、それぞれが色づいている。
空もたいてい鮮やかに広がる。
安産祈願のお経を唱える声も、ずっと聴こえてくるけれど、こういう情景の中
だといっそう素敵に響いてくる。
夜になるにつれ、風はすこしずつ涼しくなってくる。
いつものとおり、せせらぎはずっと流れている。
風の音と水の音が混ざり合った音は、夜更けまで、ずっと私の耳に届く)





立秋の語感に励まされている  下谷憲子






          土 御 門 殿



道長の邸宅であった土御門殿とは、藤原道長の権力の象徴のような場所だった。
もともと土御門殿は、倫子が父母から譲り受けた邸。
すなわち、倫子と結婚して得たこの邸である。
この邸で道長の4人の娘は生まれた。
そして彼女たちもまた、息子をこの邸で産んだ。彼らはのちの天皇となったのだ。
「この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」
のこの歌もまた、この邸で開催された宴会で、詠まれたものだ。




吹雪かれて男の味になっていく  前田一天




紫式部は、道長から中宮の様子を、できるかぎり立派に描くよう、求められて
いる。だから
『なやましうおはしますべかめるを、さりげなく、もてかくさせたまへる御有
 様などの、いとさらなることなれど』
(出産間近の身体で、さぞ大義であろうけれども、そのようなそぶりもお見せ
にならないのは、さすがである) さらに
『憂き世のなぐさめには、かかる御前をこそ、たづねまゐるべかりけれど、
 うつし心をばひきたがへ、たとしへなくよろず忘らるるも、かつはあやし』
(気の進まない宮仕えであったが、中宮の御前にお仕えしてみると、この世の憂
きことも忘れられるようで、わがことながら不思議なことである}とした。




自己愛というものそうめん茹で上げる  本間美千子






       『年 中 行 事 絵 巻』
真言院御修法の様子




ついで、
『五壇の御修法の伴僧たちの声は、「おどろおどろしく、たふとし」』
(荘厳に響き渡って、いかにも尊く思われる)と書き、
観音院の僧正が、20人の伴僧を引き連れて、渡殿の橋を踏み鳴らして渡って
くる足音さえも、
『ことごとのけはいひには似ぬ』
(ほかのどのような場面でも、見られない雰囲気である)と書いた。




夕方にわたしをざっとかき混ぜる  美馬りゅうこ





「道長と紫式部のやりとり」
『渡殿の戸口の局に見出だせば、ほのうちきりたる朝の露もまだ、落ちぬに、
 殿ありかせ給ひて、御隨身召して遣水払はせ給ふ』
(私の控室の戸口から外を眺める。まだ、うっすら霧がかかった朝方だった。
露もまだ落ちない時間帯に、道長様が庭を歩かれていた。
彼は、お付きの男を呼んで、庭の遣水を掃除させていたのだ)




水を出て水に帰っていく命  三村一子






       女 郎 花




『橋の南なる女郎花のいみじう盛りなるを、一枝折らせ給ひて、几帳の上より
 さし覗かせたまへる御さまの、いと恥づかしげなるに、我が朝顏の思ひ知ら
 るれば、「これ。遅くてはわろからむ」と、のたまはするにことつけて、
 硯のもとに寄りぬ』
(それは透渡殿の南に咲く女郎花が、いちばんきれいな季節だった。
道長様は、女郎花を一本折り、几帳越しに私へ差し出した。
道長様のお姿は、しゃんとしていたけれど、一方で、私の起き抜けの顔は、
ひどいもんだった。
「ほら、この花についての和歌が、遅くなってはどうします」
と道長様がおっしゃった。私は硯の近くに寄り、歌を詠んだ。









幕間にはピエロになっておもてなし  木嶋盛隆





” 女郎花盛りの色を見るからに 露の分きける身こそ知らるれ ”
(秋の露に濡れる女郎花は、今が、いちばんきれいな時。
でも花を眺めていると、露も降ってこなくて、老けてしまった自分を思い知ら
されますわ)
『あな、疾」と、微笑みて、硯召し出づ』
「歌詠むの、早いなあ」と、道長様は微笑まれた。
そして硯をと、おっしゃって返歌を詠まれた。
” 白露は分きても置かじ女郎花 心からにや色の染むらむ "
(白露は、どこにでも降りますよ、女郎花は、自分から美しくなろうとしている
のです、あなたもその気になってくださいよ)




手折りても霧をまとへり女郎花   水原秋櫻子





「和歌がとりもつ道長と紫式部のヤバイ雰囲気」
女郎花は夏から秋にかけて咲く花で、「女」という漢字がついていることから、
和歌では女性にたとえられる。
道長「白露は分きても置かじ」とは、つまり「あなたみたいな歳の人にも、
そうじゃない歳の人にも、みんなに平等に露は降って来る。
<男性は声をかけますよ>という意味のようで……。
この「露」とは、「女郎花に降る露」でありながら、同時に「男性が女性を誘う
こと」ということの喩えでもある。
前の和歌で紫式部が使っていた比喩だ。
だから、暗に道長は<あなたのことも平等に誘うし、その気になってよ!>と、
言い寄っているのである。




もう一本ムカデに足が生えてきた  森田律子




紫式部は式部日記を執筆するにあたり、思いのたけを書いた。
華々しかった皇后・定子のサロンの、中心人物であった皇后定子も清少納言も、
惨めな境遇に陥ったではないか、これ見よがしに利口ぶったり、思い上がった
りしているようでは、行く末、ろくなことがない。
女性の生き方としては、心穏やかで、落ち着いた雰囲気を基本としていれば、
品位も情趣も見えて、安泰である。
式部は、「このような心構えで、中宮彰子に仕えるようにしたい」といい、
道長もこれを了解した。
紫式部は、道長だけでなく倫子中宮彰子のもとに、心穏やかに女房として
の勤めに専心しようと決意した。





折鶴が折れますように明日もまた  井上恵津子






    中宮彰子に漢籍を教示する紫式部




紫式部ひとり語り 「中宮さまに漢文のレッスン」
中宮彰子さまにお仕えするようになりまして、家庭教師としての役目もござい
ますため、折に触れ、当時、宮廷でたいへん人気のありました唐の詩人・居白
の作品から、ところどころを読んでお聞かせしたりしておりました。
出仕の翌年の夏ごろのことでしょうか、そのころにはこの白居易による
「新楽府」という漢籍を2巻ほど、御教示させていただきました。
他の女房の見ていない隙に、こっそり隠れるようにお教えしたのですが、さすが
に中宮さまは公のお方ですから、そうそう隠し通せるものではございません。
御父である関白・道長殿もいつかお知りになったのでしょう、
ある時、彰子さまのもとに、新たに書き写させた漢籍をお届けになられたのには
驚きました。なぜ、こっそり隠れてお教えしたのかって?
その理由は次の機会にお話しいたしましょう





海老反りで小股掬いをしのぎ切る  宮井元伸

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祈祷師の口からふっと佐渡おけさ  中野六助






            絵 合 わ せ



 「絵合わせ」
平安貴族たちが楽しみながら比べ競い合った、さまざまな対決は、総称して、
「物合せ」と呼ばれました。物語の文章に挿絵を加えた物語絵や、宮中での
年中行事を鮮やかに描いた行事絵、優れた風景を描いた山水画などを、左右
に別れ、それぞれ一巻ずつ出し合い優劣をつけるものです。
この雅な遊び「絵合せ」は、壮絶な権力争いでもあったようです。




絡めてみたいムーミンの長い腕  徳山泰子






  紀伊守の屋敷で碁を打っている空蝉と軒端萩を垣間見る光源氏




式部ー平安の雅な人々の室内遊具




「碁」
は天皇から皇族、貴族、女官、僧侶まで幅広く流行していた平安時代の遊び
でした。中国から渡来したのは6世紀ごろのことでしたが、すぐに上流階級に
広まり、正倉院には、聖武天皇愛用の碁盤がのこされています。
もともと中国には、「琴碁書画」は、士君子のたしなみとされる伝統があり、
碁(棋)は男の高貴な趣味として認められていましたが、日本では平安時代に
入ると、宮廷の女官の間で大流行していきます。
教養ある女性のたしなみとして、碁の素養が求められていたのです。




ああ しなやかに蔦のからまる薬指  山口ろっぱ





    長谷雄草紙ー紀長谷雄と朱雀門の鬼の双六勝負




室内遊戯いえば、碁に続いて双六です。
どんな権力があっても、白河法皇「三不如意」賀茂川の水・山法師ととも
にサイの目は、自分の意に添わないといったのは有名。
双六盤の区画の上に黒白各十五個の駒を置き、二人が交互にサイコロを振って
その目数によって駒を進める遊びです。
清少納言の『枕草子』「つれづれなるもの」の段に「馬下りぬ双六」という記
述があるように、サイコロで思うような目が出ず、駒がなかなか進まない様を
いうように、遊び手を熱くさせる「賭博性」があった遊びだったようです。




嘘混ぜてドラマチックにする話  みつ木もも花





       「偏(へん)つぎ」




偏つぎとは、漢字の偏と旁を使っての「文字遊戯」で、主に女性や子供が漢字の
知識を競うために行った遊びです。
旁に偏を付けて文字を完成させる、詩文の漢字の偏を隠し、旁だけを見せてその
偏を当てさせる、また逆に、偏だけ見せてその字を当てさせる、一つの偏を取り
上げてその偏の付く漢字をいくつ書けるか競うもので、今のクイズのようなもの。




点のある古い漢字をつい使う  楠本晃朗






    貝合せ・ふくらすずめ




「貝合、貝覆(かいおおい)」は、平安末期以後の遊びで、蛤の貝殻の左右を
地貝と出貝とに分け、地貝を並べて置き、出貝をひとつずつ出して、地貝と合
っているものを取り、多く取った方を勝ちとする遊びです。




雲行きが怪しくなって中座する  武内幸子







     華麗な装飾が施された蒔絵箏  (奈良・春日大社)

黒い漆面に墨流し風の金の流水が優雅に浮き上がって見える。
周りには草花や鳥が生き生きと描かれ、楽器というよりも絵のよう。



現在の「お琴」にあたる楽器は、当時は「筝」あるいは「筝の琴」と呼ばれ、
ほかの多くの楽器と同じく奈良時代に中国から伝来。
平安後期以降、それまで主流だった七弦の「琴」にかわって、中心的な弦楽器
となります。長方形の桐に13本の弦を張った筝は、琴柱を楯て調律、右手に
はめた爪で弾くことから「爪音」ともいわれました。




お華は裏千家お茶は未生流  井上一筒







       楽 琵 琶







「紫式部と琵琶」
『風の涼しき夕暮れ…独り琴をかき鳴らしては「嘆き加はる」と聞き知る人や
 あらむと…』
(風が涼しく吹く夕暮れに、耳にしたくないような琴を一人、かき鳴らしたり
しても「こんな音を聞かれると、わび住いをしている人がきっと住んでいるの
だろうと見ていたら、その通りで溜息が加わるような琴の音が響いて来ました」



寂しさは宴の後に尚のこと  岸井ふさゑ




式部ー平安時代の調度品・道具





        国宝「懸守(かけまもり)」(大阪市・四天王寺)

          かけ守り 内部





懸守は、神仏の御札などを首からかけて身の御守りとする。 その守り袋。
国宝懸守の内部に、高さ3.3センチの精巧な仏像が納められていた。
懸守の内部に彫られていた仏像(写真右)と供養具。




神さまはずっと熟睡中である  新家完司





         片輪車蒔絵螺鈿手箱 (東京国立博物館)




この手箱は、牛車の車輪の汚れを落とし、乾燥を防ぐために水に浸している風景
を意匠化したものです。平安時代、都の風物詩だったこの景色は、工芸の意匠と
して盛んに用いられましたが、そんなところにも、当時の王朝文化の洗練された
感覚が偲ばれます。また片輪車は仏教で極楽の大輪の蓮をあらわすとされており、
近年の研究では、この箱は経箱として造られたと考えられています。
甲盛と胴張のゆるい曲面で構成された形態、巧みに変化をつけて配置された車輪
の作るリズム、流麗な筆致、研出蒔絵と螺鈿の高度な技術…と、どれをとっても
平安時代のみならず、日本の工芸美の極致ともいえる名品です。




道具類すべてにチエという名前  前中知栄





    国宝黒漆平文鏡台 春日大社




相棒と言おう十年目のコート  髙木道子




                高燈台  (東京国立博物館)
油を入れた燈さん(皿)に点燈心を浸して火をつけます

                                 火取り (東京国立博物館蔵)
香を焚くための道具で下に見える黒い部分を火取母といい、この中に銅や銀な
どの金属 あるいは陶器製の薫炉を入れその中で香を焚きます。

                                 火鉢  (和歌山県立博物館)
寄り合いの輪と和




二月堂の火の粉梅一輪連れて  新井曉子





                                二階厨子の錠前  (国立歴史民俗博物館)
二階厨子とは、二段になった棚の下に両開きの扉を付けた置き戸棚。
二組を1セットとして御所など神殿造の母屋の装飾品として使用。




鍵穴をいじられ鍵が入らない  清水久美子





    泔坏(ゆするつき)(京都風俗博物館)
泔坏(ゆするtき)は調髪のための米のとぎ汁、白水をいれる容器。 
白水を櫛につけて髪をけづると、人の血気を下げる効用があるとされた。
「つき」は、まるみのある器。
ゆするつきは、蓋付きの茶碗を茶托のうえに置いたようなかたち。
木製で、漆塗りのうえに蒔絵をほどこす。





          桜蒔絵角盥  (東京国立博物館)
室内で化粧などをする際、湯水を入れるのに用いた容器




一杯の真水朝夕のルーティン  井上恵津子

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酒蒸しのアサリ開かぬ奴がいる  くんじろう






                      紫 式 部 檜 扇
17世紀、江戸時代初期の作、紫式部を描いた金箔をはった扇子





 通説によると、紫式部、藤原道長の推薦で1005年(寛弘2)12月
29日に中宮・藤原彰子のもとに初出仕するが、ほどなくして自宅に引き篭
もってしまう。
紫式部が宮仕えにあまり気もすすまず、思い悩んでいるときに人が、
「ずいぶんと高貴な人ぶってる」「教養をひけらかす女」と、陰口を言って
いるのを耳にしたからである…。




後ろからひやりと肩を叩かれる  宮井いずみ




"うきことを思ひみだれて青柳の いとひさしくもなりにけるかな "
(嫌なことを思い悩まれて、里下がりが青柳のように長くなりましたね)
宮の弁のおもとが、いつ参内なさるのですか、と歌を贈ってきた。
それに答え、紫式部はおもとへ返歌を送った。
" つれづれとながめふる日は青柳の いとど憂き世に乱れてぞふる "
(長雨が降る日は、ますます嫌な世の中に悩まされ、柳の枝のように思い乱れ
て過ごしています)




人嫌いを憂鬱にする花便り  藤本秋声





                 中宮彰子び教育担当になった紫式部




紫式部だって、もともとはそんなに身分は低くなく、地元では蝶よ花よと育て
られた身。 いやいや仕事をする必要はない。
 ところが突如不幸が訪れる。
紫式部が夫(藤原宣孝)と結婚し、一児の母になったと思いきや、夫が急死し
てしまうのだ。 突然未亡人になる。
そんな時、「宮中で働かない?」とスカウトされた。
女房として働き始めた彼女にとって、宮中での生活は、苦労も多い場所だった
らしい。
" わりなしや人こそ人といはざらめ みづから身をや思ひ捨つべき "
(しかたないとはいえ。人は私を人並みとは言わないだろうが、
自ら自分を捨てることなどできるのだろうか)
そして5か月ほど引き篭もって再び出仕すると…、教養のない女を演じ始めた
のである。




ヘタ切り落とすと大人しくなった  竹内ゆみこ






                                 思 い 悩 む 紫 式 部
乱れた男女関係に苦悩する紫式部も苦悩
宮中に仕える「女房」は必ずしも名誉ある仕事ではなかった。





式部ー紫式部の女房生活------愚痴と文句と悪口と




「寒い、寒い、もうこんな仕事いやだ」
中宮彰子が、私邸から内裏へ帰ってきた日のこと。
里帰りに一緒に着いていった紫式部は、中宮が、内裏へ戻るタイミングで一緒
に帰って来る。
しかし、帰ってきたらもう夜も更けていた。
京都の冬の夜、そのへんの部屋でとりあえず寝ようとするにも、寒い。
紫式部は同僚と一緒に「寒い、寒い、もうこんな仕事いやだ!」
と愚痴を言い合っている。






感情を製氷皿に注ぐ夜  渡邊真由美





【原文】
『細殿の三の口に入りて臥したれば、小少将の君もおはして、なほかかるあり
 さまの憂きことを語らひつつ、すくみたる衣ども押しやり、厚ごえたる着重
 ねて、火取に火をかき入れて、身も冷えにける、もののはしたなさを言ふに、
 侍従の宰相、左の宰相の中将、公信の中将など次々に寄り来つつとぶらふも、
 いとなかなかなり。
 今宵はなきものと、思はれてやみなばやと思ふを、人に問ひ聞きたまへるな
 るべし』




なるようになるさと月が笑いかけ  掛川徹明





二人の宰相が紫式部ら女房の部屋を覗きにくる、奥には仲間の女房がいる

帝の土御門邸行幸翌日の10月17日、中宮権亮藤原実成と中宮大夫藤原斉信が、
紫式部のいる「宮の大夫の局」を訪れる。
呼び掛ける実成と斉信(ただのぶ)、蔀戸越しに顔をのぞかせる紫式部。
直衣姿の男性が藤原実成(右)と直衣姿の男性が藤原斉信(ただのぶ)





【訳】
局で私が横になっていると、同僚の小少将の君もやってきた。
「宮仕えの仕事って、きついし、つらいよねえー」
そこで女同士の愚痴やら、とりとめもない文句や世間話が始まった。
紫式部は、寒くてしょうがないので、とうとう私たちは、寒すぎて硬くなった
衣を脱いで、横に置き、綿入りの分厚い衣を重ね着することにした。
そして香炉に火をつけてあったまる。
「しょうがないんだけど、こんなみっともない恰好しちゃって恥ずかしいわ」
と2人で嘆き合うのだった。
そんなところへ間も悪く、侍従の宰相、左の宰相の中将、公信の中将など
たくさんの男性たちが挨拶をしに来た。




同じ愚痴持ち寄り午後のカフェテラス  吉川幸子




「何でこんな恰好してる日に限って来るわけ! もう今夜は、いないものだと思
われたいんですが!」
と、口には出せないものの、心はぶちぎれた。
「たぶん誰かが、今日はあの子たちがここにいるよ、って言ったんでしょう!」
「明日朝早く出勤しますね~。今日は寒すぎて、ゆっくりお話もできませんし」
と、言いつつ、そそくさと帰る男性陣の後ろ姿を見つめ。
「あんなに早く帰りたがるなんて…家で素敵な奥様が待っていらっしゃるのね」
(心の声は)…「いや、これは私が未亡人だから言ってるんじゃなくて…」
と言っている。




なんだったんだろう さっきに嵐は  清水すみれ




 【原文】
『「いと朝に参りはべらむ。今宵は耐へがたく、身もすくみてはべり」
 など、ことなしびつつ、こなたの陣のかたより出づ。
 おのがじし家路と急ぐも、何ばかりの里人ぞはと、思ひ送らる。
 わが身に寄せてははべらず』




忍耐もここまで眉が描けない  靏田寿子




「紫式部の本音」
寒いなか、なんとか同僚と身を寄せ合って寝ようとしているのに、
仕事場の男性たちが来て、相手をしなければいけないことに、内心腹立たしく
思っている紫式部。
「今宵はなきものと思はれてやみなばや」なんて、
「今夜はもういないもんだと思ってくれ~」
という本音がかなり出ている。




潮時ですからとソーダー水の泡  みつ木もも花




【原文】
『かうまで立ち出でむとは、思ひかけきやは。
 されど、目にみすみすあさましきものは、人の心なりければ、今より後の
 おもなさは、ただなれになれすぎ、ひたおもてにならむやすしかしと、
 身のありさまの夢のやうに思ひ続けられて、あるまじきことにさへ思ひかか
 りて、ゆゆしくおぼゆれば、目とまることも例のなかりけり』




バランスを立て直すとき歎異抄  星井五郎




「そんなことより仕事が嫌だ」
「私も昔は、こんなふうに人前に出て働くことになるなんて、想像もしてなか
った。でも人間って慣れるもんだから、私もいつかは仕事に慣れて、図々しく
人前に出て、顔をさらしてもなんとも思わなくなるんでしょう…ううっ、
想像しただけでそんな自分、絶対に嫌~!」
女房仕事文化に染まった将来の自分を想像した私は、「ほんとうに無理」
と、ゾッとしてきて、華やかな儀式も目に入ってこなかった。




潮時ですからとソーダー水の泡  みつ木もも花






   嫌な宮仕えも読書・執筆が…一番落ちつくときである





「顔をさらす」ことに抵抗感がある」
とにかく女房の文化に慣れなかった、いや慣れたくなかった紫式部
「顔をさらす」必要のある仕事に、かなり抵抗があったらしい。
しかし、彼女が仕事に対して、無気力だったかといえば、そうでもない。
実は、紫式部日記には、職場の同僚たちの仕事っぷりに対する批判もきっちり
記録されている。
とある貴族の男性がやって来て、女房たちに仕事を頼んだ日の日記。
その時の対応があんまりだった…と紫式部は嘆いているのだ。




風向きに尻尾を振った身の不覚  石田すがこ




先日、中宮の大夫がいらして、女房に、中宮様への伝言を頼む、という機会が
あったのだけど、身分の高い女房たちは、恥ずかしがって、来客者に顔も合わ
せず、そのうえ誰もはっきりしゃべらない。
ちょっと声を出したとしても、小さい声だけ。
みんな言葉を間違えるのを、怖がって恥ずかしがっているのでしょうけれど……
それにしたって、対応する女房が一言もしゃべらないし、姿も見せないなんて
こと、ある!?
ほかのところの女房たちは、そんな仕事の仕方、してないはず。
もともとの身分がどんなに高い方でも、いちど女房として、仕事を始めたから
には、郷に入っては郷に従えなのに! こちらの皆様はお姫様気分のままみたい」




いつも逃げる用意をしてる心太  赤松蛍子




【原文】
『まづは、宮の大夫参りたまひて、啓せさせたまふべきことありける折に、
 いとあえかに児めいたまふ上臈たちは、対面したまふことかたし。
 また会ひても、何ごとをか、はかばかしくのたまふべくも見えず。
 言葉の足るまじきにもあらず、心の及ぶまじきにも、はべらねど、
 つつまし、恥づかしと思ふに、ひがごともせらるるを、あいなし、
 すべて聞かれじと、ほのかなるけはひをも見えじ。
 ほかの人は、さぞはべらざなる。
 かかるまじらひなりぬれば、こよなきあて人も、みな世にしたがふなるを、
 ただ姫君ながらのもてなしにぞ、みなものしたまふ』




あたふたと逃げ出したのは洗面器  木口雅裕




紫式部 反省と妥協」
職場の同僚に、「ただ姫君ながらのもてなしにぞ、みなものしたまふ」
(みんなお姫様気分でいるみたい)と書くなんて! なんて切れ味の鋭い批判
なんだ!と苦笑してしまう。 キレキレの悪口である
しかも、もともとが、身分の高かった人に限って、女房仕事をするとなると
お姫様気分でうまくいかない…なんて、職場の人物描写として意地は悪いが、
気持ちはわかる。




私ではなくなる前に懺悔録   遠藤哲平 

拍手[5回]

近頃は塩をまきたい事多し  中野 稔





         紫式部に歌を所望する道長


私は世間では取るに足らない存在だとわかっているけれど、
それでも物語によって人と関わっているとき、恥ずかしいことやつらいこと
から逃れられた。
でも、宮中で働き始めて、恥ずかしさやつらさを、
1つ残らずすべて思い知っている。 なんてつらい人生なんだ。


落ち込んだ心いまだに薄曇り  靏田寿子









式部ーちょっと語り


「道長と紫式部の怪しい関係」


中宮の彰子さまのもとに出仕する以前より、源氏の物語の一部が貴顕の方々の
お目に触れておりましたため、宮仕えの間、ことあるごとに物語を引き合いに
出して、お話なさる方が多うございました。
とりわけ、なにかにつけて、私をからかわれたのが左大臣・道長殿でした。
” すきものと名にし立てれば見る人の 折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ "
(あなたは色好みだと評判だから、あなたに会って、何もしないで
済ますひとはいないだろう)
現在ならばセクハラ・パワハラとも言うところでしょうか。


ぞっこんと昔は書いたラブレター  原 洋志





        藤 原 道 長



ある時など、かの「源氏」を書いたほどの女性だから、
「さぞや色好みに違いない」といった意味の歌を書いてお寄越しになられまし
たので、少々腹立たしく思いながらも、

" 人にまだをられぬものを誰かこの 好きものぞとは口ならしけむ "
(私は、まだどなたともよい仲になったことなどありませんのに、
誰が色好みなどという評判を立てたのでしょう。
びっくりいたします)
と、ご返歌申し上げて、やんわり殿をかわしたこともございました。


言い勝ってどこか寂しい萩の花  柴辻踈星


その程度のことでしたらまだしも、我慢のしようがございますが、その歌の
やりとりの後、ある晩、私が渡殿に寝ておりましたら、夜更けに戸をしきり
と叩く音がするではありませんか。
あまりの恐ろしさに、声をあげることもできず、眠ることなどかなわず、
じっと身を硬くして一晩を明かしました。
" 夜もすがら水鶏よりけになくなくぞ まきの戸口にたたきわびつる "
(一晩中、水鶏(くひな)よりも熱心に槙の戸口を叩いたけれども
戸口を開けてくれないので、がっかりした)


言い負けてちょっと嬉しい胸のうち  津田照子





         紫式部の部屋を訪う道長





犯人は、誰あろう道長殿、翌朝になって、
「戸を開けないとは、ひどいではないか」と、
恨みごとのお歌を寄越されましたが、いったい何が面白くて、このような
おからかいなさったのでしょう。
" ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑ  あけてはいかにくやしからまし "
(ただごとではないほどに戸口を叩く水鶏でしたから、戸口を開け
たらどんなにか悔しい思いをすることになったでしょう)
「戸を開けていたら、さぞや後悔なさったことでしょう」と、
しっかりお返事を差上げました。
もちろん、色恋のほのめかしを上手に歌に詠みこんで贈答し合うことは、
雅な方々の社交の一種でもあったのですが、どうやら「源氏」の作者ならと、
私は必要以上に色事の達人とみなされていたようです。
(道長と紫式部の怪しい関係は、大河ドラマ「光る君へ」の内容とちがって
いるようです)


もう朝というのに月は帰らない  くんじろう






         紫 式 部 と 倫 子





「道長は恐妻家だった」





【原文】
『宮の御前、きこしめすや。仕うまつれりと、われぼめし給ひて、
「宮の御ててにてまろ悪ろからず、まろが娘にて、宮わろくおはしまさず、
 母もまた幸ひありと思ひて、笑ひ給ふめり。
 「よい男は、持たりかし思ひたんめり」
 と、戯ぶれ聞こえ給ふも、こよなき御酔ひの紛れなりと見ゆ、さること
 もなければ、騒がしき心地はしながら、めでたくのみ聞きゐさせ給ふ。
 殿のうへ聞きにくしとおぼすにや、渡らせ給ひ
 ぬるけしきなれば、「送りせずとて、母うらみ給はむものぞ」とて、
 急ぎて御帳の内を通らせ給ふ』


よろけるとコントのようと娘が笑う  小川 道子




【訳】
(「あなたの父さまとして、俺は悪くない男ですし、俺の娘としても、あなた
は悪くはない。そして、きっとお母さまも、
『私はこんな人の妻になれて幸運だわ』と、思ってほほえんでいるのです。
「いい夫をもったわ~と思ってらっしゃるのだ」
道長さまはそう冗談をおっしゃっていた。
たぶん、すごく酔っている。私は大丈夫かいなと思ったが、中宮様は、
楽しげに聞かれているみたいだった。
が、奥様は「こんな発言聞いてらんないわ」と思ったらしい。
自分の部屋にお戻りになってしまった)


おみくじは凶「酒に注意!」と書いてある  新家完司






  襖の陰で何おか囁き合いクスクス笑っている女房たち



「ああ、お母上を部屋まで送らないと。後で機嫌が悪くなっても困るし」と、
道長さまはおっしゃって、急いで御帳台をくぐる。
奥様の後を追うのだろう。
続けて道長さまは、「中宮、あなたより母上を優先するのは失礼だと思われ
るかもしれませんが、親があるからこそ子もちゃんとしてられるものですよ」
とつぶやかれる。
女房たちはくすくす笑いながら、道長さまをお送りした。


触ったら叱られそうな言葉尻  ふじのひろし


道長の妻・倫子は、当時においては珍しく夫に対等な姿勢をとる女性だった
らしい。それもそのはず、倫子からすれば、道長に土御門邸を「あげた」
は自分なのだし、そもそも倫子が父母から譲り受けた邸だ。
身分だって、倫子の父の地位が高かったからこそ、道長は今の権力まで手に
できたのだ。
倫子という妻がいて、幸運なのは道長のほうなのである。
(これじゃ、さすがの道長も頭があがりませんわなー)

滑稽に語れば楽になる昨日  清水すみれ

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