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川柳的逍遥 人の世の一家言
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どこから切っても僕であるよな無いような 山口美代子




「田家茶話 六老之図」 歌川国芳画


詞書は次の通り
「しわがよるほくろができる せはちゞむあたまははげる毛は白くなる
 手はふるふ足はよろつく 歯はぬける耳は聞こえず 目はうとくなる 
 身におふは頭巾えり巻 杖眼鏡たんほ温石しびん孫の手 くどうなる 
 愚痴になる 心はひがむ 身は古くなる 聞たがる死とも ながる淋
 しがる 出しゃばりたがる 世話をしたがる 又してもおなじ咄に 
 子をほめる達者自慢に人は いやがる」 (たばこと塩の博物館)   


                                       
偏平足の話でしばし盛り上がる  竹内ゆみこ 


            
「清左衛門残日録」 藤沢周平




 清左衛門とその仲間



時代劇専門チャンネルでは北大路欣也が、NHKでは仲代達が清左衛門を
演じたお馴染みの藤沢周平「三屋清左衛門残日録」「日残りて昏るる
に未だ遠し」をテーマに「江戸時代の老いの実態」から現代に通じる何
かを、考えさせてくれるお勧めの一冊です。
(最新のドラマでは、北大路欣也、美村里江、優香、麻生祐未、伊東四
朗、渡辺大、寺田農、笹野高史、岡田浩輝、小林綾子、鶴見辰吾、金田
明夫、小林稔侍らが熱い演技を見せてくれています)



いいことが聞けそう耳を置いてくる  都司 豊



「清左衛門を読む」江戸時代の老いの実態
三屋家の隠居、三屋清左衛門(北大路欣也)は52歳。現役時代は家禄
120石から出世して320石という上士並の禄高を得て、亡くなった
先代藩主の用人を勤めていた。用人というのは、大名や旗本家で家老に
次ぐ役職である。藩主や旗本の政治顧問役や庶務・会計などに携わった。
かなりの重役であるから役料のほかに大きな屋敷をもらえたわけである。
隠居するにあたり清左衛門は、その大きな屋敷も出なければならないと
予想していたが、藩主は屋敷そのままで、さらに隠居部屋まで建ててく
れた。それは藩主が世子に決まる際、清左衛門が賢い弟の方でなく長幼
の序を守って兄のほうを推薦してくれた、その助言をありがたく思い続
けていたためらしい。



縦糸は夕陽 終の衣を縫いあげる  太田のりこ



最近隠居が許され、長男又四郎への家督相続を済ませた。隠居のあとに
は釣りや鳥刺しをする悠々自適の暮らし待っているはずだったが、そう
はならなかった。清左衛門の予想では、世の中から一歩退くだけだった
のだが、隠居は世間から隔絶されてしまうことだったのである。
…その安堵のあとに強い寂寥感がやって来たのは、清左衛門に思いがけ
ないことだった。勤めていたころは、朝目覚めたときにはもうその日の
仕事をどうさばくか、その手順を考えるのに頭を痛めたのに、隠居して
みると、朝の寝覚めの床の中で、まずその日一日をどう過ごしたらいい
かということを考えなければならなかった。



人肌でゆるゆるパンツぬるい風呂  雨森茂樹



君側の権力者の一人だった清左衛門には、藩邸の詰め所にいるときも、
藩邸内の役宅に寛いでいるときも、公私織りまぜて訪れる客が絶えなか
ったものだが、今は終日一人の客も来なかった。妻の奈津(美村里江)
は3年前、つまり清左衛門が49歳のときに病死していた。それゆえ、
家の中での話し相手もない。嫁の里江(優香)は、清左衛門を何かと気
遣う優しいこころの持ち主だが、若い嫁とは思い出話をすることもでき
ない。そこで清左衛門は、空白を新しい習慣で埋めようと、日記をつけ
始めた。



たとえようのない孤独と向き合った  福尾圭司



嫁は日記の題名「残日録」の言葉に漂う、寂しげな感じを心配したが、
清左衛門はすこし気張って、「日残りて昏るるに未だ遠しの意味でな。
残る日を数えようというわけではない」ひまになったのを幸いに埃
をはらって経書を読み、むかしの道場ものぞいて見るつもりだ」
と説明した。



魚拓だと言えないこともないですね  竹内ゆみこ








「思い出は永遠に古びない」
隠居のひまの日々に、世俗の空気を持ちこんで来るのは、かつての道場
仲間で「政権が変わっても、かれほどの者はおらぬ」と、いまも町奉行
勤めている佐伯熊太(伊東四朗)である。佐伯は清左衛門が隠居してか
ら、はじめての外からの客で、その後もたびたび訪れてくる。昔の知り
合いが「ボケた」という噂を教えてくれるのも、かれである。しかし、
そういう隠居の身にも、華やいだ気持ちが蘇ってくるときがある。



でこぼこを埋めるでこぼこの片割れ  清水すみれ



菩提寺をたずねたとき、清左衛門は若い女性とすれ違うが、かの女が昔
の淡い恋の相手の娘だと知ると、その淡い恋の思い出がまざまざと心に
浮かび上がってくるのだ。思い出は永遠に古びない。清左衛門は日記を
ひらき筆を取り上げると次のように記した。
「寿岳寺に礼物・寺にて加瀬家の息女に会いたり多美女と申される由。
何かは知らねど、あるいは清光信女仏のひき合わせにてもあらむか」
そう書きながら、清左衛門は身体の中に若い血が蘇るのを感じた。



お互いの隙間に入れる接続詞  みつ木もも花



「落ちぶれた友人との苦い再会」
ある日、旧友の金井奥之助(寺田農)と30年振りに出会う。金井は、
150石の家禄があったが、与した朝田派が派閥争いで敗れて以来零落
し25石の貧乏暮らしとなった。出世を重ねた清左衛門への屈託をかか
える金井は、清左衛門を磯釣りに連れ出す。日が暮れかけた頃、金井は
清左衛門を海へ突き落そうとして、逆に自分が落ちてしまった。助けた
清左衛門に金井は、詫びも礼も言わず、清左衛門はひとり城下へ帰って
ゆく。



失った昨日を覗くマンホール  山本早苗



「寂寥感に浸かる間もなく、清左衛門に起る様々な出来事」
初秋の夕刻、清左衛門は野塩村での釣りの帰り道に、急流に取り残され
おみよとその子の命を救う。しかし、それを契機に清左衛門は藩内の
政治抗争に少しずつ巻き込まれてゆく。筆頭家老・朝田弓之助(金田明
夫)を中心とする朝田派と、元家老の遠藤治郎助を中心とした遠藤派と
の争いは何十年も藩を二分してきた。朝田家老は、自身の子どもを次期
藩主にしようと企む石見守と結託して、野塩村の富豪多田掃部から派閥
強化のための莫大な支援金を受け取っていた。清左衛門は形ばかりは遠
藤派に加わり、集会にも出ていたが、派閥抗争には距離を置いていた。



人の世はモヤモヤモヤの繰り返し  喜田准一







隠居して三年目の春、江戸から近習頭取の相庭与七郎(渡辺大)が藩主
に命じられて訪ねてきた。藩内の派閥抗争の現状を聞きたいといわれ、
清左衛門は、現藩主の自分への信頼に胸をあつくする。その相庭からの
頼まれ事で、城下の繁華街にある行きつけの小料理屋「涌井」で人と飲
んでいた清左衛門は、清次という男が女将のみさ(麻生祐未)に乱暴し
ているところに居合わせた。料理人で、みさの元恋人であるという清次
を追い払った後、みさの酌で飲み、ふたりの距離は急速に縮まってゆく。



今日の日を特別にするいいお酒  ふじのひろし



「涌井の女将みさとの恋と平八の勇気」
清左衛門は、若き日の同僚でライバルでもあった小木慶三郎を訪ねる。
むかし小木が突然左遷された原因は、自分が藩主にした告げ口にある
と長年思い悩んできた。そのことにけりをつけようと、出かけたが、
結局言い出せず、自己嫌悪に陥る。大雪のため自宅に帰り着けず清左
衛門は、涌井で一晩を過ごした。春同年の友人・大塚平八(笹野高史)
が中風で倒れた。歩く練習をしようにも、力が入らないと嘆く友人の
病気は他人ごとには思えず、清左衛門は、鬱然とする。



螺旋階段を後ろ向きに降りる  木口雅裕



一方、藩内の派閥争いは、藩主の息子の毒殺を企み始めた石見守を、朝
田家老が危ぶんだすえに殺害したことから急展開する。藩主は事態を収
めるために、朝田家老を免職、処罰し、遠藤派に政権を握らせる判断を
した。清左衛門の元には用人の船越喜四郎(鶴見辰吾)が訪れ、藩主の
命により、朝田家老の説得への同道を請われる。藩の執政府が一変した
秋の日、清左衛門は、親友の佐伯と飲む酒に酔っていた。帰りしな見送
りに出たみさと二人きりになると、突然の帰郷の決意を聞かされ別れを
告げられる。藩内人事の大幅な入れ替えが行われたころ、みさはひっそ
りと帰っていった。



お別れねニッコリドアを閉められた  森田律子



「平八の勇気」
そして旧友の金井奥之助は病死した。野辺送りにでた清左衛門は、冬の
間に風邪をこじらせた自分や現在も中風を患う大塚平八のことを思い、
老いを痛感する。重い気持ちのまま橋を渡った。そしてふと大塚平八を
見舞って行こうかという気になった。路地をいくつか通り抜けて、清左
衛門は大塚平八の家がある道に出た。そして間もなく、早春の光が溢れ
ているその道の遠くに、動く人があるのに気づいた。清左衛門は足を止
めた。
こちらに背を向けて、杖をつきながらゆっくりゆっくりと動いて
いるの
は平八だった。つと清左衛門は路地に引き返した。胸が波打って
いた。
清左衛門は後ろを振り向かずに、急いでその場を離れた。
胸が波
打っているのは、平八の姿に鞭打たれた気がしたからだろう。



夕焼けに焼いてもらって帰宅する  徳山泰子



ーそうか平八。いよいよ歩く修練をはじめたかー、と清左衛門は思った。
人間はそうあるべきなのだろう。衰えて、死がおとずれるそのときは、
おのれをそれまで生かしめたすべてのものに、感謝を捧げて生を終われ
ばよい。しかし死ぬるそのときまでは、人間は与えられた命を愛しみ、
力を尽くして生き抜かねばならぬ。そのことを平八に教えてもらったと
清左衛門は思っていた。家に帰り着くまで、清左衛門の眼の奥に、明る
い早春の光の下で虫のような、しかし辛抱強い動きを繰り返していた、
大塚平八の姿が映って離れなかった。
今日の日記には平八のことを書こうと思った。



新しい坂を栞にしておこう  西田雅子



【豆辞典】 「江戸時代の隠居」
当時の武士の誰もが、清左衛門のようなしみじみと力強い老後ー
めぐまれた隠居生活を過ごせたわけではない。幕府も藩も定年制がなく、
それだけに「隠居」を願い出る手続きも煩瑣だった。なにしろ、城内で
老眼鏡を掛けるにも「眼鏡願」、杖をつくにも「杖願」の提出が必要だ
った時代である。主君に身命を捧げたはずの家臣が、悠悠自適の日々を
送りたいという理由で隠居を願うことなど、少なくとも建前があり得な
かった。



誰も彼も見えないゴールめざしてる  石橋能里子



「隠居願を提出できる条件。弘前藩の場合」
70歳以上ー病気断りを出していなくても隠居願を提出できる。
60~69歳ー病気の期間に関わらず病状によって出願可能。
50~59歳ー病気期間が5カ月以上であれば勝手次第(自由。
50歳未満ー病気断りを出して10ヵ月を経過しなければ出願できない。


これによれば50代の清左衛門は、最低5カ月間病床にあるか、勤務不
能なほどの重態でなければ、隠居はできないことになる。とはいえ、清
左衛門のようなケースもあり得ないことは、断言できない。腰痛の持病
を抱えているとか、頻尿の症状がひどく長時間の会議や儀式に耐えられ
ないなどの、適当な理由をつけて、隠居する抜け道もある。




シュレッダーにかける積み重ねた吐息  赤松蛍子

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 「小林一茶」 小説『一茶』ー藤沢周平
 
 
 
 
   
                      長沼一茶門人連衆  中央が一茶




小林一茶という詩人は「痩蛙まけるな一茶是に有」「やれ打な蠅が手を
すり足をする」
といった小さきもの、敗れゆくものに対しての愛情を、
ユーモアを持った俳句に詠んだ。そのことによって、中学生などにも好
かれている。そして、多くの大人たちにとっても、一茶という俳人のイ
メージは同様のものであろう。これはしかし、ある時期までの藤沢周平
にとってもそうだったようで、彼は「一茶という人」というエッセイで、
こう書いている。
≪私の頭の中には、善良な眼を持ち、小動物にも心配りを忘れない。
多少こっけいな句を作る、俳諧師の姿があっただけだった≫

ところが藤沢が青年時代、東京の北多摩の結核療養所で俳句の会に出る
ようになったあと、そういう一茶像を「みじんに砕くようなこと」が起
こった。<一茶は義弟との遺産争いにしのぎをけずり、あくどいと思わ
れるような手段まで使って、ついに財産をきっちり半分取り上げた人物
だった。また50を過ぎてもらった若妻と、荒淫ともいえる夜々をすご
す老人であり、句の中に悪態と自嘲を交合に吐き出さずにいられない、
拗ね者の俳人だった>

これには愕然とし「あっけにとられる思いだった」と書いている。

(一茶のユーモラスな句
かくれ家や歯のない口で福は内
をり姫に推参したり夜這星
振向ばはや美女過ぎる柳哉
ふんどしで汗をふきふきはなしかな
陽炎や縁からころり寝ぼけ猫
不性猫きき耳立てて又眠る
木母寺の鉦の真似してなく水鶏



その一茶像のあまりに大きな落差により、藤沢は『一茶』という俳人に
対する感心を抱き、かれの俳句や、かれについての伝記を少しずつ読む
ようになったという。
<そしてゆっくりと価値の転換期がやって来たのが近年のことである。
一茶はあるときは欲望を剥き出しにして恥じない俗物だった。貧しく憐
れな暮らしもしたが、その貧しさを句の中で誇張してみせ、また自分の
醜さをかばう自己弁護も忘れない。したたかな人間でもあった。だが、
その彼は、また紛れもない詩人だったのである>

藤沢がこのエッセイを書いたのは、歴史小説の『一茶』を連載中のこと
である。ここに藤沢がどのような考え方において、一茶を描きだそうと
したのかが、余すところなく述べられている。 (松本健一)



(一茶の句の特徴)
我好きで我する旅の寒さ哉  
旅の皴御覧候へばせを仏 

霜がれや鍋の炭かく小傾城
ともかくもあなた任せの年の暮

としとへば片手出す子や更衣   
片乳を握りながらやはつ笑い   

仰のけに落て鳴きけり秋の蝉
身の上の鐘と知りつつ夕涼み 
 
 
 
 
 

 一茶が所持した折りたたみ式マップ (拡大してご覧ください)
 
 
 


小林一茶は宝暦13年(1763)、信濃柏原の農家に生まれた。名は弥太郎。
3歳で母に死別し、8歳で継母との反目が続き、15歳で江戸に奉公に
出た。これが生い立ちの伝記的事実である。

藤沢は『一茶』でその伝記的事実を押さえながら、父親・弥五兵衛が江
戸に出る弥太郎(一茶)を見送りに来た場面を、次のように描いている。

「あのな」
弥五兵衛はそう言った。だがそのままいつまでも黙っている。
弥太郎が顔をあげると、放心したような父親の横顔が見えた。
父親がみている方に、弥太郎も眼をやった。
ゆるやかな山畑の傾斜の下に、丘は一たん落ち込み、そこから
北の鼻見城山に這いのぼる斜面が見えた。
日に照らされているのは、寺坂、善光寺、塩之入の村々らしかった。
通り過ぎてきた牟礼の宿は、谷間のような丘のくぼみの端に、わずかに
人家がのぞいているだけだった。

途中の丘に遮られて、柏原の方は見えなかった。
澄んだ青い空が、北に続いているだけである。
「身体に気をつけろ」
不意に弥五兵衛は、弥太郎に向き直って言った。
ぎこちない微笑を浮かべている。
「はじめての土地では、水に慣れるまで用心しないとな」
「それからな」
弥五兵衛は、弥太郎をのぞきこむようにして、ちょっと口籠ってから
言った。

「お前は気が強い。ひとと争うなよ」
弥太郎は、父親がお前はひねくれているから、と言おうとしたのかも
知れないと思ったが、素直にうなずいた。

弥五兵衛は、低い声でぽつりぽつりと訓戒めいた言葉を続け、最後に、
「時どき便りしろ、辛抱出来ないときは、遠慮なく帰ってこい」
と言った。

「では、ひとが待っているから、行くか」
と弥五兵衛が言った。
それで別れの儀式が終わったようだった。
弥太郎がほっとして道端にいる連れを振り返ったとき、後で奇妙な声が
した。振りむいた弥太郎から顔をそむけて、弥五兵衛が言い直した。

「ほんとうはな…」
言い直したが、まだ喉が詰まった声になっていた。
「江戸になど、やりたくなかったぞ」
「……」
「わかるな」



(旅の句)
剃捨てて花見の真似やひのき笠
衣がへ替へても旅のしらみ哉
通し給へ蚊蠅の如き僧ひとり
 




一茶自筆



その後、一茶は俳諧師として世には出たものの、一門を立てることがで
きない。一門を立てられなければ、俳句の宗匠として、生活してゆくこ
とができないのである。彼は全国流寓のはてに、故郷で父の死にあった。
これも伝記的事実である。
藤沢は死を前にした老いた父親と一茶の会話を、次のように描いている。
「お前、なんぼになる」
「三十九だ」
「それじゃ来年は四十になる。そしてな四十になると五十はすぐだぞ」
一茶は顔をあげた。父親の声に胸を刺されていた。
その一茶の眼に、弥五兵衛はうなずいてみせた。
「そうさ、あっという間に五十になる、いったいいつまで浮草の暮らし
を続けるつもりかね」
江戸時代は四十歳といえば、初老である。老年期に入っている。
その老年期に入っても、まだ家も妻も持たず、定住の地を持っていない
一茶は、父親の言うように浮草である。
藤沢は一茶の文学的遍歴を描きながらも、実生活の方も見逃さずに描い
ている。かれは武家を描く小説で、生活者としての武士に焦点をあてた
ように、俳人としての一茶を描いても、その実生活から目をそらすこと
はしなかったのである。



(世を厭う句)
雉鳴いて梅に乞食の世也けり
茨の花ここをまたげと咲きにけり
時鳥我身ばかりに降る雨か
五月雨や夜もかくれぬ山の穴


 

 
柏 原 宿



文化九年、一茶は故郷に帰ってくる。五十歳になっていた。遺産問題で
継母側と争い、文化十年には和解が成立して、翌年初めて結婚する。
藤沢は次のように描いている。
『巻紙をひろげると、暫く考え込んでから「柏原を死所と定めて」と前
置きし、次に行を改めて句を書いた。

是がまあつひの栖か雪五尺
雪が降り積もる夜道を帰りながら案じた句だったが、書いてから迷いが
出た。中七の坐りが悪い気がしたのである。一茶はついの栖の隣に、
「死所かよ」と併記した』




(ふるさとの句)
たまに来し古郷も月もなかりけり
寝にくくも生れ在所の草の花
背筋から冷つきにけり越後山
心からしなのゝ雪に降られけり


 
 
歴史上の人物なら、日記や手紙といった一次資料や、先行する記録研究
がその小説化の土台になるのはいうまでもない。ところがそこに、同じ
く言葉でありながら、事実の世界とはまた違う次元にずれ込んで、詩歌
の言葉が並ぶ。そのことが何といっても詩人や歌人を扱う小説の難しさ、
だという。




「ざっと一万」
いや待て、ひょっとしたら二万くらいも作ったかな、と一茶は呟いた。
「二万句じゃぞ。日本中さがしても、そんなに沢山に句を吐いたひとは
おるまい」
「えらいもんじゃねえ、じいちゃん」
とそばに寝ているヤヲが言った。ヤヲは前の妻雪が去ってから丁度二年
たって迎えた三度目の妻だった。まだ若かった。ヤヲの声は眠げだった。
「なにしろ、花のお江戸で修業したひとだもんなえ」
「なにも沢山作ろうと思って作ったわけじゃない。だがわしは、ほかに
は芸のない人間でな。鍬も握れん、唄もうたえん、せっせせっせと句を
作るしかなかったの」

「……」
「誰も褒めてくれなんだ。信濃の百姓の句だという。
だがそういうおのれらの句とは何だ。絵に描いた餅よ。花だと、雪だと、
冗談も休み休みに言えと、わしゃ言いたいの。
連中には、本当のところは何も見えておらん」

「……」
「わしはの、ヤヲ。森羅万象みな句にしてやった。月だの、花だのと言
わん。馬から蚤虱、そこらを走り回っているガキめらまで、みんな句に
詠んでやった。その眼でみれば蚤も風流、蚊も風流…」

一茶は口を噤んだ。闇の中にヤヲの寝息が聞こえている。その向こうに
ヤヲの連れ子の倉吉の幼い寝息も聞こえてくる。若くて丈夫なヤヲには、
眠もすみやかに訪れるらしかった。一茶は微笑した。




(一茶の小動物の句)
昼の蚊やだまりこくって後ろから
やれ打つな蠅が手をすり足をする
雀の子そこのけ〳〵お馬が通る
蝶々を尻尾でなぶる子猫哉
松虫や素湯もちん〳〵ちろりんと
夕日影町一ぱいのとんぼ哉
あまり鳴いて石になるなよ猫の恋
大江戸や芸なし猿も花の春
おりよ〳〵野火がついたぞ鳴雲雀
牢屋から出たり入ったり雀の子
 
 

 (拡大してご覧ください)


藤沢がとりあげる一茶独自の句は<木枯らしや地びたに暮るる辻諷ひ>
というローアングルな「町行く人を足元から見上げるかのよう」な作品
である。また、俗物そのものでありながら、透明な美しさをもって句を
つくることのできる詩人一茶の<霞む日や夕山かげの飴の笛>という作
品である。かくして、藤沢は一茶が「俗物である」にも関わらず、かれ
の句を「取り澄ました俗っぽさから救ったのは強烈な自我の主張ではな
かったか」と考え、そのような自我の強い一茶像を描こうとした。
それが一茶という歴史小説にどう描かれているかが、本作品の読みどこ
ろだろう。(松本健一)




春立つや四十三年人の飯

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痩かへるまける那一茶是に有 



足立区竹ノ塚の炎天寺の句碑



蛙合戦は炎天寺のものだけでなく、一茶の古郷信州の小布施の岩松院
もやっていた。ここは越後椎谷藩の飛地で、代官の玉木其壁、寺島花蕉、
白也親子も一茶の門下で、小布施にはしばしば訪れている。
信州の小布施の岩松院の裏庭に「蛙合戦の池」という小さな池があり、
サクラが満開の頃、たくさんのアズマヒキガエルが終結して、壮絶な
「蛙合戦」がくりひろげられる。この寺には福島正則の墓や葛飾北斎
晩年の大作「大鳳凰図」などがあり、「痩せ蛙の碑」などもあって、
訪ねる人が多い。小布施は栗の産地としても知られる。
栗拾いねんねんころり云いながら  小布施岩松院入口

「小林一茶」 53歳~65歳







帰郷後2年、一茶52歳の文化11年(1814)、つまり滝沢馬琴
『南総里見八犬伝』を出した年は、小林一茶にとって久方ぶりの心楽し
い年であった。遺産問題もようやく解決し、妻と結婚し、新妻と仲よ
く花見や月見に行ったり、栗拾いに行ったり、江戸へ出ても菊への通信
を怠らなかった。
吾菊やなりにもふりにもかまわずに


さらに一茶が、江戸俳壇を去るにあたって、別れを惜しんで一茶と交友
のあった242人もの俳人たちが「三閑人」にひっかけて『三韓人』
いう記念集「送別の句集」を11月出してくれたのだった。それには師
夏目成美がすばらしい序文を書き、故人となった栗田樗堂の手紙も紹介
し、芭蕉の高弟其角と、嵐雪笠翁が一つの蒲団に共寝した珍しい図ま
で添えてあった。絵は芭蕉の弟子笠翁で、英一蝶について学んだ。
人らしく更えもかえたりあさ衣



 
  夏目成美

夏目成美の序文より
「木のかくれ、岩のはざまにも、ひさしくとどまざるは法師の境界なり。
しなのゝ国に一人の隠士あり。はやくより、その心ざしありて森羅万象
を一陵の茶に放下し、みずから一茶となのりて、吾いのもとの中をこと
ごとくめぐりて、風餐露宿(ふうさんろしく=野宿)さらに一方に足を
とどめず」

(成美、一瓢、巣兆、道彦、完来ら全国の有名俳人の名がずらりと並ん
だこの記念集は、小林一茶の信濃俳壇での立場をゆるぎないものにした)

誰にやる栗や地蔵の手のひらに




       雪国の暮らし

「しかし江戸に来てからは風土もよろしく、友達も多く、住みついたが、
今回住み慣れた草庵を捨てて、どうしてもふるさと信州へ帰るという。
旧友たちはみんなで引き止めたが聞き入れず、残念ながらここに笠翁が
描いた絵を形見として送りたい」という文で、そのあと一茶と夏目成美
と日暮里の一瓢と成美の息子の諌圃(かんほ)の四人の連句へ続く。
雪ふるやきのふは見えぬ借家札  一茶
楢に雀の寒き足音  成美
鍋ひとつ其日〳〵がうれしくて  一瓢
たもとかざせば晴る夕雲  諌圃
丸書なぐる壁の秋風  一茶
三絃のばちで掃きやる霰哉






と結婚して一茶が、何よりも望んだのが、子どもを筆を持つ手に変え
て抱くことであった。しかし一茶には不幸なことが付いて回った。
文化13年(1816)4月14日、一茶54歳。ついに長男の千太郎
が菊の実家の常田家で生まれ、一家の喜びようはたいへんなものだった。
一茶も可愛さのあまり、次の一句を詠んだ。
はつ袷にくまれ盛りにはやくなれ
だが、一茶の喜びも束の間、千太郎はわずか28日目の5月11日夜半
過ぎ急死した。息子と一緒に暮らしたのは、数日だけであった。一茶は
天を仰いで慟哭した。
陽炎や目につきまとふわらひ顔




     雪五尺の碑 (冬と夏)

その後、一茶は門人の家を転々としたなかの7月8日、浅野の文虎邸で
オコリ(突然の寒気ののち高熱を発するという症状)にかかる。
11月19日には、夏目成美死去(68歳)。一茶が柏原に帰ってからは、
句稿を送って、添削を受けていたが、まさかその夏目が世を去ろうとは、
一茶が江戸を去るとき送別にくれた『三韓人』の序も夏目成美でその後、
この本の出版によって信州の俳壇でどれだけ得をしたか。
因みに成美は、次の①②の句を並べ、添削をしている。
① 是がまあつひの死所かよ雪五尺
② 是がまあつひの栖か雪五尺
の「死所かよ」を「栖」に改めれば「極上上吉」(最高点)だ、と添削
し送っている。
木母寺の鉦の真似して鳴水鶏(くいな)




          一 茶 俳 諧 堂

同年11月頃より、ひぜん(ヒゼンダニの感染による皮膚病)で苦しむ。
文化15年4月22日(一茶56歳)。文化から文政へ改元。
文政元年5月4日、長女さと生まれる。一茶はもう大喜び。聡くなるよ
うにと「さと」と名付けてことのほか可愛がった。一茶の一文がある。
「人の来りて『ワンワンはどこに』といへば犬に指さし『かあかあと問
えば、烏に指さすさま、口元より爪先まで愛嬌こおれて、愛らしく、い
わば、春の初草に胡蝶の戯るゝよりもやさしくなん覚え侍る。此をさな、
仏の守りし給ひけん。逮夜の夕暮れに、持仏堂に蝋燭てらして縒打なら
せば、どこに居てもいそがわしく這いよりて、さわらびの小さき手を合
せて『たんむ〳〵」と唱う声しをらしく、ゆかしくなつかしく、殊勝也」

一茶は、障子紙を破るなどのいたずらをしてもほめ、さともまたキャッ
キャッとかわいらしく笑った。だが文政2年(一茶57歳)6月21日、
長女さとは疱瘡がこじれて哀れ世を去ってしまう。
露の夜は露の世ながらさりながら






文政3年(一茶58歳)10月5日、次男石太郎生まれる。石のように
丈夫な子を期待しての命名であった。何ということか、翌年1月11日
石太郎が母の背中で窒息死をする。その落胆は一通りではなく「石太郎
を悼む」
という一文を書いている。
「老妻菊女というもの、片葉の葦の片意地強く、おのが身にたしなみに
なるべきことを人の教えれば、うはの空吹く風のやかましとのみ露〳〵
守らざる物から、小児二人とも非業の命うしなひぬ。このたび三度目に
当たれば、又前の通りならんと、いとど不便さに、盤石の立るに等しく、
一雨風さえことともせずして、母に押しつぶさるる事なく、したゝか長
寿せよと、赤子を石太郎となん呼べりける。ははあにしめしていふ。
『此さざれ石、百日あまりにも経て、百貫目のかた石となる迄、必ずよ
背に負う事なかれ』
と日に千度いましめけるを、いかゞしたりけん、
うまれて九十六日といふける、朝とく背おひて負い殺しぬ。あわれ、
今迄うれしげに笑いたるも、手のうら返さぬうち、苦々しき死に顔をみ
るとは…」

もう一度せめて目を明け雑煮膳





たしかに、の過失に違いないが、それをこのように強く責めるとは、
腹を痛めた我が子、菊とて悲しい思いは同じで、故意でやったわけでも
ないのに。強い子に育つように石太郎と名付けたのに、たった96日で
死んでしまうとは。慟哭する一茶であった。
はつ雪や我にとりつく不性神

千太郎が身まかって5日後の16日、一茶は、千曲川沿いの浅野の雪道
で転んで、そのひょうしに、中風にかかって、一時半身不随となった。
4月22日には、こんどは妻が痛風で寝込み、年末には村役人に伝馬
役金免除願いを出し始末。
雪散るやおどけもいへぬ信濃空

文政5年2月(一茶60歳)。小布施の梅松寺からに、手紙を送る。
その頃、菊は4度目の妊娠中で、家を空けたことを一茶は心配していた。
3月10日、三男金三郎生まれる。一茶8月29日善光寺に参詣した折、
転んで足に怪我をする。
おとろえや榾(ほた)折りかねる膝頭




 
拾れぬ栗の見事よ大きさよ



文政6年(一茶61歳)。妻2月19日に発病し、3月になると容態
ますますおかしくなる。動悸や息切れがひどく、肌はかさかさになり、
嘔吐 と下痢を繰り返す。薬草を煎じて飲ますが、さっぱり効き目がない。
4月には、絶食状態に。菊はしきりに赤川の実家に帰りたがった。駕籠
に乗せて帰したが、5月12日ついに亡くなってしまう。37歳だった。
我菊やなりにもふりにもかまわずに

菊が病気のため預けてあった金三郎を呼び寄せると、これまたひどく衰
弱して骨と皮ばかりなっている。乳母に乳がでず、毎日水ばかり飲ませ
ていたという。そして12月21日、栄養失調で母の後を追う。ここで
も一茶は、金三郎を預かった赤川の富右衛門への恨みつらみを綴った
「金三郎を憐れむ」という一文が残している。
悪い夢のみあたりけり鳴く烏

文政7年5月22日(一茶62歳)。関川浄善寺の住職の斡旋で飯山̪士
田中氏の娘ゆき(38歳)と再婚したが、8月3日には離婚。まもなく中
風が再発し、言語不自由になる。
夜の声しんしん耳は蝉の声



 
     大栗は猿の薬禮と見へにけり


度重なる不幸に、よからぬ噂が村に広まり一茶を苦しめた。まるで疫病
神にでも摂り憑かれたように、長男・千太郎、長女・さと、二男・石太
郎、三男・金太郎、妻・菊
が次々と死に、一茶も全身に疥癬(かいせん)
ができ、やがては中風。これは江戸からよからぬ毒を持ってきたのでは
ないかと村人たちは疑った。それでなくとも帰郷以来、鍬も鋤も持たず、
ひたすら弟子たちの間を、ふらふら回って、遊民的徒食生活をしていた
から、村人の評判が悪いこと〳〵
人誹る会が立つなり冬籠り

文政9年8月(一茶64歳)。足や言葉も不自由なので、なんとしても
つれあいが欲しく、知人たちに頼んでおいたら、ようやく宮沢徳左衛門
の世話で越後二股村の宮下所左衛門の娘ヤヲ(32歳)と3度目の結婚す
ることになった。ヤヲは柏原の旅籠屋っで奉公人としいて雇われていた。
燐家の大地主中村徳左衛門の三男倉次郎と恋愛して私生児倉吉を生み、
子連れで嫁に来た。気立てよくヤヲは、一茶のためにせっせと尽くした。
老いらくの星なればこそ妻迎え

文政10年(一茶65歳)6月1日、柏原に大火があり83戸が焼失。
一茶の家も類焼したが、辛うじて裏の畑の土蔵だけが残った。やむな
く一茶は、焼け残りの荒壁の土蔵に住んだ。しばらくは不自由な身な
がら、一茶は、門人たちの家に身をよせたり、湯田中温泉に滞在して
11月8日帰宅。11月19日にふと気分が悪くなって、其日の午後
5時頃に土蔵の中で息をひきとる。
やけ土のほかほかや蚤さわぐ





翌11年4月、一茶未亡人ヤヲに娘やヤタが生まれる。一茶はヤタの
顔をみることは出来なかったが、ヤヲからヤタへ一茶の血は、今現在、
7代目・小林重弥さんに受け継がれている。住いは一茶の里・信濃町
柏原。著名な俳人の血を継ぐ人だから、俳句と何かしらの縁を持って
生きているのではと期待したが、あにはからんや、「俳句は?」の問
いに「俳句には興味がないんです」と返ってきた。「俳句は性に合い
ませんでした。ここで豆腐屋をやったり、勤めに出たりしています」
と、少々残念な返事も、「それもありかも」と笑う
一茶柏原旧宅前には、次の句碑が掲げられている。
門の木も先つつがなし夕涼み

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ほくほくとかすんで来るはどなたかな 


 

「小林一茶」 45~52歳
 

放浪の貧乏俳人一茶にとって、秋元双樹大川斗囿(とゆう)が住む東
葛地方はまことに天国であったが、ひとたび江戸に戻れば、一茶には頭
の痛いことが待っていた。それは、柏原にいる弟・仙六との確執である。
なんとかせねばと思えば思うほど孤独に陥り、ふるさと喪失の思いが一
茶を苛んだ。
我星はどこに旅寝や天の川




 (拡大してご覧ください)
  東葛地方
右上に古田月船、真上・鶴翁、秋元双樹と大川立砂の名がみえる。
一茶句碑、この界隈に六基建立されている。

というのは、一茶は、いずれは信州柏原へ帰るつもりでおり、そのため
には、柏原に安住の地を確保しておかなければならない。だが今はそれ
もない。ただ一縷の望みは、父弥五兵衛が死ぬ前、遺言をしたため「財
産の半分を一茶に譲る」と書いている。継母も弟もそれを承知し、父の
死後、その権利を確保するため毎年金一分ずつ、伝馬役金として、柏原
宿問屋に納めてきた。それが今はどうなっているのか、一茶の苛立ちは
つのり、世を儚む思いが次第にましていく。
はいかいの地獄は我を見くらぶる
 


文化4年(1807)7月ごろ、一茶45歳。父の死後6年ぶりに柏原
を訪れた。亡父7回忌のためで、このとき継母と弟仙六らに遺産分配の
話を持ち出した。継母の冷ややかさは昔と同じだし、仙六にも応ずる気
配がない。また継母と仙六が、汗水流して田畑を増やしてきたことや、
その勤勉ぶりを毎日見てきた村人たちも、一茶の勝手な願望をそのまま
受け入れるはずもなかった、一茶は帰郷の都度、村人から冷たい視線を
浴びせられた。
雪の日や古郷人もぶあしらい
 



つひの身のけぶりたねに椎柴の曲がらぬ枝をたき残しつ



 その年の11月、ふたたび雪深い故郷に戻って、遺産相続の話を持ち出
せば、村人たちからはぶあしらい(冷遇)されて相手にしてもらえない。
心の底から信濃の重い雪にふられたようにすごく疲れるが、それを覚悟
でまた交渉のため故郷にむかう。そういう自分を、村人たちによってた
かって非難する。一に向ける視線は、茨のように刺々しく感じられた。
心からしなのゝ雪に降られけり
 

実際問題として、いま弟たちが住んでいる家や田畑、山林を二つに分割
は簡単に出来ないことは分る。しかし、足場のない遊民暮らしの怖さを
知り尽くしている一茶は、しつこく交渉を重ねた。が進展はない。翌年
7月一茶は、祖母33回忌で故郷に戻り、菩提寺明専寺の住職の後押し
もあって、8月ついに決着。父の遺言通り、財産を折半することになり、
村役人に「取極一札之事」を差し出している。取極めの内容は、田と畑
合わせて五石六斗四升五勺、家屋敷半分、山三ヵ所、所帯道具一通り、
夜具一通り、柏原では中くらいの持高だったという。柏原村の年貢関係
の書類には、文化6年から「本百姓弥太郎」としてあらわれる。
証文がもの云い出すやとしの暮
 

ところが12月、いい気分で江戸に戻ってみると、相生町5丁目の家に
は別の人が住んでいた。あまりにも長く家を開けたままだったので、愛
想をつかした家主の日吉太兵衛が、他の人に貸してしまったのである。
回向院近くにあり、富士山も見え、双樹ら多くの友人が来た家だったが、
追い出されたとあっては仕方がない。師の夏目成美の家に転がり込んで
年を越した。文化6年元日、佐内町で大火事があり、多くの人たちが焼
け出された年であった。
元日や我のみならぬ巣なし鳥
 



  句会の様子



一茶の師匠といえば、元夢、素丸、竹阿といるが、中でも最も影響を受
けたと思われるのは、夏目成美である。幼少の頃から読書を好み、温厚
篤実な性質で、家業(札差)にも励み、父の代よりも大きくし、商才に
も長けていた。毎月7のつく日に、ここで「随斎会」というサロン風の
句会が開かれ、一茶も足繁く通っていた。時には、泊めてもらったりも
している。地方から出る俳人は成美の謦咳(けいがい)に接することを
無上の光栄とし、また成美も貧乏俳人たちの面倒をよくみた。
大名のもみじふみゆく小はるかな 成美
東海道のこらず梅になりにけり 成美
 


文化7年11月3日一茶48歳。一つの事件が起こった。成美が隅田川
の紅葉見物に出かけた留守に、銭箱の中の金が紛失し、この家の誰かに
違いないということになった。一茶も4日間禁足を命じられ、5日目に
なってようやく釈放された。一茶の屈辱感はいかばかりだったか、おれ
は信用されていないと、心をうちのめされた、と日記に綴る。
「十一月八晴、金子未出ざれど其罪ゆるす。九、夜大雨、丑刻雷、イセ
ヤ久四郎奴 四百八十両盗み去」
こんな悲しい仕打ちを受けても、一茶はせっせと富豪夏目成美のもとみ
通うのだった。
撫子のふしぶしにさす夕日かな 成美



この一茶「禁足事件」が起きる三月ほど前の4月3日、木更津の花嬌
病没する。年上ながら美貌才媛で一茶の思い人という人もいる。一茶は
いつも墨染の衣で旅をし、知人たちの間を転々としていた。貧しかった
から、おそらく着物も一帳羅で汗臭く、みすぼらしい状態だったろう、
一茶と会う女性はみな敬遠して、そばにも寄り付かなかった。お金がな
く、たかりのような日々だったから、たまに寄ってくる女性にも、奢る
ことはまずなく、ケチに徹していたから、女性との縁はきわめて薄く、
江戸にいるかぎり、独身でいざるをえなかった。
春雨に大欠伸する美人哉
 



墨染の蝶がとぶ也秋の風




そんな中で千葉県の冨津の女弟子・織本花嬌だけは師として一茶を何日
も泊めて厚遇した。花嬌はおそらく品の良い美しい女性だったのだろう。
一茶より3,4歳上と見る人もいれば、20歳以上違うという人もいて
正しい年齢はわからない。養子の子盛は一茶より3歳下であったから、
これより想像して花嬌は60歳近い老女だという人もいる。ゴシップ好
きの人たちの中には、一茶と未亡人花嬌のロマンスを取る人もいるが、
家柄も年齢も違うし、一茶の句帖にもそんなふしは全くみられない。
だが一茶が文化9年4月4日花嬌三回忌に詠んだ句は、多少気にはなる。
目覚ましのぼたん芍薬でありしよな
何というはりあひもなし芥子の花
 



  右が秋元双樹



信州柏原から帰ってきた翌月の文化9年、一茶50歳。いつものように
流山、馬橋とまわり、布川の月船のもとに長期滞在している間に、流山
秋元双樹が病気で倒れたという知らせを受けた。10月12日、その
日は曇りであったが、午後4時頃から雨が降り出す。ずぶ濡れになった
一茶は、勝手知った双樹宅のこと、泥んこになった着物を洗って自分で
干した。なんとか一日でも早く全快してもらいたい、と祈る気持ちだが、
医者でもない自分には、なにすることも出来ない。ただ祈るのみだった。
14日馬橋の大川斗囿のもとに双樹の病状を報告して翌日江戸に戻った。
26日双樹は看病もむなしくついに息絶えた。「折々の南無阿弥陀聞き
しりて米をねだりしむら雀哉」流山の富豪ゆえ、多くの雀たちが無心に
来たことであろう。私もその一人にすぎなかったのだが…と歌っている。
西山やおのれが乗るはどの霞
 



 
  大川斗有
 

秋元双樹が亡くなったのは文化9年、松平定信が隠居して楽翁と称し、
高田屋嘉兵衛がロシア船に捕われ、式亭三馬『浮世床』を著した年で
もある。かねてより古郷柏原へ帰ることを考えていた一茶は、双樹が亡
くなった今、潮時と考えてのことか、双樹の葬儀のあとの11月17日
思い出の江戸を去る。振り返れば、江戸には37年間居たことになる。
一茶も今は、50歳であった。板橋、鴻巣、本庄、松井田などに泊まり、
碓氷峠では大吹雪に遭い、柏原に着いたのが24日、毎日が雪である。
是がまあつひの栖か雪五尺
 


それではと村に戻ったからといって、即座に村社会に馴染めるほど村は
甘くない。仙六は働き者で、父の死後、かなりの面積を新たに開墾して
いた。「その半分をよこせ」と無理難題をふっかける江戸の遊民一茶に、
土地の人たちの風当たりが強いのは、当然であった。とりこんだ田畑は
自分では耕せず、小作に出す、そういうこともあり、相変わらず周囲か
らは意地悪い目で見られ、頭巾を被り文人風情の姿で出歩けば誹られる。
人誹(そし)る会がたつなり冬籠り



 「ああまた遊民の一茶がおるぞ、田畑を耕さないとんでもない野郎だ」
と長い冬の退屈しのぎの話題をさらう。そんな罵声が背後から聞こえて
くる。こうなると憎しみはすべて、ことの発端となった継母へ向けられ
るが、そんなことばかり考えていては、食べてはいけない。幸い一茶
「江戸の一茶」として故郷信州でもかなり知られる俳諧師になっていた。
しばしば遊俳たちの句会に招かれるようになるが、いままでの苦難が頭
をかすめ不安はついてまわる。
俳諧を守らせたまえ雪仏




うまさふな雪やふふわりふふわりと




それでも一茶にとって念願の古郷、雪深い場所で終生住み続けることを
覚悟する。しかし今や故郷に帰り、信州の片田舎といえど、俳諧を生業
とする宗匠であれば、何としても新妻を迎えたい。幸い、亡母くにの生
家である二ノ倉の宮沢家の徳左右衛門が結婚話を持ちこんできた。親類
常田久右衛門というのがおり、野尻宿で農家を営み、下男下女もいる
豪農で、そこに28歳になる働き者の娘がいた。さっそく話は纏まり
菊を迎えることになった。
こんな身も拾う神ありて花の春




さ越しかやゆひしてなめるけさの霜




相続争いで村人にあれほど嫌われた、オレのような男でも好いてくれる
女性がいる。新春から花が咲いたような気分だと、喜びを爆発させた。
文化11年2月21日、徳左右衛門らの立ち合いのもとで、父の家を半
分分けてもらい、4月11日徳左右衛門が仲人となって一茶は菊と結婚
した。一茶52歳は28歳、まるで親子のようで、大いに照れている。
「五十年一日の安き日もなく、ことし春漸く妻を迎え、我身につもる老
いを忘れて凡夫の浅ましさに、初花に胡蝶の戯るゝが如く、幸あらんね
とねがふことのはずかしさ」
五十聟天窓(あたま)をかくす扇かな

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 やれ打つな蠅が手をすり足をする   
 

         扇面自像自画賛 八番日記
 
 

  天井や壁やガラス窓など、どんなツルツルの場所でも、ピタッと止まる
ことが出来る蠅の能力についの講釈は、さておいて、蠅が手や足をこすり
あわせる動作は、おいしい餌を探し、それをおいしく食べるため、人が手
を洗うように、常に清潔を心掛けているのだそうです。
それを一茶は、何かお祈りしている姿と捉えましたが、それがまさに一茶
の世界観だといえます。
蟻の道 雲の峰より つづきけん
 

「小林一茶」 30~44歳


  小林一茶 旅姿



一茶が俳諧師として一目おかれるようになるのは、寛政4年(1792)
30歳のとき関所が通りやすい僧の姿で、江戸を立ち、西国への俳行脚
からである。西国には二六庵竹阿の弟子が多いし、また浄土真宗の信徒
としては、西本願寺にも参詣するつもりで、関西ほか四国、九州の長旅
に出た。夏は京阪で過ごし、秋には四国の観音寺へ。そして故郷の柏原
から江戸に戻ってきた一茶は、今度は春3月出発して寛政10年6月頃、
帰ってきているので6年に及ぶ長旅であった。
夏の夜に風呂敷かぶる旅寝哉

好きで出た旅とはいえ、時には野宿もし、身のまわりのことはすべて自
分で始末しなければならない。
秋の夜や旅の男の針仕事
 
 
 
  一茶の旅のお供の行李

 

寛政5年(31歳)肥後八代で新春を迎え、長崎にも滞在。
君が世や唐人(からびと)も来て冬ごもり

寛政6年(32歳)九州各地をまわり、山口、尾道をまわって四国へ。
蓮の花虱(しらみ)を捨るばかり也

寛政7年(33歳)新年を讃岐観音寺町にて迎える。
3月17日大坂着。5月頃には京都にいた。この年一茶は寛政4年から
の西国俳諧修行の旅の成果を「たびしうゐ](旅拾遺)という本にまとめ
出版する。当時、句集を出版する場合には、句の作者は一句ごとにお金
を支払う、いわば出句料を拠出する習慣があった。つまり「たびしうゐ」
で紹介された句の作者は、応分の出句料を一茶に支払った。西国俳諧修
行中、一茶は、各地の俳人を巡る中で、俳諧の先生として受け入れられ、
報酬を得ながら旅を続けてきたものと考えられる。7月俳人素丸が死去。
10月12日、近江義仲寺の芭蕉忌に列席している。
是からも未だ幾かへりまつの花
 
 



  栗田樗堂
 

寛政8年(34歳)ふたたび四国に渡り、松山で酒造業を営む豪商栗田
樗堂(ちょどう)と歌仙を巻くなどして、ここに長逗留、道後温泉で句
を作っている。
 寝転んで蝶泊まらせる外湯哉

一茶は、当時多くの俳諧師たちが、芭蕉の足跡をたずねる道の奥、東北
から北陸を遊ぶのにあえて四国、西国の旅を選んだだけあって四国では
当代一流の俳諧師たちと句会を通して親交を結んだだけでなく、旅の先
々でも『万葉集』などの古典学習を怠らず、しだいに独自の俳風を確立
していった。
月朧よき門探り当てたるぞ
 
寛政9年(35歳)西国俳諧修行の旅の総決算ともいうべき著作『さら
ば笠』を京の書林勝田吉兵衛から刊行。6月末木曽路を経て故郷の柏原
へ帰る。9月末帰京し『急逓記』を記しはじめる。急逓記とは、一茶の
旅着発の書簡控えである。10月10日立砂と真間手児奈堂に遊ぶ。
夕暮れの頭巾へ拾う紅葉哉




   大田南畝



 
寛政10年(36歳)俳諧、和歌、川柳が最盛期を迎え『俳風柳多留』
『俳風末摘花』がベストセラーに。一茶が生れ育った明和、天明、寛政、
文化、文政の時代は、江戸や上方に様々な「笑文芸」が生れ興った年で、
柄井川柳が川柳を広めたのは、江戸中期明和のころであった。
戯言歌といわれた「狂歌」が流行ったのは天明、烏亭正焉は狂歌師とし
て活躍し、落語も自作自演し落語中興の祖といわれた。南畝京伝らの
「洒落本」が出たのも明和~天明にかけてで、そのあとに引き続き十返
舎一九『東海道中膝栗毛』式亭三馬『浮世床』などの滑稽本も出
ており、こうした文芸の花盛りの時代、一茶もそうした風潮の影響を受
け面白い句を多く作った。
罷り出でたるは此の藪の蟇(ひき)にて候



   
一茶が手にしているものは何       頬杖




 西国への旅には一茶の様々な思いがあった。浄土真宗の盛んな土地に育
った一茶にしたみれば、京の東本願寺参詣は年来の憧れであった。一年
中参詣者は絶えず、門前には多くの宿屋や仏具、法衣を売る店、土産屋
などが立ち並び、典型的な門前町を形づくっている。西本願寺と合わせ
ると、真宗門徒の数は千数百万人といわれている。一茶は、どうしても
一度はこの東本願寺を詣でたかった。また名実ともに二六庵の弟子が多
い西国にきちんと挨拶回りをする必要もあったし、また京阪の談林系の
有力俳諧師と会って見聞を広め、箔をつける必要もあった。
門前や何万石の遠がすみ




  松尾芭蕉



「若いうちに見聞を広める。そりゃいい考えだ。芭蕉だって奥の細道の
旅をしたことによって多くのものを得た。及ばずながら助力しましょう」
簡単に旅といっても、金のいること。貧乏な一茶は、馬橋の大川立砂
流山の秋元双樹に相談をもちかけたに違いない。芭蕉には魚問屋の鯉屋
杉風というパトロンがいたし河東碧梧桐には東本願寺の大谷句仏がいた。
一茶は髪を剃り、僧侶の姿をして江戸を出た。坊さんだと相手も警戒心
を緩め、喜捨にあずかることも多かろう。人との情を容易に得られるた
めの方弁でもあった。
剃捨て花見の真似やひのき笠
 
 

寛政11年(37歳)11年正月、江戸に帰っていた一茶は、浅草八幡
町旅館菊屋儀右衛門方で新春を迎え、3月末には、再び旅に出る、甲斐、
越後への旅のあと、11月2日いつものように馬橋に出かけて立砂と炉
端談話を楽しんだ。
人並にたたみの上で月見哉

その日、立砂も機嫌よく迎えたが、急に気分が悪くなって倒れ、その夜
のうちにあっけなく死んだ。親とも師とも頼む立砂の突然の死に、一茶
はただ茫然とするばかり。「ほんとうに、あなたがくるのを待っていた
ようでしたよ」と、息子の斗囿(とゆう)は何度も言った。
何はともあれ、一茶は6年の旅で立砂が期待していた通り、まさに俳諧
の宗匠としての風格をそなえ、作風も格段の進歩をとげていた。この年
一茶は、正式に二六庵を継いだ。
炉のはたやよべの笑ひが暇ごひ 
  
  
 

  (画像を拡大してご覧ください)
俳諧番付のなかの一茶の位置
① 「俳諧士角力番組」 文政4年(1821)
   下から二段目「差添」右側に一茶の名がみえる。
② 「諸国流行俳諧行脚評定」 文政6年(1823)
   「行事」として左側に一茶がいる。
③ 「正風俳諧師座定配図」 文政5~6年版
   最下段「勧進元」に一茶の名がある。
※こうした番付には、俳諧の世界でもかなり知られた人物が名を連ねる。
その点で一茶は、晩年、俳諧仲間では押しも押されもしない存在だった
ことがわかる。
 
 
 
寛政12年(38歳)2月27日、蔵前の俳人の夏目成美と俳諧。成美
一茶の連句がある。両者の連句の初見である。夏目成美は、大島完来、
鈴木道彦、建部巣兆と共に江戸四大家と称されており、寛政2年頃、成
美の法林庵(随斎)で催される句会に足繁く通ったという。 成美は一茶
より14歳年長だが、少しも偉ぶるところがなく、流派を問わず、つね
に優しい態度で一茶を迎え入れたという。この年、大坂で発行された俳
人番付に「前頭江戸一茶」と載る。葛飾派では一茶一人のみだった。
雉鳴て朝茶ぎらいの長閑也 成美
二葉の菊に露のこぼるゝ  一茶
 

享和元年(39歳)3月信州柏原に帰郷。4月末、一茶と継母と仙六
の対立激しく、父・弥五右衛門は、一茶宛てに財産分割の遺言を書く。
そしてこの年の5月21日父・弥五右衛門は69歳で死ぬ。
一茶15歳の春、江戸へ立つ息子を牟礼宿(むれじゅく)まで送ってく
れた父が「あと2,3年もすれば家督を譲れるのに、年はもいかぬ痩骨
に荒奉公をさせ、つれなき親と思いつらめ」と危惧と悔恨に泣いた父で
あった。一茶の『おらが春』には<鬼ばば山の山おろしに吹折れ〳〵て、
晴ればれしき世界に芽を出す日は一日もなく、暗鬱な日々を送って歳を
とってしまったが、こんな辛い思いをさせたのも、鬼ばばの仕業だと、
生涯継母・さつを恨み続けた>とある。
痩せ蛙まけるな一茶是に有
 
 
 
 
 本所深川の堅川付近
 

享和2年(40歳)大坂の俳人番付にたとえ「前頭江戸一茶」と載った
としても、江戸に帰れば、一茶は依然として信州生まれの田舎俳諧師に
すぎなかった。本所深川の間を流れる堅川付近の借家住いで、そこを拠
点に下総地方の俳諧師たちをまわる暮らしが続いた。ようやく40代に
入るころ、江戸きっての遊俳夏目成美に認められ、彼の句会である随斎
会に参加できるようになり、江戸で著名な一流の俳諧師たちと交われる
ようになった。しかし、一茶にとっての江戸は、安住の地ではなかった。
依然、裏長屋住いであり、貧窮な店借の暮らしには変わりなかった。
秋の風乞食は我を見くらべる

享和3年(41歳)この頃、真言宗勝智院の寺内にある本所五つ目大島
の愛宕社に住む。住職の栄順は俳人。4月になると上旬房総から浦賀へ
の旅。8月7日には、下総布川へ巡回俳諧師の旅を続け、上総、下総を
こまめにまわり、他人の家に泊まることが多かった。女流俳人織本花嬌
のいる木更津へ通うのはこのころからで、木更津船を利用して文化14
年(1817)まで11回行っている。4月半ばから12月半ばまで、
「享和手帖」を書く。11月に流山の双樹と歌仙を行う。
名月や乳房くはへて指さして 花嬌
名月をとってくれろと泣く子かな 一茶

享和4年(42歳)この年の初めから文化5年まで『文化句帖』
2月、流山で『俳諧草稿』をしたためる。3月、享和から文化へ改元。
10月末、本土寺で芭蕉句碑の建立があり列席する。10月愛宕社を
引き払い相生町5丁目に引っ越す。この相生町5丁目の家は間借りでは
なく、小さいながらも一軒家であり、庭には梅や竹が植えられていて、
垣根には季節になると、朝顔が育った。家財道具一式を親交深い流山の
秋元双樹がプレゼントしてくれており、これまでよりも暮しに落ち着き
が出来た一茶のもとには、俳人の来訪者が増えた。
梅が香やどなたが来ても欠茶碗
 
 

   当時の句会場


文化2年(43歳)夏目成美の随斎会で歌仙興行。福引会やら花鑑賞や、
無礼講の酒宴などもあるサロンで、巣兆、蕉雨、道彦、一瓢らは常連。
10月、立砂亡きあとも経済支援を受けている馬橋の大川斗囿を訪れる。
霞む日や夕山かげの飴の笛
 

文化3年(44歳)深川で流山の双樹と歌仙。
この頃、一茶は葛飾派の句会に出席しなくなった。一茶と葛飾派との関
係が徐々に疎遠となっていったのは、一茶にとって葛飾派の作風が物足
りなくなり、また閉鎖的な葛飾派の体制に飽き足らなくなったからでは
ないかと考えられている。
夕月や流れ残りのきりぎりす
 

少し戻る享和元年(1801)3月頃、一茶は故郷柏原に帰省した。一茶が
父の死去の経緯について書いた「父の終焉日記」では、一茶が帰省中の
4月23日、父が農作業中に突然倒れたとしている。父の病状は次第に
重くなり5月20日には危篤状態となった。危篤状態の父の姿を一茶は 、
父の寝ている姿を前に一句詠んだ。
寝すがたの蠅追ふもけふが限りかな
 

父は5月21日の明け方に亡くなった。父の葬儀を終え、初七日に一茶
は継母さき、弟仙六に対して遺産問題について談判した…。
父ありてあけぼの見たし青田原

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