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川柳的逍遥 人の世の一家言
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人生はうんすんカルタどの辺り  河村啓子







「火付盗賊改役」 長官・長谷川平蔵


小説・鬼平犯科帳『寛政重修諸家譜』(かんせいちょしゅうしょかふ)
をタネに生み出さたものである。この本は江戸幕府が編修した系譜集で、
当時の各大名家・旗本・御目見以上の幕臣の事跡が記されている。平蔵
「若い頃の放蕩ぶり」「石川島人足寄場の設立」あらかた「盗賊の
捕縛や処刑」は史実だが、「元盗賊の密偵」を使う発想や「急ぎ働き」
「嘗役(なめやく)」などの用語は作者・池波正太郎の創作である。
原作は136編あり、作品は映画や漫画にもなり、テレビ時代劇では、
これまでに松本幸四郎、丹波哲郎、萬屋錦之助、中村吉右衛門の4人が
長谷川平蔵(鬼平)を演じている。小説を読んでみて池波正太郎が描く
平蔵の優しく厳しく、人間味の溢れたキャラクターは、中村吉右衛門が
一番ピッタリであったように思う。「小説を使い尽したらドラマ制作を
打ち切る」のが、テレビ側と原作者との取り決めで、今は、時代劇チャ
ンネルで楽しむしかほかない。


選ばれたのね天使が膝に乗っている  大内せつ子



 



「平蔵の生い立ち、から~」
長谷川平蔵の父・宜雄(のぶお)は長兄、宜安の末弟であった。
次兄は、永倉家へ養子に入っている。だから宜雄は、そのころの武家の
ならいとして、養子の口を得るか、兄たちのやっかいものとして肩身もせ
まく、一生を送るか…。どちらにしても、はじめは恵まれた環境ではなか
った。なかなかに養子の口はない。宜雄は、長兄のやっかいものとして、
長兄が亡くなり、その子の修理が長谷川家を継いだのちも、悠々として、
甥のやっかいとなっていたらしい。


濡れているのか泣いているのか楠若葉  柴本ばっは
 
 
この間、宜雄が長谷川家の女中・お園に手をつけてしまった。
宜雄は生来、謹直な人物で病弱の甥の修理が、力と頼んでいたほどであ
ったけれども、30に近くなって妻も迎えられぬ身であったから、つい
つい下女に手を出したとしても無理はない。お園は、巣鴨村の大百姓・
三沢仙右衛門の次女だ、百姓といっても、かなりの裕福な家で、行儀見
習いがてらの奉公であったが「こうなっては仕方あるまい。わしはお園
とともに巣鴨へ移る」といい宜雄は、仙右衛門の口添えもあり、お園の
実家でのんびりと暮らすことにした。ここでお園が生み落した子が平蔵
なのである。


「道」という一字書と日々対話  徳山泰子


ところが、それから2年目に長谷川家では、当主の修理が急病にかかり
「とても助かるまい」ということになった。
修理は結婚をしていないから、跡継ぎの子がいない。
跡継ぎがいなければ、長谷川家は断絶ということになる。
家を潰し、俸禄も幕府へ返上しなくてはならない。
修理は、気息奄々たる中に「妹の波津を、自分の養女にし、これへ巣鴨
の三沢家にいる叔父上を…」と、熱望した。
 こういうわけで、宜雄は、我が姪にあたる波津と結婚し、長谷川家を継
ぐことになったのであるが、落胆したのはお園で、これも病身だったた
めもあったのか、宜雄が本所の屋敷へ帰って間もなく、急激に衰弱をし
て世を去った。


吊り橋の真ん真ん中あみだくじ  森田律子


宜雄は長年の厄介をかけた本家が跡継ぎなしのため、武家のならいとし
て家が取り潰されてしまうのを、見過ごしているわけにはいかなかった。
「では、銕三郎(平蔵)も一緒に」と言うと、妻の波津が頑として承知
をしない。実の叔父を夫にした波津は、27歳になるまで縁談の口が一
つもかからなかったという、女性だけに、気性もきつく屈折しており、
後年、宜雄が平蔵「まるで良薬(苦い)を飲むおもいで、本所へ帰っ
たものよ」と苦笑しつつ洩らしたことがある。


一本の針は楽観主義である  西澤知子


波津は、夫の宜雄が女中に生ませた平蔵などを屋敷に入れて、のちのち、
平蔵が長谷川家の跡継ぎになるようなことになっては、と思ったのだ。
彼女は、「どこまでもわが腹から後継ぎ男子を生む」つもりであったが、
辛うじて3年後に、女子ひとりを生んだにすぎない。こうしたわけで、
平蔵は17歳のころまで、亡母の実家である巣鴨の三沢家に父と別れて
暮らした。


次の世も生きてゆくなら鳥か魚  柴田比呂志


平蔵が幼いころ、年に一度ほど、父の宜雄が編み笠に顔を隠し、中間の
九五郎に玩具やらお菓子やらをいっぱい持たせ、満面の笑みを崩しつつ
仙右衛門宅へ訪れたりもした。とにかく温厚な父だけに、妻の怒りが家
を乱すことを怖れて、平蔵を呼ぼうとしなかったのだが、宝暦12年
(1762)となって、親類たちの協力を頼み、40を越えた妻・波津
を説き伏せ、平蔵を巣鴨から呼び戻し、共に暮らすようになった。


書き出してみよう家族の良いところ  川本真理子


それでも波津は、平蔵を後継ぎにすることを承知せず、一時は、親類の
永倉家から養子をもらいうけようとしたことさえある。
とにかく波津は、平蔵を苛め抜くこと、なみなみでなく、何かにつけて
「妾腹の子」だと言いたてる。食事も奉公人同様の扱いで、冷たく、さ
も憎々し気に、自分を睨みすえていた義母の眼差しを、平蔵は終日、感
じながら暮らさねばならなかった。


次の世も生きてゆくなら鳥か魚  柴田比呂志




          深 川 風 景


それには平蔵も若いし、おもしろくない。義母といるのを嫌い、屋敷の
金品をくすねては、巷をうろつくようになった。本所から深川にかけて
の盛り場や悪所に沈潜し、土地の無頼どもや小悪党と交わり、酒と女に
溺れつくしながらも、天性のすばしこい腕力にものをいわせ、「入江町
の銕(てつ)」とか「本所の鬼銕(おにてつ)」などと呼ばれ、無頼漢
どもに恐れられたり、敬われたり、とにかく余程に暴れまわった。


逆らって生き強靭な顎一つ  佐藤正昭


大いに顔を売っていたとき、平蔵が巣にしていたのが、鶴の忠助がやっ
ていた本所四つ目の居酒屋の二階であった。400石の旗本の子息だっ
た平蔵が、忠助や彦十のような泥棒の正体を知っての上での、交際だっ
たのである。平蔵の非行を見て、親類たちも宜雄「勘当してしまえ」
と迫った。しかし、宜雄は応じずじッと耐えた。
この若さにまかせた放蕩時代が、火盗改めの頭を務めるのに貴重な経験
になったことは、いうまでもない。


斜に構え失うもののない私  松浦英夫


平蔵が20歳の正月のことである。夜遊びから門をのり越えて帰宅した
平蔵を嘲り叱りつける義母を「うるせえ!」と言い、酔いにまかせて殴
りつけてしまったことがある。これで義母が、おさまる筈がない。「妾
腹の子なぞより、親類の子を跡継ぎに!」猛然として運動をはじめた。
「勝手にしやがれ」こうなると、平蔵は屋敷に寄り付かず、白粉くさい
深川の岡場所の女たちのところや、無頼仲間のねぐらを泊り歩いて、中
に入った父をさんざん困らせた。


憚りながら裏街道のクラゲです  太田のりこ


金には困らぬ…。無頼どもが悪事をして得たものを平蔵がまき上げてし
まうからだ。その代わりには、腕力にまかせ、彼らを助けての暴力沙汰
も絶え間がなかった。親類筋も騒ぎはじめた。平蔵の非行が公儀へ知れ
たら大変なことになる。「勘当してしまえ」という声も高まりはじめる。
この中で、温和な父・宜雄は、ぬらりくらい言い訳をしながら、一歩も
退かなかった。妻には頭が上がらぬようにいて、父は西の丸・書院番を
振り出しに、諸役を歴任して、役目上の働きぶりはなかなかに立派なも
のであったそうだ。


節度ある静かな雨であるように  新家完司


こうした中で、平蔵は高杉道場の稽古だけは休まなかった。世間への反
抗と鬱憤は、猛烈な稽古によって発散される。彼の剣術がめきめき進歩
を見せたのも、このころであった。門人の数も少ない高杉道場なのだが、
平蔵とはよく気が合い、手練も伯仲していたのが岸井左馬之助である。
2人は同時に、高杉先生から目録を授けられたし、酒食の場所にも肩を
並べて出入りするようになった。娼婦の荒んだ肌の香りなら、いやとい
うほど嗅ぎつくした平蔵と左馬之助なのだが、桜屋敷のおふささんが現
れると、鉄も佐馬も顔へ真っ赤に血をのぼらせて、あの面構えに臆面も
なくはにかんだりして、鬼の義母を脳から遠ざけた場所では、純な一面
をのぞかせた。


あたたかい雨だと思う茄子のヘタ  前中知栄


 
                            鬼 平 情 条


高杉銀平道場
義母の苛めに反発、土地のごろつきと放蕩無頼の日々を送っていた平蔵
ですが、十九歳の折、ここから道を隔てた横川沿いの出村町にあった道
場の門を叩きます。入門後は世間への鬱憤を晴らすかのように休むこと
なく猛烈な稽古に打ち込みました。当然、腕はめきめき上達、肉体だけ
でなく精神も鍛えられ、その後の人格形成に大きな力となりました。
道場で技量が伯仲し、気も合ったのが岸井左馬之助です。高杉先生から
同時に目録を授けられ、竜虎と呼ばれ、酒食の場にも肩を並べて出かけ
る間柄になりました。平蔵一家が京都へ赴任して一時、疎遠になりまし
たが、再開後は、剣友の付き合いを復活、遊軍として火付盗賊改方を支
えていきます。後に道場の食客であった小野田治平の娘、お静と夫婦に
なり、春慶寺から下谷の金杉下町へ移り住みます。


オブラートほどの手助けならできる  斉藤和子
 
 
明和4年(1769)波津が病死した。ようやく宜雄は、わが子平蔵を
跡取りにすることを得たのであった。翌明和5年12月5日。平蔵は父
宜雄の跡継ぎとなり、はじめて江戸城に出仕し、10代将軍・家治に拝
謁をした。平蔵25歳の時である。この間、一言も平蔵を叱りつけるこ
となく、見守り続けてくれた父の恩を、平蔵は深く感じ、以来、まるで
「人がちがった」ような男になった。


どの風に乗ったのだろう逃亡者  合田瑠美子

 
安永3年(1774)31歳で平蔵は、江戸城西の丸御書院番士(将軍世子
の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、翌年には、西の丸仮御進物番
として田沼意次へ届けられたーいわゆる賄賂の係となり、天明4年(1
784)39歳で西の丸御書院番御徒頭、天明6年(1786)、41歳で
番方最高位である御先手組弓頭に任ぜられ、順調に出世していった。
そして「火付盗賊改役」に任ぜられたのは、天明7年(1787)9月
9日、42歳の時であった。つづく。


乾電池抜いてください眠ります  清水すみれ

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