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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ゼロという数字がとても嬉しい日  真鍋心平太





    英名二十八衆句  「犯罪」

「必殺仕事人」 2020





あの世の地獄と この世の地獄 どちらも地獄にかわりなし
 おやおや どっかで誰かが泣いてるかい
そうかいそうかい そういうあんたにゃ他人事か
 云わぬが花とは申されど ひとこと云わせていただきます
あんたが見るか おいらが見るか 誰かが地獄を見なけりゃ 
 終われねえ 善男善女にゃ 無縁の話で御座います
      晴らせぬ恨み 晴らしますー
          (渡辺小五郎編)

一かけ 二かけ 三かけて 仕掛けて殺して日が暮れて
 橋の欄干腰下ろし 遥か向こうを眺むれば
この世は辛いことばかり 片手に線香 花を持ち
 おっさん おっさん どこ行くの
あたしは必殺仕事人 中村主水と申します
それで今日は、どこのどいつを殺ってくれとおっしゃるんで?
           (中村主水編)







金は天下の回り物 ところがどっこい近頃は
  天下が金の回し者 金さえありゃとは申しませんが
    情がありゃとも申せません
  綺麗事ばかりじゃとどのつまりの堂々巡り
     どうやらどの世に生まれても
「こいつだけは許せねえ」 てな輩がおりますもので。

ナレーションはいつもの市原悦子さん。いいですね 悦子さん。

現代版では、仕置人・キラが語る
「不完全な法律で裁きを受けない人間を自らの手で葬り去らなければ、
世界は変わらない。」というのがあります。


湿り気を帯びたことばで刺を抜く  笠嶋恵美子

日本橋の船入場は「八丁堀」と呼ばれる。その八丁堀に「与力・同心」
の組屋敷が並ぶ官舎があったことから、与力と同心は『八丁堀の旦那』
と呼ばれた。いずれも、町奉行が警察署長としての職務を執行する際に
働く事件捜査、犯人逮捕の実働部隊である。同心はたいてい与力に附属
し、その取締は歳番与力(増村倫太郎[ 生瀬勝久]で、その分掌の中で
業務を勤める。同心部屋の机で帳面を前に事件の記録、経緯などを記述
しているのが「例繰方同心」で最前線に出るのが「三廻り同心」である。
その「三廻り同心」の一つが、中村主水(藤田まこと)渡辺小五郎
(東山紀之)が演じる「定町廻同心」である。

遠景に赤い地球が見える窓  蟹口和枝




               
           光琳亀甲鶴                                      丸に唐花

江戸の町を巡回している南北あわせて20人の「定廻り廻り」と「臨時廻
り」
は、独特の格好をしている。「御成先着流し御免」といって、将軍の
御成先でも着流しを許されている。武士なら必ず身に付けなければならな
い袴をはかない。着物の柄は派手な格子か縞。身幅は裾が割れやすいよう
に女幅。その上に竜紋裏三ツ紋付の黒羽織(例えば、渡辺小五郎[光琳亀
甲鶴]
中村主水[丸に唐花])を羽織る。その端を巻羽織といって裾を
内側にまくりあげて博多帯に挟み、茶羽織のように短く着る。髷は八丁堀
風に決め、足元は雪駄履きだ。江戸八百八町の人たちに一目でそうと分か
ってもらうためのユニフォームだった。

豆腐屋のとても豆腐屋らしい顔  くんじろう




 
着流し姿の小五郎


その定町廻同心は、どんな役目を負っているいるのか。法令の施行を視
察し、非違を監査し、犯罪の捜査、逮捕をする役で、現在のパトロール
警官である。当時はどんな事件があったか、通り魔、詐欺・横領・偽造
・放火・強盗・窃盗・喧嘩・傷害・殺人・質入れ、故買時の盗品の不正
取扱い博奕、高利貸し、かたり、強請、追放者のお構い地立ち入り・交
通事故・あおりなど雑多である。

男一匹かけ声だけで終わりそう  久保田千代

しかしながら定員は一町奉行所にわずかに6名である。南、北町奉行所
で12名。臨時廻同心も同数であるから合わせて24名、これで江戸府
内を巡回して、100万都市江戸の治安に勤めたのであるから驚異的で
ある。この12名がそれぞれの受持区域をもって常時廻っているが、つ
い手が足りないから「岡ッ引・下ッ引」が動員されるようになる。

黄昏ないようにと鎌を研ぐ  藤井寿代

同心が自分の身銭で雇う町人の情報屋を「岡っ引き」という。岡っ引き
「御用聞き」といわれる。江戸以外では「目明し」関西では「手下」。
小者が同心屋敷で生活している下男とすれば、 岡っ引きは、同心に個人
的に仕えるだけで、保証らしいものはない。同心の下には、岡っ引きが、
2、3人付いているが、その岡っ引きの下にはまた4,5人の手先が付
いている。岡っ引きも一人前になると、一人で5,6人くらいの手先を
使っていた。張り込みや連絡が必要な時に、 緊急で招集をかけるときの
手数である。それらを「下っ引き」といった。

叫んだら有給休暇もらえるよ  中山奈々

自腹で使う岡っ引きの金は、どのように工面したのか、定町廻同心には
特典がある。町の店の主人は、自分の処へ来てくれる八丁堀の旦那に対
して接待をするから、食事はおろか、酒も飲み放題になる。担当地区の
大家から付け届けなどもあり、年収を数倍も上回る収入があった。これ
は収賄になるがお上からは、お目こぼしの範疇にある。岡っ引きたちの
金はほとんどその中からまかなった。そして渡辺小五郎が同心部屋で昼
行燈を演じていられるのも、実際には、現場で、総勢18人ほどの岡っ
引き、下引きが動いて事件を持ってくる。あとは同心が現場か番屋へ出
向くだけでよかった。

結び目をほどくとそうか そうなんだ  山本昌乃

「必殺仕事人」 2020-すじがき







江戸のこの時代にも、令和の現代と何も変わらぬ事件が頻繁に起こる。
振り込め詐欺、半グレ集団、引きこもり、強請、殺しなど…。
江戸の町で、子を装って親を欺いて金を奪う「親だまし」の詐欺が頻発
する。同心の渡辺小五郎(東山紀之)が勤める本町奉行所には、名裁き
で名高い湯川伊周(市村正親)が町奉行としてやってきた。 新しい与力
として田上誠蔵(杉本哲太)も就任、詐欺の取り締まりに本腰を入れる。
そんななか、小五郎はひょんなことから助けてやった幼い娘・つゆ(古
川凉)
になつかれてしまう。親戚に預けられて厄介者扱いされていると
いう境遇を知ったふく(中越典子)てん(キムラ緑子)は、つゆを家
に置こうと言い出す。

カーテンの隙間に善人のぽかん  森田律子





一方、経師屋の涼次(松岡昌宏)は、博打で儲けた金で祝い酒を飲もう
と訪れた水茶屋でたけ(森川葵)という気立ての良い女と出会う。水茶
屋の仕事でお金を貯め、今は別れて暮らす娘と居酒屋を開くのが夢だと
いう。 リュウ(知念侑李)はといえば、庭師として、働く毎日を送り、
たまたま新与力・田上の家にも出入りしていた。家に引きこもっていた
息子・田上新之丞(杉野遥亮)と親しくなったリュウは、一緒に外の空
気を吸いに出かけることに。街中で出会ったのが「新生塾」を主宰する
熱き教育者・溝端九右衛門(駿河太郎)だった。悩める若者たちに生き
る道を説く彼の熱弁にすっかり心酔した新之丞は、入塾を決意するが、
父の誠蔵には反対されてしまう。

岩間のすみれ 生きるということ  徳山泰子






詐欺撲滅のためやくざ者の取り締まりを強化する奉行所は、奉行の湯川
の指揮の下、賭場の手入れをおこなう。首謀者とにらんだやくざ者は自
害した姿で見つかるが、小五郎は、やくざ者が自ら命を絶つという結末
に疑念を抱く。 取り締まり後も「親だまし」の詐欺は、一向に減る気配
がない。涼次が賭場で得た情報によれば、最近は、やくざ者とはちがう
「グレ者」と呼ばれる悪党が幅を利かせているらしい。仁義も関係なく、
金のためなら手段を選ばないのが連中の恐ろしさだという。

現住所はダンボール的屋根の下  山口ろっぱ






お金を貯めて先は自分の店を持つこと、そして店が持てたら一緒に暮ら
そうと決めたたけつゆ母娘に、義理人情と無縁なグレ者と呼ばれる
一味を率いる詐欺のリーダー・五十嵐鉄太郎が虎視眈々とたけの財布に
目をつけた。か弱い女手に悪の手が勝てるわけがない。たけは軽々とだ
まし取られた金を返して欲しさに、鉄太郎にしがみつき拝むがあえなく
殺されてしまう。その鉄太郎も仕置人の手によって成敗されるが、本当
の悪はその上の上に悠然と居た。主催する新生塾は、隠れ蓑で、熱き教
育者の溝畑九右衛門は、枝の一本に過ぎない。その溝畑の上で、事件を
創作し操っていたのは、実は、やくざ取り締まりを掲げ登場してきた、
奉行の湯川伊周であった。堅物で真っ直ぐな筆頭与力・田上誠蔵と引き
こもりからやっと生き方を悟った息子の田上新之丞も湯川の術中にはま
り詰め腹を斬らされてしまう。
そして小五郎は、この湯川伊周を仕置す
る役目を担った。小五郎を演じる東山紀之は、なかなか殺陣がうまい。
湯川を二太刀で斬り捨てた殺陣は、なかなか重量感があった。
(余談だが、視聴率14、5%御立派)

思い切って白いカラスになりました  靏田寿子

【仕置き法によって処刑することを江戸時代こう呼んだ。
しかし ここに言う仕置人とは、法の網をくぐってはびこる悪を裁く闇
の処刑人のことである。ただし この存在を証明する記録古文書の類は
一切残っていない。

さて、つぎのような言葉がある。

『世には悪のために悪をなす者はいない。みんな悪によって利益・快楽・
名誉をえようと思って悪をなす』   フランシス・べーコン

一コマ目笑った四コマ目泣いた  雨森茂樹

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生体解剖された日は砂嵐  井上一筒
 
 

岩松院葛饰北斋八方睨凤凰图
(葛飾北斎・応為共作)

「葛飾北斎の家族」


北斎は、2度結婚している。「さわ」とも「悌」ともいうが、正式には
名は不明。その妻との間に3人の子に恵まれた。長男は富之助、長女は
阿美与、次女は阿鉄。しかし二つの不幸が襲う。一つは、寛政6年(1
794)、春朗の時代、勝川派にいながら、密かに狩野派の画法を学び、
それを聞いた師匠の春章が憤り、破門させられ貧乏暮らしの中、唐辛子
売る破目になったこと。もう一つは妻が亡くなったこと。北斎34歳で
ある。3人の子をかかえた北斎は後妻をもらう。後妻の名は「こと女」
(朝井まかて著『眩(くらら)』では、「小兎」という字をあてている。
小兎との間には、2人の子をもうけた。次男・多吉郎、三女・阿栄
小兎は前妻の子を加えて一時は、二男三女の子の面倒をみることになる。

雑草に生まれたことを怖れない  中前棋人

長男・富之助は、中島家の後継者となった後、早世したと伝わる。何歳
だったかは不明。長女・阿美与は、北斎の弟子・柳川重信と文化10年
(1813)頃、結婚し男子を生むが、夫婦仲が悪く、文政5年(18
22)頃に離婚する。阿美与は子を連れて実家に戻るが、まもなく死亡。
北斎には孫にあたる阿美与の連れて帰った子(時太郎)は、大の問題児
であった。ぐれて人様に迷惑をかける暴れるで、手を焼いた北斎は、別
れた婿の重信に引き取れせる。が、重信は天保3年(1832)に死亡。
問題児はまたまた北斎の許へ戻ってきた。成人すると、悪たれの仲間に
交じり、博打・借金など放蕩の限りを尽くす。金がなくなればせびりに
くる、北斎にとって苦渋の疫病神になる孫である。

鶏頭と瓜しか見えぬ四畳半  くんじろう


渓斎英泉の美人画
蝙蝠が飛ぶ夜空ー応為の夜桜美人と美人比べをしてください。
応為の絵のうまさがわかります。



次女お鉄。「画をよくし、他へ嫁せしが、夭死す。一説に幕府の用達
 某嫁せし」とある。また、渓斎英泉『無名翁随筆』(続浮世絵類考)
には「次女は、他へ嫁す 画工にあらず 早世 御鏡御用の家に嫁す」
とあり、画工でないとする部分に食い違うが、早世は確かなようである。
また北馬が北斎に入門したころ、「師北斎は(前)妻を亡くし、一人の
娘と住んでいた」と回想している。お栄がまだ生まれていないので、こ
の娘がお鉄ではないかという推定もあり、錯綜している。何しろ北斎は、
前妻との間の子は、孫の時太郎を含め、良い印象ある家族ではなかった。

薄切りの幸せらしきものひらり  高野末次

小兎の子の阿栄については、ある程度歴史は明確なので、後回しにして、
阿栄の弟の多吉郎をとりあげる。多吉郎は崎十郎と改名し、本郷竹町の
御家人加瀬氏の養子となる。その加瀬家に入った崎十郎は、御小人目付
より御小人頭に進み、支配勘定となり、御天守番から御徒目付へと昇る。
俳諧を好み、椿岳庵木峨の号をもち、北斎が没すると墓を建立し、一人
きりになった阿栄を邸に迎えたりして生活の支えになる。
崎十郎には娘・多知(多知女)が居り、白井家に嫁ぐ。この北斎の孫で
阿栄の姪になる白井多知の遺書を『葛飾北斎伝』が随所に引用している。
『白井多知女は、加瀬崎十郎の女(むすめ)にして、白井氏に嫁す。即
ち白井孝義氏の母なり。[白石氏、今本郷弓町に住す。加瀬氏の後、此
に同居せり]』この白井氏が、北斎の血を繋いでいく。

働いた雲がゆっくり流れてる  市井美春

寛政12年ころ(1800)に出生したとされる三女・阿栄に関しては、
彼女が20歳のころから『葛飾北斎伝』にしばしば登場する。
「阿栄は、天才的な画才あり、画名を応為という。絵師・堤等琳の弟子
南沢等明に嫁ぐが、等明は余りパッとしない絵描きであったので、画才
のある阿栄は、そんな夫に嫌気がさし『未練なく離婚、実家に戻る』
ある。阿栄については、別頁を割いて書くことにするが、この阿栄の下
に四女・阿猶(なお)が目が悪くして生まれ早死にしたという説がある。
『北斎伝』「文政4年11月13日、北斎の娘と推定される人物が没
するとある」が、次女・阿鉄のことなのか、阿猶のことなのか、詳しい
ことは不明である。

ペナルティみたいだなあと年をとる  美馬りゅうこ

 
朝顔美人図

落款における「辰女」「栄女」の「女」が上の字より小さいなど筆跡が

類似し、手や指、頭髪などの細部描写が一致することから、応為の若い
ころ、南沢等明に嫁していた頃の作品とみられている。
 




  『無名翁随筆』


「南沢等明との結婚生活」

南沢等明応為(阿栄)の夫として名は知られつつあるが、実のところ、
作品も知られていなければ、生没年も分かっていない。渓斎英泉『無
名翁随筆』には、等明は「堤派系図」に名前のみあり、関根只誠「浮世
絵百家伝」では「履歴不詳」井上和雄「浮世絵師伝」に至り、ようやく
「三代等琳門人、文政期、堤を称す。南沢氏、俗称吉之助、橋本町二丁
目水油屋庄兵衛の男なり、北斎の娘阿栄を妻とせしが、後之を離縁す」
と出てくる。関場忠武『浮世絵編年史』にも「三女名は栄、亦画を能く
し三代等琳の門人南沢船二に嫁せしが後、離別せり、一文人形の元祖は
即、此栄女なり」と、名がみられる程度である。

応為南沢等明に嫁いだからには、その間、堤派の絵師に数えられてし
かるべきである。が、堤派系図にも応為と言う名も、辰女という名も出
てこない。家事もせず、芥子人形を作っていて、等明の仕事も手伝わな
ければ、絵の拙所を笑ったというのだから、等明の絵に対する仕事ぶり
にそれ相応の不満があったのだろう。夫と同じに見られたくない、しか
し嫁ぎ先で「葛飾」姓を名乗る訳にもいかず、また「堤」とも名乗りた
くない。そこで「朝顔美人図」のような軸物の落款には、敢えて「北斎
娘」と書いた。応為にしてみれば、等明の画業よりも、北斎のもとでの
画業の方が興味を引いたのだろうことは、北斎一門との画巻や北斎一門
が関わったと推定される洋風風俗画の存在からも、確かなことである。
何につけても、等明と阿栄は心擦り合わず、離縁に漕ぎつけてしまった。
とどのつまり
「阿栄、家に帰りて再嫁せず、「応為」と号し、父の業を助く」となる。

それだけの事だったのか離婚印  目黒友遊


北斎の妻であり、阿栄の母である小兎は、文政11年(1828)6月
6日に死ぬ。小兎が没した時、北斎は69歳になっていた。小兎の生前
に阿栄が離縁されたとすると、以後、再嫁せず、北斎のもとにいた理由
も、一人になった父・北斎と暮らす必要を感じたからではなかったか。
嫁ぎ先では「心かなわずして離縁された」とされる阿栄だが、離縁後は
父・北斎の傍にいようと、決めた、厚い親思いの気持があったのだろう。

踏みだした所にシッポがあったから  宮井いずみ

左の文字は栄女筆
大海原に帆掛船図
「天才絵師・阿栄」
《大海原に帆掛け船図》「狂歌国尽」文化七年(1809)頃



 画才は娘たちばかりに受け継がれたようで、阿栄の天才ぶりは、10歳
のころ『狂歌国尽』に、北斎ほか門人ともに挿絵に「栄女筆」の署名で
『大海原に帆掛船図』を描いたとある。
文政7年、24歳の頃、シーボルトが持ち帰った水彩画のうち「商家図」
に文政7年の年記あり、この頃、南沢等明に嫁しており「辰女」の画名
を用いている。天保4年(1833)のころ、渓斎英泉『无名翁随筆』
には「女子栄女 画を善す、父に随て今 画師をなす、名手なり」とある。


選ばれたのね天使が膝に乗っている  大内せつ子


  夜桜美人図


「余の美人画は、お栄に及ばざるなり、お栄は巧妙に描きて、よく画法
にかなえり」  これは北斎が、娘お栄を評して言った言葉である。
天才浮世絵師である父・北斎にここまで言わせ、時には北斎の肉筆画の
代筆や彩色をしたといわれる。また、応為自身にも弟子がおり、裕福な
商家や武家の娘の家を訪問して、家庭教師のような形で絵を教えていた、
こともある。
『阿栄門人あり、大抵商家の娘、および旗下の士の娘などなりし、晩
年には、自往きて教授せり』

くしゃみしたらあかんねこが目を覚ます  宮井いずみ

画号に適当な由来がある。父の北斎が娘の事を「エイ」とは呼ばず、い
つも「おーい」と呼んだ。そこからそのまま「応為」とした。オーイ即
ち呼び声である。27歳のとき、南沢等明と離婚してからは、画から離
れられず、北斎の世話をしながら一緒に暮らし、自らも描き、父の絵の
制作助手を務めた。北斎の『富嶽36景』も、所々、阿栄が描いたもの
といわれる。北斎が没して、阿栄51歳の頃、飯島虚心『浮世絵師 歌川
列伝』には「北斎36景の模造品あり、北斎の死後、応為の手になり出
版されたものか」とある。応為は北斎が遣り残した未完成36景を、ず
っとそれを手伝っていたことでもあり、完成させたのだろう。

粒選りの愛を一粒持っている  みぎわはな

「北斎の死」
嘉永2年(1849)北斎応為は、浅草聖天町の遍照院境内の仮宅に
居た。『馬琴日記』2月25日の条には、
「中村勝五郎来る(勝五郎とは板元)…画工北斎、此のせつ大病のよし、
勝五郎の話也」とある。さすがの北斎も、90歳を迎えた2月には大病
を患っていた。『葛飾北斎伝』では「嘉永二年、翁病に罹り、医薬効あ
らず。是よりさき、医師窃(ひそか)に娘阿栄に謂いて曰く、”老病なり 
医すべからく”と。門人および旧友等来たりて、看護日々怠りなし」この
文に続いて、北斎最後の言葉として有名な「翁死に臨み、大息し、天我
をして十年の命を長うせしめば、といい、暫くして、更に謂いて曰く、
天我をして五年の命をば保たしめば、真正の画工となるを得べし、と言
い終わりて死す。実に四月十八日なり」と吐いたともある。
「天我をして…」の言葉は、臨終に立ち会った者が聞いたことになるが、
応為だったのか、加瀬崎十郎が立ち会ったのか。

天国は死ぬ心配がありません  寺川弘一

 
あたしはあたしのままがいい


北斎
が没し、北斎の家族で残ったのは、阿栄と弟・崎十郎だけになった。
阿栄も北斎が死んだときは、「悲嘆やるかたなく安座することも出来な
かった」という。そんな阿栄に崎十郎は、本郷弓町の自分の居宅に来て、
共に住むようにと何度も説得に通い勧めた。が、阿栄は、堅苦しいとこ
ろは性に合わないと拒絶し続けた。しかし安政の大地震(1855)で、
住むところを失った阿栄は、本郷弓町の加瀬家へ移り住むことにした。
しかし加瀬家にあっても、応為の性格はあたかも男子のようで、崎十郎
の奥とは合わなかった。弟夫婦の家に変人姉が転がり込めば、仲睦まじ
くとは、いかなかった。また、阿栄も溶け込めなかった。
白井孝義氏曰く、「阿栄は、余が母方の祖父・加瀬崎十郎の家に居りし
が、その気性、恰も男子のごとくなれば、祖母と善からず。常に曰く、
妾(わらわ)は筆一枝あらば、衣食を得ること難からず。何ぞ区々たる
家計を事とせんやと」父・北斎と暮らした30年のシミはなかなか落ち
なかった。また落したくもなかったのだろう。

(白井孝義氏は、崎十郎の娘・多知の息子で、北斎からすれば曽孫)
 

真っ直ぐな息吐く海に還るまで  太田のりこ

「応為の行方」
『葛飾北斎伝』には「安政4年の夏、応為は加瀬家を出て、戸塚へ向かっ
たのを最後に、行方知れずになってしまった」とある。
関根只誠『浮世絵百家伝』には「栄女が没年詳ならずといえども、安政
2,3年のころ、加州候寡婦の老衰を憐れみ、扶持せられしが、遂に金沢
に於いて、病に罹り没せしよしにききぬ」とある。
この記録を最後に、以後、応為の行方は分からない。二説を合わせて考え
た時、安政4年の夏に応為は江戸を出て、戸塚に絵を描きに行き、その後、
それ以前に聞いていた寡婦を扶持した加賀藩主の情報を頼り、そのまま加
州金沢に赴き当地で病没した、ということになる。

別に淋しくないの生き死にはひとり  靏田寿子

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ポリバケツ履いて帰ってきてしまう  森田律子


   東海道名所一覧



鳥の目を持つ北斎が、東海道53次を一望するという鳥観図を描いた。
北斎の北斎らしい一枚である。雪舟の『天橋立図』に対抗して描いた
北斎の負けず嫌いも凄いが、版木に再現した彫り師の技も超人的だ。


七並べから始まったいけずの芽  オカダキキ


「北斎の逸話」 奇人といわれた北斎





   葛飾
北斎伝


明治26年(1893)に飯島虚心が著した『葛飾北斎伝』という本を
編むにあたって、凡例のなかで次のように述べている。
嘉永2年(1849)北斎が没して、43年の月日が流れている。
「まず遺族を尋ねようとしたが、所在が明らかでなく、菩提寺の誓教寺
を訪れ寺僧に問うが、すでに子孫は絶えたことを聞く。次に、直接北斎
と面談のあった古老を捜すが、存命するのは、戯作者の四方梅彦(柳亭
種彦門人)と門人の露木為一の二人で、他はニ三度面談したことがあっ
たという考証家の関根只誠(しせい)と戸崎某(本所石原で菓子商を営
む狂歌子・文志)の四名から、多くの情報を得た」としている。そして
「かつて北斎の版本を出版したことのある版元を尋ねるものの、すでに
閉店した店も多く、調査できたのは三店だけであったが、書簡数通と遺
事のいくつかを知り得た」とある。


アドリブを拾って歩く散歩道  みつ木もも花



 これら東京での調査の他に、「天保年間(1830-1844)に一時潜居したと
される相州浦賀を訪れ、また名古屋の永楽屋東四郎の店と、文化14年
の同地で描いた120畳大の「大達磨の図」の所在をも調べた」引用し
た文献としては13種類の書名と美術誌の一誌を提げ、これらによって
纏めたことを明記した。ただ虚心自身が凡例で述べているように、内容
の多くは北斎と面談したことのある人たちからの聞き取りを行ったまま、
弁証することなく、紹介するに止まっていることに信憑性を欠く憾みが
ある。だが北斎像の大半は、この一書に収録されている動静や人間性に
よるところが極めて大きく、今日でも広く一般にイメージされている北
斎像は、この『葛飾北斎伝』が出発点なのである。


哲学の道の途中で足す小用  藤井孝作



自らを画狂とした自画像



この北斎伝には、史学者で貴族院勅選議員でもあった、重野安繹(やす
つぐ)が序文を寄せて、冒頭から「画工北斎奇人也」と北斎は「奇人」
であると断じている。何をもって奇人としているのかは、やはり虚心の
聞き取りによる話の内容が大きく原因しているのだろう。例えば、度重
なる転居、乱雑な環境での生活、日常の振舞と風貌などがあげられる。
それを虚心がどのように描いているのか。
「性転居お癖あり、広益諸家人名録に、住所不定とす、生涯の転居93
回、甚だしきは一日三所に転せしときありとそ」
「又懶惰(らいだ)にして居室を掃除せず、常に弊衣を着し、竹の皮や
炭俵など左右に取り散らかして、汚穢(おあい)が極まれば、即居を転
して他に移る、という……」


身のほどを知っているから迷わない  橋倉久美子


「まずは四方梅彦氏からの聞き取り」



四方梅彦氏が言うには、北斎は転居の癖があった。私はかつて北斎の
引っ越し癖の疑問に対して、言った。引っ越し三百といって諺があって、
先生のように度重なる引っ越しでは、たとえ富裕であっても、終には費
用に追われて、生活に困ることとなってしまうでしょう。部屋の汚穢を
嫌って引っ越そうと思うのであれば、人を雇って掃除させれば良いので
はないか」と言った。北斎は、微笑んで、「幕府の寺町百庵という人が
あって、この人は生涯に百回引っ越すと目標をたてて百庵と号し、いま
九十数回の引っ越しをして、そのうえで死に場所(最後の居宅)を占っ
て定める」と言った。


ぴったりの甲羅磨いているところ  津田照子


 
転居先で息つくカッパ




嘉永元年、北斎は本所から浅草聖天町の遍照院境内に転居。
「梅彦氏が言うには、北斎が遍照院境内の長屋へ移転して来た時に、一
首の狂歌を詠んで贈ったところ、北斎は大いに喜んだ。その狂歌は「百
越もおろか千里の馬道へ まんねんちかくきたの翁は」というものであ
った。北斎は生涯葛飾の里に居住して死ぬのだと言っていたが、浅草に
来た翌年、終にこの地で死去した。
案ずるに、この狂歌の大意は「北斎の転居の癖は諫めても、無駄なので、
百回でも二百回でも壮健なうちは行うべきだ。命あってこそあってこそ
転居も可能なのだから、という意味を含めて、北斎の年齢もまた百歳を
超えて欲しいと、祝ったものである」


紙オムツついに汚さず逝った父  渋谷さくら


北斎が転居を繰り返していたことは、一時親交のあった曲亭馬琴「居
を転すると、名をかゆることは、このをとこほどほどしば々なるはなし」
(『曲亭来簡集』)としていることからも、虚心の聞き書きも、北斎と
直接交わりのあった四方梅彦らからの話が大半を占めているので、信憑
性は十分ある。だが、文中の「生涯の転居93回、甚だしきは一日三所
に転せしことありとそ、の部分は、?である」93回というのは、何処
から出た数なのか、北斎が四方種彦に語ったというように、90余の転
居を行なったというのであればまだしも、93回という具体的な数には
疑問を投げかけざるを得ない。


転居通知届く日記の真ん中に  新川弘子


「転居癖に続き、乱雑な生活について」





 北斎下仮宅の図
北斎の弟子・露木為一が描いた84歳の北斎と娘・お栄の住んだ仮宅。
2人は、本所亀沢町榿馬場(はんのきばば)という場所に住んでいたと
され、今もある「稲荷神社」の横に長屋らしきものがあったとされる。




関根只誠が、嘗て浅草なる翁の居を訪いし時、「翁は破れたる衣を着て、
机に向い、その横に、食物を包みし竹の皮など、散りちらしありて、そ
の不潔なりしが、娘・阿栄(おえい)も、その塵埃の中に座して描き居
たりし。そのころ翁歳八十九、頭髪白くして、面貌痩せたりと雖(いえ
ど)、気力青年の如く、百歳の余も生きぬべしとおもひしが、俄然九十
にして死せり、惜しむべし」と同氏の話なり。また「翁の面貌は、痩せ
て鼻目常人と異ならざれども、ただ耳は巨大なり」いう。


ちはやぶる神はとっくに転勤す  田口和代


 
 北斎の上の貼り紙には



画帖扇面之儀は堅く御断申候
三浦八右衛門
      娘 ゑい
             為一 国保




過日、露木為一氏は、北斎が本所亀沢町榿婆に住んでいた時の有様を描
いて、私に贈ってくれた。この図中で、炬燵を背にして布団を肩にかけ
筆を執っているのが北斎で、その傍らに座り作画の様子を見ているのが、
お栄である。室内の様子はいづれも荒れ果てて、北斎の傍らの杉戸には
「画帖、扇面之儀ハ、堅く御断申候、三浦屋八右衛門」と書いた紙が貼
ってある。又、お栄の傍らの柱には、蜜柑箱を釘づけにして中に日蓮の
像を安置している。火鉢の傍らには、佐倉炭の俵や土産物の桜餅が入っ
ていた籠、鮓を包んでいた竹の皮などが取り散らかされ、物置や掃溜め
などと同様な状況である。
按ずるに、北斎翁仏法を信じ、日蓮宗に入り、深く日蓮を尊敬せしもの
と思われる。


玄関に倒したままの竹箒  森田律子


四方梅彦氏が言うのには、「北斎は礼儀や減り下ることを好まず、性
格はとても淡泊で、知人に会っても頭を下げることはなく、ただ「今
日は」というか「イヤ」と言うだけで、四季の暑さや寒さや、体調の
具合など長々と喋ることはなかった。また、買ってきた食べ物や、人
から贈られた食べ物も器に移さず、包みの竹の皮や重箱であっても、
構うことなく自分の前に置き、箸も使わないで、直に手で掴んで喰い
食べ尽くすと、重箱や竹の皮はそのままに捨て置いていた」 という。


「ふ~ん」「へぇ~」午後のカップの聞き上手 百々寿子


清水氏曰く、戸崎氏誉翁を訪いし時「翁机によりも筆をもて、室の一隅
を指し、娘阿栄を呼びて曰く、「昨夕まで此に蛛(くも)網のかかりて
ありしが、如何にして失せたりけん、爾(そう)ならずや阿栄首を傾
げ、すかしみて、大に怪しみ居たり。戸崎氏出でて人に語りて曰く「北
斎および阿栄の懶惰(らんだ・なまけおこたること)にして、不潔なる
ことは、此の一事にても知るべし」。

戸崎氏曰く北斎翁、本所石原片町に住せし時は、煮売酒店の隣家にて、
三食の供膳は、皆この酒店より運びたり。故に家には、一の飯器なし。
唯土瓶、茶碗二三個あるのみ。客来れば、隣の小奴を呼び、土瓶を出し、
茶をといい、茶を入れさせて、客に勧めたり」と。


ひと巡りして真実になる噂  橋倉久美子


露木氏曰く、「翁誉自ら謂て言うには『余は枇杷葉湯に反し、九月下旬
より四月上旬までは、炬燵を離るることなしと。されば如何なる人に面
会すとも、誉炬燵を離るることなし。画くにもまた此のごとし。倦む時
は、傍らの枕を取りて睡る。睡りさむれば、又筆を採りて画く。夜着の
袖は、無益なりとて、つけざしし。昼夜かくの如く、炬燵を離れざれば、
炭火にては、逆上(のぼ)すとて、常に炭団を用いたり。故に布団には、
虱の生ずること夥し』と。


電気椅子大塚家具に誂える  雨森茂樹


 
 北斎獅子の絵


北斎翁、本所榿馬場(はんのきばば)に住せし頃、毎朝小さき紙に獅子
を画き、まろめて家の外に捨てたり。或人、偶(たまたま)拾い取りて
披(ひら)きみれば、獅子の画にして、行筆軽快、尋常にあらず。より
て翁に就き賛を請う。翁即ち筆を採りて、
「年の暮さてもいそがし、さはがしし」
或人更に翁に問う。
「何の故に毎朝獅子を画きて捨て給うや」
翁の曰く、
「これ我が孫なる悪魔を払う禁呪なり」
杉田玄端氏の話なるよし。乙骨氏いへり。奇といふべし。画工・翆軒
竹葉、誉この獅子の画、数十葉を蔵せしが、日課に画きたるものなれば、
一葉ごとに月日をしるしてあり。紙は、皆半紙なりとぞ。又按ずるに、
書中一行禅師、一生キンメイ録とあれど、キンメイ録といふ書なし。蓋
(けだし)看命一掌金なるべし、禅師は唐の人なり


自由律であるはずなのに見る 埃  小林満寿夫



絵の分解—北斎の様子を書いた北斎の上の文を読み解くー



 <卍翁が人に語るには、我は枇杷葉湯に反し、九月下旬より四月上旬ま
では、炬燵を離るることなしと。されば、如何なる人に面会すとも、誉
炬燵を離るることなし。画くにもまた此のごとし。倦む時は、傍らの枕
を取りて睡る。睡りさむれば、又筆を採りて画く。夜着の袖は、無益な
りとて、不付(つけない)よし。>









その左、一段下がって
 本所亀岡町はんの木馬場假宅(仮宅)の躰老人長く住居…
ゑかく
    御物語 御目通し…
 昼夜如斯なる故炭にてハ、逆上なす故炭団を用ゆ
然るゆへ虱の湧ことたとゆるに物なし









左下、お栄の上の文
娘 ゑ以
角一畳分 板敷分、佐倉炭俵土産物の桜餅の籠 
鮓の竹の皮 物置ト掃溜と兼帯之
お栄ー左横の箱の上
蜜柑箱に高(く)祀像ヲ安置す
 

山惑へ笑いとばして阿弥陀像  小嶋くまひこ 

拍手[3回]

国宝級の男は梅干が好き  福尾圭司




   
「北斎と娘・お栄(応為)の似顔絵と手紙」



目は小さく、鼻が大きく、もじゃもじゃの白髪――。
お栄の額の点は、ほくろではなくゴミがついている――。
その容姿が様々に描かれている江戸の浮世絵師、葛飾北斎が晩年、
自分と娘お栄の肖像を描き、風貌の特徴までつづっていた手紙を、
東京都内の収集家が所蔵していることがわかった。


心太天声人語ゴビ砂漠  いなだ豆乃助




 北斎が描いていた自分の横顔(記事)


 手紙は当時、亀沢町(東京都墨田区)に住んで三浦屋八右衛門と名乗っ
ていた北斎、「何屋何兵衛」にあてた画料の受取状。
 「一 金何両ト何拾何匁石は画料として慥(たしか)ニ拝納仕候為念 
かくのごとく御座侯以上」と認(したた)めている。
(お金の額や相手の名を特定しないまま出している受取状で、これから
お金を取りに行くという内容などから、北斎は絵を描かずにお金を無心
した可能性もあるとみられている)
 その手紙の最後に、自分の横顛と、娘お栄の正面からの肖像を描き、
「眼の小キ 鼻之大キ成 白髪のモジャ/\と致侯 親父か 腮(あご)の
四角ナ女」と二人の特徴を述べて、どちらかがお金を取りにいく、など
と結んでいる。


曇り空いつまで昨日引っ張るの  みつ木もも花


手紙は、長野小布施で見つかったことが研究者の間で知られていたが、
現物は行方知れずになっていた。業者を通じて数年前に、東京都内の
収集家の手に収まったという。似顔絵は、画料を受け取りに行く人物
が相手にわかるように、と送った手紙で、ちゃめっ気もうかがえる。
北斎研究家の伊藤めぐみさんは「『面長で厳しい顔つき』という従来
のイメージを覆すもので、好々爺然としたイメージで描かれている」
と話している。

まんまるい顔はリスクになりたがる  岩田多佳子



北斎はどんな顔の新聞記事



「北斎の顔」

 北斎の肖像は、これまで、ほお骨が張った長い顔に、切れ長の厳しい目
というイメージが一般的に定着している。これは北斎の死の44年後に、
浮世絵研究家・飯島虚心が出版した日本初の北斎研究書『葛飾北斎伝』
に載ったものがもとになっている。その三年後にフランスで出版された
「北斎」にも転載されたため海外にも広まった。
さらに、この肖像画とそっくりの「北斎像」が浮世絵商の小林文七の手
で、版画にされたことで、広く知られるようになった。


あざ笑うなかれ只の凹凸なんやから 山口ろっぱ


 しかし、この肖像画については、飯島が出版元の意向で使わざるを得な
かったとして「このごとき怪しき肖像を出せるは、これ世人を欺くに似
たり、また北斎翁をあなどるに似たり」と悔やんでいたことも明らかに
なった、という。
 墨田区北斎館開館準備担当でもある伊藤さんは「いわれがはっきりしな
いこれまでの肖像とは違って、最も本人に近い肖像画の一つといえる。
北斎は自ら特徴とした大きな鼻が目立つように横顔を描いたのだろうが、
現存している中では唯一のものだ」と話している 。


鰯雲の解体現場に立ち会った  江口ちかる


「北斎はどんな顔」


 
「葛飾北斎伝」の扉絵になって広まった肖像




江戸後期の浮世絵師葛飾北斎「どんな顔」をしていたのだろう。明治
時代の研究書に載った肖像をもとにした「面長で厳しい顔つき」との通
説に対し、この肖像は北斎ではなかった、という疑いが出てきた。
研究書の著者は、「この肖像を載せれば、本の信用までなくなる」と拒
んだが「版元の意向で載せざるを得なかった」と告白していた……。
こんな資料を東京の墨田区北斎館開設準備担当の伊藤めぐみ学芸員が掘
り起こし、研究誌『北斎研究16号』(東洋書院)に紹介している。


後ろめたい昨日の雑巾が乾く  山本早苗



明治三十三年八月 東京 小林文七蔵版とある北斎




新聞記事転載で内容は多少ダブっています。
一般的に知られている北斎の肖像は、ほほ骨が張った長い顔で、切れ長
の厳しい目が特徴。北斎が死んで44年後の明治26年(1893)浮
世絵研究家の飯島虚心がまとめた日本ではじめての北斎研究所『葛飾北
斎伝』(
蓮枢閣)に載った3年後、フランス人のコンクールが出版した
「北斎」にも転載され、世界に広まった。虚心の『北斎伝』出版から7
年後、この肖像は東京・上野で開かれた北斎展に出品された。
ところが虚心は別人を装って「局外閑人」のペンネームで、読売新聞の
批評欄に次のような批判記事を載せた。


痛いから影を踏んではいけません  宮井元伸





小林文七載版の肖像
(北斎のそっくりさん)

この如き怪しき肖像を出せるは、これ世人を欺くに似たり、また北斎翁
を侮るに似たり」…「斃死してわずかに40余年の今日、その顔を知れる
人々もなお現存すれば、これを掲ぐるははなはだ快からず」さらに虚心は
「事実の精確を主として著せるこの書も、それがためにあるいは信を失う
に至らんとて、強く拒みたれども、聴かず、ついに巻頭に掲ぐることとな
りたるなり、遺憾の至りというべし」と告白している。
出版元の浅草の浮世絵商・小林文七の意向で、肖像を載せざるを得なかっ
たのを悔やんでいた、とみられる。
(この肖像の原画は現存しておらず、由来もはっきりしない。だが文七は
北斎展の年、この肖像と瓜二つ「北斎翁」を刷り物にした。)


双子ですかいいえ従兄妹のつもりです  酒井かがり


虚心の没後「局外閑人」虚心本人だったことが公になった。だが北斎
に関するこれまでの研究で、先の新聞記事についてはほとんど触れられ
ていない。伊藤学芸員はこの記事に基づいて「虚心が『北斎伝』の肖像
の件で悔やんでいる気持ちが痛いほど伝わってくる。文七が虚心を利用
した可能性も高い」
と分析している。


無垢の木に指紋が二つ残っている  河村啓子



『煙管を吸う漁師図』

天保6年(1835)自画讃。自画像との説がある。


この夏、長野県松本市の日本浮世絵博物館・酒井信夫理事長は、北斎
娘・お栄が詠んだと思われる狂句の入った版画を「北斎の自画像の可能
性がある」
と公表した。
丸顔に、ちょっと下がり気味のまゆ毛。釣り竿を抱え、キセルを咥えて
一服する姿。自分で絵を描き画中の詩文を意味する賛(さん)も入れた。
とする「自画讃」の文字がある。酒井理事長は「狂句の内容から、北斎
がお栄の嫁入りを記念して知人らに配った版画で、賛をした北斎かお栄
のどちらかが描いた絵と見るのが自然だ。図柄は、自分を漁師にみたて
たのだろう」
という。



 
水彩画の海でひとでになるつもり  月波余生







だが東京都渋谷区にある太田記念美術館の副館長で、北斎研究家の永田
生慈
氏は「自画讃で自分の姿を描いたとはいえない。北斎は酒も飲まず、
たばこも喫わなかったと『北斎伝』に記されている。この絵を自画像に
結び付ける根拠はなにもない」と否定する。


途中からSの話になっている  森田律子




 八十三歳自画像





ちゃんちゃんこを着て座っている。少し笑い加減で一見優しそうな目だ。
「八十三歳」と書かれている。これは天保13年(1842)北斎41,
2歳ころの作品への質問に対する返信状に描かれたもの。右には直筆で
「みしゆく(未熟)の業、御容捨之上御一笑」とあり、当時の自分の作
品を未熟と評している。が、最も写実的といわれ、晩年の風貌をよく伝
えている。北斎『富嶽百景』初篇の跋文でも「70歳以前に描いた作
品はとるに足らない」
と書いており「80歳でますます上達し、さらに
百歳にもなれば、ようやく一点一格が生きているように描けるだろう」
と信じていた。(北斎の自画像はいくつか残されているが、本図が北斎
の顔に最も近いものではないかと言われている。)


すっかりじいちゃん籐椅子は飴色  下谷憲子



渓斎英泉が描いた北斎の肖像
為一翁」




幕末期の浮世絵師で北斎と親交が深かったとされる渓斎英泉も、北斎の
肖像を描いた
『 戯作者考補遺』(
木村黙老著)の渓斎英泉の描く「為一翁」だ。
羽織姿で上品な雰囲気。目は切れ長だ。北斎を知る絵師の手になるもの
だけに、研究者の間では、最も写実的だとの見方もある。
「北斎伝」には、北斎の容貌についてこんな説明がある。「やせており
日常人と異ならざれといえども、ただ耳は、巨大なり」


ほどほどの悩みもあってみぞれ和え  山本昌乃




北斎が80歳になった自分の姿を描いた自画像


「これが北齋(この時点では爲一)の自画像である」
1991秋田市立先週美術館、岐阜市歴史博物館、松本市日本浮世絵博物館
で展示を行い、図録に解説を書いている。飯島虚心は、葛飾北齋傳巻頭
の妙な杖の老人を北齋ではないと後年に苦情を呈している。版元の小林
文七は、何とか北齋の肖像を巻頭に出したかったので、妙な杖突き老人
の画像を掲載した。しかし無款であり、北齋ではない。


玄関にまずは遠慮を脱ぎ捨てて  吉川幸子



時太郎可候名の自画像




まだ北斎を名乗っていない北斎が、蔦重の奉公人であり、やはり馬琴
名乗っていない馬琴を先生と呼んで、拙作を読んで、教授してほしいと
書いた戯作『竈将軍勘略巻』「舌代」と自画像。竈将軍勘略巻を刊行
したのは、北斎41歳のころで、とてもその年齢には見えず、すっかり
お爺さん顔である。


真ん前に鏡が置いてあるいけず  北原照子


「画中の文章」
「舌代 不調法なる戯作 仕差上申候(げさく つかまつりさしあげもうし
そうろう)。是ニ而(にて)御聞(おあい=お相手)ニ合候はゞ、何卒
御覧の上、御出板可被下(くださるべく)候。初而之儀(はじめてのぎ)
に御座候得は、あしき所ハ、曲亭馬琴先生へ御直し被下候様、此段よ路
(ろ)しく奉願(ねがいたてまつり)候。又々、當年評判すこしもよ路
しく御座候へは、来春より出精仕(しゅっせいつかまつり)、御覧に入
れ可申(もうすべく)候。右申上度(もうしあげたく)、早々不具(急
ぎ書き、気持ちを充分に言い表わせていませんが)
                十月十日 蔦屋重三郎様(二代目) 


木に登ると花を咲かせてみたくなる  神野節子


小林文七のこと
浮世絵の蒐集家で浅草・駒形で画商を営むかたわら、上野で浮世絵の展
覧会を開いたり(日本初の浮世絵展・明治25年11月)蓬枢閣という
出版社を作って美術書を出版したり(飯島虚心著「葛飾北斎伝」「フェ
ロサの大著」
など)、芸術家や作家のパトロンになったり、明治の美術
界をリードした民間の大プロデューサー。浮世絵を含め収集した美術品
を海外に売ったりもした。特にフェノロサには、ギブ・アンド・テイク
で多くの美術品を献呈したという。


身のほどを知れと叫んでいるムンク  井本健治

拍手[3回]

内ポケットにチャンチキおけさ一くさり 酒井かがり


「名将四天鑑 織田春永公」若虎
小田春永公 辰川左近将 真柴久吉 武智光秀 柴田辰家
(織田信長 滝川一益 羽柴秀吉 明智光秀 柴田勝家)

 

『絶対は、絶対にない!』
元亀元年(1570年)の越前出兵(金ヶ崎の戦い)で、義弟の浅井長政が
背いたとの情報が入ったとき、信長は最初は信じなかった。
しかし、次々に同様の報告が入ったため、即座に退却を決意して金ヶ崎
城に秀吉、光秀ら殿軍を置き、退却したという。(『信長公記』)

右の手はずっと男の貌である  居谷真理子

「麒麟がくる」 光秀ー信長の家臣に


足利義昭「永禄の変」の直後
三好三人衆から逃げる、義昭を救出する家臣・和田惟政


永禄8年(1565)「永禄の変」で13代将軍・足利義輝が暗殺され、
一条院門跡となっていた弟・覚慶(義昭)の身にも危険が迫る。そこで
義昭は細川藤孝らの幕臣の助けを得て近江・若狭を転々とした後、朝倉
義景を頼って越前に入る。当時、朝倉家に出入りしていた光秀は、藤孝
に接近し信長と義昭の橋渡し役を務めたという。(『細川家記』)それ
によると光秀は、藤孝に対し、「朝倉を頼っていたのでは、義昭を京に
帰す大功は立てられない。信長は当代の勇将で頼むべき人物である」、
と説き、岐阜に使者を送るように勧めた。後日、義昭の依頼を受けた光
秀が、自ら使者となって岐阜へ赴き、義昭の帰洛を助けるよう信長に説
いた。光秀は優柔不断な義景を見限り、信長の非凡な能力と将軍候補と
しての義昭の将来性にかけたのである。

福音を聞くまで耳の土用干し  中野六助

一方、義輝を討った三好三人衆ではあったが、松永久秀との主導権争い
に没頭するあまり、義昭を奉じる織田信長の上洛軍を阻めず、野望虚し
く京から退却。そして同11年7月、義昭は岐阜城に入り、10月には、
信長とともに上洛を果し、室町幕府15代・将軍に任じられた。
(その月の18日に三人衆が推戴する14代将軍・足利義栄[義昭の従
弟]を信長によって廃され、将軍の座を義昭に奪われる)。
この頃の光秀は、信長の家臣でありながら義昭にも近侍する立場にいた
とされる。信長の家臣として京の行政に携わる一方、義昭からも知行を
与えられ、その下知を武将に伝えるなど、将軍の近習的役割を果たして
いる。信長と義昭の2人の主君をもつところに、他の織田家臣と異なる
光秀の特殊な立場があった。

ポーカーフェイス吊り橋渡り切るまでは  郷田みや


   村井貞勝



翌年、光秀は京都支配の担当者任命され、信長の家臣とともに、文書の
発給を開始する。信長側の担当者は村井貞勝・木下秀吉・丹羽長秀・中
川重政らで、光秀は彼らと協力しながら、信長から支えられた義昭の政
権を支えていくことになる。
当時の義昭・信長にとって解決すべき課題は、若狭国の守護・武田氏
内紛であった。武田氏は相次ぐ内部対立で力を失い、隣国の越前から介
入した朝倉氏を頼る者と、義昭・信長を頼る者の間で、重臣が紛争を起
こしていた。光秀は義昭・信長の命令を受けて、味方についた武田氏の
「36人衆」に対し、武田元明への忠節を誓うよう指示を出しているが、
信長と義景の対立は、決定的な状況になっていく。

月を描くつもりの線が歪みだす  吉川幸子

そこで、信長は越前の朝倉氏を討伐するため、元亀元年(1570)4
月に敦賀へ侵攻したが、信長と姻戚関係にあった近江国小谷城の浅井
が朝倉方についたことを知ると、琵琶湖の西岸から京都へ退却した。
「絶対に絶対はない」の言葉が生まれた信頼関係崩壊の出来事だった。
このとき光秀秀吉とともに、最後尾で敵の攻撃を防ぐ殿を務め、味方
を無事に退却させている。その後、信長は光秀と長秀を若狭に派遣する。
光秀は5月に義昭の側近だった曽我助乗に出陣を伝え、業務の引継ぎを
行なった、光秀と長秀は若狭で朝倉方の武藤友益から人質を取り、城館
を破壊して引き上げたとされる。

すってんころりほんとの顔で立ち上がる  星井五郎



長島一向一揆『太平記長嶋合戦』(歌川芳員 )
 伊勢長島一帯の本願寺門徒と織田信長軍との間に起こった戦。


さらに、義昭信長を取り巻く状況は厳しさを増していく。元亀元年の
8月から9月にかけて、三好三人衆や大坂の本願寺が相次いで蜂起し、
浅井・朝倉両氏は比叡山と手を結んで・近江国宇佐山城に攻め寄せた。
この城は信長の本拠地であった美濃と京都を結ぶ重要な拠点で、織田家
臣の森可成が配置されていたが、可成は9月に坂本で戦死してしまう。
これに対し、信長は坂本に陣を構え、光秀は比叡山を牽制するため勝軍
山城に入った。その後は両軍の睨み合いが続いたが、12月に義昭と朝
廷の仲裁が入り、信長と浅井・朝倉の両氏は、和睦している。光秀は戦
死した森可成の後任として宇佐山城に移り、引き続き浅井・朝倉両氏と
比叡山の監視役を担うことになった。

打ち水で地球を少し湿らせる  橋倉久美子

だが翌年の元亀2年8月には信長浅井・朝倉両氏の対立が再び起こり、
信長が近江に出陣する事態となる。そして9月12日には、織田軍によ
「比叡山焼き討ち」が実行された。信長は比叡山に対し「浅井・朝倉
軍を追い出して、こちらの味方につくか、中立の立場をとれば、攻撃し
ない」と通告していたが、比叡山は浅井・朝倉軍を山中に匿ったため、
これを敵対行為と判断した信長は、ついに比叡山への攻撃命令を下した。
この下りは『明智光秀』(桑田忠親著)が次のように記‎されている。

おろし金右手で持った十三夜  河村啓子


大田上総介春永公

 8月に入って信長はまた、江北の小谷山を攻めたが、9月12日、
突如として比叡山に侵攻し、延暦寺の根本中堂をはじめ、山王21社、
東塔の坊舎をことごとく焼き払い、老若の僧徒千数百人を殺戮した。
前年度の僧兵の反抗に報い、その跋扈を膺懲(ようちょう[征伐してこ
らしめること])したのである。伝教大師このかた、殺生禁断・国家鎮
護の霊場にたいして、このような暴挙に出たことは、前代未聞の不祥事
といえた。しかし、かの白河法皇でさえも―加茂川の水と山法師と双
の賽の目は、意のままにならぬ―と、嘆かれたが、信長は、その山門

荒法師どもの度肝をぬいたのであった。この風聞に接して五畿内諸寺

の坊主どもは、我ことばかりに、震え上がった。と同時に、信長のこと

を仏敵として憎悪するのであった。
(後年、信長が本能寺で横死をとげたとき、比叡満山の僧侶は―仏罰覿
面―と叫んで、哄笑したといわれる)

すぐ破るルールでセロテープだらけ  山本早苗

「比叡山焼き討ち」は、信長の残虐性を示す事件として知られているが、
光秀はそれに反対する立場を取っていたというのが一般的な見方だった。
だが最近の研究で、事実はまったく異なっていたことが明らかになった。
光秀のイメージは「保守的」「常識人」といった面が強く、「革新的」
「非常識」信長に振り回された、という印象がある。


しかし新史料によって光秀は、目の前の状況に対して冷酷な態度をとり、
自分の役割をはたそうとしていたことが、分かる。それがこれ、宇佐山
城で比叡山と対峙していた光秀は、近江国雄琴の和田氏など近隣の有力
者を味方につける画策を行っていた。和田氏に対し光秀は「敵方の村を
撫で切り(皆殺し)にしてしまえば、我々の思い通りになるでしょう」
という内容の書状を送り、また、信長に敵対する志村城などを織田軍が
攻撃した際の状況として「信長様が干し殺しをなされた」と書き送って
いる。

草間彌生で隠す心の破れ  合田瑠美子


  比叡山焼き討ち




9月12日に攻撃を開始し、聖俗あわせ「数千の死体」をあたりかまわ
ず散乱させたまま、(おそらく)「あとの始末は、光秀、おまえにまか
せる」といって信長は9月20日に岐阜に戻ってしまう。
そのときから光秀の苦悩が始まる。与えられた滋賀郡はもともと延暦寺
の寺領だったのであるから、厄介事のすべてを引き受けねばならない。
(多分)そういう思いを抱きながら、比叡山の登り口の坂本に城を築き
始めるのであった。比叡山の焼討を実行した信長は近江国滋賀郡を光秀
に与え、比叡山領の管理を任せてた。この頃の光秀は義昭に仕える立場
だったが、近江での戦いにおける光秀の功績を、信長は高く評価したの
である。

寒空に探すハートの置き所  和田洋子

元亀2年(1571)9月、光秀は、信長から近江国滋賀郡を与えられ、
比叡山領の管理を任されることになった。さらに足利義昭信長の家臣
とともに、京都の支配を担当する任務も引き続いて担っている。光秀の
主な仕事は、京都の治安維持や地子銭(税金)の徴収、朝廷や公家の領
地に関する訴訟などであり、義昭と信長の下で「天下静謐」を担う重要
な役割を任された。だが光秀は、比叡山、朝廷・公家の権益を自分のも
のとし、しばしばトラブルに見舞われていた。本来、公家や寺社の紛争
を解決するのは将軍の役割であったため、朝廷は義昭に苦情を申し入れ、
義昭も光秀の行動を問題視した。

なりゆきにまかせ流れる雲を追う  靏田寿子

このような状況に嫌気がさした光秀は、義昭の側近だった曽我助乗
お暇をいただいて出家したいので、義昭様の許可をいただけるよう取り
なしてください」と伝え、義元の元を去りたいと願い出ている。京都や
その周辺で起こる問題を解決する役割を担っているはずの光秀が、この
ときは逆にトラブルメーカーとなってしまっていたのである。
その一方で、光秀は信長の命令を受けて近江を転戦し、朝倉・浅井両氏
の軍勢と戦い、坂本に新たな城を築くと光秀は、周辺の諸勢力を味方に
つけ、信長から篤い信頼を得るようになっていった。

褒め言葉鵜呑みしてから胃痙攣  上田 仁

 
 三好長慶
「天下人」というと織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を思浮かべるが彼ら
の前に、天下統一を成し遂げた武将がいた。三好長慶である。
 
 
「三好長慶」
 長慶は11歳で元服し三好家当主となる。細川晴元三好元長を殺害
するために借りた一向一揆の勢力は、やがて晴元では抑えられなくなり
「享禄・天文の乱」と発展。 それを長慶こと12歳に過ぎない千熊丸
15歳まで幼名・千熊丸で呼ばれていた―が、一向一揆と晴元の和睦を
斡旋した話が残る。17歳で本格的に活動を開始し、たびたびの存続の
危機も驚きの手段で乗り越え、のち天下を制する下地も築いていく。

私の位置外れぬように線を引く  津田照子

まず天文18(1549)年、27歳で、父の敵である晴元軍を敗り畿
内を拠点とすることを決め、細川管領家に取って代わった。(江口の戦)
そこから長慶は、長弟の三好実休に本国阿波を任せ、次弟の安宅冬康
淡路水軍を、三弟の十河一存(そごうかずまさ)に讃岐の国衆を継承さ
せると、自らは摂津に居城を移し、松永久秀ら畿内の土豪を新たに登用
し、臥薪嘗胆の日々を過ごした。そして紀伊の根来寺や大和の筒井順昭
を従える河内の遊佐長矩(ゆさながのり)の養女を室に迎えて、同盟を
結ぶ。「江口の戦い」で晴元を敗り管領家の名乗りは、晴元を支援する
将軍・足利義晴・義輝親子や晴元の義父である六角定頼との戦いの始ま
りであった。

誤字脱字生きる形は問われない  佐藤正昭

長慶は当初、義輝と和睦し幕府再興を意図していたが、度重なる義輝の
破約に怒り、天文22年に京都から追放した。当時は形だけでも、足利
将軍家や古河公方家の者を擁するのが常識で、大内義興北条氏康、上
杉謙信もそうしていた。しかし、長慶は戦国時代で初めて、将軍家の者
を誰も擁立せず「京都ご静謐」を実現したのである。ただ大きく揺らい
だ幕府を支えたのは、上杉謙信や一色義龍、織田信長など下克上で国主
になった大名であった。彼らは幕府が滅亡し、社会が不安定化すること
よりも、将軍の公認による安定を求めていた。このため、長慶は義輝と
和睦するが、細川・畠山両管領家の領国を併呑する。また、北条氏康や
毛利元就と同格の御相伴衆の格式だけでなく、天皇家に由緒をもつ桐御
紋を免許されるなど、足利将軍並の家格を得ると、義輝の娘を人質とし、
天皇に改元を執奏するという将軍の権限を行使した。

ご破算ということですよリセットは  中村秀夫


  松永久秀




このように将軍を克服しようとする長慶を支えたのが松永久秀であった。
久秀は寺社や大名との交渉に力を発揮し、のちには大和の支配を任された。
長慶は、久秀が譜代家臣ではないにもかかわらず、自らと同じ従四位下の
官位に就き桐御紋の免許も認めた。外様や低い身分の者を登用する際には、
武田信玄真田昌幸に武藤姓を、上杉景勝樋口兼続に直江姓をと、主家
の一族や重臣の名跡を継がせて、家格に配慮するのが常識であったが、長
慶はそうした従来の秩序にとらわれなかった。

ややこしい理論に向かぬ河内弁  岸田万彩

永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟の安宅冬康を居城の飯盛山城に
呼び出して誅殺した。松永久秀の讒言を信じての行為であったとされてい
るが、この頃の長慶は、相次ぐ親族や周囲の人物らの死で、心身が異常を
来たして病になり、思慮を失っていた。冬康を殺害した後に久秀の讒言を
知って後悔し、病がさらに重くなってしまったという(『足利季世記』)。
このため6月22日には、嗣子となった義継が家督相続のために上洛して
いるが、23日に義輝らへの挨拶が終わるとすぐに飯盛山城に帰っている
事から、長慶の病は、この頃には既に末期的だった。そして、11日後の
7月4日、長慶は飯盛山城で病死した。享年43歳だった。

現実と夢の狭間で聞くピーポー  宇都宮かずこ

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