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川柳的逍遥 人の世の一家言
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兵法にきっとあるはず泣き落とし  ふじのひろし





  尾州桶狭間合戦 
義元に正面対峙する服部小平太、背後から義元にくらいつく毛利新介


主人公の厳しい人間性をプロローグに持ってくるフランス映画のように、
信長の生きる指針を映す幼い頃のエピソードが『名将言行録』にある。
信長が幼名・吉法師のころ、庭先で遊んでいると小蛇が出た。
吉法師がその小蛇を掴んで近臣の者に「このようなことを勇というのか」
と尋ねると、近臣は「小蛇など恐れるに足らぬものです」と答えた。
すると吉法師は「蛇の毒は大小によらぬ。小さいからと恐れぬのなら、
もし主が幼少なら、うぬらはその主をあなどるのか」と吐いたという。
大人である近臣たちは、恐縮し頭をあげれなかった』
この吉法師が語った言葉に繋がる信長の名言があ。
『理想を持ち、信念に生きよ。理想や信念を見失った者は、
戦う前から負けているといえよう。そのような者は廃人と同じだ』


「麒麟がくる」進撃の年信長、躍進の光秀(年譜で綴る)




 
織田信長(染谷将太)


【織田信秀、病死する】 
信長18歳の天文21年(1552)3月、信長の父・信秀病没。
信秀は42歳、まだまだ働き盛りの最後であった。信長公記には、
<備後守殿疫病に御悩みなされ、様々の祈祷、御療治候と雖も、
御平癒なく、終に三月三日、御年四十二と申すに、御遷化>とある。
信秀の後継者問題については、信秀は後継者として信長をと、認めてい
たものの、「信長様の品格は当主としてどうか」と家内の間で紛糾する。
しかし継承順位のしきたりを重視する時代、結局は三男・信長が後継者
となり、四男の弟・信勝が末盛城に入ることになる。
「信長の教育係・平手政秀の死去」
天文22年1月、傅役(おもりやく)の政秀、信長を諌めて自害する
<平手中務丞、上総介信長公実日に御座なき様体をくやみ、守り立て験
なく候へば、存命候ても詮なき事と申し候て、腹を切り、相果て候>

家系図にずらり繋がるろくでなし  新家完司


【斉藤道三、息子・義龍との戦に敗れる】
弘治2年(1556)4月、道三、「長良川の戦い」で敗死する。 
その勢いをもって、同年、義龍は明智城を攻め落城させる。
『明智軍記』によると、城を失った光秀は、逃げるように諸国遍歴の旅
に立ち、永禄5年(1562)に帰還する。
越前の朝倉義景のもとを出発し、そこに戻るとなっている。
そこに 10年程、称念寺門前で暮らす。その10年の間に煕子と結婚、
永禄6年(1563) に 娘の(ガラシャ)が誕生している。


取りあえず地下まで降りるエレベーター  中野六助 





  最後の今川義元



【信長の桶狭間】
永禄3年(1560)5月19日、今川家の総帥・今川義元が「桶狭間
の合戦」で尾張の織田信長に討ち取られる。義元を討ち取った信長は、
その後、清洲から熱田へ通じる街道に”義元塚”というのを築かせ、供養
のために大きな卒塔婆を立てたという。そして信長は戦利品として義元
が所持していた秘蔵の名刀「義元左文字」を愛刀にしたという。
(『信長公記』)
人質だった竹千代(家康)は、解放され三河に戻ると、松平家の総領と
して統治を開始する。その後、信長は家康と同盟を結び、天下布武に向
けて進撃が始まる。信長名言はこの桶狭間を語るように。
『戦に勝るかどうかと兵力は、必ずしも比例しない。比例するかそうで
ないかは戦術、つまり自身にかかっているのだ』


接戦を制して湧いてきた自信  吉岡 民





   永禄の変

三好三人衆らが将軍足利義輝を襲撃し殺害。


【三好義継、三好三人衆、義輝を襲撃」
永禄8年(1565)5月9日、足利義輝暗殺。「永禄の変」である。
ルイス・フロイスの著書・『日本史』によれば、
『三好三人衆の暴挙を警戒し、二条御所の堀や土塁等を堅固にし、事件
の前日には、御所からの非難も考えていた。しかし近臣が「将軍の権威
を失墜させる」と反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行
ったため、義輝も不本意ながら御所に戻った』という。
三人衆の兵力は約1万。義輝側は数百人程度。義輝は剣豪・塚原卜伝
弟子で剣豪であり、また近習たちも猛者揃いであったが、余りにも多い
敵の数には、奮戦むなしく命を散らす結果となってしまった。
弟・義昭にも危険が迫り、細川藤孝ら幕臣とともに、若狭の武田義統
もとに逃れ、永禄9年 に朝倉義景を頼って越前に来る。光秀が細川藤孝
の家臣として義昭の足軽衆になる。事件の翌年永禄10年のことである。


悪事決行白い手袋はめながら  城後朱美





   浅井長政


【信長、岐阜を拠点とする】
永禄10年(1567)戦国時代も半ば、信長は美濃国を手中に収め、
岐阜を拠点とする。岐阜と京の間にあり、強固な基盤を築いていた戦国
大名・浅井長政に対し、信長は妹のお市を嫁がせて同盟を結ぶ。

【光秀、いよいよ歴史の表舞台に登場」
永禄11年、義昭の側近となった光秀は、周辺の些細な出来事まで信長
に報じている。こうした光秀の尽力が功を奏したのか、義昭は、7月に
信長の元に迎えられ、9月には、上洛に向け信長は、義昭を奉じて軍事
行動を開始する。いわゆる、この時期の光秀は、義昭の側近筆頭として
周囲から認知された証しである。


しゃっくりが止まらぬままに幕上がる  指方宏子





   朝倉義景


【信長、上洛】
永禄11年(1568)、室町幕府の再興を唱え、信長義昭を迎えて
上洛。15代将軍の座についた義昭は、恩賞として副将軍の地位を与え
ようとするが、信長は拒否。次第に将軍義昭をないがしろにし、権勢を
振るい始める。京に上った信長は、諸国の武士に、天皇や将軍に挨拶を
するために、京に馳せ参じることを命令するが、越前国を支配する朝倉
義景は信長の命令を無視する。
「上洛のエピソード」
『あるとき、丹波の長谷川城主・内藤備前守の与力である赤沢加賀守が
信長に面会し、熊鷹2羽のうちのいずれか1羽を献上すると申し出た。
すると信長は「お心はありがたいが、いずれ天下を取るであろうから、
それまでそのほうに預けておく。大事に飼ってくれ」と言ったという。
赤沢加賀守は帰って皆にこのことを伝えたところ、「国を隔てた遠国か
らの望みで実現しまい」と大笑いしたという。しかし、それから信長が
足利義昭を奉じて上洛するのに10年もかからなかった』『信長公記』


政論が大好物の天邪鬼  松浦英夫



「麒麟がくる」お妻木役は誰に?



【光秀、信長への仕官】
本来、義昭の側近であるはずの光秀が、信長にも仕えるようになった時
期は、厳密に不明である。事実『信長公記』の永禄11年9月の「義昭
信長の上洛」の箇所に光秀の名は記されていないが『細川家記』の記述
などから上洛の直前に仕えたとみるのが、適切と思われる。
信長への仕官に関連して、細川家の『綿考輯録』(めんこうしゅうろく)
には光秀が細川藤孝に語ったとされる「我ら、彼室家に縁ありて、頻(
しき)りに招かれ」という話が収録されている。
彼は信長、室家は正室濃姫(帰蝶)。通常、濃姫の母である小見の方は、
光秀の叔母とされる。それが事実ならば、信長が正室の血族であり、有
能な光秀のスカウトを試みたとしても不思議はない。
(ただし近年は『多聞院日記』の天正9年(1581)8月21日条な
どを典拠として、光秀の妹・お妻木(ツマキ)が信長の側室だったとみ
る研究者が増えている。あるいは光秀に縁のある「彼室家」とは、濃姫
ではなくツマキのことなのかもしれない)


有情無情流し心に句読点  須磨活恵


「信長に非凡の才能を認められた光秀」
永禄12年春、信長明智光秀、木下秀吉、丹羽長秀、中川重政の4人
に京都や周辺の政務を担当させた。4人による活動で、特筆すべきは、
「違乱停止」を命じている点である。信長は以上の4人とは別の5人
佐久間信盛、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚)とを、交代で政
務を担当させていたことが判明している。いずれにしても、本来は義昭
の側近であり、信長の家臣としてまだ数年の新参者・光秀が信長の重臣
である長秀らと肩を並べて、重要な職務を任されている点は興味深い。
(違乱停止=法に違反し秩序を乱すこと)ここんも信長の名言がある。
『人を用ふる者は、能否を採択すべし、何ぞ新故を論ぜん』

受けて立つ覚悟が出来た武士の顔  槙坂政子




「麒麟がくる」浅井長政役未定


【信長、越前に侵攻】
永禄13年(1570) 4月20日、信長は3万の軍勢を率い越前に
侵攻。先陣を木下秀吉、信長盟友の徳川家康がつとめる。不意を打たれ
朝倉勢は壊滅状態となるが、浅井長政が朝倉方について信長に叛旗を
翻したために、信長の大軍は補給路を断たれて孤立。
「その時、信長の行動」
4月28日、信長は軍勢を残し、戦場から姿を消す。2日後、京の都に
姿を現し、かねてより命じていた御所の修理のようすを視察。その後、
本拠地岐阜へ舞い戻り、長政討伐の大号令を発して軍勢を招集。
「その時、織田軍の行動」
取り残された織田軍に朝倉軍は、逆襲を開始、織田軍の殿(しんがり)
となった木下秀吉、徳川家康、明智光秀の3武将が一致団結、朝倉軍の
追撃をかわして、撤退の道を切り開く。


死に神よなんでおまえがそこに立つ  藤村亜成




 光秀、信長の戦に活躍


【武将としての光秀】
永禄12年(1569)1月4日の「本圀寺の戦」を皮切りに、光秀は
翌元亀元年(1570)4月の「越前征伐」6月の「姉川の戦」9月か
らの「志賀の陣」に従事する。このうち越前征伐では金ヶ崎城に残留し、
秀吉とともに浅井・朝倉方の追撃を撃退した。
『実は『なお、金ヶ崎の退き口(のきぐち)」と呼ばれるこの戦いでは、
秀吉の活躍が強調されることが多いが、これは秀吉の軍功を過剰に強調
するべく、『太閤記』などの著者が光秀の働きを削ったからである。
実際には、光秀も浅井・朝倉方の撃退に軍功を挙げている。さらに若狭
の諸城を無力化させるといった、手際の良い手腕をみせた』


臨時ニュースキャベツの芯がえらいこと  雨森茂樹





  森可成


「その後の光秀」
元亀元年(1570)6月、 姉川の戦いでの勝利も束の間、浅井・朝倉
は9月に森可成が守る宇佐山城へ猛攻を加え、可成を討死に追い込む。
 天王寺方面にいた信長はすぐさま反転して、敵方の京都侵入を防ぐが、
敵方はなおも隙あらば京都へ攻め入る構えをみせた。
そこで信長は、光秀らを山城勝軍山城へ入れて警戒させたが、敵方が撤
退した後、討死した可成にかわる宇佐山城主に光秀を抜擢している。
無論、光秀が抜擢されたのは、4月の越前遠征以来の軍功が評価された
ものである。さらに同2年9月に信長は、悪名高い「叡山焼討」を敢行
するが、焼討後、没収した比叡山、日吉神社の領地を光秀や佐久間信盛
に与えている。そして、信長は防護力に弱い宇佐山城を廃城とした上で
本格的な城郭近江坂本城を構築するように光秀に命じる。
(因みに、森可成は森蘭丸の父である)


ト書きにはここで「クシャミ」と書いてある 
                         嶋沢喜八郎


  五カ条の条書



「五カ条の条書」
義昭が将軍になって2年後の永禄13年4月(元亀に改元)正月23日
の日付で、信長は義昭に1通の条書を出した。
1、「御下知の儀、皆以て御棄破あり」
(これまで義昭が出した命令はすべて破棄すること)
1、「天下の儀、何様にも信長に被任置」
(天下のことは、すべて信長にまかせること)
要するに、義昭の行動を監督下に置こうとしたものである。
1、「諸国へ御内書を以て、仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞かせ
られ、書状を添え申すべきこと」

(諸国への御内書を送る場合は、信長の添状を副えること)
1、「公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞、御褒美を加えられたく候
と雖も、領中等之なきに於いては、信長分領の内を以ても、上意次第に
申し付くべきのこと」

(忠節の者に恩賞を出すにも所領のない場合は、信長が提供する)
1、「天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事」
(禁中のことは、丁重にしなければならない)


瓢箪を磨いていると葉書あり  高野末次


信長義昭の政治行動を制限する「五カ条の条書」を突き付けたとき、
光秀は朝山日乗とともに証人として名を連ねている。
「天下の儀」を信長に任せることを、義昭に誓わせた文書に光秀が署名
したということは、とりもなおさず、光秀が信長の天下取りを支持する
立場を明確にしたことを意味する。
さらに、翌2年末頃と推定される自筆消息で、光秀は義昭に「御暇を賜
りたい」旨を申し出ている。この直前、光秀は信長から近江坂本城主に
任じられており、織田家中でも、別格の扱いを受け始めていた。
ここに至って光秀は、将来性の乏しい義昭と訣別し、信長の将来にかけ
ることを決意したと思われる。


語尾に付く笑いはきっと護身術  下谷憲子





   足利義昭


「義昭のあがき」
元亀3年(1572)4月の河内出兵の際の軍事編制では、信長方の
久間信盛・柴田勝家らと別に、光秀の名が「公方衆」としてあげられて
いる。信長義昭の2人の主君を持つところに、他の織田家臣とは異な
る光秀の特殊な立場があった。
元亀4年2月、義昭は陰に陽に、信長に敵対するようになり、義昭が挙
兵すると光秀は、公方衆の拠る近江石山城・今堅田城を攻撃して、反義
昭の姿勢を明確にした。そして、同年7月、義昭は槙島城の戦いに敗れ
「室町幕府は滅亡」、光秀はようやく両属関係に終止符を打った。
一方、義昭は復讐心に燃え、全国の大名「信長打倒」を呼びかけた。
義昭の求めに応じ、上杉、武田、毛利といった有力な大名が連携して、
信長包囲網を形成。3年に亘り、各地で激しい合戦が相次いだ。
信長名言『恃(たの)むところにある者は、恃むもののために滅びる』
              
近日「進撃の信長」-2へ続きます。


理想論だったと思う今思う  津田照子

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脳味噌の割りにはでかい頭です  新家完司


[記憶のしくみ](分り易く拡大して見て下さい)

「海馬」は銀行のATMのようなもの。
記銘(入金)→貯蔵(預金)→再生(引き出し)を滞りなく行う場所。

目、耳など感覚器官や思考を通じて入ってきた情報は、脳内の「海馬」
という器官に集められ、一時的に保持される。これは「短期記憶」と呼
ばれ、数秒から数時間ほどで忘れてしまう記憶である。そのあと海馬は
必要と思われる情報を選別して大脳皮質へ送る。大脳皮質で保持される
記憶は長時間の保存が可能で「長期記憶」といわれる。


大脳皮質=記憶が貯蔵されるところ。いわゆる「記憶の倉庫」である。
視覚や聴覚、思考などの記憶の種類によって格納される場所が違う。
偏桃体=情報を司る器官。好き嫌いや恐怖や喜怒哀楽など、本能的な
感情を生み、記憶に影響を与
える。
海馬傍回=自然や都市風景など、地理的な風景の記憶や顔の認識を司る。



  
ベル押して脳の革命始まりぬ  木口雅裕

「脳のお話し」ー1 <記憶をする脳)
 
 
 

 脳は人生を記憶する



イヌやネコなどの動物にも記憶はありますが、人間の複雑な仕組みには
到底、及びもつきません。人間の脳は「人生を記憶する臓器」なのです。
ヒトの脳は神経細胞同士のつながりが非常に発達しており、経験によっ
て記憶を増やすことで、そのネットワークはさらに広がります。

回転の早い頭脳と居る疲れ  森口美羽

記憶「覚える」インプットと「思い出す」アウトプットから成り立っ
ています。このうち「覚える」作業の主役が、脳の奥の方に左右一つず
つある器官「海馬」です。海馬には、外界から様々な新しい情報が集ま
ってきます。でも実は、海馬は怠け者で興味のない事柄は、記憶をさぼ
る傾向があります。一方、思い出す脳の仕組みについては、まだ詳しく
解っていません。しかし、思い出す(再生)時には、その情報が入って
きた時に、刺激された脳の場所と同じところが反応し記憶が蘇ることは
分かってきています。

大人になれなかった頭持て余し  谷口 義

何かを思い出そうとする時は、脳の司令塔である「前頭葉」から、その
記憶のある場所に信号が伝わり、情報が引き出されます。
不意に昔の思い出が浮かんでくるような場合は、記憶が取り出されるき
っかけとなる「刺激」が存在するのです。
 例えば、街ですれ違った異性が、昔の恋人と同じ香水をつけていると、
その香りに自分が気付かなくても、昔の記憶が蘇ったりすることがあり
ます。香りが引き金となって、恋人の記憶がしまってあった脳の場所が
反応するからです。
(脳の学校を主催する加藤俊徳・医学博士に聞きました)


黄昏ないようにようにと鎌を研ぐ  藤井寿代



記憶が人生を豊かに、複雑にする
 
 
 

1、デジャヴが起きるしくみ
初めて見るはずの風景が、見覚えのある景色に思えることがある。
いわゆる「デジャヴ(既視感)」は、記憶の誤作動によって起きる。
脳は見ている対象の全体の情報を、写真のように細部まで認識するので
はなく、まず色や形といった要素に分解する。そこから大体のイメージ
がつかめる一部の情報だけを取り出して、それらを脳内で再び統合し、
何を見ているかを理解する。この過程の抽出した情報のうち、形や輪郭
だけが部分的にでも似ているものを見ると、まったく違う別の対象なの
に、前に見た同じ形ものの記憶が引き出されてしまう。
その結果、デジャヴが生じる。

パスワード10こ持ってる記憶力  津田照子

2、記憶は書き換えられる
3歳の頃、旅先で階段から転げ落ちたが無傷だったという鮮明な記憶。
しかし、その場所を訪ねてみたら、記憶とは全然違う階段だった…。
記憶は思い出すたびに書き換えられる性質があり、これを「記憶の再構
成」という。特に幼少時の記憶は、親から聞いた話やアルバムの写真な
どで作り替えられていることが多い。辛い記憶が消えて思い出が美化さ
れたり、、犯人の目撃証言が不正確だったりするのも、こうした記憶の
特性が働くからである。

母ちゃんは確か女であったはず  古今堂焦子




3、技能や運動能力は別の記憶回路
ピアノを弾くなどの技能に関する記憶は「手続き記憶」と呼ばれる。
他にも、自転車の乗り方や泳ぎ方、箸で食事すること、電話応対などの
仕事のスキル、挨拶などの社会的なマナーも同様で、一度習得してしま
えば、無意識のうちに体が動く身体感覚で潜在的に覚えている記憶で
ある。また手続き記憶は、海馬を経由する記憶回路とは異なり、小脳な
どに貯蔵されている。そのため、何らかの原因で記憶喪失になっても、
手続き記憶は失われにくいので、ピアノを弾けたり、自転車に乗れたり
する場合が多い。

元気かとたずねてくれる多色刷り  岩田多佳子

4、アルコールで短期記憶が失われる
お酒を飲むと、運動や動作を司る小脳が鈍り、千鳥足になったり、呂律
が回らなくなったりする。さらに記憶を司る海馬でも短期記憶が働かな
くなり、今さっき話したことさえすぐ忘れてしまう。そして同じ話を繰
り返す。しかも記憶を長期保存する機能も弱まるので、翌朝には前のこ
とは全く記憶にない、ということに…。
一方、それほど泥酔していても家に辿りつけるのは、帰る道順を手続き
記憶によって覚えているからである。

酔うほどに別人格が顔を出し  みぎわはな

5、6歳までは「意味記憶」が優れている
経験や出来事など、個人の思い出に関する「エピソード記憶」に対し、
人や物の名前、言葉の意味や歴史の年号など、一般的に「知識」と呼
ばれる記憶を「意味記憶」という。
意味記憶は子供のほうが優れており、小学校低学年で掛け算の九九を
教えられるのも、意味記憶が得意なうちに、九九を暗記させようとい
う理由による。同様に、外国語の習得も丸暗記が得意な子どものうち
なら覚えるのが早いが、大人になるにつれて苦手になっていく。

時どきは水母になっている頭  谷口 義

6、回想する記憶とは違う「展望的記憶」能力
「明日、〇〇の本を持っていく」というような、未来に対する記憶を
「展望的記憶」といい、過去のことを思い出す「回想的記憶」とは、
メカニズムが異なる。展望的記憶が不得意な人は、約束を忘れたり、
忘れ物が多くなったり、社会生活に支障をきたす。

気がかりひとつポップコーンが弾けない  荒井加寿

7、「映像記憶」が成人後も残ることがある
見たものを写真のようにそのまま脳裏に焼き付ける記憶法を「映像記憶
という。この記憶は子供のころは普通に行っているが、大人になると消
失するのが一般的だ。しかし、山下清谷崎潤一郎は映像記憶を持ち続
けていたといわれている。

木枯と降り立つ約束の駅に  山本早苗





「記憶力と五感の不思議な関係」
記憶力を高めるには、反復することが一番の近道。人間の脳は、何度も
アクセスされないと記憶を維持出来ない仕組みになっているからだ。
さらには、覚える内容について深く理解するほど、記憶の定着は強まる。
また、心理学者の榎本博明氏は、あらゆるチャンネルを使って覚えるこ
とも、記憶力を高める有効な方法だという。
「ノートに書く、音読しながら自分の耳でも聞く」というように、多く
のチャンネルを使い、五感と関連づけて覚えると、記憶を引き出す手が
かりが多くなるため、忘れにくくなります」(榎本氏)

ぼんやりの海馬にカツを入れてやる  嶋沢喜八郎

【記憶法】
、「意味づけすると記憶は定着する」例えば「泣くよ(794)ウグ
イス平安京」といった語呂合わせ。この記憶法が有効なのは「物語構造」
を持つから。ストーリ性があると印象に残りやすい。

どちらかと言えば言葉にして欲しい  河村啓子 

 
  

2、情報のまとまり」をつくる。数字や文字などの無意味な羅列を記
憶するときは、いくつかの塊に分けると覚えやすい。この記憶法を「チ
ャンク化」
という。人間が記憶できる塊=チャンクの数は、7±2までと
いわれ、電話番号や郵便番号もチャンク化で分かりやすくしている。

下五のためかき回してる脳回路  曾根田夢





、「匂いや味は記憶を定着させる」匂いや味は、臭覚や味覚を刺激し、
脳を覚醒させる働きがある。また、匂いや味に反応する中枢と記憶の中
枢は近く、密接な関係がある。記憶は感覚と結びつくと定着しやすく取
り出しやすい。

懐かしい錆の匂いの歩道橋   黒田一郎  
 
 



        

、「覚えたら、すぐ寝てしまう」何でも、覚えた直後には、潔く寝て
しまうこと。起きていると新しい情報が入ってきて、記憶が干渉されて
しまうからだ。睡眠中に脳内の余分な情報が整理されるため、というと
いう新たな情報もある。

微熱まだある幸せの温度計  柴田比呂志




、「人に話すと忘れにくい」相手に分かりやすく伝えるために、脳に
刻まれた情報を復習し、整理して話すことで記憶が強まる。また自分の
話す声が耳から入り、相手の反応も見るので、聴覚や視覚の作用によっ
て、記憶が定着する。

笑い皴日々幸せの副作用  掛川徹明




 

上図は、「エビングハウスの忘却曲線」といわれる実験結果。
覚えたことは20分ごに42%も忘れてしまうが、復習を行い、
記憶に随時アクセスすると、だんだん忘れにくくなる。

【忘れるからこそ、記憶できる】
「あの俳優の名前、何だっけ」顔は浮かんでいるのに、名前がなかなか
出てこない。いわゆる「度忘れ」とは、脳内の膨大な記憶の中から、目
的の情報を探し出すことができない状態だ。
なぜ探し出せないかというと、記憶を「引き出す力」じたいが、年齢と
ともに弱まる傾向があるからだ。しかも、思い出そうとしている事柄が、
滅多に使わない情報だとすると、脳内のネットワークが弱くなっている
ので、なおさら思い出せない。

老いること入れてなかった見積書  梶原邦夫  


  

また、「度忘れ」は一時的に忘れることだが、「忘却」は記憶が完全に
消去された状態である。「人間は生存するために忘却が必要です」でな
ければ、溢れる情報に混乱して生きていけないでしょう。古いノートや
手帳を読み返してみると、自分で書いたのに、何のことか分からないと
いう場合がありますが、人間は日々忘れていくことで、脳内が整理され
ているわけです。

列記したメモの幾つか消して宵  細見さちこ





感情が伴うと記憶に残る


【思い出す努力が、認知症を防ぐ】
記憶力の低下といえば気になるのが、認知症だ。認知症の約6割を占め
るアルツハイマー病になると、最初に記憶を司る海馬が委縮し「もの忘
れ」が初期症状として表れる。脳には、不要な記憶を積極的に切り捨て、
無駄を省く性質がある。だから使わない記憶を忘れることは、ある意味、
理にかなった構造といえる。それだけに意識的に脳を使わないと、記憶
はどんどん失われていく。

3分でできた事3年悩む  市井美春




   間違い探し


「今の時代、思い出せないことがあると、すぐネットで検索してしまい
ますが、それも認知症へと拍車をかけることになります。思い出す努力
をしないで、スマホに頼っていたら、脳のネットワークはますます使わ
れなくなり衰えます」(
加藤氏)
しかし50歳を過ぎてからでも、「脳を鍛えれば記憶力は維持できる」
という。苦手なことや未経験のことにも積極的に挑戦し、あまり使わな
い脳のネットワークを強化することが、ボケ防止につながる

満点を老化テストでとる自信  ふじのひろし




認知症予防に    
    散歩をしながら、何かを考える。    
    身体を動かしながら一人しりとりなど。


【6つの「なくなる」に注意】



1、時間が気にならなくなる
イ)テレビ番組の開始時間や出かける時間を間違える。
ロ)待ち時間を忘れる。
ハ)時間を守らなくなる。
ニ)約束そのものを忘れている。

木曜日のジョーク木曜日に笑う  雨森茂樹

2、話がかみ合わなくなる
イ)ちょっと前に話したことを忘れている。
ロ)最初に言っていたことと反対のことを言い出す。
ハ)知っているはずのことを「知らない」という。

ゾウは忘れたがキリンは覚えてる  森田律子

3、時間が経ったら記憶がなくなる
イ)物を置いた場所をしばしば忘れる。
ロ)前日や前々日に来ていた服が思い出せない。
ハ)外出後にどこに出かけるつもりだったかを忘れる

隠す気はないが記憶にないのです  西山春日子

4、物事が1回では済まなくなる
イ)何度も同じ話をしたり、質問したりする。
ロ)冷蔵庫にある同じものを買ってしまう。
ハ)朝食を食べたことを忘れてまた食べる。

似合ってると言ったら何時も同じ服  前中一晃

5、いつもしていたことをしなくなる
イ)オシャレだったのに服装がだらしなくなる。
ロ)毎日熱心に読んでいた新聞を読まなくなる。
ハ)洗濯や掃除、料理など家事をしなくなる。

忘れたい過去にふりがなつけられる  吉川幸子

6、気持ちが抑えられなくなる
イ)急な予定変更などで激しいパニック状態になる。
ロ)いきなり怒り出したり、感情の変動が激しくなる。
ハ)相手を傷つけるようなひどいことを言う。

心の奥まで触れたがる土足  松浦英夫




【知恵蔵】 右脳と左脳
① 左半身の運動神経を司るのが「右脳」。脳からの命令が延髄で交差
して伝わるために起こる現象で、脳卒中などでたとえば「右脳」に損傷
が起こった場合は、左右逆の左半身に麻痺が生じる。また音楽を聴く、
絵を描く、絵を鑑賞するといった、比較的創造力を駆使する作業を行う
とき「右脳」が活発に働く。
右脳を鍛えると創造力が増すとされるゆえんもこのあたりからである。

市松模様を描く右脳左脳  赤松蛍子

② 右半身の運動神経を司るのが「左脳」。文字を読む、言葉を話す、
数字を計算するなど、論理的な判断する際に働く中枢が集合しているの
が「左脳」である。
平均的に見て女性が語学力に長けているとされるのは、男性よりも女性
の方が「左脳」が発達していることからである。逆に「右脳」は、女性
よりも男性の方が発達していることから、地図などを見て瞬時に近道を
みつける能力が高いのは、男性のほうだとされている。
あくまでも一般論です。

風向きが変わり左脳が恥じている  靏田寿子

③ さて、あなたは右脳派?左脳派?
腕を組む、手を組むなどの動作を行った場合、左が上に来る人は、
「右脳型」
で、右が上に来る人は「左脳型」だそうです。

家裁でて右と左へさようなら  大島美智代

拍手[4回]

打倒の木村の中に不死身という木村 長宗白鬼




豊太閤の花見行列もコロナで中止になった醍醐の桜


コロナ・ミステリーは、20年2月3日に横浜港に到着したクルーズ船
「ダイヤ
モンド・プリンセス号」から始まった。3千700人の乗客の
うち10人から、新型コロナウイルスの陽性結果が出たというのである。
ウイルスは動物や人間に寄生しないと生きられないから、寄生先の細胞
を利用して自分を複製する。その時に性質が変わったり強化したりする。
毒が強くなりすぎて、自ら消滅してしまうこともあるが、ウイルスだっ
て存在してしまえば、もはやひとごとではない。ウイルスの好きにさせ
てはいけないのである。


京極で厄年の手を見て貰う  狭山かん一


そこで政府の感染症対策室は、横浜沖でクルーズ船が停泊中に菌を退治
してしまおうと考えた。それが1854年、黒船が品川沖に突如として
現れて以来の大騒ぎになった。クルーズ船を港に入れない鎖国再来の日
本政府にヤンヤの非難が飛びかったのである。当時の幕末の黒船から、
大砲が数発発射されたときと同じ状況である。ところがどっこい、コロ
ナは正体不明である。東京の屋形船、愛知県のスポーツジム、北海道の
雪まつり会場の仮設テントなど、各地に脈絡なく現れるウイルスの挙動
に専門家は悩んだ。そこで打たれた策が「不特定多数が集まって接触す
る場所」
自粛要請である。その「自粛自粛」の虚しい叫び声が街中に
響き渡れば、お花見もいろんなイベントも、そして川柳の各地の句会も
「春はのどかにして哀れ」とひねくれつつ自粛する。


太閤出馬天津春日の印具して  川村伊知呂 (小林一三)




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江戸百川楼に催された天川屋俵平の百回忌記念句会


「句会の変遷」 昭和二六年番傘ゟ (岸本水府記)



川柳の団体は、その作品発表機関として雑誌を持ち、そして毎月一回の
句会を持っている。句会は作句道場という風にいわれているが、忙しい
人はまたそれを唯一の作句の日としている。句会もいろいろの変遷をみ
て来たが、今は全国のどこへ行っても大体において、同じような様式の
もとにも催されているようである。(何か特殊な機会でもなければ、写
真に撮っておくようなことはないので、その資料は集めにくかったが)
ここにある「四つの会」は、それぞれの時代の色をみせている。



口元は美空で唄う靴みがき 脇田梅子





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大正6年・大大阪句会


文政9年1月に四代川柳を中心に、江戸百川楼に催された天川屋俵平の
百回忌記念句会は、当時として珍しい機会だったという。会場の正面に
賞品を山と積んであるが、如何にも昔の会らしい。思い思いに座を占め
ているのも画工の技巧があるにせよ、今の緊張ぶりとは大きな差を示し
ている。
 時は過ぎて、大正6年の大大阪句会は、渓花荘の座敷を用いているが、
みな和服であること、今の会のように、出題のビラが掲げられていない
こと、20人くらいより集まらなかったことなどが見られる。
それが昭和12年になると、八十畳敷きの仏教講義所共済会で麦畑のよ
うな線を描いて、多い時は170人の作家が背中合わせで句箋を手にし
た。正面のビラは、この頃すでに選挙演説会のように貼りめぐらされた。



虚子の句を押し頂いた吉右衛門 三浦太郎丸 




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昭和12年・仏教講義所共済会での句会


今の会は、昭和26年11月の番傘例会の結果でみるように、みな洋服、
もう下駄を玄関に脱ぐような大正頃の趣は、夢にも見られなくなった。
最近の調べでは川柳家の平均年齢36歳強、サラリーマンが絶対多数を
占めているだけに、一日の仕事を終わって、その足で出席する。まった
く「働く者の詩」「街の詩人」としてのあり方を目の当たりにみること
ができる。一夜七十八題、一題三句づつ、各題に選者があって選評する。
大正頃は、集句を1人が披講して、出席者からいいと思った句に「頂戴」
の声をかけてもらう。いわゆる「頂戴互選」だった。
今は出席者も多いので、個人戦になって、司会者が進行させて能率的に
進む。以前のように、親しく楽しく研究しながら作る方がいいという人
には、別に小集を催してその要求を満たしている。




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昭和26年11月・番傘例会


心を洗う朝比奈を聞く茶房 大石文久 (朝比奈隆)


選をするということは、句の進路を示すことになるから大切なものにち
がいない。また課題のよしあしは、その句会の収穫にも影響するから、
吟味して出すべきで、その指導者の望む句境と句風は題を課す時に、す
でに定まったとみて差し支えない。
 句会でお互いが句三昧に入り、醍醐味に浸る一瞬の静けさは、尊いも
のがある。句は折にふれての感動から生まれるのを建前にするが、句会
の句にも日ごろの思いが、調子よくまとまって、天下の名吟を生むこと
があるのは言うまでもない。


洛北に歌聖たずねる老名妓 近江砂人 (吉井勇)


戦後、大会ばやりとなった。川柳大会がさかんに催される。中には30
人集まった大会も珍しくないようになった。大会には景品がつきものの
ようだが、おもに関東に流行り、西日本では、稀にあるくらいである。
一句の成績に市長賞がでる。これは関西にも年に一度ある。番傘社主催
のものには賞品や景品を出さない。創立以来出したことがない。昭和7
年以来、天地人さえ廃止した。


安吾の乗車券売場は知っている 磯野いさむ (坂口安吾)


その天地人廃止の言分は、すなわちこうである。
天地人五客軸吟という呼称は月並俳人の連座で用いた古くさいもので、
「天地人」とは、宇宙間の万物を分かったもの、作品価値をこの支那風
な呼び方で呼び方で評価することが時代にあわない。「五客」とは膳碗
などの五人前のことをいい、五つの佳句(客)という洒落から来ている。
「軸」というのは「自句」の洒落で、以上は、昔風の連座で出す、例の
「巻」と称する選者から入選者に送る月並な句帖に、松と鶴などの判を
捺してつくる時に用いられる宗匠好みの称呼である。だからやめたい。


馬主席に吉川英治小さく居る 塚越迷亭


よしそれが特選、佳作などとするにしても、これも、もう専門家の集ま
りには無い方がいい。ずらり肩を並べて同じレベルに選をして、あとは
その道の人と世に問うようにした方が、「選」という性質と時代感覚か
ら考えても、その方がいいというのである。
例会も小集も大会も提出された句を選者が選して、作者と半々の責任を
もって天下に示す。-だけでよい。スリルを味わうような気になっては
ならない。それでこそ、選者も初心者も共に作句できる。句会の理念は、
その方向に進むのが本当のようにおもう。
更に進んでは、句を清記したり、無記名にしたりしないで、雑誌へ本詠
の投吟する場合のように、堂々と記名して、選を経るようになってよい。
もっともっと、句会に磨きをかける必要がある。


京マチ子瞼の母にかくも泣く 平井与三郎



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水府還暦祝賀全国川柳大会(52‘1月15日)




番傘川柳創刊に関して

「番傘川柳」は大正二年一月十五日に創刊した。
創刊のコトバは「こんなものを出すことにした ト百」とだけ。
(ト百とは、西田当百のこと)とぼけたようなものがよいと、みな喜んだ。
月刊でなく、気の向いた時に出す。ほしい人にタダであげるという規則。
発行部数は200部、印刷費15円50銭なり。創刊号は131句が採録
されている。32の題と句。7人のエッセイ、楽屋落、規から成り立って
いる。とにもかくにも「気のむいたときに出す」とある会規から、今日の
令和2年4月まで107歳へと続いている。


圧巻は情婦杉村春子拗ね 岡田紘一郎


その創刊号に載った句は。(選評は蚊象がした)
上燗屋ヘイヘイヘイと逆らわず 当百
 この句は軽味の上乗なものであるが、豆百先生が上燗屋になりき
ったかのように、温情が滲みでている
鹿の餌を売る婆さんはもう死んだ  半文銭
 折々句会などの作句中に思い出す事さえある。
散文のようで、リズムが確かで、技巧の目立たぬよい句である。
気紛れに五重の塔へ独り者  五葉
真面目な顔をこちらへ向けた五葉が、全く別人のようにこの作者の名乗
りをする。人を笑わせる句を作りながら、己の侘しさが五葉にあった。
米俵ただ堂島の贔屓より  蚊象
うれしく逢い、楽しく作った番傘創刊号の句を見て、今昔の感に堪えぬ
ものがある。


「奈良」 奈良七重終日鐘の鳴る所  水府
「流連」 富田屋の客のつもりで風呂へ行き  半文銭
「紙屑」 軍服を出されて困る紙屑屋  五葉
「将棋」 王手飛車是で待ったの三回目  半文銭
「洗髪」 洗髪二人廓の朝湯から
「花道」 幕間の花道へ子が這い上がり  茶十
「糠袋」 糠袋入れながら直ぐ帰ります  当百
「身売」 いづれが不屈駈落と身売沙汰  縁天
「後朝」 後朝(きぬぎぬ)に番傘はチト重た過ぎ  五葉
「河豚」 よう顔を見といて呉れと河豚を食い  半文銭


「廊下」 人数の膳が廊下で勢揃ひ  力好
「鉢巻」 埋立地鉢巻のまま飯にする  水府
「南地」 逢状は嬉しく潜る法善寺  半文銭
「駈落」 死んでもと二人は追って困らせる  三日峯
「桟敷」 桟敷から誰かを招く手の白さ  水府
「床屋」 トロトロとすればおつむを洗いませう  茶十
「双子」 代書屋の双子ですかと問ひ返し  蘆村
「近道」 不案内傍目もふらず遠回り  とく松
「前垂」 前垂の儘普請場へ親旦那  当百
「酌」  独酌の財布を傍に投げた儘  奇萌
「俵」  逆まにとる炭はもう了ひなり  水府
「雑」  階級もなく敷島は売れて行き  水府


「お開き」 お開きに早やお俥の声がする 五葉
「守護霊」 旅戻りそれ安産のお守りだ 半文銭
「独り者」 配達に小言言われる独り者 常坊
「東西屋」 東西屋橋を渡ると三味を弾き 喜月
「裏梯子」 病人があるのかと聞く裏梯子 蚊象
「差向ひ」 いつの間に灯の消されたる差向ひ 縁天
「蓄音機」 変哲もないはお茶屋の蓄音機 水府
「頼母氏」 皆落しそうな初会の顔が寄り 半文銭


※ 楽屋落ち
① 「番傘」はこっそり発刊するはずが、言いたがりの水府が、
「つばめ」の川柳日記に書いたため、同人間から叱言を頂戴。
② 半文銭曰く「五葉と歩くと話しかけないと何にも言わない。
水府と歩くと飲みたいなぁと思い、力好と歩くと電車が気になる。
蚊象と歩くと芸者に声を掛けられたく思う。当百と歩くと、柳会の罵倒がしたいと思う」
③ コロナはいつ収束するのか誰にも分らない。たとえ収束したとしても、「ゼロになったかどうかは神様のみぞ知る」と馬鹿の壁の養老さんがおっしゃっておられました。くれぐれも気をつけてまいりましょう。



悪口が聞き慣れて居る上燗屋  当百

拍手[2回]

さよならは瞼にかいておきました  高橋レニ




住職・太原雪斎「臨済寺」の手習いの間


この部屋で松平竹千代は、太原雪斎から兵法から儒学・易学・医学まで
学んだ。そこで竹千代は、戦国武将たちの読み物『吾妻鏡』に出会い、
13歳で伊豆へ島流しにあった源頼朝の生涯に惹かれた。人質生活を強
いられている自分の宿命と似ている。その上、頼朝はその苦難を乗り越
えて、天下を取っている。竹千代は「頼朝を目標に生きていこうと」、
この学びの間の中で、心に誓ったという。
 太原雪斎とは「小豆坂の戦」で今川勢を指揮して、三河安祥城主・
織田信広を攻め捕虜とすると、信秀と交渉し織田家に奪われていた人質
の竹千代との人質交換を実現させて、今川家のもとに取り戻した。竹千
代は善得寺にはいり、今川義元が幼い頃に教えを受けたように、雪斎に
よる英才教育を受けた。


あるんですねドラマのようなめぐり逢い  杉野羅天


「麒麟がくる」 松平竹千代~家康





 松平竹千代 岩田琉聖)


「年譜とともに」
天文4年(1535)頃から内紛の尽きない三河国を、松平広忠が支配
していたが、東の今川、西の織田に挟まれ、三河はどちらに占領されて
もおかしくない現状にあった。広忠は年も若く、西三河の家臣たちには
織田方になびく者もあり、領国運営に苦慮していた。
天文10年(1541)広忠は尾張の豪族・水野忠政の娘・於大と結婚。
翌年2人の間に松平竹千代が三河国の岡崎で生まれるが、その2年後の
竹千代3歳の時に、母の於大は、離婚されて刈谷に帰らされる。
 天文9年(1540)織田信秀が刈屋城の盟友・水野忠政とともに
松平家の拠点安祥城を攻めた。水野忠政とは『麒麟がくる』岡村隆史
演じる菊丸を忍びとして雇っている水野信元の父にあたる人物。
天文10年には、織田方から松平方に転じて、忠政の息女・於大は、松平
広忠に嫁ぐことになる。その翌年の12月に広忠と於大との間に嫡男・
千代が誕生するが、1年後、水野忠政が亡くなると、跡を継いだ信元は、
再度織田方に寝返り、於大は松平広忠から離縁されて、刈屋城に戻される
ことになる。男の戦に翻弄される於大の血は。竹千代の宿命を暗示する。


三つ目の目を前髪で隠している  くんじろう





    岡崎城 (江戸時代)


天文16年(1547)尾張の織田信秀が弱体化した松平広忠の岡崎城
に狙いをさだめ攻撃をしかけてくる。その動きに対し、広忠は竹千代
人質として今川義元に救援を求めた。このため竹千代は、6歳で駿河に
送られることになる。駿府への護送役は 田原城城主・戸田康光である。
康光は今川義元に忠誠を誓った男だったが、竹千代を銭百貫で信秀に売
ってしまう。それを知った義元は、すぐさま、田原城を攻め戸田氏を滅
ぼしてしまうが、竹千代は尾張へ海路逆送される。
竹千代という絶好の人質を得た信秀は、広忠に今川との縁を切るように
迫るが広忠は「息子を殺さんと欲せば、即ち殺せ。吾一子の故をもって
信を隣国に失わんや」と拒んだという。その裏で戦の道具にされる竹千
代は、その後、熱田の加藤図書助順盛宅、さらに万松寺で3年間、信秀
の保護のもとで暮らすこととなる。


燃え尽きる命をだれも止められず  鈴木ひさ子





  太原雪斎 (伊吹吾郎)


同年、どうしても三河が欲しい信秀が、再び、三河を攻めてきたので、
広忠は再度、義元に援軍を要請。義元は交換条件として、人質を差し出
すことを要求し、翌17年に織田勢を三河から放擲すべく決戦を決意。
この戦の今川方の大将は、あの太原雪斎である。戦さは、今川方の快勝
で終わる。(「小豆坂の戦い」)その矢先、松平家に新たな不幸が襲う。
広忠の死去である。死因は、『松平記』によると、家臣の岩松八弥に刺
されたことと言う。天文18年3月の春先、24歳の若さだった。その
時、竹千代8歳。信秀の保護にあった為、父の死に目には会っていない。
広忠亡き後、義元は雪斎を派遣してすぐに岡崎城を接収。松平家の重臣
と家族を駿河へ移し、当時、織田方になっていた安祥城を一気呵成に攻
め、城将の信長の異母兄・信広を獲捕、信広と竹千代の人質交換を実現
させる。この後、三河国は今川氏の属領として、扱われることになる。


たった一顧の弾丸として父果てる  斉藤和子


織田信長とも出会うことになる竹千代の、2年間の織田方の人質生活は、
結構待遇もよかったという。よかれあしかれ、竹千代の今川人質生活は、
19歳まで11年間続く。ただ「人質」とはいえ、今川方でも恵まれた。
食事も生活も学問も、当主の義元の計らいで、結構自由な行動を許され
ていたようだ。
弘治2年(1556)浅間神社で元服、松平二郎三郎元信となる。
『竹千代君、御とし十五にて、今川治部大輔義元がもとにおはしまし、
御首服を加へたまふ。義元、加冠をつかうまつる。関口刑部少輔親永、
理髪し奉る。義元、一字をまいらせ、「二郎三郎元信」とあらため給ふ』
(『東照宮御實紀』)
弘治2年(1556)父の法要のため岡崎に一時帰国。
弘治3年(1557)関口親永の娘・瀬名姫を娶る。元康と改名。
永禄元年(1558)義元の命により、三州寺部城に初陣。
永禄2年(1559)長子・信康誕生。


みずいろのワルツが葉脈を巡る  吉松澄子


永禄3年(1560)義元上洛途上、桶狭間で信長の奇襲をうけて死去。
42歳だった。松平元信は戦地から岡崎に戻り、人質生活から脱する。
※ 桶狭間の戦で義元が信長に敗れ、「義元死す」の報を今川方の一員
として大高城で聞いた元康は、信長の討手を逃れ、手勢18人で岡崎の
菩提寺(大樹寺)に人質解放報告をしたのち、義元の後を追おうとした。
この「追腹」を大樹寺の登誉天室住職(とうよ・てんしつ)に諭されて、
思いとどまった逸話がある。
「いまここで、死ぬのはあまり意味があることではない。生きて、この
汚い世の中を少しでも良くすることが、あなたの使命ではないか」と、
そして「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)と揮毫し
て元康に渡した。これが家康の戦の「流れ旗」になった。
義元死去のあと今川家は、東は武田、西は織田に併合され、戦国の大名
としては消滅をする。


いちょうの黄は小さじ一杯の挽歌  宮井いずみ


永禄4年(1561)信長と和睦。三河平定に着手。
永禄5年(1562)信長と同盟。今川家と断交。
永禄6年(1563)家康と改名。信康、信長の娘・徳姫と婚約。
永禄7年(1564)一向一揆を収め、三河全域を平定する。
三河の一向一揆を、鎮静化させた家康のコトバがある。
<一揆を続けて、田畑を焼き払うと、皆飢えてしまう。それを仏は許す
はずはない>そして一揆を企てた者に対し「ここで静かに退去する者は
許す」と言うと、騒ぎを誘導した渡り者の法師たちは、たちどころに消
え去った。「大事を成し遂げようとするには、本筋以外のことはすべて
荒立てず、なるべく穏便にすますようにせよ」(家康の名言、生れる)
永禄9年(1566)従5位下三河守となり松平姓徳川姓に改める。


雑音はまとめましたと粟起こし  美馬りゅうこ





  太原雪斎


【付録】 「小豆坂の戦い」
美濃国の斉藤氏と姻戚関係を結んだ織田氏は、天文17年(1548)
岡崎城を陥落させるべく侵攻を始める。今川義元太原雪斎を総大将
として西三河に援軍を送る松平広忠も今川方としてこれに参戦した。
結果は今川氏の大勝で終わる。
この敗北により織田の勢力が弱まり、安城城も奪われ、三河より撤退
することとなる。小豆坂の戦い以前は、矢作川が両勢力の境界で、信
秀の死までわずか数年の間に、織田の勢力はどんどん縮小していった。
信秀が今まで敵対関係にあった斉藤道三と同盟を結ばざるを得なかっ
たのは、この勢力縮小に危機感を抱いたからである。信長帰蝶の結
婚は、小豆坂の敗戦があったからこそなのである。


まず今日の息を正しく吐いてみる  中野六助

拍手[3回]

見解の相違へ揺れている芒  笠嶋恵美子




   ムキクリ
甘いもの好きの信長が10話でも食べていたムキクリ

「麒麟がくる」 ご飯を食べる作法がダメだった信長





   信長と竹千代
 

「戦国時代に味噌は欠かせない」
先ず「麒麟がくる」10話の筋を少し。尾張へ入った光秀(長谷川博己)
菊丸(岡村隆史)に出会い、、味噌を並べていた菊丸に、「すべての
味噌を城に届けてほしい」と頼んだ。信長は濃い目の味付けをしてある
料理が好きで、特に大根の味噌漬けやネギ味噌、焼き味噌など、味噌を
使った料理が大好物と光秀は知っていたからだ。かつて信長が上洛をし
た際、京料理のプロが自信をもって出した料理を「水くさい」と激怒し
た話は有名。とにかく信長は、味噌が好きだっただけではなく、味噌の
重要性を知っていた。戦いに明け暮れる日々、重い鎧をつけて、戦場を
駆けまわり、汗をかく武将や兵士には、塩分は欠かせない。そこで味噌
が重要になるのである。信長の兵士たちの腰の印籠には、常に「味噌」
「山椒」「ムキクリ」「きんかん」が入っていたという。

湿り気がある健康な鼻の穴  新家完司

大豆を発酵させて作る味噌は、塩分が含まれているため、保存性が高く、
味噌汁に芋類や野菜などを入れることで、腹持ちを良くする。
さらに味噌には、大豆由来のタンパク質やビタミンなどが豊富に含まれ
ており、兵士たちの健康に欠かせない貴重品なのだ。仙台の伊達政宗は、
味噌の自給を目指し「御塩噌蔵」を製造していた。政宗が兵士たちの食
事に欠かせない健康食・味噌を重要視していたことがわかる。また甲斐
武田信玄も、長野・信州味噌の起源となる軍用の味噌を製造している。

まずは塩のみでいただくリコーダー  きゅういち
 
 

ご飯を食べる作法は、室町幕府が作ったもので、小笠原流・伊勢流とい
った礼法の流派が形成され、包丁や箸使いの所作があみだされた。この
室町礼式は、現在の私たちもそれに倣っており、婚礼の結納などのやや
こしい形式は、この時代に出来上がった。足利幕府は、南北朝の争乱の
中から出て来た粗野な大小名どもを、礼式で拘束しようとしたのである。
実力の時代といった戦国時代の、歴とした守護大名の家に生まれた筋目
の人々・武田信玄今川義元でも煩瑣な礼式の体得者である。つまりは
「躾」が出来ている。ご飯を食べるにも、箸をどのあたりからつけるか、
それはもう、実に煩瑣な決まりの食べ方があって食べていた。

鰐の生き肝は湯気の立つうちに  井上一筒
 




貉(むじな)の汁かけ雑穀めし

ところが信長の家は、守護大名の家ではない。尾張の守護大名・斯波家
の執事のようなことをしていた織田家で、いわば成り上がり大名である。
甲斐の武田家や駿河の今川家などのようないいうちではない。だから織
田家は室町風という公認のお行儀というものが、家風としてはない。そ
ういう織田家であるところへもってきて、信長という人が、性格として
煩瑣な堅苦しいマナーを受け付けるわけもなく、頭から覚える気もない。
思考が取り決めによって縛られていないから、飯というものは、かきこ
むだけで、とにかく腹が膨れればいいのだ。出は信長と同じでも、何事
にも食欲旺盛な明智光秀は、義昭のもとで仕官していたとき、そうした
室町作法を積極的に学び吸収したようである。

ややこしい理論に向かぬ河内弁  岸田万彩

「小笠原流ご飯の食べ方」
① 汁の中の魚の骨は、折敷に置くのは良くない。
② 飯を食べるときは茶碗の左右、向かい側から一箸ずつ飯をとり、
  一口にして食べる
③ 箸を添えて汁を吸う
④ 饅頭は、3分の1を箸で割って、餡をこぼさないようにして口に運ぶ
⑤ 料理人は、魚や肉の美味しい部分は上座の人へ提供する
⑥ 食事に対して賛辞を送る

4、5本はいつも晒に巻いている  くんじろう




  (拡大してご覧ください)

当時の最先端であった惟任日向守会の本膳と後段(再現)
 

「明智光秀、天正6年正月11日、惟任日向守茶会」
『天正6年元旦、安土城にて” 許し茶湯 "の許可者が総覧された。信長は、
限られた家臣にのみ茶道具を下賜して茶会を主催する権利を与えた』
(ご飯の食べ方がダメでも、茶道具の蒐集が趣味だった信長は、礼式に
沿わねばならない「茶会」の開催を許した。出来上がった城と自慢の茶器
を諸国の諸将に見せるためである。主は明智光秀。
永禄8年に室町流礼式を学び覚えた光秀の一世一代の晴れ舞台になる。

ええねんと何でも受けるお人好し  山本昌乃

天正6年元旦、安土城の信長の下へ五畿内および近隣諸国の諸将が信長
への新年の挨拶のため出仕。信長は挨拶を受ける前に一部の諸将を招き、
茶道具を下賜して、茶会を主催する権利を与えた。選ばれたのは、織田
信忠・武井夕庵・林秀貞・滝川一益・細川藤孝・明智光秀・荒木村重・
長谷川与次・羽柴秀吉・丹羽長秀・市橋長利・長谷川宗仁の12名。
茶頭は松井友閑がつとめた。安土城天守閣の障壁画も完成しており、
諸将は信長への挨拶を終えると殿中を巡り、狩野永徳が描いた三国の名
所を描いた絵や信長が収集した名物の数々を見て、感嘆するのみだった。

正直でありながら人間でいられるか  蟹口和枝




 タケノコ飯と和え物


この日、光秀が拝領した茶道具は、八角釜だった。信馬から釜を与えら
れたので取りあえず、茶会は開いてみたものの、光秀は、軽い身分から
出たため茶の湯の作法を知らず、このとき代行を立て、宗及の手本を見
て見よう見まねであったのかもしれない。一方で、光秀は、このときす
でに名物・八重桜を所有しており、永禄11年(1568)以来めきめ
きと上達を見せた連歌同様、茶席での作法にも、十分通じていた可能性
もある。自らもそれなりの知識と技術を持ちながら、堺の豪商・天王寺
屋宗及の粋人ぶりを持ち上げたのか…社交に不慣れであるにしては、彼
が用意した料理は見事なものだった。


門番に6匹もいる招き猫  木口雅裕




 
  生鶴汁と鮒の膾


光秀の側近には、進士貞連(しんじさだつら)という人物がいる。この
人物はのちに細川幽斎とともに田辺城に籠城しており『綿考輯録(めん
こうしょうろく)によると、貞連はもとは光秀の譜代衆で、山崎の戦
のあとも光秀に従った最後の七騎のうちのひとりである。
(『綿考輯録』は、貞連の父を進士美作守だと記録している)
美作守というと、進士晴舎(はるいえ)である。進士晴舎はルイスフロ
イス「内膳頭」として記録している室町幕府の有力御家人で、足利義
輝に仕えて、三好筑前守義長朝臣邸などへの「御成」を司った人物だ。
進士晴舎は、のちに嫡子ともども永禄の変で亡くなるまで、当代で料理
の式法に通じた人物だった。

人間を絞れば白し胡蝶蘭  河村啓子






鶉(うずら)の焼き鳥


当時、将軍が臣下の邸宅を訪問することは「御成」と呼ばれた。御成は
将軍にとっては世間に主従関係を知らしめるための機会であり、大名に
とっては家門の名誉、面目にかけて盛大に行うものだった。
その際の献立は、決して簡単に決められるものでなく、御成を司る役割
には、料理と有職故実に関する豊富な知識が求められた。またしきたり
に従い、滞ることなく朝から晩までつづく、饗応料理の手配を行うこの
職務は、決して一名で務まるものではなかった。というのも、当時の
膳料理は客一名に対して、三膳から六膳提供するもので、それらは客の
身分に応じて用いる膳を変え、用いる魚によって掻式(かいしき・器に
盛る食べ物の下に敷くもの)を変え、汁・吸い物は、用いる実によって
吸い口を変え、膳のうえに決まった配置で、皿を並べなくてはならない
代物だったからだ。

負けず嫌いな包丁の薄化粧  中村幸彦




   
   しょうの実          薄皮饅頭


にもかかわらず、御成への参加者数は10人や20人では済まない。
つまり進士晴舎のような饗応の責任者は、決して乱すわけにはいかない
スケジュールのなかで、ゆうに百を超える数の皿や、膳の盛り付けが、
故実通りであるか細かく点検しなければならなかった。加えて、酒や茶、
引き出物、能の手配といった仕事もあった。このことから、進士晴舎
単独でこの職務にあたっていたのではなく、御成の成功の陰には進士家
の一門を挙げた働きがあった。さて、そんな光秀が天正6年正月11日
朝に用意した膳を見てみよう。

愛は入れないでお鍋が焦げるから  高橋レニ





   本膳の説明

① とち折敷(おしき) 縁の一ヵ所を桜の皮で綴じたもの。
② 鮒の膾 膾は三鳥五魚の一つで格の高い美物。
③ 生靏汁 靏は鶴のこと。こちらも三鳥五魚の一つ。
④ アヘモノ 当時の定番料理で。
⑤ 飯タケノコ 季節(旬)を先取りした初物で。
⑥ 大かわらけタヒテ タヒテとは「塗って」のこと。
⑦ ウツラ焼鳥 盛り付けの脚の向きは鷹狩、網取かで異なる。
⑧ 土筆ウト ウトは独活のこと。
⑨ 薄皮のマンチウ ここに出ている饅頭は甘い近世的なもの。
⑩ イリカヘ ローストした榧(かや)の美。

燗番が燗見るたびに酒が減る  みぎわはな





  後段の説明

⑪ 木具 足打 
⑫ サウメン、レイメン 冷たい素麺。山椒の粉をつけて食べた。
⑬ セリ焼き 酢で芹を煮たものだが、焼きと言った。
⑭ 浮煎ノ吸物 すり身を用いた料理は心尽しのもてなしを表す。
⑮ 印籠ニ味噌 山枡 ムキクリ きんかん デザート


台本通りアップルパイを焼いている  西澤知子

光秀が用意した料理は、各膳の上の皿の数が陽数(奇数)となっている。
そういった細かな故実に従いながら、四条流由来の格式の高い料理と武
家料理、季節の品を取り合わせて味のバランスをとり、流行をとりいれ、
茶事用の簡素な膳ながら、幕府将軍の御成と同じ構成で手配してある。
また、後段に記録された木具の足打は、主人や貴人が見えた時に用いる
もので、殿上人ではない宗及に対しては、最上級の敬いにあたる。
こうして天正6年は、光秀が水を得た魚のように接待上手ぶりを発揮し
始める年となった。

影武者は影武者なりにそれらしく  岸井ふさゑ

【戦国時代の食】
庶民は、粟・稗・黍(あわ・ひえ・きび)といった穀物を食べ、白米を
口にすることはなかった。おかずは山菜や野草を使った料理が中心で、
たまに猪の肉や魚などを食したが、かなり貧しい食生活であったようだ。



【兵糧丸】
忍者が常備した兵糧丸は、きびだんごのような形をした携行食品で、忍
者の知恵で戦国時代の一般兵士たちも、戦場へ赴くときは、糧食として
配給されていた。「麒麟がくる」で、お駒が食べている画面があった。
 
 
 
 
  
 

【芋茎縄】
普段は縄として使い、万が一の際に非常食にもなる。
芋がらは里芋の茎を細かく裂いて皮を剥いて干したもので、 煮ても炒め
ても、和えても美味しい らしい。各種の栄養分を多く含み、カビなどが
生えなければ、かなりの長期保存が可能な食品。
食し方。ちぎって鍋に放り込み、水を入れて沸騰させると、染み込んだ
味噌が溶け出し、芋の茎が熱湯によって柔らかくなる。
煮込むことすら許されない状況であれば、芋茎縄を直接かじって生命の
維持に欠かせないカロリーと塩分を補給することも可能。普段は縄とし
使いながら、非常時には食品になるため、全くムダがない。戦国時代に
重宝された芋茎縄は、まさに一石二鳥、最強の存在なのである。
 

【味噌汁】
腹持ちを良くするため、芋類や野菜などを入れる。味噌は、塩分が含ま
れているため保存性が高く、タンパク質やビタミンなどが豊富に含まれ
ており、兵士たちの健康に欠かせない食べ物だった。
携帯する際は、乾燥させて固形にしたり、焼いて味噌玉にし、必要に応
じてお湯に溶かして食したという。いわば今の即席味噌汁である。



 
ぜったいに嫌あんたと鍋をつつくのは  安土理恵

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