ほくほくとかすんで来るはどなたかな 「小林一茶」 45~52歳
放浪の貧乏俳人一茶にとって、秋元双樹や大川斗囿(とゆう)が住む東 葛地方はまことに天国であったが、ひとたび江戸に戻れば、一茶には頭 の痛いことが待っていた。それは、柏原にいる弟・仙六との確執である。 なんとかせねばと思えば思うほど孤独に陥り、ふるさと喪失の思いが一 茶を苛んだ。 我星はどこに旅寝や天の川 (拡大してご覧ください) 東葛地方 右上に古田月船、真上・鶴翁、秋元双樹と大川立砂の名がみえる。 一茶句碑、この界隈に六基建立されている。
というのは、一茶は、いずれは信州柏原へ帰るつもりでおり、そのため には、柏原に安住の地を確保しておかなければならない。だが今はそれ もない。ただ一縷の望みは、父弥五兵衛が死ぬ前、遺言をしたため「財 産の半分を一茶に譲る」と書いている。継母も弟もそれを承知し、父の 死後、その権利を確保するため毎年金一分ずつ、伝馬役金として、柏原 宿問屋に納めてきた。それが今はどうなっているのか、一茶の苛立ちは つのり、世を儚む思いが次第にましていく。 はいかいの地獄は我を見くらぶる
文化4年(1807)7月ごろ、一茶45歳。父の死後6年ぶりに柏原 を訪れた。亡父7回忌のためで、このとき継母と弟仙六らに遺産分配の 話を持ち出した。継母の冷ややかさは昔と同じだし、仙六にも応ずる気 配がない。また継母と仙六が、汗水流して田畑を増やしてきたことや、 その勤勉ぶりを毎日見てきた村人たちも、一茶の勝手な願望をそのまま 受け入れるはずもなかった、一茶は帰郷の都度、村人から冷たい視線を 浴びせられた。 雪の日や古郷人もぶあしらい つひの身のけぶりたねに椎柴の曲がらぬ枝をたき残しつ その年の11月、ふたたび雪深い故郷に戻って、遺産相続の話を持ち出 せば、村人たちからはぶあしらい(冷遇)されて相手にしてもらえない。 心の底から信濃の重い雪にふられたようにすごく疲れるが、それを覚悟 でまた交渉のため故郷にむかう。そういう自分を、村人たちによってた かって非難する。一茶に向ける視線は、茨のように刺々しく感じられた。 心からしなのゝ雪に降られけり 実際問題として、いま弟たちが住んでいる家や田畑、山林を二つに分割 は簡単に出来ないことは分る。しかし、足場のない遊民暮らしの怖さを 知り尽くしている一茶は、しつこく交渉を重ねた。が進展はない。翌年 7月一茶は、祖母33回忌で故郷に戻り、菩提寺明専寺の住職の後押し もあって、8月ついに決着。父の遺言通り、財産を折半することになり、 村役人に「取極一札之事」を差し出している。取極めの内容は、田と畑 合わせて五石六斗四升五勺、家屋敷半分、山三ヵ所、所帯道具一通り、 夜具一通り、柏原では中くらいの持高だったという。柏原村の年貢関係 の書類には、文化6年から「本百姓弥太郎」としてあらわれる。 証文がもの云い出すやとしの暮 ところが12月、いい気分で江戸に戻ってみると、相生町5丁目の家に は別の人が住んでいた。あまりにも長く家を開けたままだったので、愛 想をつかした家主の日吉太兵衛が、他の人に貸してしまったのである。 回向院近くにあり、富士山も見え、双樹ら多くの友人が来た家だったが、 追い出されたとあっては仕方がない。師の夏目成美の家に転がり込んで 年を越した。文化6年元日、佐内町で大火事があり、多くの人たちが焼 け出された年であった。 元日や我のみならぬ巣なし鳥 句会の様子 一茶の師匠といえば、元夢、素丸、竹阿といるが、中でも最も影響を受 けたと思われるのは、夏目成美である。幼少の頃から読書を好み、温厚 篤実な性質で、家業(札差)にも励み、父の代よりも大きくし、商才に も長けていた。毎月7のつく日に、ここで「随斎会」というサロン風の 句会が開かれ、一茶も足繁く通っていた。時には、泊めてもらったりも している。地方から出る俳人は成美の謦咳(けいがい)に接することを 無上の光栄とし、また成美も貧乏俳人たちの面倒をよくみた。 大名のもみじふみゆく小はるかな 成美 東海道のこらず梅になりにけり 成美 文化7年11月3日一茶48歳。一つの事件が起こった。成美が隅田川 の紅葉見物に出かけた留守に、銭箱の中の金が紛失し、この家の誰かに 違いないということになった。一茶も4日間禁足を命じられ、5日目に なってようやく釈放された。一茶の屈辱感はいかばかりだったか、おれ は信用されていないと、心をうちのめされた、と日記に綴る。 「十一月八晴、金子未出ざれど其罪ゆるす。九、夜大雨、丑刻雷、イセ ヤ久四郎奴 四百八十両盗み去」 こんな悲しい仕打ちを受けても、一茶はせっせと富豪夏目成美のもとみ 通うのだった。 撫子のふしぶしにさす夕日かな 成美 この一茶「禁足事件」が起きる三月ほど前の4月3日、木更津の花嬌が 病没する。年上ながら美貌才媛で一茶の思い人という人もいる。一茶は いつも墨染の衣で旅をし、知人たちの間を転々としていた。貧しかった から、おそらく着物も一帳羅で汗臭く、みすぼらしい状態だったろう、 一茶と会う女性はみな敬遠して、そばにも寄り付かなかった。お金がな く、たかりのような日々だったから、たまに寄ってくる女性にも、奢る ことはまずなく、ケチに徹していたから、女性との縁はきわめて薄く、 江戸にいるかぎり、独身でいざるをえなかった。 春雨に大欠伸する美人哉 墨染の蝶がとぶ也秋の風 そんな中で千葉県の冨津の女弟子・織本花嬌だけは師として一茶を何日 も泊めて厚遇した。花嬌はおそらく品の良い美しい女性だったのだろう。 一茶より3,4歳上と見る人もいれば、20歳以上違うという人もいて 正しい年齢はわからない。養子の子盛は一茶より3歳下であったから、 これより想像して花嬌は60歳近い老女だという人もいる。ゴシップ好 きの人たちの中には、一茶と未亡人花嬌のロマンスを取る人もいるが、 家柄も年齢も違うし、一茶の句帖にもそんなふしは全くみられない。 だが一茶が文化9年4月4日花嬌三回忌に詠んだ句は、多少気にはなる。 目覚ましのぼたん芍薬でありしよな 何というはりあひもなし芥子の花 右が秋元双樹 信州柏原から帰ってきた翌月の文化9年、一茶50歳。いつものように 流山、馬橋とまわり、布川の月船のもとに長期滞在している間に、流山 の秋元双樹が病気で倒れたという知らせを受けた。10月12日、その 日は曇りであったが、午後4時頃から雨が降り出す。ずぶ濡れになった 一茶は、勝手知った双樹宅のこと、泥んこになった着物を洗って自分で 干した。なんとか一日でも早く全快してもらいたい、と祈る気持ちだが、 医者でもない自分には、なにすることも出来ない。ただ祈るのみだった。 14日馬橋の大川斗囿のもとに双樹の病状を報告して翌日江戸に戻った。 26日双樹は看病もむなしくついに息絶えた。「折々の南無阿弥陀聞き しりて米をねだりしむら雀哉」流山の富豪ゆえ、多くの雀たちが無心に 来たことであろう。私もその一人にすぎなかったのだが…と歌っている。 西山やおのれが乗るはどの霞 大川斗有
秋元双樹が亡くなったのは文化9年、松平定信が隠居して楽翁と称し、 高田屋嘉兵衛がロシア船に捕われ、式亭三馬が『浮世床』を著した年で もある。かねてより古郷柏原へ帰ることを考えていた一茶は、双樹が亡 くなった今、潮時と考えてのことか、双樹の葬儀のあとの11月17日 思い出の江戸を去る。振り返れば、江戸には37年間居たことになる。 一茶も今は、50歳であった。板橋、鴻巣、本庄、松井田などに泊まり、 碓氷峠では大吹雪に遭い、柏原に着いたのが24日、毎日が雪である。 是がまあつひの栖か雪五尺 それではと村に戻ったからといって、即座に村社会に馴染めるほど村は 甘くない。仙六は働き者で、父の死後、かなりの面積を新たに開墾して いた。「その半分をよこせ」と無理難題をふっかける江戸の遊民一茶に、 土地の人たちの風当たりが強いのは、当然であった。とりこんだ田畑は 自分では耕せず、小作に出す、そういうこともあり、相変わらず周囲か らは意地悪い目で見られ、頭巾を被り文人風情の姿で出歩けば誹られる。 人誹(そし)る会がたつなり冬籠り 「ああまた遊民の一茶がおるぞ、田畑を耕さないとんでもない野郎だ」 と長い冬の退屈しのぎの話題をさらう。そんな罵声が背後から聞こえて くる。こうなると憎しみはすべて、ことの発端となった継母へ向けられ るが、そんなことばかり考えていては、食べてはいけない。幸い一茶は 「江戸の一茶」として故郷信州でもかなり知られる俳諧師になっていた。 しばしば遊俳たちの句会に招かれるようになるが、いままでの苦難が頭 をかすめ不安はついてまわる。 俳諧を守らせたまえ雪仏 うまさふな雪やふふわりふふわりと それでも一茶にとって念願の古郷、雪深い場所で終生住み続けることを 覚悟する。しかし今や故郷に帰り、信州の片田舎といえど、俳諧を生業 とする宗匠であれば、何としても新妻を迎えたい。幸い、亡母くにの生 家である二ノ倉の宮沢家の徳左右衛門が結婚話を持ちこんできた。親類 に常田久右衛門というのがおり、野尻宿で農家を営み、下男下女もいる 豪農で、そこに28歳になる働き者の娘菊がいた。さっそく話は纏まり 菊を迎えることになった。 こんな身も拾う神ありて花の春 さ越しかやゆひしてなめるけさの霜 相続争いで村人にあれほど嫌われた、オレのような男でも好いてくれる 女性がいる。新春から花が咲いたような気分だと、喜びを爆発させた。 文化11年2月21日、徳左右衛門らの立ち合いのもとで、父の家を半 分分けてもらい、4月11日徳左右衛門が仲人となって一茶は菊と結婚 した。一茶52歳菊は28歳、まるで親子のようで、大いに照れている。 「五十年一日の安き日もなく、ことし春漸く妻を迎え、我身につもる老 いを忘れて凡夫の浅ましさに、初花に胡蝶の戯るゝが如く、幸あらんね とねがふことのはずかしさ」 五十聟天窓(あたま)をかくす扇かな
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