やれ打つな蠅が手をすり足をする
扇面自像自画賛 八番日記
天井や壁やガラス窓など、どんなツルツルの場所でも、ピタッと止まる
ことが出来る蠅の能力についの講釈は、さておいて、蠅が手や足をこすり
あわせる動作は、おいしい餌を探し、それをおいしく食べるため、人が手
を洗うように、常に清潔を心掛けているのだそうです。
それを一茶は、何かお祈りしている姿と捉えましたが、それがまさに一茶
の世界観だといえます。
蟻の道 雲の峰より つづきけん
「小林一茶」 30~44歳
小林一茶 旅姿
一茶が俳諧師として一目おかれるようになるのは、寛政4年(1792)
30歳のとき関所が通りやすい僧の姿で、江戸を立ち、西国への俳行脚
からである。西国には二六庵竹阿の弟子が多いし、また浄土真宗の信徒
としては、西本願寺にも参詣するつもりで、関西ほか四国、九州の長旅
に出た。夏は京阪で過ごし、秋には四国の観音寺へ。そして故郷の柏原
から江戸に戻ってきた一茶は、今度は春3月出発して寛政10年6月頃、
帰ってきているので6年に及ぶ長旅であった。
夏の夜に風呂敷かぶる旅寝哉
好きで出た旅とはいえ、時には野宿もし、身のまわりのことはすべて自
分で始末しなければならない。
秋の夜や旅の男の針仕事
一茶の旅のお供の行李
寛政5年(31歳)肥後八代で新春を迎え、長崎にも滞在。
君が世や唐人(からびと)も来て冬ごもり
寛政6年(32歳)九州各地をまわり、山口、尾道をまわって四国へ。
蓮の花虱(しらみ)を捨るばかり也
寛政7年(33歳)新年を讃岐観音寺町にて迎える。
3月17日大坂着。5月頃には京都にいた。この年一茶は寛政4年から
の西国俳諧修行の旅の成果を「たびしうゐ](旅拾遺)という本にまとめ
出版する。当時、句集を出版する場合には、句の作者は一句ごとにお金
を支払う、いわば出句料を拠出する習慣があった。つまり「たびしうゐ」
で紹介された句の作者は、応分の出句料を一茶に支払った。西国俳諧修
行中、一茶は、各地の俳人を巡る中で、俳諧の先生として受け入れられ、
報酬を得ながら旅を続けてきたものと考えられる。7月俳人素丸が死去。
10月12日、近江義仲寺の芭蕉忌に列席している。
是からも未だ幾かへりまつの花
栗田樗堂
寛政8年(34歳)ふたたび四国に渡り、松山で酒造業を営む豪商栗田
樗堂(ちょどう)と歌仙を巻くなどして、ここに長逗留、道後温泉で句
を作っている。
寝転んで蝶泊まらせる外湯哉
一茶は、当時多くの俳諧師たちが、芭蕉の足跡をたずねる道の奥、東北
から北陸を遊ぶのにあえて四国、西国の旅を選んだだけあって四国では
当代一流の俳諧師たちと句会を通して親交を結んだだけでなく、旅の先
々でも『万葉集』などの古典学習を怠らず、しだいに独自の俳風を確立
していった。
月朧よき門探り当てたるぞ
寛政9年(35歳)西国俳諧修行の旅の総決算ともいうべき著作『さら
ば笠』を京の書林勝田吉兵衛から刊行。6月末木曽路を経て故郷の柏原
へ帰る。9月末帰京し『急逓記』を記しはじめる。急逓記とは、一茶の
旅着発の書簡控えである。10月10日立砂と真間手児奈堂に遊ぶ。
夕暮れの頭巾へ拾う紅葉哉
大田南畝
寛政10年(36歳)俳諧、和歌、川柳が最盛期を迎え『俳風柳多留』
『俳風末摘花』がベストセラーに。一茶が生れ育った明和、天明、寛政、
文化、文政の時代は、江戸や上方に様々な「笑文芸」が生れ興った年で、
柄井川柳が川柳を広めたのは、江戸中期明和のころであった。
戯言歌といわれた「狂歌」が流行ったのは天明、烏亭正焉は狂歌師とし
て活躍し、落語も自作自演し落語中興の祖といわれた。南畝や京伝らの
「洒落本」が出たのも明和~天明にかけてで、そのあとに引き続き十返
舎一九の『東海道中膝栗毛』や式亭三馬の『浮世床』などの滑稽本も出
ており、こうした文芸の花盛りの時代、一茶もそうした風潮の影響を受
け面白い句を多く作った。
罷り出でたるは此の藪の蟇(ひき)にて候
一茶が手にしているものは何 頬杖
西国への旅には一茶の様々な思いがあった。浄土真宗の盛んな土地に育
った一茶にしたみれば、京の東本願寺参詣は年来の憧れであった。一年
中参詣者は絶えず、門前には多くの宿屋や仏具、法衣を売る店、土産屋
などが立ち並び、典型的な門前町を形づくっている。西本願寺と合わせ
ると、真宗門徒の数は千数百万人といわれている。一茶は、どうしても
一度はこの東本願寺を詣でたかった。また名実ともに二六庵の弟子が多
い西国にきちんと挨拶回りをする必要もあったし、また京阪の談林系の
有力俳諧師と会って見聞を広め、箔をつける必要もあった。
門前や何万石の遠がすみ
松尾芭蕉
「若いうちに見聞を広める。そりゃいい考えだ。芭蕉だって奥の細道の
旅をしたことによって多くのものを得た。及ばずながら助力しましょう」
簡単に旅といっても、金のいること。貧乏な一茶は、馬橋の大川立砂や
流山の秋元双樹に相談をもちかけたに違いない。芭蕉には魚問屋の鯉屋
杉風というパトロンがいたし河東碧梧桐には東本願寺の大谷句仏がいた。
一茶は髪を剃り、僧侶の姿をして江戸を出た。坊さんだと相手も警戒心
を緩め、喜捨にあずかることも多かろう。人との情を容易に得られるた
めの方弁でもあった。
剃捨て花見の真似やひのき笠
寛政11年(37歳)11年正月、江戸に帰っていた一茶は、浅草八幡
町旅館菊屋儀右衛門方で新春を迎え、3月末には、再び旅に出る、甲斐、
越後への旅のあと、11月2日いつものように馬橋に出かけて立砂と炉
端談話を楽しんだ。
人並にたたみの上で月見哉
その日、立砂も機嫌よく迎えたが、急に気分が悪くなって倒れ、その夜
のうちにあっけなく死んだ。親とも師とも頼む立砂の突然の死に、一茶
はただ茫然とするばかり。「ほんとうに、あなたがくるのを待っていた
ようでしたよ」と、息子の斗囿(とゆう)は何度も言った。
何はともあれ、一茶は6年の旅で立砂が期待していた通り、まさに俳諧
の宗匠としての風格をそなえ、作風も格段の進歩をとげていた。この年
一茶は、正式に二六庵を継いだ。
炉のはたやよべの笑ひが暇ごひ
(画像を拡大してご覧ください)
俳諧番付のなかの一茶の位置
① 「俳諧士角力番組」 文政4年(1821)
下から二段目「差添」右側に一茶の名がみえる。
② 「諸国流行俳諧行脚評定」 文政6年(1823)
「行事」として左側に一茶がいる。
③ 「正風俳諧師座定配図」 文政5~6年版
最下段「勧進元」に一茶の名がある。
※こうした番付には、俳諧の世界でもかなり知られた人物が名を連ねる。
その点で一茶は、晩年、俳諧仲間では押しも押されもしない存在だった
ことがわかる。
寛政12年(38歳)2月27日、蔵前の俳人の夏目成美と俳諧。成美
と一茶の連句がある。両者の連句の初見である。夏目成美は、大島完来、
鈴木道彦、建部巣兆と共に江戸四大家と称されており、寛政2年頃、成
美の法林庵(随斎)で催される句会に足繁く通ったという。 成美は一茶
より14歳年長だが、少しも偉ぶるところがなく、流派を問わず、つね
に優しい態度で一茶を迎え入れたという。この年、大坂で発行された俳
人番付に「前頭江戸一茶」と載る。葛飾派では一茶一人のみだった。
雉鳴て朝茶ぎらいの長閑也 成美
二葉の菊に露のこぼるゝ 一茶
享和元年(39歳)3月信州柏原に帰郷。4月末、一茶と継母と仙六と
の対立激しく、父・弥五右衛門は、一茶宛てに財産分割の遺言を書く。
そしてこの年の5月21日父・弥五右衛門は69歳で死ぬ。
一茶15歳の春、江戸へ立つ息子を牟礼宿(むれじゅく)まで送ってく
れた父が「あと2,3年もすれば家督を譲れるのに、年はもいかぬ痩骨
に荒奉公をさせ、つれなき親と思いつらめ」と危惧と悔恨に泣いた父で
あった。一茶の『おらが春』には<鬼ばば山の山おろしに吹折れ〳〵て、
晴ればれしき世界に芽を出す日は一日もなく、暗鬱な日々を送って歳を
とってしまったが、こんな辛い思いをさせたのも、鬼ばばの仕業だと、
生涯継母・さつを恨み続けた>とある。
痩せ蛙まけるな一茶是に有
本所深川の堅川付近
享和2年(40歳)大坂の俳人番付にたとえ「前頭江戸一茶」と載った
としても、江戸に帰れば、一茶は依然として信州生まれの田舎俳諧師に
すぎなかった。本所深川の間を流れる堅川付近の借家住いで、そこを拠
点に下総地方の俳諧師たちをまわる暮らしが続いた。ようやく40代に
入るころ、江戸きっての遊俳夏目成美に認められ、彼の句会である随斎
会に参加できるようになり、江戸で著名な一流の俳諧師たちと交われる
ようになった。しかし、一茶にとっての江戸は、安住の地ではなかった。
依然、裏長屋住いであり、貧窮な店借の暮らしには変わりなかった。
秋の風乞食は我を見くらべる
享和3年(41歳)この頃、真言宗勝智院の寺内にある本所五つ目大島
の愛宕社に住む。住職の栄順は俳人。4月になると上旬房総から浦賀へ
の旅。8月7日には、下総布川へ巡回俳諧師の旅を続け、上総、下総を
こまめにまわり、他人の家に泊まることが多かった。女流俳人織本花嬌
のいる木更津へ通うのはこのころからで、木更津船を利用して文化14
年(1817)まで11回行っている。4月半ばから12月半ばまで、
「享和手帖」を書く。11月に流山の双樹と歌仙を行う。
名月や乳房くはへて指さして 花嬌
名月をとってくれろと泣く子かな 一茶
享和4年(42歳)この年の初めから文化5年まで『文化句帖』
2月、流山で『俳諧草稿』をしたためる。3月、享和から文化へ改元。
10月末、本土寺で芭蕉句碑の建立があり列席する。10月愛宕社を
引き払い相生町5丁目に引っ越す。この相生町5丁目の家は間借りでは
なく、小さいながらも一軒家であり、庭には梅や竹が植えられていて、
垣根には季節になると、朝顔が育った。家財道具一式を親交深い流山の
秋元双樹がプレゼントしてくれており、これまでよりも暮しに落ち着き
が出来た一茶のもとには、俳人の来訪者が増えた。
梅が香やどなたが来ても欠茶碗
当時の句会場
文化2年(43歳)夏目成美の随斎会で歌仙興行。福引会やら花鑑賞や、
無礼講の酒宴などもあるサロンで、巣兆、蕉雨、道彦、一瓢らは常連。
10月、立砂亡きあとも経済支援を受けている馬橋の大川斗囿を訪れる。
霞む日や夕山かげの飴の笛
文化3年(44歳)深川で流山の双樹と歌仙。
この頃、一茶は葛飾派の句会に出席しなくなった。一茶と葛飾派との関
係が徐々に疎遠となっていったのは、一茶にとって葛飾派の作風が物足
りなくなり、また閉鎖的な葛飾派の体制に飽き足らなくなったからでは
ないかと考えられている。
夕月や流れ残りのきりぎりす
少し戻る享和元年(1801)3月頃、一茶は故郷柏原に帰省した。一茶が
父の死去の経緯について書いた「父の終焉日記」では、一茶が帰省中の
4月23日、父が農作業中に突然倒れたとしている。父の病状は次第に
重くなり5月20日には危篤状態となった。危篤状態の父の姿を一茶は 、
父の寝ている姿を前に一句詠んだ。
寝すがたの蠅追ふもけふが限りかな
父は5月21日の明け方に亡くなった。父の葬儀を終え、初七日に一茶
は継母さき、弟仙六に対して遺産問題について談判した…。
父ありてあけぼの見たし青田原
[3回]
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