「小林一茶」 小説『一茶』ー藤沢周平
長沼一茶門人連衆 中央が一茶
小林一茶という詩人は「痩蛙まけるな一茶是に有」「やれ打な蠅が手を
すり足をする」といった小さきもの、敗れゆくものに対しての愛情を、
ユーモアを持った俳句に詠んだ。そのことによって、中学生などにも好
かれている。そして、多くの大人たちにとっても、一茶という俳人のイ
メージは同様のものであろう。これはしかし、ある時期までの藤沢周平
にとってもそうだったようで、彼は「一茶という人」というエッセイで、
こう書いている。
≪私の頭の中には、善良な眼を持ち、小動物にも心配りを忘れない。
多少こっけいな句を作る、俳諧師の姿があっただけだった≫
ところが藤沢が青年時代、東京の北多摩の結核療養所で俳句の会に出る
ようになったあと、そういう一茶像を「みじんに砕くようなこと」が起
こった。<一茶は義弟との遺産争いにしのぎをけずり、あくどいと思わ
れるような手段まで使って、ついに財産をきっちり半分取り上げた人物
だった。また50を過ぎてもらった若妻と、荒淫ともいえる夜々をすご
す老人であり、句の中に悪態と自嘲を交合に吐き出さずにいられない、
拗ね者の俳人だった>
これには愕然とし「あっけにとられる思いだった」と書いている。
(一茶のユーモラスな句)
かくれ家や歯のない口で福は内
をり姫に推参したり夜這星
振向ばはや美女過ぎる柳哉
ふんどしで汗をふきふきはなしかな
陽炎や縁からころり寝ぼけ猫
不性猫きき耳立てて又眠る
木母寺の鉦の真似してなく水鶏
その一茶像のあまりに大きな落差により、藤沢は『一茶』という俳人に
対する感心を抱き、かれの俳句や、かれについての伝記を少しずつ読む
ようになったという。
<そしてゆっくりと価値の転換期がやって来たのが近年のことである。
一茶はあるときは欲望を剥き出しにして恥じない俗物だった。貧しく憐
れな暮らしもしたが、その貧しさを句の中で誇張してみせ、また自分の
醜さをかばう自己弁護も忘れない。したたかな人間でもあった。だが、
その彼は、また紛れもない詩人だったのである>
藤沢がこのエッセイを書いたのは、歴史小説の『一茶』を連載中のこと
である。ここに藤沢がどのような考え方において、一茶を描きだそうと
したのかが、余すところなく述べられている。 (松本健一)
(一茶の句の特徴)
我好きで我する旅の寒さ哉
旅の皴御覧候へばせを仏
霜がれや鍋の炭かく小傾城
ともかくもあなた任せの年の暮
としとへば片手出す子や更衣
片乳を握りながらやはつ笑い
仰のけに落て鳴きけり秋の蝉
身の上の鐘と知りつつ夕涼み
一茶が所持した折りたたみ式マップ (拡大してご覧ください)
小林一茶は宝暦13年(1763)、信濃柏原の農家に生まれた。名は弥太郎。
3歳で母に死別し、8歳で継母との反目が続き、15歳で江戸に奉公に
出た。これが生い立ちの伝記的事実である。
藤沢は『一茶』でその伝記的事実を押さえながら、父親・弥五兵衛が江
戸に出る弥太郎(一茶)を見送りに来た場面を、次のように描いている。
『「あのな」
弥五兵衛はそう言った。だがそのままいつまでも黙っている。
弥太郎が顔をあげると、放心したような父親の横顔が見えた。
父親がみている方に、弥太郎も眼をやった。
ゆるやかな山畑の傾斜の下に、丘は一たん落ち込み、そこから
北の鼻見城山に這いのぼる斜面が見えた。
日に照らされているのは、寺坂、善光寺、塩之入の村々らしかった。
通り過ぎてきた牟礼の宿は、谷間のような丘のくぼみの端に、わずかに
人家がのぞいているだけだった。
途中の丘に遮られて、柏原の方は見えなかった。
澄んだ青い空が、北に続いているだけである。
「身体に気をつけろ」
不意に弥五兵衛は、弥太郎に向き直って言った。
ぎこちない微笑を浮かべている。
「はじめての土地では、水に慣れるまで用心しないとな」
「それからな」
弥五兵衛は、弥太郎をのぞきこむようにして、ちょっと口籠ってから
言った。
「お前は気が強い。ひとと争うなよ」
弥太郎は、父親がお前はひねくれているから、と言おうとしたのかも
知れないと思ったが、素直にうなずいた。
弥五兵衛は、低い声でぽつりぽつりと訓戒めいた言葉を続け、最後に、
「時どき便りしろ、辛抱出来ないときは、遠慮なく帰ってこい」
と言った。
「では、ひとが待っているから、行くか」
と弥五兵衛が言った。
それで別れの儀式が終わったようだった。
弥太郎がほっとして道端にいる連れを振り返ったとき、後で奇妙な声が
した。振りむいた弥太郎から顔をそむけて、弥五兵衛が言い直した。
「ほんとうはな…」
言い直したが、まだ喉が詰まった声になっていた。
「江戸になど、やりたくなかったぞ」
「……」
「わかるな」
(旅の句)
剃捨てて花見の真似やひのき笠
衣がへ替へても旅のしらみ哉
通し給へ蚊蠅の如き僧ひとり
一茶自筆
その後、一茶は俳諧師として世には出たものの、一門を立てることがで
きない。一門を立てられなければ、俳句の宗匠として、生活してゆくこ
とができないのである。彼は全国流寓のはてに、故郷で父の死にあった。
これも伝記的事実である。
藤沢は死を前にした老いた父親と一茶の会話を、次のように描いている。
「お前、なんぼになる」
「三十九だ」
「それじゃ来年は四十になる。そしてな四十になると五十はすぐだぞ」
一茶は顔をあげた。父親の声に胸を刺されていた。
その一茶の眼に、弥五兵衛はうなずいてみせた。
「そうさ、あっという間に五十になる、いったいいつまで浮草の暮らし
を続けるつもりかね」
江戸時代は四十歳といえば、初老である。老年期に入っている。
その老年期に入っても、まだ家も妻も持たず、定住の地を持っていない
一茶は、父親の言うように浮草である。
藤沢は一茶の文学的遍歴を描きながらも、実生活の方も見逃さずに描い
ている。かれは武家を描く小説で、生活者としての武士に焦点をあてた
ように、俳人としての一茶を描いても、その実生活から目をそらすこと
はしなかったのである。
(世を厭う句)
雉鳴いて梅に乞食の世也けり
茨の花ここをまたげと咲きにけり
時鳥我身ばかりに降る雨か
五月雨や夜もかくれぬ山の穴
柏 原 宿
文化九年、一茶は故郷に帰ってくる。五十歳になっていた。遺産問題で
継母側と争い、文化十年には和解が成立して、翌年初めて結婚する。
藤沢は次のように描いている。
『巻紙をひろげると、暫く考え込んでから「柏原を死所と定めて」と前
置きし、次に行を改めて句を書いた。
是がまあつひの栖か雪五尺
雪が降り積もる夜道を帰りながら案じた句だったが、書いてから迷いが
出た。中七の坐りが悪い気がしたのである。一茶はついの栖の隣に、
「死所かよ」と併記した』
(ふるさとの句)
たまに来し古郷も月もなかりけり
寝にくくも生れ在所の草の花
背筋から冷つきにけり越後山
心からしなのゝ雪に降られけり
歴史上の人物なら、日記や手紙といった一次資料や、先行する記録研究
がその小説化の土台になるのはいうまでもない。ところがそこに、同じ
く言葉でありながら、事実の世界とはまた違う次元にずれ込んで、詩歌
の言葉が並ぶ。そのことが何といっても詩人や歌人を扱う小説の難しさ、
だという。
「ざっと一万」
いや待て、ひょっとしたら二万くらいも作ったかな、と一茶は呟いた。
「二万句じゃぞ。日本中さがしても、そんなに沢山に句を吐いたひとは
おるまい」
「えらいもんじゃねえ、じいちゃん」
とそばに寝ているヤヲが言った。ヤヲは前の妻雪が去ってから丁度二年
たって迎えた三度目の妻だった。まだ若かった。ヤヲの声は眠げだった。
「なにしろ、花のお江戸で修業したひとだもんなえ」
「なにも沢山作ろうと思って作ったわけじゃない。だがわしは、ほかに
は芸のない人間でな。鍬も握れん、唄もうたえん、せっせせっせと句を
作るしかなかったの」
「……」
「誰も褒めてくれなんだ。信濃の百姓の句だという。
だがそういうおのれらの句とは何だ。絵に描いた餅よ。花だと、雪だと、
冗談も休み休みに言えと、わしゃ言いたいの。
連中には、本当のところは何も見えておらん」
「……」
「わしはの、ヤヲ。森羅万象みな句にしてやった。月だの、花だのと言
わん。馬から蚤虱、そこらを走り回っているガキめらまで、みんな句に
詠んでやった。その眼でみれば蚤も風流、蚊も風流…」
一茶は口を噤んだ。闇の中にヤヲの寝息が聞こえている。その向こうに
ヤヲの連れ子の倉吉の幼い寝息も聞こえてくる。若くて丈夫なヤヲには、
眠もすみやかに訪れるらしかった。一茶は微笑した。
(一茶の小動物の句)
昼の蚊やだまりこくって後ろから
やれ打つな蠅が手をすり足をする
雀の子そこのけ〳〵お馬が通る
蝶々を尻尾でなぶる子猫哉
松虫や素湯もちん〳〵ちろりんと
夕日影町一ぱいのとんぼ哉
あまり鳴いて石になるなよ猫の恋
大江戸や芸なし猿も花の春
おりよ〳〵野火がついたぞ鳴雲雀
牢屋から出たり入ったり雀の子
(拡大してご覧ください)
藤沢がとりあげる一茶独自の句は<木枯らしや地びたに暮るる辻諷ひ>
というローアングルな「町行く人を足元から見上げるかのよう」な作品
である。また、俗物そのものでありながら、透明な美しさをもって句を
つくることのできる詩人一茶の<霞む日や夕山かげの飴の笛>という作
品である。かくして、藤沢は一茶が「俗物である」にも関わらず、かれ
の句を「取り澄ました俗っぽさから救ったのは強烈な自我の主張ではな
かったか」と考え、そのような自我の強い一茶像を描こうとした。
それが一茶という歴史小説にどう描かれているかが、本作品の読みどこ
ろだろう。(松本健一)
春立つや四十三年人の飯
[4回]
PR