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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ひぐらしの閉会宣言聞きながら  河村啓子






    『曲亭一風京伝張』



巻頭の草双紙『曲亭一風京伝張』に描かれている絵は「著作堂」の文字
が見えるところから、飯田町の馬琴の古家の二階か、山東京伝(右)が
馬琴の家を訪問し、制作中の著作について会話を交わしている。
茶を運んでくるのは美しすぎる―? 馬琴の妻・お百だろうか。






58歳の馬琴は剃髪して蓑笠漁隠と称する。


「滝沢馬琴」-②    & 葛飾北斎・山東京伝
馬琴と北斎が『椿説弓張月』の共作に耽った家とはどんなところだった。
『家広しとにはあらねど、爽(さやか)に住みなして客間あり居間あり、
書斎あり厨あり。室を限る事八つ、障子・襖を初め、調度すべて備わら
ぬはなし。植込みの様はいやしからず、花は落葉の見苦しいとて、常盤
の色を多く植えたれば、風の調べいとゆかしく池の漣(さざなみ)金鱗
(鯉)を浮かべてまばゆし。艮(うしとら)には高き山を築き、稲荷の
社を勧請せるは、鬼門の鎮めとかや。庭もせに生い敷ける芝生の、塵も
すえじと掃らい清めたるなど、心地よしともよし。あわれ、いかならむ
あで(どんな急の用事で)人来まさんとも恥ずかしからぬ様なり』
これは7歳でこの家を離れたつぎという女性の回想であり、別に、山と
積んだ本で家は狭く傾いていたという記もあるから、どうも誇張っぽい。
何はともあれ、巻頭の絵にも描かれてる二階の一室・「著作堂」で馬琴
と北斎の作業(著作・挿絵)が始まった。


一割ほど乗せさせてもろてます  雨森茂樹




「馬琴と北斎」 出会い
著作堂で2人は、異常ともいえるほどの集中力と精力を作品に傾注した。
そして数か月が過ぎ去った。結果はすぐに出た。馬琴の史伝読本の初作
となった『椿説弓張月』前編が文化4年に発布されるや、予想を上回る
評判を呼び、2人の名を一躍高めることになる。
 『椿説弓張月』とは前半『保元物語』を後半『水滸後伝』を下敷きに、
鎮西八郎為朝が保元の乱に敗れて伊豆大島に流され死んだはずの為朝が
琉球に渡り琉球王国を再建するという「奇想天外」「勧善懲悪」の伝奇
物語である。この5編28巻29冊からなる大河小説―馬琴の縦横無尽
の想像力を駆使した破天荒かつ壮大な冒険奇譚―は北斎の劇的かつ生々
しい筆致の挿絵とあいまって、砕いていえば馬琴の堅苦しい文章に北斎
の躍動的な絵筆が、生命力と臨場感を与え、江戸市中の話題をかっさら
ったのである。


いつの日か空を飛びたい二枚貝  三村一子





前にも述べたが、北斎が馬琴と組んだ最初の仕事は、『花春虱道行』
北斎がまだ勝川春朗を名乗っていた寛政4年のこと。
27歳の馬琴は、蔦屋で手代をしながら、山東京伝門人大栄山として戯
作者の第一歩を踏み出して間がなかった。一方の北斎はこの年33歳、
師の春章が他界し、転機を迎えようとしていた。
この2人を結びつけたのが耕書堂の主人・蔦屋重三郎であった。北斎は
勝川派を首になり、二代目・俵屋宗理を襲名していた。寛政8年のこと
である。これまでに絵や著作を持ち耕書堂に出入りをしていた北斎は、
当然の如く、手代の馬琴と世間話をする機会もあったろう。天才2人の
初めての出会いである。そうした必然的出会いの中で北斎は、馬琴から
『北斗七星は、星の中で最も光の強い大物の星であり、かつまた天上で
の最高が、永遠に生きる北斗だ』と聴かされた。
北斎は脳味噌の中の鱗がポロポロ落ちる音を聞き、たちまち北斎は
「故事来歴古今東西」馬琴の学識の広さに「尊敬の念」を持ったという。





天秤を揺らす出会いという奇跡  真島久美子






 
弓張月文言




弟子の証言によれば『北斎はいつも『法華経普賢品』の呪(まじな)い
を唱えていた。それは外出の途中でも、唱えて止めなかった。この呪い
を唱えて歩いている時は、たまたま知人に会っても目に入らず、たとえ
声をかけられても雑談することも嫌った』という。
北斎は日頃から、柳島の妙見さんのお参りを絶やさない熱心な日蓮宗の
信者である。ご本尊の妙見菩薩は、北斗妙見または北辰妙見とも呼ばれ、
国土を守護し災厄を除き人に福利を与える神様で、「永遠に輝く」星・
北斗七星は御神体とされている。
馬琴の話を聞いてまもなく北斎は、宗理改め「北斎辰政」の号を名乗る。
いわゆる馬琴は「北斎」の名付け親なのである。また北斎が馬琴を尊敬
していたことは、蔦屋重三郎宛に著した『竈将軍勘略之巻』(かまどし
ょうぐんかんりゃくのまき)の草紙の末に載せている「悪しきところは、
曲亭馬琴先生へ御直し下され候様云々」の文面を見ても分かる通り。
こうした訳があるから北斎は、馬琴の共作の呼びかけに、即座にO・Kを
だしたのである。


ゆでたまごつるりとむける朝でした  赤松蛍子




またマイペース型の北斎がどれだけ馬琴にへり下っていたかが飯島氏の
『葛飾北斎伝』でも分かる。
「日ごろ北斎は外出するのに下駄を用いることはなく、また雪駄を用い
ることもない。雨降りで道がぬかるんで悪い時は、草履を履き、晴れて
泥土が乾けば麻裏草履を用いた」と弟子の為一が語っているとある。
それが馬琴の家に食客(居候)になった折には、
「恰も門弟のごとく、共に他に出る時は、北斎は麻裏草履を履き、後ろ
に付き添って歩きたり」とある。
兎にも角にも正反対の性格の天才同士、これまで何度も互いの芸術論で
ぶつかってきた。周りの人たちも、2人が一つ部屋に籠って行う仕事に
いつ火花が飛び交うのか、心配は尽きなかった。
ところが北斎が一歩下がったお陰で、安寧・平和裏に仕事が進んだ。
「この按配じゃァ、当分、あの先生方の間に波風も立つめえ」
傍目には、阿吽の仲のようにも映った馬琴と北斎の様子に、江戸の書肆
が安堵の胸をなでおろした…。
のも束の間……「北斎・馬琴の大喧嘩」へ、続きは、馬琴ー③で。



泥跳ねをいっぱい付けて歩いてる  津田照子






   山東京伝


「馬琴と京伝」 絶交
この『椿説弓張月』全編六巻を刊行するに至って馬琴は、山東京伝と肩
を並べる地位を築いた。そこで独占欲の強い馬琴は、合巻においても、
最大のライバルと目していた京伝を打ち負かしてやろうと京伝の代表作
『桜姫全伝曙草紙』(文化2年)の主人公・桜姫、清玄桜江姫之助、
清玄尼と男女をとり替えて『姥桜女清玄』(文化7年)を書き、京伝に
対し「どうだ!」とばかり戦線布告をしたのである。
さすがに温厚な京伝も、売られた喧嘩はとこれに応じて『桜姫筆再咲』
を書いた。しかしあえなくこれは京伝の勝ちで、馬琴を打ちのめした。
ところがその3年後の文化10年、今度は京伝が『双蝶記』で馬琴との
競争に決定的に敗北を喫してしまう。馬琴が気をよくしたことはいうま
でもない。京伝はこの敗北を自ら認めて読本の筆を折ってから、馬琴は
読本だけでなく、戯作界の王者ともいうべき地位を保つことになった。


爪切って小さな乱をうんでいく  山本昌乃



この泥仕合をうんだ背景には。馬琴の一方的な確執がある。
何の根拠もなく、曖昧な論理で感情的になった馬琴の一人よがりという
ものだった。主な原因の一つは、貯蓄論についての意見の衝突であった。
京伝は自身没後の生計として、理髪店の株を買い求め置き、その利金を
妻に与えようと考えて、事の是非を馬琴に相談をした。
そのとき馬琴は居丈高に開き直って、孔孟の言を持ち出して京伝を攻撃、
蓄財の不義を説いたのである。
「財を遺すは後の患いを残すことになる。私に男女の子あるが財を遺す
余力などない。まして妻のために後のことなど思っている暇などない」
と強弁し京伝を攻めた。
京伝は「そんな考え方をしていると将来暗渠だよ。友も失ってしまう」
と言ったが、馬琴はそれを聞いて「人各志あり」と答えて、何の悔いる
ところはなかった。馬琴40代の頃で、これが両家疎遠の一因となった。



四捨五入された四から乾きだす  掛川徹明




ともかく馬琴は、江戸生れの江戸育ちに関わらず、人付き合いが嫌いで、
偏狭で尊大傲慢のそしりを免れなかった。それどころか同業者に対して
嫉妬深かった。「小説・読本にかけては、往古と今とを言わず、京伝を
冠とし次に馬琴なり」(伝記作書)とか「近来京伝につぎての作者に御
座候」(大田南畝の京坂知人への紹介状)とか、とかく京伝の下に置か
れがちだった。こうした他人の評価が馬琴の京伝を嫌う発端だろうが、
しかし無頼放浪の馬琴が世に出るまでは、京伝の家に強引に居候したこ
とを初め、いろんな世話になっていて、京伝は先生になることを断った
とはいえ、師といってもおかしくない。その師でもあり、読本界を二分
していた京伝は、馬琴の『南総里見八犬伝』刊行を機に読本制作を断念、
二年後の文化13年9月7日、56歳でこの世を去ってしまった。
ところがその京伝の葬儀に際し、馬琴に通知したけれど、息子の宗伯
名代として寺にやったばかりで、当人は現れず、初七日に招かれても、
姿を見せなかったという。


遮断機が上がる「いつか」とすれちがう くんじろう







  桜姫全伝曙草紙



『桜姫全伝曙草紙』とは、
桜姫を一目見て清水寺僧清玄は、深い恋の淵に陥ちてしまう。
その美しさに魅せられてしまった心は、どう足掻いてももとの時分に戻
しようがなく、かなわぬ想い」と寺を出る。
時は過ぎて、清玄は墓守をしていた。そこに桜姫の棺が運ばれてくる。
死んでもなお美しい遺体に無常を観じて流した清玄の涙が、桜姫の口に
入ると、姫はたちまち蘇生する。
「ここで自分の思いを果せないでなんとする」
清玄に昔の愛着が沸々と蘇り、桜姫に迫った。
だが、たまたまそこに居合わせた弥陀二郎に殺されてしまう。
「あな怖しや腹たちや、目前に修羅の苦を見るは誰ゆえぞ、姫ゆえに生き
ながら地獄に堕する此の恨みいかばかり、何にかえても思ひしらさでおく
べきか」
清玄は、愛欲の死霊となって纏わり続けるという怪奇物語。


後ろめたい昨日の雑巾が乾く  山本早苗





  江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)




【蘊蓄】 上の本の題にしろ京伝は「名付けの名人」
ポルトガル語に「調理」の意味で「テンペロ」というの言葉があり。
それに「天婦羅」という漢字をあてたのが、山東京伝だとか。
 上方から江戸に芸妓と駆け落ちしてきた利助という男が、
「大阪には魚を油で揚げた<つけあげ>というものが、江戸では見当たら
ないので、夜店でこれをやってみたい」と京伝先生に相談をした。そこで
京伝先生が利助の作ったものを試食してみるとなかなか美味しい。余力
「いいんじゃないか、賛成だよ」と先生に絶賛をしていただいたところで、
利助は「折角だから名前をつけてほしい」
と頼んだ。
そこでポルトガル語が分かる先生「テンペロ」「天麩羅」という漢字を
つけて「てんぷら」呼んだ。漢字はその時の利助の風体を見て、天竺風の
「天」「麩」小麦色の「羅」<うすぎぬ>の衣を纏っていたということで
「天麩羅」と付けたとか。「さすが小説を書く先生だ」と利助喜んで、
人生再出発をしたのです。(蜘蛛の糸巻) 
ゆくりなく よその軒にも つたえしは なか/\はつる 蛛の糸巻 




転ぶのも無駄でなかった空の青  森口美羽

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善人の顔になかなかなってこぬ  新家完司
 
 

 

   滝沢馬琴


 
「滝沢馬琴」ー① 山東京伝・葛飾北斎


明和、安永、天明、寛政、享和、文化、文政、天保へと
江戸の暦が小刻みに変化する中で滝沢馬琴は生れ、そして死没するまでに
馬琴は非常に多くの著作を書き、また大都市江戸の日々の生活を知ること
ができる日記を残した。また馬琴の長男・鎮五郎(宗伯)の妻・も目を
失った馬琴の目となり、自らも馬琴の意志を継いで、日記を書き続けた。
その日記の多くが散逸したり焼失したりしたが、馬琴の生涯や家族、暮ら
し、人柄などが十分かる程度に残る日記で読み取れる。それらを纏められ
た多くの馬琴研究者に敬意をはらい参考にしながら、京伝や北斎と同時代
に生きた馬琴を追いかけてみた。

浮雲に繋がる時のコンセント  みつ木もも花

明和4年(1767)6月、馬琴は武士(父滝沢興義)の家に生まれた。
何故このように書くかと云えば馬琴は武士の家に生まれたことを、誇り
にしていたからである。しかし武士とは言え、滝沢家は代々一千石の松
平家に仕える家臣で、武士の身分に属してはいたけれど、主人が一千石
だからその家臣ともなれば、どのくらいの扶持をもらっていたか、想像
がつく。凡そ給与は、1年に2両2分2人扶持と狭い小屋だけであった。
2両2分とは、その頃、江戸では年季奉公の下女・折助・中間・六尺な
どの給金である。
しかし将来の息子の出世の期待をする父は、興邦(馬琴)の幼少期には、
亀田鵬斎に儒書を山本宗洪に医術を、儒者・黒沢右仲に論語を学ばせ、
竹庵吾山の門では俳諧の席にも出させた。さらに占星術や算術など様々
な学識を身につけさせた。この時に故事来歴・古今東西物知りの馬琴が
誕生したのである。

はるばると虹の根っこを狩りにゆく  木口雅裕


馬琴のその人生の出発点となるのは、寛政2年(1790)24歳の時
である。窮屈なお勤めや貧乏が嫌で家を飛び出し、親族・旗本や次兄の
興春のところなど転々としながら、15歳の時、叔父のもとで元服し、
通称・佐七郎を実名を興邦と称した。その後も馬琴は、定まった居所も
仕事も持たず、生業として、医師となるか儒者あるいは、俳諧師となる
かと迷い、医書よりも儒書の方が好きだったが、どれもこれも彼の肌に
合わず、無頼な青春時代を過ごした。
結果的に戯作を書く決意を固め、当時人気随一の戯作者・山東京伝の門
を叩き「弟子にしてほしい」と申し入れたたのが、24歳の時であった。
江戸っ子で気のいい京伝は、
「もの書きは、別に食えるだけの家業のかたわら、慰みにするものだ。
いまの作家は皆そうだ。また戯作は弟子として教えることは何もない。
私をはじめ、昔からいままでの戯作者には、師匠はひとりもいない。
だから弟子入りはお断り。しかし遊びに来たかったらきたまえ、作品が
できたら見てあげよう」
と言い、夢を諦めさせるべく馬琴を帰したという逸話がある。
幸か不幸か出会いのあとのそのあとの  安土理恵


しかしその後も馬琴は、よく京伝のところにやってきた。
が、そのうち占星術に覚えのある馬琴は、占い師で一稼ぎしようと神奈
川に出かけたまま、70日程京伝のところへ何の便りもよこさなかった。
「あの若者はどうしたのだろう。狼にでも食われたんだろうか」
ふと京伝が馬琴を思い出し、冗談を言っていると、ある日、
「ただいま帰りました」
と馬琴が現われた。
「留守中、洪水で畳は腐ってしまうし、壁も落ち、勝手のものも流れて
しまいました。占いのほうも儲からなんだし、どうしたらよいでしょう」
と本当なのか、お惚けなのか放蕩者の一面をのぞかせる。
食いつめた馬琴を、京伝は自分の家の居候において、戯作の代作をさせ
ることにした。馬琴の粘り勝ちで出入りを許されたのである。
翌年、馬琴は大栄山と名乗って黄表紙『尽用而二分狂言』(つかいはた
してにぶきょうげん)を初めて書いた。

A4からはみ出しB5になったは  山本昌乃



しかし京伝が、
「戯作者などになっても、素人の女房は養えない。まだ若いのだから、
武家に奉公するより本が好きなら本屋で働いたらどうだろう」
と忠告したところ、もとは松平家で武家奉公をしていて、それに見切り
をつけて逃げ出してきた馬琴が承知するはずがない。
「いまさら奉公という束縛を受けたくない」
と答を返した。
「それじゃどうして、生活をしていくんだね」
「じつは世渡りの道を二つ考えています。ひとつは太鼓持ち、ひとつは
講釈師です。どちらがよいでしょう」
京伝は呆れたが、
「二つのうちではまだ講釈師のほうがましだろう」
というと、馬琴は急に『伊達記』を呻りだし京伝に聞かせた。
それはとても聞かれたものじゃなかった。

まず今日の息を正しく吐いてみる  中野六助


結局、馬琴は寛政4年に京伝の紹介で興邦を瑣吉に改め、狂歌集や戯作
出版の耕書堂・蔦屋重三郎の手代となって奉公することになった。
奉公の傍ら執筆に精を出し、同5年耕書堂、甘泉堂などから出版した。
この頃は寛政の改革の真っ最中で、戯作の中でも女郎買いをもっぱら主
題とした「洒落本」は禁止となっていたので、馬琴は『花団子食気物語
(はなよりだんごくいけものがたり)』『御茶漬十二因縁』など、一冊
5枚の黄表紙を書いた。垢抜けのした才知を必要とする黄表紙は、堅苦
しく融通の利かない馬琴のNGとするジャンルであった。ましてや笑話と
もなればなおさらである。
しかし嫌いであれ何であれ、書かねば食っていけない。このころペンネ
ームを「馬琴」にした。当初は「京伝門人・大栄山人」と言っていたが、
『花団子食気物語』では「曲亭馬琴」と明記している。
(因みに馬琴の名は『十訓抄』に小野篁(おののたかむら)の「才
に非ずして、を弾とも能はじ」からとったという)。
やがて挿絵の葛飾北斎とコンビを組んで『花の春虱の道行』が当たり、
ようやく戯作者の端っこの方とはいえ仲間入りを果たす。

すっぴんで今日はまあるい爪でいる  津田照子



だが蔦屋に住み込んで戯作を書いていても、小遣い程の銭が入るだけで
苦しさは浮浪生活と大した違いがなかった。
そうした折、養子の口がかかった。相手は飯田町中坂で下駄屋を商う伊
勢屋の娘といった。お百は一度婿をとったが、うまくいかず別れ
再婚相手を探していたのである。馬琴27歳でお百は30歳、三つ年上
であったばかりでなく、すが目で容貌も芳しくなく、教養もなかった。
馬琴はあまり気乗りはしなかったが、京伝と蔦屋の勧めるままに伊勢屋
の入婿となった。決め手は伊勢屋が借家を持っていて、年20両という
家賃がきちんと入る魅力に惹かれたためである。
婿になった以上、伊勢屋清右衛門の看板を継いで、家業に精を出すのが
普通だが、馬琴はお百の無知につけこんで、滝沢の姓のまま押し押し、
履物商売には力を入れなかった。生活費はもっぱら家賃収入と片手間に
始めた手習師匠の収入である。
寛政7年の夏、百の養母が没すると下駄屋も廃業して、作家活動に専念、
翌8年から続々と本をだした。

胸突き八丁越えても茨道続く  武市柳章

享和2年(1802)5月から8月にかけて京坂への遊歴を終えたあと、
馬琴は読本作家として本格的に活動を始めた。間もない享和4年正月、
日本橋の老舗版元・鶴屋喜右衛門の要請で、読本『小説比翼文』(しょ
うせつひよくもん)を執筆することになった。黄表紙や読本の作者とし
て独り歩きを始めていた馬琴は、再び北斎とコンビを組むこととなる。
時に馬琴38歳。北斎45歳。
読本や合巻は挿絵が半分の力を持っていたし、婦女子向けだけに思う存
分和漢の故事来歴の知識の知識や儒教的教訓をひけらかすにはふさわし
くなかったから、馬琴には必ずしもお気に入りの仕事ではなかったが、
やるしかない。それでも馬琴・北斎が組んだ読本は18作品と最も多く、
このコンビが生み出す作品は、大いに人気を呼び江戸中に鳴り響いた。

まだ少し濡れている新しい風  雨森茂樹







『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』  <ちょい読み>


「阿曾忠國の娘、白縫は十六歳の美しい女性であったが、武術を好み、
腰元にまで長刀を習わせていた。その白縫は猴(さる)を飼っていたが、
腰元の若葉に欲情して襲い掛かり、捕えようとするが逃げられてしまう。
その夜若葉は殺され、白縫は猴の仕業であることに気づく。」

 
読本の世界が開けてから馬琴の名声は、世間の広く知るところとなり、
ほどなくして平林堂より読本の大作『椿説弓張月』を刊行することに
なる。読本とは、文が主体で筋書きが教訓的、かつ伝記的な内容をも
つ小説でポイントポイントに挿画が入る。
漢文調の馬琴の文章に釣り合う力感の漲った絵を描けるのは、当世、
北斎以外に見当たらない。
馬琴はその挿画お画家として迷うことなく北斎を指名した。

お誘いをいただけるならバリトンで  森田律子
 






「忠國大いに怒り、郎等たちを召し出して、猴を追わせたが、結局、猴は
文殊院という古寺の五重塔に登ってしまい、射ることも捕えることもで
きない。忠國が「塔の上の猴を射落としたものには、白縫を娶わせる」

と告げているところに現れたのが為朝だった。」


目下売り出し中の戯作者・馬琴と、絵師として人気鰻昇りの北斎。
この時期、二人は弓張月を含めて7つの読本を共作することになり、
互いに兎にも角にも時間がなく、お互い挿絵の打ち合わせする暇も
ないほどの忙しなさであった。そこで馬琴は双方の無駄な時間を省
くべく一計を案じた。







「為朝は忠國に許しを得て、強弓を引こうとするが、寺の住持に殺傷を止
られる。為朝は、夢を思い出して、鶴を放った。この鶴が見事に猴を仕
め、南の空に飛んでいった。そして為朝が源氏の御曹司であることを知
た忠國は、為朝をよろこんで館に迎えた。」


それは馬琴27歳のとき、戯作に耽る方便として飯田町で下駄屋を
営む伊勢屋の入婿に納まっていたが、この自宅に本所林町の甚兵衛
店にいた北斎を「泊まり込みでどうか」と声をかけたのである。
これに北斎が応じた。引っ越し魔の北斎にとって、どこで寝ようが、
居候をするというのは何ら問題でない。馬琴が夜を徹して原稿を書き、
その横で北斎がその挿絵にとり掛かるという、一策である。
そして馬琴が著作堂と名付けた狭い二階の一室で二人は、寸暇を惜し
むように膝付き合わせての共同生活が始まった。
まるで性格の違う天才の二人、火花を散らして日夜、がむしゃらに
仕事に打ち込むが、何か不吉な予感がしないでもない。 つづく。

鎖骨から錆びたナイフがヌッと出る  くんじろう

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一匹の秋刀魚抜き身のように下げ  菱木 誠



日本橋魚市繁栄図
様々の魚介をたらいにのせた魚売り、棒手振、漁師らが走りまわる。


近年不漁が続く秋の味覚サンマが、今年も深刻な漁獲不漁に陥っている。
海水温の上昇、周辺国の乱獲が原因とみられ「大衆魚のはずが、高級魚に
なっている」と庶民の嘆き節が聞こえるほどに価格高騰で家計に影響を及
ぼしている。

「サンマの小咄」
昔の御身分の高い方々は、下々の庶民の生活はご存じありません。
ですから常々少しでも知りたいと思っております。
天候に恵まれた初秋の日。
お殿様がご家来を連れて、目黒不動参詣をかねて遠乗りにでかけました。
目黒に着かれたのは、お昼近くのことでした。
近くの農家から、秋刀魚を焼くいい匂いが漂っております。
その時、ご家来が
「かような腹ぺこの折りには、秋刀魚で一膳茶漬けを食したい」
といったのを聞きつけたお殿様、
「自分もぜひ秋刀魚というものを食してみたい」とご家来に所望した。
さんまが走ると大根まで走る  樋口百合子


さぁ困ったご家来衆。
「秋刀魚とは下魚でございますゆえ、お上のお口にはいりますような魚
ではございません」
といったものの、お殿様のお言いつけではしかたがない。 
何とか農家のお爺さんに頼んで焼いた秋刀魚を譲ってもらうことにした。
お殿様は、生まれてはじめての秋刀魚がすっかり気にいられた。
お腹が空いていたことも合わさって、忘れられない味になってしまった。
ところが屋敷に帰っても、食卓に秋刀魚のような下魚は出てこなかった。
ある日のこと、親戚のお呼ばれでお出掛けになりますと
「なにかお好みのお料理はございませんでしょうか。
なんなりとお申し付けくださいまし」
というご家老の申し出に、お殿様、すかさず秋刀魚を注文した。
不意打ちで急所二の句を継がせない  上田 仁

親戚は驚いて、日本橋魚河岸から最上級の秋刀魚をとり寄せた。
このように脂が多いものをさしあげて「もしもお体に触っては一大事」
と、十分に蒸したうえ、小骨を丁寧に抜いて、だしがらの様になった
秋刀魚を出した。
「なに、これが秋刀魚と申すか。まちがいではないのか?
たしか、もっと黒く焦げておったはずじゃが・・・」
脂が抜けてぱさぱさの秋刀魚が、おいしいはずがありません。
「この秋刀魚、いずれよりとりよせたのじゃ?」
「日本橋魚河岸にござります」
「あっ、それはいかん。秋刀魚は目黒にかぎる」

冗談のような A から C でした  きゅういち



多数の棒手振りの商人の行き交う日本橋



「江戸の景色」 庶民の家計から江戸っ子のマネー事情


江戸っ子の住いといえば、九尺二間の裏長屋が定番だが、
その簡略で粗末な住居が象徴するように、生活は決して楽ではなかった。
「宵越しの金は持たない」と気風(きっぷ)のよさが喧伝される一方で、
収入は少なく、経済的に不安定な生活を余儀なくされていた。
そんな江戸っ子が従事した職業といえば、「大工や左官などの職」や
「天秤棒を担いだ魚売りや野菜売り等の棒手振」が代表的なものだろう。
その大工と棒手振の家計事情を『文政年間漫録』の史料から見てみよう。

床板をずらしてへそくり確かめる  杉浦多津子



        仕事中の大工

「大工職人の家計」
大工は誰でもなれる職業ではない。いわば専門技術職であるから、
江戸っ子の中では高い収入を取っていたほうである。
熟練度にもよるだろうが、その日当は、銀四匁二分。
食費として別に一匁二分が支給された。
都合五匁四分であり。金一両が銀六十匁とすると、1両を今の相場の
10万円に換算すると1万円弱となる。
ただし毎日仕事があるわけではないから、年間実働294日とすると、
年収は294万円ほどである。
支出はどうか、妻子の3人暮らしの場合で。
家賃百二十匁、米代三百五十四匁、塩・味噌・醤油・薪・炭代が七百匁、
道具・家具代・衣服代が各々百二十匁、知人・親戚との交際費が百匁、
計一貫五百十四匁、手許に残るのは七十三匁六分。
わずか10万円ほどに過ぎない。

コンニャクは何枚だろう紙袋  合田瑠美子



   野菜売り


「野菜売りの棒手振商人の場合」
1日の売り上げは、千二百~千三百文。
金一両が銭四貫文(四千文)とすると、3万円強となる。
原価が六百~七百文だから、一見大工よりも割がいい。
しかし翌日の仕入れ代に加えて、米代二百文、味噌・醤油五十文などを
支出していくと、百~二百文しか結局、残らない。
さらに翌日が雨ならば仕事は出来ず収入はゼロ。
棒手振商人の場合、大工のような専門技術は必要とせず、少しの元手が
あれば誰でも始められたが、手許に残る金額は僅かだった。
そのため、本来の生業の他にも、別の仕事をする必要があった。
ここには病気や怪我などの急な支出は入っていない。また火事や何らか
の災害に合うと、たちまち生活困窮者の転落するのだ。

メインディッシュの丸干しが灰になる  山本早苗



  大工上棟の図


「気分を変えて、ある大工の棟梁の1日を追う」
江戸ではひと冬に大小あわせて100件以上の火事があったという。
この被災後の復興工事が頻繁に行われていたから、腕さえあれば仕事は
いくらでもあった。
大工の仕事は、現在の午前8時頃から始まるので、間に合うように家族
に見送られて家を出る。そして午前10時頃に30分位の休憩。
その後仕事を再開して正午頃昼食となる。妻が持たせた弁当があり、
これを食べるが、なくても外食産業が発達しており、困らなかった。
昼食後仕事にもどり午後2時ごろにまた30分ほどの休憩を取る。
その後、日が暮れるまで働いて、1日の仕事が終わりだ。


風よ雲よみなレジェンドの羽になる  桑原すゞ代




材木屋の店先で材木購入の算段をする場面


一方、息子と娘2人は朝、手習に出かける。
息子の方は父親のような大工の棟梁になるのが夢だ。
大工も棟梁になるのには、指図(図面)が引けなければならない。
木材の調達や手配する大工の手間賃の計算などもあり、
読み書き算盤も必要とされた。





赤子のお守や掃除・洗濯に勤しむ長屋の女たち
妻は洗濯などの家事に忙しい。
といっても衣類は1人につきわずか数枚、住んでいる所も四畳半の部屋に、
土間と台所が付いている程度なので掃除もすぐに終わる。買い物も日常的
に使う物ならば物売りたちが家のすぐそばまで売りにくるので、買いに出
かける必要がない。昼には子どもたちが帰ってきて、お腹が空いたと騒ぐ。
娘の方は、武家屋敷の奉公に上ることを夢見て、このあと三味線と踊りの
お稽古だ。多少月謝が高くても、武家屋敷へ奉公にあがればよい縁談が舞
い込む。
父親が仕事から帰ってきたら子どもたちは父親と湯屋に行き、その後、
家族そろっての夕食になる。
日が暮れたらすることがないので、さっさと寝てしまう。

夢を縫うパステルカラーの刺繍糸  中岡千代美




  日本橋ー魚市全図
「次は、ある棒手振りの魚売りの1日」
とある独身男性、彼の仕事は、棒手振りと呼ばれた魚売り。
棒手振りは僅かな元手で始められる商売で、地方から江戸にやってきた
人たちでも出来る仕事だった。
高利ではあるが、「朝借りてその日の夜には返す」という、金の借り方
もあったので、元手がなくても出来る商売であった。
魚売りの朝は早い。夜明けには河岸が開く。
それまでに行かなければよい魚は仕入れることが出来ない。


金魚鉢ほどの広さで泳ぐ日々  靍田寿子



お得意の待つ広場で魚を捌く棒手振り


日本橋の魚河岸は有名だが、そのほかに落語「芝浜」にでてくる雑魚場
(ざこば)と呼ばれる魚河岸があった。仕入れた魚は、お得意の処へ持
って行って売り捌く。
行く時間はだいたい決まっているので、客の方が待っていてくれる。
江戸では魚屋が用途に応じて捌いてくれるから、魚が捌けなくても十分
主婦業はこなせた。夏の日の長い時期には、夕方にも市が立つので、
早い時間に売り切ってもう一度仕入れて売りに出る者もいた。
日が暮れる前に売り切れるか、売り切れなくても商売は終了する。


魚の目が探り入れてる足の裏  上山堅坊





仕事が終われば、独身の身軽さで外食するのもいいし酒を飲むのもいい。
酒は酒屋から買って飲むが、家まで持って帰るまで我慢できずに
店先で飲むこともあったようだ。
また吉原を冷やかす者もいただろう。吉原で花魁遊びするのは、棒手振り
稼業では無理だが、原の中には安く遊べる店もあった。
もっとも江戸ではたくさんの若い女性を見られるところは少ないので、
その姿を見るだけでも十分だったかもしれない。

酔うて寝る半端な夢を見ないよう  美馬りゅうこ



「江戸小咄ー初鰹」 
棒手振りが初鰹の声、威勢よく売ってくる。
「あゝ買いたいものだが、銭がない。せめて呼んでみよう」
と大きな声で
「鰹やい 鰹やい」 
と呼べば、棒手振りが寄って来て
「今、呼んだのはお前かい」
と桶をおろせば、声の客、
「どりゃ見てみようかい。ウゝ初鰹じゃ、なァ塩鰹はないかのー」
見るのは初鰹。買うのは安い塩鰹。
売れ残った鰹は、保存のために塩気をまぶし、塩鰹になる。
その時点で安くなる。
また鰹とは偉い奴である。色々な名前もあり、夏にも秋にも季語になる。


そのうちを入れこんでおく追い鰹  山本昌乃

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息子よ 父の万年筆だよ 体温だよ  本田洋子


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卯 の 花 月  (豊国画)
ちょいといなせな魚屋さんに皿を持って群がる女房たち


「江戸の風景」  江戸っ子と粗忽長屋


「江戸っ子」という独特の市民が広汎に成立したのは、18世紀中期以降
のことである。
江戸っ子とは、江戸言葉を話す江戸根生い(生れ生い育った土地)の人び
とのことであり、初期の江戸では伊勢商人、近江商人など上方の有力商人
の江戸店が江戸の取り仕切っていた。
彼らは江戸生活者ではあったが、江戸っ子とはいえなかった。
ところが木場・魚河岸・日本橋・神田・蔵前などに初期以来、住みついた
町人たちが中期になると、社会・経済の中核として成長してきた。
明和8年(1773)の川柳に、「江戸っ子のわらんじをはくらんがしさ
(騒がしいさ)というのがあり、これが出自とされる。
さらに2年後の安永2年に、「江戸っ子の生まれそこない金を持ち」
「江戸っ子にしてはと綱はほめられる」などの用例が洒落本・黄表紙など
に散見するようになる。つまり文芸・演劇・浮世絵・遊郭の遊び、様々な
趣味でも、主役として江戸文化を引っ張ったのが江戸っ子だったのである。


何も足さずまた引かないというおしゃれ  柳川平太




山東京伝煙草店 (暖簾右下に京伝名が見える)



「江戸っ子とは」と、山東京伝は次のように定義付けている。
① 江戸城徳川将軍家のお膝元に生まれ、
② 宵越しの金を使わない
③ 乳母日傘で成人し洗練された高級町人で
④ 市川団十郎を贔屓する「いき」と「はり」とに男を磨く生きのよさ
⑤ 洒落たキセルで煙草を格好よく燻らせる男 
というのはありませんが、因みに、戯作者として有名な山東京伝は、
寛政5年(1793))書画会の収益を元手に銀座に「粋な男を作る男
の持ち物として」タバコを売る店・京屋伝蔵店を開店、自らもデザイン
した本革素材の煙管を売って儲けたという話は多くの人の知るところ。
煙草入れは粋な江戸っ子の代表的な装身具だった。

100人そろって煙草を吸っている  酒井かがり



黒桟留革提げ煙草入れ


金唐革一つ提げ煙草入れ


   
金唐革腰差し煙草入れ ①  金唐革腰差し煙草入れ ②


主に大名が用いた「御殿形煙管」
上) 折入角紋散らし彫り  
下) 竹に千成瓢箪彫り


ふんわりと浮いたら免許皆伝だ  新家完司



魚売一心太七 市川左団次


  
「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」
式亭三馬の「浮世床」「江戸っ子は宵越しの銭は持ったことがない」
という表現がある。
これは江戸後期(19世紀)に出現した江戸っ子の美意識であるが、
安永3年(1774)の頃の「江戸っ子の生まれそこない金を持ち」
川柳がいうように18世紀中ごろには、すでに金離れがよく物事に執着
しない江戸時代に共通する江戸っ子たちの美意識の精神があった。
当時、金を貯めようとしても、現在の銀行に相当する両替商は、預金に
利子などつかなかった。むしろ手数料を取った。
 江戸は火事が多く、金を貯めても火事で灰燼に帰してしまうことを経
験で知っていた江戸根生いの商人たちは、金を貯めるよりも商売仲間や
地域との関係や社会的信用を大切にし、そのために金を使った。
また歌舞伎に行ったり、遊郭に出かけたり、俳諧・川柳・狂歌などを作
ったりなどに金を惜しまなかったのである。
だからこそ江戸文化が花開いたのである。


在るようで無い ないようでやはりない  嶋沢喜八郎



一方、江戸文化を楽しんだ長屋の住人は、身体さえ壊さなければ仕事は
江戸で常にあった。彼らには定年などはなく、今よりはるかに短命であ
ったので老後の不安を持つ暇もなく死を迎える。だから老後の蓄えなど
あまり考慮しなかった。
むしろ長屋での常日頃の人間関係にこそ大事にした。
そのためには冠婚葬祭、病気、火事見舞いなどに金を惜しんではいけな
かったのである。
つまり「宵越しの金を持たない」とは、実は自分のために贅沢をすると
いうだけの意味ではなく、一緒に生きている他人のためにも金を使って
しまうという意味なのである。
それが巡り巡って自分も生かすことになる。
江戸っ子にとってサバイバルであり、最後は自分に返ってくるという考
え方なのだと江戸研究者は分析している。


天秤に昨日と今日の正直さ  みつ木もも花




菰の下の行き倒れは誰なのか


落語・「粗忽長屋」 気風のいい江戸っ子はそそかしい。


同じ長屋に住むそそっかしい八五郎と熊五郎は隣同士で兄弟分。
ある日、八五郎は浅草観音に参り、雷門を出た所で黒山の人だかりにぶ
つかる大勢の野次馬の股ぐらの間をくぐって見ると、これが行き倒れで、
菰をめくって見ると熊五郎だ。
「熊の野郎、今朝寄った時にはぼんやりしていて、ここで行き倒れて
いるのも気がつかねえんだ」
世話人が " この人は昨日の夜からここに倒れているんだ " と言っても八
五郎は納得しない。ついには本人をここに連れて来て、死骸を見せて引
き取らせると言い出し、世話人の言うことも聞かずに、長屋の熊五郎の
家に行く。そして熊五郎に " お前は昨日、浅草で死んでいるというが
熊は死んだ心持ちがしない " という。昨夜のことを聞くと " 仲(吉原)
をひやかし、馬道で飲んで酔っ払い、その先はどうやって長屋に帰った
か分からない "
  という。


でこぼこを埋めるでこぼこの片割れ  清水すみれ



「お前はそそっかしいから悪い酒に当たって、死んだのも気づかずに
帰って来ちまったんだ」
「そう言われてみると、今朝はどうも気持ちがよくねえ」
八五郎は半信半疑の熊さんを引っ張って、死骸を引き取りに現場に戻る。
野次馬をかき分けて、
「おう、ごめんよ、ごめんよ、行き倒れの本人を連れて来たんだ、
どいてくれ、どいてくれ」
行き倒れを見て
「ああ俺だ、なんて浅ましい姿になっっちまったんだ」
なんて調子だ。あきれ返る世話人を尻目に八さんは、本人が引き取って行
くと言って熊さんに死骸を抱かせる。
「兄貴、わからねえことが出来ちまった」
「何が」
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう」



一生に二度は乗れない霊柩車  櫻田秀夫

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居酒屋の壁にぐじぐじ独り言    新家完司



「鎌倉町 豊島屋酒店白酒を商う図」
江戸最古の居酒屋神田川沿い鎌倉河岸の豊島屋では、一杯の酒と田楽が
二文で売られ、行商人、日雇い、船頭馬方、奉公人で賑わった。
(尚、豊島屋は慶長元年(1596)の創業で、現在も東京都千代田区
猿楽町に本店を置いて事業を続けている)



「江戸の風景」 居酒屋・屋台……川柳で綴る

庶民が気軽に腹ごしらえ、あるいは気晴らしの飲食に利用したのが、
いわゆる「居酒屋」である。
居酒屋は、酒の小売店が一杯酒を飲ませたのが、そもそもの始まりで、
「居ながら」飲むことに由来する。また、さまざまな煮しめなどを売る
煮売り屋が、酒も飲ませる「煮売酒場」となり、ここでも居酒屋の客と
同じ風景が、数々の川柳に詠まれている
煮売屋へなんだなんだと聞いて寄り
黒鯛をたてもににする煮売店
居酒屋でねんごろぶりは立って呑み
※ 常連客が店を覗いて「今日の魚はなんだい?」と亭主に訪ねる。
それまでもなく、立物(目玉商品)は「黒鯛だよと看板にあり」、
その横では鮟鱇が、自慢げに軒につらされている。


気分屋の鬼と半身で呻る酒  上田 仁



酒や簡単な料理を出す煮売り屋の様子が描かれた絵


煮売り屋でつまみ食いするあぶら虫
居酒屋で止めた子細は革羽織
居酒をば仕らずともむごく書き
※ 油虫とは、無銭飲食をするやから。革羽織は、鳶の頭や職人の棟梁
らがよく着るが、ときにはならず者が、こけおどしに着ることもあった。
いわゆるやくざっぽい男が着る定番の革ジャンである。
そんな連中に出入りされると、しだいにほかの客の足が遠のき、
やがてはあ閉店においこまれる。つまり「仕らず(つかまつらず)」
つまり商売にならず店仕舞いに追い込まれるのである。


赤鼻のトナカイの前足の煮こごり  酒井かがり




居酒屋は鰓(えら)を吊るすを見栄にする
鶏の羽衣居酒屋の軒にさげ
お手前らあんどんの燗酒知るめえが
※ 店先の軒の下には、酒の肴の「ゆでダコ」「野鳥」「魚」を吊り下
げており、どのような魚が店にあるかを知らせていた。
注文とともに日本酒に燗ををつけるのは、江戸時代からの食文化である。



真夜中の湯割りに浮かぶお釈迦様  中川隆充



江戸庶民の食事処
絵の左下にチロリがみえる。
チロリとは酒を温めるのに使う銅や真鍮製の筒型の容器。



八文は味噌を片手へ受けて飲み
有りやなしやと振ってみる角田川
徳利は井戸へ身投げの冷やし酒
※ 居酒屋で酒の肴といえば、田楽豆腐をはじめ、湯豆腐、ふぐ汁、
スッポン煮、あんこう汁、マグロの刺身、そして鍋物のネギマや野菜、
軍鶏の鶏鍋など、豊富なものだった。
その酒の肴は、お膳、折敷という低いお盆のようなものに器をのせて
床や床几の上において座って飲食をした。
酒は徳利でなく、「チロリ」という容器に酒を入れ、銅壺で湯煎して
温め、いい温度になったらチロリを席まで運び、そこから酒を注いで
飲んでいた。


ビールの泡を美味しく飲ませる備前焼 靍田寿子 



  近江居酒屋



つまるところ酒屋のための桜咲く
薬代を酒屋へ払う無病もの
酒樽もすでにさいごのいきづかい
※ 居酒屋をはじめ、飲食店の繁盛はめざましかった。
「岡田助方の風俗随筆『羽沢随筆によれば、
「凡そ都下に、食類を商う店の多き事。わずかに2、30年以来なり。
近き頃、何れよりか赤坂池のほとりに、市店が移されしが凡そ3、4町
が程、終に字して、赤坂食傷町(グルメ街)と唱う」とある
寛政7年(1795)には、江戸の酒の消費量が93万樽に達し、文化
8年には1808軒の居酒屋があったという。
(これは今日の酒場・ビアホールの割合とほぼ同じである。そんな中、
安政3年に江戸下谷に「居酒屋・鍵屋」が誕生。今もその建物が小金井
桜町に「江戸東京建物園鍵屋」として残り、見学ができる)



聞き役が酔ってしまってごめんなさい  新川弘子



 
   酒のみ道



「おまけの10句」
たいこ医者お燗の脈をみるばかり
 小判にて飲めば居酒も物すごし     
二日酔い飲んだ所を考へる
ぼた餅をこわごわ上戸ひとつ食い
神に下戸なし仏には上戸なし
忍ぶれど色に出にけり盗み酒
神代にもだます工面は酒が入
剣菱も百万石もすれ違い
酔覚めの水のうまさや下戸知らず
禁酒して何を頼りの夕しぐれ



満開の屋台に寅さんがひとり  桑原伸吉



※ 江戸期に誕生した居酒屋には、二つのルーツがあったという。
「茶屋/煮売茶屋と酒屋」だ。古くから街道沿いで団子などの軽食や
お茶を出していた茶屋が、江戸期に芝居茶屋や料理茶屋へと進化。
一方では明暦の大火からの復興需要で、爆発的に増加した人口を
養うために発展した煮売屋台が登場。ファーストフード的に手軽な
煮物や焼き物と茶や酒を提供したものだったが、これが常態化して
煮売茶屋へと変化し、店舗数を増やしていった。



ポイ捨ての種から百の物語  合田瑠美子



高輪廿六夜待遊興の図
江戸高輪の月見の様子が描かれている。
右から、氷菓子屋、寿し屋、水売屋、焼イカ屋、天婦羅屋、
二八蕎麦屋、麦湯屋、団子屋、汁粉屋、などの屋台が並んでいる。



「屋台」
居酒屋より、いっそう身近で簡便な存在が「屋台」である。
「屋台見世は、鮓・天婦羅を専らとす。その他皆食物の店のみ也。
鮓と天婦羅の屋台見世は、夜行繁き所には、毎町三四か所あり」
『守貞謾稿』とあり、「天婦羅の味方に夜鷹蕎麦屋つく」の句があり、
相性のよさから、寿し・天婦羅に蕎麦を加えて「三大屋台」といった。



どこ行った天六角のたこ焼屋  雨森茂樹



下卑た風鈴湯気のたつ上でなり
客二つ潰して夜鷹三つ喰い
※ 蕎麦売りの屋台には、よく風鈴が吊るされていたところから
「風鈴蕎麦」といい、夜鷹と呼ばれる下級の女郎に親しまれていたので
「夜鷹蕎麦」といった。夜鷹の遊び代は、24文二人分で48文、これで
蕎麦三杯は食べられるという勘定である。


花陰で手招きするは老いた魔女 油谷克己



「近世職人尽絵詞」
明暦の大火(1657)からの復興事業以降、江戸では、外食を求める
独り者に食事を提供する煮売屋台が出現。にぎり寿し、鰻や天婦羅など
江戸の味が連なり、それがやがて居酒屋に並ぶようになる。



天婦羅の店に蓍(めどき)を建てておき
天婦羅のゆびを擬宝珠へ引きなすり
※ 蓍は、占いに用いる50本の細い棒。屋台の天婦羅は串揚げなので、
食べた後のその串が易者に筮竹(ぜいちく)のように置かれている。
油のついた指を橋の擬宝珠に行儀の悪い連中がいた。
妖術という手で握る鮓のめし
にぎにぎを先へ覚える鮓屋の子
押し鮓やなれ鮓に目が慣れているから、目新しい握り鮓を握る手つきが
妖術にも見えるというのである。


いい風を入れようひとり暮らしです  阪本こみち



「大江戸芝居年中行事 風聞き」
二八蕎麦に並ぶ庶民の様子が描かれている。



四文屋は吉田町では台屋なり
本所の吉田町は夜鷹で有名。台屋は遊里の仕出し屋。
四文一とは、なんでも四文均一のこと。
(これが回転ずしのルーツである)
佳肴(かこう)珍味を盛りならべ四文一
※ 煮売屋は、何でも一つ4文で売ったことから「四文屋」とも呼ばれ、
焼き豆腐、コンニャク、鮑、スルメ、レンコン、刻み牛蒡、
などを醤油で煮ぞめ、大皿に並べ売っていた。
また魚や野菜のどの煮物を食べさせた、持ち帰りができた。



盃を伏せて男の今日終わる  佐藤后子

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