天秤の支点あやつる助詞一字 徳山泰子
室町時代とは、通説1392年から1573年迄の約180年の
ことをいう。どんな時代であったかといえば、乱世でありながら
史上最高の農業生産高をあげ、余暇の文化をつくった。今、日本
建築と呼んでいるのも、この時代末期の書院造りから出ている。
床の間を置き、掛軸などを掛け明り障子で外交をとり入れ、襖で
各室をくぎる。襖には山水や琴棋書画の図を描く。華道や茶道と
いう文化も能狂言、謡曲もこの時代に興り、さらにいえば行儀作
法や婚礼の作法もこの時代におこった。
撫でて眺めてほっと一服楽茶碗 石田すがこ
しかし政治は、つねに不在だった。権威が中央にあり、実力が
地方にあった。中世末期の編纂である『日葡辞書』にもある「シ
モ ウエ ニ カツ」(下克上)という言葉も生まれた。小さな
地方が実力をつけ、ついには「惣」と呼ばれる農村が決定的存在
となった。彼らは、正規の武士たちの前列にあって、いわば戦争
を請負う者たちだった。室町の社会の底をなす者たちが、暴力の
かたちをとって表層に浮かび出てきたのである。応仁の乱(14
67)に始り、そこから凡そ100年、いわゆる自然の革命とも
呼ばれる「戦の時代」へと突入していくのである。
猫柳なぜの形のまま芽吹く 森田律子
「斉藤道三と義龍」
大永年間(1521~)から明智光秀が歴史の表舞台に登場する
永禄11年(1568)まで、どんな時代であったのか。
西岡(長岡京市)の油売りの斉藤道三は、備中の素浪人である
伊勢宗瑞(北条早雲)や摂津の土豪の松永久秀とともに、低い身
分から成り上がったとされてきた。ところが宗瑞は将軍の側近で
あった。また、道三の父の長井新左衛門尉が、元は京都妙覚寺の
僧侶で、最初は西村を名乗って美濃で仕官し、のちに子の道三が
美濃国主になったことが明かになっている。(六角承禎条書ゟ)
銀河鉄道の始発駅の枕 みつ木もも花
美濃守護の土岐成頼と守護代家の斉藤妙椿は、応仁の乱の後半で
は、西軍の主力として活躍するなど、中央政界では知られた存在
であった。ところが斉藤一族が近江で戦死すると、土岐氏も衰退
し朝倉義景の娘を正室とする頼武と頼芸(よりのり)の兄弟が家
督をめぐって争っている。大永7年(1527)が頼芸が勝利を
おさめたが、この内乱の中で、斉藤家家臣の長井長弘が台頭し、
それを補佐したのが、道三の父である長井新左衛門尉であった。
やがて天文2年(1533)に道三が跡を継ぐと、長井長弘の子
景弘に取って代わり、守護代家の斉藤に改姓する。
これまでとこれからと傘傾いでく 河村啓子
天文11年、道三は土岐家の内乱に乗じて土岐頼芸を放逐するが、
頼芸は尾張で織田信秀の助力を受け、さらに越前の朝倉孝景に庇
護されていた兄・頼純と協力し、美濃守護に復帰した。しかしそ
れは長く続かなかった。頼芸支援以降は対立していた信秀と道三
だが、天文17年、頼芸が美濃守護を退くことを条件として、和
睦をした。天文18年、信秀の息子信長に娘・帰蝶を嫁がせて同
盟を結ぶと、翌年には、主君の頼芸を追放しついに美濃を制した。
風を詠みながらふんわりぼたん雪 赤松蛍子
美濃を掌中に収めた道三にも、悲劇が訪れる。天文23年に息子
の義龍に家督を譲った。しかし道三と義龍の関係はよくなかった。
義龍は家臣の長井道利と画策し、弟の孫四郎と喜平治を殺害する。
これに驚いた道三は、大鍬城へと逃げた。弘治2年(1556)
道三と義龍は長良川近くで対決し、道三が討ち取られた。。戦国
時代に父子の争いは珍しくないが、武田信玄が信虎を国外に追放
したり、伊達晴宗が伊達頼宗を強制的に籠居させたりしたように
殺さないのが普通で、殺害されるのは稀であった。
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義龍は道三の独裁体制を改め、国衆を国政に参画させた。また幕
府と交渉し、土岐氏より格上である幕府四職の一色氏に改姓する
ことを認められるだけでなく、将軍家の通字「義」字の偏緯を受
ける栄誉に浴す。そして国衆の稲葉一鉄に新治姓を与えるなど、
一色氏宿老の姓を下賜し、彼らとの一体化を強めた。その一方、
義龍と対立する信長は一貫して守護代家の斉藤姓で呼びつづけ、
家格で自分より上位に立つことを認めなかった。永禄4年に義龍
は急死するが、14歳の一色龍興が跡を継いでも、6年にわたっ
て信長の侵攻を退ける基盤を築いた。
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「三好長慶と松永久秀」
斉藤道三が美濃国主になった頃、畿内近国から四国でも大きな変
化があった。阿波守護代を祖先に持つ三好長慶が、細川管領家に
取って代わったのである。長慶は当初、足利義輝と和睦し幕府再
興を意図していたが、度重なる義輝の破約に怒り、天文22年に
京都から追放した。当時は形だけでも足利将軍家や古河公方家の
者を擁するのが常識で、大内義興や北条氏康、上杉謙信もそうし
ていた。しかし長慶は戦国時代で初めて、将軍家の誰も擁立せず
「京都ご静謐」を実現した。後奈良天皇や正親町天皇も、朝廷へ
の懈怠(けたい)を繰り返す義輝より長慶を信任するようになる。
マスクから昨夜の餃子洩れてくる 武市柳章
ただ長慶は、幕府が滅亡し社会が不安定化することよりも、将軍
の公認による安定を求める一色義龍や上杉謙信らと、反目するこ
とを避け、義輝と和睦するが、細川・畠山両管領家の領国を併呑
する。また北条氏康や毛利元就と同格の御相伴衆の格式だけでな
く、天皇家に由緒を持つ桐御紋を免許されるなど、足利将軍並み
の家格を得ると、義輝の娘を人質とし、天皇に改元を執奏すると
いう将軍の権限を行使した。
顔認証おちょくっている百面相 木口雅裕
このように将軍を克服しようとする長慶を支えたのが、松永久秀
であった。久秀は寺社や大名との交渉に力を発揮し、後には大和
の支配を任された。長慶は、久秀が譜代家臣でないにも拘わらず
自らと同じ従四位下の官位に就き、桐御紋の免許も認めた。外様
や低い身分の者を登用する際には、武田信玄が真田昌幸に武藤姓
を上杉景勝が樋口兼続に直江姓をと、主家の一族や重臣の名跡を
継がせて、家格に配慮するのが常識であったが、長慶はそうした
従来の秩序にとらわれなかった。
少し悪意 いいえ悪意 きっと悪意 山口ろっぱ
松永久秀は、長慶のこうした厚意に応え、忠節を尽し三好氏を壟
断したこともなかった。長慶の死後、三好三人衆と争うが、長慶
の後継者である三好義継を庇護し、足利義昭や織田信長と同盟し
て義継の生き残りを図った。そして元亀2年(1571)に義継
を盟主として三好三人衆とともに、三好氏の再興を果す。
尚、久秀は足利義輝や三好長慶の嫡男・義興の暗殺、東大寺大仏
殿の焼討ちなどで有名であるが、これらは江戸時代初期に創作さ
れた俗説で一次史料では確認できない。
悪人はジャコベッティの香りして くんじろう
「織田信秀」
大永から天文にかけて尾張で急速に勢力を拡大したのは織田信長
の父・信秀である。信秀は織田氏の一族ではあったものの、尾張
下四郡を支配する守護代織田大和守家に仕える庶流で、清州三奉
行の一家を務めていたに過ぎなかった。公家と積極的に交流を深
めた信秀は、天文2年(1533)7月、蹴鞠の宗匠・飛鳥井雅
綱を勝幡城(しょばたじょう)に招き、蹴鞠会を催している。見
物する者は、数百におよび、改めて清州城でも開催したほどであ
った。このとき雅綱とともに信秀のもとを訪ねたのが、朝廷財政
を担っていた山科言継である。
何もかも思い通りになってゆく 平井美智子
上洛した信秀は、財政的に窮乏していた朝廷に資金援助を行い、
見返として従五位下・備後守に叙位任官された。天文9年にも、
伊勢神宮の遷宮に際して、銭700貫文を、それぞれ寄付した。
さらに室町幕府にも急接近し、足利義輝と面会をしており、中央
政界とのパイプを築いた。天文3年、信長が誕生し、14歳で元
服させ、15歳で「藤原信長」と署名、熱田八カ村に制札を発給
した。これは信長が将来的に織田家を継ぐであろうことを示唆す
るものである。この頃、政略という形でも美濃の斉藤道三の娘と
結ばせたのも、織田家の地固めのためであった。この3年後、信
秀が死去すると、信長は正式に織田家の家督を継承した。
にじいろの影の持ち主いませんか 中野六助
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