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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ずいぶんと軽い記憶のキャビネット  高野末次






   斉藤道三



「明智光秀」 光秀の生年、出生地の謎





終わりを中心に語られる有名な武将は、明智光秀をおいて外にはいない。
それだけ光秀が謎の多い人物であるということである。ことに光秀の前
半生は、様々な説が飛びかう。光秀の生年について、これまでよく知ら
れてきたのは『明智軍記』にある享禄元年(1528)で、享年は55
歳である。この説は光秀の系譜関係をまとめた『明智系図』など、後世
の歴史書や系図でも採用されているが、『明智軍記』は、光秀が死去し
てから百年後に書かれたもので、同時代の史料と整合性がとれない記述
も多い。
※ 明智軍記  光秀を中心とする軍記で「明智記」ともいう。著者は
不詳。全十巻。江戸時代中期に成立か。元禄15年版本などがある。


何のため年齢欄はあるのだろう  清水すみれ



一方、『当代記』には67歳で死去したとあり、ここから逆算すると生
年は、永正13年(1516)とある。『当代記』は、光秀が生きた時
代に近い17世紀前半に書かれ、同時代の史料と整合性がとれる記述も
あることから『明智軍記』よりも信用できる史料とされ、近年では永正
13年説の方が有力視されている。さらに光秀の享年を77歳と記した
史料もあり、この説に従えば、生年は永正10年(1513)というこ
とになる。(因みに信長は1534年生れ、秀吉は1537年生れ)
※ 当代記  近世初期の日記風年代記。姫路城主・松平忠明が17世
紀前半に編纂したとされる。はじめに天文から永禄年間(1532~7
0)の幕府や諸大名の政治状況を略記し、続く元亀元年(1570)~
元和元年(1615)は、信長・秀吉・家康の動静を中心に年代順に詳
述する。


怪しさを取り出す月の光から  立蔵信子






  斉藤義龍


織田信長が好んだ謡曲・敦盛で「人間50年」と謳われた時代に、67
歳といえば相当な高齢であり、とっくに引退していてもおかしくない。
天正10年6月に光秀が「本能寺の変」を起こした直後に、細川藤孝・
忠興親子に宛てた書状で「私が謀反を起こしたのは、忠興らを取り立て
たいと思ったからだ」「京都の周辺を平定した後は、十五郎(興元)や
与一郎(忠興)に譲りたい」と語っているのも、光秀が自身の老いを自
覚し、引退を望んでいたことの証拠とされている。
また光秀が高齢であったことは、17世紀の初めに羽柴秀吉の逸話をま
とめた『川角太閤記』に、光秀が謀反を起こした理由として「老後の思
い出に、一度でも天下に名をとどろかせたいと思い切ったのだ」という
記述からも裏付けられる。
※ 川角太閤記  川角三郎右衛門著とされる軍記物。秀吉の伝記『太
閤記』の一種で、本能寺の変から関ヶ原の戦いまでを記す。


冬の絵になるシルバーの補聴器  山口ろっぱ 





   長山城跡七つ塚


次に出生地に関しては、美濃長山説(岐阜可児市)、美濃明知説(岐阜恵
那市)、美濃多羅尾説(岐阜大垣市)ほか、10ヶ所に余る。「明智光秀
産湯の井戸」や「明智氏一族宮城家相伝系図書」や「多羅城跡」などが根
拠になっているが、どれが正しいかは確定されない。
『明智軍記』によると、弘治2年(1556)に、美濃の戦国大名・斉藤
義龍が父・道三を攻め滅ぼしたため、明智光安(光秀の叔父)は明智城に
引き籠る。義龍はこの行動に立腹し、重臣に城を攻めさせた。斉藤方の猛
攻を受けて明智城は陥落し、光安は討死を遂げる。明智城を追われた後は、
越前の朝倉義景を頼り、長崎(福井坂井市)の称念寺で10年余りを過ご
したのち、足利義昭に仕えたという。この辺からやっと光秀の実態が見え
てくる。



走っても走らなくても明日はくる  下林正夫



これも『明智軍記』によると、永禄9年(1566)秋に足利義昭朝倉
義景に迎えられた頃、光秀は義景に仕えていたという。尚『多門院日記』
には光秀は藤孝の家臣だったという記述がある。おそらく、義昭・藤孝主
従が越前へ来た時に、藤孝に接近して家臣同様の地位を得たのだろう。
なお、幕臣の名を記したという『永禄6年諸役人附』には、「足軽衆」
箇所に明智と記されている。足軽衆は将軍の側近、明智は光秀のこととみ
て間違いはないが『永禄6年諸役人附』の後半は、永禄6年当時の幕臣で
はなく、同10年以降の義昭の家臣を記しているとされる。同11年頃に
信長が藤孝に与えた文書二通によると、義昭の側近となった光秀は、周辺
の些細な出来事まで、このころ新たに仕えることになる信長に報じている。
※ 多門院日記  奈良興福寺の塔頭多聞院において、文明10年(1478)
~元和4年(1618)にかけて140年もの間、僧の英俊を始め、三代の筆者に
よって延々と書き継がれた日記。


息継ぎが出来る間は泳がねば  新家完司

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