粒選りの愛を一粒持っている みぎわはな
「西郷どん」 薩摩藩家老・小松帯刀
薩摩藩の家老・小松帯刀は、天保60年(1835)10月14日に生まれた。
坂本龍馬、土方歳三、松平容保、松平容保、篤姫らと同じ生まれ齢である。
小松は藩主・島津斉彬の小姓、当番頭になったのち、斉彬の急死後は、
藩主・忠義の父・島津久光のお側用人となって公武合体活動に参加。
歴史的に小松帯刀の名は、西郷隆盛や大久保利通の陰に隠れがちだが、
その実、薩摩藩の在京重役のトップで久光不在のときは、藩の最高決定
権をもつ。
久光の側詰兼側役、さらに江戸家老、国家老に昇進したとき、
まだ弱冠28歳だったというから、いかに優秀な人材だったかがわかる。
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西郷・大久保の手綱を握っていたのも小松だった。
小松は島津久光と義理ながら、甥にあたる。
久光との強固な縁も、小松の政治的な地位や実力を裏付けていた。
英国の外交員・アーネスト・サトウは、小松を次のように書いている。
「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物で、家老の家柄だが、
そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、態度が人に優れ、
それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた。
顔の色も普通よりきれいだったが、口の大きいのが美貌を損なっていた」
外人の目にも小松の大きさが、分かるほどのものだった。
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小松は朝廷や公卿の間でとても人気があり、頼りにされていた。
西郷・大久保よりも家柄がよく、人柄がよかったからだろう。
例えば、小松が帰国しようとしたら、近衛忠煕(ただひろ)忠房父子は書状で、
「父子ともに痛心している昨今、小松が滞京していないと大きい差し支え
があり、当惑すること限りない」
と懸命に帰国を引き留めようとしている。
また小松は、一橋慶喜からも信任されていた。
上の近衛父子の書状の追記に「一橋も帯刀を厚く頼りにしており、
あれこれ相談にのってもらいたいと言っている」 と書いている。
第三章を水として生きてゆく 日下部敦世
元治元年(1864)、禁門の変前後まで、薩摩藩は慶喜と良好な関係にあった。
同年11月、幕閣が慶喜を更迭して江戸に召還しようとしたとき、小松は
「薩は橋公に組(与)して天下両立」
も辞さないと、慶喜を擁護の姿勢を示している.
その一方、禁門の変で長州勢が禁裏御所に接近したとき、
慶喜が薩摩藩に出陣を命じても、朝廷の命令がなければ出陣しないと
拒絶して断固たる態度も示している.
薩摩藩は「朝廷第一主義」を藩是とした
左足北北東に置く履歴 河村啓子
幕末に薩長同盟が結ばれた地とも言われる京都の薩摩藩家老・小松帯刀邸
「御花畑」の詳しい場所や規模を示す絵図と文書などが、鹿児島、京都で
見つかった。現在の京都市上京区の森之木町など3町にまたがる約5900
平方メートルの広大な敷地だった。
しかし慶喜は、結局、幕府の利害に拘束され、一会桑勢力の中心となって
第二次長州征伐を強行して薩摩藩との対立を深めた。
薩摩藩は「一藩割拠」へと舵を切る。
そのために軍隊の洋式化と海軍の充実を図る。
小松は海軍掛として責任者となった。
一方で、同じく幕府と対決して「一藩割拠」策をとらざるを得なかった
長州藩と接近する。
長崎にいるとき伊藤俊輔と井上聞多と会見、その依頼を受諾して、
薩摩藩名義で軍艦と小銃を購入するなど援助した。
そうした交流の積み重ねにより、慶応2年(1866)1月「薩長同盟」が
締結される。
場所は京都の小松屋敷(御花畑)だったことにも、
小松の重要な役割がわかる。
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ここに小松の人柄と器の大きさを示すエピソードがる。
禁門の変において小松は、西郷とともに薩摩軍を指揮する立場にあった。
作戦会議のため、西郷は自宅へ初めて小松を迎える際、わざと寝転がって、
小松を待った。小松の器量を試すためである。
普通ならその西郷の無礼な態度に、怒って帰ってしまうところである。
ところが小松は違った。
怒るどころか小松は、枕を持ってこさせ、西郷の疲労を気遣うように、
ゆっくり眠らせてやろうとしたのである。
これに西郷は、慌てて飛び起き自分の非礼を詫びたという。
(だが、成長したこの時期の西郷がこんな態度をとることはありません)
やさしくて忘れるほうを選んでる 三好光明
「小松のエピソード」
① 安政3年(1856)4月23日から二週間、小松は千賀と千賀の父を
も連れて、新婚旅行を霧島の栄之尾温泉に滞在した記録がある。
慶応2年(1866)龍馬が寺田屋事件で負った傷を癒しに、お竜と
出かけた新婚旅行が最も古い記録とされているが、実際は小松帯刀
夫婦の方が、それよりも10年早い記録なのである。
② 久光と折り合いの悪かった西郷が、二度目の離島から鹿児島への帰還
と戻ってからの久光との再会に、最も尽力したのが実は小松である。
④ 龍馬の新政府の人事構想の中で小松は、西郷や大久保、桂らを抑えて、
筆頭に挙げられていた。
今日こそは静かにしとこ思たけど 一階八斗醁
北斎漫画ー太った人
「付録」 お虎
西郷は太った女性が好きだったようで、様々な逸話が残っている。
お虎という愛人がいたが祇園のお茶屋・奈良富の仲居だった。
一升の酒を軽く明けてしまうほどの酒豪で、その豪快さを西郷は愛した。
あだ名は「豚姫」で、大柄な女性だった。
西郷がお虎を使って、敵の情報を探らせたという話も残っている。
また東征軍を率いて京を発つとき、お虎は別れを惜しんで、
京から大津まで駕籠をうたせて見送ったという。
西郷は非常に喜び、褒美に30両を贈ったのだった。
会った瞬間ビビビッと来ました 川畑まゆみ
江戸城無血開城のあと、お虎にある任務を与えている。
それは江戸に行き、赤坂氷川町の勝海舟邸に3万両送り届けるというものだった。
その頃、旧幕臣は勝のことを「江戸城を明け渡した裏切り者」だと決め付け、
勝海舟を斬ろうという声が持ち上がっていたからである。
西郷はそんな勝のために逃亡資金3万両を手配し、お虎に届けさせたという。
(ただそんな大金をどうやって運んだのか…などなど疑問の残る)
海舟は、お虎のことを「どうも言うに言われぬ良いところがあった」と書いている。
お虎は西南戦争で西郷が死んだと聞いて、ひどく悲しんだ
そしてその3年後に亡くなったという。
また西郷が愛した女性に井筒の仲居・お末もいた。
お末も大女だったという。
ちなみに愛加那も大柄だっただったらしい。
3番目の妻・イトは痩せているという例外もあるが…。
次の世も生きてゆくなら鳥か魚 柴田比呂志
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