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川柳的逍遥 人の世の一家言
星が降っているので浴びに来ませんか みつ木もも花
石 山 女 角 力
【明治十六年~二十四年四月】 〔女角力、興行さる!〕
今の年、女角力が盛んに行われている。
これは信州の士族の興行師が始めたもので、番付もあるというからかなりの 本気。みな大女ばかりで、大関などは、身長こそ百五十七センチだが、体重 は八十キロとでっぷり。四股名も富士山遠江灘と男勝りだ。 両国回向院で興行を行ったこともあるが、余技として、土俵を前歯でくわえ たり、四斗俵を持って土俵上を歩いたりと珍芸が多く、差し止めになること しばしばとか。 わたくしがてふてふだったころのこと 大葉美千代
歴 代 横 綱 勢 ぞ ろ い 大相撲ー明治~昭和の相撲のニュース
行司稼業も命がけ
観客のほとんどは相撲より飛んだ行司を見ている。
【明治三十八年一月】 〔ああ行司悲歌土俵に死す〕
まさかと思われていた、本当におこってしまった。
一月場所、立行司の木村頼平が亡くなった。死因は心臓マヒ。
土俵下で力士に押しつぶされたことが原因だった。
一月場所五日目の太刀山ー駒ヶ嶽戦だった。
駒ヶ嶽の攻めにこらえ切れず土俵下へすってんころり。 このとき、太刀山の投げ足が、下で控えていた瀬平を直撃した。 行司の瀬平は、後ろにひっくり返り苦しんだが、運命のいたずらか、際どい勝
負のため土俵下から物言いがつき、一時間もの協議の末、一勝負預かりに。 この間に瀬平は元気を取り戻し、次の一番を無事に務め、六日目と八日目に再
び土俵にあがった。ところが翌日の早朝、自宅の布団のなかで急死。
医師の診断により死因は、心臓マヒと判明した。
瀬平は酒好きで、心臓を悪くしていた…が、瀬平に運命のとどめを打ったのは、
太刀山。結果、土俵下で圧死してはてることとなった瀬平。
行司は命がけの仕事なのである。
(立行司・木村瀬平は、日本相撲協会の年寄名跡のひとつで、木瀬(きせ)の
通称で呼ばれている)
あの世にはタタミイワシを手土産に 銭谷まさひろ
梅 ヶ 谷 ー 常 陸 山 戦
【明治四十一年】 〔大相撲人気が絶頂を極めている〕
立役者は二代目梅ヶ谷と常陸山。 梅ヶ谷は、温和な顔立ちで、取り口も守りを固める堅実派。
一方の常陸山は猛々しい風貌で、攻撃型力士。対照的な二人の勝負に、ファン
は沸騰中だ。 「圧巻、勝率九割を超える常陸山」
今から百十五年前、谷風・小野川の両横綱が、ライバルとして数々の名勝負
を演じ江戸市中を熱狂させたが、今の二代目梅ヶ谷・常陸山の人気は、過熱 ぶりを彷彿させるようなフィーバーぶりだ。 止まれない訳を踵も知っている 森井克子
梅ヶ谷は一六八センチ、一五八キロ。背が小さく、加えて、いつも笑みを浮か
べているほがらかな顔。豊な印象はまるでえびす様だ。 相撲もどっしりと構えて四つに組み、最新の注意を払っての寄りが身上。 常陸山は梅ヶ谷とはまったく対照的。
一七四センチ、一四七キロのバランスの取れた体。眼光は鋭く、飢えた肉食動
物のようなどう猛さを感じさせる風貌。 取り口も、細かい技にこだわらず、立ち合いから気合十分に猪突猛進する。
豪快な攻撃力が持ち味だ。
狼の視力を持った草刈機 くんじろう 二人の対戦が最初に注目されたのは、三十六年五月。互いに全勝で千秋楽を
迎え、息もつかせぬ大接戦の末、常陸山が勝ち優勝を決めた。 この一戦で梅ヶ谷も高く評価され、場所後に横綱に同時昇進。
そして今、この両力士が東西に分かれて、優勝争いを繰り広げているから、
ファンにはたまらない。二人の対戦のほとんどが全勝、もしくは一敗。
現在の大相撲での最高対決だ。
ライバルの二人だが、今のところ人気、実力とも常陸山が上。
常陸山の勝率は九割を越え、抜群の強さを誇る。
梅ヶ谷は、対戦相手のなかで、唯一、負け越しているのが常陸山である。
やんわりと言いなはるけどきつおます 原 洋志
初 代 両 国 国 技 館
【明治四十二年六月二日】 〔相撲の殿堂!国技館完成〕
晴雨にかかわらず十日間の相撲興業可能に、ブームにますます拍車。
この日、国技館の開館式が盛大に行われた。委員長の板垣退助が厳粛に開館
の挨拶。さらに全国の新聞記者を代表して、万朝報社主の黒岩周六が祝辞を 朗読した。参列者は、東京市長、商工会議所会頭、両院議長、各貴族、外国
大使とそうそうたる面々だった。 新館建築に向けスタートしたのは三十九年。場所を両国の回向院境内に決定。
五月には起工式を行い、建築家は東京駅、日本銀行本店の設計で名高い辰野
金吾が選ばれた。そして、三年の月日を経て、日本初、ドーム式の円形建築
の常設館が完成した。
建設を機に、屋根付きの土俵は、これまでひさし風のものから、入母屋造り
に変更。土俵も四角形に盛り上げた土俵場のなかに、丸土俵を置くことにな
った。
(ちなみに「国技館」の命名者は文学者の江見水陰。収容人数は露店興行の
三千人程度から一万六千人へと増大。そして何より、晴雨に関係なく興行を
行える。相撲ブームにますます拍車がかかるのは間違いない)
野暮やなあその先聞きたがるなんて 松浦英夫
【明治四十四年五月】 〔雲竜型と不知火型、実は逆だった〕
雲 竜 型 土 俵 入 り
【明治四十四年五月】 〔雲竜型と不知火型、実は逆だった〕 大相撲オープニングのクライマックスは、何といっても「横綱土俵入り」だ。
第10代横綱・雲竜久吉と第11代横綱・不知火光右衛門をそれぞれ創始者
とする「雲竜型」と「不知火型」が知られている。 一般的には、「不知火型の横綱」として、太刀山・羽黒山・吉葉山・玉の海が
知られ、「雲竜型の横綱」は、常陸山、二代目梅ケ谷・栃木山・双葉山・栃錦 若乃花・柏戸・大鵬など、圧倒的に多い。 ところが、この土俵入りの型が、現在ではまったく逆であるという。
仰天する異論が飛び出し、関係者を驚かせている。
それは、第22代横綱・太刀山が、明治44年5月6日の靖国神社大祭の余興
相撲で披露した初土俵にさかのぼる。
このときの模様を太刀山自身がある報道関係者にこう伝えているのだ。 「わしの土俵入りは常陸山関・梅ケ谷関(二代目)とは違っている。
二人は四股を踏んだ後で、左手を胸にあて、右手だけを横に広げるが、わしのは、
両手を同時に広げて、両足をせり上がっていく。行司の木村庄之助(十六代)が
薦めてくれたもので、これが横綱雲竜の型らしいよ」 嘘だとは言えないままの嘘ひとつ 山田恭正
不 知 火 型 土 俵 入 り
当時の新聞『報知』『国民』『朝日』は、太刀山の土俵入りを「雲竜型」と
署名入り記事で報じたが、『日日』『時事』『万朝報』など、「不知火型」と
雑報扱いで報じたものもあった。 信憑性を考えれば、署名記事の報に分があり、明らかに現在の土俵入りの一般
論とは逆となる。
「これはいかなることか」と、大相撲歴史新聞では、特派員を派遣し調査した
ところ、ある有力報道関係者が、後に太刀山の土俵入りの型を継承した第36
代横綱・羽黒山の土俵入りを見て、前述の雑報扱いの記事を参考に「不知火型」 と決めつけてしまったとのこと。 綱の後ろの結び目で分ける雲竜型と不知火型 いずれの名にせよ「優美な横綱土俵入り」を競った、雲竜・不知火の両横綱の
名は、大相撲の歴史とともに輝いている。
なお現在「雲竜型・不知火型」の違いとして、四股を踏んだ後の下段のせり上
がり形以外に、綱のうしろの結び目が一輪のものが、「雲竜型」両輪のものが
「不知火型」となる。
(右手を伸ばし左手を脇に添えるのが雲竜型(攻守兼備)、両手を大きく広げ
るのが不知火型(攻め)とされ、雲竜型は豊昇龍や大の里、不知火型は白鵬や
照ノ富士が代表的である)
なるようになるが私の哲学だ 徳山みつこ
あゝついに双葉山敗れる 【昭和二十年十一月】 双葉山七十連勝ならず
双葉山の69連勝の裏にかくれていた事実。
昭和11年1月から14年1月まで、60連勝という不滅の金字塔を築いた
双葉山は、実は、右眼がほとんど見えないというハンディを背負っていたと
いう衝撃的な事実が明らかになった。 関係者によると、
昭和16年5月場所の時、双葉山は桜錦と対戦し負けた一戦があった。
その時の取り組みの内容に不審な点がみつかったのである。
平幕の桜錦は、横綱・双葉山の右足に蹴手繰りをしかけ、左に避けた。
双葉山は、思わず土俵上に手をついてしまったが、自分の右側に瞬間的に移
動した桜錦を完全に見失ったような感があり、力士たちの間では、双葉山の 右眼はおかしいのではと危惧された。
双葉山と親しい高木友之助中央大学総長は「彼の右眼のハンディを知ってい
たのは、おそらく彼の両親と私ぐらいだろう」と語る。
同部屋の力士さえ知らない事実だった。
彼はこんなハンディを持ったまま、不滅の連勝記録を樹立したことになる。 誰もしらない沢山のしくじり 永井 尚
昭和20年11月の引退後、はじめて彼自身の口から明らかにされた衝撃的な
事実であった。ますます彼の記録が、いかに前人未到の大記録であったかが、
再評価されるだろう。 また誉めるべきは、彼と対戦した当時の力士たちともいえる。 双葉山は、全力士から徹底的に研究され、彼の右眼のことは噂ではなんとなく
知られていた。が、誰一人として彼のそのハンディを確かめるような取り組み
を仕掛けた者はいなかったという。双葉山の70連勝にストップをかけた安芸
ノ海も「右四つに組まれた後、安芸ノ海は、外掛けを仕掛け、双葉山はバラン
スを崩して左膝から落ちた。右眼のことを狙った戦い方ではない」
と関係者は口を揃える。
右眼のことを隠し通し、かつ大記録をつくった双葉山。そしてそのハンディを
薄々気づきながらも決して戦術として使わず、真正面から戦い続けたフェアプ
レーに徹した力士たち。大相撲ならではの清々しい逸話である。
(因みに、双葉山の生涯成績は276勝68敗1分けで、33休。優勝12回。
幕内の勝率はなんと8割2厘。横綱になった後は、8割8分2厘という驚異的 な勝率を誇った)
泣き場所ににょきにょき生える笑い茸 笠島恵美子
力士時代の力道山
【昭和24年5月7日】 〔力道山がついにのし上がった〕
この日、相撲協会は、15日から行われる大相撲夏場祖の新番付を発表した。
そのなかで、ここ数場所、確実に力をつけ白星を重ねていた力道山が、関脇
昇進を果たした。 その場所、力道山はいつになく好調だった。連日勝ち続け、千秋楽まで九勝
一敗、前田山、東富士、羽黒山の上位陣と星を並べ、その場所から採用され
た同点決勝戦で、四力士による優勝決定戦が行われることになった。
横綱・羽黒山と対戦した力道山は、立ち合いから攻め、相手を土俵際に追い
詰める。羽黒山は懸命に左、左へとまわり、力道山が右外掛けで倒そうとし
たとき、羽黒山がうっちゃりで破った。
結局羽黒山が優勝し三連覇を遂げたが、強豪相手に健闘したことが、この日
の昇進につながったことは間違いない。
にんげんも塩で締めるとしゃんとする 井上恵津子
横 審 総 見 【昭和25年5月25日】 〔横綱審議委員会設置ー横綱格下論に応える〕
このところ議論が沸騰していた「横綱格下論」にようやく決着がついた。
相撲協会はこの日、横綱審議委員会(横審)を設置した。
委員長は酒井忠正氏に決定し、尾崎士郎氏、石井光次郎ら計八人のメンバー
で構成されることになった。横審設立のきっかけは、今年の春場所で羽黒山、
東富士、照国の三横綱が、ケガや故障で相次いで途中休場し、六日目にはつ いに横綱不在に、この事態に世論は激憤。横綱格下げを求める声が殺到した。
協会は役員会を開き、対応を協議。一時は、横綱も二場所連続で負け越せば、
地位を格下げする方向で固まったが、照国のように「八年間も横綱として角
界に貢献しながら、二場所の成績不振だけで格下げするのはどうか」という
意見もあり、対応は混迷を極めていた。
横審は、横綱を推薦する時点で、積極的に発言し、横綱昇進が妥当かどうか
を審議する。協会の慰問機関として設けられた。
文句なく文句言われず恙無い 藤井孝作
【昭和32年3月17日】 〔横綱の一代年寄が復活〕
横綱の一代年寄が復活することになった。
「横綱一代年寄制度」は、横綱が引退した場合、本人一代に限り、現役時代
の四股名で年寄として認められるもので、第三十六代横綱・羽黒山まで認め
られていたが、その後、安芸ノ海以降の横綱は廃止となっていた。 横綱に期待されたがすぐカド番 太田省三
土俵下にはザックザク
【昭和35年9月17日】 〔給金の増額〕
日本相撲協会は、幕内および十両の報奨金と幕下以下の奨励金の支給額につ
いて理事会を開いた。従来の規定を全面的に改正する思い切った大幅な増額
にふみきった。
報奨金は、従来勝ち越し星2つまで1つにつき25銭、3つ以上は、1つ増す
ごとに50銭の増加を認めていたのを、勝ち星1つにつき50銭に決めた。
また準本場所での勝ち越し星に支給されていた25戦は削除された。
奨励金に関しても改正された。
従来幕下以下は勝ち星1つにつき、幕下170円、3段目100円、序二段
80円に、勝ち星についても値上げされる。なお改正した支給額は今の場所
から実施される。
昭和の幹に令和の歌を接ぎ木する 小川佳恵
旭 富 士
横綱の誰かに似ていますね。果たして誰に似ている?…答えは下に (´∀`)
【令和8年3月場所】 〔出世は早いぞ! スピード違反だぞ〕
「ピョ~ンといったんですけど、じっくり見てこられて恐怖でした。
強いです。ベネズエラ打線みたいでした」対戦した朝前進が語る。
大相撲春場所・11日目から、「史上最強の新弟子」と注目を集める西序二段
八枚目の旭富士 (23) が、序ノ口デビューから無傷の本割13連勝とした。
この日、元十両の東三段目七十五枚目の朝前進(高砂)と対戦した。
立ち合いで変化されたが慌てずつかまえて、難なく寄り切り、元関取を問題に
しなかった。 先代師匠の宮城野親方(旭富士)から「横綱の四股名を受け継いだ」期待通り、
連勝を伸ばしてみせた。今場所もこれで6連勝。
将来、どんな大物になるのか楽しみである。目が離せない。注目株一番です。
本名 バトツェツ・オチルサイハン モンゴル・ウランバ-トル出身
身長 187,0㎝ 体重 148,1㎏
(第55代横綱・北の湖は、昭和50年代の土俵に君臨した大横綱で、
その強さは、双葉山、大鵬をしのぐとも言われ、憎たらしいほど強い
「不沈艦」の異名を取った。似ていませんか!)
地方から旅立つ虹よ消えないで 森 茂俊 PR 相撲でもあればと思う父の背 保田邦子
七 夕 相 撲 【天平6年(734)7月7日】 秋七夕の日、聖武天皇相撲をご観覧。最古の「天覧相撲」である。
秋七夕のこの日、聖武天皇が相撲大会を催した。最近、天皇家や貴族の間に
相撲が浸透、ちょっとしたブームとなっているが聖武天皇もついに相撲の魅力
に取りつかれたようだ。相撲の賢覧絵巻の始まりを予感させる。
紫で真正面からやってくる 東川和子 相 撲 節 会 の 図 相撲大会は、宮中紫宸殿の庭で行われれた。聖武天皇は終始ご満悦の表情だ。
実は、この企画を考えたのは聖武天皇ご自身だった。
垂仁天皇七月七日の野見宿禰と当麻蹴速の力比べの故事を知った聖武天皇は、 その話に興味津々、早速これを実行しようと動き出した。 勅令を出して、各地の農村から相撲人を集め、秋七月七日の七夕祭りの余興と
して相撲大会を催すことを計画。この日、ようやくその念願を叶えたわけだ。
聖武天皇は相撲にちょっとした縁がある。
しかるべき位置に満月置き直す 村山浩吉 今から九年前、天候不順のため全国的な凶作に見舞われたとき、聖武天皇は、 二十一社に勅使を派遣した。豊作を願って神の加護を祈念するためだ。 すると祈念が通じたのか、翌年は空前の大豊作。各社では、聖武天皇への感謝 を表すため、神前で「奉納相撲」を行なった。 この日、聖武天皇は、相撲を観戦しただけでなく、近江国の相撲の達人・志賀
清林に命じて相撲の規則を作らせた。かつての相撲は死人が出るほど荒々しい ものだったが、新規則は、「足蹴り、殴り、こぶし突き」の三つを禁じ手とし、 より洗練されたものとなった。また、相撲が終わった夕刻、聖武天皇は南苑に 移動。文人に命じて七夕の詩をつくらせ、その出来に応じて禄を賜った。 武器要らぬ両手にペンと鍬がある 岡田 洋 大相撲ー歴史・天平~安土時代 【天安二年(858)】
文徳天皇の二人の息子、惟喬親王と惟仁親王の間で争われていた皇位継承問題
だが、ようやく決着がついた。文徳天皇にとって、皇位継承問題は長年の懸案
だった。惟喬親王か惟仁親王か。両者の争いにまで発展したものの、結局問題
解決にはならず、皇位継承権を相撲の勝敗で決することになり、この日「相撲
節会」が開催された。
必勝を期す惟喬親王は、紀ノ名虎(なとら)を代表として選び、勝負に挑んで
きた。34歳、身長はゆうに2メートルは超える巨人だ。一方の惟仁親王の代 表は、大伴善雄(よしお)21歳。力があると評判の男だが、名虎と比べると あまりに小兵。勝負は始めから決まったよぅなものだった。 王様はおもろい人がなるんやで 高橋レニ 立ち合いから名虎が優勢に攻めた。積極果敢に大伴が仕掛けるものの筋肉隆々
で大木のような体の名虎は微動だにせず、終始優位に攻め立てる。だれもが、
名虎の勝利を信じたそのとき妙な声が響き渡った。惟仁側の祈り師として来て いた延暦寺の恵亮和尚だ。
「大聖大威徳明王願わくば大伴に力を与付け給へ、勝つことを即時に得せ給へ」
と香を燃やしながら念を唱える。すると、そこに突然水牛が現れて大声で雄叫び。 その声に名虎は全身の力が抜け、茫然自失状態に。善雄はここぞとばかりに投げ
飛ばした。名虎は口から血を吐き起き上がることができない。 軍配は惟仁親王にあがり。次期天皇が決まった。
古墳からニコニコ笑う骨が出た くんじろう 熊を投げ飛ばす金太郎
【脱線】 噂の真相 マサカリ担いだ金太郎だが、本当に実在したかどうかははなはだ疑わしい。
金太郎は、坂田金時と名乗り、源頼光の家来となって大江山へ鬼退治に行った
といわれる。しかし、頼光は、武士だったが、決して鬼退治に行くような人物 ではなかった。官人の仕事がほとんどで、生活の場は都である。 勇猛果敢とはほど遠い、こんな男に、熊と相撲を取ったという金太郎が、官庁
の仕事が務まるのだろうか…?。 一番風呂は熊に使って頂いた 酒井かがり 頼 朝 上 覧 相 撲 【文治5年(1189)】
鶴岡八幡宮が熱い…鶴岡八幡宮にて十番ーー舞楽やぶさめも行われる。
今年、将軍・源頼朝は鶴岡八幡宮で何度も「上覧相撲」を催した。 これはかつての「相撲節会」を模したもので、武士や相撲人を集め、相撲好き の源頼朝が相撲を見物するというものだ。 これと同時に、競馬(くらべうま)や馬を走らせながら矢で的を射るやぶさめ も行われ、鶴岡八幡宮は活気に満ちている。 最初に祭礼が行われたのは正月のこと、源頼朝は元日に鶴岡八幡宮に詣でると
三日には「事始めの儀」を催した。 九日には、源頼家が八幡宮馬場にて弓始めを行ない、十人の射手が矢を放った。 百年の歴史刻んできた柱 津田照子 鶴岡八幡宮・流鏑馬 こうして祭礼が徐々に高まるなか三月にも「上覧相撲」が行われた。 三月三日。この日はあいにくの雨模様だったが、祭礼は決行された。
雅楽が重厚な音色を奏でると、それに合わせて華麗なる舞が披露された。
「舞楽」だ。馬場では十五人の騎手たちがやぶさめを行ない、次々と四角い的
に矢が射られる。最後は頼朝が待ちに待った相撲。 この日は十番行われ、頼朝は上機嫌。 そして、最高の盛り上がりを見せたのが、四月三日だ。
「やぶさめ(競馬)」が行われ鶴岡八幡宮は大歓声。 そして相撲が十番。なかなかの熱戦に観客は釘付けだ。 またこの日、三島社でも祭礼が行われており、同じく相撲が十番組まれ、喝采
を浴びた。頼朝は今年だけでなく、今後も上覧相撲をつづけていく予定だとか。 青い言葉を吐く黄色いくちばし 大久保眞澄 「上杉本 洛中洛外図屏風」(三条河原での相撲興行)
これは信長が謙信に送ったもの。部分・場所は鴨川が流れる三条大橋。 人だかりの中で力士が組み合っており、観客がそれを取り囲んで観戦している
様子が描かれている。 信 長 上 覧 相 撲 【元亀元年(1570)~天正9年(1581)]】 織田信長の上覧相撲盛んに行われる。
相撲大好きの織田信長は、元亀元年から天正9年までも12年間に記録に残る
だけで10回以上「上覧相撲」を開催している。
派手好きの信長らしいエピソードがある。天正6年8月15日。信長は、何と 1500人もの力士を安土城に集め、午前8時から午後6時まで相撲を取らせたと いう。また信長は、現代の土俵の原型(円形)や行司、弓取り式を考案したと され、相撲の競技化・娯楽化に大きく関与したといわれる。 ここで好成績を収めた力士は、刀を与えられたり、家臣として召し抱えられた。 あかんけど食べたら旨いアニキサス 中野六助
泣く子も黙る物言いー新選組と大坂力士が大げんか
【文久三年(1863)七月】 六角棒を振り上げる力士たち、刀で対抗する新選組の幹部たちー。
新選組と大坂力士たちの間で、壮絶な戦いが展開された。
きっかけは今月十五日夜、大坂鍋島岸付近を歩いていた沖田総司ら新選組の幹部
八人は、正面から歩いてきた四、五人の力士たちに「片寄れ!」などと命令。 従わないと見るや、刀を振り上げて脅すなど、酔いにまかせて威張り散らし、
その後も何人かの力士に同じような行為を繰り返していた。 これに無頼派で知られる大坂力士たちが決起。
新選組が酒宴を催していた住吉楼という見世に、五、六十人の力士たちが六角棒 を持って襲撃した。だが刀を持つ浪人たちにはかなわず、死者五人、負傷者十六 人と惨敗。沖田総司らは額に傷を負った程度で圧勝した。 力士の大半は小野川部屋の者。年寄の小野川秀五郎は、早速新選組に出向き陳謝。
完敗した大坂力士だが「泣く子も黙る新選組に挑んだ」心意気はさすがだった。
喧嘩するだから人間面白い 塚北一徳 僥倖を連れてきたのは泣きぼくろ 岸井ふさゑ
ようこそ大相撲春場所(3月8日~22日) 「荒れる春場所」と称される大阪の舞台。季節の変わり目で体調管理が
難しいことが理由とも言われるが、実際のところはどうなのだろうか。
一場所15日制が定着した1949年夏場所以降に昇進した横綱35人
のうち、春場所で綱取りに成功したのは、たった2人。大阪でめっぽう
強く「大阪太郎」の異名を持つ59年の朝潮と、2014年の鶴竜だけ。
最近では栃東、琴奨菊、貴景勝らがはね返されており、験の悪いデータ
に安青錦がどう立ち向かうか。
ギロチンの刃がキリキリと巻き上がる 井上一筒
雷伝為右衛門 小野川喜三郎 大相撲ー三月場所の見どころ
松原会計事務所のKPMGジャパンから贈呈された化粧まわし。
出身地のウクライナ・ビンニツァの伝統的な刺しゅう文様がモチーフ
で「凄く素敵なデザイン。シンプルでいて力強い。世界中の方に強い
相撲を見せていきたい」と安青錦は意欲を新たにした。
「安青錦」
戦禍のウクライナから避難して2022年4月に単身来日。当初は関大
相撲部に練習生として身を置いていた。23年秋場所で初土俵を踏むと、
低い体勢から見せる多彩な攻めでスピード昇進。それでも、昨年春場所
はまだ新入幕力士だった。それから1年、2桁白星を続けてさらに成長
し、安定感が増している。
春場所で横綱昇進を決めれば、大関の2場所通過は昭和以降では双葉山、
照国と並んで3人目となる最速タイ。初土俵から所要16場所での昇進
は、年6場所制となった1958年以降、初土俵では朝青龍の25場所
を大幅に塗り替える新記録だ。「自分のやるべきことをやれば、結果は
ついてくる」と話す安青錦の取組から目が離せない。
一月場所は新大関として2場所連続優勝を果たし、綱とりに挑む安青錦
(安治川)が自己最高位となる東大関に置かれた。初場所はともに10
勝だった両横綱は、豊昇龍(立浪)が続いて東に位置する。
大相撲新大関の内無双 楠元晃朗
「相撲のニュースゟ」
初場所14日目の1月24日。大相撲中継で解説を担当した春日野親方は、
率直な違和感を口にした。新大関・安青錦の“まわし”についてだ。安青錦は
その2日前、トレードマークだった青いまわしを、師匠の安治川親方(元関
脇・安美錦)から譲り受けた黒色のものに変えたことが話題となっていた。 力士が本場所でつけるまわしは「締め込み」と呼ばれ、値段は100万円前後。
後援会や支援者から贈られるのが一般的だが、本場所中に変更するのは異例 のこと。しかも、師匠のものとはいえ、要は他人のふんどしである。 理由を聞かれた安青錦は「特にない」とそっけなく語っていたが、それでも、
安青錦が、二場所連続優勝を決めると、不可解な締め込み変更も師弟の美談と して報じられた。 ジョーカーを持っていたから頑張った 井上恵津子
まわしについて、安治川親方は「本人が黒にしたいと言った。自分も一緒に戦
っている気になる」と上機嫌で話していた。
2019年に現役を引退した安治川親方は、22年暮れに伊勢ヶ濱部屋から独
立。翌年、都内に新築の安治川部屋を構えた。
安治川親方は、伊勢ヶ濱部屋時代に知り合った会社経営者のA氏に支援を頼み
込んだ。A氏は、安治川部屋の後援を快諾。安治川親方を物心両面から支え、 部屋の弟子たちにも食事をご馳走したり、小遣いを渡したりして面倒をみたと
いう。その中の一人が、戦禍のウクライナから来日し、瞬く間に安治川部屋の
関取第1号になった安青錦だった。 僥倖はドラを積もって幕を開け 村田 博
安青錦優勝祝いに親方とおかみが揃う 「安治川部屋の内輪話」
関取といえば、部屋の稼ぎ頭。A氏は、安青錦もかわいがっていたが、
おかみが内心それをよく思っていなかったようだ」
おかみ(杉野森絵莉)さんは、早稲田大学法学部を卒業した資産家令
嬢で、在学中にグラビアデビューした異色の経歴の持ち主だ。
「ただ芸能界では鳴かず飛ばず。12年、出席した日馬富士の横綱昇
進パーティで、伊勢ヶ濱部屋の後援会幹部から現役力士だった安美錦
を紹介され、安美錦はおかみにベタ惚れして翌年に結婚。以来、惚れ
た弱みでおかみに頭が上がらない。 (伊勢ヶ濱部屋後援会員の弁)
黄昏も応援してるプロポーズ 高橋ひろこ
早大出のおかみの影響力は絶大で、安治川部屋も早稲田色を強めていく。
安治川親方もおかみの勧めで21年4月から1年間、早大大学院に学んだ。
研究テーマは『相撲部屋におけるおかみさんの役割について』だ。 (そこまでやるか!の、親方とおかみのべたべたどっぷりだ。)
「一昨年、親方とおかみは、早大卒業生団体の稲門会のひとつ『稲門相撲
會』を設立。今年1月には、早大相撲部の川副楓馬くんの安治川部屋入門
が決まった。早大卒としては、81年ぶりの力士誕生になります」と後援
会関係者が語る。 おかみとA氏は「もともとウマが合わなかった」と、角界関係者がこっそ
り教えてくれる。その板挟みだった安治川親方も、やがてA氏を遠ざけ始
めるようになった。
安青錦が初優勝した昨年11月の九州場所では、支度部屋での万歳三唱の
場にも千秋楽パーティにもA氏は招かれず。激怒したA氏は、安治川部屋
と縁を切ったんです」と、後援会関係者が漏らす。 社会的距離であなたが遠くなる 村山浩吉
雷伝為右衛門 小野川喜三郎 「3月場所の見どころ」
①
人気のある宇良は大阪場所ではさらに人気は沸騰するから気合が入る。
一月の初場所では4勝11敗と大きく負け越した。ただ、どんな技を仕掛け
るか分からない業師ぶりと、常に全力を出し切る取り口は健在。 ベテランの域に入るが、常々、ファンの声援と拍手に「ありがたい」と感謝
を口にする人気者は地元で持ち前の変幻自在をみせてくれるだろう。
藤色の基礎体温が高くなる 吉松澄子
明日の取り組を発表する行司 ②
小兵ながら気迫あふれる真っ向勝負が魅力の藤ノ川は、一月場所で2桁白
星を挙げ、その人気とともに、初めて上位総当たりとなる地位まで番付が 上がってきた。東京だった出身地を、24年春場所から父の甲山親方(元
幕内大碇)と同じ京都市に改め、春が「ご当所」となった。家族の影響で 普段から関西弁が出る藤ノ川は「大阪では特に良い相撲が取れるようにし
たい」と意気込む。
大阪が性に合ってる相撲とり 通利一遍
さて今場所はいかに ③
対照的に、東十両7枚目で3勝7敗5休だった栃大海(春日野)は、西
幕下筆頭に番付を下げた。名門の春日野部屋から昭和10年(1935)以来
続いた関取の輩出が途絶えた。
(同じ名門では高砂部屋が、2017年初場所で関取不在となり、明治
11年(1878)から139年続いた関取輩出が止まった。
出羽海部屋は、2010年名古屋場所で関取不在となり、明治31年
(1898)から112年続いた関取輩出が途絶えている)
王の黄昏だあれもいなくなった 加納美津子
方肌を脱いで記録に挑む ④
41歳の最年長関取、玉鷲(片男波)は、西前9枚目となった。
一月の初場所は東前頭5枚目で5勝10敗だったため、4枚半降下した。
これで幕内在位は99場所目となり、旭天鵬と並んで歴代3位となった。
歴代2位の白鵬まで4場所、歴代1位の魁皇まであと8場所に迫った。
幕内出場回数は現在歴代2位の1467回。休場しなければ、3日目に歴代1位
の旭天鵬に並ぶ。
(玉鷲は8勝を挙げれば、史上最高齢での幕内勝ち越しになる。
これまで旭天鵬と玉鷲が記録した40歳8カ月を約8カ月更新する。
番付上、横綱戦が組まれる可能性は低いが、横綱に勝利すれば、自身が持つ
40歳8カ月の最年長金星の記録も更新する)
不戦勝笑顔押さえて勝ち名乗り ふじのひろし
熱海富士に似ている小柳常吉 ⑤
優勝決定戦で安青錦に敗れた熱海富士が西小結に番付を上げた。
同部屋からは、2015年7月場所の宝富士以来、現師匠(元横綱照ノ富
士)が継承してからは初、静岡県からは1930年夏場所の天竜以来の新
三役となった。
プレゼンの途中に挟む自慢談 日下部敦世
⑥
新入幕では、藤青雲と藤凌駕。藤島部屋からは、2023年3月場所の
武将山以来で、同部屋から新入幕2人は、2011年11月場所の境川
部屋(妙義龍・佐田の富士)以来となる。
文句なく文句言われず恙無い 藤井孝作
⑦
幕内経験者の人気力士炎鵬(伊勢ケ浜)は東幕下4枚目に番付を上げた。
東幕下11枚目だった1月の初場所では、勝てば十両再昇進が確実だった七
番相撲で敗れて6勝1敗。幕下15枚目以内の7戦全勝は、十両に昇進する
ことが慣例となっており、目前で関取復帰も幕下優勝も逃していた。
それでも今場所、勝ち越せば昇進の可能性が出てくる幕下5枚目以内に入っ
てきたことで、23年夏場所以来、3年ぶりの関取返り咲きの可能性は高まる。
その時はその時何も考えぬ 青木公輔
⑧
一月場所、西幕下6枚目で、6勝1敗の好成績だった大花竜(立浪)は、
西幕下2枚目に番付を上げた。“相撲どころ”青森県出身。同県出身の
幕内力士は、1883年から143年、常に番付に名を連ねてきた。
現在は前頭錦富士、十両尊富士の伊勢ケ浜部屋2人が、交互に幕内を務
め、歴史をつないでいる状態。そこに地元ファンにとっては“待望の3
人目”として加わることが期待されている。
三日月に思い巡らすステンドグラス靍田寿子
意外にリーズナブルなんです ⑨
“史上最強の新弟子”の呼び声高い、先場所序ノ口優勝の旭富士は、西序二
段8枚目に番付を上げた。先場所が東序ノ口19枚目。実に111枚もの
ジャンプアップは、全力士最高の番付上がり幅となった。
転生にゾウとキリンを入れておく 渡辺遊石 昭と和の間にそっと一呼吸 上田和宏
画像は明治中期んも大相撲の様子 審判は四本柱の内側に座している。 昭和の真ん中は栃若時代、名人と謳われた「二人の呼出し」がいた。
一人は、名門・出羽海部屋所属の伝説的な呼出しは「太郎」である。
11歳で入門し、バチさばきと美声で観客を魅了した名人芸の持ち主で、
角界初の「生存者叙勲」を受けた功労者であり。衆議院の議事進行係が、
通称「呼び出し太郎」と呼ばれるほどに名を馳せた。
そして太郎から少し遅れて、破格の美声の持ち主といわれ登場したのが
「小鉄」である。伊勢ケ浜部屋所属、明治31年相撲界に入った。
小鉄が呼び上げのために土俵に上がると、あの騒々しい場内が、その声
を聞き漏らすまいと館内が静まり返ったという。 加えて、その太鼓は不世出とされた。あれほどのバチさばきは二度と聴
けまいといわれる。昭和44年には、角界初の生存者叙勲に輝いた。 それを祝してドイツ文学者が川柳に残している。
しょうゆ樽叩いてもらう勲六等 高橋義孝
呼 出 し 小 鉄 宵越しの金を持たない太郎は、借金の形に商売道具の太鼓を質に入れた ことがある。代わりに空のしょうゆ樽をたたいたのだが、その腕前ゆえ、 しばらく周囲に気づかれなかったという。
現在、呼出の名前は番付に載っている。この原点は太郎の力である。
昭和24年、太郎が「名前を載せてほいい」と協会に願い出て受けいれ
られたのだ。しかし太郎が定年になると、また番付から消された。
これは平成6年に復活した。
現実に、呼出は名前が載って当然の、実に多岐にわたる仕事をしている。
行司と同様に、呼出なしでは大相撲は成立しない。
さくらさくらさくらは平仮名が似合う 雨森茂樹
式守伊之助と呼出・弥吉 大相撲ー呼出し
さて相撲は「呼び出し」から始まる。長く相撲を愛している方ならどなた
もご存じの、しつこくて申し訳ないが、あの栃若時代に部類の美声の持ち主 「呼出小鉄」がいた。館内に響き渡る透き通った声に、観客は咳一つしない その緊張感の中で、両力士は、土俵に上がるのだった。 これから対戦する両者の胸中を、観客は瞠目するのである。
小鉄の声は、それほどの価値を持っていた。
おそらく小鉄に呼び上げられたいと、多くの力士は稽古に励んだことだろう。
なぜなら名匠と称されてから彼は、横綱・大関しか呼出さなかったのだから。
守ります自分のペース頑なに 前中一晃
呼出・利樹之丞
半世紀以上経た今、小鉄のごとく透る声の呼び出しさんが現れた。
利樹之丞さんである。高砂部屋所属の52歳、昭和64年に初土俵を踏む。
小鉄のような高音域の「呼び上げ」で取り組みを盛り上げている。
現在幕内格で年功序列の世界であり、小鉄になれるかは未知数だが、よく
よく、精進してそうなってほしい。相撲が力士だけのものではないことを、 知らしめてほしいものである。 呼出しの仕事で一番楽しいことはと聞かれた利樹之丞さん。
「やはり呼び上げですね。呼出しの一番の見せ場です。これから取り組む
力士には、声で力をつけて、また会場を盛り上げることができる、そんな 呼び上げを心掛けています」と答えた。 僥倖をハシビロコウは待っている 岸井ふさゑ
百周年記念行事 この日、奏名(ふしょう)役を幸司と利樹之丞が務めた 「呼出しの歴史」
呼出しは、奈良・平安時代のころには存在していたと言われている。
記紀神話の力比べから、技芸による年占儀式へ、そして宮中行事「相撲節
会」にあるともされる。とすると千三百年の歴史を持つことになる。 「奈良から平安時代にかけての相撲節会の役職であった「奏名(ふしょう)」
は、相撲人の名を呼んでいたようで、それが呼出しのはじまりとも言われて いますね」と、利樹之丞さんが教えてくれた。 「百周年場所において奏名」=相撲人の名を読み上げる、現在の呼出し役。
この日は幸司と利樹之丞が務めた。
相撲長(すまいのおさ)=相撲節会で相撲人を世話する役割。
この日は童相撲の子供たちを先導しました。富士夫と啓輔が務めました。 両の手ですくいきれない恩がある 蒼井 環
「さらに利樹之丞さん」
「江戸のころは、取り組みを裁く行司に対して呼び上げを行う「前行司」
という職がありました。ほかにも、四股名を呼び上げる人を、「ふれ」、 「名乗り上げ」とする記述があり、それが呼出しだった と言われています。江戸は寛政(1789~1801)年間に作られた番付には、
呼出しの名前が載っています。それから載ったり載らなかったりで、昭和
24年に呼出しの太郎さんが、理事長に提言して10年ほど記載されてい
ました。そして平成6(1994)年からは、番付表への記載が復活。 今も昔も同じでしょうが、自分の名前が番付に載っているのは励みになり
ます」。 憧れとためらい二つとも絵馬に 靍田寿子
「勧 進 大 相 撲 繁 栄 之 図」
土俵の上ではまさに取り組みの真っ最中。行事や審判員、呼出の姿もあり、
土俵の下には、東西それぞれに力士が控えている.
「勧進相撲 行司と呼出」
因みに江戸相撲独特の縦番付が発行されたのは、寛永前の宝暦時代(1751
~1764年)。この頃からは、今につながる江戸相撲の制度や組織が整いは じめた。また、錦絵にも描かれている勧進大相撲ですが、「行司」はもち ろん「呼出し」の姿も見ることができます。幕末のころの錦絵には、裁着 袴(たっつけはかま)姿で描かれていて、今の装束とほぼ変わりません。 時の熟成だ苦言も干し柿も 三好光明
「呼出しの三大仕事」
呼出し邦夫 十両呼び出し。高砂部屋所属。伸びのあるその声はオペラ歌手のようと評され 「邦オペラ」の愛称を持つ。 ① 「聞き比べが楽しい呼び上げ」
呼出しといえば、イメージするのが呼び上げです。
土俵上で白扇を広げて、次の取り組みの四股名を呼び上げる。
奇数日は東方から、偶数日は西方の力士から呼び上げる。
序の口から幕内までは、四股名は一度だけ呼び上げる「一声」で十両最後の
取り組みや三役以上の場合は、二回呼び上げる「二声」で、節回しや声の強 弱などは、それぞれのスタイルで。 今ここで大きな声を出さないと 津田照子
土俵は場所が始まる6日前から3日間の時間をかけて作られています。 土俵は機械などは一切使用されず、人の手によって作られており、まず 6.7mの正方形の中に高さ60cmになるように土を盛っていきます。 その上で小タコ、大タコ、タタキといった道具を使って人の手で土を固め ていきます。土が固まったら、ロープを使って直径4.55mの円を作成し、 俵を埋める穴を掘っていきます。そして掘った穴に俵を埋め、最後に水を 撒きコテを使って土俵をならしていきます。 ビール瓶も土俵作りに重要な役割を担っている。 ② 「すべて手仕事、職人技の土俵築」
「土俵築」とは、土俵作りのこと。本場所や巡業の土俵から相撲部屋の稽古
土俵まで、土俵づくりは、呼出しの重要な役割。ちなみに国技館での土俵築 は、場所前3日間をかけて呼出し全員で行う。 まずは土台を残して20㎝ほど削り、新たな土を入れて打ち返す。
「タコ」という道具で押して土を固め、「タタキ」と呼ばれる道具で表面を
水平に。また俵を土俵に埋め込む作業では、その俵作りに欠かせないのが、 ビール瓶でビールの大瓶を使って、きれいに形を整えて、土俵に埋め込んで いく。仕上げまで、なんとすべて手仕事なのだ。 すばらしい取り組みは、呼出しが手掛ける土俵があってこそ。土俵の土は、 埼玉で採れる「荒木田」だ。 引っ張ってくれた両手の温かさ 石塚芳華
江戸時代の触れ太鼓の様子。「江戸両国回向院大相撲之図・太鼓」
③ 「相撲情緒を演出する太鼓」
相撲情緒に欠かせない櫓太鼓の音。これも呼出しの仕事である。
場所前日に叩かれる「寄せ太鼓」に始まり、場所中は櫓の上で毎日朝8時
すぎから「一番太鼓」を、弓取り式が終わると同時に「跳ね太鼓」を叩く。 跳ね太鼓は、「来場の感謝と明日の来場への願いを込めている」
(千秋楽や一日限りの巡業では叩かない)
また場所前日は、人々に相撲が始まることを知らせて回る「触れ太鼓」は
呼出しが数名一組となり、相撲部屋や贔屓筋を回る。
太鼓を叩き、初日の顔触れ(取り組み)を呼出しならではの節回しで披露
する。国技館での場所開催時には、両国駅周辺の店はもちろん、日本橋の 老舗などでも、触れ太鼓チームに出くわすことも多々あるはずだ。 冬ぐもり蜜柑甘い日酸っぱい日 小川佳恵
「呼出しは縁の下の力持ち」
呼び出しは、取組前に「◯◯〜」と力士を独特な節回しで呼び上げるだけで
なく、懸賞金がかかっている取組で、企業名が入った「懸賞旗」を持って、
土俵を回り、行司に懸賞金を受け渡す役目も担っている。 また毎日の取組の合間に土俵の掃除や整備、塩の用意、土俵のメンテナンス
を行う。取組前に力士にタオル・汗拭き用の紙や布を渡すのも呼出しの仕事。 十両以上の土俵にて、制限時間いっぱいになった際に、水桶の横に座ってい
る呼出しが力士へ差し出す。 力士はタオルで体を拭いた後、綺麗に畳み呼出しに返すのが力士の礼儀です。
よく動く眼球が壁に掛けてある 宮井元伸 呼び出しの階級は、9つに分かれており、基本的には、勤続年数に基づく 年功序列の仕組みです。見習い期間を含めると、呼出しとしてのキャリア は約3年間の養成期間から始まります。その後、経験を積みながら各階級 へと昇格していきますが、その昇格には特定の条件が定められています。 「階級と給与」 呼出にも行司や力士と同様に階級(序ノ口~最高位の立呼出まで)があり、
経験年数や実力によって役割の重要度が変わります。
その給与は、「基本給」と「手当」の2つから成り立っています。
基本給は階級によって決まりますが、手当は個人の能力や勤務態度に応じ て変動。階級が上がるにつれて、基本給だけでなく手当の額も増えていく。 このように、呼び出しは、土俵上の進行を支える重要な役割を担っており、
階級が上がるにつれて任される業務や責任も増し、それに伴い給料も上が
っていきます。 海老が二匹のった隣りの素うどん 通利一遍
階級 本棒(月給) 手当(月)
三役呼出し以上 360,000~400,000円未満
幕内呼出し 200,000~360,000円未満
十枚目呼出し 100,000~200,000円未満
幕下呼出し 42,000~100,000円未満
三段目呼出し 29,000~70,000円未満
序二段呼出し 20,000~29,000円未満
序の口呼出し以下 14,000~20,000円未満
立呼出しになると、年収1,300万〜1,500万円に達するとされる。
また諸手当本場所ごとの手当や装束の補助、旅費などが別途支給されます。
青が青でありますように百年後 高橋レナ 入念の仕切らち(埒)なや負相撲 瓢亭
谷風梶之助 VS 小野川喜三郎 行司・木村庄之輔
行司が「かまえてッ」と何度言えども腰を下ろさない力士がいる。 駆け引きだろうが、見ている側がイライラさせられる。
大相撲ー行司の仕事
式 守 伊 之 助 相撲の行司には、立行司(木村庄之助・式守伊之助)を筆頭に三役格、
幕内格、十両格、幕下格三段目格、序二段格、序ノ口格という八つの 格(階級)があり、昇進するにつれて裁く取組の番付や収入も変わる。
最高位の立行司は、上記の2名で、軍配の房の色や装束、履物(草履
や短刀の有無)なども階級によって異なります。 秋場所や霧の中なる幟数 山田土偶
裃の正装で土俵にあがる行司。足や身体に目をやる行司は大変なのだ。 呼び出しのあと土俵に、行司・東力士・西力士が揃い、仕切りに入ると,
「見おうてッ」と、行司が最初に発声する。立ち合いの動作に入る時は、 土俵に両手を下ろせという意味で「手を下ろしてッ」両力士の呼吸が合
わないと「まだまだッ」。制限時間がくると、「時間です」と告げた後、 「待ったなしッ」とかける。行司が軍配を正面に向けると、「はっきよ
いっ」と「残ったッ」で対戦がはじまる。 これは「発気揚々」から来ているという。
「残ったッ 残ったッ」は「相手はまだ土俵内に止まっている」と教え
ているのである。長い相撲になると、土俵下の時計係審判委員が、行司 に「水入り」の合図を送る。 ポプラ葉の柄相撲からして弱い奴
歴史上最も長い水入り角力・(二子岳(左)-三重ノ海戦)
昭和49年秋場所11日目、10分を超える死闘の末、11年ぶりの引き分け
となった。
それを受け、行司は勝負を中断させる。力士は土俵下でまわしを締めな
おしたりして、小休止。再び土俵に上がると中断前と同じ形に組む。 これも行司の仕事で、止めた時の形を寸分違わず覚えておき、再現する。
そして、審判委員と力士に異論がないかを確認した後「いいか、いいか」 と、掛け声を発する。「いい」となれば、行司は両力士のまわしを同時 にパンッと叩く。勝負再開となる。 勝角力風情なるかな乱れ髪 暁台
行司泣かせの一番
現実には、咄嗟には判断しにくい勝負や、どちらが先に落ちたか分から
ない勝負も多い。ビデオ判定で勝っていたと思う力士の足が出ていたり もする。 さらに相撲には『死に体』という判定が難しい体勢がある。
「死に体」について、相撲大辞典には次のように書かれている。
【体の重心を失ったり復元力がなくなって、逆転は不可能である」又は、
「それ以上相撲は取れない」と判断される体勢に陥ったときをいう。
(つまり、体が後方へ三百六十度傾き、爪先が上を向いてしまったよう
な状態)】 『生き体』がまた行司泣かせである。例えば、うっちゃりの技などで同
体で土俵を割った場合など。それでも行司は咄嗟の判断で軍配を上げな
ければならない。
一波乱相撲秋場所上位陣 良一
勝負審判の配置図
行司の判定が、おかしいと疑念があったとき土俵下の勝負審判委員から
「もの言い」がつく。審判委員は土俵に上がり、「ただ今の勝負」につ
いて協議を行う。ビデオ再生の映像も参考にして「軍配通り」「行司差
し違え」または両者同体とみて「取り直し」が決まる。 このとき、行司は協議に参加できるが、最終判定は審判委員の権限で。
審判委員がつけた最終判定に。行司も力士も一切、口ははさめない。
「差し違え」は「行司黒星」とも呼ばれ、行司にとっては屈辱である。
立行司が腰に短刀を差しているのは、差し違えたら腹を切るの覚悟を
意味している。実際には腹は切らないが、直ちに理事長に進退を伺う。 短刀は立行司しか持たないが、それだけ重い責任を背負っているのだ。
鳥渡る角力巡業待つ浦を 杉本 寛
呼出をする行司
「こんなこともしている行司の仕事」
① 十両や幕内の土俵入りの際、その番付の最下位から上位までを
淀みなく呼び上げ、出身地や所属部屋を紹介アナウンスする。
(テレビでは午後3時半頃に幕内力士が順に土俵に上がっていくと
ころやアナウンスする行司の声を聴くことができます)
ではどこに放送席があるのか?土俵下升席最前列にモニターと放送
機器があり、そこでアナウンスをしている。
② 「ただ今の決まり手は寄り切り…」など、取組の決まり手や、
勝負結果の記録 そしてその決まり手と勝負結果を記録する。
③ 「明日の対戦力士の名を相撲字で筆で書いた半紙(顔触れ) を行司は、土俵中央に立ち「憚りながら明日の取組をご披露つか
まつります」と口上を述べる。
④ この「顔触れ」や「毎場所の番付、を書く仕事。これは独特
の、「相撲字」という書体で書かなければならない。相撲字は字
に隙間を作らず、白いところをできるだけなくした書体で書く。
これは隙間がないほど客が入るようにという縁起が込められている。
(行司は入門と同時に、相撲字をみっちりと練習させられる)
⑤ 行司や床山は、相撲部屋に所属している。地方巡業へ出る際には
親方と一緒に一足早く巡業先へ向かい、旅館や交通の手配をおこなう。
⑥ 土俵祭りの祭主、本場所の安全を祈願し、神事を執り行う。
校庭の土俵均され秋の雲 康子
こんな水を差す一番もあった。よくみてもらいたい。
水入り前と水入り後で足の位置の違いがあった。
「行司の給料」
相撲の行司の給料は、階級(番付)によって決まります。
序ノ口格で月1.5万円〜2万円程度から始まり、最高位の立行司で
は、月40〜50万円、年収1千3百万〜1千五百万円に達すると
言われています。
下位の行司は、本給に加えて手当が支給され、高位になるほど本給
の割合が増え、地位に応じた月給が保証されますが、最高位以外は
力士に比べると待遇は低い傾向にあります
「階級別の給与目安(月額)」
序ノ口格 1万5千円~2万円未満
序二段格 2万円~2万9千円未満
三段目格 2万9千円~4万2千円未満
幕下格 4万2千円~10万円未満
十両格 10万円~20万円未満(家庭を持つ行司は月約20万円)
幕内格 20万円~36万円未満
三役格: 36万円~40万円未満
立行司 40万円~50万円未満(年収換算で1300万~1500万円)
うす闇き角力太鼓や角田川 一茶
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