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川柳的逍遥 人の世の一家言
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造花にも生まれ故郷があるポエム  前中知栄






    青楼仁和嘉 女芸者部・大万度


吉原の女芸者による俄(にわか)狂言を題材にしたもの。大首絵で画壇に雄飛
する直前の作品で蔦重御用の彫師・摺師の腕の冴えを見ることができる。




寛政5 (1793)年から6年の作。全12枚からなるこのシリーズは、歌麿の色
彩感覚と構図感覚の非凡さを示して余すところがない。
 子の刻から亥の刻までの十二時に、吉原の女たちの生態を描きわけるこの作
品ではひとり立ち、あるいは二人から三人までの遊女をすべて全身像で描き、
その十二枚のことごとくが、、それぞれ細心の注意をもって構図される。
野卑な色彩は意識的に排除されており、ほとんど「様式美」と名づけてもよい
ような女たちの美しさを作り上げている。





積分をして5を足すとキミの頬  井上一筒




十二枚、まったく間然するところのないこのシリーズは、もともと特別の注文
によって作られたもの、とする説が生まれるほどに、最高の彫刻技術が駆使さ
れた作品である。歌麿がかくも完璧な吉原の日常を描くことができたのは…、
蔦重のおそらくは推薦で狂歌仲間「吉原連」に名を連ねたことが大きかったに
違いない。
この作品のあと歌麿は、蔦重とは距離を置き、若狭屋、岩戸屋、近江屋、村田
屋、松村屋、鶴屋など、多くの版元から錦絵を出すようになった。
もちろん蔦重には、歌麿が離れてしまうのは、手痛かったはずである。




ふり仰ぐ胸に悲の字を縫いつけて  太田のりこ 




蔦谷重三郎ー歌麿・「青楼十二時」





子の刻
遊女の十二時は子の刻からはじまります。上級の遊女はおそらく床着に着替え
ているところか。お付きの女性は打ち掛けを畳んでいる。吉原の街の営業終了。
これを「引け」と呼びました。





丑の刻
夜中の午前2時頃、目が覚めてお手洗いに行くのでしょうか。電灯のない時代
なので、遊女は手元に小さな火を灯しています。睡魔と戦いつつ、暗闇の中、
足先で草履を探しているような細かい仕草の描写は歌麿ならではの技。





寅の刻
03:00〜05:00、まだ辺りは暗い時間帯です。姉さん風の遊女は、長い花魁煙管
で朝の一服。火鉢の前のお付きの女性は、お客に何か温かい茶でも出そうと準
備をしている。二人遊女は、客の話をするような、おしゃべりがはずむ。




しばらくは余談が続く峠道  中野六助





卯の刻
05:00〜07:00、夜が明け、泊まりの客を送り出す遊女。客に着せようとしている
羽織の裏には、達磨の絵が描かれている。達磨は指をくわえてちょっと物足りな
さ気。はたしてこの達磨は、遊女と客とどちらの心境を表しているのだろうか。





辰の刻
07:00〜09:00
客がひと通り帰って、ようやく体を休める遊女たち。どこかほっとした表情です。
とは言え、また昼の営業が始まるので、ここでは仮眠がせいぜい。





巳の刻 
09:00〜11:00、吉原遊廓は昼の営業(昼見世)もあるため、この時間になると、
遊女たちは髪結いに髪を結ってもらい、入浴をして食事をし、身支度をします。
描かれているのは湯上りの遊女。お茶を差し出しているのは、見習い遊女(新
造)でしょう。




古時計メトロノームにして眠る  井上恵津子





午の刻
11:00〜13:00、吉原の昼見世は、夜に比べれば客足も少なく、比較的のんびり
したものだったようです。中央の煙管を持った遊女はおそらく花魁、襷掛けの
遊女は新造か、誰からか届いた手紙をみせています。それを見て花魁が何か話
しかえています。そんな二人にはお構いなしで、嬉しそうに鏡を眺めるのは禿。
新造が櫛を手にしているので、禿の髪を結ってやったのでしょう。





未の刻
13:00〜15:00、この刻限に描かれた遊女たちは、だいぶリラックスモード。
画面左端の冊子の上に見えているのは筮竹で、遊女の向かいには易者(占い師)
が座っているのでしょう。隣の新造が禿の手相を見て占いごっこに興じている。
やや前のめり気味で占い結果を聞いている遊女の姿がなんとも微笑ましい。





申の刻
15:00〜17:00、昼見世が終わると、いよいよ夜の営業(夜見世)の準備です。
「申の刻」では、遊女たち(赤い着物の遊女の後ろに、びらびらかんざしを挿
した禿の頭が見える)が、揃って出かける模様。引手茶屋で待っている花魁の
お客を迎えに行くのでしょう。花魁がお客を出迎えに行く往復路が、いわゆる
「花魁道中」です。華やかな遊女たちがしゃなりしゃなりと遊郭の通りを練り
歩く様は、見物の人々の目を釘付けにしました。




裏も表も舌の根までも見せている  大場美千代





酉の刻
17:00〜19:00、午後6時頃を「暮れ六ツ」と呼び、吉原の夜見世が始まる時刻
です。「暮れ六ツ」には、各妓楼で三味線が鳴らされ、提灯に火が灯されます。
歌麿も、立派な箱提灯の準備をしている様子を描いています。ちなみに、頭の
上に蝶々が羽を広げたような遊女の髪型は、兵庫髷の一種。日本髪は時代を通
じて非常に多くの種類が存在しますが、吉原の遊女たちはさまざまなアレンジ
を加え、そのバリエーションをさらに広げていきました。





戌の刻
19:00〜21:00、遊女が長い巻紙に手紙を書いています。今晩はお客がつかなか
ったのでしょうか。遊女たちは、吉原の外に出ることを許されず、お客を待つ
ほかありません。そのため、手紙はお客の心を繋ぎ止める重要な営業ツールで
した。白々しい愛の言葉を書き連ねても、苦境を露骨に訴えても、相手に引か
れてしまいます。とても難しいですね。遊女が、禿の耳元に何やら次の作戦を
伝えています。





亥の刻
21:00〜23:00、夜も更け、禿が遊女の隣でうつらうつらと舟を漕いでいます。
吉原では、客が遊女と二人きりになるまでに、なるべくお金を落とさせる仕組
みになっていました。遊女や妓楼のランクによって、遊び方のシステムや予算
は異なりましたが、相手が最高位の花魁となると、相応の手順と費用を要しま
した。宴席を開いて羽振り良く振る舞い、詩歌や音曲、書画などの教養を披露
し、一夜限りの殿様気分を味わうのです。客が殿様なら、花魁はお姫様です。
煙管片手に盃を差し出す花魁の姿は堂々としたものです。




プレゼンの途中に挟む自慢談  日下部敦世





東扇・中村仲蔵  勝川春章




「勝川春章と春好」




勝川春章一筆斎文調とともに役者似顔絵の新機軸を出し、鳥井派風の画一的
表現に慣れていた当代人の耳目をひいた。『浮世絵類考』では、春章のことを
「明和の此歌舞伎役者似顔名人」に簡潔に記している。
役者を似顔で描くということは、役者という存在をリアルに捉えることを意味
するから、春章はこれを推し進めて、舞台以外の役者の日常を似顔で描いた
『絵本役者夏の富士』なども刊行した。
そうこうした彼の作画活動のなかで『東扇』シリーズは、すべて扇の形の中に
役者の似顔による半身像を描いたもので、いわば歌麿の美人大首絵や写楽の大
首絵の先蹤的作品といえるものである。




土足で入る他人の夢の中  蟹口和枝





     市川高麗蔵の伊豆の次郎  勝川春好




春好春草の高弟。彼は役者絵では師の似顔絵を、さらに発展させたことで重
要な位置にある。「市川高麗蔵の伊豆の次郎」は、まさしく写楽の大首絵の源
泉となったもので、半身像をさらに顔面のクローズアップへと進めた。
ただし、衣紋線までもが異様に大きくなり過ぎたきらいがある。




プロテインが育てた蛙の太もも  通利一遍

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人生リセット素顔を光らせる   野邉富優葉





          「浴 恩 園  千秋館」 国立国会図書館所蔵


「浴恩園 千秋館」は、江戸時代後期に「寛政の改革」を主導した松平定信
が、隠居後に築いた庭園「浴恩園」の中に建てた館です。
庭園は「天下の名園」と称され、定信は隠居後「楽翁」と号してこの千秋館
に住みながら、庭園の作庭に没頭しました



「文化人・松平定信」
松平定信は、万葉調の歌人としてして知られた父・田安宗武の感化を受け、
若いころから芸術文化に慣れ親しんだ。側近の水野為長からは和歌、木挽
町狩野家第六代目の狩野栄川院からは絵画を学ぶなど、文化の素養は豊か
だった。
その定信が三十歳で老中首座に抜擢されて幕政のトップに立つと、社会の
模範となるべき武士の「綱紀粛正」を図って、質素倹約や学問武芸を奨励
する。そのため、武士が小説を執筆したり、狂歌を詠むなどの文化活動に
走ることに嫌悪感を隠そうとしなかった。文化活動への厳しいスタンスは
町人についても同様だった。
風俗取締りを名目に、遊郭を舞台にした洒落本の著者・山東京伝、その出
版の仕掛け人だった版元・蔦屋重三郎をも処罰した。
このように文化を敵視したイメージが強い定信だが、老中退任後の三十年
余にわたる一連の文化活動についてはほとんど知られていない。
実のところは、文化に大変理解のある人物でもあった。




羊だって活断層を秘めている  森井克子





             「千 秋 館」





蔦谷重三郎幕政を退いた後の定信




定信は、36歳で老中を退任して、政治の第一線から退くと、豹変する。
絵師や学者、作家といった文化人を動員し、多彩な文化事業を展開し始めた。
定信による文化事業の象徴と言えば、全国規模での「文化財調査図録」である
『集古十種』の編纂である。その命を受けた白川藩お抱えの絵師たちは、全国
各地を回り、古書画や古器物の模写に励んだ。
生来、好古趣味が濃厚な定信は、文化財の保護にたいへん熱心だったが、実は
「模写」の重要性を痛感する出来事が老中在職中にあった。
老中首座就任から約半年後にあたる天明8 (1788) 年正月晦日に、京都御所が
焼失した。幕府は、偽書の再建に取り掛かることになり、定信はその造営総督
に任命されたが、ここで苦難が生じる。




ポケットの中にポケットもうひとつ  津田照子




朝廷の要望を踏まえ、御所の建物のうち紫宸殿と清涼殿は、平安時代の様式に
戻すことになった。ところが、平安時代の御所の様子を伝える絵画資料に不足
したため、その再建にたいへん苦労する。
絵画資料は、既に焼失あるいは散逸していたのだろうが、模写だけでもあれば
と思わずにはいられなかったことだろう。
定信は、そうした苦い経験を踏まえ、絵師を総動員して、古物の模写に取り組
むことを決意していた。もともと古物への関心は高かったが、寛政5 (1793) 
年7月に退任すると、白川藩の文化事業として模写の作業に本格的に着手する。
その事業の役を任されたのが、田安家家臣の家に生まれ、寛政4年に定信の近
習に抜擢されていた定信の5歳年下の谷文晁である。
文晁は、仙台・松島・平泉で什物を調査し、西へは京都・大阪から高野山・熊
野奈良などを廻り、そして中国や四国地方に足を延ばし資料を集めた。




百年生きたら私をみてほしい  市井美春





                                           『石 山 寺 縁 起 絵 巻』




巻6,7巻は、詞書は飛鳥井雅章。絵は、谷文晁が二年がかりで完成させた。
定信は文晁に、「一草一木たりとも文晁が私意を禁ぜられ」たといい、新図は
定信自ら指導し、図様に関しては、古い絵巻などから抜き出して使用している。
定信は、『集古十種』の編纂と並行し、絵巻や古画の模写集である『古画類集』
の編纂に着手した。『源頼朝像』などの古画、そして『伴大納言絵詞』などの
部分図が収録された『古画類集』でも、その模写にあたったのは文晁たち白河
藩お抱えの絵師たちだった。
定信は、絵巻自体の模写にもたいへん熱心であった。
『北野天神縁起絵巻』『春日権現験記絵』などを模写させたが『石山寺縁起
絵巻に至っては、欠損していた巻を補作までしている。残された詞書から絵を
推定して復元したが、その作業を任せられたのが文晁だった。
文晁は『春日権現験記絵』などを参考に文化元 (1804) に年から二年にかけて
補作を完成させる。彼らは、絵師に代表される文化人たちの能力を活かすこと
で貴重な文化財の数々を模写といいう形で後世に遺したのである。




世の中は何でだろうのネタだらけ  北出北朗






                                    『江 戸 一 目 図 屏 風』

「江戸一目図屏風」は江戸時代初期の江戸の市街地や近郊の様子を描いている。
下の図はセンター部分を拡大したもの。




「危険視していた戯作者を起用する」
定信は文化財保護に力をいれる一方、新たな作品を世に出すことにも熱心であ
り、他藩お抱えの絵師にも発注して画才を発揮させた。
江戸を鳥瞰して描いた屏風絵として知られる『江戸一目図屏風』の作者・鍬形
蕙斎(くわがたけいさい=北尾政美)は、その一人だが、老中在職時に因縁の
あった意外な作家たちも製作陣に加わっていた。
文化3 (1806) 定信の依頼を受けた蕙斎は『近世職人尽絵絵詞』を制作。
大工、屋根葺職人、畳職など数十種に及ぶ職人の風俗のほか、庶民生活の様子
も描いた作品である。
上中下の三巻から構成される『近世職人尽絵絵詞』の絵を担当したのは蕙斎だ
『詞』の担当は別の人物だった




胃袋をつかむ「サシスセソ」の塩加減  靍田寿子






             仏 を 彫 る 職 人
            カマボコ屋・豆腐屋
 
文化3年、定信は『近世職人尽絵詞』を製作。大工、屋根葺職人、畳職人など、
職人の風俗のほか、庶民の生活が描かれていて、「江戸の職人」の実像を知る
貴重な資料となっている。上中下の三巻で構成され、文章はそれぞれ四方赤良
(大田南畝)朋誠堂喜三二、山東京伝が担当した




四方赤良は、寛政改革に一環として言論弾圧が強まるなか、身の危機を感じて
狂歌を詠むことを止めた。
朋誠堂喜三二こと秋田藩江戸留守居役の平沢常富は、改革政治を風刺した黄表
紙を執筆したことが幕府の忌諱に触れるとして、藩から執筆活動を止められた。
山東京伝は、寛政改革の一環として発令された出版取締令違反の廉で手鎖50
日の処分、出版した洒落本は絶版となった。
以後、京伝は幕府の目を恐れて勧善懲悪を説く作品を書くようになった。




意地という文字がこの頃出てこない  船木しげ子




定信が進めた言論弾圧の方針を受けて、文芸活動の修正・断念を余儀なくされ
た3人だが、この頃、定信は無役の大名だった。
幕政トップの立場からすると、3人の執筆活動は危険視せざるを得ないが、幕
政に関与していない無役の身としては別に要注意人物ではない。
むしろ、彼らの文才を自分の文化事業に活用したいと考え『近世職人尽絵図』
の詞書を担当させた。それだけ定信は3人の才能を評価していた。
吉原の遊女の1日を、12の時に分けて描いた『吉原十二時絵詞』は、蕙斎だが
「詞」山東京伝の担当であった。
吉原をテーマとした本であることから、吉原に詳しい京伝に白羽の矢を立てたの
だ。華やかな吉原の世界が絵と詞で、またひとつ後世に伝えられることになる。




湯戻しをして柔らかくする昨日  平井美智子
 




    
           『 花 月 草 紙 』
『花月草紙』は、松平定信による江戸時代後期の随筆集。




「定信の文化サロン」
文化9 (1812) 55歳になった定信は、藩主の座を嫡男・定永に譲り、築地の白
川藩下屋敷で隠居生活に入った。
隠居したその日から日記を書き始めるいっぽうで『花月草紙』に代表される随筆
も執筆した。『花月草紙』は、格調高い文体である上に、識見の高さと教養の深
さ滲み出ている作品であり、江戸時代の代表的な随筆と評価される。
築地下屋敷には、浴恩園と名付けられた庭園が設けられたが、定信が隠居生活を
送ったのは園内に立つ建坪二百坪ほどの「千秋館」である。
千秋館で執筆活動に勤しむかたわら、園内を歩いて景観を眺めるのが、何よりの
楽しみだった。




余生には無用な過去を破り捨て  松浦英夫





「大 名 か たぎ」
定信は、部屋住み時代(17歳の頃)にハマった江戸の戯作「金々先生栄華夢」
が刊行された安永4年黄表紙風の『大名かたぎ』を執筆している。




浴恩園で余生を過ごす定信のもとには、同じく教養豊かな大名が頻繁に訪れた。
大名だけでなく、大学頭の林述斎、儒学者の成島司直、国学者の屋代弘賢、歌人
北村季文なども常連だった。文晁たち絵師も同様である。
浴恩園は定信主宰の文化サロンとして、身分の差を超えて文化人が集う場となっ
ていた。浴恩園に集まったメンバーを中心に、詩歌会も催された。
「詠源氏物語和歌」というタイトルの歌集は文化11 (1815) 年歌会で詠まれた
歌を集めたものだが、この歌会には定信はもちろん、好学の大名だった近江堅田
藩主の堀田正敦、備前平戸藩主の松浦静山に加え、国学者の塙保己一たち56名
が参加した。




意地と意地化学反応して消える  竹内いそこ





        定信はミュージシャンー心の草紙





翌12年には、浴恩園の51箇所の景勝を詠んだ「浴恩園和歌」が編まれた。
各名勝ごとに儒学者の頼春水(頼山陽の父)や狂歌師の四方赤良こと太田南畝
ちの詩を添え、正敦が跋文を担当した。南畝も浴恩園に集まったメンバーだった
ことがわかる。定信は浴恩園を拠点として、江戸の文化を満喫しながら余生を送
った。寛政改革後の定信は、一連の文化事業を通して、絵師や作家にその能力を
発揮させた。文化人たちのパトロンのような役回りを演じていたのである。
その後半生に焦点をあてることで、江戸の文化を愛した知られざる素顔が浮かび
上がってくる。定信はこの12年に72歳で死去する。




百年をお眠りなさいサボテンの強さかな  井上恵津子

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戦場で人間ポンプ微笑せよ  まつりべさん






            『花菖蒲文禄曽我』




「江戸のニュース」 寛政六年五月
浮世絵師の東洲斎写楽が役者の大首絵を出版。


人気役者の大首絵の浮世絵多数を一気に発表し、たちまち姿を消した浮世絵
師の東洲斎写楽は、長らく謎の存在だったが、現在では阿波徳島藩のお抱え
能役者の斎藤十郎兵衛説が有力である。
大首絵とは、画面一杯に顔を中心に描いた絵を指す。この手法は喜多川歌麿
によって美人顔のクローズアップとして創作されていたが、東洲斎写楽は歌
舞伎役者をモデルにしたことで注目された。要するに役者の似顔絵であるか
ら現代風に言えばプロマイドである。写楽は江戸三座の時代狂言を取材して
描いたが、中でも都座興行の狂言『花菖蒲文禄曽我』など二十八枚が知られ
ている。本作でデビューした写楽は、大首絵の浮世絵百四十四点を遺して、
十か月後に忽然と消えた。



(不思議なことに、発表当時には写楽、の大首絵はそれほど人気はなかった。
評判になるのは、90年後、それも海外の識者が写楽を評価したことによる。
こうした現象は珍しいことではないが、写楽は無念のまま文政3 (1820) に
没したといわれている。享年58歳)




提灯を張り替えてから登る月  森 茂俊





         三代目沢村宗十郎の大岸蔵人





蔦谷重三郎ー東洲斎写楽




東洲斎写楽歌麿と同様、蔦重に見出されて一世を風靡した絵師である。
活動期間は、寛政6年 (1794) 5月から翌年1月までのわずか10カ月。
「江戸ニュース」が伝えるように、突如、浮世絵界に現われ、忽然と姿を消し
たことから「謎の絵師」ともいわれるが、近年は徳島藩お抱えの能役者である
斎藤十郎兵衛とする説が有力視されている。
写楽がデビューした当時、美人画は幕府の出版統制令の対象となりつつあった。
経営難を乗り切るため、蔦重が期待をかけたのが写楽の役者絵だった。
同6年5月~6月、写楽は蔦屋から、一気に28枚もの役者絵を出版し、役者
絵市場を席捲する。




山門の仁王真っ赤な仁王立ち  中川喜代子






市川富右衛門の蟹坂藤太・佐野川市松の祇園白人おなよ





「写楽の最大の特徴は、役者の表情の豊かさにある」
当時の役者絵は、役者を美化して描くのが定番であった。
しかし写楽が描く役者は、吊り上がった眉、見開いた眼、歪んだ口など、顔の
細部が極端に誇張された。それが、手指の動きと相まって、役者の一瞬の所作
を封じ込めた緊迫感を醸し出すのである。加えて写楽は、役者の実年齢に合わ
せて、顔の皺や弛みもリアルに描き、容貌の衰えまで容赦なく浮き彫りにした。
 絵の背景に、雲母(うんも)の粉を散らして光沢を出す雲母摺(きらずり)
の技法を用いたのも特徴だった。
新人絵師の装飾としては、異例の贅沢さで、写楽に対する期待の大きさが表れ
ている。その後も写楽と蔦重は、月々の歌舞伎の興行に合わせて、役者の大首
絵や全身像の浮世絵を次々と出版したが、次第に作品から精彩さが薄れていく。
写楽の人気は急速に衰え、寛政7年1月の作品を最後に姿を消すのである。




ご破算にしようと透明になった  柴田桂子






  四世松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛





大田南畝は、「浮世絵類考」で写楽の人気が続かなかった理由を「余に真実ら
しく描こうとして、かえって真実でないように描いたため」としている。
役者をありのままに描きすぎたことが、歌舞伎ファンの反発を招いたというこ
となのだろう。
ともかく、写楽の後半期が余りにも力弱くなるのは、写楽のせいでもあるが、
蔦重の気力の衰退と無縁ではあるまい。清長に対して歌麿、豊国に対して写楽
を意識的に売り出すことで、結果的に浮世絵界を活性化させた蔦重も、その晩
年は寂しいものになった。
真相は不明だが、写楽の引退により、役者絵で出版業の不振を挽回しようとし
た蔦重の目論見が外れたことだけは確かであった。





    谷村虎蔵の鷲塚八平次




言い訳が写楽の目玉なら許す  石橋芳山




万全の準備のもとにスターを作り出す営業方針を持っていた蔦重が、では何故、
浮世絵とは無縁の写楽で役者絵界に打って出たのか、謎とすべきだが、或いは
俗文壇の大御所的存在の蜀山人あたりの入れ知恵ということも考えられる。
蜀山・蔦重の共同作業がなされたのではあるまいか。
写楽の後半期があまりにも力弱くなるのは、写楽のせいでもあるが、蔦重の気
力の衰退と無縁ではあるまい。
清長に対して歌麿、豊国に対しては写楽を、意識的に売り出すことで、結果的
に浮世絵界を活性化させた蔦重も、その晩年は、やや寂しいものになった。
注目すべきは、蔦重の浮世絵は、その最期にいたるまで幕末期のそれのような
大衆の趣味に迎合した下品さがまったく感じられないということである。






 二世小佐川常世の竹村定之進妻桜木




                     
茹で上がる刹那の蛸の溜め息  酒井かがり




「写楽別人説」






     三世大谷鬼次の奴江戸兵衛





「写楽は誰か」という謎ほど、浮世絵に関心を持つ人びとを興奮させるものは
ないだろう。(だが一般的な興味とは別に実は、写楽が誰であるかということは
ほぼ明らかになりつつあるのだ)現存するおよそ140点の写楽画と称する作品は、
描かれた演目から、寛政6 (1794) 年5月から、あくる正月までの十ヶ月間の
作画期間をもつ、というよりわずか十ヶ月しか「写楽」は存在しなかった。
そして、これらすべてが蔦谷重三郎といおうたった一軒の店から売り出された。
この二つのことを疑う人はいない。
いわゆる写楽別人説は、江戸の考証家・斎藤月岑(げっしん)が『浮世絵類考』
に補訂した『増補浮世絵類考』の写楽の項に
「俗称斎藤十郎兵衛。居八丁堀に住す。阿波候の能役者也」
と加えた記事を疑うところから発した。




深い意味ないがと謎を掛けてくる  三好聖水




意外に思うやもしれないが、別人説が発表され始めたのはかなり遅く、昭和も
30年代に入ってからのことである。
丸山応挙・谷文晁・葛飾北斎・山東京伝・歌川豊国など、ここに枚挙するいとま
がないほどの人物が当てはめられた。こうした写楽別人説が唱えられるたびに、
新聞やテレビが取り上げ、写楽人気、写楽人気・浮世絵人気がいやましに高まっ
たのも事実である。
昭和51年、中野三敏氏により、役者の三世瀬川富三郎が編んだ人名録『諸家人
名方角分』という写本の記事により「写楽本」という名の浮世絵師が「八丁堀・
地蔵橋」に住んでいたが、すでに故人であること、が明らかにされた。
そしてさらなる調査ののち、八丁堀地蔵の国学者・村田春海の燐家に、阿波候の
能楽師の斎藤与右ヱ門なる人物が住んでいることが突き止められたのである。
中野氏の追及を強固にしたのが、内田千鶴子氏で、氏による『重修猿楽伝記』
『猿楽分類帳』の発見で、以下のことが明瞭になってきた。




キリギリス瞑想遠く祭笛  藤本鈴菜




斎藤家では与右ヱ門十郎兵衛の名は、父子相続の名であり、問題の官製年は、
ちょうど十郎兵衛を名乗る代であったこと。また当時の能楽師の勤務形態は、
隔年で非番と当番の日があったこと。寛政6年の斎藤十郎兵衛は33歳にあた
ること。(すなわち絵も描けない幼年にあらず)
ここにいれば「写楽」の名を款した作品のことごとくが、寛政6年という一年に
限って登場し、退場していった経緯が無理なく説明できることになる。
もちろん7年の正月興行については、少なくともその下絵は前年中に仕上げられ
ていたであろう。
江戸八丁堀地蔵橋に住む阿波候の能楽師・斎藤十郎兵衛なる者が、寛政6年の年
33歳のときに描いたのが「写楽」の版画だったということになる。




サイコロがタヌキだったという博打  通利一遍




その斎藤十郎兵衛が、何そのゆえにその正体を隠さなければならなかったか、
に、ついては中野氏が明快に応えている。
大名のお抱えの能楽師はれっきとした士分であり、浮世絵の中でも「いわゆる河
原者たるが歌舞伎役者絵の製作に従事することのうしろめたさ」がそういう態度
をとらせたのである。
しかも、それが武士の身分というものを厳しく律することを求めた「寛政の改革」
の直後であった。という時代背景を考えなければならない、と。
そのためには版元はひとつに絞られる必要があった。
写楽は、これでもやはり、謎の浮世絵師なのだろうか。
写楽の役者絵、ことに初期の雲母摺大首絵による作品の類いまれな表現力は、
謎があろうとなかろうと、肖像画の傑作として鑑賞し得るはずではないか。




過去が問う何かお忘れ物ですか  藤村とうそん

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私は以下省略の中にいる  藤井康信






                              「里見八犬伝 行徳入江の場」 歌川豊国(三代)





さて馬琴は武家出身で几帳面な性格の努力家であり、『南総里見八犬伝』
『椿説弓張月』など、勧善懲悪の理念に基づいた長編小説を数多く執筆した
大作家である。




蔦谷重三郎ー曲亭馬琴ー②






                                              「高 尾 船 字 文」

曲亭馬琴の読本の初作。歌舞伎の伽羅先代萩(伊達騒動)の世界に中国小説・
忠義水滸伝を綯い混ぜた趣向で書かれている



馬琴という人物は、洒落も滑稽もわからず、なにかあれば儒教や中国文学に
見立てて説教を垂れてくる。明烏の時次郎と同じ部類の人物だ。堅物。
しかし、蔦重は馬琴について匙を投げたわけでなはなかった。
馬琴には馬琴の良さあがある。それはこの「寛政の改革」である今だからこそ
光る長所と踏んだ。




これでいい不満はみんな捨ててきた  安土理恵




蔦重は黄表紙を堅物馬琴に書かせた。洒落や滑稽、見立てで読ませる黄表紙は、
馬琴の最も苦手とする分野だ。そこを敢えての黄表紙、実は、馬琴でなければ 
書けない黄表紙の需要が高まっていたのである。
寛政の改革で、社会風刺や廓を舞台にする色事、不適切な表現が描かれる描か
れる黄表紙や洒落本はご法度となった。
恋川春町を亡くし、京伝に「筆を折る」とまで言わせ、且つ自分も身上半減の
咎めに遭い、さすがに蔦重も用心せざるを得ない。歌麿の美人画で浮世絵出版
が主になっていたのも、そうした事情があった。




美しく自粛 金魚が澄んでいる  山本早苗




とはいえ、本を出さずに書肆とはいえぬ。そこで目を付けたのが、教訓を分か
りやすく物語にして説く「草双紙」だった。
内容を孝行話や勧善懲悪、道徳などに変えた、絵本仕立ての黄表紙である。
これなら馬琴の得意とするところだ。馬琴が戯作者を目指したひとつに儒学や
国学、歴史、中国文学など自身の知識を役立てたいという思いがあった。
すでに心学の本については山東京伝『心学早染草』というヒット作を出して
いた。しかし、これまで滑稽や洒落を書いてきた京伝にとって、教訓本は、
京伝の良さを活かしきれない。馬琴ならそれができるのだ。



いのち絞り この世鳴き急ぐ  太田のりこ




ただし、商業出版なら消費者に受ける本でなければならない。
売れなければならない。売れなければ耕書堂の儲けは出ず、馬琴の名も上がら
ない。だからこその黄表紙であった。いくら好みではないとしても、滑稽や洒
落が分からないでは、、戯作者は務まらない。この先読本に転向するとしても
馬琴が書くのは大衆文学だ。であれば、大衆に寄り添うことを考えねばならぬ。
「人情を知る」「世情を読む」ことが重要だ。蔦重は、いくつも黄表紙を書か
せた。多くは勧善懲悪や水滸伝(明王朝の中国でかかれた長編型の自話小説)
を取材したもので、教訓ぽさが出ているものの、学びもエンタメ化させている。
町人たちに意外と受け入れられて。馬琴の野暮な理屈っぽさも、大衆の知的好
奇心をくすぐった。




帽子から飛び出す鳩も私も  いつ木もも花





                                        馬琴作北斎画共作の水滸伝





ついに寛政8 (1796) 年、馬琴蔦重を版元として読本『高尾船字文』を出版
した。『水滸伝』『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)の世界に付会し
た中本型読本で、歌舞伎を題材に使うなど、あの馬琴が大衆に寄り添っている。
なにより、大衆エンタメの親方である歌舞伎と伝奇物語(上代や中国から伝わ
った話を題材に、空想的な出来事を認めた物語)の水滸伝を綯い混ぜる趣向は
斬新で、蔦重もこの企画ならとゴーサインを出した。




用済みと捨てた言葉が駄々こねる  森井克子


結果は、馬琴が本気を出して語る水滸伝は、江戸の庶民たちに早すぎたことも
あり、馬琴ものちに「世間に受け入れられたとは言いがたい」と、珍しく自省
している。しかし、この蔦重と馬琴が世に問うた新しいタイプの読本が、その
後の読本ブームの嚆矢となったことは間違いない。そして、かつて師であった
ライバルの関係になるという、熱い展開がはじまるのだ。




正論を叫ぶ鉛筆振り立てて  宮井元伸

拍手[2回]

私は以下省略の中にいる  藤井康信








さて馬琴は武家出身で几帳面な性格の努力家であり、『南総里見八犬伝』
『椿説弓張月』など、「勧善懲悪」の理念に基づいた長編小説を数多く執筆
した大作家である。




蔦谷重三郎ー曲亭馬琴ー②












馬琴という人物は、洒落も滑稽もわからず、なにかあれば儒教や中国文学に
見立てて説教を垂れてくる。「明烏の時次郎」と同じ部類の人物だ。
堅物。しかし、蔦重は馬琴について匙を投げたわけでなはなかった。
馬琴には馬琴の良さあがある。それはこの「寛政の改革」である今だからこそ
光る長所と踏んだ。




これでいい不満はみんな捨ててきた  安土理恵



蔦重は黄表紙を堅物馬琴に書かせた。洒落や滑稽、見立てで読ませる黄表紙は、
馬琴の最も苦手とする分野だ。そこを敢えての黄表紙、実は、馬琴でなければ 
書けない黄表紙の需要が高まっていたのである。
寛政の改革で、社会風刺や廓を舞台にする色事、不適切な表現が描かれる描か
れる黄表紙や洒落本はご法度となった。
恋川春町を亡くし、京伝「筆を折る」とまで言わせ、且つ自分も身上半減の
咎めに遭い、さすがに蔦重も用心せざるを得ない。歌麿の美人画で浮世絵出版
が主になっていたのも、そうした事情があった。




美しく自粛 金魚が澄んでいる  山本早苗




とはいえ、本を出さずに書肆とはいえぬ。そこで目を付けたのが、教訓を分か
りやすく物語にして説く「草双紙」だった。
内容を孝行話や勧善懲悪、道徳などに変えた、絵本仕立ての黄表紙である。
これなら馬琴の得意とするところだ。馬琴が戯作者を目指したひとつに儒学や
国学、歴史、中国文学など自身の知識を役立てたいという思いがあった。
すでに心学の本については山東京伝『心学早染草』というヒット作を出して
いた。しかし、これまで滑稽や洒落を書いてきた京伝にとって、教訓本は、
京伝の良さを活かしきれない。馬琴ならそれができるのだ。




いのち絞り この世鳴き急ぐ  太田のりこ




ただし、商業出版なら消費者に受ける本でなければならない。
売れなければならない。売れなければ耕書堂の儲けは出ず、馬琴の名も上がら
ない。だからこその黄表紙であった。いくら好みではないとしても、滑稽や洒
落が分からないでは、、戯作者は務まらない。この先読本に転向するとしても
馬琴が書くのは大衆文学だ。であれば、大衆に寄り添うことを考えねばならぬ。
「人情を知る」「世情を読む」ことが重要だ。蔦重は、いくつも黄表紙を書か
せた。多くは勧善懲悪や水滸伝(明王朝の中国でかかれた長編型の自話小説)
を取材したもので、教訓ぽさが出ているものの、学びもエンタメ化させている。
町人たちに意外と受け入れられて。馬琴の野暮な理屈っぽさも、大衆の知的好
奇心をくすぐった。




帽子から飛び出す鳩も私も  いつ木もも花




ついに寛政8 (1796) 年、馬琴蔦重を版元として読本『高尾船字文』を出版
した。『水滸伝』『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)の世界に付会し
た中本型読本で、歌舞伎を題材に使うなど、あの馬琴が大衆に寄り添っている。
なにより、大衆エンタメの親方である歌舞伎と伝奇物語(上代や中国から伝わ
った話を題材に、空想的な出来事を認めた物語)の水滸伝を綯い混ぜる趣向は
斬新で、蔦重もこの企画ならとゴーサインを出した。



用済みと捨てた言葉が駄々こねる  森井克子



結果は、馬琴が本気を出して語る水滸伝は、江戸の庶民たちに早すぎたことも
あり、馬琴ものちに「世間に受け入れられたとは言いがたい」と、珍しく自省
している。しかし、この蔦重と馬琴が世に問うた新しいタイプの読本が、その
後の読本ブームの嚆矢となったことは間違いない。そして、かつて師であった
ライバルの関係になるという、熱い展開がはじまるのだ。




論を叫ぶ鉛筆振り立てて  宮井元伸

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