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川柳的逍遥 人の世の一家言
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鯛焼きのあんこをパスカルが詰める くんじろう



               
  源 義家(頼朝の父)                           平 忠盛(清盛の父)


「詠史川柳」 名前


平安初期、天皇家の財政が困窮し、多くの皇子を養ってゆけなくなった。
そういうことから「源」(みなもと)という姓が創設された。
弘仁5年(814))嵯峨天皇のときで、皇子皇女に「源」姓を持たせて
臣籍にくだした。
ついで、源の成立から11年後の825年、桓武天皇葛原親王の子を
臣籍にくだし、はじめて「平」(たいら)という姓をおこさせた。
今風にいえば、就活によいだろうと天皇の配慮である。
その後、「源・平」はふんだんに創られた。

控室から砂漠への経路 清水すみれ


 
源氏の場合、嵯峨源氏を含め、淳和、仁明、文徳、村上、陽成、宇多、
醍醐、清和、花山とつづく10人の天皇の支脈が大量に源氏になった。
その多くは降下後、数代で零細な存在になり、とくに「清和源氏」が、
地方に土着して武家家し、ついには後代、関東を制するに至ったことは
よく知られている。
平氏は桓武を含め、仁明、文徳、光孝の4人の天皇の別れが賜姓された。
関東で土着するのは「桓武平氏」で、平安末期には「坂東八平氏」など
と呼ばれた。それぞれが地名を名字に置いて、千葉、上総、三浦、大庭、
梶原、秩父、長尾、土肥の八氏を言い、彼らは坂東の開発人として武力
を誇った。

先生と同じ字の名で親近感 足達悠紀子

平安中期頃になると公地公民の律令制が崩れ、農民の暮らしが成りたたく
なり、多くが逃散して浮浪人となり、坂東をめざした。
彼らは実力ある非合法農場主の支配に入り、家来になって土地を耕し乍ら、
合戦には雑兵として主の供をした。
そういう無名の主たちが、あらそって源・平もしくは、藤原氏を自称した。
「氏素性はいかに」と問われれば「平氏に候」などと平然と言ったりする。
妻の遠縁の者が、たまたま平氏であったというだけの理由で平氏を称する
者もあり、平安末期頃には坂東だけでなく、奥州のはしから九州にいたる
まで源・平(これに藤・橘が入る)のいずれかでない者はいなくなった。

密林に寄生しながら生き延びる 藤本鈴菜

家康のルーツにも、こうしたものがあるのかも知れない。
門外不出の大久保彦左衛門忠教が著した『三河物語』によると、
「徳川将軍家の祖は、新田義重である」義重は清和源氏の嫡流であった。
が、一族の新田義貞の威勢に押されて、新田の内の徳河(得川)郷に住み、
「徳河殿」と称した。そして新田義貞が足利尊氏に敗れると、徳河を去り、
その子孫10代ほど放浪したのち、表に出るのが松平清康である。
家康の祖父である。
彼には「世良田次郎三郎清康」という署名があり、「世良田は新田庄内の
徳川郷のある土地の名なので、新田の子孫である」と称した。
こうした背景から家康も若い頃から「松蔵源元康」と署名をしている。
自分は源氏であると称していたわけで、永禄9年に、家康は正親町天皇
の勅許を得て「松平を徳川に変え、かつ先祖「徳川」氏がそうであった
として〈源から藤原〉に改姓し、従五位下三河守に叙任された」とある。

美しいわたしに髭が生えてくる  柴田園江

【豆辞典】 源・平・藤・橘
源氏、平氏は皇族が臣籍降下(皇族が一般人になる)ときに与えられた氏、
橘氏も皇族の一族、藤原氏は中臣鎌足に下賜され、その子不比等の時代か
ら権勢を誇った一族。この「源・平・藤・橘」の4つの氏族の共通点は、
政治の中枢についていたということである。
その事から、憧れの家系図ともされる。

少しだけ空気を抜いて転げます 森田律子



 
  阿武松縁之助

「力士の珍名」

由井正雪の謀反事件の後、江戸幕府によって一時期、四股名の使用が禁じ
られた。叛意を持った浪人が、来歴を偽って相撲取りの巡業のなかに潜伏
するようなことを、取り締まるためだった。
やがて幕政が安定するとこれも解禁され、谷風梶之助、小野川喜三郎らの
活躍する寛政期になると、現在に通ずるような勇ましさだけでなく優雅さ
を強調、山・川・花・海・といった文字を折り込む四股名が使われ始めた。

何なのだ発光キノコのあの笑みは 徳山泰子

「笑ってはいけません。相撲は真面目に取りました」


一二三山 四五六(ひふみやま よごろく)
三ッ△ 鶴吉(みつうろこ つるきち)
相引 森右衛門(あいびき もりえもん)
兎角 是非内(とかく ぜひない)
螺貝 鳴平(ほらがい なるへい)
白旗 源治(しろはた げんじ)
宝年 万作(ほうねん まんさく)
電氣燈 光之介(でんきとう こうのすけ)
自働車 早太郎(じどうしゃ はやたろう)
自轉車 早吉(じてんしゃ はやきち)
文明 開化(ぶんめい かいか)
不了簡 綾丸(ふりょうけん あやまる)
貫キ 透(つらぬき とおる)
突撃 進(とつげき すすむ)
野狐三二郎(のぎつね さんじろう)
片福面 大五郎(かたおかめ だいごろう)
軽気球 友吉(けいききゅう ゆうきち)
〆切り 玉太郎(しめきり たまたろう)
豆鉄砲 芳太郎(まめでっぽう よしたろう)
馬鹿の 勇介(ばかの ゆうすけ)

太ももが捩じれましたのカーニバル  山口ろっぱ


   
「とても読めない力士の名前」


鯨波 源太夫(ときのこえ げんだゆう):最高位は前頭筆頭。
友鵆 寿作(ともちどり じゅさく):最高位は前頭4枚目。
輦 文治郎(てぐるま ぶんじろう)最高位は前頭6枚目。
梁 富五郎(うつばり とみごろう)最高位は小結。
階 玉右衛門(きざはし たまえもん)最高位は前頭3枚目。
桟シ 初五郎(かけはし はつごろう)最高位は前頭筆頭。
勢見山 兵右エ門(せいみざん ひょうえもん):最高位は小結。
鑛 石松(あらがね いしまつ):最高位は前頭7枚目。
籬野 雲右エ門(まがきの くもえもん)最高位は前頭2枚目。
殿り 源吉(しんがり げんきち)最高位は大関。明治初期の幕内。
京 石松(かなどめ いしまつ):最高位は前頭10枚目。

毎日をオヤ・アラ・マアと生きている 美馬りゅうこ

「親方の遊び心にある名前」


可愛嶽 実男(えのだけ さねお)出羽海部屋所属。
笠洋 正好(りゅうよう まさよし)北の湖部屋所属。
天降川 彰彦(あもりがわ あきひこ)井筒部屋所属。
寒水山 雅直(そうずやま まさなお)井筒部屋所属。
常陸號 達也(ひたちごう たつや)武蔵川部屋所属。
望櫻 将太(みざくら しょうた)宮城野部屋所属。
高麗の国 譲二(こまのくに じょうじ)芝田山部屋所属。
土佐颯 一光(とさはやと かずみつ)錣山部屋所属。
若樫固 光(わかけんご ひかる)松ヶ根部屋所属。
大小林 央弥(だいしょうりん ひろや)荒汐部屋所属。
荒馬強 強(あらうまごう つよし)伊勢ノ海部屋所属。
光源治 晴(ひかるげんじ はる)峰崎部屋所属
天空海 翔馬(あくあ しょうま)立浪部屋所属
海波 海波(みなみ みなみ)立浪部屋所属
刃力 誠将(ばりきしげのぶ)錣山部屋
大越前王 力(だいえちぜんおうりき)千賀ノ浦部屋
猫又虎右衛門(ねこまた とらえもん)伊勢ノ海部屋
鳩弾力 豆太郎(はとだんりき まめたろう)出羽海部屋

会った瞬間ビビビッと来ました  川畑まゆみ


 

「詠史川柳」



   平将門の首


≪平将門≫


裾を踏んで将棋倒しの相馬公家


平将門は下総を本拠とする平安中期の武将。
「坂東八か国」の独立を宣言し、勢力拡大を続けて、ついに下総国猿島郡に
御所を造営し、新皇を自称するに至る。御所だから公家がいるわけなのだが、
何しろ田舎者だから「相馬公家」と嘲られ、裾を踏んだりして、将棋倒しに
なっただろうとからかわれる。

よこしまの道にくわしき相馬公家


股引の大宮人は相馬公家


この将門の討伐に向かったのが藤原秀郷だった。
しかし将門には七人の影武者がいて、なかなか手強い相手なのである。


恐ろしさ七つに見えるつなぎ馬


「繋馬(つなぎうま)は将門の家紋。
秀郷は将門の弱点が「こめかみ」であることを知り一矢で射貫いて倒した。


米噛み以来評判の俵なり


米噛みを射て将門を討ち取って以来、秀郷(俵藤太)の評判があがった。

窓辺に雑巾まだ独り名の君 桑原すゞ代

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寝て起きてごはん食べたらまた寝てる  雨森茂樹


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江戸の人気力士勢ぞろい

 

江戸時代の庶民の娯楽といえば、歌舞伎や寄席また相撲も娯楽の一つ。
「相撲」の興行が定期的に行われるようになると、庶民の間で爆発的
な人気を誇るようになる。

 

「詠史川柳」 江戸の相撲


江戸の三男という言葉がある。与力、力士、火消しの頭が江戸の花形、
というものだ。このなかで、力士は「一年を二十日ですごす良い男」
川柳に詠われた。
力士がなぜ、年間二十日間の実働で一年間暮らせる好漢とうらやまれた
かというと、彼らが活躍する「勧進相撲」が春と冬の年二回、晴天十日
間の開催とされ、好きな相撲をするだけで、一年を楽に暮らせるほどの
給金を得ていたからである。


手付かずの図星を抱いて今日も暮れ 高野末次
 
 


この勧進相撲とは、寺社が修復費用などを集めるために、幕府の許可を
得て興行する相撲のことで、許可の証しとして番付には、「蒙御免」と
大書された。これはいまも番付表などに名残をとどめている。
寺社の企画だから、神事の一種という事になり、女性の見物はご法度。
本所の回向院が主な会場で、見物客は未明から回向院を目指した。
「堺町ずかずか通る相撲好き」
と、川柳子が睨むように江戸の相撲フリークたちは、日本橋から両国
橋を渡って、墨田川の東岸の回向院に、相撲を見る前から興奮して、
日本橋堺町にあった芝居小屋には目もくれず、鼻息荒く、ずかずかと
歩いていた。そんな連中だから、すさまじい混雑のなか、贔屓の力士
をめぐって興奮の頂点に達し、あちこちでつかみ合いの喧嘩をはじめ
るほどだった。

 

雑踏の中の一人になり凍え 藤本秋声

 
「江戸の人気力士」




 

明石志賀之助。江戸勧進相撲の創始者とも言われている。
このことからか日本相撲協会は、彼を初代の横綱として認定している。
体格は,彼を祀る蒲生神社の等身大という銅像によると身長221.2cm、
体重は約225kgとなっている。
これはより大きく、逸ノ城の重たさである。

次は、仙台藩おかかえの二代目横綱・谷風梶之助
体格は、全盛時代で身長189cm、体重169kgのアンコ型で、大きさは
大関・栃ノ心に相当する。
江戸本場所での谷風の通算成績は、49場所で258勝14敗16分16預5無
112休、949の勝率を誇る強さ。



 
 谷風と小野川喜三郎

谷風と何度か対戦をした小野川喜三郎は、久留米藩お抱えの力士で、
5代横綱まで登りつめたが、体躯・筋力に優れる谷風梶之助に対し、
慎重な取り口と技巧で対抗したが一度も勝っていない。
ともかく姑息な立合いが多く、江戸庶民の人気は薄かった。

利き足に小春日和を巻いておく みつ木もも花



 
雷電為右衛門

そんな中で一番の人気は、松江藩お抱えの雷電為右衛門である。
江戸時代だけでなく現代まで含めて、史上最強だと押す人もいるほどで、
その生涯成績は254勝10敗2分(預り14、休み41)。通算勝率:.962。
まさしく「土俵の鬼、また土俵の神」と呼ばれた。
又、その強さのあまり雷電は「張り手、鉄砲、閂」を禁じ手とされたり、
その強さを伝える逸話にはいとまがない。彼の人気は、数多く浮世絵も
残されていることからも伺いしれる。
体格は江戸相撲で初土俵を踏んだ時の宣伝の錦絵には、6尺5寸、45貫目
(197cm、169kg)と書かれており、これが定説となっている。

これは平成最強の横綱・白鳳(192㎝ 158㎏)とほぼ同じである。
因みに、白鳳の2019年3月場所10日目(19年3月20日現在)、
幕内戦歴1022勝184敗 勝率850。すごい数字です。



頂点の笑顔競ってきた笑顔  籠島恵子



野見宿禰・當麻蹶速

 

「相撲の歴史」

相撲の起源として「野見宿禰」(のみのすくね) VS「當麻蹶速」たい
まのけはや)の天覧相撲が日本書紀に書かれている。
蹶速は、手で牛の角をへし折るほどの怪力の持ち主で、
「この世で自分と互角に力比べができるものはいないのか、
もしいればその人物と対戦したいものだ」と豪語していた。
11第天皇垂仁(すいにん)がその話を聞き、家臣に
「蹶速と互角に戦えるものはいないのか?」と尋ねたところ、
家来の一人が
「出雲の国に野見宿禰なる人物がいます。この人物を
呼び寄これをせ蹶速と戦わせてはいかがでしょうか?」と進言した。
天皇は喜び天覧試合の運びとなった。
蹴りもある喧嘩のような相撲もどきの試合は、長い戦いの末、
宿禰が勝ち蹶速は命を落としてしまう。


引導を渡される迄あきらめぬ 吉岡 民


相撲は古代から「豊作を願う儀式」として行なわれていたが、奈良時代
から平安時代には、朝廷行事となる。
宮廷行事の余興の一つとして、「相撲節会」と呼ばれる相撲大会が毎年
7月頃に行われるようになったのである。
この時はまだ土俵は無く、相手を倒すか地面に体の一部を着かせた方が
勝ちだった。
一方、鎌倉時代から始まる武士の時代には、心身を鍛錬する武芸として
盛んに行なわれるようになった。
戦国時代になると、諸大名が「お抱え力士」を持つことが流行し、娯楽
としても親しまれるようになる。
戦国武将で最も相撲に熱心だったのは、織田信長だといわれている。
『信長公記』によると、元亀天正の間(1570~約10年)9回もの
「上覧相撲」を催され、勝ち抜いた者は家臣として召抱えられたという。

出直しのチャンス頂く春キャベツ  靏田寿子

豊臣秀吉も相撲が大好きで、慶長元年(1596)頃に成立した聞書集である
『義残後覚』には、四国の大力と聞こえた力士を2千石で召し抱え、
毛利輝元のお抱え力士の評判を聞いて聚楽第で2人を立ち会わせようと
した、というエピソードがある。
豊臣秀次も相撲を好み、同時代の公家・山科言経の日記『言経卿記』
などから、秀次がたびたび上覧相撲を行なったことがうかがえる。
 江戸時代に入ると、先に書いたように寺社奉行の指導のもと、
全国の寺社で「勧進相撲」が行なわれるようになる。
やがて年6回の大相撲も許可され、庶民の娯楽として今日に至る。

秀吉のおまるはただの純金製 木口雅裕

 

「詠史川柳」
 


  頼 光 四 天 王

≪坂田金時≫

源頼光の四天王の一人で実在の人物ともいわれ、いろいろな伝承がある。
ここでは、山姥の子で足柄山にいたのを、頼光に見出されて家来になり、
四天王の一人として大江山の鬼退治で活躍する物語がもとになっている。

どうせお世話がやけましょうと山姥

頼光から、金時を家来にしようとといわれて山姥曰く

まさかりとどてら一つでかかえられ

まさかり担いだどてら姿で召し抱えられたのだが、なにしろ
山姥の子ですから、親戚などおりません。

金時は親類書にこまるなり
金時の系図はたった一くだり

しかし、大江山の鬼退治では、生来の強力で活躍。

金時はくわえ煙管で角をもぎ



煙管(きせる)をくわえたまま、遊び半分で鬼の角をもぎとったという。
油断は事故のもとと、「頼光四天王のうちに、公時(金時)という者は
血気の勇
者にて、危うきことも多かりしを、綱つねにこれを諫むといふ」

金時は妻子を持たず、頼光没後行き方知れずになったという。

カレンダーに印ついてる何だっけ 下谷憲子

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イスラムも釈迦もエホバも二本足  清水すみれ


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   彦左衛門登城の図

 
「詠史川柳」 大久保彦左衛門
今から360余年前の慶長8年(1603)家康が征夷大将軍になって、
江戸に幕府を置いた時は、いまの千代田城のまわりに、百姓家が数十軒
点在するだけだった。それが二代将軍・秀忠、三代家光と幕府の基礎が
固まるとともに、諸国の人が江戸へ集まって、江戸はわずか3、40年
の間に日本一の大都会になってしまう。
この大都会を横目に徳川三代に仕え、一見取り残された男として愚直に
生きたのが、大久保彦左衛門である。

隙間にはアロエの鉢を置いておく 合田瑠美子


大久保彦左衛門とは、剛直、篤実、朴訥、さらには主家への忠誠心とい
った古三河の倫理風土がそのまま凝ったような人柄ながら、後年、武士
が政治家や役人として出世して行く世になると、時勢にあわず、存在そ
のものが喜劇性を帯びた人物として知られる。
市井の人々はその滑稽感がよほど好きだったのか、江戸中期以降、芝居
や講談のなかでその人柄が典型化され、さまざまな話が創作された。
芝居や講釈が作り上げた彦左衛門は、「天下の御意見番」などというこ
とだった。彦左衛門が月形龍之介、一心太助は中村(萬屋)錦之助が演
じた映画を懐かしく思われる人も多かろう。若い子は知らないだろうが、
将軍様にも、無礼講で、ずけずけ意見を述べにいく痛快な爺様である。
いわゆる「あの老人は大久保彦左衛門なんです」と今社会でも言われた
りして、会社では閑職ながら、先々代からつかえていて、精錬で頑固で
融通がきかないが、お家の大事となると、社長に面を冒して忠諫を加え
たりする傑物である。

はぐれ雲抜き差しならぬ仕儀になる 桑原伸吉



ところが三代家光の泰平の世になって、彦左衛門は無用の人になった。
政道の堕落を嘆き、役人の腐敗を見るとにわかに登城して家光に拝謁
して、侃々と諫めるのである。
そういう場合、彼は自分のことを「彦左」と呼んだ。
しかし、実際の彼には、そういう気分があったにせよ、芝居や講釈や
映画の中のような「ご意見番」などではなく、すでに世の官僚機構は
確立していて、彼のような二千石程度の旗本などが大きな口をきける
時代ではなくなっていたし、それに過去の武功などは、現実の機構の
なかでは、お伽噺にすぎなくもなっていた。


 
たこ梅の菜箸がひとり歩きする  酒井かがり


「大久保彦左衛門」の画像検索結果
 
「彦左」は、正しく名乗れば彦左衛門忠教(ただたか)である。
忠教の先祖は、家康の松平氏の先祖が、まだ三河の山岳に拠っていた小
勢力だった頃に仕えた。その後、家康にいたるまでの七代にわたり、
大久保氏六代が忠勤に励むのである。
忠教は庶腹の子だった。
武家では、原則として弟は兄の家来になる。
彼は正嫡の長兄・忠世(ただよ)の与力として働き、忠世の死後はその
忠隣(ただちか)のもとで働いた。
忠隣は歴世冷や飯を食った大久保氏としては最も優遇された人である。
小田原で6万5千石をもらったが、よく分からない理由で家康に突如忌
まれ、慶長19年城と領地をとりあげられた。

バズーカ並みのヒジ鉄に襲われる 中川隆充


忠教はこの本家の悲運が、本田正信の讒言から起こったということを信
じていた。正信は若い頃三河一揆方に加担し、その後他国に流浪してい
たがやがて帰参し、家康の唯一の陪臣として終始した男である。
武功はなく、渾身の謀才をもって家康を助け、家康は正信を見ること、
「朋友の如く」だったという。
忠教はこの男を憎んだ。
「そういう奴が出世する世になった」と詮無いことながら主家の冷たさ
を恨んだ。
―忠教はこのことが動機となって『三河物語』を書いた。

お袋胃袋堪忍袋お疲れで  田口和代


忠教は、『三河物語』を子孫への訓戒として書いたが、徳川家について
露骨なことが書かれていることもあって門外不出とした。
内容は主家徳川家の由来、松平時代の歴世の当主のこと、さらには大久
保家代々の武功のことなどで、実に詳細な松平史であり、族党史である。
しかし自分のこととなると、わずか三か所で述べているにすぎず、この
ため自伝とは言いにくい。
(この本の存在が知られたのは、明治13年。当時の大久保家の当主が
忠教の自筆本を勝海舟のもとに持ってゆき、始めて世に出たものである)



百均で買ったお面がよく似合う 雨森茂樹




 一心太助

家康は忠隣を改易に処したとき、忠教を拾い上げて自らの旗本にした。
石高は千石、槍奉行で足軽一隊の隊長という低い職だった。
この前後にもう一つの不幸があった。
沼津で二万石という次兄の忠佐(ただすけ)が77歳で死んだのである。
沼津大久保家ではその直前に嫡子忠兼が急死したため、世嗣なしとして
幕法により家が潰された。忠教が生涯でもっとも見事だったのは、この
沼津大久保家が断絶する直前、それを免れるために、忠佐が弟の忠教に
いそぎ養嗣子になってくれと頼むも、忠教が断ってしまったことである。
忠教が「承諾」とさえいえば、沼津二万石はつぶされずにすむし、
忠教も大名になれる・・・のにである。
「わしは二万石相当の武功をたてたことがない。武功もないのに大名に
なれようか」と言ったという。
このことは武功なくして口利きひとつで大名になった連中へのあてつけ
であり、徳川家への痛烈な批判でもあった。
 


台風の目ができそうな中二階 一階八斗禄
 


自身の著の『三河物語』で彦左衛門は訓戒している。
「子ども、よく聞け。お禄を下さらぬとも御主様に不足を思うな。
世を見るに、主人に弓をひいたような人が、高い禄を得、子孫も栄える
と見えたわい。また卑怯なふるまいで人に嗤われた者も、いまは出世を
したわ。またまた座敷で立ち回っているだけの者も栄達したぞ。
しかしながら大久保の者は、如に冷遇されようとも、奉公は懸命にせよ。
飢えて死ぬともこの心をもて。それが先祖からのしきたりである」
 

悔いのない生きざまだったサンセット  早泉早人

『三河物語』について。忠教の書いた文章は非常に面白い。
誤字・宛字が平然とひしめきあっているのである。
たとえば無造作に「太香」とあるのは、彼の嫌いな太閤秀吉のこと。
「百将」というのは「百姓」のことで、宛字ながら字面がいい。
「不運」のことを「浮雲」と書く。
これらは意識的なものなのか、迂闊なものなのか、どちらにしろ彦左衛門
のもつ天性の文学的センスを感じさせるのである。
 

お醤油をたらしてちょうどいい厚み  井上しのぶ  
 
         


 
「詠史川柳」



   遣 唐 使


≪最澄・空海≫

田村麻呂と同時代の人に「平安の二大聖人」と謳われた伝教大師・最澄
と弘法大師・空海がいる。
二人は804年の第16次遣唐使の学僧として、一緒に唐に渡った仲。
最澄はこのとき38歳で、すでに注目されていたエリート僧で、
31歳の空海は、全くの無名の若者だった。
乗った船は往復とも異なり、学んだ寺も異なりましたが、もともと昵懇
の間柄で帰国後も親しく付き合っていた。
ところがある日突然、絶交をする。



両大師五言絶句でものを云い

五言絶句は、起承転結の漢詩の一つの体形。
絶句を絶交に利かせて、唐で漢詩を学んだので、それで言い合いした
のではと川柳子は詠む。
仲違いの原因は、空海が持ち帰った『理趣経』という密教の経典だった。
この経典を最澄は持って来なかったため、空海に借りたいと頼んだ。
すると空海は「あなたは理趣経を学ぶ資格のない人間だ」と拒絶。
これにより二人の付き合いはなくなる。「理趣経」は人間の本能や欲、
男女の愛欲に求めた経典であり、この経典が流布した場合、モラルも
何もない性の洪水の世の中になると、空海が危惧したのである。
事実、空海は真言宗の一部の高僧だけに理趣経の存在を知らせ、
門外絶対不出の秘密経として扱っている。
最澄は天台宗、空海は真言宗の開基だが世に空海作の仏像は沢山ありー


仏師屋をやっても弘法食えるなり

空海は嵯峨天皇、橘逸勢とともに「平安の三筆」と謳われた名筆家。
「弘法も筆の誤り」をパロディーにしてー

弘法も一度は筆で恥をかき

余談です、弘法大師には、聖人ゆえのいろいろな伝説がある。
「ひらがな」は弘法大師が考案したものとか、
また大師が旅先の村で芋を所望したとき、村人が「この芋は石のように
固くて食べられない」と嘘をいって断ったところ、
それ以後、その村の芋がすべて石になってしまったとかー。

トナリから攻め寄るたとえばの話 山口ろっぱ

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コーヒーがないと一日始まらぬ  石橋直子

詠史川柳を読んで驚かされることは、中国の古典から古事記、日本書紀
飛鳥、奈良、平安、鎌倉、江戸時代に至るまで、歴史の出来事(時事)
に於ける川柳子の知識の広さである。そこに元禄時代に始まる文字文化
の普及があることをを、見逃すことはできない。


   寺 子 屋

「詠史川柳」 日本人の識字率

江戸は政治の中心ではあったが、文化の伝統がなかったので、元禄時代
までの江戸の文化は、上方中心のそれには及ばなかった。
宝暦(1751~)の頃を境にして、上方中心の文芸はその勢力を江戸
に譲ることになる。いわゆる文運東漸であるが、この時期には、黄表紙、
洒落本、狂歌、川柳等々、遊戯的、享楽的気分の濃厚な軽文芸が新たに
登場してきて、江戸文芸は、にわかに活況を呈する。
元禄文化の開花である。徳川家康が幕府を江戸に置いて80年。
「読むこと、書くこと、考えること」こうした庶民の教育熱の高まりに
より、文字文化は広く社会に普及・定着していく。

ぱらぱらと愛をまぶしえ丸め込む  森乃 鈴

三河国の豪農が執筆した農書『百姓伝記』には「分限相応に手習をいた
させ、そろばんを習わせて」と、農民の分限に応じて、読み書きと筆算
を習得させることが記されている。農家や町の子らに、文字を習わせる
というのは、士族を除き、『聖賢の書』を読むためではなく、農村や町
方のこどもが、奉公したときに帳付けができるように願ってのことであ
った。無学なら舟に乗っても船頭にはなれず、商家につとめても手代番
頭にはなれず、大工に弟子入りしても棟梁になれない。教育は当面、庶
民が生きていくために必要な知識を身につけることだった。

タンポポの綿毛好きです始発駅 ふじのひろし

また、同じく元禄時代に大坂で活躍した井原西鶴『浮世草子』には、
村々で手習の需要があったこと、農民や庄屋などの教育水準が高かった
こと、さらに、「昔は皆うとく、訴訟や示談を行い言説巧みに自分の利
益を得る人はいなかったが、最近は愚かな人がいなくなり字を書けない
人もなく、何事も他人の知恵を借りず、自分で処理できるようになった」
との記述がある。

山や谷越えた図太さ今がある  堀冨美子

民間の教育機関である私塾は、寛政期以降、急速に数を増やし、確認さ
れるだけで、1500以上あったといわれる。
私塾では、優秀な人材を育てるための高等な教育機関で、全国から多く
の学生が集まったという。
文政年間の『筆道師家人名録』をひもとくと、寛政改革以降増加し続け
ていた手習塾(寺子屋)が、文政3年末には496にも達したとある。
この手習宿の規模は、子弟数人から数百人までさまざまであるけれど、
一つの平均収容子弟を30名とすると、実に1万5千人の学童がいた計
算になる。当時の日本の諸事情を調査していたアメリカ人のラナルド・
マターナルドの日記には次のようなことが記してある。
「日本のすべての人ー最上層から最下層まであらゆる階
級の男、女、子供―は、紙と筆ペンと墨インク(矢立)
を携帯しているか、肌身離さず持っている」と。

決心はダイヤモンドの堅さほど  髙田美代子

ついでに江戸後期、日本を訪れた外国人が見た日本の教育事情について
記した言葉を紹介する。
黒船を率いて米国からやって来たマシュー・ペリー提督の旅日記には、
「読み書きが普及していて、見聞を得る事に熱心である。また日本の田
舎にまでも本屋があり、日本人の本好きと、識字率の高さに驚いた」
さらに
「下田でも函館でも、印刷所をみかけなかったが、書物は店頭で見受け
られた。それらの書物は一般に初歩的性質の安価なものか通俗的
の物語
本又は小説本で、明かに大いに需要されるものであった」
と記し、
「下級階層の人びとさえも書く習慣があり、手紙による意思伝達は、わ
が国におけるよりも広く行われている
『日本絶賛語録』

耕した心に春の花咲かす 穐山常男

万延元年(1860)に日本との間に通商条約を結ぶ為に来日したプロ
イセン海軍のエルベ号艦長・ラインホルト・ヴェルナーの、航海記には、
「子供の就学年齢は、おそく7歳あるいは8歳だが、彼らはそれだけ益々
迅速に学習する。民衆の学校教育は、支那よりも普及している。
支那では民衆の中で殆んどの場合、男子だけが就学しているのと違い、
日本では確かに学校といっても支那同様私立校しかないものの、女子も
学んでいる」と記し、
エルベ号艦長幕末記には、
「日本では、召使い女が、互いに親しい友達に手紙を書くために余暇を
利用し、ボロをまとった肉体労働者でも、読み書きができる事で我々を
驚かす。民衆教育について我々が観察したところによれば、読み書きが
全然できない文盲は、全体の1%に過ぎない。
世界の他のどこの国が、自国についてこのような事を主張できようか」
と記す。

信念を曲げぬ万年筆の艷  辻内次根

文久元年(1861)に函館のロシア領事館付主任司祭として来日した
ロシア正教会の宣教師・ニコライは、8年間日本に滞在。その帰国後に、
ロシアの雑誌『ロシア報知』に次のような日本の印象を紹介している。
「国民の全階層にほとんど同程度にむらなく教育がゆきわたっている。
この国では孔子が、学問知識のアルファかオメガであるという事になっ
ている。だが、その孔子は、学問のある日本人は一字一句まで暗記して
いるものなのであり、最も身分の低い庶民でさえ、かなりよく知ってい
るのである。ー中略ー どんな辺鄙な寒村へ行っても、頼朝、義経、楠
正成、等々の歴史上の人物を知らなかったり、江戸や都、その他の主だ
った土地が、自分の村の北の方角にあるのか西の方角にあるのか知らな
いような、それほどの無知な者に出会う事はない。ー略―
『ニコライの見た幕末日本』

太鼓打つごとに一コマ進む夢  井上一筒

まだまだある。
「日本の国民教育については、全体として一国民を他国民と比較すれば、
日本人は天下を通じて最も教育の進んだ国民である。日本には読み書き
出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もいない」
ロシア海軍の軍人で函館に幽閉されたゴロウニン

「子供たちが男女を問わず、またすべての階層を通じて必ず初等学校に
送られ、そこで読み書きを学び、また、自国の歴史に関するいくらかの
知識を与えられる」
英国外交官・エルギンの秘書・R・オリファント

考える形で影が離れない  早泉早人

彼らがこのように驚くのも無理はない。嘉永年間(1850~)の江戸
の就学率は70~86%で、裏長屋に住む子供でも手習いへ行かない子供は、
男女とも殆んどいなかったという。また日本橋、赤坂、本郷などの地域
では、男子よりも女子の修学者数の方が多かったという記録もある。
結果、当時の識字率は、武士階級は、ほぼ100%、町人ら庶民層も男子で
49~54%、女子では19~21%と推定され、江戸の中心部に限定すれば約
90%が読み書きができたという。『「奇跡」の日本史』

 これに対し1837年当時の英国の大工業都市での就学率は、僅か20~25
%だった。19世紀中頃の英国最盛期のヴィクトリア時代でさえ、ロンドン
の下層階級の識字率は10%程度だったという。
 フランスでは1794年に初等教育の授業料が無料となったが、10~16歳
の就学率は、わずか1.4%に過ぎなかった。
『大江戸ボランティア事情』

斜め三十度口笛吹く男  嶋澤喜八郎

 

「詠史川柳」



≪浦島太郎≫

浦島太郎は伝説上の人物。『日本書紀』を始め『御伽草子』や昔話など、
さまざまな伝承がある。一般によく知られているのは、助けた亀に連れ
られて竜宮城へ行き、乙姫さまの大歓待を受けて、故郷へ帰ってくると
340年も経ってしまっている。「開けるな」と言われた玉手箱を開け
ると、白い煙が出て白髪の爺さんになるという話である。

浦島の帰朝女房はどなた様

女房が生きているはずもないのだが、生きていたとしたら
「どなた?」と言うだろうと、川柳子は思うのである。

浦島は歯茎を噛んでくやしがり

伝説では、浦島は白髪になったとしか書かれていないが、
歯も抜けて、歯茎を噛んだのではないかと。

亀曰く浦島はなあ若死にだ

千年生きる亀にとって、300年とは、若死にだったねー。
 実はこの亀、竜宮城に着くと化して美女となる。
浦島太郎は此の女とともに蓬莱に暮らし、340余年を経て淳和帝の御宇
天長に日本に帰るという話になっている。こうした伝説を川柳子はしっか
りと自分の知識とし、川柳にしているのである。

青い空どんな夢でも描けそうだ 河村啓子

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加齢以外目立つキズなどありません  美馬りゅうこ

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9代目団十郎

「詠史川柳」 団十郎9・10・11代
九代目・団十郎は、河原崎座の若太夫として幼時から厳しく育てられ、
舞踊・絃歌・書画・茶花などの諸芸を身につけさせられた。
特に安政元年の八代目の没後は、市川家の血統として将来を嘱望され、
大役につくようになったが、健康に優れず「青瓢箪」と呼ばれたり、
「権ちやんナマナマ」などと悪口されるほどであった。
しかし、養父が非業の死を遂げ明治期に入ると、大器晩成型の彼は、
ようやく実力を発揮しはじめる。
その一つとして彼独自の新演出をあみ出し、登場人物の性格や心理を、
所作によらず内向的な手法により表現する「肚芸」と呼ぶ演技術や、
時代考証を踏まえた史実に忠実な舞台演出など演劇改良運動を推進した。

擂鉢の底で粘っている思案  荻野浩子
これらは九代目の改良癖・高尚癖として批判も浴びたが、
後代の歌舞伎に多大な影響を与え「九代目の型」として尊重される多くの
演出を世に残している。
風姿、音調、弁舌に優れ、立役・敵役・女方もこなす万能の役者であった。
また、父親の歌舞伎十八番にならって「新歌舞伎十八番」を制定し、
明治後半には古典歌舞伎も盛んに演じた。
かくて九代目は、明治歌舞伎の頂点にあって「劇聖」とまで謳われ、
その存在はそれ自体が歌舞伎を体現するほど神格化されたものだった。

しかし、自らの後継者となると最後まで恵まれなかった。
男子だけでも5男を儲けた父・七代目とは対照的に、九代目が授かったのは
二女のみだった。
そこで門人ながら早くから「天才」と呼ばれてその資質を見せていた五代目
市川新蔵を養子とし、これを手塩にかけて育成して成田屋のお家芸を伝えた。
新蔵もその期待に応えて芸を伸ばし、自然周囲から「いずれは十代目団十郎」
と期待されるようになっていった。

シャッターを切るたび君は咲いてゆく  野村辰秋
九代目が二人の娘に結婚を急がさず、むしろ梨園の外の知識人と自由な
恋愛を推奨するという、当時としては進歩的な考え方を持っていたのも、
この新蔵が控えていてくれたからに他ならなかった。
ところが、その新蔵が37歳で急死するという痛恨事に見舞われる。
1897年(明治30)のことである。
眼病で片目を失明、眼帯をかけながら舞台を務めていたが、
病状は快方に向かうことなく力尽きてしまったのである。
九代目の落胆ぶりは、並大抵ではなかった。

持逃げされた向日葵の首一つ  井上一筒

 
それでも宗家を守らねばならない立場から、9代目は長女の恋人市川翠扇
を後継者にしようと考えた。
歌舞伎・芸能とは、まるで無縁の日本通商銀行に勤める稲延福三郎という
サラリーマンである。
日本橋の商家に生れ、慶應義塾に学びエリートだったが、父は地元の名士で
陽性な性格で育ちの良さが感じられた。
しかもなかなかの勉強家で書画の素養もあり、話題に豊富な文化人だった。
そしてなによりも、長女の伴侶としては、文句の付けようがない夫だった。
やがて稲延福三郎が堀越福三郎として市川宗家に婿養子に入った。
しかしその2年後、九代目は継者の件についてはなんら手を打つことなく、
静かにこの世を去ってしまう。

大きくはないが手応えある器  磯部義雄
その後、市川一門の猛反対を押し切って29歳にして彼は役者を志し、
上方や旅芝居で修行。初代・中村鴈治郎に弟子入りし林長平と名乗り、
大歌舞伎の舞台にも立つようになる。
1917年(大正6)11月、五代目・市川三升を襲名。
かりそめにも市川宗家を継ぐ者である。
それ相応の重みがある名跡が求められたが、
「累代相伝の由緒ある名跡を、にわか仕立ての素人役者に襲名させる」
のもどうかということで、過去にこの「三升」を俳号に用いたことのある
四人の団十郎に、初代から四代目を振って、当代は五代目ということに
したのである。

新しい家族の箸を選っている  杉本克子



  10代目団十郎
銀行員から転職して歌舞伎役者となった経緯から、口跡が特異で芸も堅く、
大向うからは「銀行員!」と掛け声がかかるほどで、大成はしなかった。
だが、その演目や舞台上の役者としての評価とはまた別に、勉強家で社会
経験も積んできた三升の人間性はよく、なおかつ書画・骨董・俳句・音曲
古典など、幅広く深い教養を持つ当時の歌舞伎界では、有数のインテリで
あり、歌舞伎の枠を超えて、様々な文化人や政財界人との交友関係を持つ
人物でもあり、粋人として、役者仲間内でも一目置かれる存在になった。
また団十郎不在の市川宗家にあって、その代つなぎとしての自覚は強く、
その半生を意欲的な舞台活動と研究に費やし、同時に市川宗家の家格を
守り抜くことに努力した。

この様な形で三升が江戸歌舞伎の世界に残した功績は大きいものだった。
たとえば、江戸歌舞伎の伝統を支え守り続けることが出来たのも、
江戸歌舞伎とは対照的に、関西歌舞伎が確たる後ろ盾も得られないまま
内部崩壊して長きにわたる凋落に陥ったことを考えれば、
十代目の努力と残した功績が見えてくる。

苦労したことを語らぬ太い指  鈴木栄子



8代目・13代目 団十郎「助六」対決

九代目の死から59年後の昭和37年、七代目・松本幸四郎の長男で
市川宗家に養子に入っていた九代目・海老蔵十一代目・団十郎を襲名。
ここに団十郎の大名跡が復活する。
が、十一代目は襲名後わずか3年で癌に倒れてしまう。
その長男・十代目・海老蔵十二代目・市川団十郎を襲名したのは、
それからさらに20年を経た昭和60年のことだった。 

そこから28年、十二代目は2013年2月3日に66歳で病没。
そして7年の空白期間を経て、平成の幕に合わせるように2020年5月
十一代目・海老蔵十三代目を継ぎ、市川団十郎の名跡をつないでゆく。
よろこびも哀しみも持つ黒い服  ふじのひろし
「詠史川柳」


   吉備真備
≪吉備真備≫

大勢でいじめる上へ蜘蛛が下り
吉備真備が遣唐使として唐に渡ると、唐人たちが「野馬台の詩」という
難解な詩から「これが読めるか」と問題をだされ苛められた逸話がある。
真備は全く読めず、住吉大明神、長谷寺観音に祈ると、天上から蜘蛛が
下りてきて、蜘蛛が糸を引きながら歩く通りに読むと、見事に読めた。
東海と言うと大王ぎょっとする
真備が「東海…」と詠み始めると、大王は「えつ、読めるの」と驚いた。
それにしても、蜘蛛が下りてきた時、これが神仏のお蔭だとすぐに分か
ってよかった。蜘蛛が嫌いでなくてよかった。
おれならば蜘蛛をつまんで捨てるとこ
蜘蛛嫌いならばさっぱり読めぬなり

おみそれをしましたと天丼の海老  谷口 義


≪玄昉≫

遣唐使節として帰国した吉備真備玄昉は、すぐに高官にとりたてられた。
そこで二人は権勢を誇っている藤原不比等の子・藤原四兄弟(武智麻呂、
房先、宇合、麻呂)の反対派の橘諸兄(もろえ)に加担した。
2人の助力を得た諸兄は急速に勢力を拡大し、いよいよ武力で決着かと
思われた時に、四兄弟が天然痘で相次いで死んだため、無傷で政権を獲得。
腰元に母屋取られし飛鳥川
橘諸兄の母は命婦(腰元・女官)の橘三千代
三千代は天武天皇から六代に仕えた腰元で、はじめ美努王に嫁して諸兄を
生み、のちに不比等の第四夫人になり光明皇后を生んだ。
こうした後ろ盾もあり真備と玄昉は、諸兄の側近として威をほしいままに。
特に宮廷僧の玄昉は絶大な権勢をふるった。
当時の宮廷僧は医者も兼ね、玄昉は更年期障害で苦しむ宮子皇太夫人
聖武天皇の生母)と光明皇后を究極の秘術を駆使して治した。
皇后はご褒美として玄昉を愛人の座に据えた。
それをいいことに玄昉はますます増長。彼の思うままに操られた皇后は、
玄昉の頼みなら何でも二つ返事で、奈良の大仏も玄昉に頼まれたものという。
大仏ももと色ごとで出来拾う
気の多い皇后が次にハンサムな藤原仲麻呂を愛人にする。
仲麻呂が勢力を持つと、玄昉は筑紫に左遷され、まもなく死去する。
その5年後の752年に「大仏開眼供養式」が行われた。
 
軽口にちょっと流れた目玉焼き  合田瑠美子

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