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川柳的逍遥 人の世の一家言
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足音になってあなたに付きまとう  井上一筒


  島津久光

「西郷どん」 西郷と久光

西郷が奄美大島に配流されている頃、幕府は二つの問題を抱えていた。

一つはペリーにどう対応するかということであり、

もう一つは次の将軍を
誰にするかということであった。

当時の老中・阿部正弘はこれを、国民への情報公開と国民の国政参加

によって乗り切ろうとした。

これに対し保守的な井伊直弼はこれを嘲笑い、同時に怒った。

「日本国政は、幕府主導によって民はよらしむべし。

この方針によっ二百
数十年を送ってきた。阿部はこれを覆した。

しかしいきなり国民に情報を与
えても猫に小判だ。 

国民の方が却って混乱する。

こういうことは時間をかけなければ駄目なのだ。


幕府や藩が、国民や藩民が信頼できる政治を行っていれば、国民は食うの

に忙しいのだから余計な情報を欲しがるはずがない。阿部はバカだ」

と言っていた。安政4年(1857)6月、その阿部が死んだ。

あの煙り過去のエラーを焼いている  森井克子

そして、井伊が大老として幕府の中枢を担うことになる。

大老とは井伊が
老中の上位の役職として、独断で決めたものである。

同時に井伊は阿部
の政策を全部ひっくり返した。

中でも特に彼は次の将軍に一橋慶喜
擁立しようとしたグループを憎んだ。

また、市井にあって妄説を唱え国民
を惑わす学者や思想家を憎んだ。

これらの層に厳罰を与えた。
安政の大獄である。

だがこうした強権の先には、必ず反動がある。


阿部の死から3年後の冬、井伊は桜田門外において、白昼にもかかわらず

脱藩した水戸の藩士によって、暗殺される。


この事態により幕府の威信は失墜し、これを契機に各地で尊皇攘夷の

活動が火をふくことになった。

梅干しの皮を爪楊枝で破る  くんじろう

井伊がいなくなった幕府に対し、薩摩を含む外様大名は、

かねてからの
悲願であった幕政進出を狙いはじめる。

同時にこうした時代のうねりに合わせ、西郷待望論が膨れ上がる。

薩摩藩では斉彬の弟・久光が国父として、藩内部での影響力を強め、

「兄斉彬が死んで出来なかった大望を自分が実現したい」と考えた。

斉彬の大望というのは、幕閣に入って国政に参加することだ。

久光は大久保一蔵をブレーンにして、その方策を考えた。

現在は無位無官の立場の久光に、大久保が与えた知恵は、

「朝廷を
活用する」ということだった。幕府に対し勅使を派遣し、

その護衛として
久光が薩摩軍を率いていけば、徳川幕府も勅使に対しては、

いい加減な
扱いはできないというのが、大久保の考えだった。

背開きの方があの世で顔が利く  板垣孝志

久光はこれを採用した。しかし忠実な部下がいない。

結局は今西郷を待望している若い藩士たちを味方にしなければならない。

久光は不本意ではあったが、西郷を大島から呼び戻すことにした。

召還を受けた西郷は妻・愛加那の生活が立つようにして、鹿児島へ戻った。

生きていることが幕府に発覚しないよう大島三右衛門
と改名し、

久光との面会を果たす。久光は、西郷に自分の考えを話した。


ほころびの跡が勲章めいてくる  斉藤和子

久光の野望に西郷はこう応じた。

「先代の斉彬様は諸侯にも名を知られた存在でしたが、御前は違います。

斉彬様なら今のお話が成功したでしょう。しかし御前には斉彬様ほど

の才能も器量ももっておられない。その上、無位無官で薩摩から出たこ

ともないジゴロ(田舎者)の御前では、相手にされるはずありません。

到底無理でしょう」 

と、ズバリ言い切った。周りがはらはらした。


しかし久光はこの屈辱に耐えた。

野望達成のためには、どうしても西郷が必要だったからである。

プチプチをつぶして無我になる時間  合田瑠美子

そこで久光は、「おまえを供にするが、先に馬関(下関)まで行け。

そして上方の情報を集めよ。間違っても、それから先へ行ってはならない。

必ずわしを待つのだ」と厳命した。

西郷はこの命令に従って馬関に行った。


しかし馬関で得た情報は、生易しいものではなかった。

それは久光が
上洛するというので、京都や大坂に集まった志士たちを勘違い

させることになった。


「久光公が討幕の軍を起こして上洛され、やがて江戸へ向う」

というものだった。西郷は驚いた。そして

「こんな誤解はどうしても解かなければならん」

「それには馬関に居るわけにはいかない」と言い、急遽大坂に向った。

蟷螂の左のカマの軋み癖  くんじろう  

遅れて馬関についた久光は、カンカンになって怒った。

「おのれ西郷め、あくまでわしに楯突く気か!」

と怒鳴りまくったという。そして西郷捕縛命令を出した。

大久保は久光に願い出て西郷の後を追った。

そして西郷の様子を探って兵庫に達していた久光に報告しようとしたが

怒りがおさまらぬ久光は、大久保との面会まで拒否してしまう。

途方に暮れていた大久保のところに、ひょっこり西郷が訪ねてきた。

思いつめていた大久保は、そこで

「これまでの苦労と努力が無になってしまい、今となってはおはんと

刺し違えてお詫びするしかない」と告白した。

西郷は、

「おはんがおらんと我が藩は成り立たぬ、おいは心静かに縛につくから

早まってはならぬ。思いとどまれ」

と逆に大久保を激励した。

修復不可能過去帳の綻び  雨森茂喜

【付録】 西郷と久光の関係をより複雑にした男

久光の側近に、「久光四天王」といわれる中の1人に中山中左衛門がいる。

西郷と久光の関係が急激に悪化した陰には、その中山という人物の

存在がある。中山は小松帯刀や大久保一蔵や堀次郎らとともに久光の

信任を受けていたが、忠義一途の
この人物が西郷を必要以上に悪く久光

に告げたことで、久光の悪意が
より強くなったといわれている。

西郷が沖永良部島という辺境に流された
裏にも中山の影響があったと

いわれている。また大久保利通暗殺にも加わった一味ともいわれる。


道ばたの小石きき耳たてている  三村一子

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一つだけ違う色した影がある  みつ木もも花

「西郷どん」  エピソード

(拡大してご覧ください)

西郷と二匹の犬


白い方を「雪」、黒い方を「攘夷家」という。
攘夷家は川辺郷の中条良正に贈られた犬で、
洋服の人を見かけるとよく吠えたことからそう名付けられた。


「西郷のあれやこれ」「うんざりした」

明治維新とは、薩長の書生による革命というべきものであった。
                     きび
木戸孝允など第一級の書生はともかく、その「驥尾に付していた連中」

中で思わぬ身分を得て、心の平衡を失うものも出た。

それらが馬車に乗り、洋服を着、官員風を吹かせて四民の上に君臨する

さまは、旧幕府の旗本の比ではなかった。

福沢諭吉はそういう連中に対して、「人面獣心」と吐きすてた。

※ 驥尾に付す=優れた人物の後につき従っていれば、自分の能力以上の
   ことが成し遂げられること。

芯がない鉛筆けずるまた今日も  杉山ひさゆき


歴史散歩偉人たちの末裔は今
で初公開された西郷の肖像画


しかし西郷は、そういう官員たちとは違っていた。

彼は東京に在るとき、日本橋小網町の古屋敷に下僕と共に住み、

雲水のように男所帯でひっそり暮らし、出入りは徒歩だった。

このため近所の人々も、彼が誰とも知らず、まして参議・陸軍大将である

とは気づいていなかった。

そんな西郷が、うつ病患者のような時期がある。


明治6年11月、新政府の人間や政治にうんざりした西郷は、

俄かに参議の職を辞め、単身故郷に帰ってしまう。


その時の詩に「脱出ス、人間虎狼ノ群」という激しい句があり、福沢のいう

人間獣心とよく照応している。

そしてそんな西郷を癒し、西郷が唯一心を許したのが「犬」であった。

雲として暮らす一身上の都合  月波与生


犬を連れ西郷の軍服姿(床次正精画)

「西郷のあれやこれ」 犬好きだった

上野の西郷像は犬を散歩させている珍しい銅像で、モデルになったのは、

「ツン」という名のメス犬だった。

西郷は大変な愛犬家で、20頭ばかりの犬
を飼っていたという。

京都霊山歴史館にある西郷の肖像画には愛犬の「ユキ」
「ゴジャ」

描かれている。


ユキは真っ白だったことからそう名付けられた。

ゴジャは明治6年頃、飼い始めた鹿児島川辺産の猟犬で黒の斑があった。

洋服を着た人間によく吠えたことから、西郷が「攘夷家」という愛称を

つけて
可愛がっていたという。

筋書きのない一日が暮れていく  合田瑠美子



私欲のなかった西郷も犬だけは例外で、鰻を食べさせ店の人を怒らせたり、

肉を与えすぎて猟犬を肥満体にしてしまったこともあるらしい。

また西南戦争末期には、愛犬との別れを惜しんで、

男泣きしたという話も残っている。

西郷は愛犬「寅」を京都祇園の料亭にも連れて行っている。

木戸孝允、山形有朋、伊藤博文、は若い芸者を呼んで、

夜更けまで騒いでいたが西郷だけは、昼間に「寅」と一緒にやってきて、

一緒に鰻を食べてすぐに帰ったという。

祇園の芸妓君竜は「ほんまに粋の中の粋を知ったお方」と評している。

また明治政府に出仕した時に「西郷が妾を2人抱えた」という噂が流れた。

そこで真相を確かめようと若い軍人が訪ねたところ「2人抱えたよ」

西郷は何を隠すこともなく、
連れてきたのは、2匹の猟犬で両方とも、

メスだったという。


乗らぬブランコ押している揺らしてる  徳山泰子

「西郷のあれやこれ」 甘党だった。

西郷は愛煙家だった。

故郷鹿児島県国分の煙草を愛し、刻みタバコと
キセルを常に携帯していた。

西郷所有の煙草入れが現存している。

                      ありすがわみやたるひと
これは鳥羽伏見の戦いの戦功により、東征大総督・有栖川宮熾仁親王より

賜ったものである。

しかし西郷は甘党だったから、酒はほとんど飲まなかった。

ただ桜田門の変の一周忌には、
朝から黒糖焼酎を飲んで酔っ払ったという

話が残っている。


西南戦争の時に白金酒造の焼酎を大量に買ったという話もある。

これは飲むためではなく、負傷した兵の傷を消毒するためであった。

 なんでやろ飲めば宿無し犬になる  新家完司



「西郷のあれやこれ」 お洒落について。

西郷はオシャレには、まるで頓着しないイメージがあるが、

女性の調度品、特に、櫛・簪
にはかなりの鑑識眼を持っていた。

これは篤姫が将軍・家定に輿入れす
る際の調度品を調達したからである。

また青竹を熱したもので髪の毛を巻いて、パーマをかけていたこともある。

そんな西郷であったが、戊辰戦争の途中で鹿児島に帰った時は、

丸坊主に
していた。

当時西郷はのぼせ症だったので、髪の毛を剃っていたのである。


そして、意外に近代的な懐中時計を持っていた。

これは英国のロンジン社製で薩摩藩主の
島津忠義から贈られたという。

しかし服装は、明治政府に出仕していた時にも、

木綿の着物に小倉袴という
質素な身なりだったという。
                                            かすり
鹿児島に帰ってからは、肥満のために暑がり
だったようで木綿藍染の絣や、

自宅では、裾の短い単衣で寛いでいたらしい。


戸締りはしない家にもこころにも  阪本こみち

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白鯨になるまで白を着続ける  くんじろう


   愛 加 那

「西郷どん」-⑦ 別れの歌

奄美大島に蟄居を命じられた西郷の暮らしは、空家を借り、自炊し、

静穏な生活を
していたかと思えば、ひっきりなしに慰問者が訪れていた。

大久保正道、吉井友実、有村俊斎、堀仲左衛門らからの書簡や慰問品が何度も

送られ、斉彬の遺志を忘れない西郷も、返書を出して情報収集に努めていた。
                          あんご
そしてここで2番目の妻である愛加那を島妻とした。

島妻は、現地妻のことで藩の定めた法律で鹿児島には連れて帰れない。

正道の父である利世も2階にわたる沖永良部島での在任中、島妻との間に

2女をもうけ、藩法により3人を残して鹿児島に戻ったと言われている。


便座から国防省を取りしきる  井上一筒

西郷は斉彬の死の心痛もあり、島に来てしばらくは孤独に苦しんだ。

薩摩の家のことも心配だった。

やがて西郷は、島の子供3人の教育を任され、徐々に島とも馴染んでいく。

そんな中で愛加那を娶り、万延元年(1860)菊次郎という男児が生まれた。

しかし時代は、西郷をこの島にとどめておかなかった。

菊次郎が生まれた翌年、薩摩藩からの召喚命令によって、

大島を離れることに
なるのである。

この時、愛加那は2人目の子を身ごもっていた。

トンネルの中で生まれる数え歌  小林満寿夫

少し薩摩の話に触れる。

西郷が大島に配流されている間、江戸で大事件が起きる。

安政7年(1860)3月3日、江戸城桜田門外で大老・井伊直弼が殺害され。

その首級を上げたのは、西郷の同志である有村次左衛門だった。

当時大久保ら若手藩士が結成した精忠組は、藩内で勢力を拡大させていた。

直弼が暗殺され流動的なこの時を、
好機とみた精忠組リーダーの大久保は、

藩主・島津茂久の父で国父として藩の
実験を握る久光に西郷帰参を願い出る。

月はいま指鉄砲の射程距離  河村啓子

一方、久光の方もまた斉彬の遺志を継いで幕政進出を志しており、

上京して政治工作を
展開しようと考えていた。

ならば、江戸や京都で政治工作を進める際には、斉彬の信任を受けて

政治
活動を展開し、他藩からも一目おかれる存在だった西郷の存在は

不可欠と
久光は思っていた。

大久保の説得に久光は同意した。

そして文久2年(1862)2月12日、西郷は
鹿児島に戻ることになる。

雨上がる電池交換しなければ  山本昌乃


   大島の孤猫

「加那」とは島の言葉で「恋人」という意味だが、こうして愛加那は、

「行きゅんにゃ加那節」
という鼻歌のような情景に直面することになる。

そして西郷が島を離れるとき、どこからともなく、悲しい別れの歌である

『行きゅんにゃ加那節』が大島全体に流れた。

歌詞は、いろいろあり、例えばこのようなものが流れたのだろう。

忍の字をなぞり泡立つものを消す  笠嶋恵美子
              わ
行きゅんにゃ加那 吾きゃこと忘れて 行きゅんにゃ加那
う  た
打っ発ちゃ 打っ発ちゃが 行き苦しや  ソラ 行き苦しや
あんま じゅう
阿母と慈父 長生きしんしょれ 阿母と慈父 
ほ                   はたら み
育でぃりば 働し 召しょらしゅんど  ソラ 召しょらしゅんど

            むねめ かんげ
阿母と慈父 物憂や考えんしょんな 阿母と慈父
くむとぅ   まむ
米取てぃ 豆取てぃ 召しょらしゅんど  ソラ 召しょらしゅんど
                        ゆるゆ
目ぬ覚めて  夜や夜ながと 目ぬ覚めて
な             う                ねい
汝きゃ事 思めばや 眠ぶららぬ  ソラ 眠ぶららぬ

な      とぅいくわ     たちがみうき
鳴きゅん鳥小  立神沖なんて 鳴きゅん鳥小
わ                                      まぶり
吾きゃ加那 やくめが 生き魂   ソラ 生き魂

「訳」
行ってしまうのですか 愛しい人
私の事を忘れていってしまうのですか 愛しい人
発とう発とうとして 行きづらいのです

お母さん、お父さん 長生きしてください
大人になったら働いて面倒見ますから
お母さん、お父さん  物思いして考えないでください
豆を取って、米を取って 食べさせてあげますから

目が醒めて 夜中中目が醒めて  あなたの事を思って眠れません
鳴いている鳥は 立神の沖の方で鳴いている鳥は
私の愛しい人の生霊にちがいない

ページ繰る度に涙の句読点  瀬川瑞紀

「愛加那の子供たちのその後」

大島で西郷と愛加那との間に生まれた、2人の子はその後どうなったのか。

西郷の大島での名前「菊池源吾」から菊の字をとり、菊次郎と菊草と命名。

菊次郎は鹿児島の西郷本家に引き取られ、明治5年、13歳のとき、北海道

開拓使が派遣する留学生の1人としてアメリカに留学。帰国後、西南戦争に

参加して政府軍と戦ったが、延岡・和田越の戦いで右足に銃弾を受けて膝下

を切断、政府軍に投降した。西南戦争後は外務省に入り、のちに京都市長を

務め、琵琶湖疎水事業に尽力している。菊草(菊子)も西郷家に引き取られ、

西郷の従弟である大山巌の弟・大山誠之助に嫁いでいる。

荒波という必然に抗わぬ  徳山泰子

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ひとときを大事に砂がおちてゆく  神田良子


 奄美の西郷像

「西郷どんー⑦」 愛加那と西郷

愛加那は、西郷の身柄を預かった奄美の名門・龍一族の娘で、

はじめ2人は、
風習の違いや西郷の奇傑ぶりからなかなか馴染めない。

愛加那にとって西郷は、「大きな目に怖いほどの力がある」恐い人だった。

しかしその印象は、西郷が薩摩藩の奄美に対する過酷なまでの生産管理、

いわゆる「黒糖地獄」を改善しようとしたことから急速に変わってくる。

そして子供も生まれた。

菊次郎である。菊は西郷の仮の名・菊池源吾の菊からとった名である。


できたての輪郭十六夜が撫でる  森田律子

「おいはな、こん島に骨を埋めても、よかち思う」

あるとき西郷は、愛加那にこう語りかける。

「おいは日本ちゅう国を、変えたいと思っておった。

江戸や上方で、先のさまの手足になって働きたかった」

先の上さまとは、島津斉彬のことである。

「じゃが上さまが急逝して自分の役割は終わったと思い、死のうとした。

そいでん死にきれんで、この島に流されっきた。こいも何かの縁じゃ。

おいは、こん島の人々が黒糖の地獄から抜け出せるよう、力を尽くしたい。

おいに出来なければ、菊次郎や島の子供たちに教えて、

次の世代に託そうち思う。それがおいに与えられた役目じゃ」

砂糖ふたつ魔法が解けませぬように  山本昌乃

西郷は国事を一時も忘れたことはなかったが、愛加那との間に子供が

できたことから、島のことを考える心の余裕ができたのである。

西郷の手紙の一文にも「とんと島人になりきる」とある。

大島はもともと琉球王国が統治していたが、琉球が島津氏に征服され

薩摩藩の植民地となった。それまでのんびりと暮らしていた島民は、

過酷な薩摩藩の支配を受けることになる。

強制的に砂糖キビを栽培させられ容赦なく搾取された。

その過酷さは
本土の農民の比ではなかった。
                                   やんちゅ
ほとんどの農民が極端な貧窮に苦しみ、
身売りされて「家人」と呼ばれる

奴隷状態になる者も多かった。


奄美大島の各村では少ない所で人口の2割、多い所で4割が家人であった。

ため息がプチッと糸を切りました  鈴木かこ

農政の下級役人として、薩摩の農民の困窮を目の当たりにしてきた

西郷で
さえ、この状態には目を覆った。

大島に到着した当初から藩の苛政に気付き、胸を痛めていたこともあり、

すっかり島民となった今では、黙っておくことができなくなっていた。

そして、西郷はたびたび悪徳役人と対峙することになる。

相良角兵衛という代官は、着任時に功績をあげようと砂糖の徴収を一段と

厳しくし、納められない者をいかなる正当な理由があっても砂糖を

隠していると決め込み、代官所にひったてて拷問を加えた。


沢山の農民が拷問されているのを知った西郷は憤り、代官所に乗り込んだ。

ギリギリと奥歯3分後に発火  居谷真理子

はじめは穏やかにこれ以上の砂糖の取立ては無理なことや、

農民は決して
砂糖を隠していないと説明したが、相良は聞く耳を持たない。

相良相手では、話は前に進まないと思った西郷は、相良の上司にあたる

見聞役の木場伝内を訪ね、
ことの次第を訴えた。

こうして相良を追い詰めて、農民の釈放を成功させた。

西郷はこれ以外にも理不尽な役人を糾弾し沢山の農民を救ったという。

のちに鹿児島に帰った西郷は、大島の惨状を伝え、島の代官や役人に

適正
な人物を選ぶこと、島民が生産した砂糖に余分が出た場合には、

米と交換
できるようにするなどを至急に改善するように訴えた。

時々は砂を咬むから潤滑油  行兵衛


住民の食糧は、段々畑にもできない場所に植えた蘇鉄 。
ブラタモリでタモリが奄美を訪れている。

【智恵袋】 黒糖地獄

大島は島津家久の支配下にあり、かつて年貢は米を取り立てられていた。

しかし、大島の土の質が米に向いていなかったため、代わりに薩摩藩は、

「砂糖キビ」を作らせた。その取り立ては厳しく、

島民が指についた黒糖
を舐めただけでもムチで叩かれたと言う。


やがて大島中の平地はすべて砂糖黍畑となった。

年貢を納めるため島民は通常作らないような急な斜面にも砂糖黍を植えた。

島津家久の圧政により島民は「黒糖地獄」と呼んでいた。

 砂糖キビのために、自分たちの食料を作る畑さえもらえなかった島民は、

強い潮風が吹き付けるため、段々畑が作れなかった山に蘇鉄を6万本の

蘇鉄を植え、その実を食べることで飢えをしのいだという。

蘇鉄の実には毒があり、そのままでは食べることは出来ない。

そこで、蘇鉄の実や幹を細かく砕き、発酵させた後水晒と天日干しを

繰り
返して毒抜きをしていたという。


蟷螂の左のカマの軋み癖  くんじろう

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暗視スコープ自画像を描き終える  井上一筒



 西郷上陸の記念碑

安政6年1月12日に西郷を乗せた船は竜郷湾阿丹崎に到着した。

「西郷どんー⑤」 流罪人・西郷  

西郷月照はお互い固く抱き合い、冷たい真冬の錦江湾に飛び込んだ。

平野らが急いで引き上げたが、すでに月照は絶命し、西郷は虫の息だった。

懸命な看病によって3日目にようやく西郷は意識を取り戻す。

心身の疲労から1ヶ月ほど静養させた後、藩庁は西郷の処分を決めた。

幕府に死亡届を出し、

菊池源吾と変名させて奄美大島に蟄居させることに
したのである。

横たわる町のかたちのまま沈む  木村健一

入水は藩命に逆らう行為であった。

しかし前藩主から絶大な信任を受け、藩内外の有能な人物と交流を持って

いた西郷を厳罰に処すわけにはいかないということで穏やかな処分で済ん

だのである。

大島行きも流罪ではなく、年6石の扶持米が支給されることになった。

それでも西郷は、いたたまれない気持ちでいっぱいだった。

斉彬公のあとを追って殉死しようとしていた自分を、思い留まらせて

くれた
命の恩人に惨めな死に方をさせ、自分一人生き残ってしまった。

しかも武士である自分が切腹でなく、女のように入水自殺をはかり、

死に切れなかったからである。

やせたねと言われ老けたなと思う  阪本こみち


 西郷の舟を繋いだ松

安政5年(1858)12月14日、西郷は大島に向けて鹿児島を出発した。

しかし風向きが悪かったため山川港付近に滞在して年を越し、

1月上旬にようやく出帆できた。
たつごうわんあだんざき
竜郷湾阿丹崎に到着したのは、年が明け1月12日であった。
     りゅうさたみ
ひとまず龍左民の屋敷の離れに身をよせたが、左民は大島で最初に郷士格に

取り立てられた人物で、家内奴隷が70人以上いる屈指の豪族
だった。

西郷は丁重に扱われ、家内奴隷の少女1人が召使としたつけられた。


しかし西郷はここでの生活が肌に合わず、数日で美玉新行という百姓の

空き家を借りて自炊生活を始めることにした。

脳味噌の酷使 お腹が空いてきた  安土理恵

鹿児島からやってきた巨漢の西郷は、島民にとってヤマトンチュ(大和人)

であり、気味悪がられた。

しかも流罪人のように思われ無言で覗き見される
のが苦痛でしかなかった。

つい半年前まで藩主の腹心となって恩遇を受け、
諸般の英傑と交わり、

幕府を改革するために力を尽くし、近衛忠煕の知遇
を受けていた自分が、

今はこのような離島で埋もれていることに不満と苛立
ちを感じていた。

一幕の劇の終わりに見る夜景  中野六助


  西郷の大島の借家

西郷は島から大久保正助に手紙を書いている。

「毎日毎日雨ばかりのひどい状態で気が滅入ってしまう。

垢で化粧をして、手に入れ墨をしている島の娘たちは美しく、京や大坂の

女たちも適わない。あらよっと一丁あがり。諦め、ふざけて言っている様子)

島民が野蛮人で困っている。島民が物陰から覗くのが不愉快である。

しかし藩の行う大島支配は悲惨なもので、心苦しい。

北海道松前藩による
アイヌ民族に対する政策よりもひどい。

これほど酷いと思ってなかったので
驚いている」

西郷は、島民の野蛮さを軽蔑する反面、藩の虐政に苦しむ島民の貧しい

生活にも目を向けている様子が伺える。

そして同情し憤った。藩の苛政が許せなかった。

大島での生活に苛立ち、鬱屈したいた西郷であったが、

同情心から徐々に
島民と意志の疎通をはかるようになる。

くるりんと一筆 平熱になった  和田洋子
                                  しげのやすつぐ
大島での生活にすっかり気が滅入っていた頃、友人の重野安繹が突然

訪ねてきた。
       しょうへいこう
重野は江戸の昌平黌で7年間学び、そこの舎長にまでなった
人物で、

薩摩藩きっての秀才といわれていた。


斉彬にも重用されて側近として活躍したが、金銭トラブルから反斉彬派

役人に陥れられ、死罪になりそうだったところを、

当時庭方役だった西郷
茶道方の大山正円に助けられたことがあった。

西郷らは斉彬に事情を説明
し死罪という不当な処罰を免れ、大島に

流罪となっていたのである。


重野は三晩泊まっていき、2人は思う存分語り合った。

思い出話に更け、流人生活の先輩である重野に西郷は励まされた。

気のもんと言われてふわっと軽くなる  大海幸生


          愛 加 那

西郷は島民に嫌悪感を抱いていたが、それを払拭させたのは島の子供たち

であった。島の豪族、龍左民から頼まれて西郷は、10歳くらいの子供た

ち3人ほどに手習いを教えることになる。

はじめは「こんな子供に勉強を教えて何になるのか」と気乗りしなかった

が次第に愛情が湧いてきて可愛く思えるようになってきた。

教え子が病気になった時には、島の百姓では殆んど食べることができない

白飯のおにぎりを持って、お見舞いに行ったこともあったという。

こうして徐々に西郷は島の生活にも慣れ、島民との信頼関係も築いていく。

リバーシブルの野原を春へ裏返す  西田雅子

島民からの誤解も解け、西郷はどんどん島民と親しくなっていった。
                                 おとまがね
そうするうちに龍家の親戚、龍佐恵志の娘である於戸間金を、

西郷の嫁にしようという話が持ち上がった。
                          あんご
そして安政6年11月8日、於戸間金を島妻としたが、このときに彼女は

愛加那と名を変えた。西郷33歳、愛加那23歳であった。

西郷は愛加那を愛し、客の前でも平気で彼女の身体を触るため、

周りのものが目のやり場に困るほど、二人は大変仲がよかった。

朗報は春の小川になりました  美馬りゅうこ

「智恵袋」  島妻

薩摩藩では、役人でも流罪人でも島で妻を娶ってもよいが、島を離れる時

は別れなければならないと厳しく決められていた。島妻を本土に連れて帰

ることは絶対に許されなかった。ただし子供は連れて帰ることができた。

よって島妻はいつか夫は本土に帰り、産み育てた子は連れて行かれると覚

悟しなければならなかった。しかしそれでも島妻のなり手はたくさんいた。

ヤマトンチュの妻となれば、たとえ別れることがあっても、名誉ある地位

が残ることになる。さらに夫が男子を島に残して行ってくれた場合には、

その子は鹿児島で武士の子としての教育を受けることができ、島に帰って

来れば郷士格となって大出世を遂げることが出来たからである。

よこ糸たて糸こだわりの玉虫色  田口和代

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