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川柳的逍遥 人の世の一家言
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その昔鱗であった髭を剃る  嶋沢喜八郎




 (各画像をクリックすると拡大します)
  髪結床屋の風景




「詠史川柳」 江戸の景色ー④ 髪結床

 


江戸時代の床屋(散髪屋)のことを「髪結床」といった。
男たちは髷を結い、月代といって前頭部から頭頂部まで剃り上げていた。
だから、10日もすれば月代の毛が伸び、髷も崩れてくる。
でも自分ではうまく剃ったり、髷を結べない。
みすぼらしいのも江戸っ子の肌になじまず、そんなわけで足繁く髪結床
に通ったのである。

 

散髪をすると必ず風邪をひく  西山春日子




  江戸の高札場

 

江戸における髪結床は、家康の関東入国の時、日本橋、常盤橋、筋違橋、
浅草橋、高輪大木戸、半蔵門外の「大高札場六ケ所」近くに出店したの
が始まりで、床屋たちが、「高札の番をするから店を開かせてほしい」
と願い出たのがきっかけだった。
高札場とは、江戸時代藩や幕府のおふれ書「高札」を立てた場所で、人の
往来が多く、ニュースを求める人が集まった。
大坂でも髪結床が高札の番役をするのは同様で、火事のときには、高札
を引っこ抜いて火から守ったとう話が残る。
高札は橋のたもとに立てられるので、はじめは髪結床の出店も必然的に
橋のたもとが多かったが、やがて各町に一つ生れ、幕末の頃には二千軒
も存在した。


漬物屋の隣に渋いモノクロ屋  くんじろう

 

髪結の代金は20文程度(現在の500円程)で営業時間は夜明けから
日没後2時間まで。午前10時頃がもっとも人が多かった。
屋号が大きく描かれた油障子を開けて中へ入ると、3尺の土間があり、
その先に板の間があり、客はここに腰掛けて散髪してもらう。
この奥は畳敷きの座敷になっていた。
ここが待合所なのだが、碁盤や将棋盤読み物や春画なども置かれ、
客たちの憩いの場、社交場になっていた。

 

この人とお茶を飲んでるミステリー  上山堅坊

 



 式亭三馬 浮世床

店内をちょっと覗いてみよう。
「欠伸をしたり、居眠りをする者。女郎からの手紙をこっそり詠む者。
煙草を吸ったり、歯を磨く者。まったくくつろいでいる。
さらには、昨日の遊郭の自慢をしたり、近所の人妻を品評したり、
心中の男女について語るなど猥談も花盛りで。芝居の出来不出来、
相撲の勝負など芸能話も聞こえてくる」(寺門静軒・『江戸繁盛記』)
このように髪結床は、まさに「話のたまり場」ともいえる社交場だった。
落語では、申し合わせもなく町内の若い衆が集まって、将棋をさしたり、
ときには酒を飲んだり、冗談を言い合ってふざけたり、適当に暇を潰し
ていたところのようにいわれている。なかには「無精床屋」というのも
あって、主人が無精で、汚らしくて、またそれが愛嬌になって遊びがて
らの客がくる。
そんな髪結床の風景を、戯作者・式亭三馬『柳髪新話浮世床』という
滑稽本に著している。次のような話が載っている。


聞き役をひたすら待っている仲間  森田律子

 

漢字にこり、片田舎から江戸に出てきて、読み書きを教えている孔糞
(こうふん)先生という人、浮世床へぶらりやってきた。
孔糞先生腰を掛け、壁に貼った寄席のビラをみて。
「ははあ竹本祖太夫(ちくほんそたゆう)鶴沢蟻鳳(かくたくぎほう)
さておつなことがあるのぉ、漢には買太夫などというものもあったが、
日本には珍しい。もっとも秦の始皇帝が松に太夫の官を与えたが、
竹に祖太夫の官をやったこともおぼえず、さてまた鶴沢とおいて蟻鳳と
対をとった心は、どういう意であろうな、これ主人、あの書いたものは、
なににするのだ」

「あれは座敷浄瑠璃さ、祖太夫、蟻鳳で夕べも三百ばかりはいった」
「うむ、おれは俗事にうといから、とんど解せぬ、今昔物語(こんせ
     きぶつご)となんだ朝寝房(ちょうしんぼう)夢羅久(むらきゅう)
     うーむ林屋正蔵(りんおくせいぞう)、はてな、風流八人芸(かぜに
     ながれはつじんげい)、ははあ、これは、いわゆる季氏(きし)が八
     佾(はついつ)の類いと見えるな、この季氏も魯国の太夫だて。
     佾は舞列なり、天子は八つ、諸侯は六つ、太夫は四つ、士は二つ、
     佾するごとに人数其、佾の数のごとし」

「もしもし、それは何の数でございます」
「これは八といって舞の数だ」
   あれは、そんな難しいものじゃあございません。
      八人芸といって、一人で八人の芸をする、めくらでさあ」
「はてな盲人ですら八人の業をするに、おれらは両の目を持っていて、
      ひとりの行いが務まらぬとは、はて残念」
「それ、ふたつ」
「あの、なにはどうかな、今という字の書いてあるのは」
「む、あれは今昔物語(いまむかしもんがたり)さ、朝寝房夢羅久、
林屋正蔵、こっちのほうが円生さ、どれも上手な噺家さ」
主人が「今昔物語」を、いまむかしものがたりと読むのも、
式亭三馬の落ちにしている。


一日に何度も炎上するアタマ  木口雅裕

 

こういう漢字にこった知ったかぶりをするような人たちのことは、
中国の「笑話本」から伝わって、「江戸小咄」にもなっている。
 ① 兄弟が喧嘩をしていると、隣の漢学先生が来て
「これ亀松殿も竹次郎殿も、さてさて悪いことじゃ、
      喧嘩はせぬもの、
兄弟は左右の手のごとし、とあるではないか」
「それなら、俺たちも手に違いないか」
「知れたこと、兄は右の手、弟は左の手とあります」
「兄貴が右の手、おれは左の手かえ」
「はてくどい、それにまちがいない」
弟「兄貴は下戸だが、おれは酒が好きだ」

 

ビの尻尾か深酒の報いか  酒井かがり

 

 ② 近所に物知り顔の者あるゆえ、亭主ども集まって
「なんと、あの物知りにこのヤカンをきいてみましょう」
 とヤカンを持って行って聞くと
「これは唐人のカブトである」
「へぇ、それならこの天狗の鼻のようなところはなんでござりますか」
「それは耳じゃ」
「とんだことを言う、耳なら両方にありそうなものだ」
「されば、両方にあると寝る時に不便であろう、そ
 れゆえ片方にはつけてない」

 

生麦に転生しない生卵  川合大祐

 

 ③ 腰の曲がった隠居、杖をついてぽくぽくと出てくる。
「もし、ご隠居さま、あなたの形は、とんと、杖をついて『乃』の字の
 ようでございます」 
と言えば

「おのれ、主人に向かって不届千万」と脇差に反りを打つと
「おっと、これでは『及』という字になります」

 

髭も髪も白優勢となるオセロ    村岡義博

 


【詠史川柳】




   
千 姫

 

≪徳川家康≫

 

1603年、家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開きました。
この年、家康は亡き太閤との約束を守り、孫の千姫秀頼に嫁がせてい
るので、この時点では、豊臣氏を滅ぼす気はなかったといえ、おそらく
西国の大名として存続させるつもりだった。
ところが豊臣方は、二代将軍・秀忠が秀頼に会うためわざわざ上洛し、
再三使者を送っても大坂城から出てこず無視しました。
家康が豊臣滅ぼすべしと思ったのは、この時でしょう。
家康は太閤殿下の霊を慰めるためにと、豊臣氏に盛んに寺院の建立など
を勧めました。財力を消費させる策です。老獪な家康の策に乗り、豊臣
氏は次々に寄進していきましたが、京都方広寺に奉納した梵鐘でケチが
つきまっした。鐘の銘文に「国家安康 君臣豊楽」とあり、これは家康
を切り離し、徳川を亡き者にし、豊臣の楽を願うものと、家康がいちゃ
もんをつけてきたのです。

 

国家安全と書かぬが落ち度也
あらの出る長口上は鐘の銘

 

これに「危い」と考えた秀頼の後見人の片桐且元は、弁明のため駿府に
行き、家康に面会を求めましたが、門前払い。
そこで片桐は豊臣家存続のため、秀頼が駿府に出向き、説明するように
必死に歎願しましたが、淀君と秀頼のもう一人の後見人大野修理は承知
せず、それどころか「ならば一戦交え、決着をつける」とまで主張して、
片桐を追放してしまいました。

 

卵焼きの匂いがする始発駅  神乃宇乃子

 

猿の子を犬が補佐する潰れ前
女賢しうして六文をただ遣い


猿の子は秀頼。犬は大野。六文は真田幸村。
追われた片桐は、居城の茨木に籠り。

 

蟄居してそうめんばかり食っている
片桐のためには茶々の局也




そうめんは茨木の名産。
その後、片桐は冬の陣で徳川方に参陣している。
茶々は優秀で真面目な部下を失い、軽率なことをしたと茶化される。

 

「そのはずじゃない」と言う間に堀を埋め
寅二体世に争いは止みし頃


大阪冬の陣。家康は大阪城を目掛けて大砲を打ち込んだものの、
大きな堀にはばまれて城まで届かず、家康は自分から和議を申し入れ、
条件に外堀を埋める約束をとりつけました。
 埋め立てられては、天下の堅城も丸裸。
家康は約束を反故にして、再度大阪城を攻撃します、夏の陣です。
城はひとたまりもなく焼け落ちてしまいました。
こんなこともあったおかげで、争いのない世の中になったいうのです。

 

裏切らぬ表舞台のピース缶  中村幸彦

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天国か地獄か流されてみよう  中岡千代美

 


「詠史川柳」 江戸の景色-③-3 妓楼潜入

 

(拡大してご覧ください)
葛飾北斎の三女・応為が描いた「吉原張見世」の図



妓楼には通りに面して、格子張りの座敷があり、これを張見世という。
張見世に居並んだ遊女を格子越しにながめて、男は相手を決めた。
電気がない当時、夜は暗かった。そんな「暗」と、大行灯で照らされた
張見世の「明」の対比をリアルに描いている応為の絵である。
張見世の遊女は、男の目に妖艶に映ったことだろう。
妓楼の中で、張見世は最も華やかな場所であり、遊女にとっては晴れ舞
台でもあった。
柱に取り付けられた掛行灯には、「いづみ屋」「千客万来」とある。
いづみ屋と染め抜かれた暖簾のかかっているところが入口で、入口を
入ると土間になっている。

 

僕の傘に入りませんかプロローグ  新川弘子

 

客は顔見世で相手を決めると、入口にいる若い者にこう伝えればよい。
「左から三番目の、煙草を持った…」若い者は遊女を確かめ、
「へい、新造の若柳さんですね。どうぞ、お上がりを」と客を案内する。
初会の場合、客と遊女はまず二階の引付座敷で対面する。
その後宴席になることもあれば、そのまま床入りになることもあった。
それは客の希望次第である。
揚代(料金)は、若い者が部屋に取りに来た時に払う。
二回目以降は、入口の若い者に登楼を告げればよい。
なお、同一妓楼で初回時とは別の遊女を指名することはできない決まり
があり、相手を変えたい時は、別な妓楼に行くしかない。

 

青や角かなぐり捨てて君の前  酒井かがり 




  吉原なまず   

 

吉原の遊女と聞くと太夫を連想しがちになるが、最高位の太夫の称号は
宝暦年間(1751~1764)に廃止され、それ以降は上級遊女を「花魁」、
下級遊女を「新造」と大別した。
花魁は敬称であり、客も奉公人も「花魁」と呼びかけた。
(花魁の中にも階級があり、最高位を呼出し昼三、次に昼三、座敷待、
部屋待と続く)
花魁ともなると、美貌と様々な芸のみならず、教養も身
につけていた。この教養があったればこそ、上級武士や豪商、文人など
の上客も虜にできたのである。

 

うぬぼれのしっかり滲むご謙遜  美馬りゅうこ

 

妓楼は上客をつかまえるため、これはと見込んだ遊女に教育を与える。
読み書きはもちろん、その教育は和歌、書道、琴、活け花、茶道、囲碁
にまで及んだ。花魁の教育度は、当時の江戸城の大奥や大名屋敷の奥に
務める奥女中に匹敵するものだった。花魁と奥女中の類似は、ほかにも
ある。それは「衣」の贅沢さだ。当時、庶民が着物を買うのはもっぱら
古着屋だった。呉服屋で反物を買い、着物を新調するのはごく限られた
男女である。そんな中、呉服屋にとって、二大得意先が奥女中と吉原の
花魁だった。花魁の衣装がいかに豪華だったかがわかる。

 

ピカピカのブランド着た日は疲れます 梅谷邦子        

 

芝居と並んで吉原は流行の発信地だったが、浮世絵などに描かれた花魁
の髪型や着物の柄に、江戸の女は身分を問わず、憧れたのである。
人々のあいだに、吉原の遊女に対する蔑視はなかった。
まして花魁ともなると、男も女も憧れの対象だった。


   
ポリ袋にシーラカンスのエラのカス  山口ろっぱ


 

【吉原豆知識】

「遊女の格」
妓楼の格でも値段は変動した。
酒や料理は別料金だし、遊女本人や奉公人への祝儀も必要だった。
実際遊ぶとなると表示価格の数倍になることが多かったという。
実際どれくらいの費用がかかったのか。上級遊女を指名した場合。
公定の揚代、酒席での芸者や幇間の値。豪華な料理代金。新造や奉公人、
若い者らへの祝儀など現在の価格で一晩で10両ほどかかる。
吉原で豪遊した豪商に、紀ノ国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門が有名だ。
(現在の価値で一両は10万円)

 

今日もまたラッパを吹いて彼が来る  吉田信哉

 




「楼主」
楼主は妓楼の経営者である。
大見世では、遊女や奉公人を合せて百人近くおり、多くの客も訪れる。
経営と管理の能力がなければ、楼主はやっていけない。
ただし、遊女に売春を強いる商売だけに、非情さも兼備えていなければ
ならなかった。
 妓楼の一階には、入口や階段を見通せる、内所と呼ばれる場所があり、
この内所に座して、楼主は常に奉公人や客の動きに目を配っていた。
楼主一家の生活空間は一階の奥まったところにある。

 

首までにしとく情けに沈むのは  清水すみれ

 

「従業員」
妓楼の従業員の上位は、なんといっても「遊女」である。
遊女がいるからこそ妓楼、そして吉原はなりたっている。
遊女に次ぐのが、女の従業員で、「芸者」もいれば、お針と呼ばれる
「裁縫女」さらに「女中や下女」もいた。
最下位が、「若い者」と称される男の従業員である。
年齢にかかわらず若い者と呼ばれ、種々雑多な仕事に従事した。


蛸は十字に風は沖から吹いてくる  桑原伸吉



 

「宴会」
妓楼の二階には飲めや歌えの騒ぎができるような「広い座敷」がある。
こうした座敷で遊女を侍らせ、酒食を楽しむのは、男にとって最大の
見栄だった。座を盛り上げるために、芸者や幇間が呼ばれる。
さらに、台屋と呼ばれる仕出し料理屋から、縁起のよい鶴や亀を模した
豪華な料理が届いた。こうした宴席で皆におだてられ、
いい気分を味わったあと客は遊女と「床入り」になる。

 

待たされて半透明のガラス瓶  山本早苗



 

「床入り」
床入りは、客と男の同衾である。
なぜ男は吉原に嵌り、憧れ、家族に嘘をついても、無一文になっても、
また来たいと思うのか。遊女は客を満足させる手練手管を教えられ、
100%の技をもって客の心も体も酔わせるのである。
そして夢のような一夜が終わるとほとんどの客は「また来る」といい、
家路に帰るのである。

 

用済み男ストンとフラスコに  上田仁



詠史川柳



(画像はすべて拡大してご覧ください)
  豪遊する文左衛門

 

≪紀ノ国屋文左衛門≫

 

大騒ぎ五町に客が一人なり

 

「五町」は吉原のこと。
吉原をたった一人の客が貸し切っていました。紀ノ国屋文左衛門です。
文左衛門は蜜柑船で大儲けし、江戸に出てからは材木商として巨万の富
を築いた人。その財をもって吉原中の妓楼を買い切り、大門を閉めさせ
たという豪遊ぶりが伝わります。
『嬉遊笑覧』には、「世にいふ紀文ハ豪富にて、吉原惣仕舞とて大門を
閉めさせし事、両度ありしとぞ」とあります。

 

値千金相客はならぬなり

 

吉原は一日に千両(一億円相当)の金が動いたといいます。
句は「春宵一刻値千金」を踏まえている。

 

文左衛門傾城にちともたれ気味
材木はもたれるものと遣り手いい

 

「吉原中の遊女を相手にしては、さすがに腹ももたれるだろう」
と世間の噂。吉原の遣り手婆も「材木商売は儲かるもんだねえ」
と感心しきり。

 

材木屋めがと無駄足客が言い

 

何も知らずにやって来た客は、無駄足になって、「材木屋めが」
と怒ること怒ること。
文左衛門はまた、節分に豆と一緒に小粒(一分金)を撒いたとも。
(4分=1両)(因みに1分は4朱で、即ち、16朱で1両)

 

紀ノ国屋蜜柑のように金を撒き

 


桃の花開くとホルモンが騒ぐ  菱木 誠   

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落とし穴あなたと落ちてみたい夜  阪本こみち
 
 
 
  大してご覧ください)
江戸吉原八朔白無垢の図 (歌川国貞画)

白無垢とは、徳川家康の江戸入城を祝して、八朔(8月1日)に諸大名
旗本などが白帷子を着て登城したのにならって、原の遊女が白無垢を
着たもの。
 

「詠史川柳」 江戸の景色-③-2 吉原・2



 

江戸は文化の中心地となり、吉原は江戸最大の観光地になりました。
江戸見物に来た老若男女にとって、浅草の浅草寺に参詣したあとには、
吉原に立ち寄るのが定番の観光コースになっていたし、藩主の参勤交代
で江戸に出て来た勤番武士が、まず見物したがったのは吉原でした。
吉原は人里離れたいわば閉鎖空間でしたが、ここに遊女や妓楼の関係者、
更に一般の商人や職人など、合せて約1万人の人が生活をしていました。
その上、季節ごとのイベントには、見物客や行商人やまた多くの女性も
見物に訪れる賑わいで、今でいう一種のテーマパークです。そのテーマ
パークへ今日一日は、江戸川柳と、観光にでかけてみましょう。

時々は心に風を通さねば  靍田寿子

闇の夜は、吉原ばかり月夜かな  宝井其角
闇の夜は吉原ばかり、月夜かな  宝井其角
訳」闇の夜でも、不夜城の吉原だけは、満月のような明るさである。
  満月の夜でも、吉原の女たちの身の上は闇夜である。
(読点をどこに打つかで意味を変えてみました。其角)

春泥と禅問答の朝になる  森田律子


 

        猪 牙 舟
  

さて吉原に向けて出発です。
吉原は、市街地から離れた北の端っこ吉原田圃という辺鄙な場所にあり、
そこへ行くための交通通機関は、馬の乗入れは禁止されていましたので、
もっぱら「駕籠か舟」でした。
辰巳へは北へもなびく柳橋
口ぐちに舟か舟かと柳橋
舟の出発点は柳橋です。たくさんの船宿が、北(吉原)や辰巳(深川)
へ行く遊客に対し「舟はいかが、舟はいかが」と声をかけてきます。
江戸っ子の生まれそこない猪牙に酔い
ちょきで小便千両も捨てたやつ
舟は猪牙(ちょき)といい、喫水の浅い細身の快速船です。
その分揺れがひどいので、慣れないと船酔いをします。
それは「吉原に馴染みが薄い証拠」とからかわれ馬鹿されてしまいます。
かたや吉原通の人間に対しては「船縁に立って小便するまでになるには、
千両も使ったのではないか」と、こちらは冷めた目で見られ、小馬鹿に
される。どちらにしても川柳子にとって吉原は川柳のネタがゴロゴロ。

何もないのに空を見上げる時がある 森本高明

十斗(ばかり)水をこじると松になり
椎の木をとびこすように猪牙は行き
柳橋を出て隅田川を北へ向かって10回ほど艪を動かすと、左手に幕府
の幕府の米蔵の中に「首尾の松」が見えてきます。この松を見ながら吉
原での首尾を脳裏に思い浮かべるのです。
そして対岸には、名物の松浦家の「しいの木」が見えてきます。
聖天の横ぞっぽうへ漕いで行き
面白さ日本の隅へふねが付き
隅田川をさらに北上して待乳山聖天(まっちやましょうてん)の横を左
へ入ると山谷堀。日本堤の端に上陸して、土手八丁を行くと吉原の大門
が、見えてきます。

人生のロスタイムからファンファーレ  斉藤和子

一方、陸路で行く場合。徒歩でのんびり行く人もありますが、大体は竹
で作った粗末な駕籠「四つ手駕籠」を利用します。心持急ぎたい時には、
酒手をはずめば、矢のような速さで走ってくれるし、さらに急ぐときは、
料金を上乗せし、交代要員を二人付け「四枚肩」で飛ばす方法もあり。
大門を的に四つ手は矢のごとし
逃げもせぬ物を買うのに四まい肩
四つ手駕籠は、浅草寺(坂東13番札所)を雷門から入って、隋身門
(ずいじんもん)に抜け、馬道を吉原へ向かいます。ほかの道もあるの
ですが、川柳では、主にこの道を利用することが多いようです。
坂東の十三ばんを四つ手抜け
馬道が籠道に成るはんじょうさ

吊り革の揺れを数えているのです  前中知栄



いよいよ吉原遊郭に到着です。
遊郭は、周囲を大溝(おはぐろどぶ)で囲まれ、出入り口は大門一か所
だけです。どのルートで来ても日本堤(土手八丁)へ出て、「五十間道」
を大門へ向かいます。途中には「衣紋坂」「見返柳」があり。
日本を八町行くと仙女界
衣紋坂度々下りて左前
日本から極楽わづか五十間
もてたやつばかり見返る柳なり
さァ、大門をくぐると、そこは江戸の別世界・「吉原」です。

失楽園あなたとはずす道の駅  櫻田秀夫




海外ように作られた吉原大門の絵葉書 
 

よし原の背骨のような中の町
田舎もの水戸尻迄つき当たり
白い手で簾をかかげる中の町
大門から真っ直ぐ延びる大通りが仲の町で、両側には「引き手茶屋」
簾をかけて軒を連ね、そのまま行くと突き当りが「水戸尻」です。
仲の町には所々に「木戸門」があり、その木戸門を入った通りの両側に
大小の「妓楼」が建ち並んでいます。時代により差はありますが、妓楼
の数は200軒を超え、遊女の数も3千人を超えていたといいます。

ところで、「遊里へ行ってくる」と言って家を出るのは、昔も今も変わ
らず、後ろめたいもの。そこで男は、いろいろなことにかこつけて家を
出たり、何かのついでを作って吉原へ廻ったりしました。
高声で花見々とさそうなり
正灯寺おっと皆まで宣うな
(正灯寺は、吉原の近くにある紅葉で有名な寺)

過去形は行方知れずのままにする  山本昌乃

広大な吉原の中の揚屋町といわれる一帯は、いわば商業地区で、多くの
商家が軒を連ね、裏長屋もあり、商人や職人が居住し、江戸市中の町屋
と変わらない光景です。そこですべて用が足せるほど、そこは便利な一
つの都市になっていますから、言い訳はし放題、作り話も作り放題で。
謡い講不参の分は猪牙に乗り
真先はここ迄来てというところ
訳」謡いの練習する「謡講に行く」と言って家を出て、そちらには参加
せず吉原へ行く人や、墨田川西岸にある「真崎稲荷」「ここまで来た
から
には、吉原へ足を伸ばすのはいかがでしょう」と、神様に相談する
人がいるかと思えば、浅草境内で正月用品を売る年の市にやってきて、
気が変わって吉原へ行ったりする人もいます。
正月の買い物に来て気がそれる


 

ボクの今あなたの胸が現住所 ふじのひろし

 


「詠史川柳」

 

≪三浦屋・高尾大夫≫ 高尾大夫ふたたび

 

前のページ花魁・高尾の続きです。仙台藩の伊達騒動は、伊達政宗の孫
綱宗の女狂いに端を発したものでした。綱宗を目茶目茶狂わせたのは、
江戸は吉原三浦屋の花魁、二代目・高尾太夫です。
(三浦屋には高尾を名乗った太夫は7~10人いたと言います)
最高級遊女の花魁ともなれば、歌舞伎曲始め芸百般は一流で古歌の二千
や三千は暗記している教養人。一方の綱宗は躾はされているものの生来
の粗野粗暴。綱宗は、身分を笠に着ても、高尾の体重と同じ目方の大判
小判を差し出しても高尾は靡かなかったため、殺されてしまうのは先の
ページに書いた通り。


氏より育ち国主でもフレばフレ
金の威光を落したは高尾也
命より大事にしたのは高尾なり
高尾死すとも吠え面かかぬ也

 

高尾が最後まで首を縦に振らなかったのは、情婦の島田重三郎に操をたて
たためと言われていますが、一説には、応じたとも穿って、川柳子は次の
ような句も詠っています。

 

懐へしめて高尾五百入れ
綱渡りすると高尾も玉の輿

 

空が見えないA 級の付けまつ毛  井上一筒

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心情を包むペルソナ百ばかり  山口ろっぱ


 
  
 原遊郭娼家之図(歌川国貞)  (拡大してご覧ください)

花魁が初めて客と会うための座敷や上級遊女の居住スペースがある
妓楼の二階の様子を描いており、大勢の客で賑わっている。
                    (拡大してご覧ください)

「詠史川柳」 江戸の景色ー③ー1 吉原

 

吉原は江戸でただ一つの遊里である。
徳川家康入国以来の新興都市「江戸」では、流入する男性人口の増加と
ともに「遊里」が現れるようになったが、無秩序に放置するのは風紀上
問題があるとして、一か所にまとめられることになる。
これが元和3年(1617)に誕生した「吉原」である。
しかし、葭(よし)の茂る沼地にできた吉原も、江戸の発展とともに
中心部の方に寄り集まり、軒を並べることになる。

 

浮かぶ瀬はここにあるよと鳥の声  瀬川瑞紀

 

明暦3年(1657)4代将軍家綱の時代に浅草奥の千束村に移転。
川柳によく出てくる吉原となった。
芝居町や魚河岸と並んで一日に千両の金が動くといわれた吉原は、
単なる性欲の処理場所でなくて、さまざまな意味で江戸の別世界であり、
文化の発信地にもなった。
江戸川柳でも、吉原関連の句が最も多く生まれている。
それだけ人の興味をそそる場所になったのである。
以来、吉原遊郭は幕末までの凡そ二百年に亘ってこの地で営業を続けた。

 

のぼろうと選んだ豆の木が騒ぐ  杉浦多津子

 

歴史が長いだけに変遷も大きい。
宝暦期(1751-64)、徳川9代将軍・家重から10代将軍・家治にかけて
吉原は大きな変革を行い、最高位の「太夫」の称号を廃した。
現在、時代小説や時代劇に描かれているのは、ほとんど宝暦以降明治
維新までの、およそ100年間の吉原である。
(吉原と聞くとすぐに太夫を連想するが、もっぱら時代小説や時代劇の
舞台となっている吉原には、太夫はいなかったことになる)
ところで、遊女や芸者を呼んで遊ぶときの揚代は幾らくらいかかるのか。
気になるところである。
妓楼には通りに面して、格子張りの張見世と呼ばれる座敷があった。
男は張見世に居並んだ遊女を格子越しにながめ、相手を決める。
もし相手が下級遊女の新造で、酒宴も一切しない、いわゆる「床急ぎ」
の遊びをすれば金二朱ですんだ。1万2500円ほどである。
(文化文政の頃を基準に、一両をおよそ10万円として見積もる)

 

深い息じっと濁りをおちつかず  三村一子



 花魁の出勤

もっとも金がかかったのが「引手茶屋」を通した遊びだが、普通では、
最も分かりにくい遊び方でもある。
花魁の最高位を「呼出昼三」といい、揚代は一両三分(12万5千円)
ほどだがそれだけでは終わらない。
客はまず引手茶屋の二階座敷にあがり、男の奉公人を妓楼に走らせ、
目的の呼出昼三を予約する。
(「呼出し」は「新造付き呼出し」ともいい「振袖新造」という見習の
遊女をつけた最高級の遊女で、「張見世」は行わず、「揚屋」を通して
呼び出さ
ないと会えない)
しばらくして「花魁」は複数の新造や禿を従えて引手茶屋にやってくる。
ここで芸者や「幇間」も呼び、酒宴となる。
頃あいを見て客と花魁は連れ立って「妓楼」に向かうが、このとき引手
茶屋の屋号入りの提灯をさげた女将や若い者が先導をする。
客は人びとの羨望の視線を集め、大尽気分を味わった。
妓楼で再び盛大な酒宴をひらき、深夜になって「床入り」となる。
こうした遊びは一晩で、百万ほどかかり、まさに豪遊だった。

 

恋の切符入れてのぞいた万華鏡  畑 照代

 

吉原の遊女は「27歳まで、年季は10年」が原則だった。
年季途中で遊女の身柄をもらい受けるのが「身請け」で、莫大な金が
かかった。元禄13年、三浦屋の太夫薄雲が350両で身請けされた
例は有名で、およそ3500万円である。
吉原の遊女を身請けするのは男にとって最大の見栄であり、
世間の人は軽蔑するどころか、皆、うらやましがった。
(※ 吉原の遊女、とくに花魁は当時のアイドルだった)
「当時の花魁は現在でいうハリウッド女優のようなものであり、
一般庶民には手の届かない憧れの存在であった」
と、かつて杉浦日向子さんが語っている。

 

ぶりっ子の元祖みたいなサクラ草  清水久美子


 


「詠史川柳」 



    三 浦 屋  高 尾 (拡大してご覧ください)

 

≪仙台高雄≫ (伊達騒動番外編)



足の裏まで匂ってもてぬなり

 

この句、足の裏が臭くてもてなかったのではない。
仙台藩第三代藩主・伊達綱宗は、香木伽羅の下駄を履いて、吉原京町
の三浦屋の名妓高尾の通い詰めたが、高尾には島田重三郎という情人
がいたため、どうしても靡かなかった。


「睦言はきらいざんす」と高尾いい

 

睦は「陸奥」にかけ、あんたは「きらいざんす」というのである。

 

「大名がこわいものか」と高尾いい

 

業を煮やした綱宗は、高尾の体重と同じだけの金を払って「身請け」
することにした。欲深い三浦屋は、高尾に厚着をさせて秤にかけだろう
と川柳子は穿つ。「伊達の厚着」は「伊達の薄着」をもじっている。
身請けされた高尾は、今戸から屋形船に乗せられて墨田川を下り、
三股あたりで大揉めになる。

 


請け出して逃がさぬつもり舟へのせ
舟へ入れこっちのものと酷いこと
だがしかし高尾は必死に抵抗し
高尾も高尾一番もさせぬなり

 

ちぎり絵の過去に広がる罪な愛  上田仁

 

憤懣やるかたのない綱宗、とうとう高尾を三又で吊し斬りにしてしまう。

 

紅葉をば鮟鱇のように切り

 

鮟鱇は吊るし切りにされ、高尾の紅葉は有名。

 

三股の最期晦日の月夜なり

 

俗諺「女郎の誠と卵の四角あれば晦日に月が出る」
女郎の誠を貫いた高尾の最期は、出るはずのない晦日の月のようなもの。
何れにしても高尾の所業は、遊女の世界の常識とかけ離れており、
そちらサイドの人たちには評判が悪かった。


ばかものと高尾へむごい評がつき
高尾が噂「馬鹿な子さ馬鹿な子さ」




「たかをくくり過ぎて切られなんしたよ」
こちらは朋輩たちのダジャレからませた噂話。


沈黙のオンザロックが溶けぬまま  合田瑠美子

拍手[3回]

ゆっくりと生きよう菜の花のように 谷口 義




  江戸の釣り


「釣りは江戸の娯楽」「釣り船に乗れば社会的名誉は重要ではない」
一文を添え、東京湾品川沖のキス釣場から神奈川側にいたる詳細な釣場、
さお,針,おもり、などの釣り情報誌が刊行されるほど、江戸の中期に
なると釣りが娯楽として大流行した。(日本最初の釣りの本『何羨録』)

 

「詠史川柳」 江戸の景色ー② 釣り

 

魚を釣る。その歴史を遡れば、石器時代の遺跡から骨角器の釣針が見つ
かっていることから、約4万年前頃に始まったとされる。
長い間釣りは、楽しむためのものでなく、あくまで食べるための手段で
しかなかった。そして戦国時代になり、釣りは、漁師の職業となった。
職業となれば、権力者から勝手な税が課せられる。
関東地方に勢力を張った後北条氏は、国府津の船主・村野に毎月250
文分の魚を納めるように命じている。
(例えば、二尺五、六寸の鯛、一つ30文、一尺の鯛15文」との基準
を示し、鰹、鯵、鮑、鰯、イナダの一匹あたりの代金をも取決めている)
そして、この令状の最後には、「右、定め置くところ無沙汰せしむるに
ついては、船持頸(くび)を刎ねるべし」と、取り決め通り魚を納めな
かった場合、船主は斬首に処すとも記している。
これではとてもではないが、釣りは楽しいものではなかった。

「ぜえぜえ」と息が聞える申告書  ふじのひろし

楽しみとしての釣りが始まったのは、江戸時代になってからである。
大平の世となり、戦いに備えてぴりぴりしたり、他国まで長期間遠征す
ることもなくなった。心と時間にゆとりが生まれると、趣味に興じるの
は今も昔も変わらないようである。
今まで戦いに用いられていた技術が、釣りに転用されることもあった。
竿の制作には、竹を扱う弓師と矢師の技が影響を与え、鉄砲の玉は鉛の
錘になった。
紀元前の周の国の太公望は、軍師としてだけではなく、釣り人としても
知られている。仙台藩の伊達政宗「わきて釣りには他念なきものなり。
太公望、面白がりたるも、道理かな。…とりわけ釣りは没頭できる。
太公望も面白がるわけだ」と釣りの面白さを認めている。


風の門あけてください奔ります  吉松澄子


江戸で釣りが盛んになった要素のひとつに、江戸の地形があげられる。
房総半島と三浦半島に囲まれた江戸の内海は、外海に比べて格段に穏
やかだった。また、墨田川や中川の運ぶ土砂で大小の洲が発達し、多
くの魚介類を育んでいた。越後村上藩藩主・松平直矩(なおのり)が
万治2年(1659)9月、江戸湾沖に出て、ハゼ釣りを楽しんだと日記
に残している。これが日本最古の大規模な遊びの釣りの記録とされる。
やはりその穏やかな波を保つ地形のよさが遊び心をくすぐったのだろう。


大きな虹だ誰の企みだ  居谷真理子

 

釣りを趣味として楽しんだのは、初めはもっぱら武士であった。
非番の日に近場の池や川で釣り糸を垂れ、釣れた魚は煮たり焼いたり
甘露煮になり、有用な趣味であった。
徳川5代将軍綱吉により「生類憐れみの令」が施行されると、
「釣魚は武士の修練のうち」とされ黙認されていたが、その後の数度
の法改正により釣りは規制対象となり、違反者の処罰や釣り道具の販
売も禁止された。このような釣りを取り巻く環境は、綱吉が死去し、
宝永6年(1709年)に新井白石によって生類憐れみの令が廃止により
解禁されるまで続いた。

 

善人になった証しの尾骶骨 前川和朗


 
正式に釣りが解禁されたのは、八代将軍吉宗の享保期(1716-1736)で、
江戸湾は再び釣り人で賑わった。広大な湾内を西の方、武州品川洲崎一
番の棒杭。東の方、武州深川洲崎松棒杭と東西に二分して、春と秋に百
近くの釣り場に多くの釣りキチが、繰り出し釣り糸を垂れた。
江戸湾ではキスのほかにハゼ釣りも盛んで、『本朝食鑑』には、
「ハゼは江戸の芝口、浅草川、中川、小松川などに最も多い。……
江都の士民・好事家・遊び好きの者たちは、平船に竿さし、蓑笠を着け、
銘酒を載せ、竿を横たえ、糸を垂れ、競って相釣っている。これは江上
の閑涼、亡世の楽しみである」とある。
江戸湾は釣りキチにとって無上の楽園であり、釣りは最高の道楽になった。

 

雨宿り僕はカエルに化けました 井上恵津子

 

さらに江戸の太公望たちにとって愉悦だったのは、文化・文政(1804‐30)
以後、釣り道具が改良開発され、仲間で自慢しあうネタが増えたことだ
った。釣り道具専門店では江戸湾だけでなく、房総から相模、また渓流
ならばどこで何が釣れているかという「釣り情報」も得られ江戸の釣り
人口は増え続けた。

 

ねぇ・なんや四月の風はそっけない  桑原すヾ代



 
  佃島白魚網夜景

 

【知恵袋】 江戸前

「江戸前」とは江戸前面の海・川の意味でここで獲れる魚を江戸前産
として賞味したのに始まるという。
また江戸前という表現は、享保18年(1733)の雑排が最初といわれ、
このころから江戸前の海や川で獲れた「美味な魚の産地名」としてのみ
ならず、「名物意識が込められた表現」になり始めたという。
ところで、江戸前の魚といえば佃島の漁民から将軍家へ献上された冬
の白魚が有名であるが、享保末頃(1733-36)から鯛や平目以上に鰻や
鯵が江戸前産として珍重されるようになる。
さらに宝暦頃(1751-1764)になると、江戸前の鰻の蒲焼が評判となり、
江戸前の風を団扇で叩き出し
江戸前の息子ぬらりくらりする
と江戸川柳にあるように、江戸前とは「鰻を意味する」ようになった。
江戸前とはやがて江戸名物や江戸自慢を意味するほかに「江戸風」の意
味にも使われるようになった。
上方の「箱鮨」に対する酢飯にネタを載せて握った「江戸前寿司」は、
江戸前の魚を使った江戸風の、ひと手間かけた鮨の意味である。



ゆっくりと水車お米がぽくりぽく 前中知栄

 

「詠史川柳」 

 
呂尚と文王の邂逅

≪呂尚(太公望)≫

 


仕事を持たないニートの呂尚(太公望)は、釣りが大好きで、仕事より
も釣り、飯よりも釣り、というほどの釣り気狂いだった。釣りに出かけ
ては、家にも帰らない日々が、何度もあった。生活を顧みない呂尚に
愛想もつきはてた妻から、ある日、三行半を突き付けられ、別れる破目
になった。(この時、彼が語った言葉が、「覆水盆に還らず」である)


その日も呂尚は、西岐の渭水でやはり釣りをしていた。
そこに有能な人材を探し求めていた姫昌(のちの周の王)が通りがかり、

 

釣れますかなどと文王傍に寄り


姫昌も釣りが好きなので、ついつい釣りの話に。


妻をさり鯛を半ぶんつり上る 


話のついでに姫昌は、「周の国で働いてみないか」と声をかけた。
呂尚は「めんどくせぇ」と返答したが、少しは働かねばと考える矢先、
文王から「我が太公(周の祖)がんでいた賢人だ」とべた誉めされて、
その気になって士官が決めた。これが「太公望」の謂われになる。
上の句は、「鯛」の漢字の片側は「周」で、妻は去ったが、周を釣った
というのである。

 

すぐな針鯛を半ぶんつり上る
此はりでつれるものかと大げんか
釣た鯛直クな針ゆへ魚がおち


呂尚は暇にまかせて、真っすぐな針で釣り糸を垂らしたりもしていた。
それを見た姫昌も「真っ直ぐな針で魚が釣れるものか」と呂尚に喧嘩
口調になっただろうと川柳子は思ったのである。


 
釣竿をしまつて周の代をはしめ 

 

士官ののち呂尚は、周の国の軍師として、文王・武王を助けて殷を滅ぼし、
その功によって「斉」に封ぜられている。


よろこびをつつんで生きている人だ  居谷真理子

拍手[3回]



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