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川柳的逍遥 人の世の一家言
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曇天を切り取り血豆をひとつ  酒井かがり




 
信長の鉄砲活用は光秀の知恵




 
日本の火縄銃は天文12年(1543)ポルトガル人により、種子島に
もたらされたと言われています。それからたった一年、『国友鉄砲記』
によると、将軍・足利義晴の命を受けて管領の細川晴元国友村を尋ね、
国友善兵衛、藤九左衛門、兵衛四郎、助太夫ら鉄鍛冶と接触し、苦労し
て鍛え上げた六匁玉の鉄砲2挺を同年8月12日に将軍に献上したのが、
日本製銃の始まりとなったといいます。

筋を通して風から桶屋へとつなぐ  村岡義博




「明智光秀ー銃の腕前」




「義景、光秀が加賀一揆の時、鳥銃にてあまたの敵を打落したるを感じ、
其技を一覧すべしと…」明智軍記』
朝倉義景は、明智身光秀が銃で敵を倒しまくったという武勇伝を耳にし、
早速、その技を見てみたいと明智光秀を呼び寄せ、約45㍍離れた的へ
100発の弾を撃たせてみた――ところ見事、百発百中だった。
 又、『絵本豊臣勲功記』(新公方在朝倉家御元服属明智出姓)には、
「軍法、兵術、弓馬、短槍それが上、近年また鳥銃流行するをもつて、
光秀、これを熟練せんと野となく、山となく駈け巡り、鳥獣を撃ちて試
したるに、他日ははや岳縅(たげすり)も外さぬほどの術に至れり」
とあり。光秀の銃の腕前は凄かったという評判だとあります。


鎧の下には迷わずサロンパス  中村幸彦







「明智光秀」 出世のあしがかり
 これは光秀が銃を以って売り出す直前のものがたりです。この場面は
信長の命を狙う今川義元の刺客を、当時うだつのあがらない光秀、秀吉、
元康の三人が、信長の依頼を受けて、逆に倒しに行くというところです。
 京都二条。明智光秀松平元康は、麦畑の納屋に身をひそめ、木下秀
が百姓家に向かって行くのをみつめていた。秀吉によれば、信長はす
でに泉州堺の見物を終え、二条の麦畑にかこまれた一軒家の農家に宿を
とっているという。…(そんなところへ)目の前の農家の門がひらき、
わらわらと織田の馬廻衆たちが表にでてきた。
「来ますな」
光秀は背から鉄砲をおろし、火縄に点火した。
農家から木下秀吉が飛び出してきてーー
「あれが、織田上総介信長殿です」
光秀と元康が身を潜めている納屋と、信長の宿舎の百姓家の距離は凡そ
三十間(約54㍍)向かい風なので火縄の匂いを気づかれる心配はない。

石鹸の香り餃子で消しておく  銭谷まさひろ

生れて初めてみる織田信長は、中肉中背で細面という、さして特徴のな
い外見ながら、この距離からでも表情がわかる、はっきりとした目鼻立
ちをしていた。声は聞こえない。信長は門外で立ち止まり、光秀たちと
目があった。
「ひっ」
元康は喉を鳴らして首をすくめた。
「しずかに」
光秀は、目をそらさずに元康をたしなめた。信長の眼力に身がすくむの
は、光秀もおなじだが、信長に睨まれたと思ったのなら、それは気のせ
いだ。近くはないが、遠くもない距離である。なまじ反応するほうが気
取られる…。

喉元を過ぎればチゴイネルワイゼン  河村啓子

(回想)「あなたは、天下人に、なれます」
妻である煕子の自信に満ちた口調に、光秀は溜息をついた。
「天下人、かー」 
光秀は苦笑した。
いかに乱世・下克上の世といえども一介の素浪人が最も出世したのは、
後北条氏の始祖・北条早雲ぐらいで、それでも国主がせいぜいである。
斉藤道三でさえ、美濃一国を支配するのに親子二代がかりだった。
ましてや光秀は、元服ほどないころこそ陽の当たる道にいたが、それは
はるか遠い昔のこと。斉藤道三の美濃乗っ取り以来、やることなすこと
当たらない日々が十七年続き、いまは織田信長の密偵の下働きなのだ。
「天下人」なぞ夢物語ですらない。
「そなたの自信の根拠は、どこにあるのやら」
「信じることに、根拠はいりません」
煕子は、自分の胸元に手をあてた。

あんた何時から味醂になりはった  山口ろっぱ

光秀斉藤義龍に雇われた織田信長暗殺団が京に入ったという知らせを
うけた。秀吉・元康の宿所の向かいの宿屋に集まっているという。
「人数が少なすぎへんですか」
秀吉はおちつかない様子でたずねた。
「打ち手は三十人、対するこちらは三人しかおらせんのや」
「二人、だな。木下、お前は員数に入っておらぬ」
秀吉も一応、軍装は揃えているけれど、あの体術の不得手ぶりからすると、
むしろ邪魔である。
「われらの目的は、討ち手の戦意をくじくことだ」
いくさの目的を明示することは、すべての行動の基本である。

かじかんだ指を誰か気付いてよ  杉浦多津子





  銃の構え方



「打ち手の中核は五人の武将だ。三十人全員を相手にする必要はない。
討ち手の目指すのは、信長を討って生きて美濃に帰って士官することだ。
主義や主張、義理や忠義で動いているわけではないから、死を恐れる」
「それで?」
「五人のうち何人かを鉄砲で射殺すれば、それで十分だ。闇討ちの計画
が漏れていることが連中に警告できれば、ことはすむ」
「拙者は了解しました」
元康は、半休の弦をかるく弾いて、小さく鳴らした。
「されば」
光秀は窓をそっと開け、部屋の奥に背をあずけて立膝で銃を構え、向い
側の宿に狙いをさだめた。銃声減衰の術である。

論客よ君スキップできるかね  徳山泰子

火縄銃の場合、屋内から発砲すれば燃焼ガスが室内に分散され、減音さ
れる。殆ど知られていないが、光秀が学んだ鉄砲述の技のひとつである。
「用意はいいですか」
光秀は三挺の火縄銃に点火し、二挺を秀吉に持たせ、座敷の奥の柱に背
をあずけ、銃尾を頬にあてて元康に声をかけた…。
火縄銃は武器の特性上、攻め出るときよりも、待ち伏せと守りのときに
絶大な威力を発揮する。
「重ねて申す。無理は禁物。逃げるが勝ち」
「承知」
元康が弓を引き絞った。
秀吉は両脇に銃を一挺ずつかかえたまま、両耳をふさいで身を伏せた。
光秀は銃の火蓋をきった。小声で元康に囁いた。はたしてどうなった。
続きは書物でどうぞ。「桶狭間の四人 光秀の逆転」鈴木 輝一郎著ゟ
(因みに「火蓋を切る」という言葉は、この時代に生まれたもので、装填
したあと火蓋を縛っておいたこよりを切る動作に由来する)

モニターにピースサインを残しとく  岡谷 樹

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金平糖手に遊ばせて聞き流す  合田瑠美子
 


 

  黒髪を売る煕子


「明智光秀の妻と子供と従兄妹)


光秀に愛され続けた妻・煕子
光秀の妻は煕子(ひろこ)という。生年は不詳。父は妻木範煕、妻木広
という2説あるが、煕子の「煕」からとったものともいわれる。
ただ、範煕、広忠は同一人物という説もある。
光秀が生まれた当時の明智家は、決して大きな力は持ち合わせておらず、
美濃の小土豪に過ぎなかった。光秀自身も明智家の居館で生まれること
はなかったようで、高木家の居城だった美濃の多羅城で生まれている。
そして、幼少期は妻木家の庇護を受けながら成長したようだ。だが幼少
期の彦太郎ことのちの光秀は、周囲からの評価は非常に高く、斎藤道三
「万人の将となる人相」をしていたと言う。

 湯にひたり思い浮かべて柏餅  高島真佐子


そのようなこともあり彦太郎は、土岐郡妻木城を本拠とする妻木家から
ある程度安定した生活を送れるだけの庇護を受けながら育ち、自然な流
れとして、元服した明智十兵衛光秀は、幼馴染みでもあった妻木範煕
娘・煕子を娶った。弘治2年(1556)斎藤義龍によって明智城を落
とされ越前に落ちた際、煕子は、身籠っていたというから、2人の婚姻
は少なくとも弘治2年以前ということになる。資料的には、光秀20歳
のとき煕子と天文14年(1545)に婚約をしたと伝わる。また西教
寺の過去帳には、光秀の妻について没年などの記載もある。


友達でいようだなんてぬるいお茶  みつ木もも花


天正4年(1576)10月、光秀の室・煕子は病に罹り、光秀は病気
の平癒を吉田兼見に依頼した。兼見は、お祓いとお守りをもって煕子を
見舞い、煕子は、同月24日には快方に向かった。喜んだ光秀は、兼見
に折紙と銀子1枚を贈った。(兼見卿記)
この後、光秀の室は史料上にあらわれず、そのまま健康を保ちえたのか
は不明。このように煕子の病は回復に向かったようだが、11月7日に
亡くなった。(西教寺塔頭実成坊過去帳)
ただし、この光秀の室が煕子と同一人物であるかは、確定し難く、側室
の可能性もある。というのは『川角太閤記』に本能寺の変後、明智秀満
が光秀の妻子を介錯した後に自刃とも書かれており、情報が一致しない。

受け身になって愛の深さを考える  本田洋子










「黒髪を売って光秀を支えたと伝えられる煕子 」
光秀が越前の朝倉氏に出仕していた頃、光秀は歌会を催すための資金繰
りに悩んでいた。その際に、煕子が黒髪を売ってお金の工面したという
エピソードが伝えられている。検証してみると、妻木氏はこの当時、小
土豪だった明智家を保護できるだけの力を持っていた。それだけ力を持
った家の娘が、仮にお金を工面するために黒髪を売ったとなれば、光秀
としては妻木家の面汚しとなってしまう。恐らくは黒髪を売ったのでは
なく、売ろうとおもう心境にあったということだろう。実際には煕子の
父親である妻木範煕が支援したと考えるのが自然である。 すなわち女性
が黒髪を切ったり剃髪するのは出家した時だ。しかし煕子は、光秀の妻
であり出家などしていない。親に云えば答えは見えている。だから糟糠
の妻として親に頼らずに煕子は、髪を切って売ったということなのか。


愚痴るまい口笛ふいてケセラセラ  山本昌乃


「光秀の子供」
明智軍記によれば、光秀に妻・煕子との間に三男四女があったという。
ほかに系図等の記載のみで確認できる光秀の子どもがいる。
津田宗久『天王寺屋会記』によると「惟任(これとう)日向守殿父子
三人」とあるので、少なくとも二人の子どもがいたのは確かである。
嫡男とされるのが光慶である。生年は不詳であり、永禄12年(156
9)誕生説もあるが、明確な根拠はない。通説に、仮名を「十五郎」と
するが、最近では父と同じ「十兵衛」が正しいのではないかと指摘され
ている。本能寺の変の直前に催された連歌会「愛宕百韻」に光秀に同行
して参加し「明智十兵衛」と記されている。


ゆでたまごつるりとむける朝でした  赤松蛍子





   ガラシャ

このほか光秀の子息として自然丸とその弟の2人の男子が確認できる。
いずれもその事績は詳しいことがわかっていない。
次に女子である。光秀の娘といえば、玉(ガラシャ)が有名だ。
玉は永禄6年に光秀の三女として誕生した。天正6年に細川藤孝の嫡男
忠興と結婚した。この結婚からは、明智氏細川氏の深く良好な関係
がうかがえる。天正10年(1582)の本能寺の変後も、忠興と玉の
睦まじい夫婦関係は続いた。しかし、同年6月、父の光秀が織田信長
本能寺で討って、自らも山崎の戦い後に滅んだため、玉は「謀叛人の娘」
となる。忠興は天正12年まで玉を丹後国の三戸野に幽閉する。
この間の彼女を支えたのは、結婚する時に付けられた小侍従や、細川家
の親戚筋にあたる清原家の清原マリア(公家・清原枝賢の娘)らの侍女
達だった。


振り向いてしまってからのコスト割れ  森田律子


天正12年、ようやく玉は赦された。は再び忠興と、大坂玉造で生活
をともにする。その翌年には次男・興秋、さらにその翌年には忠利が誕
生している。美貌で知られた玉は、豊臣秀吉から参上するように命じら
れたことがある。そのとき、玉は短刀を懐に隠し、いざというときの覚
悟をしていた。それを知った秀吉は、かえってその心掛けを褒めたとい
う逸話がある。この頃、玉は高山右近からキリスト教の話を聞き、関心
を持つようになった。天正15年、忠興が九州出兵に出陣中、玉は小侍
従とともにイエズス会の教会を尋ねた。そこではじめてキリスト教の教
えに触れ、その教理などについて尋ねた。聡明な玉の質問は的確であり、
応対したスペイン人も驚いたという。



思いきり酸素吸いたくなった夜  雨森茂樹


がキリスト教に関心をよせていたことは、やがて細川家中に知れわた
り、ついに外出が禁止された。そかし、玉は小侍従を教会で学ばせ、間
接的に教えを習得しようと努力した。のちに玉が大坂の細川屋敷で洗礼
を受けた際、再来日したヴァリニャーノは使者を送ったという。慶長5
年(1600)の関ヶ原の戦いがガラシャの運命を変える。ガラシャは
石田三成から大坂城へ入るよう指示されるが、光成の思惑をよみ、忠興
が東軍に属している夫が、心置きなく戦に臨めるよう慮ったうえ、家臣
小笠原少斎に胸を突かせた。


猫の目の碧に溺れている金魚  笠嶋恵美子




「光秀の従兄妹」
斉藤道三の室は「小見の方」で、東美濃の明智氏の女性とされる。
道三の支配が東美濃にまで及んでいたのかどうか、道三は東美濃に勢力
を拡大すべく明智氏の娘を娶った。(『美濃国諸旧記』)
この小見の方と道三の間に生れ、のちに織田信長に嫁いだ娘が「帰蝶」
である。光秀とは従兄妹になる。天文17年(1548)に道三の娘が、
和議の証しとして信長に嫁いだことは、「信長公記」にもある。
ただし、その娘の名が「帰蝶」(濃姫)であったかどうかは不明。
なお、信長の正室・濃姫として有名だが、信長との間には子はなかった。
濃姫の生涯に関しても不明な点が多く、その実像はよくわからない。時
代劇では、本能寺の変に際して、濃姫が薙刀を振るい、戦死する場面が
描かれているが、濃姫が本能寺で死んだとする史料は確認されていない。
信長没後「安土殿」と呼ばれ、尾張国で余生を送り、慶長17年(16
12)に死んだという説もある。


パック剥ぐ女真っ赤な嘘も剥ぐ  上田 仁

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天秤の支点あやつる助詞一字  徳山泰子





   花の御所



室町時代とは、通説1392年から1573年迄の約180年のことを
いう。どんな時代であったかといえば、乱世でありながら、史上最高の
農業生産高をあげ、「余暇の文化」をつくった。今、日本建築と呼んで
いるのも、この時代末期の「書院造り」から出ている。
 床の間を置き、掛軸などを掛け明り障子で外交をとり入れ、襖で各室
をくぎる。襖には山水や琴棋書画の図を描く。華道や茶道という文化も
能狂言、謡曲もこの時代に興り、さらにいえば、行儀作法や婚礼の作法
もこの時代におこったことである。



撫でて眺めてほっと一服楽茶碗  石田すがこ



しかし政治は、つねに不在だった。権威が中央にあり、実力が地方にあ
った。中世末期の編纂である『日葡辞書』にもある「シモ ウエ ニカツ」
『下克上』という言葉もこの時代に生まれた。小さな地方が実力をつけ、
ついには「惣」と呼ばれる農村が決定的存在となった。彼らは、正規の
武士たちの前列にあって、いわば「戦争を請負う者」たちだった。室町
の社会の底をなす者たちが、暴力の形をとって表層に浮かび出てきたの
である。応仁の乱(1467)に始り、そこから凡そ100年、いわゆ
る自然の革命とも呼ばれる「戦の時代」へと突入していくのである。



猫柳なぜの形のまま芽吹く  森田律子









「斉藤道三と義龍」
大永年間(1521~)から明智光秀が歴史の表舞台に登場する、永禄
11年(1568)まで、どんな時代であったのか。
 西岡(長岡京市)の油売りの斉藤道三は、備中の素浪人である伊勢宗瑞
(北条早雲)や摂津の土豪の松永久秀とともに、低い身分から成り上が
ったとされてきた。ところが宗瑞は、将軍の側近であった。また、道三
の父の長井新左衛門尉が、元は京都妙覚寺の僧侶で、最初は西村を名乗
って美濃で仕官し、のちに子の道三が美濃国主になったことが明かにな
っている。(六角承禎条書ゟ)



銀河鉄道の始発駅の枕  みつ木もも花



美濃守護の土岐成頼と守護代家の斉藤妙椿は、応仁の乱の後半では西軍
の主力として活躍するなど、中央政界では知られた存在であった。
ところが斉藤一族が近江で戦死すると、土岐氏も衰退し朝倉義景の娘を
正室とする頼武と頼芸(よりのり)の兄弟が家督をめぐって争っている。
大永7年(1527)が頼芸が勝利を収めたが、この内乱の中で、斉藤
家家臣の長井長弘が台頭し、それを補佐したのが、道三の父である長井
新左衛門尉であった。やがて天文2年(1533)に道三が跡を継ぐと、
長井長弘の子・景弘に取って代わり、守護代家の「斉藤」に改姓する。



これまでとこれからと傘傾いでく  河村啓子








天文11年、道三は土岐家の内乱に乗じて土岐頼芸を放逐するが、頼芸
は尾張で織田信秀の助力を受け、さらに、越前の朝倉孝景に庇護されて
いた兄・頼純と協力し、美濃守護に復帰した。しかしそれは長く続かな
かった。頼芸支援以降は、対立していた信秀と道三だが、天文17年(
1548)頼芸が美濃守護を退くことを条件として、和睦をした。天文
18年、信秀の息子信長に娘・帰蝶を嫁がせて同盟を結ぶと、翌年には
主君の頼芸を追放しついに美濃を制した。



風を詠みながらふんわりぼたん雪  赤松蛍子



美濃を掌中に収めた道三にも、悲劇が訪れる。天文23年に息子の義龍
に家督を譲った。しかし、道三と義龍の関係はよくなかった。義龍は家
臣の長井道利と画策し、弟の孫四郎喜平治を殺害する。これに驚いた
道三は、大鍬城へと逃げた。弘治2年(1556)道三と義龍は長良川
近くで対決し、道三が討ち取られた。。戦国時代に父子の争いは珍しく
ないが、武田信玄信虎を国外に追放したり、伊達晴宗伊達頼宗を強
制的に籠居させたりしたように殺さないのが普通で、殺害されるのは稀
であった。



嘘みたいな本当の話冬の月  藤本鈴菜



義龍道三の独裁体制を改め、国衆を国政に参画させた。また幕府と交
渉し、土岐氏より格上である幕府四職の一色氏に改姓することを認めら
れるだけでなく、将軍家の通字「義」字の偏緯を受ける栄誉に浴す。
そして国衆の稲葉一鉄に新治姓を与えるなど、一色氏宿老の姓を下賜し、
彼らとの一体化を強めた。その一方、義龍と対立する信長は一貫して守
護代家の斉藤姓で呼びつづけ、家格で自分より上位に立つことを認めな
かった。永禄4年(1561)に義龍は急死するが、14歳の一色龍興
が跡を継いでも、6年にわたって信長の侵攻を退ける基盤を築いた。



大いなる大根のごときこころざし  佐藤正昭









「三好長慶と松永久秀」
斉藤道三が美濃国主になった頃、畿内近国から四国でも大きな変化があ
った。阿波守護代を祖先に持つ三好長慶が、細川管領家に取って代わっ
たのである。長慶は当初、足利義輝と和睦し幕府再興を意図していたが、
度重なる義輝の破約に怒り、天文22年(1553)京都から追放した。
当時は形だけでも、足利将軍家や古河公方家の者を擁するのが常識で、
大内義興北条氏康上杉謙信もそうしていた。しかし長慶は戦国時代
で初めて将軍家の誰も擁立せず「京都ご静謐(せいひつ)」を実現した。
後奈良天皇正親町天皇も、朝廷への懈怠(けたい)を繰り返す義輝よ
り長慶を信任するようになる。



マスクから昨夜の餃子洩れてくる  武市柳章



ただ長慶は、幕府が滅亡し社会が不安定化することよりも、将軍の公認
による安定を求める一色義龍上杉謙信らと、反目することを避け、義
輝と和睦するが、細川・畠山両管領家の領国を併呑する。また北条氏康
毛利元就と同格の「御相伴衆の格式」だけでなく、天皇家に由緒を持
「桐御紋」を免許されるなど、足利将軍並みの家格を得ると、義輝
娘を人質とし、天皇に改元を執奏するという将軍の権限を行使した。



顔認証おちょくっている百面相  木口雅裕



このように、将軍を克服しようとする長慶を支えたのが、松永久秀であ
った。久秀は寺社や大名との交渉に力を発揮し、後には大和の支配を任
された。長慶は、久秀が譜代家臣でないにも拘わらず、自らと同じ従四
位下の官位に就き、桐御紋の免許も認めた。外様や低い身分の者を登用
する際には、武田信玄真田昌幸武藤姓上杉景勝樋口兼続直江
をと、主家の一族や重臣の名跡を継がせて、家格に配慮するのが常識
であったが、長慶はそうした従来の秩序にとらわれなかった。



少し悪意 いいえ悪意 きっと悪意  山口ろっぱ









松永久秀は、長慶のこうした厚意に応え、忠節を尽し三好氏を壟断した
こともなかった。長慶の死後、三好三人衆と争うが、長慶の後継者であ
三好義継を庇護し、足利義昭織田信長と同盟して義継の生き残りを
図った。そして元亀2年(1571)に義継を盟主として三好三人衆と
ともに、三好氏の再興を果す。
 (尚、久秀は足利義輝や三好長慶の嫡男・義興の暗殺、東大寺大仏殿の
焼討ちなどで有名であるが、これらは江戸時代初期に創作された俗説で
一次史料では確認できない)



悪人はジャコベッティの香りして  くんじろう








「織田信秀」
大永から天文にかけて尾張で急速に勢力を拡大したのは織田信長の父・
信秀である。信秀は織田氏の一族ではあったものの、尾張下四郡を支
配する守護代織田大和守家に仕える庶流で、清州三奉行の一家を務め
ていたに過ぎなかった。公家と積極的に交流を深めた信秀は天文2年
(1533)7月、蹴鞠の宗匠・飛鳥井雅綱を勝幡城(しょばたじょ
う)に招き、蹴鞠会を催している。見物する者は、数百人におよび、
改めて清州城でも開催したほどであった。このとき雅綱とともに信秀
のもとを訪ねたのが、朝廷財政を担っていた山科言継(やましなとき
つぐ)である。



何もかも思い通りになってゆく  平井美智子



上洛した信秀は、財政的に窮乏していた朝廷に資金援助を行い、見返と
して従五位下・備後守に叙位任官された。天文9年にも伊勢神宮の遷宮
に際して、銭700貫文を、それぞれ寄付した。さらに、室町幕府にも
急接近し、足利義輝と面会をしており、中央政界とのパイプを築いた。
天文3年(1534)信長が誕生し、14歳で元服させ15歳で「藤原
信長」と署名、熱田八カ村に制札を発給した。
これは信長が将来的に織田家を継ぐであろうことを示唆するものである。
この頃、政略という形でも美濃の斉藤道三の娘と結ばせたのも、織田家
の地固めのためであった。この3年後、信秀が死去すると、信長は正式
に織田家の家督を継承した。こののち信長は「天下布武」へ向けて進攻
をくりひろげることになる。



にじいろの影の持ち主いませんか  中野六助

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天秤の支点あやつる助詞一字  徳山泰子


室町時代とは、通説1392年から1573年迄の約180年の
ことをいう。どんな時代であったかといえば、乱世でありながら
史上最高の農業生産高をあげ、余暇の文化をつくった。今、日本
建築と呼んでいるのも、この時代末期の書院造りから出ている。
床の間を置き、掛軸などを掛け明り障子で外交をとり入れ、襖で
各室をくぎる。襖には山水や琴棋書画の図を描く。華道や茶道と
いう文化も能狂言、謡曲もこの時代に興り、さらにいえば行儀作
法や婚礼の作法もこの時代におこった。


撫でて眺めてほっと一服楽茶碗  石田すがこ


 しかし政治は、つねに不在だった。権威が中央にあり、実力が
地方にあった。中世末期の編纂である『日葡辞書』にもある「シ
モ ウエ ニ カツ」(下克上)という言葉も生まれた。小さな
地方が実力をつけ、ついには「惣」と呼ばれる農村が決定的存在
となった。彼らは、正規の武士たちの前列にあって、いわば戦争
を請負う者たちだった。室町の社会の底をなす者たちが、暴力の
かたちをとって表層に浮かび出てきたのである。応仁の乱(14
67)に始り、そこから凡そ100年、いわゆる自然の革命とも
呼ばれる「戦の時代」へと突入していくのである。


猫柳なぜの形のまま芽吹く  森田律子


「斉藤道三と義龍」



大永年間(1521~)から明智光秀が歴史の表舞台に登場する
永禄11年(1568)まで、どんな時代であったのか。
 西岡(長岡京市)の油売りの斉藤道三は、備中の素浪人である
伊勢宗瑞(北条早雲)や摂津の土豪の松永久秀とともに、低い身
分から成り上がったとされてきた。ところが宗瑞は将軍の側近で
あった。また、道三の父の長井新左衛門尉が、元は京都妙覚寺の
僧侶で、最初は西村を名乗って美濃で仕官し、のちに子の道三が
美濃国主になったことが明かになっている。(六角承禎条書ゟ)


銀河鉄道の始発駅の枕  みつ木もも花


美濃守護の土岐成頼と守護代家の斉藤妙椿は、応仁の乱の後半で
は、西軍の主力として活躍するなど、中央政界では知られた存在
であった。ところが斉藤一族が近江で戦死すると、土岐氏も衰退
し朝倉義景の娘を正室とする頼武と頼芸(よりのり)の兄弟が家
督をめぐって争っている。大永7年(1527)が頼芸が勝利を
おさめたが、この内乱の中で、斉藤家家臣の長井長弘が台頭し、
それを補佐したのが、道三の父である長井新左衛門尉であった。
やがて天文2年(1533)に道三が跡を継ぐと、長井長弘の子
景弘に取って代わり、守護代家の斉藤に改姓する。

これまでとこれからと傘傾いでく  河村啓子

天文11年、道三は土岐家の内乱に乗じて土岐頼芸を放逐するが、
頼芸は尾張で織田信秀の助力を受け、さらに越前の朝倉孝景に庇
護されていた兄・頼純と協力し、美濃守護に復帰した。しかしそ
れは長く続かなかった。頼芸支援以降は対立していた信秀と道三
だが、天文17年、頼芸が美濃守護を退くことを条件として、和
睦をした。天文18年、信秀の息子信長に娘・帰蝶を嫁がせて同
盟を結ぶと、翌年には、主君の頼芸を追放しついに美濃を制した。

風を詠みながらふんわりぼたん雪  赤松蛍子

美濃を掌中に収めた道三にも、悲劇が訪れる。天文23年に息子
の義龍に家督を譲った。しかし道三と義龍の関係はよくなかった。
義龍は家臣の長井道利と画策し、弟の孫四郎と喜平治を殺害する。
これに驚いた道三は、大鍬城へと逃げた。弘治2年(1556)
道三と義龍は長良川近くで対決し、道三が討ち取られた。。戦国
時代に父子の争いは珍しくないが、武田信玄が信虎を国外に追放
したり、伊達晴宗が伊達頼宗を強制的に籠居させたりしたように
殺さないのが普通で、殺害されるのは稀であった。

嘘みたいな本当の話冬の月  藤本鈴菜

義龍は道三の独裁体制を改め、国衆を国政に参画させた。また幕
府と交渉し、土岐氏より格上である幕府四職の一色氏に改姓する
ことを認められるだけでなく、将軍家の通字「義」字の偏緯を受
ける栄誉に浴す。そして国衆の稲葉一鉄に新治姓を与えるなど、
一色氏宿老の姓を下賜し、彼らとの一体化を強めた。その一方、
義龍と対立する信長は一貫して守護代家の斉藤姓で呼びつづけ、
家格で自分より上位に立つことを認めなかった。永禄4年に義龍
は急死するが、14歳の一色龍興が跡を継いでも、6年にわたっ
て信長の侵攻を退ける基盤を築いた。

大いなる大根のごときこころざし  佐藤正昭

「三好長慶と松永久秀」
斉藤道三が美濃国主になった頃、畿内近国から四国でも大きな変
化があった。阿波守護代を祖先に持つ三好長慶が、細川管領家に
取って代わったのである。長慶は当初、足利義輝と和睦し幕府再
興を意図していたが、度重なる義輝の破約に怒り、天文22年に
京都から追放した。当時は形だけでも足利将軍家や古河公方家の
者を擁するのが常識で、大内義興や北条氏康、上杉謙信もそうし
ていた。しかし長慶は戦国時代で初めて、将軍家の誰も擁立せず
「京都ご静謐」を実現した。後奈良天皇や正親町天皇も、朝廷へ
の懈怠(けたい)を繰り返す義輝より長慶を信任するようになる。

マスクから昨夜の餃子洩れてくる  武市柳章

ただ長慶は、幕府が滅亡し社会が不安定化することよりも、将軍
の公認による安定を求める一色義龍や上杉謙信らと、反目するこ
とを避け、義輝と和睦するが、細川・畠山両管領家の領国を併呑
する。また北条氏康や毛利元就と同格の御相伴衆の格式だけでな
く、天皇家に由緒を持つ桐御紋を免許されるなど、足利将軍並み
の家格を得ると、義輝の娘を人質とし、天皇に改元を執奏すると
いう将軍の権限を行使した。

顔認証おちょくっている百面相  木口雅裕

このように将軍を克服しようとする長慶を支えたのが、松永久秀
であった。久秀は寺社や大名との交渉に力を発揮し、後には大和
の支配を任された。長慶は、久秀が譜代家臣でないにも拘わらず
自らと同じ従四位下の官位に就き、桐御紋の免許も認めた。外様
や低い身分の者を登用する際には、武田信玄が真田昌幸に武藤姓
を上杉景勝が樋口兼続に直江姓をと、主家の一族や重臣の名跡を
継がせて、家格に配慮するのが常識であったが、長慶はそうした
従来の秩序にとらわれなかった。

少し悪意 いいえ悪意 きっと悪意  山口ろっぱ

松永久秀は、長慶のこうした厚意に応え、忠節を尽し三好氏を壟
断したこともなかった。長慶の死後、三好三人衆と争うが、長慶
の後継者である三好義継を庇護し、足利義昭や織田信長と同盟し
て義継の生き残りを図った。そして元亀2年(1571)に義継
を盟主として三好三人衆とともに、三好氏の再興を果す。
尚、久秀は足利義輝や三好長慶の嫡男・義興の暗殺、東大寺大仏
殿の焼討ちなどで有名であるが、これらは江戸時代初期に創作さ
れた俗説で一次史料では確認できない。

悪人はジャコベッティの香りして  くんじろう

「織田信秀」
大永から天文にかけて尾張で急速に勢力を拡大したのは織田信長
の父・信秀である。信秀は織田氏の一族ではあったものの、尾張
下四郡を支配する守護代織田大和守家に仕える庶流で、清州三奉
行の一家を務めていたに過ぎなかった。公家と積極的に交流を深
めた信秀は、天文2年(1533)7月、蹴鞠の宗匠・飛鳥井雅
綱を勝幡城(しょばたじょう)に招き、蹴鞠会を催している。見
物する者は、数百におよび、改めて清州城でも開催したほどであ
った。このとき雅綱とともに信秀のもとを訪ねたのが、朝廷財政
を担っていた山科言継である。

何もかも思い通りになってゆく  平井美智子

上洛した信秀は、財政的に窮乏していた朝廷に資金援助を行い、
見返として従五位下・備後守に叙位任官された。天文9年にも、
伊勢神宮の遷宮に際して、銭700貫文を、それぞれ寄付した。
さらに室町幕府にも急接近し、足利義輝と面会をしており、中央
政界とのパイプを築いた。天文3年、信長が誕生し、14歳で元
服させ、15歳で「藤原信長」と署名、熱田八カ村に制札を発給
した。これは信長が将来的に織田家を継ぐであろうことを示唆す
るものである。この頃、政略という形でも美濃の斉藤道三の娘と
結ばせたのも、織田家の地固めのためであった。この3年後、信
秀が死去すると、信長は正式に織田家の家督を継承した。

にじいろの影の持ち主いませんか  中野六助

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ずいぶんと軽い記憶のキャビネット  高野末次






   斉藤道三



「明智光秀」 光秀の生年、出生地の謎





終わりを中心に語られる有名な武将は、明智光秀をおいて外にはいない。
それだけ光秀が謎の多い人物であるということである。ことに光秀の前
半生は、様々な説が飛びかう。光秀の生年について、これまでよく知ら
れてきたのは『明智軍記』にある享禄元年(1528)で、享年は55
歳である。この説は光秀の系譜関係をまとめた『明智系図』など、後世
の歴史書や系図でも採用されているが、『明智軍記』は、光秀が死去し
てから百年後に書かれたもので、同時代の史料と整合性がとれない記述
も多い。
※ 明智軍記  光秀を中心とする軍記で「明智記」ともいう。著者は
不詳。全十巻。江戸時代中期に成立か。元禄15年版本などがある。


何のため年齢欄はあるのだろう  清水すみれ



一方、『当代記』には67歳で死去したとあり、ここから逆算すると生
年は、永正13年(1516)とある。『当代記』は、光秀が生きた時
代に近い17世紀前半に書かれ、同時代の史料と整合性がとれる記述も
あることから『明智軍記』よりも信用できる史料とされ、近年では永正
13年説の方が有力視されている。さらに光秀の享年を77歳と記した
史料もあり、この説に従えば、生年は永正10年(1513)というこ
とになる。(因みに信長は1534年生れ、秀吉は1537年生れ)
※ 当代記  近世初期の日記風年代記。姫路城主・松平忠明が17世
紀前半に編纂したとされる。はじめに天文から永禄年間(1532~7
0)の幕府や諸大名の政治状況を略記し、続く元亀元年(1570)~
元和元年(1615)は、信長・秀吉・家康の動静を中心に年代順に詳
述する。


怪しさを取り出す月の光から  立蔵信子






  斉藤義龍


織田信長が好んだ謡曲・敦盛で「人間50年」と謳われた時代に、67
歳といえば相当な高齢であり、とっくに引退していてもおかしくない。
天正10年6月に光秀が「本能寺の変」を起こした直後に、細川藤孝・
忠興親子に宛てた書状で「私が謀反を起こしたのは、忠興らを取り立て
たいと思ったからだ」「京都の周辺を平定した後は、十五郎(興元)や
与一郎(忠興)に譲りたい」と語っているのも、光秀が自身の老いを自
覚し、引退を望んでいたことの証拠とされている。
また光秀が高齢であったことは、17世紀の初めに羽柴秀吉の逸話をま
とめた『川角太閤記』に、光秀が謀反を起こした理由として「老後の思
い出に、一度でも天下に名をとどろかせたいと思い切ったのだ」という
記述からも裏付けられる。
※ 川角太閤記  川角三郎右衛門著とされる軍記物。秀吉の伝記『太
閤記』の一種で、本能寺の変から関ヶ原の戦いまでを記す。


冬の絵になるシルバーの補聴器  山口ろっぱ 





   長山城跡七つ塚


次に出生地に関しては、美濃長山説(岐阜可児市)、美濃明知説(岐阜恵
那市)、美濃多羅尾説(岐阜大垣市)ほか、10ヶ所に余る。「明智光秀
産湯の井戸」や「明智氏一族宮城家相伝系図書」や「多羅城跡」などが根
拠になっているが、どれが正しいかは確定されない。
『明智軍記』によると、弘治2年(1556)に、美濃の戦国大名・斉藤
義龍が父・道三を攻め滅ぼしたため、明智光安(光秀の叔父)は明智城に
引き籠る。義龍はこの行動に立腹し、重臣に城を攻めさせた。斉藤方の猛
攻を受けて明智城は陥落し、光安は討死を遂げる。明智城を追われた後は、
越前の朝倉義景を頼り、長崎(福井坂井市)の称念寺で10年余りを過ご
したのち、足利義昭に仕えたという。この辺からやっと光秀の実態が見え
てくる。



走っても走らなくても明日はくる  下林正夫



これも『明智軍記』によると、永禄9年(1566)秋に足利義昭朝倉
義景に迎えられた頃、光秀は義景に仕えていたという。尚『多門院日記』
には光秀は藤孝の家臣だったという記述がある。おそらく、義昭・藤孝主
従が越前へ来た時に、藤孝に接近して家臣同様の地位を得たのだろう。
なお、幕臣の名を記したという『永禄6年諸役人附』には、「足軽衆」
箇所に明智と記されている。足軽衆は将軍の側近、明智は光秀のこととみ
て間違いはないが『永禄6年諸役人附』の後半は、永禄6年当時の幕臣で
はなく、同10年以降の義昭の家臣を記しているとされる。同11年頃に
信長が藤孝に与えた文書二通によると、義昭の側近となった光秀は、周辺
の些細な出来事まで、このころ新たに仕えることになる信長に報じている。
※ 多門院日記  奈良興福寺の塔頭多聞院において、文明10年(1478)
~元和4年(1618)にかけて140年もの間、僧の英俊を始め、三代の筆者に
よって延々と書き継がれた日記。


息継ぎが出来る間は泳がねば  新家完司

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