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川柳的逍遥 人の世の一家言
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いつものことながら妖精と間違われ  酒井かがり





              任国への旅
因幡国守となり、任国へ下向する橘行平一行の様子





藤原伊周(これちか)らの「花山法王襲撃事件」(長徳2年)からほど
なく、10年あまりも仕事難民の生活を余儀なくされていた紫式部の父
為時は、為時の申し文に感銘した道長によって、越前守に任じられた。
北陸道は、中国大陸に面し、早くから菅原道真(加賀守)源順(能登守)
ら、文章道出身者が居留した土地である。
紫式部は、為時とともに都を離れ、越前に下向することになった。
友と別れ、故郷を離れたのは、6月のことだっただろうか。
長徳の変が巻き起こり、定子が髪を切ったのは5月である。
昨日の中宮が今日は、孤独な尼に堕ちる人生の無常を、紫式部は人の娘と
して感じていたことだろう。




ふり仰ぐ胸に悲の字を縫いつけて  太田のりこ




式部ー恋、結婚、別れ、それから……






彩絵檜扇  背景に流水や波を描く「扇流し図」

水流と結びつく扇の、漂い流れて変化する形と、やがて失われていく姿に、
趣や無常観が描かれる。「流れつく扇から愛する人の居場所を知り、再会
する」というエピソードのように、檜扇は男女や、離れた人と人をつなぎ
合わせる、運命を司る道具として用いられた。




紫式部には、下向先の越前まで恋文を送ってくる男がいた。
花山天皇時代、六位蔵人として為時と同僚だった、藤原宣孝である。
彼は紫式部の曾祖父である右大臣藤原定方の直系の曽孫で、紫式部とは
又従兄弟の関係にあたる。
信孝の父・為輔は公卿で、寛和2年(986)に権中納言にまで至って
亡くなった。母は参議・藤原守義女、宣孝とその兄弟たちは受領だった
が、姉妹は参議・佐理(すけまさ)に嫁いでいる。
また彼の妻の一人は中納言朝成女で、彼女と宣孝の間の子である隆佐も、
のちに後冷泉天皇の康平2年(1059)、75歳で従三位に叙せられ
公卿の一員になった。





返信のメール誠意の見せ所  加藤佳子





          藤 原 宣 孝





このように宣孝の周辺には、過去・現在、未来にわたって公卿が多い。
為時とは違い、彼の一族は、処世に長けていたのである。
宣孝自身は、正五位下右衛門佐兼山城守が極位極官だったが、
それは壮年で亡くなったためであろう。
彼は目端の利く男で行動力もあった。



積み上げたものに支えられている  吉岡 民










「episode」 『枕草子』しみじみと感じられる話。


『衛門佐宣孝は紫と白と山吹色、その息子は青と紅とまだら模様の派手
な服を着て連れだって参拝していた。 みんな珍しがって
「この山でこんな奇妙な格好をした人は見たことがない」と驚き呆れた…』
この話は全然 <しみじみと感じられる話>とは関係ないが、
清少納言は、紫式部の夫が亡くなった後で、ついでに書いたのだった。
紫式部はこれを読んで激怒し、清少納言を攻撃する日記を残している。
亡くなった夫の悪口を言われたら、それはもう悔しかったのだろう。
清少納言は、紫式部が宮廷に出仕する10年前に宮廷を退いており、
2人は顔を合わせたことがない。だから争いようもないのだが、
「清少納言が夫の悪口を書いた一件」に根をもって…、
紫式部は、しつこく清少納言をこき下ろすようになったようである。




目には目を遠い耳には悪口を  中村幸彦




道長も参詣した吉野山金峰山は、誰もが浄衣姿で行くとと決まっている。
だが宣孝「人と同じ浄衣姿では大した御利益もあるまい」また
「神様は質素な装いで詣でよとはおっしゃっていない」と、言って、
自らは紫の指貫に山吹の衣、同行の長男・隆光にも、摺り模様の水干
などを着させて参詣し、人々を驚かせた。
ところが、その甲斐あってか2ヵ月後には筑前守に任官できたという。
宣孝が筑前守になったのは事実で正暦元年(990)のことである。
参詣に同行した長男・隆光は、『枕草子』勘物に「長保元年(999)
6月蔵人、年29」と記される。




俺流を貫き通し冬木立  村杉正史




実際に彼が蔵人になったのは、長保3年(1001)6月20日だが、
いずれにせよ彼は、970年代初めの生まれとなり、紫式部と同年代、
或いは年上である可能性もある。
つまり宣孝は、紫式部の父といってもよいほどの年配だったのだ。
恋が進展した長徳3年、紫式部は20代半ば、宣孝は40代半ばか50
がらみで、十分に大人の恋と言えた。
『紫式部述懐ー①」
夫・藤原宣孝との結婚は30歳近くになってからで、晩婚でした。
しかも彼は、もう50歳近くになっていて、すでに妻もあり、わたしと
同じくらいの子供もいました。
年齢は離れていましたが、恋愛中や、わずか3年の結婚生活の間に男と
女の愛の機微を教えてくれたと思います。




泣きながらヒレ振る女よ春霞  笠嶋恵美子




宣孝は楽しい男だった。
春先の恋文には「春は解くるもの」という謎々を書いてきたりした。
何が解けるのか、氷や雪、そして冷たい女の心である。
「春だもの、君は私を好きになるさ」というのが謎々の意味だ。
いっぽう女性関係も盛んで、紫式部と同時期に近江守の娘にも言い寄っ
ているとの噂があったという。
『尊卑文脈』によれば、紫式部以外に少なくとも三人の妻がいた。
紫式部はこの年、秋ごろに帰京したと考えられる。
都では定子が天皇に復縁され、批判の的になって頃である。
結婚は翌年のことだったか、紫式部は本妻ではなく、妾の一人だったので、
終始、宣孝が彼女を訪う妻同婚の形であった。
たがて娘が生れ、紫式部は妻として、母としての日々を生きた。




持ち味をふたつブレンドして夫婦    菱木 誠





           藤原宣孝墓碑
春なれど白嶺深雪いや積もり解くべき程のいつとなきかな
「年が明けたら唐人を見にそちらへ参ります」 と言っていた
宣孝が、年が明けると、
「春になれば氷さえ解けるもの。あなたの心もとけるものだと、どうにか教えてあげたい」と、言ってきたことへの返歌。
「春になりましたが、白山の雪はますます積もって解けるのはいつのことかわかりません」



「夫の死」
だが幸福は長く続かなかった。長保3年(1001)4月25日、宣孝
亡くなったのである。
彼はその2ヵ月前まで、記録に名前が見えるので、長く臥せって居た訳
ではない。
紫式部にとっては唐突な、夫との別れであったに違いない。
加えて妾という立場でもある。
死に目にあう、ということもなかっただろう。
彼女は、その後、幾つかの季節を喪失感だけを抱えて、呆然と過ごすこ
とになる。




ひとり鍋季節は通り過ぎて行く  藤本鈴奈




紫式部の和歌は、夫との死別を境に一変し、人生の深淵を見つめ、逃れ
られぬ運命を嘆くものとなる。
彼女は夫との人生を「露と争ふ世」と詠んでその儚さを悼み、自分のこ
とは、「この世を憂し厭ふ」と言い捨てた。
「世」とは、命や人生、また世間や世界を意味する言葉だが、そこに共
通するのは、<人を取り囲む、変えようのない現実>ということである。
そしてそうした「世」に束縛されるのが、人の「身」である。
人は「身」として「世」に阻まれ生きるしかない。
ただ死ぬまでの時間を過ごすだけの「消えぬ間の身」なのだ。
夫の死によって紫式部は、そのことに気づかされたのである。




雑巾になってようやく味が出る  樫村日華






   紫式部の夫宣孝は、とにかくもてたらしい





夫に死別したあと、独りぼっちで憂鬱なもの思いに沈んで暮らしながら、
季節がめぐってくるにつけても、行く末の心細さ不安になっていた。
そうした折、物語を読んでは友人と慰め合っていた…。
ところが、やがて紫式部「身」でないもう一つの自分を発見する。
それは「心」である。
ある時、気がつくと、思い通りにならない人生という「身」は、変わら
ないのに、悲嘆の程度が以前ほどではなくなっていた。
数ならぬ心に身をばまかせねど 身に従ふは心なりけり
「心」「身」という現実に従い、順応してくれるものなのだ。
だがやがて、紫式部は心というものの、現実を超えた働きにも、目を向
けるようになる。




口呼吸しながらボラの逆上がり  宮井元伸





心だにいかなる身にか適ふらむ 思ひしれども思ひしられず
自分の心は、どんな現実にも合わないものだと、何度も思い知るのである。
現実に適応しない心なら、その居場所は虚構にしかない。
こうして紫式部は、寡婦であり、母である「身」とは別の所に、自分の心
のありかを見つけるようになる。
友人を介して物語に触れ、少しずつ前向きに生き始める様は『紫式部日記』
に記される。
「紫式部述懐ー②」
彼の死後、まもなく「物語」を書きはじめ、宮中に出仕する前後に、新しい
恋もし、裏切られもしました。
そういえば娘時代に、ある貴人の方を、本当に好きになった苦い思い出もあり
ます。そして、時の支配者・関白藤原道長殿から、娘の中宮・彰子様の家庭教
師に迎えられ、皇族や最上級貴族の恋模様を、本当にたくさん見聞きするよう
になりました。



光あるうちに歩けるだけ歩く  八木幸彦

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水曜日君は鰯の目を見たか  雨森茂樹





 中級貴族である播磨国司(受領)の館での食事を描く。



大唐櫃に入れた大きなコイや果物だろうか、食材が運び込まれるところ。
中央の播磨守の横の2段棚に雉子や見事な伊勢えび、アワビなど豪華な
食材が並べられている。




左手には厨房から膳が運ばれてくる。高杯の中央に高盛をした強飯、
その周囲に調味料などを入れた小皿が並ぶ。

             台盤所と御台所



貴族の館には、「台盤所」という部屋があった。
そこには、縁の部分が一段高くなった四つ脚の長方形の台があり、
奥に朱の台盤が見える。その上で調理が行われた。
家司や警護の随身が詰める所にも置かれたが、多くは女房の詰所だった
ため、のちには貴人の妻を御台盤所、さらに御台所というようになった。



冬トマト点す贅沢な食卓  岡谷 樹





          平安時代の食事の再現





式部=平安貴族の食卓・画像とともに




紫式部の作品は「愛の機微」「華麗な装束」「贅沢なインテリア」等々
を細かく表現しているが、食事に触れるシーンはほとんどでてこない。
では紫式部は、食に関心が薄かったのだろうか。
どうやらそれは、紫式部にかぎったことではないらしい。
平安時代には数多くの女流文学者が輩出し、随筆、紀行、日記を残した
が、一様に食のシーンを語ることは少ない。
その一因は、京に都を移した貴族たちの間では、制度や形式を重んじる
生活が営まれて、食習慣も形式にとらわれたことが挙げられる。



タコが言うのよメガネがずれるって  酒井かがり



饗応食の献立



  「年中行事や儀式の中の典礼化した饗応食の献立」


貴族の館では、行事の日々が多くなって、諸国の山海珍味を集めた宴が
催された。『和名類聚抄』によると。
広大な領地を所有し、強大な権勢を誇った皇族や有力貴族のもとへは、
諸国よりあらゆる名産物が集まった。
魚貝ではタイ、マグロ、サメ、ヒオ、カキ、アワビなど、庶民では到底
口に出来ない美味珍味の数々があげられている。
なかでも好まれたのが、カツオ、アユ、タイ、タコ、コイ、アワビなど、
仏教の教えに従い、獣肉こそ鶏肉に代わるものの、食品としてのバラエ
ティーは、今と変わらぬ豊かさである。



あんな特技もってたんだと知る宴  細見さちこ





宮中では正月20日か、21から23日の間の子の日に内宴が催された。

その宴がまさにはじまろうとする場面。
並ぶのは、次のようなもの。


        

上は高つきに飯と「おめぐり」。
下左は、掛盤のアワビ蒸し、ハマチ塩煮、藻類取り合わせ、野菜汁。
下右は、折敷の唐菓子、干し果物などをたっぷり盛り上げている。





宮中行事の饗応や、大臣家の宴ともなれば、主賓の前の膳は豪華で生物
(つくり)、干物、和え物、焼き物、煎り物、煮物、漬物、汁物、餅、
果物や唐菓子など、二十数皿もの食べきれない程の馳走が並んだそうだ。
そして飯はこんもりと盛って、膾、乾物なども盛り上がるほどに食器に
盛られた。 沢山の品数と量は、丁重さを示すものだったとか。



鹿の身になって煎餅味見する  下谷憲子





          「源氏物語子の日・若菜図屏風」


光源氏四十の賀を祝して、正月初子の日、玉鬘(たまかずら)が若菜の
膳を奉る華やかな情景。 沈香の木でできた折敷(角盆)を4つにして
春の精気が宿る若菜の膳を奉った、と記される場面が描かれている。  
(几帳の陰にいるのが玉鬘)



     「行事の折々に健康と幸せを願う食事」
正月元日から3日まで、清涼殿で「御歯固めの義」が執り行われる。



まず屠蘇、白散、度嶂散(どしょうさん)を飲み、その後で、歯にこた
えるシカとイノシシ、押しアユ、大根、ウリ等と餅を食べ、長寿を願い、
祝う。(白散=お正月にその年の健康を願ってのむ薬酒。 度嶂散=新
しい年の健康を祈って元日に飲む薬)


       正月の行事から若菜摘む女房や子ら

その他、正月10日には餅粥の節句。
最初の子日には、春の精気に満ちた若葉を摘んで食膳に供し、野外に遊
んで常緑から長寿の木とされる小松を根ごと引いて飾り千歳の齢を願う。



素うどんが旨いおせちの三が日   柴辻踈星   





      「源氏物語色紙絵 初音」

明石姫君の前に置かれた、正月「お歯固め」の豪華な祝膳が描かれる。
姫君の傍に坐るのは光源氏。


宮中の儀式と年中行事を核とした饗応食の数々は、貴族の行事食の規範
となり、多くは「長寿招福」を願う縁起物として食べ物が使われた。
極端に運動不足で、不健康であった王朝人の何よりの願いは、おそらく
長寿繁栄だったのだろう。それが後世には「御歯固め」「屠蘇と雑煮」
となったように、民間にも伝統として伝えられることになる。



青空へするりと抜いた玉結び  上坊幹子


        ①                ②
 汁で湯通しした魚(今回はスズキ)→串焼きサザエの切り身・魚の
 切り身を竹串に刺して焼いたもの(今回はサケ)→スズキ膾・鯉膾→
 タイ膾→鯉の煮凝り
 中央・蓮の実→スモモ→まがり、唐菓子(和式ドーナツ)→ぶと
 (和式ドーナツ)→クリ→モモ→ミカン→マクワウリ(時計回りで)





           貴族の食事





「量はたっぷり、味は二の次」
何よりも形式や儀礼を重んじた王朝貴族。
食卓も慣習通りに整っていることが第一で、味は二の次であった。
ご飯は蒸した強飯でこんもりと高盛にして、品数と量がたっぷりの副菜
を食膳に出した。それが儀式の時だけでなく、ふだんの日もそうした食
事になった。
酒菜や総菜の調理法としては、揚げ物こそ見られないが、塩茹で、蒸し、
煎り、炙り、焼き、包み焼、和え、煮、羹、吸い物、鮨、塩漬け、醤漬
けなどさまざまに変化をつけて用いられた。
もっとも遠方から運ばれて来るため、身を細く切って乾燥させるなど、
食材に干物が多くなる制限がつきまとった。




転生は魔界むらさき食ったから  太田のりこ




調味料の基本は、醤、酒、酢、塩の4種。
醤は今でいう「もろみ」のようなもの。
菜や瓜、魚肉などにつけたり漬け込んで用いる。
これら調味料を「おめぐり」とも言い、ほかには味噌胡麻油、干魚など
の煎り汁、甘酒などの甘味料、香辛料も使われた。



夢を食むあなたも一ついかがです  田口和代





庶民の食事





枕草子よりー大工が昼ご飯を健康的に食べる様子

1,庶民の食事
2,庶民の食事



清少納言『枕草子』のなかで、大工が昼ご飯を健康的に食べる様子を
記している。朝夕2度の貴族の食事に対し、庶民が3度の食事をとって
いたことを示すものである。
また平安京の東西の市には、さまざまな食品が並び、食料品店ができて
いたことが他の資料からわかる。
殺生禁断の仏教の思想も庶民にはまだゆきわたらず、獣肉も食し、自由
な食生活をしていたらしい。京の貴族にくらべ、地方の貴族や自給自足
のできる土着の豪族も、豊かな食事をしていた。




午後からの意気込みすするちじれ麺  竹内幸子





         復元された蘇




牛や羊の乳は古代の人々にとって、当初は滋養強壮の薬として重用された。
しだいに酪、蘇、醍醐など乳製品として加工されるにつれ、食料として、
好まれ、宮中や大臣家で行われた宴席にもなくてはならない品になった。
牛や羊の乳を温めて「酪」とし、それを煮詰めたものを「蘇」、蘇をさら
に精製して作られる品を「醍醐」と呼んだようで、今のバターオイルよう
なもの。最高の美味を指す「醍醐味」は、ここからうまれた。




餃子のハネにも文化的スタイル  赤松蛍子

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ゴキブリの足が一本家系図に  きゅういち





         紫式部観月図 (土佐光起)
” めぐりあひて見しやそれともわかぬまに 雲かくれにし夜半の月かな "





「漢字・ひらがなとの出会い」
5世紀の古墳から「漢字」が彫られた鉄剣が発見された。
当時の人がすでに漢字を使っていたことがわかる史料である。
推古天皇即位の593年から、平城京へ遷都の710年までの飛鳥時代
には、当時代の遺跡から、貴重な紙に代わって「木簡」という薄い木の
札に、墨で書かれた漢字がみつかった。
中国生まれの漢字は、文字そのものに意味がある「表意文字」であって、
その文字だけで、日本語を表すのには不便があった。
そこで漢字の一部を使ったり、くずした文字が工夫され、
平安時代に日本独特の「ひらがな」と「片仮名」ができた。
かな文字は「音」だけを表しているので「表音文字」という。




カタカナの角が肋につきささる  天野紀一



かな文字を使うと心の細やかな動きや、思っていることが表現しやす
くなり、平安時代には日記や物語文学が発達した。
「物語」
源氏物語、竹取物語、伊勢物語、落窪物語
「和歌集」
在原業平・小野小町などの歌人が活躍。天皇の命令で、紀貫之らが
和歌を集めて「古今和歌集」を編集している。
「随筆・日記」
枕草子、紫式部日記、和泉式部日記、蜻蛉日記、更級日記などである。
紫式部清少納言など多くの女性の作者が活躍した。
土佐日記は紀貫之が女性のふりをして、平仮名を使って書いたという
実話ものこる。




日記書く惚けないように日記書く  靏田寿子





紫式部ー紫式部のために生まれたような…平安時代






             花山時代の藤原為時





「紫式部の父・為時」
紫式部の父は藤原為時、母は藤原為信女である。
母・藤原為信女は、大河ドラマでは道兼に刺殺されるが、実際の死因は、
分からない。物心つかないまに生母に死に別れ、惟規(のぶのり)と、
ともに母なき家庭に育ち、家庭のぬくもりには、恵まれなかった。
さて紫式部の幼少期は「まひろ」という名前だそうだ。
紫式部という名前はもちろん実名ではない。「まひろ」という名前には
「心に燃えるものを秘めた女性」という意味が込められているそうで、
内田ゆきさんが令和6年1月に名付けたものらしい。
もともと「紫式部」は、彼女が彰子に出仕した寛弘2年(1006)後
の名前で、当初は「藤式部」と呼ばれていた。
「紫式部日記」には、寛弘5年に「むらさき」と記されていることから、
20歳代に紫式部の名が生れたものと思われる。



ええあの子は乾燥機の中よ  山口ろっぱ




母親が居ないことから父・為時は、紫式部を不憫に感じていただろうし、
女子の養育に不安を持ったであろう。
母親がいない分だけ、子供との結合を強化することを選ぶ。
結びつき(絆)を強化するのには、甘やかすことが最も効果的である。
子供が依存性が強くなり、親から離れないという実感となって、
親にかえりそれが為時の心を安心させた。
それゆえ、紫式部は、漢学者の父に直接育てられたため、平安朝の平均
的受領(国守)階級の子女とは違った、幼少時代を体験することになる。




生真面目な父さん髭も伸びている  林ともこ





       「因幡堂縁起絵巻」 任国への旅
絵は、因幡国守となり、任国へ下向する橘行平の一行。


     申し文の案を練る橘直幹
申文とは希望する任国や官職名を書いて提出する申請書。
申文は思い入れたっぷりの名文調が多いのが特徴である。





為時は、大学に学び「文書生」となり、学業を終えると、諸国掾に推薦
任官される制度があって、播磨の権少掾から花山天皇のもとで蔵人式部
の丞の職についていた。
だが花山朝は2年で終り、その後10年間散位を余儀なくされる。
(散位=官人として位階はあるが官職を持たないもののこと)
彼が浮上したのは長徳2年、折しも伊周(これちか)たちが「花山法皇
襲撃事件」を起こした直後の正月25日であった。
為時はこの日の県召除目(あがためしじもく)で淡路の守に任ぜられた。
だがこの3日後、道長によって、俄かに大国越前の守に替えられた。
為時が申し分を作って奉り、その中の『苦学の寒夜 紅涙襟をうるほし
除目の後朝蒼天に在り』との句が、道長を感動させたという経緯にある。
北陸道は中国大陸に面し、早くから菅原道真、や源順(したごう)など
文書道出身者の補される所であった。
紫式部はこうした父の文章の才能を色濃く受け継いでいるのである。




背伸びしてやっと掴んだ棚の餅  高浜広川






          惟規を教える為時




「弟・惟規とのエピソードから」 『紫式部日記』ゟ
『この式部の丞といふ人の、童にて書読みはべりし時、聞き習ひつつ、
かの人は遅う読みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞ聡くはべり
しかば、書に心入れたる親は、「口惜しう。男子にて持たらぬこそ、
幸ひなかりけれ」とぞつねに嘆かれはべりし』
<訳>弟の式部丞がまだ小さかったころ、漢詩や漢文を勉強していた。
私も横で講義を聴いていた。しかし弟の理解はものすごく遅く、さらに
習ったこともすぐ忘れる。一方、私はすらすら覚えられる。
漢籍を熱心に教えていた父は、いつも嘆いていた。
「残念だよ、お前が男じゃないのが俺の運の悪さだ」と。




きくらげを耳にしてみる日曜日  酒井かがり




漢籍の学問は、男子の立身出世の具で女子は教わるべきでもなかった。
その点は、父・為時も充分にわきまえていた。
紫式部が語るとき、弟の今は式部の丞になっている惟規(のぶのり)が
「書読み侍りし」で、紫式部自身はその時、「書きならひつつ」である
から、弟の惟規には「直接伝授」しているが、紫式部には「間接伝授」
または傍らで聴かせていただけで、男子と女子の教育は区別していた。
しかし漢籍の伝授をする際、子女である紫式部を、父の為時の近くに置
いたということ自体、父子家庭のため、普通の子女教育とは違った面が
生じていた。




耳たぶが落ちてる二幕目の終わり  中野六助




当時漢字は、男性にとっては、官人世界での出世の手がかりになったが、
結婚し母として生きる女性にとっては疎遠なものだった。
為時は、紫式部の将来像として、そうした人生しか想像していなかった。
とはいえ、この時期、紫式部は家庭において『史記』『白氏文集』
心から楽しみ、それに没頭する日々を送ったはずである。
紫式部の漢字素養は実に豊かであるばかりか、「知識教養」という程度
を超えて、彼女の物の見方や考え方そのものの土台になっている。




好奇心天まで上がる凧の糸  多良間典男





   
     藤原兼輔              藤原定方





「紫式部のルーツ」
為時の曾祖父・藤原兼輔は、醍醐天皇の時代に公卿となり、天皇に娘の
桑子を入内させた。 彼に桑子を心配して帝にた奉った歌がある。
「人の親の心は闇にあらねども 子を思う道に惑いぬるかな」
また、為時の母方の祖父で紫式部にとって、曾祖父にあたる人に藤原定
がいる。
兼輔と定方はきわめて仲がよく、紀貫之凡河内躬恒(おおあいこうち
のみつね)、清少納言の曾祖父である清原深養父らを代わる代わる自邸
に招き、和歌や管絃を楽しむなど、当時の文化の世界のパトロン的存在
であった。 そうした折の和歌は『後撰集』にも納められている。
同じ後撰集には、兼輔の子で紫式部の祖父である雅正(まさただ)の和
歌も収められている。 紫式部にとっては誇りであったろう。
そして紫式部の父・為時は、雅正と定方女の間に生まれた三男である。
長兄は為頼、次兄は為長で三人とも受領階級に属した。
三人ともに『拾遺集』『後拾遺集』に歌を採られる歌人であった。
このように、紫式部の家は「和歌の家」ということができる。




死んだなら解体新書になるつもり  木口雅裕






    漢字→平仮名→片仮名





「それにはそれのわけがある」

漢字は4~5世紀、百済から渡来した王仁が伝えたと日本書紀などに
ある。平安時代には、漢字から「ひらがな」「カタカナ」が生まれ、
日本語に大きな影響を与えた。
漢字の一部からカタカナが生まれ、草書体をさらに崩して「平仮名」
ができた。当時『漢文は男性が身に着ける教養』とされていること
から、男性は漢字とカタカナ、女性はそれらを学ぶことが避けられ、
平仮名で文章を書くようになった。
が、漢文や漢字に精通していた女性は数多くいた。
中宮の教育係を任じた清少納言紫式部らである。
女性にも漢字をの考え方を推したのが、藤原道長である。
自分の娘を教育するために詩や物語の才能がある女性を集めた。
漢文を学ぶ女性は多くはないが、少なくとも和歌の技術を磨くために
和歌集を詠んだり、歌作りのために文字を書く習慣は定着した。
この時代、女流作家たちがいなかったら、「平仮名」が存在してなかっ
たかもしれない。




急いでいるのに漢字で書く檸檬  高橋レニ

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ありったけの刃並べる続柄  酒井かがり






「龍頭鷁首(りょうとうげきしゅ)の舟」
寛弘5(1008)一条天皇を土御門邸は迎えるにあたり、新造の船を
検分する道長。


中大兄皇子(天智天皇)と共に「乙巳の変」から「大化の改新」に至る
諸改革に携わった中臣鎌足は、その功績を称えられ、天智天皇から藤原
朝臣姓を与えられた。ここに「藤原氏」が誕生した。
藤原道長が生れる200年ほど前のことである。
その後、鎌足の息子・藤原不比等が子どもたちの代に南家・北家・式家・
京家の四つの家系に分けた。
なかでも、北家は当時、最も勢いがあり代々、摂政や関白をはじめ高位
の官職を独占する家柄である。



袋綴じからゆっくりと南風  くんじろう






           藤原氏家系図




紫式部ー藤原道長の出世街道





          藤 原 道 長





 藤原道長は、康保3年(966)藤原氏北家で摂政・関白を務めた藤原
兼家の五男として生まれた。
幼い頃から豪胆な性格で、判断力にも優れていたが、常に下に見ていた
兄・藤原道隆、藤原道兼に肝試しで勝ったという逸話をのこしている。
そして、何かにつけて道長を助けたのが、姉の詮子(せんし)だった。
詮子は円融天皇の妃になり、のちに一条天皇となる皇子を生む。
道長の父・兼家は、兄の兼通(かねみち)が、関白になっていて関白に
はなれず、兼通が病気で死んだ時にも、関白の座は、従兄弟の頼忠に回
った。
たまりかねた兼家は、色々と手を回して、詮子が生んだ皇子を幼いまま
に一条天皇として即位させ、やっと摂政・関白の座を得て、実権を握る
ことができた。
このお蔭で道長も兄たちとともに朝廷の政治に携わるようになった。
道長21歳のときである。



家系から外れたとこで咲いている  笠嶋恵美子



やがて父が死んで長兄の道隆が関白になる。
道長が高い位につくのは先の遠い話だった。
ところが、正暦6年(995)の感染症 の流行で、貴族数名と兄たちは、
次々に死亡していく。
次はだれが関白になるのだろうか-----?
道隆の嫡男・伊周(これちか)か それとも道長か-----?
運の良さと姉の詮子の後ろ盾もあって、長徳2年(996)に道長は、
「左大臣」に任命された。
一時は、「摂政 ・太政大臣」にもなったが、「関白」は辞退した。
道長の地位は、関白と同じようなものと判断したからである。
また、左大臣は、摂政・関白より位は下だが、政治を操作できる。
ということで道長は、実力の発揮できる左大臣を止めなかった。
関白になった父の兼家でも、右大臣どまり。
まさに道長は、政治の中心に座ったのである。
道長31歳の満願であった。



あと一枚めくればきっと喜望峰  宮井元伸





イケメンで女性にもてた伊周は、光源氏のモデルだった。

登場する人物の個性を表現するうえで、紫式部は主人公の光源氏に
あえて様々な人物像を盛り込んだ、伊周はそのうちの1人である。



甥の藤原伊周は、これに焦った。
伊周は、道長の長兄・道隆と才女として知られる高階貴子の嫡男として
生まれ、道長の8歳年下の甥であり、道長最大のライバルであった。
道長の兄であり、伊周の父である道隆は、摂政に就いて38歳で権力を
握ると、女御として一条天皇のもとに入内していた長女の定子(ていし)
(伊周の実妹)を強引とはいえ中宮にしている。
のちにも触れるが、定子の教育係が清少納言である。
伊周は、道長と比べて何も劣るところはない。
道長の急激な昇進に焦る伊周は、自分に有利になるように事件を企てた。
「花山院闘乱事件」というものである。
が、道長はすかさず伊周の罪を咎めて、九州の大宰府へ流した。



出し抜いて四月の馬鹿という眺め  岩田多佳子



自分の座る椅子が落着いた道長は、一度は大宰府に追いやった伊周を、
1年後には平安京に戻してやっている。
――相手の力を失わせておいて、あとは自分の味方にしてしまう――      
これが道長のやりかたなのだ。
菅原氏源氏など、他の貴族を凌いだ藤原氏、その藤原氏の中の北家、
同じ北家でも、誰が実力者になるか……。
こうした争いの中で道長は、巧みに政権を握っていった。



知らんけどコンセンサスと言うとんで  飯島章友



道長の姉・詮子が天皇の妃になったように、代々の藤原氏は、皇室と深
い繋がりを結ぶことで、その地位を固めてきた。
道長もまた同じように、まず長女の彰子(しょうし)が12歳になると、
一条天皇の妃にした。
一条天皇には、すでに道隆の長女・定子が妃にいたが、天皇に二人目の
妃を押しつけてしまった。
宮廷に睨みのきく道長ゆえに、できたことである。
のちに、この彰子が生んだ皇子たちが、後一条天皇、後朱雀天皇になる。
すなわち道長は、天皇の祖父となり、天皇と深い繋がりができ、政治の
頂点にたち、その権力は揺るぎないものになった。



偏差値は別格だった人の今  井上恵津子





       藤原道長の邸宅の東三条殿 (想像イラスト)
寝殿造邸宅の典型といわれる。



道長の野心は止まらない。
つぎに一条天皇が亡くなり、三条天皇が即位すると、道長は次女・妍子
(けんし)を天皇の妃に推した。
継いで後一条天皇が、即位すると三女・威子(いし)を妃にしてしまう。
さらに、後朱雀天皇が即位すると四女・嬉子(きし)を妃にした。

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月のかけたることも なしと思へば」
道長の三女・威子が後一条天皇の后となった日に道長が詠んだ歌である。
<自分には、1つとして叶えられなものはない。満月のようにすべてが
満たされており、この世は自分の為だと思われる>
と、誇らしげに告げたのである。



マカロンな午後を奏でるハーブティー  宮井いずみ






            弓 争 い




「episode」 「藤原道長、藤原伊周との弓争い」
道長が20代半ばのある日。
伊周は父の藤原道隆の屋敷で、人を集めて弓を射ていた。
そこへ道隆の弟で伊周の叔父の道長がやって来た。
道長は年齢はうえだが、官位は伊周よりも下である。
そこで2人は「弓争いをする」ことになった。
まず道長が矢を射た。続いて伊周が射た。結果は道長が勝利した。
父・道隆と道隆に仕える人々は2回の延長を申込んだ。
内心穏やかではなかった道長だったが、その提案を受けた。



そもそもは微妙な空気の斜め読み  三好光明



仕切り直しで道長が、小さく呟いた。
「自分の家から帝・后が出るなら、この矢よ、当たれ」
と、言って矢を放つと、その矢は見事真ん中に的中。
次の伊周は、的外れの場所に射て、父・道隆は青くなってしまう。
二矢目に入って道長は、またさっきより大きめに呟いて
「私が摂政・関白になるはずなら、この矢よ、当たれ」
と、言って矢を放つと、また真ん中に的中した。
道隆は息子・伊周に「これ以上射るな」と止めて場は白けたという。
               歴史物語「大鏡」ゟ



さる件で弓道部から狙われる  筒井祥文

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万力に挟んで夢を逃がさない  清水すみれ





                                 後宮の中ー寝殿造の内部空間
藤壺の庭に咲く藤を眺めて語り歌う、中宮と女房たち。



寝殿造りの建築は夏向きにできており、風通しがよく開放的である。
気候が温和なため自然とこの調和を大切にして、壁で遮断崇ることが
少なく、間仕切りとして唐紙障子や壁代を使い、風や人目を遮るために
屏風や几帳を立てた。
白木の建物と黒漆塗りの調度、柔和で優美な色調を漂わす大和絵屏風
や几帳。彼女たちの衣服や調度などの装いの総合的な組み合わせを、
装束と呼んだ。





ゆったりと振り子の刻む時にいる  山口美千代












源氏物語
の舞台となるのは、およそ千年前の平安京である。
「泣くよウグイス平安京」知られるように794年(延暦13)桓武天皇
により開かれた平安京は、唐の都・長安を手本に、縦横にはしる道路で
碁盤のように区切られていた。
北側中央には、帝の住まい・内裏や政治の中心が置かれた大内裏があり、
南北にはしる朱雀大路をメインストリートに、東側の左京、西側の右京
に分けられている。
なお、左京の北側は、多くの貴人たちの高級邸が並んでいた。




花の下行儀いい葉もご覧あれ  竹内良子



紫式部ー源氏物語の世界へ--①  生活編










「雅と高貴の邸・後宮へ」
帝が日常生活をする建物が清涼殿
寝室にあたる「夜の御殿」は、その北部分にあり、背後には、七殿五舎
後宮が広がっている。
後宮の殿舎は、それぞれ壺(中庭)に植えられた庭木に因んで「桐壺」
「藤壺」などと呼ばれ、そこに住むお妃は「桐壺更衣」「藤壺女御」
と呼び倣わされていた。
殿舎の位置は、主にお妃の身分によって決まり、例えば、桐壺更衣に
与えられたのは、清涼殿から一番遠い淑景舎(しげいさ)である。


風向きを教えてあげるから触れて  真島久美子





几帳や屏風、調度品のおかれる寝殿造りのインテリア


「貴族の邸」
貴族の邸は廊下はもちろん、母屋もすべてフローリングで、固定された
間仕切りが少ないシンプルなもの。
移動可能な几帳や屏風で広い空間を仕切って、机や厨子などを置いて、
ワンルーム感覚でアレンジをした。
慶弔や季節の彩りを表すために、室内を調度で飾ることを当時から、
「しつらい」と呼び、例えば、お産のときには、産室の調度を白一色に
統一したり、来客時には、濡れ縁の簀子が屏風などで仕切って、応接間
に早変わりした。


蓮の露出来損ないの無い丸さ  寺田天海





    源氏物語画帖 幻


「格子まいる」
格子は黒塗りの木を縦横に組んで廂(ひさし)の周りに設けた建具で、
朝に掛け金で吊り上げ、夜下ろすことを「格子まいる」といい、朝夕の
女中の仕事だった。
源氏物語の中で六条御息所が、上げられた格子から源氏が見送るシーン
など、格子が効果的に使われている。



振り幅の広い女のヘチマ水  山本早苗





          平安貴族の寝具





「質素な平安貴族の寝具」
当時の掛布団には、衾(ふすま)と呼ばれる長方形のものと、襟と袖の
ついた直垂衾(ひたたれふすま)の2種類あった。
しかし、布団は高価な貴重品で、誰もが使えるものではなかった。
それではどうしていたか、その日に身につけていた衣服を脱ぎ、布団代
わりに掛けて寝ていた。
一夜をともにした男女が別れ際に、上に掛けた衣服をまた身にまとって
別れる「後朝の別れ」も、そんな生活習慣から生まれたものだった。



悲しみの分だけ笑顔上手くなる  井口なるあき





     藤原道長が33歳~56歳までの間に書いた日記。

具註暦(ぐちゅうれき)という毎日の運勢が書かれた暦の、行間の余白
に日記が書かれている。
「この世をば我が世とぞ思う望月のかけたることもなしと思えば」



「宮廷勤めの男たちの朝」
宮廷に勤める男たちの朝は、それはそれは忙しいものだった。
起きると、まず自分の属星(ぞくしょう)の名号を7回唱える。
これは生まれた年と北斗七星の名を結びつけた一種の呪文で、子年生ま
れは貧狼星(とんろうせい)、辰年生まれは廉貞星(れんていせい)と、
いったように定められていた。
その後、鏡を見て人相を占い、その日の運勢を確かめ、歯を磨くなどを
して身だしなみを整え、朝食の前には、昨日の出来事を日記に認めるの
も日課だった。



手相みる易者人相悪かった  青木ゆきみ



「運勢の悪い日は物忌みでお休み」
物忌みという言葉は、源氏物語にしばしば登場する。
運勢の悪い日などに「物忌」と書いた札を家の外にかかげ、家に籠って
人との面会を慎む。「忌む」というのは、災いに近づかないようタブー
となる行いを慎むこと。
物忌みの日は、官中に出仕せず自宅で過すのだが、年に20~70日も
あったというから、欠勤や逢引きのよい口実に利用されることもあった
ようだ。



お仏飯差し上げるにもどっこいしょ  新家完司





         牛車に乗って





「外出は牛車に乗って大路小路をゆったりと」
やんごとない貴族たちの場合、自分の足で歩くということは、ほとんど
なく普段の移動には、もっぱら車や輿、馬などを利用した。
なかでも「牛車」は、最もポピュラーな乗り物で、身分や格式に応じた
数多くの種類があった。
牛車への乗り降りは、まず繋いでいる牛を切り離し、後ろから乗って、
前から降りる。
定員は4人で、内側に向かい合って座る、座席配置。
牛を誘導するドライバーの多くは、10代後半の牛飼童と呼ばれる少年
が担った。



ドア閉める音でもベンツだと分かる  髙杉 力





     外出する女性





「徒歩の外出はカジュアル・ファッションで」
女のひとり歩きは、危険なこと。
身分の高い女性は牛車で移動したので、徒歩で外出することはほとんど
ない。が、それほど身分の高くない女性は、壺装束を身にまとって出か
けた。歩きやすいように髪を小袖に入れ込み、裾が地面にひきずらない
ように単衣や袿(うちき)を折りり上げた。
衣をすぼませ、折りはさむことから壺装束といい、肩から掛けた紅絹
(もみ)の帯は懸帯という。



ポケットの多い服着て忘れ物  ふじのひろし




「女房はカラーコーディネーター」
平安貴族の衣服は、重ねた衣の色目の美しさが、その人のセンスや美的
感覚を表した。 襲(かさね)の色目は約200種もあり、季節や場所、
年齢、好みなどから主人の衣服の色を宮仕えの女房たちが、コーディネ
ートした。
たとえ一枚の衣であっても、表地と裏地の色彩がその時節にふさわしく
調和していなければならない。色目の知識と色彩のセンスがなければ、
女房の仕事は務まらなかったのだ。



売れるわけ無いからパリコレで着せる  板垣孝志





       日本風・鏡





「鏡」
古来より、祭祀の道具として用いられ、帳台の中にかけて魔除けにする
など呪術的な意味合いもあった
平安時代の鏡は、銀や銅、鉄などの表面を磨いてつくられた。
八角形で、裏面には植物、鳥などの装飾が施され、平安時代の始めまで
は、唐草や鳳凰など中国風デザインが主流だったが、鏡は、身だしなみ
には欠かせない大切な道具として、松や梅、秋草、鶴、千鳥など日本風
の雅な絵柄へと変わった。
使う時は、鷺足の鏡台にかけ、使い終わったら鏡箱に収納した。



鏡からもらう晴れの日くもりの日  堀田英作





道勝法親王百人一首絵入り歌かるた
夜をこめて鳥のそらねははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ
清少納言は、化粧品の鉛の毒に悩まされた一人だった。
40歳を過ぎる頃には、醜い鬼のような顔だったという。


「都で流行りの色白美人」
白粉で顔を塗りたてていた平安美人
女性が化粧をするようになったのは、この時代からで、それ以前は、
健康的な素肌が美の条件だった。
寝殿造という採光の悪い建物で暮らすようになって、薄暗い中でも輝く
ような白い肌が求められたというわけで、白粉をぬる習慣がはじまった。
しかし、当時の白粉の原料には、鉛や水銀が入っており、肌が化粧焼け
したり、シワが増えたり…。
ひどい時は、その毒性で死ぬこともあったという。
当時は、美しくなるのも命がけ…。



大いなる大根のごときこころざし  佐藤正昭






        平安時代のお風呂





「そこはかとない残り香が…」
衣類には香りを含ませ、部屋にも香を焚く貴族たちの暮らし。
入浴の機会が少ない平安時代。
香りがなくてはいられなかったのだろう。
おまけに邸内には、独立したトイレがなく、人々は部屋におまるを置き、
そこで用を足していたから、もとは唐様に倣った香りの文化が、舶来の
香料でオリジナルの香りを調合して、センスをしのばすといった、貴族
たちの嗜みになっていた。




失いたくないもの壊したいもの  下谷憲子





        小野小町ー佐竹本三十六歌仙
プレイボーイ在原業平をはじめ、通いつめて命を落した深草少将など、
多くの男性を魅了した絶世の美女・小野小町は、おそらく容貌とともに
美意識に優れたものがあったものと思われる。


「センスくらべ」
平安時代を代表する女性の装束といえば、なんといっても十二単
多い場合には、20枚も重ねて着ることもあったという。
重さにすると10㌔以上に…しとやかに、ゆったりとした所作に
ならざるを得なかっただろう。
そもそもこの時代に、十二単の文化が花開いたのは、後宮の女性たちが、
ライバルに負けまいと、衣装の美しさを競い合った結果だった。
襲(かさね)の色合わせや模様、生地を季節やしきたりに合わせて選ぶ
センスも、平安美女の条件だった。



まだ誰も見たことのない色で咲く  河村啓子






         若紫の髪を削ぐ光源氏



「黒髪を切るとき」
信仰心の篤かった当時の貴族の女性たち。その彼女たちが、
頼みとする夫や愛する子どもと死に別れたとき、重い病気の
回復を祈願するとき、或いは自身が罪悪感に苛まれるとき
など、大切な長い黒髪を切って出家した。切るといっても、
背中のあたりで切り揃えるだけで、渋い色の袿を重ね、
法衣としての袈裟を上から掛けた。


ほらごらんあかんが頭掻いている  太下和子





          松椿蒔絵手箱 (国宝)



「くしけずるほどに、より美しい黒髪」
当時、美しい髪を保つためには、洗髪より櫛で髪の汚れを落とすことが
多かったよう。櫛はいくつかの種類があり、ふだん髪をとく櫛には、歯
の粗い「解櫛」、髪にゆする をつけて髪を解く歯の細かい「梳櫛」
あったほか、髪に挿して飾りにする「挿櫛」などが使われた。櫛は象牙、
黄楊、紫檀などで作られ、螺鈿で装飾をした豪華なものも。
櫛は櫛笥(くしげ)に収納し、そこには櫛のほかに鋏や耳かき、髪掻、
櫛払などの身だしなみの道具一式を入れていた。



ときめきを運んでくれたのは光  伴 よしお





      源氏物語絵巻東屋一髪を梳く女性


「美しい髪の秘訣」
豊かで長い黒髪を保つには、シャンプーや整髪は欠かせない。
しかし、当時のシャンプーは「ゆする」と呼ばれる米のとぎ汁や、強飯
を蒸した後の湯。養毛に効果があると信じられて、髪につけて梳くのが
いつもの手入れだった。なお入浴は、日柄を選んで5日に一度で、軽い
朝食をすませた後のことだったとか。
入浴といっても、浴槽につかるわけではなく、湯浴み程度のものだった
ようだ。



指先の痺れもたまに撫でておく  靏田寿子




         長い黒髪の平安女性


「長い黒髪が美女の条件」
当時は、豊かで長い黒髪が「美女」の絶対条件として、貴族の男たちに
持て囃された。
藤原師尹(もろただ)の娘・芳子は、美人の誉れ高い女性で、黒髪の長
さは何と5~6㍍ともいわれ、簀子から牛車に乗ると、黒髪は廊下を越
してなお、母屋の柱に絡んでいたという。
芳子は、村上天皇の女御となって寵愛を受けた。
また『古今和歌集』1100首を暗誦したと伝えられ、まさに才色兼備
のスーパーウーマンだった。



むら雲の嗚呼の部分のうすべにの  宮井いずみ

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