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川柳的逍遥 人の世の一家言
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海を残してくださいおへそにも  湊 圭悟



   現在の若宮大路、左右に見える石垣が段葛(だんかずら)

平安京をモデルとした鎌倉のメインストリート・「若宮大路」は、
鶴岡八幡宮を内裏に見立てた朱雀大路にあたるものとしてつくられた。
道幅は、現在よりも広く約60㍍ほどで、東西の大路と交差するところ
には下馬が設けられていた。
「若松大路」は、両側が土手に囲まれた窪地に造られたらしく、中央に
は盛土された一段高い道が通り、左右に「段葛」と呼ばれる石垣が整え
られた。このような特徴からも若宮大路は、重要な「軍事拠点」だった
のではないかと考えられている。


葉っぱ一枚私はつくれない  小林すみえ


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために-3



「南に海が広がり東、西、北の三方に丘陵が横たわる鎌倉の地形」

鎌倉の町を二分するように走る「若宮大路」。
周囲の丘陵や南の海は天然の要害である。
丘陵の裾は垂直に切られ切岸(きりぎし)をつくっている。
尾根を切断した「切通し」も七ヶ所を数える。
北の要に当たる部分には「鶴岡八幡宮」があり、そこから南へ前浜に向
って「若宮大路」と、平行する東側の「小町大路」西側の「今大路」。
これら三本の道は、東西に走る道路でつながっている。
幕府や主要な御家人の屋敷などは、若宮大路の東側に集中させている。
武家の都としての賑わいや、「軍事要塞都市」としての堅固さが見える。


薬莢がざわめく鍵穴の向こう  加藤ゆみ子
 
 

          今小路西遺跡(復元)
 
右手奥の築地で囲われた寝殿造風建物は、上層武士の邸宅である。
土塁と溝で画された広庭のある左手の屋敷門前には、主に従属する武士
住居が並ぶ。
人々が行き交う道路を挟んだ手前は、小規模な建物がたてこむ商人職人
の居住区で、各種の店棚が並んだ。
地面を掘り下げ、周囲に回した土台上に柱を立てて壁板を支え、
屋根を
かけた、方形竪穴建物の倉のある一帯は、
「消費都市」鎌倉を支えた物資
集散の蔵としたものだろう。


裏庭に投げ捨てられた耳ひとつ  合田瑠美子


「今は観光地、昔は軍事基地・鎌倉を歩く」


さてなぜ源頼朝が東国の一寒村にすぎない鎌倉に幕府を開いたのか?

「鎌倉は要害の地であり、源氏の先祖ゆかりの場所」と、幕府の正史の
『吾妻鏡』が説明している。
かつて、この地方の豪族・平直方は、相模守として下向してきた頼義
みこんで娘の婿にとり、外孫の義家に鎌倉の地を譲ったという。
その後、頼朝の父・義朝は、鎌倉の館に住んで、広く南関東一帯に勢力
をのばした。義朝上京後は、長男の悪源太義平が跡をついで、さらに、
支配権を固めた。
東国を支配しようとする頼朝にとって、格好の根拠地だったのである。


千枚田おらが天下だ雨蛙  柴本ばっは
 

治承4年(1180)10月、鎌倉に入った頼朝は、まず亀谷の館の跡
に屋敷を構えようとした。しかし、あまり広くない上、すでに義朝を弔
う寺が建てられていたので、断念して、東方約1㎞の所に建てたのがい
わゆる大倉の幕府で、源氏三代と尼将軍・政子の時代の鎌倉幕府の本営
である。
同時に頼朝は、頼義がはじめて祭った八幡宮を、海岸近くから、現在の
鶴岡八幡宮の地に移した。こうして大倉幕府と八幡宮、鎌倉の政治的・
宗教的中心が、東西に接近して形づくられた。


ヤドカリはジャストフィットの貝にする  木口雅裕



      大仏坂切通し

「鎌倉の七口、七切通し」
三方を山に囲まれた鎌倉は、まさに天然の要害である。
さほど高くはないが山は険しく、甲冑に身を固めた武士の通過は、勿論
一般人の通行も大変なため、山越え道には、高所を掘り割った「切通し」
がいくつもつくられた。
切通しは、人や物の流れを良くするだけでなく、鎌倉に外敵が侵入する
のを防ぎ、戦闘を有利にするための工夫も、施されている。
軍馬が走り抜けられないように、道の真ん中に、置き石が据えられたり
武装した大群が簡単に通れないように、鋭角に道筋が曲げられていたり
自然と人工の工夫がみられる。
※ 七切り通し=極楽寺坂・大仏坂・化粧(けわい)坂・亀ケ谷坂巨福
呂(こぶくろ‐小袋)坂・朝比奈峠坂・名越坂の、七つに固定されたのは
江戸時代からで、実際はさらに多くの切通しや、重要な通路があった。


信念をちょっぴり曲げて息を継ぐ  高橋太一郎 



        化粧坂の切通し


「化粧坂・名越坂」
かつての源氏の館の脇から、武蔵国へとのびてゆく大路が源氏山の西方
を超えるところ、そこが「化粧坂」である。
寿福寺側から今も、くの字なりに屈曲しつつ登る急坂が、堅固な防衛地
であった昔をしのばせている。
化粧坂とは、面白い地名だが、一説には『曽我物語』化粧坂の少将
はじめ、多くの遊女がいて、お化粧につとめていたのがその名の起こり
だという。鎌倉時代中期、幕府が特に指定した商業地域七ヵ所の1つは、
ここ化粧坂の上であった。
(鎌倉への主要な出入り口、境の場所に市場が開かれ、商業・交易が発展
したのは当然であり、人々の集う豪華な地であればこそ、遊女も屯したの
である)


苔玉に隠した神様と遊ぶ  赤松ますみ


だが、化粧坂の名の起こりには、また別の説もある。
頼朝の御覧に入れるため、「平家の公達の首に化粧した」場所だという
のである。付近には古塚や、やぐらと呼ばれる中世の墓も多い。
特に、後醍醐天皇の謀臣として、幕府打倒計画を推進した日野俊基が、
事敗れて捕えられ、ついに処刑されたのもこの場所であった。
とにもかくにも、化粧坂には、防衛陣、市場、遊女の集う場である、と
同時に、刑場、葬送の地という複雑な性格がまとわりついている。


底なし沼へ文壇の滑り台  上島幸雀



       名越坂の切通し
もっとも狭い部分は、漸く人一人が通れるくらい。

東南方からの鎌倉の出入り口は、「名越坂」である。
狭い径(こみち)は、直角にまた直角にと、鋭く曲がりながら、切り立
った崖の間をわずかに通過する。
まことに険阻で、外部からの侵入を防ぐには、絶好の防衛施設である。
しかも、その北側の稜線の外側は、高さ10mほどの崖となって、
数100mも長く連なっている。
「大切岸」と呼ばれ、敵の侵入を防ぐため、尾根筋の斜面を垂直に切り
落したものである。
切通しとは、まさに城壁に穿たれた城門の機能を果たすものであった。


何もないところで転んだのは内緒  木下和子
 
 

       朱だるきやぐら

また名越坂一帯には、多くの<やぐら>が密集している。
鎌倉を取り巻く山々の、山腹の崖に、横穴を掘りこみ、武士・僧侶など
支配層の墓所としたのが<やぐら>である。
墳墓堂をそのまま横穴に埋め込んだようなものだ。
入り口や天井・床などに材木をあてがい、扉をつけ、内部は漆喰やベン
ガラでいろどり、飾り立てられていたらしい。
今も西御門の<朱だるきやぐら>などに、かつての面影がしのばれる。


何一つ書いてなかった墓の裏  嶋沢喜八郎



    由比ガ浜集団墓地遺跡(人骨)


「材木座海岸」
境界部としての鎌倉の街の南にひらく海岸は、商業と交易で賑わう港で
あり、今も、海岸に散在する中国陶磁の破片は、遠く中国との貿易が、
盛大であったことを示している。
海岸の東半分は「材木座」という。
座とは、中世の商工業者の同業組合で、ここに材木商の組合があった。
新興都市鎌倉の建設には、大量の材木が必要だった。
その大半は海路で運ばれ、ここで陸揚げされたのである。
こうした新しい国作りの理由で、海岸近くに、材木座の名が残った。
さらに、海岸一帯には、かつて中世の「集団墓地」が広がっており港湾、
商業地域、集団墓地ー海岸一帯も、また境界部としての特色を共有して
いたのである。


咳をして港の正体がばれる   門脇かずお



        鎌倉の町はずれにて、一遍
右側の乗馬の人が北条時宗。それと向かい合って立つ人は一遍。


人々や物資があふれる繁華街としての境界部から、少し離れたところに
ある境界部は、貧しく、飢えや病いに苦しむ人々のたまり場でもあった。
仏教を担った、日蓮・忍性・一遍らの舞台は、この境界部にあった。
そして、全国を遊行しつつ、布教につとめていた一遍の率いる念仏聖の
一団は、巨福呂坂(こぶくろざか)から鎌倉に入ろうとして、執権・
条時宗
一行と出会う。
そこで、市街の出入り口をかためる木戸の役人から、鎌倉入りを禁止さ
れた一遍たちは、道を転じて、鎌倉の西郊片瀬に向い、江の島の対岸の
浜で盛大な「踊念仏」を興行して大成功をおさめたものである。


力より温めて開けるびんの蓋  毛利由美

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