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川柳的逍遥 人の世の一家言
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断捨離に思いきれない砂時計  市井美香
 

 
                                      東 国 武 士 団

 
かつて「いいくに作ろう鎌倉幕府」と覚えた建久3年(1192)
頼朝は、念願の征夷大将軍に任ぜられた。
日本初の武家政権鎌倉幕府が誕生であった。
その中枢を占めた有力御家人たちは、「源平の戦い」で頼朝のために、
命を惜しまず、戦い抜いた「東国の猛者」たちである。
彼らには、それぞれ重要なポストと領土が与えられ、参戦の目的は果た
されたかに見えた。
しかし、彼らの戦いはこれで終わったわけではない。
今度は権力闘争という新たな戦いが待っていたのである。


カミナリを封じ込めたるピース缶  木口雅裕


「鎌倉殿の13人」・鎌倉御家人と熊谷直実の美談」

 
          
     土肥実平 (「前賢故実」 菊池容斎画)      阿南健治

土肥実平 (権力闘争から身を引いた勇者)
実平は、相模国土肥郷の豪族で、挙兵当初から頼朝に従っていた。
石橋山の合戦に敗れたあと、頼朝が真鶴から安房へ脱出できたのは、
地元の地理に精通した実平の才覚による。
戦いのためには、人家を燃やすことも辞さない実平だったが、
根は冷酷な男ではない。
「平家物語」では、実平が捕虜・平重衡のもとを訪ねてきた女房に対し
特別に面会を許し「なさけあるおのこ」と評されている。
平家滅亡後は、中国五ヵ国の総追捕使となって、西国に勢力をたくわえ、
息子は戦国時代の雄・小早川氏の祖先となる。
しかし、鎌倉での御家人同士の争いには参加せず、自領で地味な晩年を
送った。末裔の繁栄を考えれば、賢い判断だったといえる。


哀しみが折れてひょっとこのお面  くんじろう
 

                     
    北条時政 (「前賢故実」 菊池容斎画)      坂東彌十郎

北条時政 (娘・政子と後家・お牧の方に左右された策謀家)
北条政子の父。頼朝にとっては舅にあたる。
政子が頼朝と結ばれた頃、時政は伊豆のローカルな土豪で、2人の結婚
には大反対であった。しかし時代の流れを察知したのか、やがて、
2人の関係を許し、さらに頼朝の挙兵に一族の命運を賭けることになる。
田舎武士ながら、時政の政治的センスは鋭く、西国での戦いの間は頼朝
を補佐した。
戦後守護・地頭の制度を後白河上皇に認めさせたのも時政の手柄である。
頼朝の死後は、幕府の中枢に君臨し、政所別当の座についた。
しかし、晩年は政治的センスが狂ったのか、後妻の陰謀に乗じたのが発
覚し、政子によって出家させられ伊豆に引退。
出世も失敗も娘に左右された男であった。


あすする事一つ二つを残す技  山谷町子


         
    千葉常胤 (「前賢故実」 菊池容斎画)       岡本信人
 
千葉常胤 (驚異のシルバーパワー)
下総出身。保元の乱 (1156) で源義朝に従って出陣したことがあったうえ、
平家の家臣である地方役人への反感もあって、源氏に参戦を望まれると、
即、快諾した。
源氏の軍勢の中では、三浦義澄とともに最長老の部に入るが、常胤もまた
自ら戦場に赴いて、若い頼朝を大いに助けた。
富士川の戦いのあと上洛を急ぐ頼朝に、まず関東を固めるように進言し、
宿敵・佐竹氏を追い払うなどチャッカリした面もある。
西国遠征では飢えに苦しめられることもあったが、老体に鞭打って戦い
抜いている。
そんな常胤を頼朝は、鎌倉から気遣い、「常胤を大切にしてくれよ」
書き送ったりもした。
鎌倉幕府成立後も健在だったが、政争に巻き込まれず建仁元年 (1201) に
84歳で大往生を遂げた。


蝶ひらひら名残の風が切なくて  藤本鈴菜
 

 (鎌倉殿の13人には出番なし)
   熊谷直実
 
熊谷直実 (頼朝にも異を唱えた肝っ玉男)
武蔵国大里郡熊谷郷出身。若い頃は、平治の乱 (1159) に源氏方で参加
したのち、上洛し平知盛につかえた。
そのため頼朝挙兵には、はじめ平氏の家臣として参加している。
石橋山の戦いののち源氏方に移り、数々の輝かしい軍功をあげ、特に、
平敦盛を討ったことで有名。
もともと家柄は低く、時代の変転を自力で生き抜いてきただけに、
肝っ玉は人一倍で、不満があれば頼朝にも堂々と異を唱えた。
文治3年 (1187) には流鏑馬で命じられた的立の役が不満と頼朝に抗議し、
所領を減らされた。
さらに建久3年(1192) には、所領問題で頼朝の決定を不服とし、鎌倉を
去り、出家してしまった。
(直実と敦盛の涙を誘う物語は、文の後半に出てきます)


正解を探し求める渦の中  上坊幹子


         
    梶原景時 (「前賢故実」 菊池容斎画)       中村獅童

梶原景時 (策におぼれて滅亡)
相模国鎌倉郡梶原出身の武士。もともとは平家方だったが、石橋山合戦
のあと、頼朝を見逃してやった縁から源氏方に身を投じる。
その後、生田の森で大軍勢に少人数で立ち向かうなど奮戦。
しかし景時の本領は、頭脳プレイにあり、木曽義仲に勝利したことを
飛脚で知らせるなど、情報戦術に長けていた。
しかし、自身の頭の良さを過信しているところがあり、屋島・壇ノ浦の
戦いでは義経と対立。
のちにこれを恨んで頼朝に讒訴し義経を失脚させた。
頼朝は景時の頭脳を高く買っていたが、その策士ぶりは、多くの人々の
反感を買った。そして最後は、頼家への讒訴から御家人たちの総スカン
を食らい、謀反の疑いで殺される。


直球の嫌味を素手で受け止める  合田瑠美子
 
 
         
    和田義盛 (「前賢故実」 菊池容斎画)      横田栄司

和田義盛 (射撃の名手も陰謀に弱かった)
相模国三浦郡の豪族三浦一族の出身で、三浦義澄の甥。石橋山合戦には、
間に合わなかったが、安房で頼朝と合流し、関東での地盤固めに大きな
功をあげた。
弓矢の術に秀で、壇ノ浦の戦いでは遠矢を射って3丁 (327m) も離れた
敵さえ外さなかったという。
武功に加えて鎌倉武士らしい気骨に溢れた性格から頼朝からだけでなく、
御家人たちからの信頼も厚かった。
その点では梶原景時とは対照的である。
当然、景時とは仲が悪く、梶原景時の失脚のときには、義盛が積極的に
動いている。
しかし御家人の長老である義盛は、やがて、権力の集中を狙う北条氏に
とって目の上のタンコブとなる。
そしてついに義盛は、建保元年 (1213) 北条義時の挑発に乗ってしまい、
「和田合戦」に敗れ死んだ。


美しい花を咲かせて逝った人  野口 修
 
 
         
    三浦義澄 (「前賢故実」 菊池容斎画)       佐藤B作

三浦義澄・義明 (誇り高き古つわもの)
三浦半島に勢力を張っていた三浦氏は、源頼義・義家の代から源氏の
家臣だった。そのため頼朝の挙兵に三浦氏は大きな期待をかけ、一族を
あげて参加している。
義明は石橋山合戦で戦死するが、子の義澄はひるむことなく、
以後も前線に一族を率いた。その甲斐あって、頼朝が征夷大将軍に任命
された折、義澄は勅使から辞令を受ける大役を与えられた。
そのとき三浦介の肩書ではなく、自分の名前を名乗ったのは、朝廷とは
別の次元に生きてきた、武士としての誇りがあったためといわれる。
 幕府成立後は、自領に戻って北条氏と「つかず離れず」的な関係を保つ。
しかし義澄の没後、義澄の孫の代で、ついに北条氏と衝突して三浦氏は
滅亡してしまった。


日陰には日陰のよさとダンゴ虫  奥山節子
 
 
          
   畠山重忠 (「前賢故実」 菊池容斎画)        中川大志

畠山重忠 (最後まで鎌倉武士の模範)
武蔵国男衾(おぶすま)郡に拠点を置く。坂東平氏の一族。
はじめは平家方につき三浦一族を破ったが、のちに頼朝に従った。
ちなみに参戦当時の重忠は、まだ17歳。戦いを重ねながら成長を遂げ、
宇治川の戦いで果敢に大河を渡るなど、年長者をしのぐ豪胆な戦いぶり
と実直な性格で「鎌倉武士の鑑」と賞賛されるまでになった。
頼朝が建久3年 (1190) 上洛した際には、先陣を務めているが、これは
御家人としての最大の名誉である。
しかし頼朝の没後は、権力の集中化を図る北条時政の陰謀により、
幕府軍に討たれてしまう。
実はこのとき、家臣は「逃げよう」と進言したが、重忠は潔く戦うこと
を選んだと伝えられる。


美しく見える姿勢はくたびれる  黒田茂代


「祇園精舎の鐘の音…聞くも涙の敦盛最後」


  平敦盛
 

源平合戦も終焉へ、カウントダウンもはじまろうとする寿永3年 (1184)
2月、平家の船団へ退散する平氏の隊に遅れて、葦毛の馬に、黄金の鞍、
萌黄の立派な鎧兜・金で着飾った華美な太刀拵をした平家の騎馬武者を、
手柄を探し求めていた 熊谷直実の目に止まった。


 熊谷直実


<これは名のある武将に違いない>
と思った
直実は、その武者を追いかけ、すぐ近くにまで追いつくと
 「あいや待たれい。そこにおわすは名のある大将と見た。
  大将たるもの、敵に後ろを見せるとは卑怯千万。
     わしは日本一の剛の者、天下無双の熊谷次郎直実と申す。
   いざ尋常に勝負せよ」
と、挑発し勝負を挑んだ。 若武者は、馬首を一転させ直実を睨む。
「あっぱれ 死を覚悟しての出陣か」
と、直実は威圧をかけて、渚で若武者との一騎打ちとなった。
しかし若武者が、歴戦の勇士である熊谷直実にかなうはずがない。
たちまち若武者は組み伏せられてしまった。


ラストシーン台詞の長い崖っぷち  原 洋志


直実は若武者の兜を引き剥がし、顔を見ると、我が子・小次郎と同じく
いの年恰好ではないか。
 「若武者ながらあっぱれな、名は何と申す」
 「そなたに名乗る名はない。戦で死ぬは武士の本望」
直実はこの朝、小次郎が左腕に薄手を負っただけでも、心配で心配で
たまらなかったのに、
<もし死んでしまったら、親はどう思うだろうか>
と、見逃してやるつもりになっていた。


あの場では私が主役だったはず  寺島洋子


ところが、後ろからは源氏の軍勢がこちらに向かってくる。
<逃がしてやりたい…。>
直実の眼には、薄く涙が溜まっている。
<だが、自分が彼を逃がしたら、後ろから来る者が、この若武者の首を
 取るに違いない>
「このまま逃がしてあげたいのはやまやまだが、もう逃げるのは、無理
 でしょう」
<どのみちこの武者が助からないのであれば、他の者の手にかけるより
 も今自分が討取り、弔いするほうがましだ>
と直実は考えた。


愛情の欠片を残し除草剤  曾根田 夢
 

          
    平 維盛     (「前賢故実」 菊池容斎画)            濱 正悟

 しばらく、<どうすべきか>と、思い悩む直実へ若武者は
 「早く首を切るがよい」
と、言った。 覚悟を決めた若武者は、最期まで名乗らず、
「お前に対しては名乗るまい。お前にとって(私は)良い敵だ。
 首を取って人に聞け。知っている者がいることだろう」
こうして直実は、唇を噛みしめ、泣く泣く若武者を討ちとったのだった。
名乗らず死んで行った若武者の名は、残された「小枝の笛」と呼ばれる
名笛から、平敦盛であることが判った。


競り勝って心に空いたでかい穴  上田 仁


「平家物語 敦盛最後」では、直実に呼び止められた敦盛は、観念して
潔く浜へ引き返し、直実と戦って討たれた。
実はこのとき、敦盛の馬は、足にけがをして、船にたどり着けずに、
どうせ追いつかれるならと、仕方なく引き返したのだった。
この時代、戦に負けたときは、次の戦での勝利のために、逃げ延びるのが、
「勇気だ」と教えられていた、のだが…。

直実は、決戦前夜に管弦の美しく奏でる音色を聞いていた。
残された一本の笛を見て直実は、
<昨夜の笛の音は、この若武者によるものだったのか>
と、思いかえすと、今度は、誰憚らず号泣した。
直実が頼朝に不満をぶちまけ、鎌倉を去り、法然上人のもとへ出家した
一因に 、「敦盛供養」の約束を果たすためでもあった,、ともいわれる。


ふいに夕立地蔵の水は満まんと  山本昌乃


【余談】 「逆さ馬と将軍・源頼朝への説法」


   〔行住座臥〕 西方に背を向けず
    熊谷直実 (「前賢故実」 菊池容斎画)
  

  ” 極楽に 剛の者とや 沙汰すらん 西に向かいて うしろ見せねば ”
と、 熊谷直実が詠んだ句がある
直実は、ある日、京から関東へ馬で行くことになった。
京から関東へ行くには、東を向いてしまう。
すると背中は阿弥陀様の西を向く。そこで熊谷直実は、
<今までの広大なご恩を思えば、
          どうして、阿弥陀如来に背を向けられようか>
と馬の鞍を逆さに置き、西へ向き、関東へ向かった、という。
直実の実直な性格を表したものだ。


青空をきれいに畳む花の帰路  前中知栄


建久6年2月、 直実が、頼朝に再会をしたときのことである。
「戦いに明け暮れ、権力を得たといっても、死んで行く時には、 
 何も持って行けません。
 生きている時に、変わらない幸せになることにこそ、
 本当の生きる意味があるのです」
と、頼朝に説いた。 そこに居あわせた人たちも感銘し、鎌倉に真実の
仏教が広まるきっかけとなった。
そして北条政子までが、法然上人に教えを求めた。そのとき、
【深く仏のちかいをたのみて、いかなるところをも嫌わず、
   一定迎え給うと信じて、疑う心のなきを 深心とは申し候なり】
との言葉を賜った (鎌倉二位の禅尼へ進ぜられし書)


ふいに夕立地蔵の水は満まんと  山本昌乃

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