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川柳的逍遥 人の世の一家言
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手鏡の罅は警告かも知れぬ  笠嶋恵美子


ミャンマーといえば熱心な仏教国である。
その仏教国ミャンマーでは、日本の「鎌倉大仏」が人気で、大仏付近の
土産物屋さんでは、ミャンマー観光客によって、ミニ鎌倉大仏が大量に
買われている。
    
       土産用ミニ鎌倉大仏
ミニ鎌倉大仏は、ミャンマーでは、本物の大仏を拝んでいるのと同じな
のだ。さらには日本の鎌倉大仏の前で、土下座して拝むミャンマーの観
光客もいるほどだ。
ところで、奈良の大仏でなく、なぜ鎌倉大仏なのか?
鎌倉の大仏にお祈りをすると願いが叶うという噂。
さらに具体的に、鎌倉の大仏のミニチュアを毎日拝むと、
いつか日本に行けて本物の大仏を拝めるという噂もある。


人間を続けています揺れてます  合田瑠美子


「鎌倉殿の13人」 源頼朝と鎌倉大仏と亡霊と
 


            征夷大将軍の院宣
 

「頼朝とはどんな人?」

「顔が大きく、容貌は美しい」 『源平盛衰記』
「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」
『平家物語』「征夷大将軍の院宣」の使者・中原泰定頼朝と対面
した印象を述べている。
背が低かったと泰定はいうが、頼朝の着用した甲冑から計測して、
5尺5寸(165cm)はあったとされる。
これは、当時の平均よりも高い部類になる。
顔が大きいというのは、分りにくいが、男前で女性にもてたようだ。
性格は、「けちんぼ」(倹約家)「女性が好き」(浮気性・嫉妬深い)
で、「情け容赦のない冷酷政治家」であったらしい。
その性格を、九条兼実の日記『玉葉』が、次のように書き残している。
「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」と。


善と悪捩じれて仮面出来上がる  大西將文
 

その性格を、九条兼実の日記『玉葉』が、次のように書き残している。
「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」と。
 
 〔けちんぼ・質素倹約〕
側近の藤原俊兼の贅沢な衣服を見た頼朝は、俊兼の小袖を刀で切り裂き
「お前は才能に富んだものなのに、倹約と言うことを知らない」
「今後は華美を止めよ」と、説教して奢侈を戒めた、ことがある。


いい人のポーズのままのお説教  美馬りゅうこ


     
        源 義高            源 行家


〔容赦のない冷酷政治家〕
 頼朝反対派を抑える手段として、上総広常 (佐藤浩市)に罪を着せ
  梶原景時(中村獅童)殺害させた。
 木曽義仲の子・義高(市川染五郎)を向後の憂いを払うように殺害。
③ 弟・範頼(迫田孝也)を伊豆配流直後に殺害。
  さらに白旗を挙げ助命を乞う叔父・義広、行家を誅殺。
④ 平家追討後の宣旨に関わる変わり身の早さ
⑤ 成敗文明ー後白河擦り寄る義経を平泉へ追い、自害に追い込む。
 理非裁決ー義経を裏切って、忠節を誓った藤原泰衡の騙し討ちにし、
  平泉藤原氏を滅ぼした。


人間の貌か毎朝確かめる  森吉留理恵


 〔浮気性・嫉妬深い〕
 政子 (小池栄子)に屋敷を破壊された亀の前(江口のりこ)
 八重 (小四郎の嫁にすり替える)
 大進局(伊達入道の娘、御所の女房衆)
 静御前(義経妻にやきもちを焼き、静御前を横恋慕)
 
 
色男多少しつこいとこがある  北原おさ虫


〔和歌を詠むなど風流な一面も〕
「新古今和歌集」頼朝の歌がある。
道すがら富士の煙もわかざりき晴るるまもなき空のけしきに
(頼朝が旅途中、富士山は晴れるまもない空もようのなかで…
 噴煙を帯びてはっきりとみえなかったー残念だー)
この時、頼朝の脳裏に天下が過ったのだろう…?
頼朝と政子の次男・三代将軍・実朝は、この血を継いだらしい。
もう一句。
みちのくのいはでしのぶはえぞしらぬふみつくしてよ壺の石ぶみ
(陸奥の国磐手信夫群ではないが、言わずにたえているなど私には
 理解できません。壺の碑の「ふみ」ではないが、手紙に想いを
 書いて送ってください)


のんびりと春の草食む夢を追う  前中知栄



           壇ノ浦の亡霊  (歌川国芳画)
左上、亡霊と絡み合うヘイケガニ、右、薙刀を持つ平知盛。


「頼朝と大仏」

治承4年(1180)12月28日、平重衡の「南都焼討」によって、
東大寺は灰塵と帰した。
翌治承5年、後白河法皇が、東大寺の再建計画に俊乗坊重源を任命し、
復興事業が開始させた。
しかし、最新の技術で厳選された資材を使って再建するには、
巨額の資金が必要であり、重源は資金集め苦慮していた。
3年後に重源の苦労を聞き知った頼朝は、鍍金料千両の金を寄進し、
翌年には、米一万石、砂金一千両、上絹一千疋を寄進するという、
積極的な協力を行った。
さらには、中原親能・畠山重忠・梶原景時ら頼朝の重臣たちが、
大仏の脇の「仏像3体」の製造費を負担したという。
文治元年(1185)銅造盧舎那仏坐像(大仏)の開眼供養が行われた。
頼朝は、鎌倉から数万の軍勢を率いてこれにかけつけた。
そこに要人警護として和田義盛梶原景時が、頼朝の行列や公卿の列に
並び、三浦義澄・江間小四郎らが、その警護を務めた。
頼朝の華々しい御家人たちのデビューであった。
そして10年後、「大仏殿」が完成した。


水玉がやる気を出して水滴に  森田律子


頼朝は東大寺の大仏殿の落慶供養において、大仏を仰ぎ見た頼朝は、
「このような大像を東国にも建立して、護持を祈る」
ことを望んだ。(『鎌倉大仏縁起』 )
しかし、頼朝はそれを果たすことなく、4年後に亡くなってしまう。

頼朝の上洛に付き従っていた侍女の稲多野局(いなだのつぼね)は、
頼朝の「鎌倉大仏建立」の意志を継ぎたいと考えた。
彼女は、頼朝の所願を果たすため、鶴岡八幡宮に祈願し、深沢の里の
総国分寺の傍らに庵を営んで、資金調達に努力した。
これに妻の北条政子も助力した。
金銅の大仏を鋳る大願をたてた稲多野局は、五代将軍・藤原頼嗣に請い、
造立を許されるのである。


音域を増やせば抱けるものがある  保田邦子
 


           髑髏・亡霊   歌川芳虎画
左、亡霊となった平知盛が、薙刀を振りかざし源氏軍と対峙している。


貴族社会であった日本で初めて武士による政権を作り、関東を制圧し、
鎌倉幕府を作り、その後680年にもわたり、武家政権の礎を築いた
頼朝だが、「大仏建立を願った真意」は、何だったのだろうか?
その死因が謎に包まれている。
鎌倉大仏が建立された頃、付近には、死後に出会う十王を祀る円応寺
(新居閻魔堂)があった。
鎌倉大仏は「極楽」、長谷観音「救済」円応寺「地獄」とともに、
浄土信仰に基づく情景を、構成する寺院群の一つだったという……。


堕ちるだけ堕ち大仏の手に溺れ  てじま晩秋


「頼朝の死因」

建久9年(1198)12月、頼朝は、相模川の橋供養に列席した帰路
に落馬し、その時の怪我により、翌年の1月に亡くなった…とされる。
『吾妻鏡』は、頼朝から6代将軍・宗尊親王までの時代の出来事を、
記録したものである。
にもかかわらず、頼朝の死は、それから13年も経ってから記録されて
いる。そのうえ、死後3年間の記録が、記述されていない。
武士でありながら落馬して死んだとは、褒められたものではないが、
将軍である頼朝の死に、13年間も触れないのは不自然である。


心臓に毛が生えたのも同じ頃  ふじのひろし


頼朝の死因は、他にあるという考え方もある。
、「脳卒中や糖尿病」などの病死なら隠すことはない。
北条政子が頼朝の「浮気に激怒」し殺害に及んだ、という考え方もある。
が、頼朝が浮気相手の邸へ忍んで行く時も、側近が近くに控えているし、
政子は頼朝を愛していたので、殺すまではしないだろう。

なかでは、「亡霊の仕業」だという考え方もある。
橋供養の際に、上に記した理不尽な裁断に加え、義経安徳天皇など、
指揮官として頼朝が殺害してきた人々の亡霊が現れ、驚いた馬が暴走し
落馬して死んだというものである。
当時の人々は、「怨霊」というものを信じ、恐れていたので13年間
その死に触れなかった…のではないかというのである。
だが、現代人には、この考え方も納得できるものではない。


ご遺体は半壊 ミント味の樹海  くんじろう


もう少し突っ込めば、その頃、朝廷内で起きていた「派閥争い」である。
親幕派と反幕派が内部抗争を繰り返し土御門通親(つちみかどみちちか)
が率いる反幕派が勝利したという事実だ。
土御門といえば、あの陰陽師・安倍晴明の末裔である。
頼朝の不審な事故死と怨霊の噂、そして、朝廷で幕府に、頼朝に憎悪を
燃やす安倍清明の子孫。
「あの安倍晴明の子孫だから、何をするかわからない」
「平家や義経の怨霊が、鎌倉に祟っているのだ」
と、迷信深い当時の武士たちが震えあがった、こともあり得る。


巡り合えたところで洗濯物を干す  谷口 義


「頼朝伝説」ー糊売り婆さんのお願いに。
 
頼朝が鎌倉に入った頃の事。
頼朝は、鎌倉には谷戸が多いので、その数を調べることとした。
その方法は、谷戸ごとに「のろし」を上げさせて数えるというもの。
一番高い山に登って<のろし>を数えていた頼朝は、
長谷の谷戸で五色の煙をたなびかせている<のろし>を発見した。
さっそく、家来に命じて調べさせた。
すると一人の婆さんが
「<麻のから>と<胡麻のから>を燃やしていた」のだという。
<五色ののろし>に感心した頼朝は、婆さんを呼び出して褒美をとら
せることにした。
「何がよい」
と、聞くと、糊を売ることを生業とする婆さんが望んだのは、
「鎌倉での糊の販売の独占権」
というから、頼朝はすぐに婆さん以外の者が、糊を売ることを禁止した。
やがて、婆さんは大金持ちになった。
婆さんは、金持ちになれたのは、「仏様のおかげ」と考えた。
そこで婆さんは、今度は長谷の谷戸に大きな仏像を造ることを思い立ち、
頼朝に「仏像建立」の手助けを願った。
頼朝は、その奇特な志に感心し、大金を出して助力したという。


物よりも時間くださいごほうびに  立蔵信子



  鎌倉市長谷にある浄土宗の寺・高徳院

  本尊は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」と通称される大仏(阿弥陀如来像)で、
台座を含めた高さは13.35m、重さは122tという巨像で国宝に指定される。
右の頬には金粉が残り、金像であったことがうかがえる。

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