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川柳的逍遥 人の世の一家言
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惜しいから息はときどきしかしない  清水すみれ




江戸の賑わい(駿河町)
「江戸に花をつけて『花のお江戸』というのはなぜだか知っているかい」
「それは、江戸の賑々しさを花の華やかさにかけたのさ」
「なるほど、お前ぇは物知りだ。
 そんなら、「お江戸八百八町」とはどういうことだ?」
「それは江戸中で、おおよそ八百八丁くらいは豆腐が売れるってことさ」
「江戸八百八町」とは、江戸が大都会で、江戸の町数が多いことを示した
言葉で、将軍吉宗の享保9年の調べによると町人人口は64万2190人、
町数は1672町となっている。すなわち八百八町よりも倍多い。
もともと江戸地は、全体の60%が武家地、残りの40%は寺社地と町人
地に等分されていたというので、約20%の狭い土地に、町人たちはひし
めき合って暮らしていたことになる。
(文化3年(1806)の頃になると、江戸は武家人口を合せると百万人を超え、
パリ、ロンドンをしのぐ大都会へと発展した)
街路樹が友達だとは限らない  市井美春
「江戸の風景」 江戸の治安
江戸の町の社交場は湯屋の二階や髪結床だけではなく、居酒屋や水茶屋
なども代表的な社交場だった。
ただ意外な場所としては、「自身番」がある。
「怪しい奴だ、ちょっと番所までいっしょに来てもらおうか」
と岡っ引きに捕まり、しょっぴかれて番所へ連れ込まれるシーンは、
テレビの時代劇ではお馴染みである。
あの番所のことを「自身番」と呼ぶ。
江戸の町人たちは、各町内に簡素な小屋を設置し、
大家や書役などが昼夜詰める体制を作って近隣の治安を守った。
自身番の番人たちは、夜回りをして不審者を訊問する権利も公儀から
与えられていた。自身番の建築費用や運営費は、今でいう町内会費から
支出されており、幕府としては、警察費用が浮き、助かっていたのだ。

石垣の石はスクラム組まされる  籠島恵子

   自 身 番
自身番の広さは、当初、幅2・7m、奥行き3・6m、軒高さ4・8m
だったが、そのうち二階建てになり、広さも増した。


自身番についた火の見櫓
江戸時代の後期には「火の見櫓を備える自身番」が増え、番所の中には
捕り物道具のほか、消防用具が設置され、火が出た時には、消火活動に
もあたった。さらには訴訟など様々な願書への押印、捨て子や行き倒れ
人の保護、はては喧嘩の仲裁までを担った。
このため番所にはしょっちゅう人々が出入りする。
そもそも自身番は、町人たちが金を出し合って運営している公共施設で、
人々が気兼ねなく自由に上がり込んできた。こうして必然的に自身番は、
庶民の憩いの場となったのである。
自身番に似たものに「辻番」がある。
辻番とは、江戸時代の武家屋敷の辻々に設けられた自警のための番所、
または番人をいう。辻番の多くは老人が務めていたという。
辻番は棒をつかぬと転ぶたち こんな風刺川柳も作られた。
タンポポを見ながら足湯しています 井上一筒



与力の風体
髪は髪結いが通い、月代と髷を整えた。
基本的に出仕時は継袴を着て、草履を履いていた。
普段は十手は懐に隠していた。
外出時は4‐5人ほどのお伴を連れていた。
広い屋敷を貸して家賃収入を得る者もいた。

「与力の仕事」
さて実際の江戸の町の治安を守るのは、「八丁堀」である。
NHKで放映中の中井貴一の「雲霧仁左衛門」や東山紀之の「必殺仕事人」
中村吉右衛門の「鬼平犯科帳」など、捕り物の時代劇を見る時、今ここに
書く江戸の治安の蘊蓄を頭にいれおいて頂くと、なお面白いドラマ観賞に
なることうけあい。
日本橋の南の舟入場は、八丁堀と呼ばれた。
その八丁堀に「与力」「同心」の組屋敷が並ぶ官舎街があったことから、
与力と同心は「八丁堀の旦那」と呼ばれた。
いずれも、町奉行が警察署長としての職務を執行する際に働く事件捜査、
犯人逮捕の実働部隊である。まさに昭和時代の刑事である。
怪しいものですとは誰も言わんやろ  西山春日子
ただ同じ八丁堀の旦那でも、与力と同心には大きな階級の差があった。
南北の町奉行所には25人の与力、100~140人の同心が配属され
ていたが、家禄、待遇、権限のすべてに大きな差がつけられていた。
与力は200石で、同心は30俵二人扶持。
与力は終身雇用の世襲制、同心は1年契約。
さらに与力には、訴訟を処理する権限があり、ほとんどの事件は、
与力の処理を町奉行が白洲で追認していたが、
同心の職務は、捜査、逮捕、取り調べまでだった。
与力は手当を役所から受け取ってはいるが、それだけでは足らず、
大名や商人から金を受け取ることが公認されていた。
しかし、その金で裁きが左右されることはないとはっきりするために、
きちんと領収書を認めていたという。
ひけ目でもあるのか雨がそっと降る  嶋澤喜八郎


同心の風体
髪型は町人にも人気だった「小銀杏」と呼ばれる細くて短めの小振りな
髷を結っていた。
黒紋付羽織に着流しで足元は雪駄という、粋な恰好が庶民の人気を得た。
羽織の裾を帯に巻き込む「巻羽織」も流行した。
100坪ほどの屋敷地に30俵2人扶持の収入で、二人の奉公人を雇わ
なければならなかった。

「同心の仕事」
町奉行所の同心には、警察署の刑事と同じく、「橋回り」「水路回り」
「牢の監督」など色々な職務があった。
花形は、何といっても犯罪捜査と犯人逮捕に当たる「定廻り」
現場検証をし、岡っ引きを情報屋に使い、下手人を捕縛し、番屋で取り
調べを行うのが、定廻りの仕事である。
そして定廻り同心は、取り調べで容疑が固まった段階で、自分の手で
逮捕した下手人を与力に引き渡す。そこから先は権限外だった。
下手人が白洲に引き出されるかどうかは、与力の取調べにかかっている。
 因みに、与力と同心とでは、十手の差し方が違う。
刀と揃えて腹の前に刺すのが与力で、腰の後ろに隠して差すのが同心。
その根拠は定かではないが、現場を動き回る同心としては、町に溶け
身分を悟られるのがまずかったのかも知れない。
現住所はダンボール的屋根の下  山口ろっぱ
定廻りは、夫々の町奉行の下で、担当地区を巡回し、お上が出した法令
が守られているか、如何わしいことはないかなどを監視し、犯罪が発生
すれば取り締まる。犯罪捜査よりもパトロールの意味が強かったから、
それぞれの町に設けられた番屋はもちろん、商家などにも顔を出す。
そこでは、自分の処へ来てくれる八丁堀の旦那に対して接待をするから、
食事はおろか、酒も飲み放題になる。担当地区の大家から付け届けなど
もあり、年収を数倍も上回る収入があったようだ。
武士が公務で出歩くときには羽織・袴だが、八丁堀の同心だけは例外で、
紋付の羽織を着用するが、下は着流しで、帯は博多、雪駄履きだった。
三元号生きて三回転できる 河村啓子



自身番に集う町民


「岡っ引きと下っ引き」
岡っ引きというのは、同心が自分の身銭で雇う町人の情報屋である。
定廻り同心は、巡回のときに「小者」を連れている。
これは正式な配下ではないが、同心直属の部下だ。これに対して、
その区々の持ち場で手助けをする者を「岡っ引き」といった。
岡っ引きは「御用聞き」ともいわれ、江戸以外では「目明し」
関西では「手下」とも呼ばれた。
小者が同心屋敷で生活している下男とすれば、
岡っ引きは、同心に個人的に仕えるだけで、保証らしいものはない。
同心の下には岡っ引きが、2、3人付いているが、
その岡っ引きの下にはまた4,5人の手先が付いている。
岡っ引きも一人前になると、一人で5,6人くらいの手先を使っていた。
その岡っ引きは、さらに手下を抱えている。張り込みや連絡が必要な時に、
緊急で招集をかけるときの手数である。それらを「下っ引き」といった。
神田明神下に住む岡っ引が銭形平次で、下っ引き八五郎という具合である。
この町で咲きこの町の土になる  笹倉良一

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茶助
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