川柳的逍遥 人の世の一家言
テロ憎むうつくしい花咲く限り 森中惠美子 『龍馬暗殺に成功した京都見廻組のリーダーは、「佐々木只三郎」という人物である』 佐々木は、幕末の剣客の中で、最強のひとりだったという説もある。 龍馬は、最も恐るべき男に狙われたといっていい。 七味とはいえ辛味しかわからない 清水一笑 佐々木只三郎は、会津藩の生まれである。 会津精武流の使い手で、その”小太刀の腕前”は日本一とさえいわれた。 佐々木は、見廻組だけでなく、 新撰組誕生をめぐっても、キーマンの役割を果たしている。 彼の兄である手代木直右衛門は、会津藩の若年寄で、 藩主・松平容保の懐刀のような存在だった。 この兄弟のラインが重要なのだ。 カメラでは捉え切れない無言劇 谷垣郁郎 佐々木只三郎は当初、新撰組の前身・浪士隊に取締役・並出役として参加。 浪士隊が東西に分裂したとき、京都に残った浪士隊は会津藩に預けられ、 これが新撰組となる。 この周旋工作をしたのが、佐々木だったと考えられるのだ。 佐々木は、兄・直右衛門と緊密に連絡し、 その兄が会津藩を動かしたのである。 与野党でオセロゲームの陣地取り 八木 勲 見廻組の誕生にも、手代木・佐々木の兄弟ラインが、深くかかわっていたとみられる。 佐々木只三郎の名を一躍轟かせたのは、清河八郎の暗殺によってである。 清河八郎は、新撰組前身の浪士隊創立の呼びかけ者であり、 普通は3年かかる北辰一刀流の目録伝授を、1年で成し遂げた男である。 当代屈指の剣客であり、 新撰組の近藤勇、芹沢鴨ら荒くれ者も手を出せなかった。 あきらかに転ぶあきらかに嘲笑 中野六助 佐々木は、幕閣から清河抹殺の任を負うと、清河の隙を待ち続け、 ある夜、旧知の清河と、偶然出くわしたかのようにして挨拶、 清河が油断したところを、仲間とともに、一撃で仕留めている。 佐々木は、人を油断させるのが巧みで、龍馬もまた、油断させられてしまったのだ。 佐々木は、龍馬暗殺において、実行犯の奥に控えた。 仮に、龍馬が刺客の攻撃をかわし、階下に逃げたとしても、 そこには、佐々木只三郎が待ち構えている。 佐々木に狙われた以上、すでに龍馬に逃げ道は、なかったといっていいかもしれない。 劇薬と書いといたのに減っている 島田握夢 幕府当局の目から見れば、龍馬は去る慶応2年1月23日、 伏見の寺田屋で、奉行所同心を殺傷した逃亡犯であるにすぎなかった。 佐々木只三郎は、報復の一念と大魚を屠る野心に燃えていた。 勝海舟は、 「佐々木に上から指示を下したのは、 大坂町奉行から大目付に転じた松平大隈守信敏、 ならびに、その下役だった目付の、榎本対馬守道衛だったのではないか」 と推定している。 (『海舟日記』明治3年4月15日) ≪当時の記録には、『時に坂本、名を変じて才谷梅太郎という。 幕吏の探偵を避くるなり。しかるもなお流言あり。 「土佐の豪侠坂本は、頃日、浪士300人を率い窃かに京都に入り込めり” 幕吏のこれを忌憚する事甚し」 鳥羽伏見の戦いで着用したとされる鎖帷子ー丈は約70センチ。(霊山歴史館) 麻と鉄で作られ、佐々木家の家紋・四つ目結が見られる。 右下に銃創を受けた血糊と、左肩口に斬り込まれた跡がある。 「佐々木只三郎・辞世の句」 ”世はなべて うつろふ霜にときめきぬ こころづくしの しら菊のはな” 死ぬ少し前に、飛び込んだ酒屋で酒代の代わりに、襖に書き付けたという。 流れる砂転がる砂仏になる砂 山口ろっぱ PR
一幕四場の俺のドラマのあとわずか 大海幸生
近江屋に履き捨てられた下駄ー(この下駄に近江屋の刻印が残る) 『龍馬暗殺は、数ある幕末の暗殺のなかでも、もっとも手のこんだもののひとつといえる』 危険を感じていたはずの龍馬が、まんまと油断させられ、 何ら反撃できないまま、斃されたのだ。 うまく行きすぎると何か恐くなる 宮前秀子 慶応3年(1867)11月15日/午後8時過ぎ、 武士達は、「十津川郷士」と名乗り、名刺を渡し、龍馬に面会を求めた。 一説には、「松代藩士」を名乗ったともいわれる。 取り次いだのは、龍馬の従者・藤吉だった。 龍馬には、面識がある十津川郷士がいた。 藤吉も、そのことを知っていたので、 疑いを抱くこともなく、二階にいる龍馬のもとに名刺を持っていった。 藤吉は、龍馬に名刺を渡し、階段を下りてきた。 そこに刺客が待ち伏せていて、藤吉を斬り倒した。 二階の龍馬の耳にも、その倒れる音や藤吉の悲鳴が届いたが、 龍馬は、 「ほたえな!」 「ほたえな」とは、土佐弁で”暴れるな”・”ふざけるな”という意味だ。 龍馬は、元相撲取りの藤吉が、ふざけて相撲でもとっていると思ったようだ。 これが、最後の運命の分かれ目となった。 鼻血くらいでいつも救急車を呼ぶな 三好聖水 刺客らは、階段を駆け上がり、奥座敷の龍馬のもとに姿をあらわす。 そのとき、刺客らはいきなり戸を開け、襲いかかったという説もあるが、 刺客のひとりは、龍馬の前で、 「坂本様、おひさしゅうございます」 と丁寧に挨拶したともいわれる。 その説に立つと、刺客の挨拶に龍馬は、 「誰だろう?」 そのやりとりで、刺客は、どちらの人物が龍馬であるかを特定できた。 五分五分の可能性なら賭けてみる 嶋澤喜八郎 刺客は突如、刀を抜き、思案している龍馬に襲いかかった。 と、同時に別の刺客が、中岡慎太郎に襲いかかったという。 龍馬に襲いかかった刺客は手練であった。 最初の一撃は、龍馬の額を襲い、第二撃は、肩から背中を斬りつけてきた。 それでも龍馬は、刀の鞘をつかみ、 だが、龍馬の抵抗もそこまでだった。 刺客は、もう一度龍馬の頭を狙い、刀を振り下ろしてきた。 龍馬は避けることができず、 青い絵の中で激しく吠えている 阪本高士 そして刺客は、龍馬が絶命したことを確認すべく、龍馬の脚を刺した。 このとき、「さあよからん」という言葉を残している。 いっぽう、中岡慎太郎を襲った刺客の手際は、龍馬を斬殺した刺客ほどではなかった。 中岡の全身を斬りつけ、中岡に28か所もの傷を負わせたものの、 とどめを刺せないでいた。 龍馬を倒したほうの刺客は、それで十分と見なし、 中岡を相手にした刺客を制止し、引き揚げにかかった。 刺客の去ったのちも、龍馬には、かろうじて息があった。 龍馬は虫の息ながら、中岡慎太郎に呼びかけている。 中岡は、薄れていく意識のなかで、それを記憶した。 「挙動にくむべし、剛胆愛すべし。この剛胆ありて、初めて事をなすべし」 これは、自分を襲った刺客の実行力を、ほめての言葉だろうか。 つづいて、悔恨の言葉を吐く。 「遺憾なり。之をもって奴輩に斬らざりしことを」 龍馬は、迫る死を無念に思ったのだ。 「余は深く脳を斬らる。とうてい生くるあたわず」 これが、龍馬のこの世での最期の言葉となった。 ≪中岡は、このあと救出され、龍馬より2日ほど長く生き、11月17日に息をひきとった≫ どん底に居ても明日の設計図 村田己代一 戦いの姿勢でブーツなどはくか 森中惠美子
龍馬は盟友・中岡慎太郎とともに、暗殺される。 暗殺の舞台となったのは京都の”近江屋”である。 近江屋は、今の京都の繁華街・河原町通り沿い、 蛸薬師通りを南に、少し下ったところにあった醤油屋で、 龍馬の母藩・土佐藩の京都藩邸にも、醤油を納めていた。 京の街路面電車は雨に濡れ 田中峰代 主人・新助が意気に感じるタイプだったからだ。 近江屋から北に少し上がった三条通りの近くには、 そこは、海援隊の京都本部であり、 最後となったこの京都入りでも、 9日から、酢屋に宿泊、13日になってから、近江屋に移っている。 抽斗の奥に眠っている地雷 笠嶋恵美子 龍馬は万一に備えて、近江屋では母屋には泊まらず、 近江屋主人・新助は、土蔵に隠し部屋をつくり、 そこに龍馬らを、かくまっていたのである。 新助は、情報漏洩を恐れて、 自分の家族にも、今回の龍馬潜伏を話していなかった。 手の内を読まれぬように霞網 伊藤益男 龍馬が常宿・酢屋を離れ、近江屋の土蔵にこもったのは、 幕府方の警戒体制に、ただならぬものを感じたからだろう。 京都では、「新撰組」に加え、 警戒レベルを上げていたのだ。 新撰組から分離した高台寺党の伊東甲子太郎と藤堂平助は、 龍馬と中岡慎太郎に対して、 「新撰組が龍馬を血眼で捜している」 ことを語り、とりあえず、土佐藩邸に避難するように忠告した。 疑問符がまとわりついて眠れない 合田瑠美子 龍馬も、危険の迫っていることを感じ、 土佐藩邸入りを検討するが、 土佐藩邸は、かつての脱藩者に冷たく、龍馬をかくまうことを拒否した。 あとは薩摩藩邸が、頼みの綱だが、 「土佐へのあてつけになるから・・・」 と龍馬は薩摩藩邸へ入ることを、断念していた。 知らぬ間に味方の数が減っている 八田灯子 悲劇が起きるのは、龍馬が風邪をひいたためでもある。 旧暦11月中旬といえば、いまの暦では12月なかば。 京都名物の底冷えが、一段と厳しくなる時期であり 土蔵暮らしは、発熱している龍馬の体にはこたえた。 そこで龍馬は14日、土蔵から母屋の二階座敷に移った。 下水道の奥の無人島である 井上一筒 翌15日、龍馬は隣に住む土佐藩参政・福岡孝弟を二度訪ねるものの、不在。 夕刻には、中岡慎太郎が龍馬を訪ねてきたので、 龍馬は軍鶏鍋を食べようと思いつき、小僧の峯吉に、 「軍鶏を買ってくるよう」 龍馬は用心棒をかねて、元相撲取りの藤吉を従者にしていたが、 ほかに備えはなかった。 龍馬は、無防備なまま、運命の夜を迎えた。 焼き鳥屋の前ニワトリは歩けない 西澤知子 ”大政奉還”は慶喜の「高度な政治判断」であったが、その目論見は外れた。 「大政奉還への道」 大政奉還は、徳川慶喜が放った「起死回生の奇策」というイメージで語られてきた。 政権を返上してしまえば、 薩長らの掲げる「倒幕」は、意味をなさなくなるという論である。 たしかに朝廷は、日本全土を統治する能力はない。 外国から一人前の政権として、認められるだけの外交実績もない。 ≪まるで現在の民主党(菅政権)の事を言っているようである≫ 「薩摩や長州は、しょせんは寄せ集めだから、やがて進退窮まって、 徳川家を盟主とする政権を、作らざるを得なくなるだろう」 そのような「高度な政治判断」で考えた、慶喜の”大政奉還”であった。 橋上にうかつに耳を置いてくる たむらあきこ 「一方、薩土盟約を実現した龍馬らの構想は・・・?」 大政奉還と武力倒幕は、一般的には、対立する概念と思われているが、 そうではない、いきなり幕府を軍事力で倒すとなると、 土佐藩のような親幕府的な心情を抱いている藩は、なかなか踏み切れない。 大政奉還を経ての、新政権構想を掲げることで、 「土佐藩のみならず各藩を次々と巻き込み、事実上、幕府を無きものとしてしまう・・・」 ≪「薩土盟約は、あきらかに幕府を否定している」 「王政復古は論なし」 「国に、二帝なく、家に二主なし、政刑唯一君に記すべし」 「将職に居て政柄を執る、是天地間有るべからざるの理也」≫とある。 太陽に豆板醤をまぜた 石田柊馬 当時、全国のほとんどの藩において、藩内世論が分裂状況にあった。 「揺れ動く」諸藩を、可能なかぎり、 まずは、幕府に「大政奉還」をさせる。 最後は、徳川権力の廃絶につながっている「渡り廊下」としての、 大政奉還という考え方であった。 渡り廊下に入ってしまえば、 結局は武力倒幕が実現する。 ≪”大政奉還しない幕府を倒すこと” と、 ”大政奉還して、弱体化した幕府を倒すこと” 渡らせて淵となりゆく桂川 杉浦多津子 後藤は、当時、徳川慶喜は二条城に滞在していたので、 慶喜の決断を仰ぐために会見におよぶ。 その会見の直前、後藤は龍馬から激励の手紙を受け取っている。 「もし後藤が戻らなければ・・・海援隊を引き連れて、慶喜を襲撃して自分も死ぬ」 さらには、もし後藤の献策が失敗して、 その罪は天が許さないだろうから、もはや生きていられないだろう」 と、後藤を脅迫するかのような、ことさえ書いている。 なみなみの今を零してはならぬ 山本早苗 大事にあたる際のこうした迫力、覚悟もまた龍馬の一面を語っている。 龍馬は決して、単純な平和論者ではなかったし、 時代の大変革が起こる過程では、 「ある程度の犠牲が出るのは止むを得ない」 と考えるリアリストでもあったのだ。 そして、後藤の献策をうけた慶喜は、その日のうちに、 在京40藩の重臣を二条城に招集し、「政権返上」を告げる。 翌14日、「大政奉還上表」が朝廷に提出され、 15日の朝議において、勅許が下り、大政奉還は正式に成立する。 もはや賽は投げられた。 時代状況は、倒幕へと向かう激流となり、 龍馬もまた、その激流の中に身を置くことになる。 『龍馬伝』・第47回-「大政奉還」 あらすじ 大政奉還へ、 容堂(近藤正臣)の書いた建白書を受け取った将軍・慶喜(田中哲司)は動揺する。 龍馬(福山雅治)は、慶喜に一番近い永井玄蕃頭(石橋蓮司)に直接会い、 「徳川家を存続するためにはこれしかない」 と説き、慶喜を説得してくれと頼む。 弥太郎(香川照之)は、「戦が始まり武器が高く売れるようになる」 ふと、「龍馬なら大政奉還を成し遂げる」 大政奉還を問うが、どの藩も反対しない。 時流を悟った慶喜は、大政奉還を決意する。 知らせを待つ龍馬のもとに、勝(武田鉄矢)が訪れる。 幕臣である勝は、龍馬がなくそうとする幕府の人々の将来を憂うが、 龍馬は、 「皆が同じように、自分の食いぶちを自分で稼ぐ世の中になる」 と返す。 そこへ大政奉還の知らせが舞い込み、 しかし、武力討幕を目指してきた”薩摩や長州”、 そして、揺るぎないはずだった”権力を奪われた将軍、幕臣たち”が、 自分たちの道をことごとく邪魔をする、 ≪「余談」ー龍馬は大政奉還後の政権を慶喜が主導することを想定していた。 しかし、慶喜本人が、龍馬という人物の存在を知ったのは、 明治に入ってからであった≫ 生と死の中ほどに立つ彼岸花 前田扶美代
≪豆辞典 一の間、二の間を合わせると92畳の大きさ≫ 『エピソード―岩倉具視』 かっての五百円札に刷り込まれていた人物といえば、岩倉具視である。 長い間、財布のなかで、親しまれてきた岩倉さんだが、 幕末から昭和初期の頃には、意外と陰険な「ヤモリの男」と呼ばれていた。 時は、慶応3年(1867)12月9日、「京都御所内・小御所」において、 徳川幕府による260年間の日本統治に、ピリオドを打つ「会議」が執り行われていた。 このときの主役が、岩倉具視であった。 対するは、土佐の山内容堂である。 容堂は、朝廷と幕府とを合体させて、諸藩連邦を目指し、 政局の安定を図ろうとしていた。 獏を探しに切符一枚携えて 井上恵津子 しかし、容堂は大酒飲みで、朝から『酔って候』の悪い癖がある。 この日も、朝から飲んでいた。 岩倉の立場は、 「徳川の嫡流を完全に絶たなければ、新政府は実体のないものになる」 との考え方に拠る。 大久保利通、西郷隆盛も、同様の考え方であった。 容堂とは、まったく相容れない立場にある。 縛りたいものがあるのに紐がない 佐藤美はる 西郷は、 「いよいよのときには、この短刀一本でケリがつく」 と、別室で同志を前に鞘を抜いてみせ、覚悟を決めている。 そこで腹黒い岩倉は、容堂おろしを決断する。 容堂の腹の内は、すでに割れている。 酒を飲んでいる容堂が、失言するのは当然と見て、 その言葉尻をつんで、 待ちに待った容堂の発言が始まった。 「本日の暴挙たるや、二三の者たちが幼沖の天子を押して、天下を私物化しようとしている」 と、やった。 沈黙の中で発信する自信 白石恵子 それを聞くなり岩倉は、こう切り返した。 「御前でござるぞ、山内どの。幼仲の天子とは無礼千万。お言葉をひかえられ」 容堂は動揺する。 さらに岩倉は、そのタイミングを捉えて、居丈高に叱りあげた。 もはや容堂に勢いは無かった。 岩倉は、自ら御前会議の主役に立ち、ついに容堂の主張を退けたのである。 ≪岩倉の陰険な対応にはかなりの凄みがあったらしい。 この一件があって、岩倉具視は陰険な「ヤモリの男」と形容されるようになった≫ 虚勢張り瀬戸際をゆくほかはなし 村岡義博 「小御所会議を中継する」 12月9日の”王政復古のクーデター”があったその日の、午後8時頃から、 生れたばかりの三職による「小御所会議」が開かれた。 議題は、「徳川家処分」だ。 小御所・古写真 御簾に隔てられた「上段の間」は、 中央に厚畳二枚を重ねた上に、褥(しとね)を置いて玉座とし、明治天皇が臨席する。 一段下の「中段の間」には、総裁以下が着座する。 玉座に向かって右(東側)には、岩倉具視ら、親王及び公家が西向きに並ぶ。 左には徳川慶勝、松平春嶽、浅野茂勲、山内容堂、島津茂久の五大名が、列座している。 「下段の間」には、大久保一蔵、後藤象二郎、辻将曹など、 参与になった五藩の重臣たちが、敷居際まで詰めている。 中山忠能が開会を宣した。 最初は水を打ったような静寂。 まず容堂が、雷が轟くような声で、 「この会議には、慶喜公も列席させるべきだある」 と発言した。 喧嘩腰である。 体格と声量で一座を圧倒した容堂は、傍若無人に言いつのる。 「かくのごとき暴挙を企てられた三、四卿は、いかなる意図をもって幼沖の天子を擁し、 政権をほしいままにするのであるか」 右足が沈むすばやく出す左 杉山ひさゆき 「不敬であろう!」 鋭い一喝が響く。 岩倉具視である。 顔を蒼白にして膝立ちになり、ハッタと睨み付ける眼光は刺すように鋭い。 「今日の拳は、ことごとく宸断に出で賜うものである。 幼沖の天子を擁するとは何たる妄言ぞ」 見事なカマシであった。 失錯に気づいた容堂はとっさに態度を改め、畳に深々と頭をたれ、 玉座に向かって失言を謝罪する。 沈みます藁一本を懐へ 谷垣郁郎 これで流れが変わった。 春嶽がグズグズ抵抗して重い空気になり、 忠能が徘徊老人のようにウロウロするのを、具視が、また叱り飛ばす。 休憩時間に、具視は、 「容堂を何とかしろ」 と茂勲に凄みを利かせる。 しばらくして再開された討議では、容堂はむっつりと沈黙を守り、 会議は、 虹の向こうの楢山を誰ももつ 森中惠美子 |
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