川柳的逍遥 人の世の一家言
補聴器が拾うとんでもない話 山本芳雄
露 西 亜 船 「フヴォストフ事件」
文化元年(1804)、ロシア側の正式な大使としてレザノフがやってきます。
ラクスマンが受け取っていた長崎への入港許可証を持ってきました。
しかし幕府はラクスマン一行に対して行ったような丁重な対応はせず、
レザノフに対して非礼な対応を取ります。
レザノフを実質的に半年間幽閉しただけでなく、結局通商を認めません
でした。レザノフは、正式なロシアの大使であるにも関わらずです。
帰国したレザノフは、2年後、日本に対しての報復を行います。
部下であるフヴォストフに松前藩領であった樺太の襲撃を命じます。
聞く耳は一つも持ってないみたい 津田照子
幕府の無礼な扱いを受けたラクスマン一行 「意次が目指した財政再建と外交政策」
意次が老中となり幕政の実権を握ったのは明和9年(1772)、54歳のとき
である。 これをきっかけに意次は自らの政治的才能を開花させ、功利的で重商主義的
な政策を次々と打ち出すことになる。
当時、幕府は財政難にあえいでいた。年貢を増やそうにも吉宗の時代に新田
開発をやりつくしており、限界があった。そこで意次は商業資本を積極的に
利用して財政を立て直そうとした。
蝦夷地の開拓計画も壮大だった。北海道の十分の一を開拓して新田畑を造る
という大規模なもので、開拓後はロシアとの貿易までも計画していた。
当時は、ロシアの脅威が声高に叫ばれていた時代で、意次はロシアと国交を
結び貿易を行うことで日本を守ろうとした。
このことから、当時としては珍しい外国にも目を向けていた政治家であった
ことが分かる。
蔦屋重三郎ー花魁・誰袖
誰袖は、生没年や成り行きの実態は不明だが、田沼意次の時代に吉原に生きた
実在の人物として小さくも史実に残る。
新興勢力として知られる吉原の妓楼大文字屋の花魁である。
大文字屋は、かつて西海岸に店を構えていたものの、次第に繁盛し京町一丁目
に転居するほどの隆盛を見せていた店である。 その看板として名を馳せたのが誰袖であり、「呼出し」の格式を持つ最上級の
花魁であった。新造や禿を従え、豪華な衣装に身を包んだ彼女の花魁道中は、 吉原の名物として人々の注目を集めたことだろう。 誰袖の名が江戸中に広まったのは、勘定組頭であり老中・田沼意次の腹心だっ
た土山宗次郎によって、千二百両という莫大な金額で身請けされたことによる。 お隣を覗けば十桁の通帳 森 茂俊
誰袖は、吉原の華やかさを象徴する花魁でありながら、その存在は江戸の政治
や文化の転換点とも密接に結びついていた。 身請けという一見華やかな出来事の背後に、権力、贅沢、そして失脚、という
ドラマが潜んでいたのである。 あんたを閉じ込める万華鏡の中 井上一筒
蝦夷地には、金山や銀山も眠っているから、そこを直轄地にして交易すれば、
幕府は大金を稼げる。それが意次らのねらいだが、その蝦夷地は松前藩が管轄 している。だから、幕府の直轄領にするなら、松前藩の領地を召し上げる必要 がある。そこで意次の嫡男の意知が、松前藩の「落ち度」を探すことになった。 意知がまず繰り出した場所は吉原だった。
平賀源内の片腕だった平秩東作(木村了)から蝦夷地に詳しい人物として紹介 された、勘定組頭の土山宗次郎が花見会を行うので、そこに参加したのだ。 ただし、意知は変装して「花雲助」と名乗っていた。
花園のところどころにある沼地 みつ木もも花
「文 武 二 道 万 石 通」
駿河屋で酒宴が開かれ、その席では土山の横に誰袖がいた
左中央が疑惑の金一億二千万両で身請けされた花魁誰袖
花見に続いて駿河屋で酒宴が開かれ、その席では土山の横に誰袖がいた。
彼女は土山の馴染みの女郎なのである。
そして、この2人は史実においても、馴染みどころではない関係になる。
だが「べらぼう」の誰袖は、土山の横にいながら花雲助こと田沼意知に見惚れ、
そちらに近づこうとする。
意知は、松前藩の元勘定奉行で、いまは藩を離れている湊源左衛門との密談に
熱中していた。湊からは、「藩主の松前道廣が横暴のかぎりをつくし、藩とし
ても抜け荷(密貿)をしている」という話を聞き出していた。 その話を誰袖は、十文字屋の者に盗み聞きをさせていたのだ。
ややこしいところで咲いている私 井上恵津子
後日、田沼屋敷に呼ばれた土山は、意知に誰袖からの手紙を渡した。
そこには折り入って話があるという旨が書かれていたので、意知はふたたび
花雲助に扮して大文字屋に出向いた。
すると「誰袖は彼に、吉原に出入りする松前藩関係者や、松前藩の下で取引 する商人の情報を提供する」と、持ちかけた。 意知が「間者の褒美にカネがほしいということか」と問うと、誰袖は言った。
「カネよりもっとほしいものがありんす。花雲助さま、わっちを身請けして おくんなし」 挑発に乗るまい点滅の黄色 日下部敦世
誰袖という花魁は、かなりの策士であり、一途だった瀬川(小芝風花)と較べ
ると、比較にならないほどしたたかである。 もちろん、それは「べらぼう」というドラマに描かれた姿だが、史実の誰袖も
状況証拠からすると、かなりしたたかだった可能性はある。 めん鶏がのぞく椿の隙間から くんじろう
「赤蝦夷風説考」①
蝦夷地の重要性を田沼意次に認識させた工藤平助は仙台藩が誇る多才な
医者だった。
土山宗次郎は、田沼意次の権勢下で台頭した旗本で、明和9年(1772)に
意次が老中になったのち、安永5年(1776)に勘定組頭、すなわち幕府の財政
を管理する勘定所<今の財務省および農水省>の大臣にあたる勘定奉行の下で 組織を統括する役に抜擢された。
(「べらぼう」の第21回)で、三浦庄司が意次に、蝦夷地の開発とロシアとの
交易を提言したのは、仙台藩の江戸詰藩医だった工藤平助が天明3年に、対ロ
シアの海防の重要性などを書いた『赤蝦夷風説考』を読んだ結果だった。
じつは、その三浦を介して、意次に、この書物を提出しようとしたのが、土山
宗次郎だったとされる。
再生のサインかさぶたそっと剥ぐ 上坊幹子
「赤 蝦 夷 風 説 考」② 現実には『赤蝦夷風説考』のことは、土山宗次郎の上司で意次の側近でもあっ
た松本秀持を介して田沼に進言され、その結果、土山が中心となって、天明4
年(1784)には平秩東作らを、天明5年(1785)にも探検家の最上徳内ら何
人かを、蝦夷地に調査に向かわせることになった。 まさにそんな最中に、土山は吉原に頻繁に通い、誰袖を身請けしたのである。
脚本家はそこにヒントを得て、蝦夷地をめぐる駆け引きに加わり、自分が身請 けされるように、したたかに立ち回る誰袖像を創り上げたのだろう。
鶏頭の赤に触発されている 宇治田志寿子
史実の誰袖が、蝦夷地問題に関わったかどうかはわからない。
わかっているのは、土山が大田南畝らとつるんで吉原に通い詰め、
その結果、誰袖を千二百両かけて身請けした、ということだけである。
ただ、それは、土山が蝦夷地調査に邁進していたタイミングだったことは間違
いなく、教養がある誰袖も、蝦夷やロシアに関する話を聞かされていたと考え
るほうが自然だろう。
誰袖が「万載狂歌集」の「恋の部」に残した一首。
” 忘れんとかねて祈りし紙入れの などさらさらに人の恋しき ”
(「忘れよう」と祈るようにして見ないようにしていた紙入れ-----かつて恋人
との思い出が詰まったその品を見た瞬間に、逆に恋しさが募ってしまう)
暫定という軸足がゆらいでる 目黒友遊
ちなみに、千二百両という金額は、土山が大文字屋に渡した金額ではない。
女郎を身請けする時は、祝儀を渡したり、祝宴を開いたりするのが一般的で、
そのために総額は、身請け金の2倍程度にふくらむことが珍しくなかった。
いずれにせよ、これだけの金額を、武士の窮乏化が問題となっていたご時世
に、一介の旗本が簡単に出せたとは思えない。
天明6年(1786)8月に田沼意次が失脚すると、蝦夷地開発計画も頓挫。
そればかりか土山は、公金横領の嫌疑をかけられ、その際、誰袖を高額で身
請けしたことも問題になった。身請けをふくめた吉原遊びに横領した金を使
った、という疑いをかけられたのである。
曇天を斜めによぎるトラクター 前中知栄
誰袖 土山宗次郎 「べらぼう23話 あらすじちょいかみ」
朝を迎えるや否や、重三郎(横浜流星)は大文字屋へ飛び込み、誰袖(福原遥)
に詰め寄ります。「なんで ” 抜荷 ” なんて言葉を出した!」と。 誰袖はさらりと笑い、「手遊びで青本のネタを考えただけ」と返します。
雲助(田沼意知=宮沢氷魚)との関係を匂わせるような様子に、重三郎は不安
を募らせます。そこへ大文字屋(伊藤淳史)が陽気な調子で登場し、
「ぬクけケにキ」なる謎の言葉を口にしました。
これは抜荷を意味する隠語で、春町や喜三二も用いた洒落言葉。
意味を悟った重三郎は、事の重大さに青ざめますが、誰袖と大文字屋は意に介
さず、不穏な企てを進めている様子です。 辻褄合わせお好みを焼くように 井上恵津子
一方で、重三郎のもとに須原屋から狂歌集『満載狂歌集』が百部届けられます。
この本がきっかけとなり、南畝と重三郎は一気に時の人となりました。
重三郎の名は江戸中に知れ渡り、「江戸一の利者」とまで称されるようになり
ます。 ある日、須原野のもとで蝦夷地の絵図を見ていた重三郎は、不穏な印や記号に
気づきます。
それは、幕府が禁じる密貿易------「抜荷」に関わる情報だったのです。
裏通り月下美人の香も似合う 井出ゆう子
重三郎 長谷川平蔵 その頃、長谷川平蔵(中村隼人)は、出世の機会を逃して燻っており、狂歌を
通じて土山宗次郎(柳俊太郎)に近づこうと目論んでいました。 酔月楼での土山と南畝(桐谷健太)の宴に参加した平蔵は、重三郎の案内で裏
口から接触に成功。「あり金はなき平」という狂歌名をもらいご満悦です。 酔月楼の裏では、意知と土山が重三郎を日本橋に誘い込もうと策略を巡らし
ていました。吉原の人気本屋を、蝦夷貿易に搦めて取り込もうというのです。
その一方で、誰袖は松前藩の家老に取り入り、琥珀の話を持ちかけていまし
た。巧みに取引の道を探る誰袖に家老はつい心を動かされます。
たとえばのはなし枯木に花が咲く 荻野美智子
田 沼 意 知 蝦夷地には金山や銀山も眠っているから、そこを直轄地にして交易すれば、
幕府は大金を稼げる。それが意次らのねらいだが、その蝦夷地は松前藩が 管轄している。だから幕府の直轄領にするなら、松前藩の領地を召し上げ
る必要がある。そこで意次の嫡男の意知(宮沢氷魚)が、松前藩の「落ち 度」を探すことになった。意知がまず繰り出した場所は吉原だった。 平賀源内の片腕だった平秩東作(木村了)から蝦夷地に詳しい人物として 紹介された、勘定組頭の土山宗次郎(柳俊太郎)が、花見会を行うので、 そこに参加したのだ。ただし、意知は変装して「花雲助」と名乗っていた。 花見に続いて駿河屋で酒宴が開かれ、その席では土山の横に誰袖がいた。
彼女は土山の馴染みの女郎なのである。
そして、この2人は史実においても、馴染みどころではない関係になる。 こと切れるまで人間やめられぬ 新海信二 PR |
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