川柳的逍遥 人の世の一家言
ふにゃふにゃの脳が心を支配する 靏田寿子
歌麿「蹴鞠の図」浮世絵とその版木
浮世絵は木版画という複製手段によって、安く、多くの人々に買い求められた、
江戸時代の大衆的な美術であった。 「版木」は、厚さ2㌢の桜の木で、右下に「歌麿筆」と彫られている。
版木には、作品価値が認められていなかったため、印刷画が摩耗してりすると
薪にされたりして、当時のものはほとんど残っていない。 美人画で有名な歌麿の版木はボストン美術館1枚、愛媛県肱川町(3枚組の2
枚)が確認されているだけで、当館のものは、世界で3例目の発見である。 歌麿晩年の享和年間(1801-04)頃に制作されたと推定されており、当時の錦
絵が、ギメ美術館に1枚現存する貴重な版木である。(鳥取渡辺美術館蔵) 喝采がなくても光星月夜 平井美智子
「彫師が使う様々な道具」
左から3本目が小刀。版木を彫るとき最初に使われるのが小刀で、彫師が最も
大切にする刀である。そのほかの刀は、罫線を切り出したり、線を切り出した 版木の残りの部分を削ったりするなど、用途に応じて使い分けられる。 細長い形に図柄を巧みに配置した柱絵の版木です。表には、柳の下で鞠を持つ
女性が、裏には地蔵菩薩が彫られています。 表右下(右画像は摺上図のため左下)には「哥麿筆」とあり、女性の着物や筆致 などから喜多川歌麿〔1753?~1806〕晩年の享和年間〔1801~04〕頃に制作 されたと推定されています。 版木は、当時単なる浮世絵の制作道具とみられて いたため、印刷面が磨耗すると、表面を削って別の浮世絵の原版にしたり薪に 使われたりしました。そのため、版木自体はほとんど現存していません。 この版木は裏に、地蔵菩薩が彫られていたために壁にかけて拝まれ、現在まで 残ったものと考えられます。 蔦屋重三郎ー蔦重とその仲間たち
歌麿「てっぽう」(シカゴ美術館蔵) 歌麿が大首絵で、吉原の各階層の遊女を描いた5枚セットの浮世絵の一枚。
「てっぽう」とは最下級の遊女のことである。「消えた女」では、彫藤に届
けられた美人絵師、勝川春潮の「てっぽう」の版下絵が重要な役割を果たす。
喜 多 川 歌 麿
「喜多川歌麿 売り出し計画」 歌麿は最初から天才画師でも美人画絵でもなく、蔦重が知り合った頃は無名の
絵師だった。鳥山石燕の弟子(恋川春町は兄弟子になる)なのだが、石燕と仲
がよかった北尾重政によく面倒を見てもらったらしく、歌麿の絵も、重政の絵 そのものだった。 デビューは、安永4年(1775) 北川豊章の名で書いた役者絵だった。
以降、黄表紙の挿絵を手がけるようになる。版元は西村屋与八であった。
与八の号は永寿堂といい、浮世絵や役者絵など、絵草子を得意とする地本問屋
である。実は与八は鱗形屋の次男であり、永寿堂に養子入りした身である。 しかも有名な水茶屋の笠森おせん(江戸のニュースにも登場の水茶屋「鍵屋」
の看板娘で、江戸の三美女の一人としてもてはやされた)で知られる鈴木晴信 の錦絵も出している、既に江戸では大版元であった。 生きとおすサボテンの刺の強さかな 服部文子
歌麿がデビューした時、西村屋にはすでに、美人画と役者絵を得意とした鳥居
清長がいた。清長は、すでに千種類以上の役者絵を出す人気絵師で、黄表紙の 挿絵も10冊の実績。一方歌麿はというと黄表紙がやっと4冊。西村屋の待遇 の差は歴然であり、歌麿に出番は回ってこない。 蔦重と運命の出会いを果たしたのはそんな時であった。 欲張らず真ん中へんを生きようか 宮原せつ
『身貌大通神略縁起』
「身貌大通神略縁起」のクレジットに「忍岡哥麿」とあるように、当時の歌麿は
上野忍岡に住んでいたが、やがて蔦屋の元に引っ越して一緒に住むようになる。 当時蔦重は、黄表紙で大勝負に出たころであり、北尾重政、勝川春章に代わる
若手の発掘に取り掛かろうとしていた。重政も春章もそろそろ老獪の年であり 西村屋のように次世代の絵師と戯作者が欲しかったのである。 戯作者は朋誠堂喜三二の繋がりで恋川春町がいたが、絵師はまだ見つからない。 そうした時に出会ったのが歌麿だった。
石燕の門下で重政が持つ狩野派の雰囲気を持つ会。そして、デビューでは版元 の西村屋で苦汁をなめている。まだ誰もその輝きを知らない、原石だった。 蔦重は「身貌大通神略縁起」の絵に歌麿を起用。
この作品で豊章改歌麿の独占を世に宣言する。 ここに蔦重にとって待ちに待った「相棒」が誕生したのである。 そして、天明3年 (1783) 蔦重は、満を持して、大手版元が集まる日本橋の通油
町で出店する。 この前年、蔦重は絵師や戯作者を集めて歌麿お披露目の会を行っている。 迷ったが一か八かで六にする 栗原信一
蔦 重 の 狂 歌
蔦唐丸の狂名が真ん中にみえる。 蔦重は、天明元年 (1780) ころから自らも「蔦唐丸」と号して、狂歌連に所属。
大田南畝の懐に入り吉原連を主催し、南畝や朱楽菅江、森島中良、そして朋誠
堂喜三二、恋川春町らと狂歌サロンを創り上げようとしていた。 そのサロンに歌麿を入会させたのである。
南畝の厳しい面接をクリアした歌麿は、蔦重と共に狂歌を詠み、サロンメンバ
ーを接待した。蔦重は歌麿を吉原に住まわせ、酒も女も金の使い方も学ばせた。 一流の客たちが一流の遊女と知的な会話を交わす。 原は日本中の一流が集まる場所だ。
蔦重は、おそらく歌麿の女性の美を写す才を見抜いていた。
その腕を唯一無二のものにする。蔦重は歌麿の才能に賭けたのであった。
人生を楽しみながらまわり道 荒井加寿
墨水亭雪麻呂「戯作者小伝」によると 蔦重について
「唐丸(蔦重)は、頗る(すこぶる)侠気あり、故に文才ある者の若気に放蕩
なるをも荷担して、又、食客と成して、財を散ずるを厭はざれば、是がために 身をたて名をなせし人々あり」 (才能に投資を惜しまず、それが糧となれば、豪快に遊ばせた。それは蔦重が
考えぬいた、男気の大通人の姿であった) 一方、曲亭馬琴の「近世物之本江戸作者部類」で、西村屋について、
「版元は、作者や絵師の広告をしてやっているようなものなのだから、こちら
から頼みに行くことなどしない。本を出したけりゃ頭を下げに来い」 と述べていたと記している。
気難しい人に似ているコチョウラン 宇治田志寿子
酒上不埒(恋川春町)
「恋川春町」 恋川春町は、狂歌絵の中の春町をみるかぎり、どことなく女性的なホスト然に
見える、が、名前と姿とは真逆で、その正体は、生粋の武士である。 紀州徳川家の家臣の家に生まれ、伯父・倉橋氏の養子となり駿河小島藩の藩士
として俸禄を得ていた倉橋格(いたる)という氏素性がある。 ただ、駿河小島藩というのは、小さな藩であり、暇な江戸勤めで収入も少なか
ったのだろうか、もともと持っていた絵の才能を活かすことを考え、浮世絵を 「鳥山石燕」の門人となり、絵描きの道の生活を進みはじめる。 筆名は、江戸藩邸のあった「小石川春日町」(恋し川春町)からという。
出で立ちの門バオパブが佇っている 井上恵津子
朋 誠 堂 喜 三 二 その春町の描く絵を、最も活用したのが彼の親友であった朋誠堂喜三二である。
喜三二といえば、春町と同じ武士階級だが、原通の「色男」で「お洒落なオジ サン」として名の通った人物。 版元に文化人に遊郭にと、豊富な人脈の持ち主で、喜三二の多くの黄表紙で、 春町は挿絵を担当した。そもそもビジュアルな本を得意としていた喜三二だか ら、絵も描ける春町は、貴重な存在だった。 悪友の思いもよらぬたすけ船 合田瑠美子
それは鱗形屋や蔦重のような版元にしても同様で、文章も書けるし、絵も描け
るし、武士という立場もあって、原稿料もうるさくいわない春町は、非常に都 合のよい作家だった。さらに喜三二の影響もあり、春町は「酒上不埒」という 洒落た名で、狂歌の道にも足を踏み入れてゆきます。 そして、狂歌を通じ、彼らは蔦重にとって重要な作家となってゆく。
蔦重が「狂歌絵本」を売り出すにあたり、喜三二と春町は、欠かせない存在で
あり、春町の弟弟子にあたる喜多川歌麿にとっても、彼らの活躍は蔦重の出番 を増やすためにも、大切な存在だった。 踏まれ踏まれ腰あるうどん出来上がり 梶原啓子
春町(岡山天音)と重三郎(横浜流星)
「べらぼう22話 あらすじちょいかみ」 耕書堂では、重三郎(横浜流星)が渡来三和の冗談に大笑いをしている。
三和は、先日の宴で出会った町人とも武士ともつかない不思議な人物。
酔っぱらうと「義兄弟にしてくれ」などと絡んできて手を焼く存在ですが、
なにせ話が面白い。重三郎も笑いが止まりません。
一方、歌麿(染谷将太)は、笑いながらもどこか落ち着きません。
ふと、筆を折った春町のことが気になっていたのです。
「十日も建っているよ、そろそろ声かけたほうがいいと思う」
と歌麿が言えば、重三郎も返す言葉がありません。
面倒くさい相手ではありますが、放っておくわけにもいかない。
ようやく重い腰を上げることになりました。
ときどきは風に逆らう風ぐるま 服部文子
しかし春町(岡山天音)の屋敷を訪れた重三郎を待っていたのは、どん底まで
沈み込んだ春町の姿でした。「筆はもう折った」と冷たく突き放す春町。 重三郎が説得を試みても、心の扉は硬く閉ざされたままです。 「俺は、戯(ふざ)けることに向いてない」と声を荒げ、春町は重三郎を押し
のけて立ち去ってしまいました。 戻った重三郎は、喜三二の草稿「長生見渡記」を歌麿に託しました。
「春町風で描いてくれ」と言いつつ、春町への未練もにじませます。
螺髪の陰やねんコオロギの黙秘 井上一筒
春町を中央に歌麿(染谷将太)と喜三二(尾美としのり) 春町の屋敷に歌麿と喜三二(尾美としのり)が訪れます。
「長生見度記」に画をつけたいと願う二人。
歌麿が「春町先生に真似したいから許してほしい」と頼むと、春町は「勝手に
すればいい」と冷たく返します。しかし歌麿は引き下がりません。 「俺は春町先生の絵が好きだ」とまっすぐ語りかけたのです。
その言葉に春町の表情が緩みました。そして、ついに本音が語られます。
政演の『御存商売物』に圧倒され、自信を失っていたのです。
「あれを読んだとき、引導を渡された気がした」と春町。
喜三二と歌麿は「寂しいよ、春町先生がいないと」と熱く訴え、ようやく春町の
心が動き始めるのです。 とんとんで今日一日の幕を引く 石田すがこ PR |
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