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川柳的逍遥 人の世の一家言
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台風の目の中にいて思うこと  森中惠美子

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     横 笛 丸

慶応3年(1867)6月9日、龍馬は、

長崎から大坂へ向かう夕顔丸の船内で、土佐藩の後藤象二郎に、

「船中は八策」を授ける。

これにより、土佐藩は大政奉還運動の主役となり、10月に大政奉還が実現する。

そんな期待と緊張の交錯するなか、龍馬が頭を悩ませていたのは、

「イカルス号事件」である。

それは、対応を誤れば、

土佐藩とイギリスの戦争にもなりかねない厄介な問題だった。

≪この事件により、大政奉還が2ヶ月遅れたとも言われる≫

切り取り線の凹のあたりで立ちつくす  森田律子

事件は、慶応3年(1867)7月6日夜、

イギリス軍艦イカルス号・水夫2名・(ロバート・フィード・ジョン・ホッチングス)が、

長崎の花街・丸山で何者かに、惨殺された。

長崎では、当時、外人殺傷事件が相次いで発生して、

在留外人を恐怖に陥れ、しかも、

何れの事件も、加害者の逮捕にいたらず、

長崎奉行所への批判が厳しくなっていた。
  
英国公使・ハリーパークスは、此の事件を重要視し追及を始める。

如意棒でひょいと日本を混ぜにくる  山本早苗

その下手人として、海援隊士や土佐藩士らが疑われた。

嫌疑をかけられた理由は、

殺害事件のあった翌朝早く、海援隊の”横笛丸”が長崎港を出港したこと。

それも、長崎港の船奉行の制止を無視してのことだった。

加えて、犯人像に白筒袖(つつそで)の男が浮かび上がっていたことも、

嫌疑がかけられた理由となった。

海援隊の制服が白筒袖であり、さらに、殺害の夜、

丸山に海援隊士の菅野覚兵衛(千屋寅之助)、佐々木栄の、2名がいたことが判明。

佐々木はその後、鹿児島に向かい、長崎から姿を消したことで、

さらに疑いが強まった。

坂の下判決文が待っている  坂崎よし子

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ハリー・パークス
  
こうした疑惑の状況からパークスは、海援隊士・犯人説を強く抱き、

長崎奉行へ調査を要求する。

「事件のあった翌朝に、”横笛”が犯人を乗せて港外に出、

 続いて出港した”若紫”に海上で移乗させ、

 本国土佐に向けて航海し、逃亡させたものだ」

というのが、パークスの主張で、

パークスは、海援隊士あるいは、土佐藩に犯人がいると決めつけ、

すぐにでも、逮捕するよう求めた。
  
長崎奉行所側は、当初はパークスの主張は、

「根拠が薄弱だ」

として調査を拒否した。

判決に裁判長は揺るぎない  山田こいし

パークスはこれに激怒し、

「幕府に申告して、直接土佐藩と交渉する」

と息巻き、老中・板倉勝静に話しを持ちかけた。

幕府も捨てておけず、担当者数人を土佐へ出向させ、、

土佐京都藩からも重役が同行し、周旋をする事態にまで話が発展した。

強力な英国艦の接近に、土佐藩内は騒然となった。

対応を誤れば、一戦もありうる。

事態を重く見た幕府は、将軍の新書を土佐に送り、

京都にいた龍馬も、薩摩の三邦丸で須崎沖に向かった。

土佐藩側は、後藤象二郎が交渉に当たる。

交渉は、大きな混乱を避けるため、

須崎沖に停泊した土佐の”夕顔丸”で行なわれた。

込み入った話になると色鉛筆  小林満寿夫

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      夕 顔 丸

パークスは、潔白を主張する後藤の姿勢に納得、

土佐を去り、長崎での事件解決を図ろうとする。

後藤、龍馬、幕府の首脳らも、長崎に向かった。

舞台は、事件の発生した現地である長崎に移され、9月3日に談判が再開。

長崎では、嫌疑のかかっていた海援隊士・佐々木栄が、

長崎奉行の前にあらわれ、無罪を主張。

これで、長崎奉行の心証がよくなったのか、真犯人は不明のまま、

9月10日、海援隊は無罪となる。

濡れ衣をカラスに着せて始末する  藤本ゆたか

「真犯人は、明治時代になって判明」

福岡藩士・金子才吉が、

丸山で酔っぱらい、寝そべっていたイギリス水兵2名の酔態に怒り、

凶行に及んだのだ。

その後、金子は藩に迷惑のかかることを恐れ、藩に真実を告げたあと切腹。

福岡藩がイギリスと事を構えるのを恐れ、

だんまりを決め込んだため、真相判明が遅れたのである。

小さめの卒業証書くれはった  井上一筒         

「後日談」

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 アーネスト・サトー

イギリス側・通訳として談判に立会ったアーネスト・サトーは、

慶応3年9月3日、長崎奉行所における龍馬の表情を、

「・・・才谷氏(龍馬)も叱りつけてやった。

 彼は明らかに、我々の言い分を馬鹿にして、

 我々の質問に声を立てて、笑ったからである。

 しかし、わたしに叱りつけられてから、

 彼らは悪魔のような恐ろしい顔つきをして、黙りこんでしまった」

と記している

感情のずれからしばし無言劇  住田英比古

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二人の水兵殺害現場・絵模様

「長崎新聞より」

慶応3(1867)年7月に起きた、

イギリス軍艦イカルス号事件の捜査報告が、外務省外交史料館にある。

”彩色図で詳細に描かれた水兵殺害現場”

嫌疑を受けた海援隊士(菅野覚兵衛と佐々木栄)の調書のほか、

土佐藩代表として、交渉を担った岩崎弥太郎の名が記録されている。

龍馬も、事件の嫌疑を晴らすため、長崎奉行所に出頭した。

≪この交渉の席上、海援隊は無実を主張するものの、

 長崎港で制止を振り切って、出航したことを岩崎弥太郎が、認めてしまった。

 海援隊の財政を担当していた岩崎に龍馬は、

 その弱腰な態度に憤慨し、

 「敗北してしまった」と評している≫

私の狭い心を反省す  林 文子

詳細な捜査の背景には、イギリスの強硬な姿勢がある。

長崎は他の居留地に比べ、防衛体制が強固だったことから、

イギリスは日本との戦闘をひどく恐れた。

そのためイギリス公使パークスは、長崎奉行や幕府に対し、

犯人捜索と居留地の警備強化を強く求めたのである。

龍馬と弥太郎は、対応を誤れば、

戦争に発展しかねない国家的危機に直面していた。

事件から2カ月後、ようやく海援隊士への嫌疑が晴れる。

その夜、高揚した龍馬は長崎奉行への抗議文を書く。

≪その筆跡は、事件現場近くの史跡料亭・「花月」に残されている≫

守りたいものがあるから攻めている  吉田あかね

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『龍馬伝』・第44回-「雨の逃亡者」 あらすじ

薩土盟約を受け後藤象二郎(青木崇高)は、土佐に戻り、

山内容堂(近藤正臣)[大政奉還論]を説くが、容堂は拒否する。

土佐の挙兵のために、必要な銃を仕入れるために、

長崎に戻った龍馬(福山雅治)だったが、

白袴の武士が、イカルス号という船のイギリス人水夫を殺した事件で、

海援隊に犯人の嫌疑がかかってしまう。
 
知らず識らず人は悲劇を追っている  吉松隆太郎

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イギリス公使・パークス(ジェフ・ワスティラー)は、

弥太郎(香川照之)に、

「犯人を引き渡さなければイギリス艦隊が土佐を攻撃する」

と脅す。

奉行に追われる龍馬の代わりに、惣之丞(要潤)が奉行所に連行され、

隊士たちは真犯人を探し始める。

危機感を煽り続ける武器商人  新家完司

一方、事件を目撃したお元(蒼井優)が、それを報告せず、

不審に思った奉行・朝比奈(石橋凌)が、お元の荷物を調べさせると、

ロザリオが見つかる。

キリシタンの弾圧を始める奉行。

逃げるお元を龍馬と弥太郎は見つけ出す。
 
海援隊は真犯人は、福岡藩士で自害したことを探りだし、

龍馬はパークスの元に乗り込んで,

犯人が海援隊ではなく、別にいることを伝える。

パークスは、薩長を結びつけた龍馬のことを知っていて、信じると言う。

龍馬は、「お元をイギリスに連れて行ってくれ」

と頼む。

触ったら血を噴きそうな恋の傷  穴吹尚士

拍手[10回]

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好きなまま去って行きたい好きな場所 真飛 聖

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また一人宝塚のトップが、引退宣言しました。

これは、来年4月の引退に向け、10月21日、真飛聖が語った言葉である。

そして、

いつも笑っている人生がいい  聖

とも。

龍馬は、「誰もが笑って住める国を造りたい」

という理念を持っていたし、

未練たらしく徳川の舞台を去った、慶喜に聞かせてやりたい言葉だね。

待ちなさい今は引き算してるだけ  立蔵信子

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    二条城・古写真

「『大政奉還』ーウラのドラマ」

土佐藩・後藤象二郎と薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通の間で、

慶応3年6月22日、”薩土盟約”を締結したが、

これは慶喜に大政奉還を迫り、

「もし拒否された場合には武力による圧迫で政変を起こす」

というものであった。

後藤はすぐに帰国して、土佐藩兵を引率してくる予定であったが、

武力の発動を拒否する山内容堂(前土佐藩主)の反対にあい、頓挫。

薩摩側は長州・芸州(広島藩)との間で、武力倒幕路線も進めており、

9月7日には、薩土盟約は解消される

結局、土佐藩は、単独で10月3日に、

”大政奉還の建白書”山内豊範を通じ、将軍・徳川慶喜に提出した。

靴紐をしめて気持ちを切り替える  新川弘子

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これを受け、

10月13日、慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、

        「大政奉還」を諮問。

10月14日、「大政奉還上表」を天皇(明治)に提出すると共に、上表の受理を求めた。

        ≪朝廷の上層部は、これを受け入れるつもりはなかったが・・・≫

10月15日、慶喜を加えて開催された朝議で、「勅許」が決定した。

呑み込んでみる喉もとの机上論  山口ろっぱ

では、大政奉還したあと、慶喜自身、

「自分はどのような位置を占めようと、考えていたのだろうか・・・?」

慶喜生前の談話集・『昔夢会筆記』によると、

慶喜側近の老中・板倉勝静(かつきよ)らは、

「慶喜を朝廷の摂政という形にして、そのまま実権をとり続けさせたい」

と思っていたようである。

また、幕臣の西周(にしあまね)が、慶喜に示した「議題草案」によると、

将軍は、「大君」と名前を変え、諸侯議会の議長となり、

国家の行政権と立法権、さらに、軍隊の統帥権まで握るとしている。

≪この「議題草案」は、王政復古の一ヵ月前に出されていた≫

晩夏のうなじから飛び立つ不死鳥  浜田さつき

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 薄暮の二条城

「討幕の密勅」

慶応3年10月14日、慶喜は、政権返上を上奏したが、

この時期、”武力討幕派”の動きも急であった。

「大政奉還をされては、武力で幕府を討つ機会が、なくなる」

というわけで、岩倉具視を中心とする討幕派急進派の公家は、

幼い明治天皇を動かし、

まさに、大政奉還の行なわれる前夜、10月13日、

”討幕の密勅”を、うけているのである。

仏壇の鉦を合図にクーデター  井上一筒

それは、

「・・・・朕今民の父母として、この賊にして討たざれば、

 何をもって、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎に報いんや・・・」

というもので、

もちろんこのような文章を、幼い天皇が書けるはずはない。

岩倉具視の起草であることは、間違いないが、

果たして、天皇の裁可をうけたかどうかも疑問である。

≪最近の研究では、この密勅は、偽物だったとする意見が強い≫

それにしても”討幕の密勅”は、効力を持つわけで、

慶喜としては間一髪のところで、第一の関門はすりぬけたことになる。

窓のない家の窓から出入りする  井上恵津子

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   岩倉具視

≪余談だが、岩倉具視は加山雄三の曽祖父にあたる≫
 
おもしろくないのは岩倉具視らで、

岩倉は薩摩の西郷隆盛らに連絡をとった。

すでに、クーデターを計画していたのであろう。

というのは、慶喜を中心とする新しい”国家構想の動き”が、見えはじめたからである。

西郷が率いる薩摩軍が、四艘の軍艦で、鹿児島を出港したのが、

その年の11月13日。

23日には、京都に入った。

薩摩軍は、およそ3000であった。

同じころ、長州軍も京都に集結しはじめた。

前進を競う左右の足である  岩田多佳子

そして、12月9日、薩摩軍を主力とするクーデター軍が御所を包囲する。

御所を守っていたのは、京都守護職・会津軍、京都所司代の桑名軍。

ふつうならそこで、激しい戦闘になるところなのだが、

どういうわけか幕府軍は、おとなしく兵を引いてしまった。

なぜ幕府軍は、抗戦しなかったのだろうか?

考えられる一番有力な説として、

「王政復古の聖断が下ったから、警備を交替せよ」

といわれ、撤退したという見方がある。

≪要するに御所は、クーデター軍に乗っ取られてしまったことになる≫

どちらが勝ちだろうと素うどんは続く  壷内半酔

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 小御所会議

とにかく、クーデターは成功した。

クーデター軍に守られながら、最初の小御所会議が開かれた。

そこには慶喜は、出席していない。

「新政府に慶喜の姿がないのはおかしい」

と主張する山内容堂らの意見もあったが、

クーデター軍に、銃口をつきつけられているような状況では、

慶喜サイドの大名も多くをいえず、

結局、ここに、”慶喜の官職辞任と領地返還”が、迫られることになった。

≪年表などに、「明治天皇、王政復古を宣言」と一行書かれているが、

 これだけのドラマがあった≫

主流派というそれだけの大通り  森 廣子

拍手[6回]

散髪に行く首の皮張り替えて  井上一筒

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  新政府綱領八策(複製)

慶応3年(1867)6月9日、龍馬は、長崎から京都に向かう船中、

同じ土佐藩の後藤象二郎に、

龍馬自身が構想している政治の方向、政府の形を、

”八カ条のメモ”にして示している。

それまでの後藤は、薩長に主役の座を奪われて、焦りを感じていた。

起死回生のプランをひねろうにも、思い浮かばない。

そこへ龍馬の示したメモは、

”後藤にとってじつに、魅力的なアイデアだった。”

そして、それを読んだ後藤は、

「主君・容堂も十分納得し、また、幕末の政局を大きく動かせる」

と、大いに興奮した。

そのメモが、『船中八策』 と言われるものである。

あさってがくっきり見える窓の位置  清水すみれ

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薩土盟約会談に薩摩側から出席した大久保利通

後藤は京都に入るや、藩の重役に、八条に示す「大政奉還論」を説く。

結果、土佐の藩論は、一気に大政奉還論へと傾き、

同月22日、薩摩藩とのあいだで会議(薩土盟約会談)が開かれ、

ここで大政奉還論が、両藩のなかで合意事項となる。

当初、薩摩は、大政奉還に難色を示したが、後藤らは、

小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通、らを説得。

当時の状況としては、

薩摩も大政奉還を呑んだ方が、ベターと考えたのである。

渡りきれば橋も味方の貌になる  徳岡潤人

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土佐藩側の出席者、岡本健三郎(右)と佐々木高行(左)は詳細な議事録を残す

いかに、第二次長州征伐で、幕府軍が敗退したとはいえ、

その後、幕府軍は将軍・慶喜のもと、急速に近代化を図っていた。

薩摩・長州・土佐らが連合軍を結成しても、

勝算は確かなものではなかった。

そこで、薩摩は、大政奉還を容認したのである。

この流れに好機と見た龍馬は、武力倒幕派である中岡慎太郎を説き伏せ、

さらに25日には、岩倉具視にも、大政奉還を説いている。

大政奉還論は、京都にあって一気に浮上、

後藤象二郎は主君・山内容堂に進言すべく、土佐へ帰国する。

”そのとき龍馬は、最後の仕事にかかる後藤を見送っている”

抱きとめてくれるだろうか跳んでみる  前田咲二

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そして、この「船中八策」は、山内容堂から

”建白”
の形で、慶喜に示された。

慶喜の方でも、朝廷の方から、

「委任をやめる」 

と言い出す前に、

「何らかの手を打たねばならない」 

と考えていたので、この大政奉還を一つの手として、受け入れることにした。

それはまた、

「薩長と土佐藩とを、分断することにもなるし、薩長の討幕の口実を、封ずることにもなる」

と、考えたからでもあった。

三コマ目に粋な鍵を添えておく  岩田多佳子

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「船中八策とは」

≪この船中八策という名前は、後年、明治の文筆家・坂崎紫瀾がつけたといわれる≫

第一義 天下有名の人材を招致し、顧問に備う』 とは、

 「身分所属に関わらず、すぐれた人材登用すべきである」 ということで、

 その基本には、”言路洞開”(げんろどうかい)、

 すなわち、「よい意見がある場合には、上申すべし」 と解析される。

第二義 有材の諸侯を撰用し、朝廷の官爵を賜ひ、現今、有名無実の官を除く』

 ”有名無実の官を除く”

 
という思想も新しいもので、既存の官僚機構、つまり、

 「幕藩体制の基本的な仕組みを、新たに構築し直す」

 ということを語っている。

第三義 外国の交際を議定ス』 

 外国との交際を議会によって決め、新たに妥当な条約を結ぶこと。

第四義 律令を撰し新に無窮の大典を定む・・・』 

 古来からの律令を改正し、新たに、無窮の法律を選定すること。

彼方より畳の縁を知りつくす  酒井かがり

第五義 上下議政所』 

 古来からの律令を改正し、新たに無窮の法律を撰定するとし、

 ”二院制の設置” することを意味している。

第六義 海陸軍局』

 龍馬が外国との比較で実感した、海軍を拡張すること。

第七義 親兵』

 特徴的なこれは、天皇の親兵を置き、帝都を防衛させること。

 ”朝廷は寸鉄を帯ず”といわれるように、

 天皇は長らく、直属の軍事力を有してこなかった。

 そして政権交代の結果、朝廷が中央政権を担うことになり、

 自ら、軍事力を保持することにある。

第八義 皇国今日の金銀物価を外国と平均す』 

 外国との対等貿易に基づく、外交関係を結ぶ必要性を語っている。

八色目を模索されておりますか 虹  山口ろっぱ

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『龍馬伝』・第43回-「船中八策」 あらすじ

いろは丸の談判で、見事紀州藩を打ち負かした龍馬(福山雅治)は、

後藤(青木崇高)とともに京に向かった。

将軍・慶喜(田中哲司)や、有力諸侯との会談のため、

京に上がった容堂(近藤正臣)へ、大政奉還論を進言するためだ。

京へ向かう船の中、龍馬は一心に筆を走らせていた。

だが、龍馬が京に着いたときには、容堂はすでに土佐へ発ったあとだった。

意表つく発想波を黙らせる  嶋澤喜八郎

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京の街で、龍馬と陸奥(平岡祐太)は、新撰組に出くわし斬り合いに。

そこへ中岡慎太郎(上川隆也)が助けに入り、相撲部屋へ龍馬を隠す。

武力討幕を目指す中岡は、

「薩摩が後藤に会いたがっている」 と伝える。

中岡の計らいで、

西郷隆盛(高橋克実)大久保利通(及川光博)ら薩摩勢と、

顔をあわせた後藤は、ともに大政奉還を目指そうと告げた。

薩摩側は、後藤の申し出を受ける代わりに、

大政奉還が失敗したときには、

「武力討幕に転向する」 ように条件を示し、

ここに、土佐と薩摩は盟約を結ぶこととなった。

神さまよあと賽銭はいくら要る  河たけこ

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その夜、龍馬は、船中での書を、中岡に見せる。

そこには、龍馬がこれまで学んできたことを凝縮した、

新しい日本のあり方が、書き示されていた。

出口あたりで仲間になって待っている  立蔵信子

拍手[6回]

男は土に女は風に死ぬという  森中惠美子

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「いろは丸事件・番外」

明光丸で備後の鞆に入ると龍馬は、さっそく紀州藩側と交渉するが、

徳川御三家の威光をむき出しにする紀州藩は、

結局、龍馬の言い分を徹底的に無視する。

海援隊の中には、

「紀州藩側に斬り込む」

と申し出てきた者もいるが、

龍馬はなんとかなだめ、勝てる方法を思案しいていた。

その最中、明光丸は龍馬を残したまま、長崎へ向かってしまった。

あまりの傍若無人ぶりに、龍馬の血は、ふつふつと燃え滾る。

同時に、龍馬はこの時、死を覚悟した。

ケロイド状の週刊兄貴  酒井かがり

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その時、不安になったのがおりょうの存在だ。

自分が死んだ後、長崎にいるおりょうは、独りになってしまう。

そこで龍馬は、三好慎蔵に、

「もしも自分が死んだ後は、おりょうの面倒を見てくれ」

と手紙を書いた。

慎蔵から手紙の話を聞いたおりょうは、嬉しかったに違いない。

龍馬の行動を見ていれば、確かに、

いつ死んでもおかしくない。

おりょう自身、その事に対しては常に、不安を抱いていた。

信じよと教え信じるなと悟す    上田陽子

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 龍馬談判する(記念館)            

「いろは丸事件顛末」

紀州藩は徳川御三家の威光をかさにきて、

高圧的な態度に出るが、

いざ長崎奉行所で裁判が始まると、紀州藩側の不利がわかっていく。

さらに龍馬は、丸山・花月を訪れると、唄を作り、お元たち芸妓らに披露した。

”船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る”

この唄は、すぐに長崎の花街で流行り、

やがて市中に広まっていく。

企みの輪ゴムを一つずつつなぐ  墨作二郎

裁判は、紀州藩側に不利に進む。

紀州藩も焦り、

「龍馬を暗殺しよう」 という動きも出てきた。

そんな折、龍馬の元へ、桂小五郎が訪ねてきた。

龍馬率いる海援隊と紀州藩の争いを、

「長州藩が支援するというかたちで、幕府と戦端を切る」

と言うのだ。

時勢は、もうそこまで沸騰していた。

潜ったと思て見てるが浮いてこん  杉山ひさゆき

ついに紀州藩は万策尽きた。

紀州藩は薩摩の五代友厚に調停を頼み、

龍馬はこの一件を、後藤象二郎に任せる。

ふたりの政治家が介入することで、

いろは丸事件は決着する。

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       いろは丸展示館

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   海底に眠るいろは丸

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   いろは丸のドアノブ

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いろは丸と沈んでいた”古伊万里の茶わん”

真夏の雲をイチニッサンで裏返す  石川重尾

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 桂小五郎・龍馬と高杉晋作

「龍馬と桂小五郎の仲」

桂小五郎は、薩長同盟締結時の長州側の代表者である。

龍馬は、桂を同盟へと口説き、桂をその気にさせるために奔走した。

桂と長州側の気持ちをもっともよく、汲み取っていたのは、

龍馬だったと思われる。

その龍馬の心遣いが、薩長同盟を成立させるが、

龍馬と桂の仲は、いささか不可解なところがある。

モールス信号が行き交う変な隣   北原照子

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龍馬というのは、野放図というか、

大言壮語好きなところや、丼勘定のところがあって、

時代が違えば、山師扱いにされかねない人物だ。

いっぽうの桂は、正真正銘のエリート。

龍馬が脱藩していた時代、桂は京都留守居役という重職を担い、

長州の若手リーダーのひとりでありつづけた。

≪ただ、高杉晋作のような奇想天外な発想力はなく、

 バランス感覚にはすぐれているものの、個性に欠ける秀才だった≫

生まれつきの顔でどうやら役がくる  玉木宏枝

個性派の龍馬と、まじめでやや個性に欠ける桂。

一見、水と油のようだが、なぜか互いに理解しあい、

相手を尊重することができた。

龍馬が、桂とうまくつき合えたのは、武市半平太という、

桂と同タイプの人物と、

近くで接してきたことがあったからかも知れない。

龍馬は武市を理解していたし、

武市は、龍馬に一目置いていた。

も一人の私が聖書読んでいる  成定竹乃 

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いっぽう、桂にしても、

個性的な人物である吉田松陰高杉晋作らと、つき合ってきていた。

桂は、自分にないものを持つ、個性派を好んでいたのかもしれない。

また、龍馬と桂は、相当古くから知り合いだったという説もある。

龍馬が江戸で剣を学んでいる頃、

桂も江戸にいて、斉藤弥九郎の練兵館道場の塾頭にまでなっている。

安政4年(1857)10月、江戸の鍛冶橋・土佐屋敷での試合には、

龍馬も桂も出場している。

そして、いろは丸事件においても、桂は龍馬の支援した。

ふたりには、若いころからの知り合いという”友情”を感じあっていたのだろう。

待ち人はカラスになって会いに来る  井上一筒    

拍手[7回]

剥離する隙も与えぬ膝小僧  酒井かがり

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   龍馬、怒りの交渉

勢いというものは、多少の荒波を乗り越えていくものだ。

ふって湧いたような”船舶衝突事件”が起こる。

海援隊側の蒸気船・『いろは丸』と、

紀州藩の『明光丸』とが、航路不注意により衝突、

武器弾薬を積んでいた”いろは丸”が、沈没したという事件である。

沖に船あれどラッキョに義理はなく  筒井祥文

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   ”鞆の浦沖”の六島

当時の船舶規則により、

西欧型蒸気船は、右舷に青灯、左舷に赤灯を点滅させ、

海上を航行していた。

”いろは丸”は前方に”明光丸”の青灯を見ていたが、

突然、赤灯に変化したのを確認した。

すなわち、

「明光丸が、急旋回してきたために、間に合わず衝突した」

と主張した。

それが証拠に、衝突の際、明光丸の甲板には、人っ子ひとり見えなかった。

「これは海上前方を見張るべき艦員が不在であり、

 ”万国公法”に照らし、明光丸側の過失は明らか」

だが、船舶を所有する紀州藩は、海援隊に対して

「責任を負え」

と迫ったのである。

ほなどないしたらええのこんな時  有田晴子

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     談判の場面

龍馬ら海援隊の勢いを恐れてか、

まずいことに紀州藩の上部は、幕府を通じて、事件のもみ消しを図ったのである。

これが海援隊にバレた。

「ひきょうもん、やるか」

と龍馬は怒りまくった。

すでに薩長同盟は成っている。

それを斡旋した自信もあった。

「こん際、紀州藩にシロクロのけじめをつけちゃる」

と龍馬をはじめ海援隊の一行は、

長崎・丸山の料亭・「花月」にどっと繰り込んだ。

蟷螂の競り合い確と受けとめる  岩根彰子

そこで龍馬は、”前祝い”だと言って宴を開き、三味線片手に大騒ぎをした。

そのとき、即興で作った唄が、

”船を沈めたその償いは、金を取らずに 国をとる・・・”

というものであった。

この自作自演の即興歌は、大受けで、芸妓は踊りだすし、

隊員は気勢を上げるで、宴は朝まで続いた。

噂撒くやつは案外側にいる  松本あや子

やがてこの唄は、花街から流れて流行歌までなり、

判官びいきもあって、海援隊の人気は、うなぎ登りとなる。

今度は、海援隊の大人気が、紀州藩に伝わり、

世論の圧力に、押し潰されそうになった。

やむを得ず重い腰を上げた紀州藩の幹部は、事後処理の席につく。

情報集団でもある海援隊は、世論操作に成功したのである。

そして龍馬は、事実審理に万国公法の立場から臨み、

徹底的に理詰めで事件を追求し、

紀州藩が海援隊に、”賠償金-8万3千両”を支払うことで決着した。

したたかに生命保険かけつづけ  森中惠美子

この事件の最中にも、龍馬は、一つの心配りをみせている。

「紀州藩は徳川御三家の一つじゃ。

 薩長同盟にかかわった海援隊として、この泥仕合に負けるわけにいかんかった。

 しかし、こんワシには一つ悩みがあった。

 それは小次郎(陸奥宗光)のことじゃ。

 あやつは紀州藩の出じゃきに、気をもんでおってのう。

 もともと (けんかいー堅物)な性格じゃきに、海援隊の中で評判が悪うて、

 その上にあの事件じゃろう・・肩身の狭い思いをさせてしもうたぜよ。

 しかし小次郎には、『幕府を倒すための策、オンシが気を病むことはないぜよ』、

 と言っておいた」

というものである。

龍馬が、陸奥にみせた優しさである。

枯れぬようテーマに水はやっている  壷内半酔

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「坂本は近世史上の一大傑物にして、其の融通変化の才に富める、

 其の議論識見の高き、

 其の人を、誘説感得するの能に富める、

 同時(代)の人、能く彼の右に出るものあらざりき」

めったに人を誉めることのない、陸奥宗光が、

言葉の限り、隊長を回顧して畏敬の念を捧げた。

≪事件が解決したその日、龍馬と海援隊の面々は再度「花月」に集い、

芸妓、弦妓、太鼓もちを左右にはべらせ、大判振る舞いの酒で、

カッポレを踊りながら勝利に酔ったそうである≫

階段の手すりを握る歳となり  井上一筒

1cf0369e.jpeg       

『ニュース・「いろは丸沈没事件」』

慶応3年(1867)4月23日23時頃、

最近、景観論争で脚光を浴びている”鞆の浦沖”の六島付近で、

海援隊の蒸気船・「いろは丸」(160トン)と、

徳川御三家・紀州の蒸気船・「明光丸」(870トン)が衝突をした。

龍馬ら海援隊一行は、明光丸に乗り移って鞆の浦に寄港、

海援隊側は、紀州側と4日間にわたって、賠償交渉を行った。

その後、舞台は長崎に移り、交渉は難航したが、

最終的に、龍馬側が、紀州側から多額の賠償金を勝ち取った。

力んでもピサの斜塔は倒せない  小谷竜市

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いろは丸と明光丸の海路図

≪右に明光丸・左にいろは丸 上図の右上に六島≫

「その時の、龍馬側の主張」

御手洗航路上を西進していた明光丸を、発見した”いろは丸”は、

左に舵を取り、遅れていろは丸を発見した明光丸は、

右に舵をとった後、左に戻し、衝突した。

その後、明光丸は、いったん後進して、いろは丸から離れたが、

再び前進して、再度いろは丸に衝突、これが沈没の原因となった。

明光丸は乗組員全員を乗せ、

いろは丸を鞆港に曳航しようとしたが、途中で沈没したというもの。

主張する以上は腹を決めている  村岡義博

そこから120年後、昭和63年になり、

”いろは丸沈没事件”の調査が始まった。

以後、平成元年にかけて、3回にわたる調査の結果と、

平成17年に行われた、第4次調査で、

いろは丸の積み荷全体の遺物を、ほぼ収集された。

遺物は、約220点余り。

「ドアノブなどの内装品や船具」

「積み荷の水銀朱を入れた木箱」

「刀の柄などに用いられた、鮫皮(エイの皮)を保管するための台座」

などのほか

「履き込まれた革靴の靴底」、

などが収集された。

ポチ連れて埋蔵金を嗅ぎ回る  八木 勲

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不思議なことに、積み荷の最新式銃などの補償をめぐって、

紀州藩と交渉し、巨額の賠償金の対照になっていた、

「ミニエー銃」「部品」 などは、

まったく見つかっておらず、

「交渉を有利にするための龍馬のはったり・・・ではなかったか」

との見方も出ている。

ポケットの底たくらみはかび臭い  墨作二郎

また、海援隊の商船・「いろは丸」とみられる船体の第4次調査で、

紀州藩・明光丸の船体の傷が、右舷にあったことなどから、

「海援隊側の操舵ミスの可能性があったのではないか」

と見られている。

これで、龍馬の信用は、ガタ落ちになるはずだが、

ニュース的には、何故か、おおきな問題になっていない。

≪龍馬人気が、真実に蓋をさせてしまったようだ≫

過去形で語ればみんな美しい  西山春日子

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『龍馬伝』・第42回-いろは丸事件 あらすじ

弥太郎(香川照之)の働きで、

蒸気船・いろは丸を借り受けた龍馬(福山雅治)たち海援隊は、

早速運搬業を開始。

だが、そんなやさきに事件は起こった。

大坂へ向かっていたいろは丸は、

夜半、紀州藩の船・明光丸と衝突し、あろうことか沈没してしまったのだ。

しかも、徳川御三家である紀州藩は、

「海援隊を脱藩浪士の集まり」

と、見下し、見舞い金として、千両支払うのみで事を済ませようとしたのだ。

これに納得のいかない龍馬は、

船と積み荷の賠償を巡って、談判し、

紀州藩と真っ向から、交渉することを決めた。

赤い月背おう高圧線のちりちり  山口ろっぱ

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談判に先立ち、元紀州藩士の陸奥(平岡祐太)は、

紀州藩の勘定奉行であった父が、失脚させられたと打ち明け、

「どうしても勝ちたい」
 と語る。

1度目の談判が、不調に終わり龍馬は、

「これは幕府と土佐藩の戦いであり、負けてはならない」

と、2度目の談判に同席するよう後藤象二郎(青木崇高)を説得。

かたや紀州藩も、

勘定奉行・茂田一次郎(中尾彬)が、談判の席に現れる。

いざという時へ裏技磨いてる  北川ヤギエ

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