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川柳的逍遥 人の世の一家言
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マッチ一本こんなに熱く語れます  市井美春



                   明治35年発行された渋沢栄一肖像の10円紙幣


日本銀行ホームページ・「お札に肖像として選ばれた人」によれば、
肖像画の人物選定に特別な制約などはないが、強いて言えば「極力実在
の人物で、業績があり、知名度も高く、親しみ易く、国民から尊敬され
日本を代表するような人物」であること。また、偽造防止の目的から、
「なるべく精密な人物像の写真や絵画を入手できる人物であること」
いうことであるらしい。
そんな規定の中で、令和4年20年ぶりに刷新される新紙幣の顔として
選ばれたのが、「北里柴三郎」千円札)、「津田梅子」五千円札)
「渋沢栄一」一万円札)である。


人間が乗る一枚の磁気カード  猫田千恵子


ところが、渋沢栄一が紙幣の肖像画に描かれたのは、初めてではない。
(上の写真)明治35年、日本が植民地として統治していた大韓帝国で、
数年間だけ、第一銀行が発行した紙幣に、栄一が、肖像になっている。
このため、栄一が新紙幣の肖像画のモデルになると、
「植民地支配の被害国への配慮に欠けている」と、韓国国内から、
批判が出た。無理もない。


シミの付いた紙は白紙とは言えぬ  みぎわはな


「青天を衝け」 お札の顔



  同じ聖徳太子でも発行年によって、表情が微妙に異なる。
どれも聖徳太子だが、なにか顔色・表情が違って見える。
昭和5年(百円札) 昭和25年(千円札) 昭和32年(五千円札) 
昭和33年(一万円札)

「一万円札の顔」
始めて一万円札が登場したのは、昭和33年ことである。
そのお札の「顔」には、聖徳太子が選ばれた。
聖徳太子は、昭和5年に百円札に登場以来、お札の常連である。
さて、昭和5年とは、どんな年だったのだろうか。
 東京まで降灰した浅間山の爆発
 豊作飢饉と呼ばれる米価大暴落
 9月14日 - 独総選挙でナチ党が躍進
 濱口首相が東京駅で佐郷屋留雄による狙撃事件
 世界大恐慌の誘引で日本経済が危機的状態になる…。 など。
そんな年にお札の顔として、聖徳太子が選ばれたのは、
「和を以て貴しとなす」(十七条の憲法)の精神で、国民融和を図ろう
とした一面が窺える。財布からお札を取り出す度に、太子の尊顔を拝し、
和の心を取り戻して欲しい、と期待した、のである。


人形の顔で見ていることがある  赤松ますみ


その期待に応え、聖徳太子の御利益は大きく、この間、日本は高度成長
の波に乗り、オリンピック、万国博などを成功させ、世界の主要国の仲
間入りを果たした。日本の成功は、アジア各国の経済成長のモデルにな
った。しかし、経済的成功を成し遂げた日本は、やや尊大になり、バブ
ル景気へと突っ込んでいく聖徳太子は、「お札」の代名詞となり、国中
に聖徳太子で溢れた。そんなことからも、聖徳太子の一万円札は、昭和
61年まで28年間、使用されることとなった。


欲の皮たっぷりついて迷いなし  小西美也子
 
 
 
        福沢諭吉
 
 
昭和59年には、一万円札の「顔」は、福沢諭吉になる。
福沢諭吉と言えば、「学問のすすめ」や慶應義塾大学創設の顔がある。
高度成長のあとは、「文化立国を目指す」考えがあったようだが、
福沢の万札時代は、残念ながら、日本の低迷期と重なってしまった。
バブル崩壊後の長く続く低成長に加え、阪神淡路大震災、東日本大震災、
福島原発事故、コロナ・パンデミックなど、国民生活を直撃する災害が
多く発生したものである。


口癖は明日はきっとうまくいく  水田トンボ
 


         渋沢栄一


「このままではいけない。文化国家より経済国家だ」
と、考えた政府は、一万円札の「顔」は、福沢諭吉から「日本資本主義
の父」と尊称され、生涯に500社以上の会社を立ち上げた、という、
「渋沢栄一の登場」ということになる。
渋沢栄一、「私利私欲で、誰かが、利益を独占することを嫌い、多く
の経済活動、社会活動に関わり、日本の社会全体の利益を重視し、発展
していくことを目指す」とした人物で、新紙幣の肖像画に描かれること
になった。
「富を成す根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道徳の富でなければ、
その富は、完全に永続することができぬ」と語っている。
何やら難しいが、ともかく、好い運を運んでくれることを期待する。


あーそうかこれが坩堝ということか  高見澤直美


「渋沢栄一に連れて就任する・お札の顔」
 

 
      
津田梅子と北里柴三郎


  津田梅子
梅子は官費女子留学生の一人として、吉松亮子、上田悌子、永井繁子
ともに、岩倉具視らの米欧使節団の加わった。6歳の時である。
アメリカに11年滞在し、幼少からの長い留学生活で、日本語能力は、
むしろ通訳が必要なほどになってしまうが、この間、女子教育をする塾
をつくる夢を抱いた。だが、帰国した日本は、男尊女卑の社会であった。
男子と渡り合える女子を教育する場を、切実に願った梅子は、伊藤博文
への、英語指導や通訳のため雇われて、伊藤家に滞在、下田歌子からは、
日本語を学び、英語教師を勤めたのち、留学中に知り合ったアメリカ人
女性たちの協力を得ながら、女子英語塾を開いた。留学中に教育や人格
形成の見本である、ヘレンケラーやナイチンゲールとも親しく交わった。
下田歌子=伊藤博文らの勧めで良妻賢母主義による上流子女教育を目的
とした桃夭女塾(とうようじょじゅく)を開いた。


毎日が一期一会と水の私語  石神由子
  

北里柴三郎
千円札の肖像画のモデルの入れ替わりは、野口英世から北里柴三郎へと
奇しくも同じ細菌学者となった。
熊本・東京の医学校で医学を学んだのち、内務省衛生局の役人になった
柴三郎はドイツに留学。細菌学者コッホのもとで、破傷風菌の純粋培養、
さらに、血清療法の実験に成功する。
帰国したのち、官立伝染病研究所を設立し、香港でペスト菌を発見。
ドイツ時代の功績によって第一回ノーベル生理学・医学賞候補となるが、
野口英世と同様、受賞にはいたらなかった。

官立伝染病研究所が内務省から文部省に変更になることに断固反対した
柴三郎は、私立の「北里研究所」を設立。「病の原因とその治療法」
見つけるために尽力した。野口英世よりも前に肖像画のモデルとなって
いてもおかしくなかった人物といわれる。


気がつけば私は白い梅だった  居谷真理子





 
 

「歴代のお札の顔」


樋口一葉   (2004年)
文芸誌に数々の作品を発表。中でも「たけくらべ」が高い評価を受ける。
しかし、作家人生は短く、肺結核のため、25歳の若さで死去した。
こうした短い生涯でも、「自分の夢を貫き実現させた強い女性」として、
お札の顔に選ばれた。


本当に命が惜しい花の下  加藤佳子


野口英世 (2004年)
ノーベル賞候補にもなった細菌学者。
アメリカで細菌学を学び「梅毒スピロメーター」が世界的に認められる。
再度の渡米で黄熱病の研究に没頭。しかし当時、光学顕微鏡では、細菌
よりも、はるかに小さな病原体であるウイルスを、観察できるほどの分
解能がなく、光学顕微鏡の限界に、研究業績の一部を否定された。
それでも野口は、アフリカで黄熱病の研究を続け、自ら黄熱病にかかっ
てしまう。そして51歳で亡くなってしまう。不屈の実績に一票を…。


身の丈を計り違えていた誤算  津田照子



   
 

紫式部  (2000年)
言わずと知れた「源氏物語」の作者。
紫式部の名は、ペンネームで、日本最初といわれる。
紙幣でば、二千円札の肖像画として採用され、話題にはなったものの、
国民には浸透せず、日銀には在庫の山となる。
紫式部の人気にあやかって船出をした新札だったが、大失敗…。
これは式部の人気が原因ではなく、2千円札の有用性の問題だった。


プラスαお役に立っているつもり  津田照子


福沢諭吉(1984年)
アメリカに留学中、身分制度のないアメリカ文化に触れ「自由と平等」
の考えに感銘し、『西洋事情』を刊行、これが大ベストセラーとなり、
徳川慶喜将軍も愛読したといわれる。
その後、慶應義塾を作り、「学問のすすめ」を刊行する。
お札では「諭吉」と呼び捨てにされるほど親しみをこめられたが、
先に述べた通り、悪い時期にお札の顔になった為、名にあ含まれる
の印象がない。


もうあかんビリケンの足さすっても  くんじろう


新渡戸稲造(1984年)
日本初の農学博士である。
著書「武士道」のベストセラー作家として、世界中でも名前を知られる。
白人と黄色人種の結婚なんて「とんでもない!」という時代に、アメリ
カ在学中、ドイツ人のメリー・エルキントンと知り合い結婚する。
知名度が高いこと、世界に対して誇れるような人物であること、
と、条件を満たして5千円札の顔になった。


かげろうのままで一粒飲み下す  川嶋 翔


「おまけ」
平成16年に、一万円札・五千円札・千円札がアップデートされた。
 一万円札の肖像は、何故か福沢諭吉が、そのまま居座ったが、五千円札
は、新渡戸稲造から樋口一葉へ、千円札は、夏目漱石から野口英世へ替
わった。中でも樋口は、歴代紙幣登場者中最年少でもある。
日本銀行券初の表・女性登場者として注目された。
女性のお札の顔、第3号。
女性のお札の顔として、平成12年に発行の二千円札の裏面には、
紫式部が遠慮気味に顔を出しているが、樋口は表の顔なのだ。
因みに、女性のお札の顔の第一号は、紙幣に載った最初の肖像人物であ
ると同時に、明治14年登場の神功皇后である。


ウニコール煎じて本当の友達  河村啓子


夏目漱石(1984年)
イギリス留学後、大学英文科の講師になる。
その講師業は、学生に不評で、それに嫌気をさしたか、やがて退職し、
朝日新聞の専属作家になった。41歳で、作家としてデビューを飾り、
「坊ちゃん」「吾輩は猫である」「こころ」などの作品を生む。
これらが小学校の国語の授業でも使われ、人気と名声を得た。
ただ、夏目漱石が、世間の人気だけで、お札の顔に選ばれた理由が、
今一よくわからない。


ネコの時間には毎朝ネコになる  井上一筒


伊藤博文(1963年 )
 伊藤は、初代・総理大臣であり、4度の総理を務めた。
松下村塾で学び、木戸孝允「貨幣制度や鉄道の改革」を進め、近代日
本の基礎を作ったとされる。これだけで、充分、お札の顔に合格。
他に「内閣制度の導入、官僚組織作りで、優秀な人材を確保や大日本帝
国憲法のベースを作った」などの功績がある。


元号がもう変わるのにまだ首相  ふじのひろし


岩倉具視 (1951年)

岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允ら、倒幕派と朝廷を結び
つけ、明治維新の推進に寄与した。
日米修好通商条約の勅許を、公卿らと共に関白・九条尚忠方に押しかけ、
朝廷会議をひっくり返した、などの活躍がある。
他に欧米への「岩倉使節団」の派遣、「征韓論」の抑止、憲法制定の為
の準備など、「新生日本の礎」になった貢献度が目覚ましく、「新しく
れた5百円のお札」になった。


定型があるから活きてくる破調  高浜広川
 
 
  高橋是清(1951年)
第20代内閣総理大臣。
「日本のケインズ」と呼ばれる。
金融恐慌時に日本経済の立て直しを図り、国を破産から救った敏腕は、
わが国最強の財政家として、最近の政治家からも高く評価されている。
日本銀行総裁や総理大臣、大蔵大臣を7度も務めており、まさしく、
お札の顔である。惜しむらく昭和11年2、26事件で凶刃に倒れた。


かも知れぬ喪服の足袋を洗っとく  武内幸子


板垣退助(1948年)  
「板垣死すとも自由は死せず」の名言が有名。
会津攻略の時に、お国の事情で、多くの民衆が逃げ惑う様子を目の当た
りにし、「身分の差なく、心を一つに国民が参加できる政治」について、
考えるようになったと言われる。それを原点に、明治政府の中で「国民
だれもが、平等に政治に参加する自由がある」ということを広めた。
今では、当たり前になっている「国民が選挙で選んだ人が政治を行う」
とは、この人が考えるところから生まれた、のだそうだ。


品格は骨になっても生き続け  通利一辺


二宮尊徳(1946年)     
江戸時代の農民思想家であり、冷害や水害に悩まされていた村人たちを
救い、今の農協や漁協などの助け合い精神である「協同組合」の基礎を
作った。 道徳教育の模範。お札の顔になる条件「道徳」が重要視される。
渋沢栄一の道徳がお札の顔になったように…。


いい人の明るい刺を持てあます  丸山 進


日本武尊(1945年)    
聖徳太子が現れる少し前にいたとされる人物だが、実在不明。
様々な伝説の中の人物である。どうしてこのような人物が、お札の肖像
に選ばれることになったのか…、あなたも考えてみてくれますか。
日本武尊伝説には、こんなものがある。
 女性に化けて勝利したクマソ征伐
 相手の刀を木刀にすり替え勝利したイズモタケル征伐
 オトタチバナヒメの入水(生贄として)


神様もリセットしたい過去がある  前中一晃


聖徳太子(1930年)
聖徳太子は、中国の文化や制度をお手本に、冠位十二階や十七条憲法を
定めたり、「天皇中心の国家の礎を築いた」飛鳥時代の人。
お札の顔については、前述の通り。


愛されて心の欲が溶けてくる  靏田寿子
 
 
  藤原鎌足(1891年)      
飛鳥時代、天皇を凌ぐ権力を持ちつつあった蘇我氏に驚異を覚え、中大
兄皇子(天智天皇)と共に蘇我氏を倒し、天皇中心の国づくりをした。
「大化の改新」だ。
「時代に見合った国造りを行う」のも、お札の顔になる条件である。
晩年、天智天皇(中大兄皇子)よりその功績を讃え藤原姓を贈られたが、
名誉の名前を贈られた翌日に亡くなった。


傘立ての雫が切れる頃別れ  藤本鈴菜



    和気清麿呂(1890年)  
この人も、又、藤原鎌足と同じ「天皇中心の国造り」に尽力した。    
「皇位を皇族以外の者に継がせてはいけない」という考え方から、僧侶
道鏡の皇位簒奪を防いだ。しかし、道教を寵愛していた称徳天皇は怒り、
清麻呂を左遷してしまう。
清麻呂が政治に復帰した後は、桓武天皇に仕え長岡京遷都や平安京遷都
などで力を発揮し、貢献した。もし清麻呂がいなければ、
「純粋な天皇
の血が途絶えてしまっていただろう」、と言われる。


温室の花に負けぬと路地の花  石神由子



    
二百円円札           一円札


  武内宿禰(1889年)     
宿禰、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5人の天皇に仕えた人。
紙幣の肖像にするにあたっては、西郷隆盛の似顔絵でお馴染みの、
大蔵省印刷局主任彫刻官・キヨッソーネが、まず手を付けている。
エピソードがある。
大正5年の「お札の改変」に際し、彫刻者・大山助一は、キヨッソーネ
の宿禰は「目が窪み、鼻筋が高く彫られている為、西洋の老人のように
見える」と言い、目の凹みを少なくし、鼻を低くし、頬の彫刻画線を改
めて、「日本の老人らしく見えるようにした」という。
その顔が、128年間という歴代最長の「お札の顔」になった。


日に晒す指紋だらけの私を  菊池 京



     菅原道真

菅原道真 (1888年)       
教育といえば、「学問の神様」として知られる菅原道真。
天満宮と名のつく神社は千を超え、すべて菅原道真をご祭神としている。
菅原氏は代々学問の家系で、道真も幼い頃から漢学の教育を受けて育つ。
普通22歳頃に合格すれば良し、とする難関の文章生に18歳で合格し、
33歳で、現在でいう漢文学・中国史の大学教授のような地位にあたる
文章博士になる。政治家としては、その秀才ぶりが、妬みの対象とされ、
大宰府に飛ばされるなどの不幸にあう。お札の要件は100点満天。


ありとあらゆるところが痒くなる薬  井上恵津子



        神功皇后

神功皇后(1881年)        
初代のお札の人物とは先に述べた。
第14代・仲哀天皇(ちゅうあい)の皇后。
妊娠中に夫・仲哀天皇が亡くなり、「腹帯を巻き男装をして戦地に赴き
みごと勝利した」「子の応神天皇が産まれてすぐに歩いた」ということ
などが逸話にある。
ではなぜ、神功皇后が最初のお札の顔に選ばれたのだろうか?
理由は、「彼女の名を国民に知らしめるため」であった、らしい。
当時、朝鮮侵略を目指していた政府は、そのことを世間に流布しようと
試みたのだ。
「神功皇后は、朝鮮征伐に成功した」という逸話のおまけもある。
「安産の神様」「子安の神様」と拝まれるなら、「○○の神様」として、
もっと適切な「安」のつく喩えがあってもよさそうなものだが…。


濡れた手で何をつかむと言うのです  前中知栄

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普通でええ賢のうてもええねんで  柴本ばっは
 

 
   論語と算盤とシルクハットと刀の絵」小山正太郎画  渋沢史料館蔵


「車馬衣軽裘」
孔子と弟子の顔淵子路の雑談。(「車馬衣軽裘」)
「どうだ、自分のありたい姿(志)を聞かせてくれるか」
と、孔子が仰った。すると子路が、
「馬や車、衣服や毛皮といったものを友と共有し、譬え、それが破れて
 も、惜しむことがない人間でありたいと思います」
と答えた。顔淵は、
「善い行いをしてもそれを誇らず、人に嫌がる仕事を押し付けない人間
 でありたいと思います。」
と答えた。そして子路が
「出来ましたら、先生の志もお聞かせください」
と、言った。孔子がそれに応えて仰った。
「ご年配の方々には、安心してもらえるように、友人からは、信頼され
 るように、若い人からは、慕われるような人間でありたいね」


無口なので賢い人と誤解され  喜多川やとみ


「青天を衝け」 栄一語る、維新時代の人物像

 
ーーーー
「渋沢喜作」
喜作と私との関係は「車馬衣軽裘」(しゃばいきゅう)を共にし、之を
やぶつて憾み無しの間柄で、喜作には、私も数回に亘つて、随分、迷惑
を懸けられたものだ。それでも、喜一の三男・横浜商店の当主・渋沢義
と私との間が、実の親子のようであつて、私も義一を子のように思い、
義一もまた私を実の父のように思い、無上の親密を維持して居られるの
は、及ばずながら、私に、「車馬衣軽裘之を朋友と共にすれば、仮令敝
(やぶ)れても憾(うらみ)無し」という、志があつたからなのだろう。


縁あって同じ苗字で半世紀  津田照子


喜作は、私よりも二歳の年長者であつた。何事につけ喜作とは、幼年の
頃より、二人揃って行ったものだが、性質は大いに異にした。
私は何事にも、一歩一歩着実にやるのに反し、喜作は、一足飛びに志を
達しようとする投機的気分があつた。さらに、他人を凌ごうとする気性
もあつたので、私をさへ凌ごうとする気風を、示したものである。
元来、喜作は、投機心の盛んな男であるから、遂に米相場に手を出して
大失敗をし、明治14年に、十数万円の大損失を招いたことがある。
その際、私は喜作の保証人にもなつて居たものだから、その借金を私が
引受けて、損失を弁済整理してやつたことがあり、以後、喜作は米相場
に一切、手を出さずに、米は現物の委托販売のみとし、専ら生糸のみを
取扱ふ事を条件にしたのである。


縞馬の群れにカピバラが混ざる  藤本鈴菜


その整理をしてやつてから、3、4年は、喜作も神妙に慎んでいたが、
持って生れた投機心は、中々止まず、明治18年頃より、ドル相場に手
を出したのである。
ドル相場とは、当時、株式会社というものが殆ど無く、株券も無かった
から、株の相場というものもなかった。
代りに明治10年の「西南戦争」で、政府が紙幣の乱発を行つて以来、
貨幣と紙幣との間に、価格の差が生じ、その差に変動があり、又、金銀
貨の間に、比価の変動もあつたりしたので、銀塊の相場が行われた。
喜作は、凝りもせずそれに手を出したのである。
車馬衣軽裘=馬や車、衣服や毛皮といったものを友と共有し、たとえそ
れが破れても惜しむことがない人間のこと。


壁を越えてもまた壁に阻まれる  成田智子


ーーーーーーーー
    井上馨                  福士誠治
「井上馨」
井上侯は、優れた才識のあるお方で、権勢と金力とのあるところを見て、
これに就く事にかけては、誠に敏捷であつた。

が、人物を鑑別する力に於ては、余り優れたお方であつたとは、申上げ
かねるように思える。随つて、陸奥伯の交わられた人や用いられた人は、
必ずしも、善良誠実の人ばかりであつたようにも思へない。

井上侯は、元来が感情家である。
人物の識別に当つては、感情に駆られ、是非善悪正邪の鑑別をしないで、
好きだと、一度思い込んだら、その人に悪い性質のあるなしを考えずに、
盲目になってしまい勝ちに思われるが、決して、そんなことの無かつた
お方である。人を用いるにおいても、先ず、その人物の是非善悪正邪を
識別することに努め、それから後に、始めて、用うるべき人を用いたお
方である。随て「佞人を仁者」であると思い違えて、これを重用する等
の事も無かつた。


人間を好きになるのが難しい  佐藤正昭


違ったところでは、井上公は、大臣までされた大人物なのにかかわらず、
半面には、大の料理通で、中々、精しく殊に、単なる料理通ではなく、
御自身で庖丁を取つて、料理をされるのだから本物である。
私も時々、招待されて井上公の料理の御馳走になつた。
こういう時には、よく料理の事を説明され「旨いだろう」と、言はれる。
よく判らないこともあるけれども、「結構なものです」と、言って私は
賞めておくことにしている。
若し、「不味い」などと言い、御機嫌を悪くしてもいけないからだが―
しかし、なんといつても、御自慢なさる丈あつて上手なものである。
私も幼年時代に能くお給仕に出て、料理はどんなものかくらいは知って
いたが、井上公のは、御自分で料理されるものだから、それには及ぶも
のではなかった。


流されているんじゃないよ流れてる  佐藤 瞳
 

ーーーーーーー
   伊藤博文               山崎育三郎
「伊藤博文」
伊藤博文公は自慢の人である。
敏にして学を好むと、いう事は、大抵の人の難しとする処である。人は
兎に角、敏捷な才智を持って居れば、学問を疎かにして、勉強などしな
いように成り勝ちである。然し、時偶、千人に一人は、生れついて敏捷
な天品を持ちながら、なお学に勤め励むものがある。
そんな人が、一世に優れて後世にまでも名を遺す大人物になるのである。
又、自分が高位高官にあるとか、或は、社会で高い地位にあれば、人は
兎に角、自分より低い位置の者に、減り下って、教えを請うというよう
なことは出来ないもの。これを為し得る人が、一代に傑出してその名を、
後昆(こうこん)に垂る大人物となるのである。


背伸びしてみても凡人は凡人  柴田桂子


「下問を恥ぢぬ」とは、平たくいへば「知らぬ事は、誰にでも聞く」と、
いふ意味である。
「知らない事は誰かに聞く。自分はそんな事など、恥かしくも何んとも
 ない」と、よく人は言うが、それは口の端ばかりの事で、さて、実際
に臨んで、「虚心坦懐に、知らざるを知らず」として、位置の低い人に、
下つて聞くことは、容易にはできない。大抵の人は、知らざるを知らず
として、教えを他人から受けたとすれば、之によつて自分の位置が引き
下げられたかのように感ずるのである。


胸底に流せぬ借りが一つある  靏田寿子


伊藤公は、あれほどの豪い方であらせられたが、矢張、下問を恥ぢずと
いふまでの心情になつて居らなかつたものである。
否、伊藤公は何事に於ても、常に、自分が一番偉い、という者になって
居りたかつた人である。
総じて長州人は、薩州人に比べれば、人触りは穏当である。
伊藤公も決して、人触りの悪いお方ではない。至極穏当な御仁である。
が、それでも横合から他人が出て来て、伊藤公の知らない事を、お知ら
せしようとでもすれば、「そんな事は遠の昔から知つてるぞ」と言うよ
うな態度に出られた。何事につけ、自分が一番偉く、自分が一番物知り
でなければ、気が済まなかつた性質があった。


太陽がどこよりでかいボクの里   松本壽賀子


ーーーーーーー
   江藤新平              増田修一朗
「江藤新平」
兎に角、人間といふものは、如何に学問があつても、之を統ぶるに礼を
以てしなければ、遂には、道にも畔き、終を全うし得ざる人になつてし
まうものである。
学問ばかりあつて、能く物を知つていても、礼を弁へなかつた為に身を
亡すことになった人の例は、「佐賀の乱」を起した江藤新平さんである。
江藤さんは、実に何でも能く物を識つておられた方なのだが、刑名学の
学者であつたからなのか、礼のことなどには、一向頓着無く、如何に他
人が迷惑をしようが一切拘はず、矢鱈、自分の無理を通そうとした人で
ある。ともかく好んで三百理屈を捏ねくり廻したりなんかもしたものだ。
遂に、あんな最後を遂げられたのも、之が原因であろうと思う。


碁盤目を斜め斜めに選っていく  前中一晃


  
   三条実美           岩倉具視      山内圭哉
「三条実美と岩倉具視」
三条実美公は、外面の柔和円満に似ず、内面には、硬骨なところのあっ
たお方である。が、(計)略というものは全く無かつた。
岩倉具視公は、三条公と違つて、中々、(計)略に富んだ人であつた。
明治維新の鴻業を成就するにあたり、表面に立って主宰されたのは三条
公である。が、実際には、維新の鴻業を大成し、王政復古の政を施くに
最も力を尽くされたのは、岩倉公である。


てっぺんと底辺すこし違うだけ  新家完司


ーーーーーーー
   土方歳三              町田啓太
「近藤勇」
幕府の末路に勇名を轟かした新撰組の近藤勇は、今でも一般から「暴虎
馮河(ぼうこひょうが)の士」であったかの如く視られているが、世間
で想ふような、無鉄砲な男ではなかつた。
私より僅かに5,6歳ばかりの年長者に過ぎないが、維新の頃は5つか
6つ齢が上だと、余ほどの年寄りであるかのように考へられていた。
近藤は、武州多摩郡の生れで、幕末に幕府が勇士を募つた時に、同郷の
・土方歳三と共に、これに応じて「新徴組」という壮士の団体に加わ
った。文久3年の春、14代将軍・家茂公が朝廷の詔により、上洛せら
れた際には、扈従(こしょう)して、京都に入り、新徴組が解散すると
自ら隊長となつて新撰組を組織し、以来、京都守護職に属して、京都の
警衛に任じたのである。


悪い流れ断ち切る為の句読点  広瀬勝博
 
 
私は二度ほど近藤に遇つて話をしたことがある。
私は這的事件があつてから後に、近藤勇と始めて会つたが、会つて見る
と、存外穏当な人物で、毫も暴虎馮河の趣きなんかなく、能く事の理の
解る人であつた。然し、近藤は飽くまで薩摩を嫌った人で、薩州人とは、
「倶に天を戴かざる」の概念を示していたものだから、薩州人に対して
だけは、過激な態度を取ったりしたので、一見、暴虎馮河の士のように、
世間から誤解されることになったのである。
倶に天を戴かざる=憎しみしか持てない相手
 

右手には刀左手にはりんご  和田洋子



だが、新撰組の隊長としての近藤勇は、中々の猛者であつた。
新選組の人数は、たかだか二百人足らずだったが、長脇差を差込み手拭
を腰に挟んでいるといったような蛮勇の連中が、幕府に直属してそれを
束ねていたのだから、余程の猛者でなければつとまらない。
いわば、頭山満氏の率いておった玄洋社の壮士が、警視庁の直属になっ
たも同じようなもので、新撰組が幕末に、勢力を揮つたのは当然で、又、
為に能く、京都警護の任をも尽し得たのである。
頭山満=右翼・玄洋社の総帥



よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらむ  近藤勇


動かねば闇にへだつや花と水  沖田総司

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もみ洗いですかつまみ洗いですか  前中知栄
 

 
                  孔 夫 子


「人を見るに細心なれよ」
孔夫子(孔子)が説かれてある遺訓、悉く「視、観、察」の三つを遂げ
ようとすれば勢い、探偵が人に接する時のように細かくばかりなって
しまい、甚だ面白くない。
 しかし、私としては、随分、念にも念を入れて、充分その人を観察し
た積もりでありながら、後日に至り、その人に意外の行動があるのを知
って、自らの不明を愧(は)じることがしばしばある。
人を観るという事は、実に、難中の難で、決して容易なものでは無い。
就中、その人の安んずる所を察するのが、最も困難である。
困難ではあるが、人の真相を知ろうとすれば、何よりも最も注意して、
その人の安んずる所を、察するのに力を致さねばならぬものである。
その安んずる部を知りさへすれば、九分九厘までは、その人の全貌を知り
得る事になる。


疲れたら千年杉の声を聞く  望月 弘
 
 
「青天を衝け」栄一語る、維新時代の人物像


ーーーーーーー
「徳川慶喜」               草薙 剛
慶喜公は、一種変つた心持を持つて居られたお方で、自分で自分を守る
処をチヤンと守つて居りさへすれば、世間が何と謂おうが、他人が何と
非難をしようが、そんな事には、一向頓着せられなかつたものである。
これが、「恭順の真意」を、幕軍の者どもへ打ち明けて御話しにならず、
突然、大阪から船で江戸へ廻られ、上野に籠つて恭順の意を表せられる
に至つた所以だろうと思う。慶喜公は、世間が如何に誤解しても、
「知る人は知つてくれるから」と、いふ態度に出られる方であつた。


血圧計低くなるまで測る人  ふじのひろし


ーーーーーーー
「西郷隆盛」               博多華丸
大西郷は偽らぬ人。まづ、西郷さんの容貌から申上げると、恰幅の良い
肥つた方で、平生は、「何処まで愛嬌があるか」と思はれたほど優しい、
至つて人好きのする柔和なお顔立であつたが、ひとたび意を決せられた
時のお顔は、また、丁度、それの反対で、恰も獅子の如く、何処まで威
厳があるか測り知られぬほどのものであつた。
「恩威並び備わる」とは、西郷公のような人を謂つたものだろうと思う。
(恩威=いつくしみと、人を従える威光)


ちょうどいいブスとは私のことです  森光カナエ


維新の頃の人々の中で、知らざるを知らずとして、いささかも偽り飾る
所のなかつた英傑は誰であらうか、と申せば、矢張、西郷隆盛公である。
西郷公は決して偽り飾るといふ事のない、「知らざるを知らず」として
通した方であるが、その為、又、思慮の到らぬ人々からは、往々、誤解
されたり、真意が果して、何れの辺にあるか、理解されなかつたりした
ものである。これは一に西郷公と仰せられる方が、至つて寡言の御仁で、
結論ばかりを談られ、結論に達せられるまでの思想上の径路などに就き、
余り多く、口を開かれなかつた為であろうかとも思う。


反対の声も静かに聞いている  津田照子
 

ーーーーーーー
「大久保利通」              木場勝巳
大久保公は、西郷公江藤さんの中間にあつた人で、仁に過ぎず忍に過
ぎず、「仁半忍半」という如き傾向の方であつたが、いづれかと申せば、
仁よりも、寧ろ忍に近い方で「仁四、忍六」の塩梅であつたように思う。
「仁五忍五」であつたと申上げたいが、何というか私は、そう申上げか
ねるように思う。
大久保公に、果して「天、徳を予に生ず」の自信があつたかどうかは私
には分からないが、兎に角、大久保公は細かい処に気が付き、鋭いとこ
ろのあると同時に、又、計略のあつた人である。
(天、徳を予に生ず=天が、人に授けてくれた徳)


着流しは猫侍でございます  くんじろう


私が大久保公に、初めて御目に懸つたのは、明治4年であつたように思
うが、オランダから、万国電信同盟へ加入しないかと政府へ照会があっ
たので、その可否を決める前に、「私の意見を聞きたいから遇ひたい」
と言って来られたことがある。
当時、大蔵省の役人であつた私は、これに旨く答弁をする自信もなく、
当惑うばかりだったので、「詳細は追つて、大蔵省の改正掛に於て調査
の上、お答えする」と述べ、引き退ったものである。
後日、大隈重信侯へこの事を話すと「堂々たる大文章なんかで答へたら
飛んでも無い馬鹿を見るぞ。貴公が答えられないことぐらい、先刻承知
しながら、大久保は、これを機会に渋沢とはどんな人間か、評判だけで
は解らないから、一回、遇つて知つて置こうと、わざわざ貴公を喚んだ
のだろうよ」と、大隈侯は、笑つて大久保公のお人柄を語って居られた。


一念を通した性に悔いはない  碓井祥昭


     
「木戸孝允」
木戸孝允卿、「維新三傑」のうちでも、大久保卿とは違ひ、西郷公
も異つた所のあつた御仁で、同卿は、大久保卿や西郷隆盛公よりも文学
の趣味が深く、且つ、総て考へたり、実行に移すことが組織的であつた。
しかし、器ならざる点に於ては、大久保、西郷の二傑と異なるところが
無く、凡庸の器に非ざるを、示すに足る、大きな趣のあつたお方である。
木戸孝允公なども、仁の方に傾かれた人であるから、木戸公に若し過失
があつたとすれば、それは矢張、仁に過ぎるより来たものだろうと思う。


石段を登る一段ずつ休む  藤村タダシ


「維新三傑」
維新三傑のうちにあつても、大久保公とか木戸公とかのように計略の多
い方々は、如何しても「義に勇む」という処が少かつたように思われる。
これに反し、「計略智謀」には乏しいが、何方かと云へば、蛮勇のある
ような方は、義に勇む人々が多いものである。
明治維新の諸豪傑の中で、仁に過ぎて、その結果、過失に陥るまでの傾
向があつた御仁は、誰かといえば、西郷隆盛公などが、即ち、その人で
あろうかと思われるのである。
「明治10年の乱」が起つた事なども、畢竟、西郷公が部下や自分を頼
って来る者に対して、余りにも、仁に過ぎた所、と言わざるを得ない。
西郷公は、飽くまで、他人に対するに、仁を以て接せられた方で、遂に
一身をも、同志の仲間に犠牲として与へられたので、遂に、彼の10年
の乱を見る始末となつたのである。


場ちがいへそそくさ帰ることにする  山本昌乃


ーーーーーーー
「岩倉具視」               山内圭哉
岩倉具視公は、京都の公卿には、珍らしい策の持った方で、三条実美公
が朝廷を長州へ結び付けることに骨を折られていた一方で、朝廷を薩州
へ結び付けることに骨を折り、薩州の志士と往来したり、又、これより
先き、孝明天皇の皇妹・和宮様を徳川将軍家茂の御台所として御降嫁を
請い「公武合体」を策したりしたお方である。
岩倉公に果して「天、徳を予に生ず」の自信があつたか何うかは知らな
いが、公も「征韓論」のことから、明治7年1月14日、高知県人・
市熊吉以下5名の刺客に、赤坂喰違いで危うく刺されようとしたことが
ある。維新前後にも猶、刺客に窺はれたのは、しばしばあつたとの事だ。


悪がきのままじいちゃんになりはった  片岡加代


※ 勝安房守も刺客には、しばしば狙われたのだが、勝伯は、刺客に襲
われても、危険を顧みず、堂々として面会したとの事である。
勝伯に「天、徳を予に生ず」との自信があつたか何うかは知らないが、
岩倉公にしろ、勝伯にしろ、兎角、策のある人が要路に立つと生命を狙
われる傾向にあるようだ…。


ポルシェなど要らぬもうすぐ霊柩車  新家完司


ーーーーーーー
「勝海舟」                遠藤憲一
勝伯は達識の方で、凡庸の器でなかつたには相違ないが、大久保、西郷、
木戸の三傑に比べれば、いづれかといえば、器には近いが、器までには、
行かなかつたように思う。
大政奉還後、徳川家は、静岡に居て七十万石を天朝から賜はっていた頃、
榎本武揚の函館戦争の頃で、神田の錦町に静岡藩の役所があつたので、
私が仏蘭西から帰朝してから、しばしば、勝伯とは会っていたのである。

当時、徳川家朝敵名義で懲罰にならずに済み、静岡一藩を賜はるよう
になったのも、つまるところ、勝伯の力であった。
又、勝伯を殺そうとするものが、幕臣の中に数多くあるにも拘らず、
何れも、勝伯の気力に圧せられて、近づくことも能わぬなどと、伯の評
判は、実に、嘖々として喧しいもので、私も亦、当時は些か自ら気力の
あることを、恃みにしていた頃だから、気力を以て鳴る勝伯とは、好ん
で会つていた次第である。
然し、当時の私と勝伯とは、全然段違ひで、私は勝伯から小僧のように
眼下に見られ、「民部公子の仏蘭西引揚には、栗本のような解らぬ人間
が居つたんで、さぞ困つたろう、然し、お前の力で幸い体面を傷つけず、
又、何の不都合もなく首尾よく引揚げられて結構なことであつた」
などと賞められなんかした。


手の内を見せる私の秘策の秘  青木敏子


       
「大隈重信」               大倉孝二
世間には好んで他人の言を聞く人と、他人の言には、一切、耳を傾けず、
自分一人でばかり喋って、他人に聞かせる人との二種類がある。
明治中央政府における大隈重信侯の場合は、他人の言を聞くというより、
他人に自分の言を聞かせる、のを、主とする御仁であった。
とにかく、こちらの談話の終るまで、黙つて聴いて居られず、中途から
横道に談話を引き込んで、聞かせようとされる癖がある。
 それでも件の談話に取りかかる前に、予め、注意を致して、聴いて下
さるよう御頼みして置けば、聞かせるばかりにならず、聞いてもらえ
ることの出来るようになる、のである。


も足も出ずに機を待つだんご虫  荒井加寿


ただ、大隈侯に就て、感心させられるところは、あの通り、他人に聞か
せるばかりで、容易に他人の談話を聞かうとされぬ割に、他人がチヨイ
〳〵と話したことを、存外よく記憶して居られることである。
 ついでに言えば、大隈伯は、すこぶいる楽観的で、何ごとに対しても、
その弊(害)を考えられず、その社会に及ぼす効益のみを挙げて、
悦ばれる傾向がある。


お笑い届けますアツアツ届けます  田口和代


ーーーーーーー
「五代友厚」              ディーン・フジオカ
私の知つて居る維新ころの人で、「仁か佞(ねい)」か一寸判断に苦
しまねばならなかつたお方は、五代友厚氏である。
(佞=こびへつらうこと 仁=他人に対する親愛の情あること)
五代氏は、なかなか目上(長上)に取り入ることの巧みな人で、大久保
利通公などへは、能く取り入つて居つたものである。
碁の相手もすれば、煎茶などもして、人触りの実に巧いものであつた。
さりとて、全くの幇間(ほうかん)に流れて、いたずらに、目上の意見
に附和雷同するのでもない。そこの呼吸が、実に妙を得て居つたもので、
同じ幇間でも、船宿の女将さんの如き幇間でなく、何となく、一物を胸
に蔵した、佞らしき処のあつた幇間である。
或は、実際に、五代氏は「佞の人」であつたかも知れない。


石段を登る一段ずつ休む  藤村タダシ


五代氏も、私が、官界を退いて身を実業界に投ずるころに、矢張り官途
に志を絶つて、実業に従事するようになったが、主として、大阪に居を
構へ働いた人である。五代氏が、官界を去ったのは、自ら期する所があ
ったためか、ひょっとして、官界に居られぬような事情になったためか、
その辺のことは、詳しく分からない。が、私が官界を退いて、実業界に
力を尽すことになると、五代氏は「渋沢は、東京でしっかり活動てくれ、
私は大阪の方で活動するから……」 などと能く申されたものである。
 いささか解り難いが、要するに、己れを晒すことなく、他人に対して、
その人を用いて自分が利そうとか、或はまた、その人に接して、自分が
快い気分になろうとか…、言うような私心を持つこと、なのだろうか?
と思う。


赤ちゃんの頃が一番もてました  秋山博志
 
 
ーーーーーーー
 「岩崎弥太郎」              中村芝翫
このお方は、多人数の共同出資によつて、事業を経営する事に反対した
人である。「多人数寄り集つて、仕事をしては、理屈ばかり多くなつて、
成績の挙がるもので無い」と、いうのが意見で、何んでも事業は、自分
一人でドシドシ運営してゆくに限るという主義であつた。
私は、「弥太郎の何んでも、自分が独りだけでやる」という主義に反対
であつたから、自然と万事に意見が合わなかつた。
明治6年に、私が官途を辞めてから、弥太郎は、私とも交際して置きた
いとの事で、松浦という人を介して、私の兜町の居宅へ訪ねて来られた
ことがある。在官中、交際した事はなかつたが、それ以来、交際するよ
うになつた。然し、根本に於て、弥太郎と私とは意見が全く違い、私は、
「合本組織」を主張し、弥太郎は、「独占主義」を常に主張し、その間
に非常な差違があつたので、ついにそれが原因で、明治12,3年以来、
確執が2人の間に生じたのである。


アナログの世界で小さくいばってる  靏田寿子


これは明治13年に私が、東京風帆船会社を設立し、三菱の反対を張っ
て見せ、明治15年には、品川弥二郎さんが、「三菱の海運界に於ける
専横を許さず」、共同運輸会社の設立に参画し、三菱会社に挑戦したか
らである。

それでも私は個人として、別に、弥太郎を嫌い、憎く思っていたわけで
はないが、善い事につけ悪るい事につけ、私の友達である益田孝、大倉
喜八郎、渋沢喜作などが猛烈な岩崎反対派で、「岩崎は、何んでも利益
を自分一人で壟断しようとするから怪しからん」と、意気巻き騒ぎ立て、
ことごとく、弥太郎を憎んでいたものだから、私を、その仲間の棟梁で
でもあると思い違い、弥太郎は、私を非常に憎んでいたようである。
結果、明治13年以来、弥太郎が18年に52歳にしてその人生の終焉
を迎えるまで、仲直りもせず終ってしまった。


恐竜が滅びたことを忘れない   西寺桂子


                                                                      
「平岡円四郎」                                            堤 真一
平岡円四郎と云う人は、今になつて考へて見ても、実に親切な人物であ
ったつたと思う。私ども、栄一・喜作の二人が、京都に出て来た理由を
問い訊されたので、事情の始終を隠し包む処なく物語ると、平岡さんは、
両人が一揆を起そうとして果さず、出京したことも既に知って居られて、
その事は、早や幕府の方にも探知され、両人が果して、「平岡の家来な
るか否か」を、その筋より一橋家に問合せに来て居る事情までも話して
呉れたのである。


生きる知恵手塚漫画に教えられ  前中一晃

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自分史に便利な消せるボールペン  掛川徹明



        徳川吉宗の葬儀が行われた上野東叡山


徳川吉宗大岡越前守との関係は<切っても切れぬ…>ものであった。
越前守が千九百二十石の旗本から一万石の大名格となったのは、吉宗の
引き立てによるもので、越前は、吉宗のその抜擢にこたえ、片腕ともな
って職務に精励したのである。また、越前は吉宗政治を支えると同時に、

町火消の創設、小石川養生所の設立、サツマイモの栽培普及など、江戸
庶民の生活に深く関わる政を行い、白洲のお裁きの中では、遠島や追放
刑を制限、囚人の待遇改善に取り組み、咎人への残酷な拷問を取りやめ、
時効の制度を設け、連座制を廃止したりと、画期的な改革を推進した。



  江戸の町奉行・大岡忠相


 晩年には、大岡越前は、町奉行から奏者番へ転じ、寺社奉行を兼務した。
 奏者番という役職は、専ら、武家に関する典儀を司るのだが、大岡越前
の場合は、大御所の吉宗と将軍・家重との間に立ち、種々の重要な案件
や意見の疎通を図り、老中・若年寄への進言を行ったというから、名実
ともに幕府の重臣となっていたのである。吉宗の越前守への信頼は、絶
大なものであった。
 
 
エンドロールの先に流れている銀河  赤松ますみ


「徳山五兵衛」 将軍吉宗に見初められた男ー⑩



           江戸の絵巻①



「大御所、本所に御放鷹(ごほうよう)あり、西尾隠岐守忠尚陪遊して
 鴨を得たり」
寛延4年(1747)の春、徳山五兵衛が、小田原で尾張九衛門を捕え、
現地において取り調べを行っているころ、大御所・徳川吉宗は久しぶり
で、本所へ狩りに赴いている。一時は、健康を損ねていた吉宗が、元気
を取り戻したことになる。しかし、死は着実に吉宗へ迫っていた。
まもなく吉宗の病気が再発し、五兵衛が江戸へ戻って間もなく、<大御
所の御病気は、非常に重い>との声が、五兵衛の耳へも入ってくるよう
になった。そして、ついに6月19日に至って、吉宗は危篤に落ち入り、
翌20日の朝、68歳の生涯を閉じた。


もうすぐの真冬がそっと置いてある  中野六助


大御所・吉宗の葬送は、閏6月10日(7月10日)に行われた。
江戸城から、上野東叡山の幽宮へ向う葬送の列に、名奉行と謳われた
岡越前守忠相も加わっている。このとき大岡越前守は、町奉行から寺社
奉行に転じていたが、ことさら吉宗の恩顧を受けていた越前守は、自ら
の病患が重く、顔面蒼白となりながらも威儀を正し、粛然として、最後
のお役目をつとめた。75歳の大岡越前守は、このとき、結核症状が全
身におよび、腹部からの出血もひどかったらしい。越前守は10月に至
って寺社奉行を辞し、12月19日に病没している。


でかしたと節くれだった指が言う  藤村タダシ



             江戸の絵巻②


吉宗葬送の当日、徳山五兵衛は盗賊改方の与力・同心をひきい、葬列が
すすむ前後を、密かに警備することを命じられている。吉宗の葬送が終
わってのち、本所の屋敷へ戻って来た五兵衛は、小沼治作に、
「これにて、われらの世は終わったようなものじゃ」
しみじみと、そう言った。
<わしが…このわしが、この手で、あの大御所様の御頭を、打ち叩いた
ことがあろうとは、世の人の夢にも思うまい>
小沼治作にも、このことだけは洩らしていない。
吉宗にしても、あのとき、五兵衛の姿を見てはいるが、布で隠した面体
は見られていない。一時、<もしや、御存知では…>と、思うことがな
いではなかった。
<初めて、本所見廻り方>を務めていたころのことだ。
しかし、
<今にして思うと、やはりお気づきではなかったようじゃ>
あれやこれ、将軍吉宗を偲ぶ五兵衛であった。


8のつく日今日はハライソ詰め放題  吉川幸子


翌年の正月になって、五兵衛は、老中の堀田相模守から呼び出された。
<ようやくに、お役目から解き放たれるらしい> と思った。
何といっても63歳になってしまい、昨年の小田原や奥州・川俣への出
張が躰にこたえている。
「小沼、これにてようやく肩の荷が下りそうじゃ」
「ようござりました」
小沼治作も、主人の解任を疑わぬようだ。
五兵衛の活躍で、このところ江戸市中も平穏であった。
58歳になった奥の勢以も、
「これよりは、ゆるりとお過ごしなされますよう」
と言ったほどである。


自由にはなった不自由にもなった  谷口 義



             江戸の絵巻③


ところが、堀田老中の許へ出頭してみると、「盗賊改方解任」のことで
はなかった。老中・堀田相模守が徳山五兵衛
「つつしんで、拝領いたすように」
と言って、手渡されたものは、一振の脇差であった。大御所吉宗が
「われ亡き後に、内々にて徳山秀栄へ…」
形見として下げ渡されたのである。
<大御所様は、わしのことを、お忘れではなかった…>
年齢をとった所為もあってか、五兵衛は帰邸してから、感涙に咽んだ。
「内々に…」
という一言が、特別の親密さが籠められているように思われてならない。


すくっても掬ってもおぼろ月夜  市井美春


五兵衛は帰邸した折に
「やはり、御解任にて…?」
問いかける小沼治作や、柴田勝四郎へ、
「何の、そのようなことがあろうか」
きっぱりと答えて、奥へ入っていったものだから
「はて…?」
小沼と柴田用人は、不審気に顔を見合わせた。
大御所の吉宗が、一人の幕臣へ形見分けをしたのだから、これが公式の
場であれば、<非常なこと>である。
だが、吉宗は、<内々のこと>として配慮されたのである。
「五兵衛よ。余とそのほうとの間には、余人には申せぬ秘密の出来事が、
いろいろあったのう」
吉宗の声が、冥府から聞こえてくるような、そんな気がした。


サイコロの転がる先の花言葉  みつ木もも花



             江戸の絵巻④

五兵衛は、吉宗の形見の脇差について、家族や家来たちにも洩らさなか
ったが、長男の次郎右衛門頼屋へのみ、打ち明けている。
「大御所様が、わざわざ、かように父のことを御心にかけらるるは、父
もそれだけの働きをしているからじゃ…」
五兵衛は、醒めやらぬ興奮をおさえながら、誇らしげに倅に語った。
五兵衛が言いたかったことは、将軍・吉宗から受けた徳山家にとっての
名誉を代々の後継へ伝え、<名を汚さぬよう、お役に務めよ>というこ
とであった。


結び目をほどくとそうか そうなんだ  山本昌乃


吉宗の葬送が終わると、五兵衛は、ふたたび火付盗賊改方の役職に精励
しはじめた。
「殿様は、近ごろ若やいでまいられたような」
76歳の用人、柴田勝四郎が倅の平太郎へ洩らしたように、その後も、
五兵衛は、数件の盗賊一味を捕縛するという活躍をみせている。
その柴田勝四郎は、依然矍鑠(かくしゃく)として用人を務めていたが、
ついに、この年、宝暦2年(1752)の11月5日に心の臓の発作に
よって急死をとげた。
柴田勝四郎の葬儀も済み、間もなく、宝暦2年の年も暮れた。大御所・
吉宗もこの前年に死去した。これまでの、五兵衛に関わっていたという
よりも、五兵衛の人生を<つくりあげてくれた、とも言うべき人びとが
つぎつぎに消え去り、いまは、勢以小沼治作のみになってしまった。


年ごとの変化やっぱり老化だね  安土理恵
  
 

             江戸の絵巻⑤

 
かくて、また、新しい年が明けた。宝暦3年である。
徳山五兵衛64歳。妻の勢以は59歳。小沼治作は74歳になった。
小沼は、以前と少しもかわるところがない。柴田勝四郎が死んだときも、
その亡骸に向って、
「御用人、いずれ近きうちに、そちらへまいりまするぞ」
などと語りかけたときの、小沼の老眼には、むしろ明るい微笑が漂って
いたほどなのだ。邸内の道場へ出て、徳山家の家来や盗賊改め方の与力
同心たちと共に、剣術の稽古に励む日常も変わらない。
<元気じゃのう> 五兵衛が呆れ顔になるのも、当然で、今でも短時間
の稽古なら、70を超えた小沼へ、打ち込める者はいないのである。


素粒子のことは知らぬが支障なし  新家完司



             江戸の絵巻⑥


<小沼は独身ゆえに、あのように健やかなのであろうか…>
<ああ、わしは、小沼よりも先に死ぬるにちがいない>
ある日、小沼治作が、居室に籠り、若い頃より間があれば、描き続けて
きた念願の絵巻に、没頭する五兵衛
「たまさかには、道場へお越しくださりませ」
躰を動かさないことに不満気に言ってきた。
「愚かなことを申せ」
「何が、愚かでござります」
「余命幾ばくもないというに、小太刀を揮って、汗をかいたところで、
 どうなるのじゃ」
「殿も、随分とお変わりなされましたな」
「何とでも申せ」
「あれほど、剣の道に御執心であられましたのに…」
「今は、絵筆に執心しているのじゃ」
「御勝手になされませ」
小沼も75歳となり、五兵衛に対してすっかり遠慮がなくなって、喜怒
哀楽の表情を露骨にする。


優柔不断をずばっと斬ってやろう  福尾圭司


「殿…」
「何じゃ」
「殿が剣をお捨てなされては、小沼寂しゅうございます」
「のう小沼、その方もわしも剣術は三度の飯より好きであった」
「なればこそ、私は…」
「まあ聞くがよい。よいか、小沼。今のわしには絵を描く楽しみがある。
 65にもなった老人の余生は、もはや残り僅かじゃ。
 わしは到底、その方の歳までは生きられまい」
「何を仰せられますする」
「さよう…」
言って、五兵衛は、両目を閉じ右手の指を一つ二つと折りながら
「さよう、あと4、5年の寿命ではあるまいか」
「殿、お躰に、何ぞ変わったことでも…」
「おもうてもみよ、65歳の老人に剣術が相応しいか、
 または絵筆がふさわしいか。その答えを改めて申すまでもあるまい」
五兵衛に優しく言われて、小沼治作は、
「恐れ入りましてございます」
そこへ、ひれ伏してしまった。


平凡という風呂敷の心地好さ  藤本鈴菜



           江戸の絵巻⑦


徳山五兵衛が江戸へ出奔していた期間は別にして、片時も離れずに付き
添って来ただけに、小沼治作は、心安だてに家来の身分を忘れることが、そ
れをまた五兵衛は、一度も咎めたことがなかった。
そのことに小沼は、いま思い及んだのだった。
「まことにもって、不躾なることを申し上げました。
 わが身分をわきまえず、まことに私めは…」
小沼の声は、震えていた。
「まあ、よいわ。わしはその方を…」
五兵衛は小さく苦笑を浮かべて、
「家来とは、思わぬ」
と言った。思わぬ言葉に小沼は、
「何と、仰せられまする」
「そのほうと呼ぶのも、今日から止めにいたそう」
「………?」


鏡の中に他人のような私  ふじのひろし


「小沼、今のわしは、おぬしを、わが友と思うている」
「と、殿…」
「おぬしが道場で一同に稽古をつけているときの、元気な気合声は、
 この居間にいてもわしの耳にはいっておるのじゃ」
「お、恐れ入り…」
「おぬしの気合声を耳にしながら…まだ、小沼治作が健やかにしていて
 くれる。わしの死に水を取ってもらえると思えば、何とも言えぬ安ら
 かな気持ちにもなってまいるのじゃ」
たまりかねて、小沼は男泣きに泣き出した。
この日から後、小沼治作は、五兵衛の耳へ剣術のことを、一言も入れぬ
ようになった。いつの間にか、夏が去り、秋風が立つと病気ではないが、
五兵衛は、日中も書見の間で、うつらうつらと一日を過ごすことが多く
なった。絵筆をとる気分にならないときもある。


リバーシブル今日のあなたに合わせます  津田照子



            江戸の絵巻⑧


宝暦6年の年も、あと半月ほどで終わろうというある日の午後、暖かい
日和ゆえ、居間の縁側へ毛氈を敷きのべ、五兵衛は、半切に軽く墨竹を
描いていた。60を超え、お役御免の身となった自分に、絵を描く楽し
みが残されていたことを、五兵衛は<ありがたい>ことだと思っている。
さて、手本もなしに、墨竹を描き終えた五兵衛が、縁側へ立ち上がり、
奥庭の木の間から落ちかかる日の輝きに、眼を細めたとき、突然、眩暈
をおぼえた。
ぐらりとよろめいたことは覚えているが、後は、おぼえていない。
気がつくと、五兵衛は庭へ落ちていた。さいわい誰にも見られなかった
らしい。<醜態じゃ>と思いながら<もはやわしもいかぬか> と呼吸
を整えつつ、寂寥感を感じた。
1年ほど前から、自分の躰が急に衰え始めたことを自覚している。
それでいて、医師に診せようとは思わなかった。


散り際を模索している影法師  細見さちこ
 
 

そして宝暦6年の年が明けた。徳山五兵衛67歳である。
絵巻はほぼ完成した。<これでよし、これでよし。いつ、死ぬる日が来
てもかまわぬ。さあ、いつにても来い>の思いを、五兵衛は胸に畳んだ。
この年の夏の暑さも相当なものであったが、五兵衛は無事に乗り切った。
ところが、秋風がたち染めて、間もなくの或朝、目覚めて半身を起こし
た途端、またしても激しい眩暈が五兵衛を襲った。
<あっ…>おもわず、低く叫び、五兵衛は、突っ伏してしまった。


ヘソの尾か竜巻なのか暴れだす  田口和代


目覚めると横に医師の遊佐良元が脈をとっている。妻の勢以もいる。
長男の次郎右衛門がいる。小沼治作も家来たちも、五兵衛の床へ集まっ
てきていた。
それから1ヵ月ほどして、五兵衛は、床をはらった。
いったんは衰えた食欲も出てきたし、血色も見違えるほどよくなった。
医師の遊佐良元も
「もはや、大丈夫…」
と受け合ってくれた。
床上げの日の午後に、小沼治作が居間へやって来て、
「御本懐、おめでとうござりまする」
神妙な顔で祝を述べたとき、五兵衛はくすりと笑い
「小沼、心にもないことを申すな。おぬしには、よう分かっているはず
 ではないか。なれど、たしかに気分はようなったわ。良元殿の手当て
が効いたのであろう」
小沼は黙って頷いている。


神さまの目配せスルーしてしまう  美馬りゅうこ



            江戸の絵巻⑨
 
 
「のう、小沼、蝋燭の灯が尽きようとする直前には、最後の炎をあげ、
 一瞬、ぱっと燃えさかるとか…いまのわしがそれじゃ…。
 これより、残り少なくなった明け暮れを、神や仏が楽ませてくれるの
 であろうか…」
時代は、9代将軍・家重の世になって、大きく移り変わろうとしている。
五兵衛次郎右衛門に、こう言った。
「これからは大変な世の中になろう。おぬしが気の毒じゃ。何事につけ、
せせこましく、息苦しく生きていかねばならない。こころしておけ
もはや、今の五兵衛秀栄には、時勢の変転に、心をくばっている時間も
ない。そして五兵衛は、ぷっつりと絵筆を捨てた。
そして毎日、居間に座り込み、奥庭を眺めては瞑想にふけり、夜に入る
と書見の間に引きこもり、かの絵巻をながめることが日課となった。


サイコロの転がる先の花言葉  みつ木もも花
 
 
この年が暮れ、また新しい年が明けた。宝暦7年である。
新年を迎えた五兵衛の体調は良好であった。
春がすぎ、梅雨の季節となったので、医師の遊佐良元は3日に1度、
かならず来邸して診察をおこなった。
梅雨の季節も元気に迎え、良元も<これならば大丈夫>と太鼓判をおす。
夏が来た。依然、五兵衛は食欲もあるし、血色もよかった。
体調が、少しおかしくなったのは、秋も入口にある8月10日(今の9
月22日)である。
目覚めのときに眩暈を感じ、三日感覚ほどで、その症状が続いた。
そして8月18日となった。
午後になって、勢以が持ってきた土産のカステーラを二片ほど食べたが、
間もなく気分が悪くなり、吐いた。


ダリのヒゲああ永遠は無いと知る   齊藤由紀子


おどろく勢以
「なに大丈夫じゃ。少し眠ろう」
五兵衛は寝所に入り、身を横たえ、半刻(1時間)ほど眠ったようだが、
突然、激しい頭痛に目覚めた。躰中の力という力が、すべて消え去った
ようで、頭痛は依然として激しい。
次郎右衛門夫妻をはじめ、家来たちが次の間へ入って来ようとしたが、
五兵衛は、勢以に、「居間には誰も入らぬように」と命じ、
書見の間にある、鍵をかけた手文庫を持ってこさせ、
「わしが、息絶えるまでに焼き捨てよ」
と申しつけた。
手文庫には、合間合間に五兵衛が、描きためた秘密の絵巻が入っている。
それを残して<死ぬるわけにはいかない>のだ。


目にしみる涙は遠き日のために  奥山節子
 

 
   歌沢節 横ぐしお富

女江戸中期には多くの侍・市民は習い事をした。
男たちが女師匠に歌沢節
の稽古を受けているのもその一巻である。
歌沢節とは、江戸時代後期に端唄から派生した歌曲。
五兵衛が、趣味とした絵画も、遊蕩時代に習い覚えたものだったようだ。



次郎衛門柴田用人も、小沼治作さえも遠ざけた五兵衛は、家来2人を
呼び入れ、奥庭に面した寝所の障子をあけさせ、庭の土を掘り、そこへ
薪を組み、手文庫を放り込み、「急ぎ、燃やせ」と命じた。
夕闇が淡く漂う奥庭の一隅の穴から、紅蓮の火炎が燃え上がるさまを遠
くから見ていた家来や侍女たちは、<いったい何事が?>と息を呑んだ。
手文庫が完全に灰となるのを見届けてから五兵衛は、ぐったりと臥床に
横たわり、
「皆みなを呼ぶがよい。別れを告げたい」
と言った。


墓石の蜥蜴そろそろ旅支度  くんじろう
 
 
  <こうなる前に、わしの手であの絵巻と櫛の始末をいたしたかったが……
ついに、いまこの時まで、未練を残してしもうた。なれどこれでよい>
土気色にかわった五兵衛の顔には、安堵と放心の色が浮かびあがった。
遊佐良元が駈けつけてきたのはこのときである。
次郎右衛門夫妻や孫たち、分家から小左衛門貞明。小沼治作や用人・
柴田平太郎も五兵衛の枕頭へ集まって来た。
「勢以…これへ…。長年、苦労であったのう」
「いま一度…いま一度、四十余年前に戻って、初めより、やり直しとう
ございました」
五兵衛の耳元へ、涙声で、ささやいた。


こわれかけのレコードのよう子守歌  森光カナエ



          武士の葬儀


次郎右衛門小左衛門が顔を寄せると、
「次郎衛門、小左衛門。正道を踏み外したはならぬぞ」
と父親らしい一言をあたえ、小沼治作が、
「私めも、間もなく…」
ささやくと、両眼を閉じた五兵衛が、
「待っているぞよ」
頷いたが、すぐに昏睡状態となり、夜に入り息絶えた。
ときに、徳山五兵衛秀栄、68歳であった。

小沼治作は、翌年の2月10日に死んだ。五兵衛を追ったとも…)
食を絶ったともいわれ、または、前日まで変わりなく暮らしていたのが、
翌朝となって眠ったまま、息絶えているのを発見されたともいう。
いずれにせよ、五兵衛亡きあと張り合いをなくした小沼は、魂の抜けた
亡骸同様だったという。

 
かぎろひの旅の終わりは彼岸花  内田真理子

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あと一段見落としていた僕の足  武市柳章
 


            小伝馬町牢屋敷


小伝馬町牢屋敷の広さは、敷地2618坪(うち奉行の役宅480坪)
周囲には濠が巡らされ、表門は南を向いている。表門から入って「宣告
場」「張番所」があり、「獄舎」は御目見え以上の罪人を入れる揚屋敷
6、5坪、士分・僧侶を入れる揚屋が9坪、百姓町人以下の大牢15坪、
同婦人の女牢が12坪と四ヶ所に分かれており、他に、「拷問場」「処
刑場」「検死場」、病囚のための「薬煎所」「役人長屋」となっている。
日本左衛門は、延享4年(1747)1月7日に京都町奉行・永井丹波
守尚方に自首し、裁かれたのち、江戸に送られ、北町奉行・能勢頼一
って、小伝馬町の牢に繋がれた。
(日本座衛門の自首は、大坂町奉行・牧野信貞の説もある)
 
 

        牢内の図 (徳川幕府刑事図譜)
 
 
エンマ様のお裁きを待つあばら骨  大野たけお


「徳山五兵衛」 将軍・吉宗に見初められた男ー⑨


日本左衛門が、延享4年(1747)1月、自首してきた。
京都町奉行は、永井丹波守尚方であったが、その役宅へ日本左衛門は町
駕籠を乗りつけたらしい。黒紋付に麻の裃をつけ立派な大小を腰に帯し、
堂々たる風采であったが、すっかり痩せ衰え、杖をつきながら、右の足
を引き摺っていたいたようだ。
奉行所には、日本左衛門の人相書きも廻っていたし、京都市中の探索も
疎かにしてはいなかったが、それだけに意表をつかれ与力・同心たちは
あたふたと落ち着かない様子だったようで、日本左衛門は、
「わざわざと名乗り出たるからには、逃げ隠れをいたすわけもござらぬ。
 お心静かになされ」
と、さも愉快気に言い放った。


兵法にあるのだろうか泣き落とし  ふじのひろし


なにはともなく縄を打ち、日本左衛門を白洲へ引き出すと、
「何ぞ、腰にかける物を下さらぬか。それがし、遠州の見附宿にて、
 お役人の頭と見ゆるお人に、右の太股を斬り払われ、その傷が、
すっかり拗(こじ)れてしまい、歩むことも坐ることもかないませぬ」
と言い出た。
調べてみると、なるほど右の太股が化膿し、そのあたりが、まるで毬の
ように腫れあがっている。見附宿の捕物陣を単身で切り抜け、諸方を逃
げ隠れしていた日本左衛門は、全国手配の犯罪者として、医者の手にか
かるわけにもいかず、自分の手で膿を除いたり、薬を塗ったりして何と
か逃げ延びていたという。


時効などさせない神さまの手錠  荻野浩子
 


       江戸のお裁き

 
京都町奉行・永井丹波守は、
「腰をかけさせるがよい」
許可を与えてから吟味を開始をした。
「いずこに潜みおったのか?」
日本左右衛門は、
「まず伊勢の古市に…、それから、長門の国の下関まで落ちのびました」
と、言った。
果たして本当だろうか。
この間に伊勢の古市に住んでいた中村左膳という者が捕らえられた事件
がある。中村左膳は、古市の遊女を斬り殺したらしい。
尾張の浪人で、日本左右衛門一味ではない。
中村左膳と日本左右衛門は、ずっと以前からの知り合いであったので、
「古市の中村宅へ潜みおりましてござる。ところが、慣れぬ他国の下関
にいても落ち着きませず、ふたたび伊勢の古市に戻ってまいりましたが、
中村左膳が、お縄にかかってしまい、匿ってくれる者もなく…」
と、おおまかな経緯を語った。


影だけがどんどん伸びる逃亡者  赤松ますみ


ともかく日本座衛門は、曖昧で詳しいことは何も語らない。
長門の下関の何処にいたのかと訊かれても
「さて、忘れてしもうてござる」
悪びれもせず答える。
伊勢の古市にも居られず、それから京都へのぼり、この日まで何処かに、
潜伏したいたのだが、
「その場所は?」
との訊問に対して、
「橋の下、寺の境内、あるいは諸方の木立をえらび、潜みおりました」
「いずこの橋の下じゃ?」
「さて、京の町は不案内にて、ようわかりませぬ」
「野宿していた者が、どうして、真新しい黒紋付や麻裃を身につけるこ
 とができよう」
行く先々で、日本左右衛門を匿った者がいるにちがいないのだが、
しかし彼らは、おそらく一味の盗賊ではなかった者だろう。


信楽のタヌキの頃を引きずって  中野六助


自首してきたとき、日本座衛門は、懐中に十両の金を残していたという
から、<日本左右衛門のこれまでの逃亡を助けたのは、金の力と言って
よいのではないか>、その金も尽きかけ、このままでは傷が悪化し、
ついには命取りになることを悟り、
「どうせ死ぬなら」
こちらから名乗り出て、<日本左右衛門らしい悪の最後を遂げよう>
そう決意を固めたもの、と、奉行・長井丹波守は推し量り、
「こやつ、いかに締め付けようとも、この上の事は白状いたすまい」
と結論づけた。


もうろくという字を思い出している  黒田忠昭


最後に、日本左右衛門は、しみじみとした口調で
「それがしは天下未曾有の大盗とあって諸国へくまなくお手配にて
かくなってはもはや大綱と申すものと存じました。
わが腹を搔っ切ろうかとも考えましたなれど、
醜い死体を他人に見せるよりは、
自ら大綱にかかり恢恢疎にして漏らさぬとの金言を真のものといたしたく
かくは出頭つかまつってござる」
「…」

「それに…それにまた見附にて斬りはらわれたる太股の傷が、
かほどに悪くなろうとは思いませなんだ、盗賊と申すものは
お役人より何より、己の手傷・病に弱いものでござります」
 
 
団栗がコロンと落ちただけのこと  合田瑠美子



          打 ち 首


その後、日本左衛門は江戸の北町奉行所へ護送され、さらに吟味をうけ
たが、京都町奉行での吟味と同様の結果となった。
そこで、<いたしかたなし>ということになり、延享4年3月11日に、
獄門を申しわたされた。
当日、江戸市中を引き回しの上で、処刑されるのだが、何故か、火炙り
にも磔にもならず、引き回しののち、ふたたび、伝馬町の牢内へ戻され、
其処で首を打たれることになった。


自分史の最期は「ん」で締め括る  梶原邦夫
 

 
                             市中引き回し


処刑の当日、市中引き回しの馬へ乗せられたとき、上体を厳しく縛られ
日本左衛門が付き添っていた役人に、
「見附宿にて捕物の采配をお振りなされたお方の御名を、冥途の土産に
 聞かせていただきとうござる」
「火盗改方、徳山五兵衛殿じゃ」
「とくの、やま、ごへい、どの…」
すると、日本左衛門こと浜島庄兵衛は、
「はて…?」
何やら、しきりに首を傾げているので、役人が
「何とした?」
「いや…その御名を、ずっと以前に耳にいたしたような…」
「何を申す。そのほうどもの関わり知らぬお方じゃ」
「はい……はい……」
処刑の日の日本左衛門は、いかにも神妙であった。


悔いのないきれいな灰になるつもり  津田照子


五兵衛から受けた太股の傷も、医薬の手当てによって、どうにか軽快と
なり、顔色もよく、いくらかは躰も肥えたようである。
「あれが、日本左衛門だ」
「ざまを見ろ」
「あんな悪党は、滅多にいないということだ」
「押込み先で、女を手篭めにするなぞは、まったくもって、犬畜生にも
 劣る奴だ。石を投げてやれ」
「投げろ、投げろ!!」
群衆が引き廻される日本左衛門に石を投げつける。
この大盗の罪状を書き記した紙幟と捨札を先頭にかかげ、槍・捕物道具
を手にした40人ほどの警護がついているけれども、石を投げる群衆に
は知らぬ振りをしている。縄つきのまま馬上にいる日本左衛門の顔は、
血だらけになったという。


かくしてシラタキは白髪ネギに負けたんだ 山口ろっぱ
 
 
徳山五兵衛秀栄の名は、日本左衛門の処刑と同時に江戸市中へ広まった。
見附宿の捕物の鮮やかな手際もさることながら、みずから強力の日本左
衛門とわたりあい、
「生け捕りにしようというので、何とわざわざ、日本左衛門の太股を斬
 ったというのだから大したものだ」
「その場では逃げられたものの、結局、徳山殿より傷のために自首をし
 て出たと申すのだから、生け捕りにいたしたも同然じゃ」
「いずれにせよ、見事な働きではないか」
「年少の頃には、かの堀内源左衛門より薫陶を受け、赤穂浪士の堀部安
 兵衛とも同門であったそうな」
「ほう……さようでござるか。なるほど、なるほど」
などと幕臣の間でも、えらく評判になった。


喝采を遠くで聞いたとろろそば  柴辻疎星
 

 
                                  盗 賊 追 捕 の 図


大御所・吉宗からは、別に何の沙汰もなかったが、老中、掘った相模守
を通じて、<遠路を苦労であった>との言葉が、五兵衛の耳へもたらさ
れた。吉宗はこの年、64歳になっていたし、やや健康を害しているら
しい。
徳山五兵衛の火付盗賊改方就任は、日本左衛門逮捕のためであったが、
あまりにも評判が高くなったためか、幕府は五兵衛を解任しなかった。
五兵衛は、
「まだ、このお役目を務めねばならぬのか…」
幾分、うんざりしたものだったが、江戸市中での盗賊追捕をやりはじめ
てみると、次第に気が乗ってきて、立てつづけにそれと知られた盗賊の
首領を2人も捕えた。


雑巾になるまで使い切る命  笠嶋恵美子


となると、解任の望みはいよいよ遠くなる。
「60の声を聞こうというのに、このような忙しい思いをせねばならぬ
とは…」
五兵衛は毎日のように、小沼治作へ零した。
それならば、何も一生懸命にお役目を務めなくても、怠けていればよさ
そうなものだが、兇悪な賊どもが1人でも消え、絶えるならば、それだ
け江戸市民の難儀が減ることなのだから、遣り甲斐がなくもない、とい
う考えに落ち着いてしまう。


真っ直ぐに生きて付録の中にいる  吉川幸子


火付盗賊改方の長官として、徳山五兵衛秀栄な名は、江戸府内において
<だれ知らぬものはない>、ことになった。盗賊どもも恐れをなしたか、
一時は、江戸府内に盗賊の跳梁が絶えた。
そういうこともあり、寛延2年(1749)の秋になって、
五兵衛は盗賊改方を解任になった。後任は別になかった。
「やれやれ」
五兵衛は60歳になった。小沼治作は70歳である。
しかし小沼は、いよいよ元気で、
「このようなことを申し上げては、如何かと存じますが、近ごろ私は、
 このまま、もう死ぬことはないのではないかと、そのような気がいた
すこともござります」
などと言い出したりして、五兵衛を呆れさせた。


一日でならずローマもこの皺も  岡本なぎさ


ところが、
2年後の寛延4年の正月、ふたたび「火付盗賊改方」を仰せつけられる。
幕府がまたも徳山五兵衛を必要としたのは、諸方盗賊どもの跳梁がはじ
まり、ことに相州から甲州にかけて、<尾張九右衛門>と名乗る盗賊が
現れたことによる。


走ることはない私の道だから  佐藤正昭

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