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川柳的逍遥 人の世の一家言
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掘削のプロ集団であるモグラ    新家完司
 
 

日本国第一の大天狗


平安後期、11世紀の終りに『院政』という政治形態が生まれた。
貴族支配が動揺するなかで、「行動しやすい天皇制としての院政」が生
れたのである。院政とは、「治天の君」の政治である。
 また『武士』が、国家機構のなかで、重要な重要な地位を占めるように
なるのも平安後期からである。
清和源氏・桓武平氏など、武家の棟梁が、中央国家の中で官職を得て、
「軍事貴族化」し、主従結合によって個々の武士を組織して、院政の下
で治安の維持にあずかり、「内乱の鎮定」にもあたる。
院政は、国家の支配・統治者であり、頭領に率いられた武士は、
「国家的軍事警察」の担当者である。


もたれあう形で人の字が老いる  掛川徹明


「鎌倉殿の13人」 大河ドラマを面白く見るためにー①



北条氏相関図


「その時、歴史が動いた」ー物語時代背景-予習
 
「鎌倉殿」は、鎌倉幕府の棟梁、または、鎌倉(幕府)を指す。
源為義・義朝父子以降は、清和源氏の棟梁を「鎌倉殿」又は「鎌倉家」
と、呼んだ。「幕府」という呼名は、江戸中期以降用いられたもので、
鎌倉時代の武士は、鎌倉幕府を『鎌倉殿』と呼んだのである。
 建久10年(1199)1月13日、源頼朝の急死により嫡男・頼家
が18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代・「鎌倉殿」となった。
しかし、三ヵ月もたたないうちに、頼家は、裁判権を奪われ、13人の
有力御家人の合議による裁判とされた。頼家は父・頼朝のような独裁者
となる途を阻まれたのである。


枯れ落葉俺もお前も御用済み  但見石花菜


   
源頼朝              八重
鎌倉幕府初代将軍         頼朝最初の妻
平治の乱後、伊豆に流された
 

※注釈①=13人とは北条時政、北条義時、大江広元、中原親能(ちか
よし)、二階堂行政、安達盛長、足立遠元、三善康信、八田知家、和田
義盛、三浦義澄、比企能員(ひきよしかず)、梶原景時らである。

※注釈②=頼家が「暗愚だ」とされてきた根拠として、「蹴鞠ばかりし
ていて、政治に無関心だった」こと、という。(『吾妻鏡』)
 しかし当時は、和歌や蹴鞠などは国家を安泰に導くための1つだった。
天皇や貴族らは、音楽を自らやり、和歌や蹴鞠によって、神仏を喜ばせ、
国家を安泰にみちびくというのが、当時の重要な役割でもあった。
「吾妻鏡」は、北条氏の命令で編纂されたもので、曲がって伝えられる
ものも多い。例えば「13人の合議」をしたという史料はどこにもない
らしい。


机上では見えないこともある政治  大高正和
 
 
   
 北条義時              義時の正室・姫の前ー阿波の局
鎌倉幕府二代執権          見目麗しい頼朝の愛した女官。
姉・政子の夫頼朝の側近となる。
 
 
翌正治2年(1200)には、梶原景時が殺された。
66人の御家人たちが、讒言魔として知られる梶原を、頼家に糾弾し、
梶原は鎌倉を追われ、謀叛を企てて上洛の途中、駿河で討たれたという。
しかし、問題はその「讒言」の内容である。九条兼実の日記『玉葉』に、
『景時は武士たちが、頼家の弟の千幡(せんまん・のちの実朝)を立て、
頼家を討とうと企てているのを頼家に告げた』と、あるのが真相である。
鎌倉では、「頼家派と千幡派が対立」しており、頼家は梶原景時を庇い
きれず、みすみす忠臣を失ってしまったのである。


待ちわびた春口内炎で始まる  雨森茂樹


  
北条時政             りく(牧の方)
義時の父。政子と結婚した     時政の後妻
頼朝を支える。

 
そして、千幡派の中心が、実は、北条時政だった。
北条時政や政子頼家を嫌ったのは、頼家の外家・比企氏の台頭を恐れ
たためである。源頼朝の乳母の養子として重用された比企能員は、娘を
頼家の妻とし、その間に長男・一幡が生まれ、頼朝時代の北条氏と同様
、鎌倉殿の外戚の位置を占めよう、としていたのである。
そして、ついに、建仁3年(1203)、時政は能員をはじめ比企氏を
滅ぼし、一幡を殺し、頼家を退けー殺害ー、千幡を鎌倉殿に立てた。
また時政は、執権(政所別当)に就任、ここに執権政治がスタートした。
※注釈③千幡の母は、比企能員の娘・若狭局)


大根の皮も尻尾も刻みます  合田瑠美子
 

  
比企能員             比企尼
時政に脅威を与えた         源頼朝の乳母
比企尼の甥

 

京都では源通親が権勢を振るっていたが、しだいに後鳥羽上皇の発言が
強まり、建仁2年(1202)に通親が没すると、上皇が実権を握った。
その翌年、鎌倉では、頼家実朝の交代が行われ、その後の「後鳥羽―
実朝」の公武関係は後鳥羽の主導下に展開され、往年の「後白河―頼朝」
のそれとは異なった相貌を示すに至る。
上皇は、通親時代に逼塞していた九条家を優遇するとともに、「公武融
和」を図って、親幕的な政策をとった。
頼朝・九条兼実の間に一時は気まずい時期もあったが、九条家の動きは
概して親幕的であった。幕府が、千幡擁立を報告すると、上皇は直ちに
これを承認、征夷大将軍に任命して「実朝」の名を与えた。


本当は平和主義ですコウモリは  杉本光代
  
  
    
北条宗時             北条政子
義時の兄。            義時の姉。
源頼朝に平家打倒を訴え、        伊豆の流人だった頼朝の妻となる。
伊東祐親の戦に敗れ死亡する。   頼朝死後幕府の実権を握る。


 後鳥羽上皇は、その閨閥の中に、実朝を組み込もうと考えた。
元久元年(1204)、実朝は、上皇の近臣・坊門信清の娘・坊門信子
を妻として迎えた。 信清の姉・七条院殖子は、上皇の母であり、実朝夫
人の姉・坊門局は、上皇の女房である。
この婚姻で上皇と実朝は、義理の兄弟のようになり、実朝自身が院の近
臣化したのである。縁談を推進したのは、上皇の乳母として信任の厚い
藤原兼子である。彼女は坊門局を養女とし、坊門局が産んだ上皇の皇子・
頼仁親王を養育していた。鎌倉側で兼子に応じたのは、北条時政の後妻・
牧の方である。時政・牧の方夫妻の娘は、実朝夫人の兄弟にあたる坊門
忠清に嫁しており、北条氏は、坊門家ともつながりを持っていた。


三角の土地それなりの家が建つ  高田佳代子
 
 
 
 北条氏相関図
 
 
実朝擁立によって、幕府の実権を握ったのは、どうやらこの夫妻だった
ようだ。このとき、京都の警備、公武の連絡にあたる京都守護として、
上洛を命ぜられたのは、夫妻の娘婿・平賀朝雅であった。
朝雅は、上皇によって右衛門佐に任ぜられ、上皇の笠懸の師となり、近
臣のように遇されていた。夫妻は、このように後鳥羽上皇とまでつなが
りを持っていたが、夫妻のこのような跳梁に反発する者もいた。
牧の方の継子にあたる北条政子・義時らである。


シーソーの上にいるのが亭主です  藤村とうそん 


元久2年(1205)、時政夫妻はついに平賀朝雅を将軍に立て、実朝
を殺そうと図った。陰謀は失敗に終わり、政子・義時によって時政らは
伊豆に流され、朝雅は京都で討たれ、義時が執権となった。
幕政の実権は、ここに時政から、政子・義時に移った。
幕府の内紛も、上皇と実朝との関係に影響を及ぼすことなく親密な関係
は続いた。
「山は裂け 海はあせなん 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」
                         『金槐和歌集』
という実朝の歌は、よく上皇に対する忠誠心を示している。
上皇と実朝とを親密ならしめた要素の一つにこの和歌がある。
上皇は和歌に造詣深く、譲位後は盛んに歌合を主催し、建仁元年(12
01)には、和歌所を置いて『新古今和歌集』の撰定に着手している。


あれ以来非常袋は枕元  清水英旺


  
梶原景時             伊藤祐親
鎌倉殿の13人          鎌倉殿の13人


しかし、上皇の「公武融和政治」は、やがて障壁に直面する。
頼家幽閉という非常手段によって、執権政治は成立したが、それだけに
「執権政治」は、
「故将軍御時拝領の地は、大罪を犯さずば召放つべからずー没収しない
」(吾妻鏡)という、御家人領保護の方針を強く打ち出すことによって、
御家人の支持を確保していたのである。
一方、後鳥羽上皇が、実朝を通じて伝える幕府への要求には、御家人の
権益を否定し、この執権政治の基本原則と抵触するものが含まれていた。
「上皇が熊野詣でをするための、課税の障害になるから、沿道の和泉・
紀伊の守護をやめさせろ」とか「備後国大田荘の地頭を停止せよ」とか
の類である。
西国の関東御領に臨時に朝廷から課税が行われた際、大江広元が拒否を
主張したのに対し、実朝、「課税の際には、あらかじめ通知してほし
い」
と、緩やかな形に回答を改めさせている。
こうしたことにも、実朝と幕府官僚との意見の違いが、読みとられる。
そして、太田荘の場合には、ついに実朝も
「頼朝の時に任ぜられた地頭を、咎なく改易することはできません」
として拒否したのである。


お薬にアイロンかけておきました  谷口 義
 

  
伊藤祐親             伊東祐清
平家を後ろ盾にした伊豆の豪族。  祐親の次男。父の画策する
頼朝殺害を画策する。       頼朝の殺害計画から頼朝を救う。


しだいに後鳥羽上皇は、実朝に対しても、不満や焦燥を募らせていく。
実朝は、「上皇と執権政治との板挟み」となって苦しむ。
そして、建保4年(1216)ごろから、実朝の言動には、奇矯さが目
立つようになる。
宋に渡ろうとして、船を造るが失敗する。
子供が生まれないのに絶望して、官職欲が異常に高まる等である。
晩年の実朝が、和歌をほとんど作っていないのも、上皇との心の隔たり
が大きくなったためかもしれない。
そして建保5年には、上皇と実朝との亀裂を深める事件が起こる。
実朝の遠縁にあたる権大納言・西園寺公経は、上皇の覚えもよく、大将
の官職を望んで、上皇もこれを約束していた。
一方、藤原兼子の夫の大炊御門頼実も、養子の師経を、大将にしようと
運動していた。
ところがある手違いから、公経は、上皇が約束を違えたものと誤解し、
「それなら私は出家でもしましょう。幸い実朝にゆかりがあるから、
 関東に下っても、なんとか生きて行けるでしょう」 
と放言した。


野心などはないが見栄は少しある  靏田寿子
 

  
三浦義澄             三浦義盛
鎌倉殿の13人。相模の武将。   13人の1人である和田義盛の
源氏重代の家人で平家打倒へ    北条氏討伐に誘われたが、逆に
頼朝に付き従う。         北条氏方に荷担する。

 
これを聞いた上皇は立腹して、公経に謹慎を命じた。ところが実朝は、
これを知って強硬に兼子に抗議したため、兼子のとりなしで、公経は
出仕を許された。これは小さな事件に過ぎないが、上皇と実朝の関係
を悪化させる契機となった。
翌年、政子が熊野詣でに赴いた帰途、京都で藤原兼子とあった目的の
一つは、こうして険悪化した公武関係の修復であったが、もっと重要
なのは、実朝の後継者の問題である。
実朝が嗣子に恵まれないため、坊門局が産み、兼子が養育をしている
後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を将来、鎌倉に迎えようという話が進ん
だのである。ところが、翌承久元年(1219)には、このような話
し合いをまったく反故にする大事件が起こる。


この空気ガラガラポンで洗いたい  宮原せつ



頼家・実朝の系図


実朝が、頼家の遺子・公暁(くぎょう)に殺された、のである。
「問題は公暁をそそのかしたのは、誰か」
ということだが、北条氏ではありえない。
かつて、実朝を立てたのは、北条氏であったはず。
やや悪化の兆しがあったとしても、上皇と実朝とは親しい。
しかし上皇は、実朝のいない幕府(執権政治)との話し合いには絶望し
ている。
実朝の没後にはじめて上皇は、「公武融和政策」など捨て「幕府打倒」
を決意したのである。
幕府は上皇の皇子・雅成親王、頼仁親王のいずれかの東下を要請したが、
上皇は回答を保留した。上皇は使者を鎌倉に下し、実朝の死を弔うとと
もに、寵愛する白拍子亀菊の所領、摂津国長江・倉橋両荘の地頭罷免を
幕府に求めた。
 これに対して執権・義時は、
「平家追討は六ヵ年が間、国々の地頭人など、或いは子を打たせ、或い
は親を打たれ、或いは郎従を損ず。加様の勲功に随いて、分かち給いた
らん者を、させる罪だに無くしては、義時が計らいとして、改易すべき
様なし」(『承久記』)
と、御家人保護の大原則を守り、一歩も譲らなかった。
弟の時房は、千騎を率いて回答のため、上洛し、併せて、さらに新しい
鎌倉殿の下向を強く求めた。
粘り強い交渉の末、上皇は親王には反対だが、そうでなければ、「摂関
家からでも、鎌倉殿を東下させてもよい」という態度になった。


戦争を坩堝に入れたときもあり  木村宥子
 

  
工藤祐経             善児
伊東祐経を恨み、頼朝挙兵時には  伊藤氏の下人。歴史上こんな人が
一早くら頼朝方に付く。在京の経  いたかも…しれない。きっといる。
験から楽などの道にも通じている。 三谷幸喜、お得意のキャラクター。


結局、頼朝の遠縁にもあたる九条道家の三男・三寅(頼経)が下ること
になった。これには三寅(みとら)養育していた外祖父・西園寺公経
奔走によるところが大きい。
しかし上皇は、三寅の東下には不承不承であった。
そして、放言事件以来の公経への不信は、さらに増幅した。
三寅が都を出発し、まだ鎌倉に着かないうちに京都では、上皇が武士を
遣わし、源頼茂を討つという事件が起こった。
頼茂は、頼政の孫で大内守護の任にあったが、別に追討を受けるいわれ
はない。上皇が憤懣を爆発させた、ものとしか思えない。


自分いろ出せずに悩むカメレオン  ふじのひろし


  
畠山重忠             和田義盛
頼朝の挙兵に当初は敵対するが、  比企氏の乱では時政に加担し勝ち
のちに臣従して知勇兼備の武将   を収め、時政追討命を受けた時は、
として幕府創業に功績をあげる。  頼家を退け実朝を将軍に擁立する。


それから3年の月日が流れた。
承久3年(1221)になると、都では社寺への祈願があいつぎ、ただ
ならぬ空気が漂っていた。5月には、ついに五畿七道に宛てて北条義時
の追討の宣旨が出され、「承久の乱」が勃発したのである。
この乱にあたって畿内の大社寺は、ほとんど後鳥羽上皇に積極的に協力
せず、延暦寺に御幸した上皇は、2日で下山せざるをえなかった。
貴族の中では、七条院、修明門院にゆかりの人々らが、上皇を助けたに
すぎなかった。上皇の皇子の中でも、順徳上皇は、積極的に協力したが、
土御門上皇はまったく無関係であった。西園寺公経は、はっきりと後鳥
羽上皇に背き、上皇の挙兵を鎌倉に通報した。
その公経にさえ、上皇は拘禁以上の処置はとれなかった。


缶切りの手順ごときに悩んでる  山本昌乃

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4分の1ずつあってほしい四季  上島幸雀



    大江戸年中行事・日本橋魚河岸、正月二日、朝市


元旦の江戸の町は人通りもほとんどなく、庶民の多くは正月を寝て過ご
していた。2日ともなると、日本橋の魚河岸には多種多様の魚が並び、
普段から多くの人々で賑わっていたが、初売りの時は、江戸橋まで店が
軒を連ね、大勢の買い物客であふれかえった


「江戸の行事へ落語と歩く」


正月はおめでたい月ですから、さぞかし賑やかと思いきや、
基本、江戸時代の正月は、「寝正月」です。
何といっても前の晩、「大晦日には、遅くまで飲んで、氏神様にお詣り
して」
と、大忙しだったもんですから、元日に朝早く起きるのは、
どうでも初日を拝みたい」と、思う人たちだけでしょう。
それでも、「年の初めの若水を汲み、みんな揃って雑煮を食べる」と、
何となく、厳かな気分になってきます。


退屈という贅沢にどっぷりと春  大葉美千代


「初詣」には、その年の恵方の神社やお寺へ参ります。
今年は南が恵方だと聞けば、そちらの神様・仏様へ一年の無事を願いに
行くわけです。
武家は、町方のものと違い、元日、2,3日と、三が日の登城をして、
「年賀の儀式」、旗本以下の軽輩でも上司に「年始回り」をしなければ
なりません。暇なのは浪人くらいなものでしょう。


明日またきっといい事ある兆し  藤河葉子



「伊勢個世身見立十二直」 (三代豊国)


町方でものんびりした気分は、「一日だけで二日から」江戸の町は動き
出します。店や問屋は「初荷」で大賑わい。
日本橋の魚河岸なんてのは、黒山の人だかりです。
かの吉原もお休みは、一日のみ、二日から営業するそうで皆働き者です。
さて一日の夜に見る夢は「初夢」といい、みんな「枕の下に宝船の絵」
を入れて眠ります。


すみませんねえというニワトリ風の声  井上一筒


落語にこんな噺があります。「羽団扇」です。
『ある男が宝船を枕の下に入れて寝る。
「どんな夢を見たか」と聞きたい女房が、納戸でも起こしてくるので、
喧嘩になってしまった。
そこへ天狗が現れて、男は鞍馬山へ連れていかれてしまう。
どうやって帰ろうか、考えた男は、夢の内容を話す代わりに
「天狗の羽団扇を貸してくれ」と、頼む。
手に入れた団扇で空を飛び、まんまと逃げたが、途中で墜落。
落ちたところは宝船のなかだった。
そこで目が覚めた男は,女房に夢を話す。
「そりゃあ、いい夢だねえ。さあ煙草でもお吸いよ。
 それで七福神はいたのかい」
「恵比寿、大国、布袋、福禄寿、毘沙門、弁天」
「一福足りないね」
「一ぷくは煙草でもって飲んじまった」
宝船には七福神とともに、
なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの 
おとのよきかな と書いてあります。
(永き世の遠の眠りのみな目ざめ波乗り船の音のよきかな)
上から読んでも下から読んでも同じ、回文です』。


いい人の明度にすこし無理がある  美馬りゅうこ


七日は「人日(じんび)」、七草粥を食べる日です。
これは将軍も武家も庶民も同じで、これを食べれば一年「無病息災」
万病に罹らないと言われています。
「鏡開き」は十一日。
お供えのお餅は、神様が宿っているお餅なので、刃物で「切る」のは
縁起が悪いとされ、「割って」小さくします。
調理法としては、お汁粉、雑煮などでしょうか。
二十五日は、「お初天神」。
天神様にお詣りに参ります。


始まりの矢印君に辿り着く  山田れもん



稲荷神社のお祭りで


このお題と同じ「初天神」という落語があります。
『男が初天神の日、お詣りに行こうとすると、女房が、「息子を連れて
行け」
という。息子は、「なんでも買ってくれ」と、騒ぐので、
「イヤだ」と断るが

「おねだありなんてしないよう」
という殊勝な言葉に、しぶしぶ連れて行く。
ところが、天満宮に着いたとたんに、
「今日はおねだりしない良い子するから、ご褒美に何か買っておくれ」
とねだられ、仕方なく飴玉を買ってやる。
お詣りがすむと、今度は凧をねだる。
それも店の看板になろうともいう大凧だ。
結局、買ってやった男だが、飛ばしてみるとおもしろい。
子供より親が夢中になってしまい、なかなか交代してくれない。
そこで子供がひと言。
「ああぁ、こんなことなら親父なんか連れて来るんじゃなかった」』


耳たぶに指紋をつけるのはやめて  富山やよい
 


稲荷神社のお祭りで


二月にはいり、最初の午の日にあたる日が「初午」。
これは「稲荷神社のお祭り」です。
「伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれるように、江戸市中のそこここに、
お稲荷さんが祀ってありました。
お稲荷さんは、もとは「五穀豊穣を願った農業神」。
江戸では商売繁盛の神様となったのだから、一つの町内に三つから五つ、
武家の屋敷では一軒に一つ、お社があったほど。
そして、この日に限り、武家の屋敷では、「町内の子供の出入りが自由」
なります。屋敷の中では、お神楽の舞台があったり、いつもはしかめっ
面の武士が、女装して踊ったりと楽しい余興が続きます。
また、七、八歳の子は、本日から寺子屋入りをいたします。
はじめてお師匠様に会う「入学式の日」です。


春と書いてみる2月1日朝  雨森茂樹


八日には「針供養」が終り、二十五日から「雛人形や白酒の売り出し」
が始まります。
人形は、「十軒店」という所が有名で、今の日本橋あたりにありました。
白酒は、「鎌倉河岸の豊島屋」が第一とされ、売り出し日には、押すな
押すなの人だかり。店の入口と出口を別にして、整理券まで配ったのに、
怪我人が出るほどの繁盛ぶり、豊島屋もそれを見越して医者の用意まで
してあったとか。
そんな思いで買った白酒に、ひし餅をそなえて、三月三日の「雛祭り」
を迎えます。
大名家なら、豪華な飾りもありましょうが、庶民は、今年はお内裏様、
来年は三人官女と、少しづつ買い整えていきました。
「雛祭り旦那どこぞへ行きなさい」
という川柳でも分かるように、この日は女のお祭りでした。
三日は「上巳の節句」(桃の節句)ともいい、大名たちは、江戸城に、
登城するならいになっています。


酒臭いお地蔵様のよだれかけ  ふじのひろし



      花見帰り墨田の渡し (渓斎英泉)


そういえば、三月一日になると、「吉原では桜」が咲きます。
なんのことかといえば、この日、吉原仲の町通りに桜の木が移植され、
あっという間に見事な桜が揃うのです。
これを「千本桜」といいました。
桜は、一日に間に合うように育てられたもの。
特に夜桜は、吉原の名物となっています。
庶民にとっても桜の季節は気もそぞろです。
桜の名所の代表といえば、上野に飛鳥山、墨田堤です。
しかし、上野は寛永寺の管轄で、「酒、歌舞音曲はご法度」、
「おまけに早じまい」ときています。
飛鳥山は、庶民のためと、八代将軍・吉宗公が設けたものですが、
いかんせん遠すぎる。
そこで多くの人が繰り出したのが、墨田堤です。


見るだけにしてねと桜咲いている  肥塚裕夫


花見といえばこの落語、「長屋の花見」です。
『貧乏長屋の大家が、店子らを集めて景気づけに花見をしようと誘った。
といって御馳走を整える金もない。すると大家が用意したという。
酒三本に重箱の弁当、これには一同、大喜びしたが、蓋を開けて驚いた。
酒は番茶を煮て、薄めたもの、卵焼きとかまぼこと思っていたのは、
黄色いたくわんとダイコンのお香々。
それでも出かけてみれば、あたりは満開の桜。
めいめいムシロに坐って
番茶とたくわんで花見を始めた。
すると茶碗の中を覗き込んでいた男が、
「大家さん、近々長屋にいいことがあります」
「そんなことわかるかい?」
「酒柱がたちました」
花見には庶民も武家もございません。
どこぞのお旗本が女形に扮したり、いつもは屋敷の奥に引っ込んでいる
お姫様も出張ったり、みんな桜の花を楽しみました』。


笑い皺日々幸せの副作用  掛川徹明


四月、五月、六月が「夏」いうと驚かれるでしょうが、新暦に直せば、
凡そ、五、六、七月にあたりますから、もう夏の声が聞こえます。
四月八日は「灌仏会」があります。
お釈迦様の誕生日ですね。
花を飾った小さいお堂に、「お釈迦様の像を安置して、甘茶をかける」。
この甘茶、いただいて持ち帰り、
これで墨をすり、お習字の上達を願います。また、
「ちはやふる卯月八日は吉日よかみさけ虫を成敗する」
と、書いて柱に貼っておくと、虫除けになるそうです。
お釈迦様の霊験、あらたかなるかな。


虫かごの中で命の声がする  新川博子


 
  目には青葉山ホトトギス初鰹 (渓斎英泉)


この季節になると、江戸っ子たちの関心は「初鰹」です。
明日になれば、もっと値段が下がるのに、といわれても、
「今日食わなきゃ江戸っ子じゃねえ」
とばかりに無理をして買い求めます。
初物を食べえると、「七十五日寿命が延びる」とか。
「女房を質に入れても初鰹」
まさかに女房とまではいきませんが、「もう着ない冬物を入れちまえ」
とする亭主はいたようです。
おかみさん連中は、「寒いとき、おまえ鰹が着られるか」と、いたって
冷静です。


贅沢というモノサシの中に春  柴田比呂志


五月は、五節句の一つ「端午の節句」で始まります。
前日の四日に、「菖蒲売り」が来ますので、
これを買って蓬(よもぎ)とともに軒先に挿しておきます。
ほかにも男子がいる家では、家紋をつけた幟(のぼり)を立てる。
という風習があるようですが、貧乏長屋ではそうもいきません。
「安幟ふきんにたわしつけたよう」
くらいの飾りになってしまいます。
この端午の節句にも、武家は登城の決まりがありました。


鯉のぼり大人になってゆく五月  市井美春



江戸自慢三十六興 両国大花火 (三代豊国)


二十八日、「両国川開き」です。
いよいよ夏も盛りです。
花火が打ちあがり、橋の上に見物人が詰めかけ、「川には屋形船」が、
ぎっしりと浮いています。
この花火は、川の上流を「玉屋」、下流を「鍵屋」が担当しました。
この頃の花火は、赤か橙色しか出せませんでした。
それでも、夜空に煌めく一瞬の美に、江戸の人たちは楽しさを感じて
いたのです。
花火の掛け声である「玉屋ー、鍵屋ー」は、花火業者の名ですが、
実は「玉屋」は、天保年間に火事を出し、お取り潰しになっています。
それ以降、川開きの花火は、「鍵屋」の独占市場となりましたが、
「掛け声だけは残った」のだとか、


ムカシムカシのお話をする通り雨  藤本鈴菜


その掛け声にまつわる噺が「たがや」です。
『川開きの日。両国橋は人でごったがえしている。
そこへ本所方面から、馬に乗った旗本と供が三人、やってくる。
人をけちらし強引に橋を渡ろうとする。
反対側から来たのは、煙突の煤を払う竹の「たが(箍)」。
これを担いだ「たがや」
人にもまれ、押されたはずみに担いでいた「たが」が外れて、
旗本の笠
に当たって、飛ばしてしまった。
「たわけ者、手討ちにいたす」
と、旗本はカンカン。たがやは平謝りに謝るが、旗本は許さない。
ここでたがやは開き直り
「血も涙もねえ、のっぺらぼうの丸太ん棒野郎!」
「この大小がこわくないか」
「大小がこわくって、柱暦の下ァ、通れるか」
たがやは、供の刀を奪うと、必死に斬りつけてきた。旗本も馬を降り、
槍をしごいたが、たがやの刀が一閃、旗本の首がすっ飛んだ。
それを見ていた見物人、
「上がった上がったィ。たがやァい!」


成り行きはみんな私の撒いた種  津田照子



「江戸自慢十六興 鉄砲洲いなり富士詣」 (三代豊国)


六月一日は、「富士山のお山開き」があります。
富士山に登ってみたいけれど、なかなかそこまでは行けない。
ならばと生まれたのが、「富士塚」です。
神社の境内に小山を作り、富士山と見立ててあります。
ここなら、年寄も女も安心して登れます。
また一日は、富士山の頂上にある「浅間(せんけん)神社のお祭り」で、
それに伴い、江戸の浅間神社でも祭礼があります。
ここのお土産は、「麦わらで作ったヘビ」。疫病に罹らないそうです。


絶景と自由気ままに生きている  西尾芙紗子


十六日には、「嘉祥(かじょう)」という行事があります。
庶民は積極的に行わなかったようですが、江戸城内では、
一つの儀式として成立していました。
これは疫病をを払うため、平安時代の仁明天皇が、菓子を供えた故事に
基づいています。
将軍が、十六種類の菓子を臣下に配るのですが、どんな菓子があったの
でしょう。菓子は茶の湯が盛んだった京都が名産。
しかし江戸にも、桜餅やきんつばなど、京都に負けない江戸らしい味が
生れています。
二十七日は、「相模大山の山開き」。
神奈川にあるこの山は、江戸から近く、博打と商売の神様ともあって、
参詣者も多かったとか。


草餅の老舗知ってる客の列  川崎博史


では、「大山詣り」の一席をどうぞ。
『長屋の大家を先達として、大山詣りに出かける一行。
道中、怒ったら「二分の罰金」。ケンカをしたら「丸坊主になる」
といおう決まりごと。
それというのも、熊五郎がいつも問題を起こす
からです。
案の定、今回も保土ヶ谷宿で熊五郎は、大立ち回りをやらかしてしまう。

一行は、罰として眠っている熊五郎の頭を丸坊主に剃りあげ、さっさ
と帰ってしまう。
翌朝、目を覚ました熊五郎、置いてけ堀に憤慨し、早駕籠を雇って、
一行より先に長屋へ帰る。
長屋のおかみさん連中を集めると、
「仲間はみんな死んでしまった、それで自分だけが生き残ったので、
 申し訳なく坊主になった」
と嘘をつく。
菩提を弔うためには、尼になれ、という熊五郎の言葉を鵜呑みにした
おかみさんたちは、みんなクリクリ坊主の頭にしてしまった。
そこへ帰って来た長屋の連中。
「なんてことしたんだ」と息巻くが、先達は、
「お山は晴天、みな無事で、お毛が(怪我)なくっておめでたい」』

    本日はここまで、おあとがよろしいようで、By 北原進ゟ


普通という幸せ普通という贅沢  小島蘭幸

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元日の朝はまばらに夜が明ける



 
 


             令和四年元旦 
                    了味茶助  
  


江戸の正月

 
    年礼をうけて今のは誰だった 柳多留
 

何はなくともお正月、まずはおめでたい。

男の子は、凧揚げ、駒まわし
女の子は、追い羽根で裏長屋にも一陽来復。

御慶の見習い甚六を供に連れ  柳多留

昨日の鬼ー借金取りが、おめでとうございますと礼に来る。
魚河岸の初売りが二日、職人も、この日を仕事始めにした。
昔の働く人は、正月は一日だけしか休まない。
勤勉なものである。

喰積(くいつみ)を三十日に食って叱られる  柳多留

初荷、初夢、武士の乗馬初めと、初ずくめの二日うちで、
一番威勢がいいのが町火消の出初め、各町の鳶頭が皮羽織、
腹掛け、半纏も新しく、いろは四十八組ずらりと揃う華やかさ、
男を競うしご乗り。
鳥追い、獅子舞い、漫才とお江戸の春の賑やかさ。
ついうかうかと七草が来て、ようやく門松を取り払う。

おぶさった奴が養う猿回し  柳多留

十一日が蔵びらき、小正月が十五日。
十六日は丁稚小僧の藪入りの日。
お正月気分は、ここらあたりでおしまい。
あとはまた、稼ぐに追いつく貧乏なしと、
それぞれが家業に精を出す日常になある。
門松は、冥土の旅の一里塚というが…、
こんな正月をあと何日繰り返すのかと、ひょいと考えて、
貧乏暮らしが嫌になる夜ふけ。

年始帳名までよろけるいい機嫌  柳多留

火の用心さっさりましょうー。


    

子は初雪の雪でだるまを作り、大人は運気が上がりますようと凧揚げる

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元日や今年もあるぞ大晦日  柳多留
 


『東都歳事記』商家煤掃 (しょうかすすはらい)
     
江戸の12月は、煤払いやら畳替えなど、とにかく
新たまの年を迎えるために大忙し。掃除がひと通
りすむと、主人を始め一同の胴上げがあり、蕎麦
や鯨汁がふるまわれたりした、という。



     江戸の年末 錦絵「羽子板見世の賑い」香朝楼豊斉筆
 

江戸の冬の名物は焼芋。諸所に釜を据えて焼芋を売る者がいた。
歳の市は、15日の深川八幡宮からはじまる。
17,8の両日は浅草の観音様。ここでは、羽子板市が催される。
江戸時代中期以後は、非常に盛んで羽子板を売る店が数件も続いた。
20.21日が、神田明神。24日が、芝愛宕権現とつづく。
歳の市が終わる頃は、年一回の大掃除に当たる「煤払い」が町の家々で
行われる。それから餅つき門松、注連飾りのかざりつけ。
正月の室内の飾り物としては「室咲きの鉢植えの梅」が売り出される。


大晦日胆にこたえる頼みましょ  柳多留 


「江戸の12月」江戸の風景ー大晦日

 
師走、借金取りが駈けだせば、取られる方も駈けだす。
ふだんは落ち着いている師匠といわれる人も駈けるから
「師走」とは、落とし噺である。
江戸時代は、武士が米を給金として貰っていたから、
大きな支払いは、米の収穫後に清算される。
それで、12月は大名、旗本からそれに連なる商人・職人の
決算の月だった。年一回の決算だから忙しい。
 
 
 餅はつくこれから嘘をつくばかり  柳多留
 
 

     九里四里旨い十三里 江戸の焼き芋

京都で始まった焼き芋は、時を経て寛政(1789~1800)頃
江戸に伝わった。

一日は、たちまち過ぎて、また新しい日が来ると思うと過ぎ去り、
人はその年月のなかの旅人である。
大晦日百八つの鐘を聞き、新しき明日にはかない希望をつなぐ。


大晦日嘘をつかぬは時の鐘  柳多留   


江戸の小咄(仕形噺) 「大晦日」


この暮れは、大屋(大家)の、米屋の、薪屋のと手詰めの絶対絶命。
思い付きの早桶(棺桶)を買って来て、その内へ入り、
「おれが死んだことにして今夜を送り、元朝に蘇生したと言えばよい」
と女房に呑み込ませ、死んだふりをしている所へ、米屋が来たを女房が
段々のくどき言。
「さてもさても笑止な事ではある。ここに今取って来た銭二貫。
 これでマア、取置かしゃれ」
「イイエ、思ひがけもない。八貫から上の借りを上げぬのみか、
 ドウマア、これがいただかれませふ」
「ハテサテ、取っておかしやれ」
デモ、ハテと、あちらへやり、こちらへやりはてしなければといふ身で、
「ハテ、下さるものなら取っておきやれさ」


大晦日亭主家例の如く留守  柳多留
 


      江戸の年末の風景 其々の年末、怠りなく
 

「上の小咄が「落語」なるとー」


江戸の昔は、普段はツケで買い物をして、支払いは、盆暮れにまとめて
支払うのが習慣でした。大晦日ともなりますと、このツケの支払い、
カケの受け取りで、大変でございますな…。
そりゃ、金がありゃあいいですよ。その日暮らしの貧乏人の中には、
どうしても金の工面がつかないという者が出てまいります。
そうかといって、商人の方だって、夜明けまでに取り損なえば、
また半年待たなくっちゃいけないんでございますからな…。


大晦日よく廻るは口ばかり  柳多留


この暮れは、どうにもこうにもやり繰りがつかないという男。
どこからか都合してきた棺桶の中に入って、女房に申しましたですな…。
「俺を死んだことにして、何とか今夜をやり過ごしてくれ」
「そんなバカなことをして、後をどうしなさる?」
「なぁに、元日に生き返ったと言えばよい」
無責任なヤツがあったもので…。そこへ米屋が掛取りにまいりましたな。
女房は、あまりの情けなさに涙を零しながら、しどろもどろの言い訳を
いたしますてぇと、気のいい米屋、
「この暮れへきて、急に亡くなったとはお気の毒。せめてこれでも…」
と、いくらかの銭を置こうとする。
「とんでもないことで、お借りしたものをお返しも出来ないのに、
 これはいただけませぬ」
「そう言わずに、取ってくだされ」
押し問答をしておりますと、棺桶から手が出て、
「呉れるというものは、もらっておけ!」


ぬれ畳大屋の前へ干して置き  柳多留



    江戸の年末の風景 餅つき


そんな気のいい米屋ばかりではありませんな。
大晦日、みすぼらしい姿の浪人が、米屋にまいりまして、
「お主のところの借財が払えぬ。拙者も侍の端くれ、申し訳のため、
 この店先にて腹を切り申すが、どうじゃ…?」
米屋の亭主はせせら笑って、
「お前様方のお決まりの脅し文句…。その手には乗らぬ」
進退窮まった浪人、肌脱ぎになりますてぇと、脇差を腹へ突き立て、
へその際まで切りましたですな。
「うぅ…どうじゃ、かくの如くだ…!」
「どうせ切るなら、なぜみなお切りなさいませぬ?」
「うむ…、残りの半分は酒屋で切る」


大晦日命別状ないばかり  柳多留 


掛取りに回る手代の方にも、泣き落としの決まり文句が、
ございましたそうで、
「今日は大晦日、たとえ半金でも払ってくだされ。
 手ぶらで帰っては、主人の手前、わたしが首をくくらねばならぬ」
「すまぬが、今夜のところは、そうしておいておくれ」


掛け取りが帰ったあとでふてえ奴  柳多留


こちらは橋の下を住まいとする、乞食夫婦でございます。
「ねえお前さん、町中では、払え、払えぬで大騒ぎしているようだけど、
 こっちは気楽でいいねぇ…」
「これ!大きな声で言うんじゃない」
「あれ、どうしてだい?」
「みんなが乞食になりたがる…」


大根ですだれのできる寒いこと  柳多留



江戸の年末風景  餅つき
江戸の年末は、すべてにおいて女が主役だった。


「江戸城の御用納め」も、江戸の職人、商人などの仕事納めも、
28日でございます。しかし、商人のなかには、年内の仕事納めでは、
一段落とはいかない者もいるのです。  
大晦日の「晦日」は末日のことで、晦(つごもり)は月隠(つきごもり)で、
月が隠れる月末そのものを指すのでございます。
12月31日は、一年が終わる晦日ですので「大晦日」と呼ぶんでご
ざいますな。


大晦日四百五病でうなってる  柳多留



年越しそばを食う風習は、江戸は文化元年ころから
始まったといわれ、蕎麦は、他の麺類よりも切れやすい
ことから「今年一年の災厄を断ち切る」という意味。
 

棒手振りからの買い物や屋台の二八蕎麦は、現金だが、庶民が町内で
買い求める米や酒、醤油や塩、炭や油、などの生活必需品はいわゆる
”つけ”がほとんどで、盆暮れ勘定でございます。
そこで、年末になると多くの商人が、この「掛け売り代金の回収」
走り回るのです。
商人にとって、暮れの勘定は、必ず支払ってもらわねばならない一年
の総決算ですが、その日暮らしの長屋の住人に、懐の余裕などあるは
ずもありません。


大三十日(おおみそか)大きな声もする日なり  柳多留


あの手この手を使って「ない袖は振れぬ!」と、ツケの支払いから逃れ
ようとするのです、
な、もんですから、年の瀬、特に大晦日ともなりますと、
貸した方も借りた方も、まさに、一大決戦の場となるのでございます。
年末の大関所ってとこでございましょうか。
大晦日の深夜まで、取り立て合戦が続くのでございます。
取立て屋と化した商人たちは、ここが踏ん張りどころ紋付の提灯を手に、
大晦日が終わってしまう午前6時頃(明け六つ)まで、徹夜で取立てに
奔走しなければならないのです。
お江戸の大晦日の借金攻防戦は、年末名物でございますな、


むつかしい大屋はたえず札を張り  柳多留


仮病を使ったり、居留守を使ったり、厠に閉じこもってやり過ごしたり、
借金を踏み倒そうと、知恵をしぼる方も必死です。
 大晦日 よくまわるは 口ばかり~
金欠病で首は回らないのだが、言い訳の口上はペラペラとよくまわります、
 鬼じゃ〜、鬼がきよった〜。
 大晦日 首でも取って くる気なり~
金払えねぇんなら、首おいてけ!
借金取りの気合と覚悟がビシビシ伝わります。
 掛取りも 二足三足で春を踏み~
大晦日に何軒かを借金取りに出向いているうちに、夜が明けちまった。


あやまっているうち春に改まり  柳多留
 


       極月大晦日の鬼 歌川国芳
大晦日の掛け取りは、取立てが厳しく鬼や閻魔に見えた。


 「江戸小咄」 掛取り

浪人の所へ掛取りに行き、
「アイ、米屋でござります」
女房、「留守だ」といふ。
米屋障子の穴から覗き、
「それ、そこにござるではないか、ここから見へます」
と、いへば、浪人、蚤取り眼にて穴をふさぎ、
「どうじゃ、これでも見えるか」
「イヤ、見へませぬ」
「そんなら留守だ」


留守かなと見くびって来る大晦日  柳多留


【知恵袋】  まとめ

江戸時代、人々は米代や薪代、酒代などを、その都度支払わず、
いわゆる「つけ、後払い」にし、支払い勘定日にまとめて支払っていた。
また、家賃などは、月ごとに支払うことになっていた。
ところで、これら節季ごとや月ごとの支払いが、滞らなければ問題はない
のだが、滞ると、きつい取り立てを受けることになった。
特に「五節季」のなかでも、年の暮れ、大晦日は、「大節季」といわれ、
厳しい取り立てが行われた。
「掛取り」「掛乞い」といわれる人たちがやって来て、
鬼のような形相で、お金の支払いを迫ってくる、のだ。
 
節季=季節の終り。ここでは各節句前の支払い勘定日。
五節季=三月三日、五月五日、七月十六日、九月九日、十二月晦日。


煤掃きの顔を洗えば知った人  柳多留  

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浮草も終の住処をさがしてる  津田照子



                  麻疹流行年数  歌川芳宗
江戸時代、感染症の麻疹が約20年ごと流行していたことを記す。


「江戸時代の感染症流行」



                  麻疹養生之伝 (歌川義虎)


昨年からのコロナ禍の拡大により、いまではオミクロン株が凄い勢いで、
広がりを見せており、日本をはじめ世界中の国が、対策に追われている。
が、実は、江戸時代にも、人々の命や生活を脅かす感染症が何度も流行
していた。実際、感染症流行時には、多くの命が奪われ、江戸の町はパ
ニックに陥るが、現代より知識も医療も未熟な時代でありながら、都市
崩壊を免れている。
そこで、百万都市江戸が執った対策を考察してみる。
当時は、医療のレベルが現代とは比較にならないほど低い上に、感染症
の特効薬やワクチンもなかったため、感染を防ぐ一番の方法は、人との
接触を避けることであった。正体の判明しない恐怖感から、町や町民は、
上からの指示を待たずに感染防止のため、日々の行動をみずら制限した。
やはり、「自粛」である。


コロナ禍の街を流れている妖気  新家完司



      麻疹退治  (歌川芳藤)
養生のため禁忌となった湯屋や娼妓らが、感染症を広める悪神に襲い掛
かっている。


一方、人が集まる銭湯、髪結床あるいは、料理屋や芝居小屋、遊郭など
盛り場では閑古鳥が鳴く、その結果、経済活動が停滞して景気が悪化し、
生活困難に陥る者が続出した。(コロナ禍の現在と同じ光景である)
幕府はこうした状況を危険視し、興味深い施策を取る。
感染の有無に拘わらず、生活苦に陥った江戸庶民を対象に、「御救金」
一律に支給したのである。その規模は、江戸の町人人口の半数を超える
約30万人にも及んだ。日々の生活を維持するための「持続化給付金」
に他ならないが、その事務局として、設置されたのが「江戸町会所」だ。
江戸の都市行政を預かる町奉行所の、外局のような組織である。


経済も地球もご機嫌斜めなり  武友六歩


ただし、ここで問題となったのは給付金の財源である。財政難の幕府は
対応に苦慮するが、当時幕府のトップとして寛政改革を進めていた老中・
松平定信は、無駄遣いが多かった「町入用」に目をつける。
町入用とは、江戸の町を運営するための行政費だが、幕府ではなく町人
たちが拠出していた。


結論はいつも諭吉が引き受ける  ふじのひろし
 
 

       麻疹疫病除 (歌川芳艶)
 

要するに、江戸の町は、町人たちの積立金をもって運営された自治組織
だったが、定信は、積立金の一部を財源に充てることで、幕府の懐を傷
めずに、庶民生活を持続させるための財源を確保しようと目論む。
幕府主導の元、共済組合のようなシステムを構築しようとしたのである。
現代に喩えると、自助でも公助でもない「共助」のシステムだった。
町人からの積立金を預かるとともに、感染症流行時には、給付金支給の
窓口となった町会所では、積立金の一部を貸し付けに回すことで利殖を
はかり、その増資にも努めている。さらに、積立金を資本に大量の米を
買い入れて備蓄米とし、飢饉や火災・水災・震災時には、お救米として
町人に給付した。町会所は、江戸の食料危機を未然に防ぐ役割も果たし
ていた。


こうもりの穴で戦火に耐えていた  楠本晃朗



     麻疹見立て金附 (歌川芳盛)


そんな町会所が、感染症流行を理由に、「持続化給付金」支給したのは
享和2年(1802)である。この年の3月、江戸の町では、インフル
エンザが大流行した。前年の暮れに、オランダ船や中国船が唯一入港で
きた長崎から感染が始まり、日本を縦断する格好で、世界最大級の人口
を抱える江戸にも感染が広がった。
やがて、感染の流行に伴って経済が回らなくなり、生活が立ち行かなく
なる町人が続出する。社会不安が広まり、「都市崩壊」の時が刻々と近
づいていた。
よって町奉行所は、感染の有無に関わりなく、町会所をして、持続化給
付金を一律に支給することを決定する。
感染の有無を一々調査していては、給付に時間が掛ってしまうからだ。


悲しみを各種揃えた冬の駅  星出冬馬
 


     麻疹を軽くする伝 (歌川芳宗)

 
町人人口(約50万人)の半数を超える28万8千人を対象に、独身者
は、銭3百文、2人暮らし以上の家庭には、一人当たり銭2百50文の
割合で給付することで、社会不安の拡大を抑え込もうとした。
そして、給付は次のような手順で実施された。
対象は町人のうち、「その日稼ぎの者」限定された。
その日稼ぎの者とは、棒手振り、日雇稼ぎの者、その日の商いや手間賃
だけで家族を養う職人などを指す。この基準、つまり、ガイドラインに
基づき、江戸の各町に置かれた名主が、給付対象者のの選定にあたった。
先に述べた通り、江戸の町は、町人たちにより、運営され、町奉行所は
その自治を監視するスタンスにとどまっていた。
各町の行政事務は、町人から任命された名主に委託されたため、名主は
町役人とも呼ばれた。名主は、小さな自治体の首長のような存在であり、
その家が役場だった。


充電をしないとただの箱になる  藤本鈴菜
 


    麻疹送り出しの図 (歌川芳藤)


江戸には、名主を長とする260程の役場があり、町奉行所による都市
行政を支えたが、名主だけで一連の行政事務を切り盛りしたのではない。
「町代」「書役」と呼ばれた事務職を雇用して膨大な事務を処理した。
そこには「人別改」といった戸籍事務も含まれており、町人たちの生活
実態はよく分かっていた。
町奉行所はこれに目を付け、役場に対象者の選定をあたらせたのである。
名主が、奉行所から該当者の調査を命じられたのは、3月17日のこと
だが、早くも翌18日より、その日稼ぎの者の名前が報告され町会所も
即座に銭を給付している。感染の有無を一々調査していては、こんなに
早く報告できなかったはずだ。もちろん、給付もかなり遅れただろう。


逆らわず笑顔をひとつ置いてくる  前田咲二



  麻疹全快御目見え口上 (月岡芳年)


この時は、3月18日~29日のわずか12日間で給付が完了しており、
1日あたり2万人以上に給付した計算だ。それだけ江戸の自治システム
が、高度なレベルに達していたことが確認できる。
このスピード感ある給付により、江戸の社会不安は鎮静化する。
こうした迅速な対策により、インフルエンザの流行も終息していった。
それから20年後の文政4年(1821)にも、インフルエンザが再び
国内で流行し、江戸では、2月中旬から3月始めにかけて、感染者が激
増する。またしても経済が回らなくなって、社会不安が蔓延したため、
町会所は、持続化給付金の一律支給に踏み切る。一人当たりの給付額は
前回とおなじであった。対象者は前回より8千人以上多かった。
それにも関わらず、2月28日~3月4日までの7日間で、給付が完了
しており、そのスピードの速さが、何といっても際立っている。


市場から猫が咥えてきた明日  くんじろう



      麻疹退散の図 (歌川芳盛)


この後も、感染症は繰り返し江戸で流行した。
インフルエンザのほか、幕末にはコレラや麻疹が流行してパニックに陥
るが、この時も町会所が都市崩壊の事態を未然に防いだ。
例えば、安政5年(1858)のコレラ流行時には、52万3千に白米
2万4千石余りを給付している。その日稼ぎの者という枠に限定せず、
町人全員を対象としたが、この時は、備蓄米が豊富にあったことから、
銭ではなく米が支給された。町会所による給付金(米)という生活支援
策により、江戸は都市崩壊の危機を乗り切ったのだが、原資は町人から
の積立金であり「共助」に他ならない。

当時の医療水準では、感染症の流行に有効な対策が取れず、自然に流行
が終息するのを待つしか手立てがなっかった。
その点は今も同じだ。経済が回らなくなって、生活が立ち行かなくなる
町人(庶民)が多数出ると、現在のような、「給付金制度」による生活
支援で都市崩壊を防いだ点も今と同じだ、が、そのスピード感ある給付
という点では、江戸の方が、勝っていると言わざるを得ない。


かくれんぼしたい鬼ごっこもしたい  雨森茂喜

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