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川柳的逍遥 人の世の一家言
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逆らえぬものが空から降ってくる  新家完司
 



  石橋山の戦いで平家方に大敗し、臥木(ふしき)に身を顰る頼朝主従

 左大庭景親と弟・俣野景久頼朝が居そうな場所を中央梶原景時
指し示している。頼朝主従の顔が臥木から、その様子を見ている。

『吾妻鏡』によると、頼朝討伐の兵を率いる大庭景親は、相模国の豪族・
梶原景時「何としても、頼朝を探しだし、清盛様の前に引きずり出す
のだ」と、檄を飛ばす。大庭と梶原の兵は、蟻一匹見逃さぬように、
頼朝とその残党を、山中く
まなく捜索した。
一方、頼朝は「人数が多くてはかえって見つかりやすい」という
土肥実
の進言を受け、散々に別れて逃げることにした。
そして、ひとまず、臥木の陰の洞穴に頼朝とわずかな兵らが身を隠した。
その頼朝が隠れている洞穴近くへ梶原景時の探索隊がやってくる。
景時は、臥木の陰の洞穴に頼朝が潜んでいることを察知する。
「もはや これまで」
と、頼朝の命運も尽き自刃を考えた時、景時が「早まるな」と、制した。
そこへ大庭がやってきて「どうだ 頼朝の気配は…?」と、景時に訊く。
景時は「ここらより 向こうの山の方が、怪しいのでは」と、応えて、
大庭景親らを、臥木の穴から遠ざけ、頼朝の命を救った、という。


僥倖とは濁世に浴びる花ふぶき  大葉美千代


ーーーーー
             大庭景親(國村隼)

ーーーーー

             梶原景時(中村獅童)


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐⑤


源頼朝と姉の政子が結ばれた小四郎義時15歳の頃のことである。
頼朝は、意外なことを小四郎に言った。
「入道殿はわれの命を助けて下された。その入道殿を討とうなどとは、
 思ったこともないわ。われは政子と心静かに生きていきたい。
 それで十分満足なのだ」
小四郎には、信じられない言葉だった。
「しかし、入道殿は道を間違われたようだ」
と、頼朝は付け加えた。


なにもかも「人間だもの」で逃げるなよ  木口雅裕
 
 
  ーーーーー
              平清盛(松平健)
 
 
小四郎のその15歳の頃の、清盛入道を少し振返ってみよう。
治承2年(1178)、高倉天皇に皇子(安徳天皇)が誕生した。
高倉天皇の中宮・徳子は、清盛の娘であった。
誕生した皇子は、清盛の孫である。
このことにより、清盛は朝廷での揺るぎない発言力を確保した。

治承3年7月、清盛の後継者に決まっていた重盛が死去。
それを機に、後白河法皇は、重盛の知行国を召し上げ、
平家一門が相続することを認めなかった。
さらに重盛の喪中にもかかわらず、遊興に耽り、平氏の体面を傷つけた。
度重なる法皇の挑発的な振舞に、清盛の堪忍袋の緒は切れた。


右手には刀左手にはりんご  和田洋子


同年11月14日、清盛は兵を挙げる。
数千の大軍とともに、自ら後白河法皇の館に向った。
20日、清盛は法皇を捕え、幽閉した。
武士として、初めて政権を奪い取った清盛は、平氏政権を打ち立て、
江戸時代まで600年以上つづく武士の世の、礎を築いた瞬間である。
年が明けると清盛は、後白河法皇に代わり甥で娘婿の高倉天皇を上皇に、
その息子を安徳天皇とした。上皇19歳。天皇は3歳だった。


もう誰も反対しない咳払い  美馬りゅうこ



     厳島神社に納められた「平家納経」

その第一巻,栄華を願う金色の願文は、清盛の直筆と伝えられている。
「来世の妙果宜しく期すべし」と、記す。


平氏は全国の半分以上の国々を支配し、一門の者が言い放ったのは、
「此一門にあらざらむ人は、皆人非者人なるべし」 (『平家物語』)
さらに清盛は、都を京から日宋貿易の拠点にと開いた福原へ移した。
「福原遷都」である。治承4年6月のことであった。
しかし、新しい都で清盛たちを待っていたのは、次々と起きる干ばつや
要人の病気であった。とりわけ、高倉上皇を襲った病は深刻であった。


突然に前に回った背後霊  井本健治
 
 
愈々、小四郎義時が18歳の時、頼朝が伊豆で旗揚げした。
平家は、義時の成長にあわせるごとく、高度成長を遂げた。
その平家政権にも、息切れの気配が濃厚になってきた。
その機を窺うように、後白河法皇の第三皇子・以仁王「平家討伐」
令旨を全国の源氏に発した。
令旨を受け取った頼朝は、しばらく静観していた。
ところが平家が諸国の「源氏討伐」に動き出し、伊豆目代も頼朝を襲う
気配が濃厚だった。
正直のところ頼朝には、手勢もなければ財力もない。
周知のごとく義時の姉の政子が、彼の妻になっている関係で、
北条氏がまずは親衛隊になったが、その武力は貧弱そのもの。
これが歴史の舞台を大転換させる起爆力になろうとは、彼ら自身も考え
ていなかったのではあるまいか。


未解決のままで集めた綿ぼこり  郷田みや


   
    『頼朝旗起八牧館
山木兼隆夜討図』 (歌川国芳)
 
 
平治の乱の後20年間、伊豆の蛭ヶ小島で流人生活を送っていた頼朝が、
平家打倒のために蹶起し、まず手始めに伊豆国の目代(代官)山木兼隆
の館を急襲したのは、治承4年(1190)8月17日のことであった。
目代の山本館急襲には、時政はもちろん、兄の宗時もこれに加わった。
18歳になる小四郎義時の初陣である。
小四郎は初めて人を斬った。
その興奮は、その後の「石橋山の戦い」の間も、消えることはなかった。


受けて立ちますと剣山のやる気  川畑まゆみ
 

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             畠山重忠(中川大志)


「小四郎、しっかりやれ。畠山や梶原に負けるな」
さて、このときの合戦は、最初はうまくいったが、まもなく平家に味方
する武士団に囲まれて惨敗する
。 「石橋山の戦い」だ。
北条一族も、頼朝と離れ離れになって戦場をさまようが、このとき血路
を開くべく、父と別行動をとった長兄の宗時は、討死をしてしまう。
これは、当時の武士の宿命のようなものだ。一族全滅を免れるために、
父と子、または兄と弟は、必ず二手に別れて行動する。
父に従っていた小四郎は、お蔭で討死をしないですんだというわけだが、
この間、彼がみごとな武者働きをしたという記録は全くない。
大体、彼は、戦場でのあざやかな戦いのできるタイプではないのである。


戦争の仕方ゲームで知っている  田中堂太


一度は敗けた頼朝が勢力を盛り返し、鎌倉に本拠を定め、さていよいよ
「木曽攻め」「平家攻め」にとりかかったときも、
これに従軍した小四郎には、これといって手柄になる話は全くない。
たとえば、一つ年上の梶原景季は、佐々木高綱と宇治川の先陣を争った。
一つ年下の畠山重忠も大活躍をしている。
熊谷直実は、平敦盛の首を挙げた。
熊谷直実などは、北条よりも、もっと所領の少ない小領主にすぎない。
こういう連中の武功が伝えられるにつけ、父親の時政は、やきもきした。


苦みだね大人の味も人生も  むかいただし


このとき時政は、鎌倉に残って頼朝の側近に侍している。
鎌倉の御所様の舅殿というので、少しずつ発言力は増しているが、何し
ろ小豪族の悲しさ、足利、千葉、小山等の大豪族には、睨みがきかない。
このあたりで小四郎がめざましい働きを見せて、
「さすがは北条殿の御子息」と、
褒めそやされ、鼻の穴をふくらませたいところだ、が、情けないことに、
小四郎は戦功には縁がない。
駄馬は先頭集団から遙かに遅れて、のこのこと、ついてゆくのみである。
それでも幕府の記録である『吾妻鏡』には、頼朝は、戦功を賞する手紙
を与えた十二人の中に、小四郎を加えている。
但し、大体『吾妻鏡』は、北条氏寄りの立場で書かれているから、
あてにならない。
とにかく『平家物語』などに語り伝えられるような武功物語は、小四郎
義時には皆無なのだ…。


見え透いたお世辞空気が多角形  上田 仁



 最初、頼朝挙兵を決意させたのは僧・文覚


「知恵蔵」
頼朝が挙兵の計画を行動に移したのは、治承4年4月、以仁王の令旨を
受けてからのことであるが、彼が、平氏打倒を意識したのは、これより
3年前の治承元年頃で、頼朝にその覚悟を決めさせたのは、神護持の
覚上人、だといわれている。文覚は、俗名を遠藤武者盛遠といい、
かつては院に仕える北面の武士であった。


3分でできた事3年悩む  市井美春


後白河法皇の怒りを受けて、伊豆韮山の奈古屋寺に流されていた文覚は、
頼朝の配所を訪れて挙兵をすすめた。文覚は、
「早く謀反を起こし、平家を打ち滅ぼして、父の恥を清め、また
国の王ともなり給え」と、
説いたが、頼朝は、警戒して応じなかった。
すると文覚は、懐中から白い布の包みを取り出し、
「これは、故下野殿(頼朝の父・義朝)の御首である。それがしが獄門
 から盗み出して隠しておいたが、伊豆へ流される際、そなたに進めよ
 うと頸にかけて持ってきた」と、
父・義朝のしゃれこうべを頼朝に手渡した。
頼朝は泣き泣きこれを受け取り、その後、2人は深く信じあったという。
(『源平盛衰記』)
『吾妻鏡』や『愚管抄』などにも、2人が、伊豆で親しく交友していた
ことが記されている。
                            つづく
 
妖怪がブランコを漕ぐ午前二時  武良銀茶

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ネジ山は潰れて過去に戻れない  くんじろう


 
 
           鎌倉・源頼朝一代絵巻
京の貴族文化を嫌った頼朝は、富士の牧狩りなど、武士の文化を重んじた。


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐④
 

「ここに一冊の本がある」どこかで聞いたようなフレーズだぞ。
その本の題名は、永井路子著『はじめは駄馬の如く』である。
この本は、次のように始まる。
――ナンバー2になるために生まれてきたような男である。
その生き様の見事さゆえに、かえってその名もかすみがちの男。
その名は、北条義時。 鎌倉幕府の実力者だった。
しかし、もし、現代人があの世にインタビューに行き、
「ナンバー2になる秘訣を」
と、質問したとしても、彼は不愛想に、じろりと一瞥をくれただけで
ろくに返事もしないであろう。
そして彼は、腹の底でこう考えるに違いない。
「ははあ、この男こんなことを口にするようじゃ、到底、ナンバー2に
 なれんて。俺なんか若いころは、そうなりたいなんていう気配は、
 毛筋ほども見せなかったもんだ」――。


キミノコトバニ勝てないナンテハリネズミ 大内せつ子


――たしかにそうだ。オレガオレがと気負うような人間は、
ナンバー2には、不向きだ。 ここがナンバー2人間の極意である。
しかし、かりに義時がそう呟いたとしても、後の半分には訂正が必要だ。
ナンバー2を目指す気配を見せなかったのは、何もわざわざ、そうした
のではなくて当時の彼には、そんな可能性が全くなかったからである―。
<歴史をながめてみると、トップの陰で決して目立たないが、
 十分な実力を持つ、したたかな仕事師がいたことに気がつく>
と、いうことなのである。

♪♪♪~ ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン
この中で 誰が一番だなんて 争う事もしないで 
バケツの中 誇らしげに しゃんと 胸を張っている ♬ ♪ ♬ ♪
なんて数年前にヒットした歌がありましたが、
まさしく、義時は、はじめは、こんな男だったのだ。


ふところの深さを計る鯨尺  合田瑠美子
 
 
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         大江広元


「大江広元の証言」
これは北条政子を中心にした13人の合議中のことである。
大江広元は、檜扇を床に叩きつけ、火に誘われ飛んできた羽虫を潰した。
「北条陸奥守殿は、相変わらずよな」
扇の先に感じた不快な感触に、広元は顔をしかめた。
評定の場で、誰よりも精彩を欠いていたのは、場を主宰する北条氏執権・
義時だった。
この時、兄の宗時、「石橋の戦い」で命を落としており、姉の政子
推薦でその気なくても、ナンバー1の地位になっている。
 かつて鎌倉を牛耳った北条時政の息子であり、これまで、有力御家人
を幾人も粛清し、鎌倉の臣下第一の座に登りつめた男である。
「世上、謀略の人だの、権勢に取りつかれた増上慢だ」との悪評に晒さ
れてはいるが、近しい広元からすれば、それらの評には、小首を傾げざ
るを得なかった。
なんというか、広元から見た義時は、茫洋とした平凡な男なのであった。


わたくしの臍に蠢くものひとつ  大内せつ子


そもそも、広元は、義元と初めて出会ったのが、
「いつのことだった」のか、まるで思い出すことが出来ないでいる。
広元が、頼朝に見いだされて鎌倉へ鞍替えしたのが、
元暦(1184ー85)の頃であったから、その頃に、顔を合わせている
はずだが……その時のことを思い出すことが、今もって出来ずにいる。
坂東武者の中にあって、義時は埋没していた。
「武芸に優れているという誉れも聞かぬ。
 さりとて、無能とも言挙げされぬ。
 ただ、家子の1人として影のように頼朝に付き従っている……」
いわゆる、「茫洋な男」なのである。


あんな奴の吐いた空気を吸うている  居谷真理子


それは、父・時政を失脚させ、鎌倉第一の権勢人(鎌倉殿)となっても
変わらなかった。
むろん、臣下第一の立場であるゆえ、幾度となく、決断を迫られる場面
があった。
だが、義時は、即断即決で物事を決めることは、一度としてなかった。
広元はずっと、鎌倉殿・坂東武者の治める鎌倉を見つめ続けてきた。
「元服してこのかた、涙したことがない」と、豪語し、坂東武者たちの
煮えたぎるような熱情にほだされることもなく、唯、日々粛々と鎌倉の
なかで、与えられた己の役割を果たしてきた。
己が手塩をかけて育ててきた「鎌倉殿」を頂点とする武士団への愛着は、
人一倍のものなのだ。……だから…もどかしいのである。
 (時政追放=元久2年(1205)7月、お牧の方事件)
 
  これも一計寝たふり死んだふり  小林すみえ


だが、このことは我々を勇気づける。
ナンバー2どころかナンバー100番めであったにしても、
生き方によっては、思いがけない未来が開けてくるということだから。
つまり、若き日の彼は、「駄馬」だったのだ。
間違っても、ダービーなどにはお呼びでない、田舎馬にすぎなかった。


生き方の違いと思う花の下  津田照子
 

 
冨士川の戦に勝利した義時たちの前に引き出される、大庭平三郎景親
景親は、かつて「石橋山の戦」で散々頼朝を苦しめた人物。


それでは北条義時の物語のはじまりはじまり――。
義時が、生れたのは、長寛元年(1163)父は伊豆の片田舎の小豪族・
北条時政で、母は伊東祐親の娘・八重姫(これはおかしい?)とある。
当時、都では、清盛が、いよいよ出世の階段に足をかけたところである。
が、伊豆の時政は、平家政権のそばにも寄れない。
義時は、4子として生まれたが、長兄の三郎宗時と義時の間の兄が早逝
したため次男となっている。
すなわちここで、押し上げられるように、義時は、北条家ナンバー2に
なっている。
何というか、義時のために、お約束の椅子が用意されていたようにだ。


出来立ての夕日を捩じる貨物船  日下部敦世


実は、若いころ義時は、長い間、北条姓ではなく「江間四郎義時」とか
「江間小四郎義時」と名乗っていた。(『吾妻鏡』『豆州志稿』)
因みに、治承5年(1181)4月、義時が、頼朝の寝所警護11名の
一人に選ばれた時の呼名は「江間四郎」ある。

これはどういうことなのか?  
「江間」とは、誰かである。
兄・宗時が戦没した後、義時は当然、自分が後継者になると思っていた。
しかし、父・時政の考えは、違っていた。
時政後妻の牧の方が生んだ政範「北条本家」とし、義時は、ナンバー
2のまま、領地の「江間」を名乗らせ、「分家扱い」にしたのである。
悪妻・牧の方の力が、時政をしてそうさせたのか、時政が掴みどころの
ない義時が、頼りなく思って、そうしたことなのか。


血筋とはしつこいものでありました  谷口 義





さて、頼朝は、茫洋とした義時が気に入っていたらしい。
その頼朝が、配流の人として、北条家に移住してきたのは、安元元年
(1175)頼朝が25歳、義時13歳の時である。
ナンバー2として、気楽で責任もなく、凡々と生を貪っている義時は、
頼朝の世話役をまかされた。
頼朝は流人の身でも、正統な源氏の頭領だ。伊豆は平氏派が多い地域
だから大変なのだが、野心家の時政は、穏やかで育ちのいい頼朝を、
「佐殿・佐さま」と呼び、涎をたらしながら上げ膳据え膳で歓待した。
娘の政子は、この2年後に頼朝の正妻に嫁がせている。
時政の将来を見据えた貪欲な野望である。
そして義時は、20年以上、頼朝のお側で務めることになる。


忖度かどうかを計る尿検査  村山浩吉





「頼朝のいろ好み」
「英雄色を好む」という喩えがあるが、頼朝もその道にかけては、大変
なものであった。
頼朝の正妻は、北条時政の娘・政子であるが、政子と呼ばれる以前、
彼は、伊豆の豪族・伊藤祐親の三女・八重姫といい仲になり、子を孕ま
せてしまう。やがて千鶴丸を生む。
大番所の仕事を終え、伊東の邸へ帰ってきた祐親は、これを知って大激
怒をした。平家の怒りを恐れ、千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝
の殺害を図ったのだ。頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の
伊東祐清が、頼朝に知らせ、頼朝は、夜間馬に乗って、熱海の伊豆山神
社に逃げ込み、時政の館に匿われて事なきを得たという一事がある。
一方、八重姫は真珠ヶ淵で入水自殺をしてしまう。
 さても気楽な人間というものは、時には、損な役回りを賜るもので、
頼朝の唯一庇護者である小四郎義時は、敬愛する頼朝から頼まれたのだ
ろうか、「千鶴丸の生みの親とか、又、育て親を任されてしまう」と、
『吾妻鏡』『豆洲志稿』が描き遺している。
大河ドラマでは、八重は義時の初恋の人とか、頼朝に心を寄せる女性と
して出てくるが…結末は、どう描くのだろうかー興味が尽きない。

 
 
  どしゃぶり決死隊と呼んであげよう  井上恵津子



        伊東八重姫入水の地

ここに罹れている文章は、次の通り。
源頼朝との契りの一子「千鶴丸」を源平相剋
のいけにえにされた伊藤祐親の四女「八重姫」
悶々日を送る中、遂に意を決し
治承四年七月十六日侍女六人と共に伊東竹の
内の別館を抜け出し、亀石峠の難路に、はや
る心を静めながら頼朝の身をかくす北条時政
館の門をたたきました。然し、既に政子結ば
れていることを知る邸の門衛は冷たく、幽閉
された身の我が館に帰る術もない八重姫は、
あわれ真珠ヶ淵の渦巻く流れに、悲愁の若き
「いのち」を断ってしまいました。
悠久八百年、狩野川は幾度か流れを変え、今
「古川」の小さな流れに閉ざされた悲恋の
しのび音を偲ばせてくれます。


ショックねと同情されてそれっきり  掛川徹明


「いよいよ義時にとっての歴史が動き出します」
次への年譜
治承4年(1180) 以仁王平家打倒の令旨発布。
頼朝伊豆で挙兵、源平合戦開幕(石橋山の戦い )
義時、頼朝挙兵に父・時政と共に従う。
気楽にも清盛、福原遷都。(冨士川の戦い)(10月)


義時が18歳の折、頼朝が伊豆で旗揚げした。
義時の成長にあわせるごとく高度成長を遂げた。
平家政権にも息切れの気配が濃厚になってきた。
その機会を狙っての、頼朝の旗揚げではあったが、
正直のところ頼朝には、手勢もなければ財力もない。
周知のごとく義時の姉の政子が、彼の妻になっている関係で、
北条氏がまずは「親衛隊」になったが、その武力は貧弱そのもの。

これが歴史の舞台を大転換させる起爆力になろうとは、
彼ら自身も、考えていなかったのではあるまいか…。つづく。


いつの日か空を飛びたい二枚貝  三村一子                          

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海を残してくださいおへそにも  湊 圭悟



   現在の若宮大路、左右に見える石垣が段葛(だんかずら)

平安京をモデルとした鎌倉のメインストリート・「若宮大路」は、
鶴岡八幡宮を内裏に見立てた朱雀大路にあたるものとしてつくられた。
道幅は、現在よりも広く約60㍍ほどで、東西の大路と交差するところ
には下馬が設けられていた。
「若松大路」は、両側が土手に囲まれた窪地に造られたらしく、中央に
は盛土された一段高い道が通り、左右に「段葛」と呼ばれる石垣が整え
られた。このような特徴からも若宮大路は、重要な「軍事拠点」だった
のではないかと考えられている。


葉っぱ一枚私はつくれない  小林すみえ


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために-3



「南に海が広がり東、西、北の三方に丘陵が横たわる鎌倉の地形」

鎌倉の町を二分するように走る「若宮大路」。
周囲の丘陵や南の海は天然の要害である。
丘陵の裾は垂直に切られ切岸(きりぎし)をつくっている。
尾根を切断した「切通し」も七ヶ所を数える。
北の要に当たる部分には「鶴岡八幡宮」があり、そこから南へ前浜に向
って「若宮大路」と、平行する東側の「小町大路」西側の「今大路」。
これら三本の道は、東西に走る道路でつながっている。
幕府や主要な御家人の屋敷などは、若宮大路の東側に集中させている。
武家の都としての賑わいや、「軍事要塞都市」としての堅固さが見える。


薬莢がざわめく鍵穴の向こう  加藤ゆみ子
 
 

          今小路西遺跡(復元)
 
右手奥の築地で囲われた寝殿造風建物は、上層武士の邸宅である。
土塁と溝で画された広庭のある左手の屋敷門前には、主に従属する武士
住居が並ぶ。
人々が行き交う道路を挟んだ手前は、小規模な建物がたてこむ商人職人
の居住区で、各種の店棚が並んだ。
地面を掘り下げ、周囲に回した土台上に柱を立てて壁板を支え、
屋根を
かけた、方形竪穴建物の倉のある一帯は、
「消費都市」鎌倉を支えた物資
集散の蔵としたものだろう。


裏庭に投げ捨てられた耳ひとつ  合田瑠美子


「今は観光地、昔は軍事基地・鎌倉を歩く」


さてなぜ源頼朝が東国の一寒村にすぎない鎌倉に幕府を開いたのか?

「鎌倉は要害の地であり、源氏の先祖ゆかりの場所」と、幕府の正史の
『吾妻鏡』が説明している。
かつて、この地方の豪族・平直方は、相模守として下向してきた頼義
みこんで娘の婿にとり、外孫の義家に鎌倉の地を譲ったという。
その後、頼朝の父・義朝は、鎌倉の館に住んで、広く南関東一帯に勢力
をのばした。義朝上京後は、長男の悪源太義平が跡をついで、さらに、
支配権を固めた。
東国を支配しようとする頼朝にとって、格好の根拠地だったのである。


千枚田おらが天下だ雨蛙  柴本ばっは
 

治承4年(1180)10月、鎌倉に入った頼朝は、まず亀谷の館の跡
に屋敷を構えようとした。しかし、あまり広くない上、すでに義朝を弔
う寺が建てられていたので、断念して、東方約1㎞の所に建てたのがい
わゆる大倉の幕府で、源氏三代と尼将軍・政子の時代の鎌倉幕府の本営
である。
同時に頼朝は、頼義がはじめて祭った八幡宮を、海岸近くから、現在の
鶴岡八幡宮の地に移した。こうして大倉幕府と八幡宮、鎌倉の政治的・
宗教的中心が、東西に接近して形づくられた。


ヤドカリはジャストフィットの貝にする  木口雅裕



      大仏坂切通し

「鎌倉の七口、七切通し」
三方を山に囲まれた鎌倉は、まさに天然の要害である。
さほど高くはないが山は険しく、甲冑に身を固めた武士の通過は、勿論
一般人の通行も大変なため、山越え道には、高所を掘り割った「切通し」
がいくつもつくられた。
切通しは、人や物の流れを良くするだけでなく、鎌倉に外敵が侵入する
のを防ぎ、戦闘を有利にするための工夫も、施されている。
軍馬が走り抜けられないように、道の真ん中に、置き石が据えられたり
武装した大群が簡単に通れないように、鋭角に道筋が曲げられていたり
自然と人工の工夫がみられる。
※ 七切り通し=極楽寺坂・大仏坂・化粧(けわい)坂・亀ケ谷坂巨福
呂(こぶくろ‐小袋)坂・朝比奈峠坂・名越坂の、七つに固定されたのは
江戸時代からで、実際はさらに多くの切通しや、重要な通路があった。


信念をちょっぴり曲げて息を継ぐ  高橋太一郎 



        化粧坂の切通し


「化粧坂・名越坂」
かつての源氏の館の脇から、武蔵国へとのびてゆく大路が源氏山の西方
を超えるところ、そこが「化粧坂」である。
寿福寺側から今も、くの字なりに屈曲しつつ登る急坂が、堅固な防衛地
であった昔をしのばせている。
化粧坂とは、面白い地名だが、一説には『曽我物語』化粧坂の少将
はじめ、多くの遊女がいて、お化粧につとめていたのがその名の起こり
だという。鎌倉時代中期、幕府が特に指定した商業地域七ヵ所の1つは、
ここ化粧坂の上であった。
(鎌倉への主要な出入り口、境の場所に市場が開かれ、商業・交易が発展
したのは当然であり、人々の集う豪華な地であればこそ、遊女も屯したの
である)


苔玉に隠した神様と遊ぶ  赤松ますみ


だが、化粧坂の名の起こりには、また別の説もある。
頼朝の御覧に入れるため、「平家の公達の首に化粧した」場所だという
のである。付近には古塚や、やぐらと呼ばれる中世の墓も多い。
特に、後醍醐天皇の謀臣として、幕府打倒計画を推進した日野俊基が、
事敗れて捕えられ、ついに処刑されたのもこの場所であった。
とにもかくにも、化粧坂には、防衛陣、市場、遊女の集う場である、と
同時に、刑場、葬送の地という複雑な性格がまとわりついている。


底なし沼へ文壇の滑り台  上島幸雀



       名越坂の切通し
もっとも狭い部分は、漸く人一人が通れるくらい。

東南方からの鎌倉の出入り口は、「名越坂」である。
狭い径(こみち)は、直角にまた直角にと、鋭く曲がりながら、切り立
った崖の間をわずかに通過する。
まことに険阻で、外部からの侵入を防ぐには、絶好の防衛施設である。
しかも、その北側の稜線の外側は、高さ10mほどの崖となって、
数100mも長く連なっている。
「大切岸」と呼ばれ、敵の侵入を防ぐため、尾根筋の斜面を垂直に切り
落したものである。
切通しとは、まさに城壁に穿たれた城門の機能を果たすものであった。


何もないところで転んだのは内緒  木下和子
 
 

       朱だるきやぐら

また名越坂一帯には、多くの<やぐら>が密集している。
鎌倉を取り巻く山々の、山腹の崖に、横穴を掘りこみ、武士・僧侶など
支配層の墓所としたのが<やぐら>である。
墳墓堂をそのまま横穴に埋め込んだようなものだ。
入り口や天井・床などに材木をあてがい、扉をつけ、内部は漆喰やベン
ガラでいろどり、飾り立てられていたらしい。
今も西御門の<朱だるきやぐら>などに、かつての面影がしのばれる。


何一つ書いてなかった墓の裏  嶋沢喜八郎



    由比ガ浜集団墓地遺跡(人骨)


「材木座海岸」
境界部としての鎌倉の街の南にひらく海岸は、商業と交易で賑わう港で
あり、今も、海岸に散在する中国陶磁の破片は、遠く中国との貿易が、
盛大であったことを示している。
海岸の東半分は「材木座」という。
座とは、中世の商工業者の同業組合で、ここに材木商の組合があった。
新興都市鎌倉の建設には、大量の材木が必要だった。
その大半は海路で運ばれ、ここで陸揚げされたのである。
こうした新しい国作りの理由で、海岸近くに、材木座の名が残った。
さらに、海岸一帯には、かつて中世の「集団墓地」が広がっており港湾、
商業地域、集団墓地ー海岸一帯も、また境界部としての特色を共有して
いたのである。


咳をして港の正体がばれる   門脇かずお



        鎌倉の町はずれにて、一遍
右側の乗馬の人が北条時宗。それと向かい合って立つ人は一遍。


人々や物資があふれる繁華街としての境界部から、少し離れたところに
ある境界部は、貧しく、飢えや病いに苦しむ人々のたまり場でもあった。
仏教を担った、日蓮・忍性・一遍らの舞台は、この境界部にあった。
そして、全国を遊行しつつ、布教につとめていた一遍の率いる念仏聖の
一団は、巨福呂坂(こぶくろざか)から鎌倉に入ろうとして、執権・
条時宗
一行と出会う。
そこで、市街の出入り口をかためる木戸の役人から、鎌倉入りを禁止さ
れた一遍たちは、道を転じて、鎌倉の西郊片瀬に向い、江の島の対岸の
浜で盛大な「踊念仏」を興行して大成功をおさめたものである。


力より温めて開けるびんの蓋  毛利由美

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〇と×どちらとっても不正解  前中一晃
 
 

            頼朝石橋山の戦い

 
豊富な文字がある日本だから「語呂合わせ」が生れる。
誰が始めた暗記術だか知らないが、歴史の年代を覚えて学校のテストに
立ち向かったものだ。
例えば、鎌倉幕府成立は「いいくに造ろう(1192)鎌倉幕府」と、
覚えた。ところが「いいくに」は、歴史家によって「いいはこ(118
5)」に変更されてしまった。これでは何のための暗記だったのかわか
らない。されど、性懲りもなく、続くこの時代の語呂合わせを記してお
こう。鎌倉幕府滅亡は「遺産散々(1333)」であり、この後、建武
の新政が「いざ見よ(い334)」後醍醐天皇主導の政治が始まる。
そして、「いとささや(1338)かに室町幕府」の誕生となる。


平凡過ぎないか口笛のホケキョ  雨森茂樹


「鎌倉殿の13人」ードラマを面白くみるために‐②
 
 
  ーー
    以仁王(もちひとおう)             以仁王と頼政            


「鎌倉幕府の成立」


治承4年(1180)5月の十五夜、三条高倉の御所で、以仁王は雲間
を洩れる月を静かに眺めていた。
そこへ、源頼政の使者があわただしく書状を届けてきた。披いて見ると、
「君(以仁)のご謀反はすでに露顕し、土佐に配流されることと決まり、
 やがて検非違使がお迎えに参ります。急ぎ御所を出られて、園城寺に
 お逃げなさいませ」
と書かれていた。
「御謀反すなわち、源氏をはじめてとする諸国の武士にあてて、
「平家追討」を命じる以仁王の令旨が出されて1ヵ月、令旨を伝達した
のは、平治の乱で敗北した源義明の末弟・行家であった。


天動説信じて武者の仁王立ち  太田のり子



  三条高倉の御所を襲った頼政の兵士


それが洩れて、ついに平清盛の耳に入り、討ち手が向けられたのである。
以仁王は、後白河法皇の皇子である。
かつて、弟の高倉天皇との皇位争いに敗れ、不遇の日々を送っていた。
高倉天皇の母・滋子(建春門院)は、清盛の妻・時子の妹であり、
天皇には、平氏が支持を加えていた。
平氏の圧迫もあってか、以仁王は親王にもなれなかったのである。


落武者のようにひっそり握り飯  上山堅坊
 
 
 
         源頼政の武勇
  「頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇」という怪物「鵺」(ぬえ)を
めがけて頼政は、弓で射ちおとした。そこへ駆けつけた郎党・猪早太
(いのはやた)が獅子王(太刀)で留めを刺したという「頼政武勇伝」
がある。


治承3年(1179)11月、後白河法皇との対立を深めた平清盛は、
ついに武力によって、法皇の院政を停め、法皇を幽閉した。
そして、翌4年2月には高倉天皇は皇子・安徳天皇に譲位し、院政を行
うことになった。
 高倉新院は、清盛の女婿である。新帝安徳は、清盛の孫である。
高倉天皇の院政とは、名のみで、実質は、清盛の意のままである。
皇位争いに敗れて以来の多年の平氏への不満、そして父・後白河法皇
まで加えられた迫害、以仁王の怒りは、平氏打倒へと燃焼したのである。
頼政の密告に従い、以仁王が園城寺に奔った後、三条高倉の御所を襲っ
た撃ち手の大将は、奇妙にも頼政の養子・兼綱であった。
一週間後、頼政も園城寺に逃れたが、人々は以仁王を逃がした罪を恐れ
たからだろうと噂した。頼政が謀反の一味であることに気づいていなか
ったのである。それも道理である。
頼政は以仁王に誘われて、その企てに加担しただけであり。頼政に謀反
の動機はなかったのである。
園城寺内にも平氏方がおり、頼みがたいと見た以仁王や頼政は、奈良に
逃れようとした。しかし、追手のために途中で討たれ、平氏打倒の企て
も一旦はついえた。


すぐ吠える男や鯉の吹き流し  山中あきひこ
 


    挙兵の準備をする武士たち
 
 
「平治の乱」で伊豆に流された源頼朝は、今はその地の豪族・北条時政
の娘・政子を妻とし、平穏な日々を送っていた。
「以仁王の令旨」が頼朝のもとにもたらされたのは4月27日、
まだ都でも、以仁王の企ては発覚していなかった。
令旨を受け取っても頼朝は、直ちに動こうとはしなかった。
彼が東国の武士に書状を送り、挙兵の準備を始めたのは6月下旬であり、
令旨が届いてから2ヶ月もたっている。
以仁王を討った平氏が、令旨を受け取った人々の追討を企てていること
を知って、頼朝は、挙兵を決意した、といわれる。
しかし、頼朝を挙兵に導いた動機は、実はそれだけではない。


たっぷりと夢見る時間持っている  和田洋子


ーーーーーーーー
    文覚                 文覚役


頼朝が挙兵したのは、文覚という僧の勧めによるのだと『平家物語』
伝える。
文覚は、神護寺の再興を志し、後白河法皇に荘園の寄進を強制したため
に伊豆に流され、頼朝と親しくなった。
法皇に流されてもなお、文覚は、法皇への敬愛を捨てなかった。
文覚は、法皇の信仰心の深さを知っており、その法皇による仏教の保護
を期待していたからである。
それだけに法皇を幽閉した平氏を文覚は許せず、頼朝に挙兵を勧めた。
頼朝は、挙兵のために法皇の院宣を求めた。
文覚は、当時、福原にいた法皇に連絡し、法皇の意中を頼朝に伝えた。
頼朝は、以仁王の令旨を得て挙兵したと称しているが、挙兵に踏み切っ
た直接の動機は、令旨を得たことではなく、その後に文覚を通じて法皇
の密勅を受けたことなのである。


染むらもあって人生おもしろい  津田照子
  
  
  ーーーー  
             頼朝挙兵へ
 
 
8月、挙兵した頼朝は、まず山木兼隆を討った。
伊豆は頼政の知行国であったが、その敗死後は平時忠が知行し、平氏一
門の山木兼隆が、目代として現地で勢威をふるっていた。
次に、頼朝は軍を東に進めたが、相模の「石橋山の戦い」で敗れ、
海路安房に逃れて、再起を図り、房総半島を北進し、10月には鎌倉に
入った。
さらに、平氏の追討軍を富士川に破ったが、平氏を追って上洛するのを
やめ常陸の佐竹氏を討つなど、東国支配の安定に務めた。
11月には、御家人支配のために侍所を設け、12月には、頼朝の新邸
が完成してそこに移った。
今後1世紀半に亘り、武家政権の拠点となる「鎌倉」に入って以来、
この頃までに頼朝の政権は出来上がった。


武者の目がふくろうになり怯まない  村山浩吉


頼朝以仁王によって、東国支配を認められたと称し、その政権を正当
づけていた。以仁王の令旨には、
「天武天皇の旧儀を尋ね、王位推し取るの輩を追討し(「吾妻鏡」)
とあり、さらに、自身の即位の意志をも述べていた。
以仁王の挙兵は、かつて兄の天智天皇と対立した大海人皇子(天武天皇)
が、兄の死後、その大友皇子を討って皇位についた「壬申の乱」になぞ
らえられていた。
(以仁王は天武に、高倉上皇は天智に、安徳天皇は、大友に相当する)
以仁王は、高倉上皇安徳天皇を討って、皇位につく意志を示していた。
かつて皇位争いに敗れたことが、挙兵の動機になっていたのでる。
天皇や上皇を倒すことを標榜した以仁王の令旨が、頼朝の東国支配を正
当づけている限り、頼朝の政権と京都の朝廷との間に妥協の余地はない。
頼朝の政権は、単に政権というよりも、東国独立国家といった方が適切
である。頼朝が新邸に移った日、参集した311人の武士は、頼朝を
「東国の王」に推したという。
それは東国国家の「国王戴冠式」だったのである。


軽石を集めて踵を磨く  河村啓子



  木曽冠者義仲平家討ちへ右・義仲と左・馬上の巴御前


それから3年、寿永2年(1183)になって都では新しい事態が展開
した。頼朝に次いで、信濃で兵を挙げた源義仲が、平氏を都落ちをさせ
た末、上洛したのである。
都の義仲は後白河法皇と対立した。義仲勢が統制を欠き、粗暴な振る舞
いが多かったためだという。
しかし実は、ライバルである頼朝が法皇に働きかけ、義仲の立場を悪く
したのがより重要な原因なのである。
もともと頼朝は、法皇の密旨を受けて挙兵したのである。
高倉上皇はすでに没し、平氏が、安徳天皇を奉じて都落ちをした上は、
以仁王の令旨をふりかざす必要もないし、東国の独立を主張する意味も
ない。この年10月、宣旨が出され、頼朝は東国支配権を認められた。


頂上へ一直線の武者である  西澤知子


源氏の嫡流を自認する頼朝は、寿永2年10月、宣旨の適用範囲に義仲
の支配圏である北陸をも包含し、義仲を恐れ、頼朝の要求を認めなかっ
たが、法皇と頼朝との間で進められる、陰険な工作を憤った義仲は、法
皇への不信を強め、ついに法皇に攻撃を加えて幽閉した。
しかしこの結果、頼朝は弟の範頼・義経を派遣し、翌元暦元年(118
4)義仲を討たせた。
範頼・義経は、さらに当時福原にいた平氏を攻めて、これを屋島に追い、
文治元年(1185)には、屋島を攻略、壇ノ浦で平氏を滅亡させた。
そして、この日を「鎌倉幕府成立の日」とした。


アナコンダ連れて借金取り立てに  井上一筒


平氏の滅亡後、頼朝・義経兄弟の不和が顕著となった。
これには法皇が頼朝を牽制するために、義経を利用することもあずかっ
ていた。ついに義経は、法皇に求めて頼朝追討を命ずる宣旨を出させた。
しかし、宣旨に応ずる武士は少なく、義経は都を立ち去った。
頼朝は法皇が宣旨を出した責任を追及し、義経追捕と叛乱防止のために
守護・地頭の設置を求めるとともに、種々の「政治改革」を要求した。
政治改革の内容は、頼朝が推薦する10人の議奏公卿の合議による政治
を実現することである。とくに頼朝は、九条兼実を内覧に推薦した。
※ 内覧=天皇に奏上される文章を、天皇よりも先に内見する職務。


自分史を奔る一本の濁流  大野たけお


当時の摂政は、近衛基通であったが、頼朝は、法皇の意のままとなる基
通を嫌い、摂政と別に内覧を置くことを求めたのである。
このステップを置いて、結局、翌年には摂政が更迭され、兼実が摂政と
なった。頼朝が意図していたのは、兼実を始め、議奏公卿たちによって、
法皇の独裁をチェックすることであった。


風の門あけてください奔ります  吉松澄子



           奥州秀衡征伐


頼朝の追及を逃れた義経は、奥州の藤原秀衡(ひでひら)を頼った。
秀衡の没後、その子・泰衡に対する圧力は強まり、文治5年(1189)
泰衡はついに屈して義経を討った。
しかし、頼朝はみずから出兵して奥州藤原氏を滅ぼし、奥羽をも支配下
に入れた。
奥州藤原氏の滅亡は、歴史の大きな画期の到来を意味していた。


ジーンズの穴からディスる世の無情  川嶋 翔


健久元年(1190)頼朝ははじめて上洛し、法皇と対面した。
法皇が、義経に頼朝追討宣旨を与えた結果、頼朝との仲は、険悪化した
ものの、義経問題が解決した今、両者の対立は、著しく緩和されたので
あった。頼朝は法皇によって、日本国総追捕使の職務を確認され、
御家人を率いて、国家の軍事・警察を担当することになった。
「諸国守護」である。
日本全体を支配するのは、朝廷(院政)であり、その下で幕府が国家の
軍事・警察権を掌握するという体制が、ここに確立。
その頂点に、征夷大将軍・源頼朝が居るのである。


浅く酔いここから見える月が好き  山本昌乃

拍手[5回]

掘削のプロ集団であるモグラ    新家完司
 
 

日本国第一の大天狗


平安後期、11世紀の終りに『院政』という政治形態が生まれた。
貴族支配が動揺するなかで、「行動しやすい天皇制としての院政」が生
れたのである。院政とは、「治天の君」の政治である。
 また『武士』が、国家機構のなかで、重要な重要な地位を占めるように
なるのも平安後期からである。
清和源氏・桓武平氏など、武家の棟梁が、中央国家の中で官職を得て、
「軍事貴族化」し、主従結合によって個々の武士を組織して、院政の下
で治安の維持にあずかり、「内乱の鎮定」にもあたる。
院政は、国家の支配・統治者であり、頭領に率いられた武士は、
「国家的軍事警察」の担当者である。


もたれあう形で人の字が老いる  掛川徹明


「鎌倉殿の13人」 大河ドラマを面白く見るためにー①



北条氏相関図


「その時、歴史が動いた」ー物語時代背景-予習
 
「鎌倉殿」は、鎌倉幕府の棟梁、または、鎌倉(幕府)を指す。
源為義・義朝父子以降は、清和源氏の棟梁を「鎌倉殿」又は「鎌倉家」
と、呼んだ。「幕府」という呼名は、江戸中期以降用いられたもので、
鎌倉時代の武士は、鎌倉幕府を『鎌倉殿』と呼んだのである。
 建久10年(1199)1月13日、源頼朝の急死により嫡男・頼家
が18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代・「鎌倉殿」となった。
しかし、三ヵ月もたたないうちに、頼家は、裁判権を奪われ、13人の
有力御家人の合議による裁判とされた。頼家は父・頼朝のような独裁者
となる途を阻まれたのである。


枯れ落葉俺もお前も御用済み  但見石花菜


   
源頼朝              八重
鎌倉幕府初代将軍         頼朝最初の妻
平治の乱後、伊豆に流された
 

※注釈①=13人とは北条時政、北条義時、大江広元、中原親能(ちか
よし)、二階堂行政、安達盛長、足立遠元、三善康信、八田知家、和田
義盛、三浦義澄、比企能員(ひきよしかず)、梶原景時らである。

※注釈②=頼家が「暗愚だ」とされてきた根拠として、「蹴鞠ばかりし
ていて、政治に無関心だった」こと、という。(『吾妻鏡』)
 しかし当時は、和歌や蹴鞠などは国家を安泰に導くための1つだった。
天皇や貴族らは、音楽を自らやり、和歌や蹴鞠によって、神仏を喜ばせ、
国家を安泰にみちびくというのが、当時の重要な役割でもあった。
「吾妻鏡」は、北条氏の命令で編纂されたもので、曲がって伝えられる
ものも多い。例えば「13人の合議」をしたという史料はどこにもない
らしい。


机上では見えないこともある政治  大高正和
 
 
   
 北条義時              義時の正室・姫の前ー阿波の局
鎌倉幕府二代執権          見目麗しい頼朝の愛した女官。
姉・政子の夫頼朝の側近となる。
 
 
翌正治2年(1200)には、梶原景時が殺された。
66人の御家人たちが、讒言魔として知られる梶原を、頼家に糾弾し、
梶原は鎌倉を追われ、謀叛を企てて上洛の途中、駿河で討たれたという。
しかし、問題はその「讒言」の内容である。九条兼実の日記『玉葉』に、
『景時は武士たちが、頼家の弟の千幡(せんまん・のちの実朝)を立て、
頼家を討とうと企てているのを頼家に告げた』と、あるのが真相である。
鎌倉では、「頼家派と千幡派が対立」しており、頼家は梶原景時を庇い
きれず、みすみす忠臣を失ってしまったのである。


待ちわびた春口内炎で始まる  雨森茂樹


  
北条時政             りく(牧の方)
義時の父。政子と結婚した     時政の後妻
頼朝を支える。

 
そして、千幡派の中心が、実は、北条時政だった。
北条時政や政子頼家を嫌ったのは、頼家の外家・比企氏の台頭を恐れ
たためである。源頼朝の乳母の養子として重用された比企能員は、娘を
頼家の妻とし、その間に長男・一幡が生まれ、頼朝時代の北条氏と同様
、鎌倉殿の外戚の位置を占めよう、としていたのである。
そして、ついに、建仁3年(1203)、時政は能員をはじめ比企氏を
滅ぼし、一幡を殺し、頼家を退けー殺害ー、千幡を鎌倉殿に立てた。
また時政は、執権(政所別当)に就任、ここに執権政治がスタートした。
※注釈③千幡の母は、比企能員の娘・若狭局)


大根の皮も尻尾も刻みます  合田瑠美子
 

  
比企能員             比企尼
時政に脅威を与えた         源頼朝の乳母
比企尼の甥

 

京都では源通親が権勢を振るっていたが、しだいに後鳥羽上皇の発言が
強まり、建仁2年(1202)に通親が没すると、上皇が実権を握った。
その翌年、鎌倉では、頼家実朝の交代が行われ、その後の「後鳥羽―
実朝」の公武関係は後鳥羽の主導下に展開され、往年の「後白河―頼朝」
のそれとは異なった相貌を示すに至る。
上皇は、通親時代に逼塞していた九条家を優遇するとともに、「公武融
和」を図って、親幕的な政策をとった。
頼朝・九条兼実の間に一時は気まずい時期もあったが、九条家の動きは
概して親幕的であった。幕府が、千幡擁立を報告すると、上皇は直ちに
これを承認、征夷大将軍に任命して「実朝」の名を与えた。


本当は平和主義ですコウモリは  杉本光代
  
  
    
北条宗時             北条政子
義時の兄。            義時の姉。
源頼朝に平家打倒を訴え、        伊豆の流人だった頼朝の妻となる。
伊東祐親の戦に敗れ死亡する。   頼朝死後幕府の実権を握る。


 後鳥羽上皇は、その閨閥の中に、実朝を組み込もうと考えた。
元久元年(1204)、実朝は、上皇の近臣・坊門信清の娘・坊門信子
を妻として迎えた。 信清の姉・七条院殖子は、上皇の母であり、実朝夫
人の姉・坊門局は、上皇の女房である。
この婚姻で上皇と実朝は、義理の兄弟のようになり、実朝自身が院の近
臣化したのである。縁談を推進したのは、上皇の乳母として信任の厚い
藤原兼子である。彼女は坊門局を養女とし、坊門局が産んだ上皇の皇子・
頼仁親王を養育していた。鎌倉側で兼子に応じたのは、北条時政の後妻・
牧の方である。時政・牧の方夫妻の娘は、実朝夫人の兄弟にあたる坊門
忠清に嫁しており、北条氏は、坊門家ともつながりを持っていた。


三角の土地それなりの家が建つ  高田佳代子
 
 
 
 北条氏相関図
 
 
実朝擁立によって、幕府の実権を握ったのは、どうやらこの夫妻だった
ようだ。このとき、京都の警備、公武の連絡にあたる京都守護として、
上洛を命ぜられたのは、夫妻の娘婿・平賀朝雅であった。
朝雅は、上皇によって右衛門佐に任ぜられ、上皇の笠懸の師となり、近
臣のように遇されていた。夫妻は、このように後鳥羽上皇とまでつなが
りを持っていたが、夫妻のこのような跳梁に反発する者もいた。
牧の方の継子にあたる北条政子・義時らである。


シーソーの上にいるのが亭主です  藤村とうそん 


元久2年(1205)、時政夫妻はついに平賀朝雅を将軍に立て、実朝
を殺そうと図った。陰謀は失敗に終わり、政子・義時によって時政らは
伊豆に流され、朝雅は京都で討たれ、義時が執権となった。
幕政の実権は、ここに時政から、政子・義時に移った。
幕府の内紛も、上皇と実朝との関係に影響を及ぼすことなく親密な関係
は続いた。
「山は裂け 海はあせなん 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」
                         『金槐和歌集』
という実朝の歌は、よく上皇に対する忠誠心を示している。
上皇と実朝とを親密ならしめた要素の一つにこの和歌がある。
上皇は和歌に造詣深く、譲位後は盛んに歌合を主催し、建仁元年(12
01)には、和歌所を置いて『新古今和歌集』の撰定に着手している。


あれ以来非常袋は枕元  清水英旺


  
梶原景時             伊藤祐親
鎌倉殿の13人          鎌倉殿の13人


しかし、上皇の「公武融和政治」は、やがて障壁に直面する。
頼家幽閉という非常手段によって、執権政治は成立したが、それだけに
「執権政治」は、
「故将軍御時拝領の地は、大罪を犯さずば召放つべからずー没収しない
」(吾妻鏡)という、御家人領保護の方針を強く打ち出すことによって、
御家人の支持を確保していたのである。
一方、後鳥羽上皇が、実朝を通じて伝える幕府への要求には、御家人の
権益を否定し、この執権政治の基本原則と抵触するものが含まれていた。
「上皇が熊野詣でをするための、課税の障害になるから、沿道の和泉・
紀伊の守護をやめさせろ」とか「備後国大田荘の地頭を停止せよ」とか
の類である。
西国の関東御領に臨時に朝廷から課税が行われた際、大江広元が拒否を
主張したのに対し、実朝、「課税の際には、あらかじめ通知してほし
い」
と、緩やかな形に回答を改めさせている。
こうしたことにも、実朝と幕府官僚との意見の違いが、読みとられる。
そして、太田荘の場合には、ついに実朝も
「頼朝の時に任ぜられた地頭を、咎なく改易することはできません」
として拒否したのである。


お薬にアイロンかけておきました  谷口 義
 

  
伊藤祐親             伊東祐清
平家を後ろ盾にした伊豆の豪族。  祐親の次男。父の画策する
頼朝殺害を画策する。       頼朝の殺害計画から頼朝を救う。


しだいに後鳥羽上皇は、実朝に対しても、不満や焦燥を募らせていく。
実朝は、「上皇と執権政治との板挟み」となって苦しむ。
そして、建保4年(1216)ごろから、実朝の言動には、奇矯さが目
立つようになる。
宋に渡ろうとして、船を造るが失敗する。
子供が生まれないのに絶望して、官職欲が異常に高まる等である。
晩年の実朝が、和歌をほとんど作っていないのも、上皇との心の隔たり
が大きくなったためかもしれない。
そして建保5年には、上皇と実朝との亀裂を深める事件が起こる。
実朝の遠縁にあたる権大納言・西園寺公経は、上皇の覚えもよく、大将
の官職を望んで、上皇もこれを約束していた。
一方、藤原兼子の夫の大炊御門頼実も、養子の師経を、大将にしようと
運動していた。
ところがある手違いから、公経は、上皇が約束を違えたものと誤解し、
「それなら私は出家でもしましょう。幸い実朝にゆかりがあるから、
 関東に下っても、なんとか生きて行けるでしょう」 
と放言した。


野心などはないが見栄は少しある  靏田寿子
 

  
三浦義澄             三浦義盛
鎌倉殿の13人。相模の武将。   13人の1人である和田義盛の
源氏重代の家人で平家打倒へ    北条氏討伐に誘われたが、逆に
頼朝に付き従う。         北条氏方に荷担する。

 
これを聞いた上皇は立腹して、公経に謹慎を命じた。ところが実朝は、
これを知って強硬に兼子に抗議したため、兼子のとりなしで、公経は
出仕を許された。これは小さな事件に過ぎないが、上皇と実朝の関係
を悪化させる契機となった。
翌年、政子が熊野詣でに赴いた帰途、京都で藤原兼子とあった目的の
一つは、こうして険悪化した公武関係の修復であったが、もっと重要
なのは、実朝の後継者の問題である。
実朝が嗣子に恵まれないため、坊門局が産み、兼子が養育をしている
後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を将来、鎌倉に迎えようという話が進ん
だのである。ところが、翌承久元年(1219)には、このような話
し合いをまったく反故にする大事件が起こる。


この空気ガラガラポンで洗いたい  宮原せつ



頼家・実朝の系図


実朝が、頼家の遺子・公暁(くぎょう)に殺された、のである。
「問題は公暁をそそのかしたのは、誰か」
ということだが、北条氏ではありえない。
かつて、実朝を立てたのは、北条氏であったはず。
やや悪化の兆しがあったとしても、上皇と実朝とは親しい。
しかし上皇は、実朝のいない幕府(執権政治)との話し合いには絶望し
ている。
実朝の没後にはじめて上皇は、「公武融和政策」など捨て「幕府打倒」
を決意したのである。
幕府は上皇の皇子・雅成親王、頼仁親王のいずれかの東下を要請したが、
上皇は回答を保留した。上皇は使者を鎌倉に下し、実朝の死を弔うとと
もに、寵愛する白拍子亀菊の所領、摂津国長江・倉橋両荘の地頭罷免を
幕府に求めた。
 これに対して執権・義時は、
「平家追討は六ヵ年が間、国々の地頭人など、或いは子を打たせ、或い
は親を打たれ、或いは郎従を損ず。加様の勲功に随いて、分かち給いた
らん者を、させる罪だに無くしては、義時が計らいとして、改易すべき
様なし」(『承久記』)
と、御家人保護の大原則を守り、一歩も譲らなかった。
弟の時房は、千騎を率いて回答のため、上洛し、併せて、さらに新しい
鎌倉殿の下向を強く求めた。
粘り強い交渉の末、上皇は親王には反対だが、そうでなければ、「摂関
家からでも、鎌倉殿を東下させてもよい」という態度になった。


戦争を坩堝に入れたときもあり  木村宥子
 

  
工藤祐経             善児
伊東祐経を恨み、頼朝挙兵時には  伊藤氏の下人。歴史上こんな人が
一早くら頼朝方に付く。在京の経  いたかも…しれない。きっといる。
験から楽などの道にも通じている。 三谷幸喜、お得意のキャラクター。


結局、頼朝の遠縁にもあたる九条道家の三男・三寅(頼経)が下ること
になった。これには三寅(みとら)養育していた外祖父・西園寺公経
奔走によるところが大きい。
しかし上皇は、三寅の東下には不承不承であった。
そして、放言事件以来の公経への不信は、さらに増幅した。
三寅が都を出発し、まだ鎌倉に着かないうちに京都では、上皇が武士を
遣わし、源頼茂を討つという事件が起こった。
頼茂は、頼政の孫で大内守護の任にあったが、別に追討を受けるいわれ
はない。上皇が憤懣を爆発させた、ものとしか思えない。


自分いろ出せずに悩むカメレオン  ふじのひろし


  
畠山重忠             和田義盛
頼朝の挙兵に当初は敵対するが、  比企氏の乱では時政に加担し勝ち
のちに臣従して知勇兼備の武将   を収め、時政追討命を受けた時は、
として幕府創業に功績をあげる。  頼家を退け実朝を将軍に擁立する。


それから3年の月日が流れた。
承久3年(1221)になると、都では社寺への祈願があいつぎ、ただ
ならぬ空気が漂っていた。5月には、ついに五畿七道に宛てて北条義時
の追討の宣旨が出され、「承久の乱」が勃発したのである。
この乱にあたって畿内の大社寺は、ほとんど後鳥羽上皇に積極的に協力
せず、延暦寺に御幸した上皇は、2日で下山せざるをえなかった。
貴族の中では、七条院、修明門院にゆかりの人々らが、上皇を助けたに
すぎなかった。上皇の皇子の中でも、順徳上皇は、積極的に協力したが、
土御門上皇はまったく無関係であった。西園寺公経は、はっきりと後鳥
羽上皇に背き、上皇の挙兵を鎌倉に通報した。
その公経にさえ、上皇は拘禁以上の処置はとれなかった。


缶切りの手順ごときに悩んでる  山本昌乃

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