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川柳的逍遥 人の世の一家言
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どなたにも言わないけれど根性悪  中野六助






         紫式部日記絵巻 彰子と紫式部  (藩蜂須賀家伝)

紫式部(手前)は中宮(奥)に『白氏文集』「新楽府」を講じているところ。
蔀戸の背後で語り合う女房たち(左側の絵)





             女房の紫式部 (女房36歌仙 鳥文斎栄之)
紫式部はびじんだったのか。肖像画と同じ方向を向いた紫式部。
紫式部は性格的に見ても、自分の容姿には自信がなかったようである。





「紫式部とは」
紫式部の性格は、引っ込み思案、自己が浮き彫りに現れる様な明るい人前に出
ることは苦手、多分に「内向的性格」であった、ことが自身の書いた「紫式部
日記」から伺いしることができる。
 例えば、公的行事や儀式において紫式部は、どのような態度でいたか?
宮廷の七日間の儀式で…只真っ白な部屋に行き交う人々の、容姿や色合いがは
っきり現われているのを見て、
『 いとどものはしたなくて(どっちつかずで)輝かしき心地すれば(はなやか
すぎて)昼はおさおさ(びびって)さし出でず(しゃしゃり出ず)のどやかに
東の対の局より、まうのぼる人々(有頂天の人々)を見れば…』尚更のこと。
又、
『十一日の暁、御堂へ渡らせ給ふ。お車には殿の上、人々は船に乗りてさし渡
 りけり。それには後れて、ようさり参る』
常に人の後ろから、陰からこっそりついていくという目立つことを嫌う式部で
なのである。




相槌を打つのはいつも三番目  銭谷まさひろ




だが反面、登場人物一人一人の服装から、細かく観察しているところを見ると、
相当に紫式部の人事に対する好奇心の、強い女性であったことがわかる。




しぼんだりふくらんだりで生きている  青木敏子







      紫式部の肖像画 (大津石山寺)

石山寺は紫式部が「源氏物語」の着想を得た場所として知られる。




式部ー「家を離れ、初めての宮仕え」





そんな付き合い下手な性格の紫式部が、宮中に出仕することになった。
紫式部の手紙----------家を離れ一条天皇の宮廷に、お仕えするようになりました
のは、夫であった藤原宣孝が死去してから、3年程たった後のことでした。
当時、宮廷でも、その権勢並ぶ者なしと謳われていたのは、関白・藤原道長殿
でした。
私のお仕えすることになりましたのが、その娘で、今は一条天皇の中宮であられ
彰子様でございます。
夫と死別の後は、里住み生活を送っておりました私が、華やかな宮仕えの身とな
りましたのも、そもそもは、目に入れても痛くないほど、かわいい中宮様にお仕
えする女房のひとりとして、「私を召し出そう」という、道長さまの強いご希望
があってのことでした。



ゲートインするなら原液のままで  酒井かがり




夫の死後に、ぼつぼつと書きためました「源氏の物語」が、そのころ世に知られ
はじめておりまして、その作者である私を、「中宮のお話し相手にでも」という
道長殿の親心があったようです。
当初、私は、あまりに派手やかな宮廷暮らしは、自分には馴染まないであろうと
尻込みしそうになっておりましたが、ようよう決心を致しましたのには、道長殿
が私の生家、とりわけ父の恩人でもございましたからであります。




虫の音が心にしみるきのう今日  奥山節子




私が娘のころ、父が10年ばかり官職に付けずにおりましたが、ようやく越
前の国司の職を得ましたのには、道長殿のお力添えがあってのことと、
伝え聞いております。
ともあれ、このようにして30代の初めごろという、すでに若くはない身で、
私は、はじめて家庭を離れ、公の場に出ることとなりました。
そこで目にしました美しく壮麗なお屋敷や、華麗に着飾った貴顕の方々、
そして、そうした方々のお出入りする宮廷の組織や社交の場……、
おかしなことに、自分で書き記した物語の世界を後になって追体験すること
になったのです。




蟹刺しのキレイな花に唾を呑む  津田幸三






             初出仕



「出仕」
紫式部は1005年(寛弘2)か翌年の年末には、藤原道長の娘・彰子の女房と
して出仕することになった。
当初、趣味の延長線として、身内や友人だけに読ませるために書き始めた初期の
『源氏物語』が、評判になり道長の目に止まったためである。
道長は、紫式部にとって、又従姉妹である母・倫子に頼み要請したと伝わる。
道長は知的女房によって、彰子後宮を彩り、いまだに懐妊をみない彰子と一条天
の仲を促したいと考えていた。
彼は最高権力者であり、父・為時の越前の主補任の際の恩人である。
女房勤めの資質も意欲もない紫式部だったが、拒むことはできなかった。




螺子少し緩めてこころ空っぽに  津田照子




だが紫式部の内心は、居所が後宮に変わろうとも、常に「身の憂さ」に囚われ
ていた。一方で、彰子つき女房たちは、見も知らぬ才女を警戒していた。
自分の殻に閉じこもる紫式部と、偏見によって彼女を毛嫌いする女房たちとは
そりが合うはずもなく、すぐに「いじめ」の対象となった。
いじめの理由とは、同僚の左衛門の内侍のいうところ、「紫式部は知識を鼻に
かけている」のが気にいらなかった、とか、源氏物語で注目を浴び、ちやほや
される式部への嫉妬などがあったという。
そのため、乗り気でなかった宮廷出仕の人間関係が嫌になり、職場を放棄。
実家に引きこもってしまった。
不出仕は、五ヵ月以上におよんだが、唯一の吐け口である「源氏物語」の執筆
は続けた。




地方には多分いい人ばかり居る  岸井ふさゑ






        藤原宣孝




「夫宣孝の面影」
「片つ方に文ども わざと置き重ねし 人も侍らずなりにし後 手触るる人も
ことなし」
この日記の中、たった一カ所だけふと漏らした宣孝への追慕である。
里に帰り、昔夫の触れた漢籍を静かにひもとく。
それは式部の理智がさせる一方、宣孝という一つの郷愁をも思わせ泌々とした
心の安らぎを覚えたのではないか。
親子ほども年令の違う宣孝との結婚ではあったが、学識を認め合い熟慮の末結
ばれたものであった以上、それがわずか二年間であったとはいえ、式部も諦め
きれないものがあったに違いない。
その亡き夫への追慕が『源氏物語』を生む動機となったのも事実である。





時々は地方へ酸素吸いにゆく  鈴木栄子






        宮中の陰湿な人間関係




「嫌なこともあり 利点もあり」
女房の世界は、主家に住み込み主人への客に応対し、様々な儀式での役をこな
す。「里の女」とは全く異質のものである。
特に紫式部が激しい拒否感を抱いたのは、不特定多数の人に姿をさらすことや、
男性関係が華やかになりがちなことだった。
 一方で、紫式部は出仕によって『源氏物語』の舞台である宮廷生活の実際に
触れ、物語を書き続ける上での、経済的支援も受けることが出来るようになっ
た。
だが、式部にとって最大の利点は、言葉を交わすことはもおちろん、会ったこ
ともなかった様々な階層の人々に会い、貴賤を問わぬ人間洞察を深めたことだ。




悪縁が結びつけてる君と僕  前中一晃





和泉式部 (女房36歌仙 鳥文斎栄之)
赤染衛門 (女房36歌仙 鳥文斎栄之)
清少納言 (女房36歌仙 鳥文斎栄之)




「宮中における紫式部」
『紫式部日記』は、紫式部が1008年(寛弘5)秋から1010年(寛弘7)
正月までの宮中の様子を、日記と手紙で記した作品である。
『源氏物語』に対する世間の評判や、女房たちの人物評などがつづられ、
後輩の和泉式部には、私生活に苦言を呈しつつも、才能を評価し、先輩の赤染
衛門には、尊敬の思いをつづっている。
 ところが対面をしたこともない清少納言には、
「頭が良さそうに振る舞っているけれど、漢字の間違いも多く、大したことは
ない。こんな人の行く末に良いことがあるだろうか」
と、辛辣な悪口をつらつら並べている。
清少納言が枕草子のなかで、「紫式部の亡夫の衣装をけなした」ことが原因と
いわれるが、じつはそればかりではない。




覗き穴に貼られていたテープ  河村啓子




「続いても辛辣な清少納言評」
「あだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らむ」
薄命な定子皇后と共に、この宮廷社会から姿を消した清少納言に対し、
これほど鋭く衝く意図は何だったのだろうか。
実は、紫式部の登場そのものが、道長が十余年前兄・道隆の模倣を思い立つ
に及んでの、嵌め込まれた役であった。
道長の頭の中には、ともすれば、あの明朗闊達な少納言の面影が生きていたと
思う。
少納言を見下ろし得る漢才は持っていても、宮仕えに転身できなかった式部は
常に悩める存在であり、ひいては少納言というかつての存在を呪う、いわば、
まぼろしのライバルとしてみていたようである。




ライバルは起きているぞと稲光  新家完司





 敦成親王誕生第五夜の産養の日、紫式部は屏風を押し開け、
隣室に控える夜居の僧に中宮御前の様子を見せる。





「中宮彰子との関係」
なかでも彰子という人との出会いで得たものは大きかった。
彰子は道長という最高権力者の娘、一条天皇の中宮という貴人である。
だが彰子のその生涯は、少なくともこれまでは、ただ家の栄華のためにあった。
12歳で入内させられ、しかし、夫(天皇)にはもとからの最愛の妻・定子
いた。定子が亡くなると、夫はその妹を愛し、彰子を振り向きはしなかった。
彰子は、14歳から定子の遺児敦康の養母となったが、自身が懐妊することは
なかった。
おそらく、道長のデモンストレーションという政治的理由の御蔭で、ようやく
懐妊となったが、今度は男子を産まなくてはならない。
彰子こそが苦を抱え、逃げられぬ世を生きる人であった。




強くなりなさい一人で舞いなさい  竹内ゆみこ




だが彰子は、紫式部に乞うて自ら漢文を学び、天皇の心に寄り添おうとした。
晴れて男子を産み、内裏に戻る際には、天皇のために『源氏物語』の新本を作
って持ち帰った。
自分の力で少しづつ、人生を切り拓く彰子の手伝いができることは、紫式部の
喜びになった。 彰子は寛弘5年と6年に年子で2人の男子を産んだ。
寛弘7年正月15日には二男敦良親王の誕生50日の儀が催された。
「紫式部日記」巻末には、彰子と天皇の並ぶ様が、
「朝日の光をあびて、まばゆきまで恥ずかしげなる御前なり」
と記されている。




さす棹のしずくも花の香して  前中知栄




寛弘8年5月22日、一条天皇は病に倒れ、間もなく崩御した。
32歳の若さだった。後継は彰子が産んだ敦成親王と決まった。
紫式部は、中宮彰子とともに内裏を去った。
“ ありし世は夢に見なして涙さえ 止まらぬ宿ぞ悲しかりける ”
中宮に代わってその心を詠むかのように式部が詠った歌である。
紫式部は、一条天皇が没したあとも、しばらく彰子に仕えていたが、
1014年(長和3)頃に40歳くらいで死去したとされる。
(正確な没年や死因は不明)。
紫式部の宮廷生活は-------初出仕が寛弘二年末として『紫式部日記』
記述の寛弘五年秋までとすると、紫式部の宮仕え生活は、
わずか二年余りというものであった。




馬の名は教えず芸歴も言わず  くんじろう




” ふればかく憂さのみまさる世を知らで 荒れたる庭につもる初雪 ”
” いづくとも身をやるかたの知られねば 憂しと見つつも永らふるかな ”
「紫式部集」の巻末歌は、紫式部の心境を窺わせる。
「紫式部日記」にも描かれる「憂さ」は生涯消えることがなかった。
だがそれを抱えつつ、やがて憂さを受け入れ、憂さとともに生きる境地に達し
ていたのである。




ブキッチョはブキッチョのまま終わります  合田瑠美子

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