川柳的逍遥 人の世の一家言
居酒屋の壁にぐじぐじ独り言 新家完司
「鎌倉町 豊島屋酒店白酒を商う図」
江戸最古の居酒屋神田川沿い鎌倉河岸の豊島屋では、一杯の酒と田楽が
二文で売られ、行商人、日雇い、船頭馬方、奉公人で賑わった。 (尚、豊島屋は慶長元年(1596)の創業で、現在も東京都千代田区
猿楽町に本店を置いて事業を続けている) 「江戸の風景」 居酒屋・屋台……川柳で綴る
庶民が気軽に腹ごしらえ、あるいは気晴らしの飲食に利用したのが、
いわゆる「居酒屋」である。
居酒屋は、酒の小売店が一杯酒を飲ませたのが、そもそもの始まりで、
「居ながら」飲むことに由来する。また、さまざまな煮しめなどを売る 煮売り屋が、酒も飲ませる「煮売酒場」となり、ここでも居酒屋の客と 同じ風景が、数々の川柳に詠まれている 煮売屋へなんだなんだと聞いて寄り
黒鯛をたてもににする煮売店
居酒屋でねんごろぶりは立って呑み
※ 常連客が店を覗いて「今日の魚はなんだい?」と亭主に訪ねる。
それまでもなく、立物(目玉商品)は「黒鯛だよと看板にあり」、
その横では鮟鱇が、自慢げに軒につらされている。
気分屋の鬼と半身で呻る酒 上田 仁
酒や簡単な料理を出す煮売り屋の様子が描かれた絵
煮売り屋でつまみ食いするあぶら虫
居酒屋で止めた子細は革羽織
居酒をば仕らずともむごく書き
※ 油虫とは、無銭飲食をするやから。革羽織は、鳶の頭や職人の棟梁
らがよく着るが、ときにはならず者が、こけおどしに着ることもあった。 いわゆるやくざっぽい男が着る定番の革ジャンである。
そんな連中に出入りされると、しだいにほかの客の足が遠のき、
やがてはあ閉店においこまれる。つまり「仕らず(つかまつらず)」
つまり商売にならず店仕舞いに追い込まれるのである。 赤鼻のトナカイの前足の煮こごり 酒井かがり
居酒屋は鰓(えら)を吊るすを見栄にする
鶏の羽衣居酒屋の軒にさげ
お手前らあんどんの燗酒知るめえが
※ 店先の軒の下には、酒の肴の「ゆでダコ」「野鳥」「魚」を吊り下
げており、どのような魚が店にあるかを知らせていた。 注文とともに日本酒に燗ををつけるのは、江戸時代からの食文化である。
真夜中の湯割りに浮かぶお釈迦様 中川隆充
江戸庶民の食事処
絵の左下にチロリがみえる。
チロリとは酒を温めるのに使う銅や真鍮製の筒型の容器。
八文は味噌を片手へ受けて飲み
有りやなしやと振ってみる角田川
徳利は井戸へ身投げの冷やし酒
※ 居酒屋で酒の肴といえば、田楽豆腐をはじめ、湯豆腐、ふぐ汁、
スッポン煮、あんこう汁、マグロの刺身、そして鍋物のネギマや野菜、 軍鶏の鶏鍋など、豊富なものだった。 その酒の肴は、お膳、折敷という低いお盆のようなものに器をのせて
床や床几の上において座って飲食をした。
酒は徳利でなく、「チロリ」という容器に酒を入れ、銅壺で湯煎して
温め、いい温度になったらチロリを席まで運び、そこから酒を注いで
飲んでいた。
ビールの泡を美味しく飲ませる備前焼 靍田寿子
つまるところ酒屋のための桜咲く
薬代を酒屋へ払う無病もの
酒樽もすでにさいごのいきづかい
※ 居酒屋をはじめ、飲食店の繁盛はめざましかった。
「岡田助方の風俗随筆『羽沢随筆によれば、
「凡そ都下に、食類を商う店の多き事。わずかに2、30年以来なり。
近き頃、何れよりか赤坂池のほとりに、市店が移されしが凡そ3、4町
が程、終に字して、赤坂食傷町(グルメ街)と唱う」とある 寛政7年(1795)には、江戸の酒の消費量が93万樽に達し、文化
8年には1808軒の居酒屋があったという。 (これは今日の酒場・ビアホールの割合とほぼ同じである。そんな中、 安政3年に江戸下谷に「居酒屋・鍵屋」が誕生。今もその建物が小金井 桜町に「江戸東京建物園鍵屋」として残り、見学ができる) 聞き役が酔ってしまってごめんなさい 新川弘子
「おまけの10句」
たいこ医者お燗の脈をみるばかり
小判にて飲めば居酒も物すごし
二日酔い飲んだ所を考へる
ぼた餅をこわごわ上戸ひとつ食い
神に下戸なし仏には上戸なし
忍ぶれど色に出にけり盗み酒
神代にもだます工面は酒が入
剣菱も百万石もすれ違い
酔覚めの水のうまさや下戸知らず
禁酒して何を頼りの夕しぐれ
満開の屋台に寅さんがひとり 桑原伸吉
※ 江戸期に誕生した居酒屋には、二つのルーツがあったという。
「茶屋/煮売茶屋と酒屋」だ。古くから街道沿いで団子などの軽食や
お茶を出していた茶屋が、江戸期に芝居茶屋や料理茶屋へと進化。
一方では明暦の大火からの復興需要で、爆発的に増加した人口を
養うために発展した煮売屋台が登場。ファーストフード的に手軽な
煮物や焼き物と茶や酒を提供したものだったが、これが常態化して
煮売茶屋へと変化し、店舗数を増やしていった。 ポイ捨ての種から百の物語 合田瑠美子
高輪廿六夜待遊興の図
江戸高輪の月見の様子が描かれている。
右から、氷菓子屋、寿し屋、水売屋、焼イカ屋、天婦羅屋、
二八蕎麦屋、麦湯屋、団子屋、汁粉屋、などの屋台が並んでいる。
「屋台」
居酒屋より、いっそう身近で簡便な存在が「屋台」である。
「屋台見世は、鮓・天婦羅を専らとす。その他皆食物の店のみ也。
鮓と天婦羅の屋台見世は、夜行繁き所には、毎町三四か所あり」
『守貞謾稿』とあり、「天婦羅の味方に夜鷹蕎麦屋つく」の句があり、
相性のよさから、寿し・天婦羅に蕎麦を加えて「三大屋台」といった。
どこ行った天六角のたこ焼屋 雨森茂樹
下卑た風鈴湯気のたつ上でなり
客二つ潰して夜鷹三つ喰い
※ 蕎麦売りの屋台には、よく風鈴が吊るされていたところから
「風鈴蕎麦」といい、夜鷹と呼ばれる下級の女郎に親しまれていたので 「夜鷹蕎麦」といった。夜鷹の遊び代は、24文二人分で48文、これで 蕎麦三杯は食べられるという勘定である。 花陰で手招きするは老いた魔女 油谷克己
「近世職人尽絵詞」
明暦の大火(1657)からの復興事業以降、江戸では、外食を求める
独り者に食事を提供する煮売屋台が出現。にぎり寿し、鰻や天婦羅など 江戸の味が連なり、それがやがて居酒屋に並ぶようになる。 天婦羅の店に蓍(めどき)を建てておき
天婦羅のゆびを擬宝珠へ引きなすり
※ 蓍は、占いに用いる50本の細い棒。屋台の天婦羅は串揚げなので、
食べた後のその串が易者に筮竹(ぜいちく)のように置かれている。
油のついた指を橋の擬宝珠に行儀の悪い連中がいた。
妖術という手で握る鮓のめし
にぎにぎを先へ覚える鮓屋の子
押し鮓やなれ鮓に目が慣れているから、目新しい握り鮓を握る手つきが
妖術にも見えるというのである。
いい風を入れようひとり暮らしです 阪本こみち
「大江戸芝居年中行事 風聞き」
二八蕎麦に並ぶ庶民の様子が描かれている。
四文屋は吉田町では台屋なり
本所の吉田町は夜鷹で有名。台屋は遊里の仕出し屋。
四文一とは、なんでも四文均一のこと。
(これが回転ずしのルーツである)
佳肴(かこう)珍味を盛りならべ四文一
※ 煮売屋は、何でも一つ4文で売ったことから「四文屋」とも呼ばれ、
焼き豆腐、コンニャク、鮑、スルメ、レンコン、刻み牛蒡、
などを醤油で煮ぞめ、大皿に並べ売っていた。
また魚や野菜のどの煮物を食べさせた、持ち帰りができた。
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