川柳的逍遥 人の世の一家言
せかんでもいいよと言ってくれる坂 笠嶋恵美子
駿府城 (東照社縁起絵巻)
家康が大御所として政治を行っていた駿府は、首都機能の一翼を担う
国際都市として栄え、また家康晩年の居城・駿府城はさほど大きな城で はないが、天守台は、江戸城をしのぐ規模だった。 そして、当時、来日したスペイン人たちが駿府城を訪れ、
「その美しさに驚いた」、と記録に残されている。
駿府城 「家康の駿府までの道程」 今川氏は駿河・遠江・三河を治め、有力な戦国大名だった。
しかし「桶狭間の戦い」で信長に敗れ、三河を奪い独立した家康は、
今川氏真の治政で力が弱っていた今川氏を、甲斐の信玄と連携して、 駿河へ侵攻、今川氏を滅亡させた。
1560年(永禄3)、駿河は信玄のものになった。
が、1568年(永禄11)の信玄の駿河侵入に際し、家康は大井川を
境に信玄と宿命的な対立を引き起こした。 大井川以西の遠江を押さえた家康と信玄の間では、両者の遠江争奪戦が
「高天神城争奪戦」として本格的に始まった。 あの時の偶然実は狙ってた 鳴子百合
駿河城のシャチホコ
1575年(天正3)、「長篠の合戦」で武田が壊滅的打撃を受けると 家康は再び遠江を奪回し、駿河支配を有利に進めた。 1582年(天正10)3月11日、武田勝頼の率いる武田氏が天目山
に滅びると、駿河は家康の領国となる。 その後、家康は、「三河・遠江・駿河・甲斐」の四か国の支配者となっ
たが、信長が武田滅亡の時を同じくして、本能寺で倒れたため、信濃国 は領主不在となり、家康が代わって領国とした。 つまり五ヵ国の支配者となった。
それはもう言いようのない馬鹿笑い 木戸利枝
「家康」 駿河城を愛した大御所 (画像と共に) 幻の川辺城 (東海道駿府城下町)
駿府城の天守閣は「汐見櫓」とも呼ばれ、天守閣からは富士山や駿河湾 が遠望できる。駿府城天守は、「日本最初の金瓦」を使用し、また天守 の重要な場所には、金銀がふんだんに使用していたことも調査で明らか になった。 この時家康は、これら五ヵ国の城下町を岡崎・浜松を駿府へと移した。
居城としていた浜松城から、幼少期義元の居館に人質として過ごして
いた駿府城へと移り、今川氏の館跡に新しい駿府城の築城を開始した。 家康が駿府に来たのは、正式には天正13年7月19日であった。
この時の駿府城下とは、果たしてどんな町であったのだろうか。 駿府城下といっても城主はおらず、武田・徳川の戦乱の後遺症から立ち
直るゆとりもなく、かなり荒れ果てていた、と想像される。 当時の記録もほとんどなく、その心境を知ることはできないが、家康が
精力的に駿府城下町を整備し、築城に際し、家康は自分が思い描いてき た夢をところどころに設計した。 夢という薬を飲んで生きてゆく 広森多美子
伝統的工法で復元された坤櫓~
梁や床下までの構造を見ることが出来るように各階の床板と天井板が外
されている。 駿河城築城工事は、天正15年1月26日から天正17年5月25日に
ほぼ完了した。規模は今川時代の構造をはるかに超えるもので、新しい
駿府の出発ということになる。 この駿河城は「大天守」だけでなく「小天守」も造られた。
家康の築城時に土木工事を多く担当した家臣・松平家忠が記した「家忠
日記」に、「この駿府城の築城に関するところに石垣造りの曲輪を備え、 大天守と小天守からなる見事な連結式天守だった」という、記述が残る。 (最近の発掘調査によって、さらにこの天守台の付近から金箔が付いた
瓦が発見されている) 文房具屋の息子背骨は三角定規 酒井かがり
駿河古城図 (大坂城天守閣蔵) 町割り図 「天正期の駿府城」はこうして完成を見た。
ところが、小田原の北条征伐が秀吉によって行われると、家康もまた先
鋒隊として参戦した。この戦いに勝利すると秀吉は、駿河を領国とし、
家臣の中村一氏を城主として着任させ、替わって家康の東海五ヵ国を取
り上げ、関東に国替えを命じた。
この国替えの発令は、天正17年3月12日のことであったので、家康
は駿河城の完成を間近にしながら、入城することはならなかった。 日本の中心部に位置する「五ヵ国」を支配する家康が、軍事力や経済力
においても目覚ましく向上していたことに、秀吉はそれを極度に恐れ、 警戒したためといわれている。 寝返りをひとつ気がかり消しておく 津田照子
駿府城縄張り図
家康が関東へ移った後、秀吉の三中老の中村一氏が城主に着任すると、
秀吉は、即座に駿河城の天守を金箔にするよう命じた。 駿府城の天守を金箔瓦を使った城にすることで、家康を威圧し、自ら
を誇示するためのものと、いわれる。 江戸を本拠地に移された家康が、京都・大坂にいる秀吉のもとへ向う
途次には、弥が上にも、金箔の天守の駿府城を見ることになるのだ。 家康は、自身の思い深い駿河城が完成しても入ることが出来ず、江戸
に移って、太田道灌が築城した「江戸城の修復と江戸の町」を拵える ことに気持ちを切り替えた。 神様がくれた時間だ焦らない 山本昌乃
駿府城・城下町と富士山
「慶長期の駿府城」
1600年(慶長5)、家康は「関ヶ原の戦い」に勝利し天下の事情が
一変する。 家康の時代になると、駿府城主を身内の内藤三左衛門に与え、豊臣家臣
であった中村氏(一氏はすでに没し城主は息子の忠一)と交代させた。 内藤三左衛門は韮山城主から抜擢され駿府城主となったが、1606年
(慶長11)駿府城を家康に明け渡し、大御所として家康が駿府城主と なった。 翌日の指に残っている火照り きゅういち
大御所の駿府城
大御所家康が駿府に住むとなると、大々的な駿府城下の土木工事を実施
し、全く新しい大御所の都「駿府城とその城下町」が誕生する。 駿府城下町こそ「日本に初めて誕生した江戸時代最初の城下町」という
ことになる。 それまでも城下町はあったが、それらの城下町は、中世の色彩を色濃く
残した閉鎖的な町であったのに対して、開放的で士農工商の考え方を反 映していたため、農民は広大な畑作の地に居住し、戦国時代は武士と農 民の区別がなかったのだが、江戸時代になると完全な「士農工商」が成 立する。その魁の町の誕生が「駿府」といわれている。 ここが好きリッチな街の裏通り 内田志津子
焼失前の宝台院 (東京国立博物館蔵)
新駿府城は、慶長12年7月3日に完成。
家康はこの日に入城したことが当代記に記されている。
そして駿府は、以後10年余りの間、つまり家康の存命中は「大御所の
御座所」として、ここ駿府が大御所政治の檜舞台となった。 ところが、城の完成から5が月後の12月22日に大事が起る。
大奥の局の物置で使用していた手燭の火が原因で出火して、御殿や天守
閣まで燃え広がり大火災に発展し、駿府城の主要な建物を全焼失してし まったのだ。 家康は、江戸の事業ををさしおいても、駿府の再建を急がせた。
そして、火災を恐れた家康は、駿府城内に鉛御殿(シェルター)を建設
したという記述が「名乎離曽の記」に記している。 切れそうな糸で平和が揺れている 樫村 日華
駿河城天守台の発掘調査がはじまる
修復を急がせ慶長13年に完成した駿府城も、今度は家康没後の163
5年(寛永12)11月、茶町からの出火が原因で、城下にまで飛び火 して豪華な天守や御殿をまた失ってしまった。 駿府城の天守は、1635年の焼失後、再建されることはなく明治29
年(1896)には、石垣が崩され、堀も埋められてしまった。 それから120年、2016年8月になって、その全容を明らかにする
「駿府城跡天守台発掘調査」が開始された。 (現在では、二の丸堀より内側が駿府公園になっており、宝暦年間の修
復記録に基づいて、東御門・巽櫓、坤櫓、紅葉山庭園などが復元公開
されている) 詰め放題の袋はすでに裂けている 平井美智子
家康の「夢の一つ」は、城が海から繋がっていることであった。
駿府城から清水港まで通じている水路は、遺構として現存している。
東 御 門
東御門と枡形門 (船の出入をした枡形門)
船の水路
二の丸と繋がる水路
二の丸へ繋がる堀 この水路の先に清水港がある
「水を巧みに活かした家康の偉業」
① 暴れ川「安治川」の驚異を最小限にし、城下町の安全を確保した。
② 安治川の水、または、その伏流水を城下に引き入れ生活用水とし
て活用した。 ③ 用水の流れを巧みに操り、町の浄化や消火、職人たちの糧に役立
てた。 ④ 川や水路は、時として敵からの攻撃や侵攻を防ぐ要塞として活か
された。 ⑤ 海、川、水路と繋げた運河で、物資の運搬や外国船の出入りを可
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