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川柳的逍遥 人の世の一家言
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いやまさかタピオカ喉に詰まるとは  八上桐子



         幽閉先の修禅寺に残る伝頼家の「死相の面」

源頼家が修禅寺に流された頃、夜叉王という面作り師がいた…
岡本綺堂が修善寺温泉に滞在中、宿の主人と語り合っているうちにこの
「死相の面」のことが話題になった。
内容は、この地で暗殺された源頼家のことであった。
岡本綺堂は、宿の主人が語った頼家の史実をヒントに新歌舞伎の傑作
「修禅寺物語」を書いた。


イの一番が呪い続ける交差点  森 茂俊
  
 
 
           修善寺物語

 

「鎌倉殿の13人」 頼家暗殺


「修禅寺物語」 

源頼家が修禅寺に流された頃、夜叉王という面作り師がいた。
頼家は、夜叉王に自分の顔の面を注文する。
しかし、何度作っても、面に死相が現れ、なかなか完成させることが
できなかった。
半年が経った秋の晩、頼家は面の催促に夜叉王を訪れる。
夜叉王は「面に死相が出てしまいお渡しできない」と話すと、
癇癪を起した頼家は、夜叉王を成敗しようとした。
そこへ頼家の興奮を抑えるように、娘のかつらが来て、
「お鎮まりくださりませ。面は唯今献上いたしまする」
と、穏やかな様子で止めに入った。


夜を作ったのは神様の誤算  上砂眞笑



何度、作っても「死相の面」になると嘆く夜叉王


かつら差し出した面を見るなり、頼家
 「おお、見事じゃ、よう打ったぞ。さすがは夜叉王、
  あっぱれの者じゃ。頼家も満足したぞ」
打って変わって、感嘆の声を漏らすのだった。
対して夜叉王は、
 「あっぱれとの御賞美は、憚りながらおめがね違い。
 それは夜叉王が一生の不出来。よう御覧じませ。
 面は死んでおりまする。何度打っても死人の面しか出来ないのです」
と、説明するが、大満足した頼家は、
「この面を持ち帰る」と言い、さらには
「お前の娘が気に入った」
と、言い、夜叉王の娘・かつらを頼家の邸へ連れていくという。


スイッチが入れば飴色の世界  宮井いずみ


修禅寺に幽閉され、不遇な日々をおくっていた頼家は、
かつらを側女に得たことで心の傷を癒やし、
この地で、幸せな生涯を送りたいと考えたのである。
ある日のこと、頼家とかつらが、桂川のほとり虎渓橋の袂を散歩して
いるとき、宵闇の中、草むらに潜む怪しい二つの影があった。
頼家が不審者に気づき「何者か!」と叫んだため、
影はその場から逃散した。
影は、北条時政の命を受けて、「頼家暗殺」にやってきた刺客だった。
刺客は好機を待った。
再三、頼家の油断を狙っていた刺客は、頼家の入浴中を襲った。
無防備な頼家は浴槽で打たれ、湯舟を真っ赤な血に染めて命を落とした。


虹色と抱いて儚いシャボン玉  靏田寿子


頼家の傍らにいたかつらも、また頼家の面を付けて奮戦し、
血まみれになりながらも、実家へ落ち延びてきた…
 「これ 姉さま。心を確かに。のう、父様。姉さまが死にまするぞ!」
妹のかえでが物音に気付き、瀕死の姉を認めて、父を呼んだ。
夜叉王は、さして動揺もみせず、かつらを見て
 「おおぉ、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。
  父もまた 本望じゃ」
と、一声を吐した。そして、かつらのつけていた割れた面を抱いて、
「幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、
 われ拙きにあらず、鈍きにあらず、源氏の将軍頼家卿がかく相成る
 べき御運とは、今という今、はじめて覚った…伊豆の夜叉王…、
 われながらあっぱれ、天下一じゃのう」
と、言うのだった。


思い出に変化してゆくぼんのくぼ  きゅういち
 
 

 風呂場で刺客に暗殺される頼家
 
 
 「頼家殺害のミステリー」
伊豆修善寺に幽閉された将軍頼家は、その地で暗殺された。
しかし、誰が何のために、という部分はハッキリしていない。
「愚管抄」などの書物によれば、
「浴室で入浴中に襲われ、首を紐でしめられ陰嚢まで取られる」
という、かなり惨い殺され方だったようだ。
すでに力のない頼家を、なぜこうまで無残に消さなくてはならなかった
のだろうか。

「…トミニエトリツザリケレバ 頸ニヲヲツケ
 フグリヲ取ルナドシテ コロシテケリと聞ヘキ」 (『愚管抄』)


華やかな時代も過ぎて冬しぐれ  藤原邦栄


 【追記】
暗殺を命じたのは北条時政説、或いは、子の北条義時説がある。
殺害された理由は、頼家が北条氏へ相当な恨みをもって復讐を計画した
からとも、一種の精神病的な状態にあった頼家の言動を、北条氏が危惧
したともいわれる。
しかし、事実を探る手がかりの1つとして、頼家の側近であった中野能
という武士について驚くべき事実がわかった。
 能成はかつて、頼家の暴挙にさんざん付き合った近臣で比企一族滅亡
の折には、禁獄されている。
だが能成には、その日付で、時政から「所領を安堵する」書状が出され
ているのである。つまり頼家側と思われていた能成は、実は、
時政側のスパイだった疑惑が出てきたのだ。


目が覚めてすぐに昨日が裏返る  小谷小雪 


「中野能成とは」
御家人13人の合議制に反対する頼家が選んだ、側近5人の1人である。
建仁3年(1203)比企氏が謀反を企てた為、北条氏に滅ぼされた。
頼家は伊豆の修善寺に追放され、連座して能成は、所領を没収された。
が、高井郡志久見郷を本拠とする市河氏伝来の「市河文書」によると、
「所領没収」と同じ日に、北条時政から所領を安堵の保証をされてい
ることから、能成は頼家の側近でありながら、北条氏とも通じていた
可能性が指摘されている。


不要になった幽霊船の舵  井上一筒
 
 

    伊豆修善寺 湯治場  歌川広重
 
 
「明治座での初演初日の朝に綺堂が書いた文章」

(抜粋)
『頼家の仮面といふのは、余ほど古びていて、判然とは判りませんが、
矢はり昔の舞楽の面でせう。
之を頼家の仮面と称するのは、恐らく頼家所蔵の面といふ意味であらう
と察せられます。
同じ仮面でも、これが頼朝の仮面では、左のみの感じも起こりませんが、
頼家のやうな悲劇中の人物、其人の形見かと思ふと、一種悲哀の感が湧
いて、悲劇の仮面を着けていたといふギリシャの神などが連想されます。
で、其の仮面をつくづく見ていると、何だか頼家の暗い運命が其の面に
刻み込まれて居る様に思われる』


空き缶を蹴っております飽きるまで  岡本遊凪



修禅寺を訪れた 岡本綺堂 が、鎌倉時代を題材に戯曲を書き上げ、
明治41年(1908)に、明治座で初演したのが夜叉王を二世・市川
左団次が演じた「修禅寺物語」であった。
果たして大好評となり、修善寺温泉の名を一気に高めた。
面打ち師の夜叉王と娘のかつら、そして、幽閉された二代将軍・頼家
かつらの思いを滅びゆく源氏の姿を背景に描いたストーリーで、綺堂は、
「修禅寺の寺宝」である面を見て、作品のヒントを得た、と言われている。


ひっそりと海馬の奥に捜し物  松浦英夫
 
       梶 原 景 時

「景時を死なせたことは頼家の失策である」とは、
「愚管抄」天台宗僧侶・慈円の評。


「梶原景時暗殺」

鎌倉の有力御家人の1人である梶原景時は、武勇で名を馳せる一方で、
敵対者を次々に讒言して多くの恨みを買っていた。
九郎義経を死に至らしめたのも、景時の讒言であった。
「ただちに景時弾劾に同意する者は、鶴岡八幡宮の回廊に参集せよ」
という回文がまわされると、長年の不満が溜まっていたのか
なんと安達盛長・和田義盛ら66人もの御家人が集まった。
早速、「景時弾劾」の決議文を作成された。
当時、武士たちは直接、将軍に書状を渡すことが出来なかったため、
決議文は、和田義盛が大江広元に手渡し、広元から将軍頼家に届けられた。
決議文の内容は、
「景時一人を信任するか?それとも多数の御家人の意見を受け容れるか?」
と、迫ったものであった。


アリ塚に放り込む目覚まし時計  酒井かがり


そして正治元年(1199)10月28日、鶴岡八幡宮に、
ストレスの溜まった東国武士が集まって、ガヤガヤと騒がしい。
「梶原景時を討つべし!」
「そーだ!」
「文治からこのかた…景時の讒訴で命を落した者数知れぬ!」
「世のため君のため退治すべきだ !! 」
「石橋山では平家方だったくせにゴマスリでのし上がりよった」
「そ~。 傍若無人の振舞いは目にあまる !」
「即刻 討つべし!」


底抜けに明るい欠けた瓶の口  笠嶋恵美子


熱い激論の中へ大江広元がやってきて、
「待て待て…弓矢で立っては国中の乱を呼ぶ…ここは、みんなの連判状
 を将軍に提出して、とりあえず景時を諫めてみてもらおうではないか」
「弱腰だが…、一理あるな」
「賛成!」 「異議なし!」
侍所別当の梶原景時結城朝光「謀反の意図あり」と讒訴したこと
に御家人たちが反発し、総勢66人が八幡宮の回廊に集まって、
「景時弾劾」に立ち上がったのであった。


もうすでに生命線は消えている  くんじろう





大御所に場所が移って、
将軍頼家梶原景時が向かい合っている。

頼家 「連判状が提出された!弁明があるなら聞くぞ…」
景時 「御家人どもの悪口などたかが知れています。
    大殿のご信用さえいただけば…」
頼家 「だけど…あのねぇ。これだけたくさんの連中の連判状となると
    庇いきれないよ…なぁ!悪いことは言わん、謝っちゃえ!」
景時 「そーは いきません」
頼家 「無理か…?!」
景時 「無理です」
多数の御家人たちに開き直られたのでは、将軍といえどもなす術はなく、
頼家は、衆議による景時の「鎌倉追放」を承認した。


その刻は使う覚悟の爪と牙  桑原すゞ代


2か月後、景時は鎌倉から追放された。
頼家は、北条に対抗するための大事な懐刀を、失ったのである。
景時は、反鎌倉勢力を結集しようと、京へ向かう馬上にあった。
「待てー。梶原景時だな。尋常に勝負いたせ!」
「駿河の住人、飯田五郎なり!」
「盧原小次郎(いおはら)なり!」
景時 「小癪な! 田舎武士め!」
翌年1月20日、多勢に無勢、景時は、奮戦虚しく駿河国狐崎で、
土地の武士・盧原小次郎飯田五郎らの手によって討たれた。


風葬やったんか墓石あらへんで  黒田忠昭


この梶原景時の失脚について、九条兼実「玉葉」では、
千幡(実朝)を担ぎ出して、「頼家の転覆を図ったため」という
風聞
を記している。
首謀者は、北条政子・北条時政親子だったのだろう…
時政は、源頼家の将軍職を廃止した。
さらに頼家を「修善寺」へと追放し、北条氏が鎌倉支配の実権を握り
始めたのである。



あざ笑うなかれ只の凹凸なんやから  山口ろっぱ

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