川柳的逍遥 人の世の一家言
浜松城(秀忠はこの城で生まれた) 『誠らしき嘘はつくも、嘘らしき真を、語るべからず』 岡崎の家康 ≪岡崎は家康誕生地(1542~1616)≫
慶長8年(1603)、
だが実は、本来なら家康は、 源頼朝以来、慣例とし将軍職には”源姓”のつくものしか、 付くことが出来ない。 ゆえに、源姓でない豊臣秀吉の場合は、 室町幕府15代将軍、足利義昭の養子に入り、
「将軍たらんことを切望した」 国家を統べる方法を、選択したのだった。 浜松の家康像 ≪三河を平定、浜松城へ(1568~1586) 三男・秀忠浜松城にて誕生(1579)≫ 永禄9年、三河統一を成し遂げた家康は、 織田信長と同盟を組み、戦国大名への道を歩み出していた、 この年の12月、家康は、従五位下・三河守への官位認定と、 松平から徳川への改称を申請した。 だが、正親町(おおぎまち)天皇は、 「先例がないため公家にはできない」 とこれを拒否した。 駿府の家康 ≪駿府へは、今川家の人質として入る(1549~1560) 浜松から駿府へ再び(1586-) その後、五奉行直前から京都へ。 秀忠将軍職を譲り、再度駿府に居住(1605~1616)≫ そこで家康は、浄土宗の僧侶を通じて、 関白の近衛正久に協力を仰ぐことに・・・。 すると、近衛家の家来であった京都吉田社の神主が、 先例として、利用できる古い記録を発見した。 それは、 「源氏の新田系の得川氏の流れで藤原氏になった家があった」 ということだった。 神主が、その場で書き写したものを、
前久が清書し、朝廷に提出したところ、 曲がるとこ曲がってまっすぐも曲がる 清水すみれ 対して、徳川氏は、 「源姓の家系だから、スムーズに将軍になれたのだ」 と誤解している人もいる。 家康は、慶長7年(1602)まで、「藤原氏」を名乗っており、 将軍就任を意識して、この年、源氏に復姓したのだ。 復姓とは、妙な言葉だが、家康の言い分によれば、
「もともと徳川は源氏だったが、 のだそうだ。 だから、元の姓に戻るのだと主張する。 最も表情の優しい家康画 このとき家康は、証拠の家系図を朝廷に提出したが、、 それは、『偽系図』である可能性が高い。 なにはともあれ、慶長8年、家康は征夷大将軍に任命され、 名実ともに、豊臣秀頼に代わる天下人となった。 この徳川幕府の誕生は、 豊臣家に大きな衝撃を与えることとなる。 たましいの束の間ほたる二三匹 河村啓子 大坂城にはまだ、秀頼がおり、
大坂方では、家康が将軍になったことに、 「秀頼が成人した暁には、政権を返すはず」 という思いがあった。 そうした大坂方の思惑を、完全に打ち砕いたのは、 その2年後である。 駿河城復元模型 家康が将軍職を辞し、息子の秀忠が二代将軍になった。 これは、
「江戸幕府は徳川氏が世襲する。 という、意思表示である。 「秀頼が成人すれば」 「家康が死ねば」 と考えていた大坂方は、喩えようもないショックを受けた。 モザイクをはずすとそうかそうなんだ 山本昌乃
このように老獪に、「大坂の陣」は、 時代の流れは、完全に徳川方であり、 豊臣氏は、結局、滅ぼされるしかなかった。 慶長19年(1614)10月からはじまる「大坂・冬の陣」、 そして、翌・元和元年5月の「大坂・夏の陣」によって、 豊臣氏は、滅亡させられてしまう。 常識を埋める とぶための儀式 松本としこ PR |
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