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川柳的逍遥 人の世の一家言
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構想を一時共有できた船  筒井祥文

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   勝者の将・家康の兜

≪真意は分からないが、家康は、関ヶ原の合戦を目前にして、

    イタリア・ミラノで作られた甲冑を用意していた≫

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 敗戦の将・三成の兜

「戦後処理」

家康の戦後処理は迅速だった。

西軍の首謀者である三成、安国寺恵瓊などは、

市中引き回しの後、

六条河原で斬首となった。

家康は9月27日に大坂城に入城。

豊臣秀頼淀殿と会見した後、論功行賞を行った。

なりゆきで真一文字に眉を引く  谷垣郁郎

秀忠隊を欠いた状態で、決戦に臨んだ家康は、

勝利こそ得たが、

その分、論功行賞で自軍に加わった豊臣恩顧諸将に、

大封を与えざるを得なかった。

その予算を捻出するため、

豊臣家は、「今回の反乱には直接関係ない」

と裁定を受けたが、

200万石に及んでいた直轄地は、

65万石にまで下げられてしまった。

そして遅参してしまった秀忠にも、

家康は、なかなか会おうとはしなかった。

よほど迷ったのか、重臣に、 

「世継ぎは、誰がよかろうか」

 

と尋ねているほどだった。 

水色の声を放ってバリケード  岩田多佳子

 

本多正信は、秀忠の兄・結城秀康を推し、

徳川四天王の井伊直政は、弟の松平忠吉を推したという。 

≪忠吉は、直政の娘婿に当たり、

   関が原では、先鋒の福島正則を出し抜いた形で、

   一番槍の巧妙を上げていた・・・≫

 

だが秀忠の遅参は、まったくのお咎めなしとなった。

実は、家康は秀忠率いる徳川本体は、温存しておきたく、 

「わざと遅参させた」
 
のだと、家康は江に言った。 

転がっているだけで意地悪な石  山口ろっぱ

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家康・輝元が交わした証文

「戦闘に参加しなければ、毛利の所領は保証する。」

こうして関が原の戦いにより、

大名の配置図はガラリと変わった。

廃絶された西軍所属の諸大名・90人の領地・

660万石は没収、

西軍の総大将だった毛利輝元は、

周防2カ国に削減され、

上杉景勝は4分の1の30万石に減らされた。

実は合戦前、家康は、毛利軍に対して、 

「動かないでくれれば、

  中国10カ国、120万石の領地をそのままにする」

 

と約束していた。

毛利軍の主力は、その通り、動かなかったが、

実際には、領地の大半を取り上げてしまったのだ。 

一生のお願いですと二度三度  津田照子

 

取り上げた分は、どこへ行ったのかというと、

東軍の諸大名や、家康の一門、家臣に加増されたのである。

家康は、直轄領を増やし、

さらに井伊、本多ら譜代家臣を大名として独立させると、

関東から京都、大坂を結ぶ諸国に配置した。

こうして、よその大名の土地を踏むことなく、

江戸、京都、大坂を、行き来できるようになった。 

謎解けた 風の後ろに回ったら  原 洋志

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関が原の戦い

 

「影の功労者」

関が原で家康が、一敗地にまみれていたならば、

秀忠は徳川家の世継ぎの座を追われ、

、「御台所」になれなかったかも知れない。

関が原の戦いの勝利が、

秀忠のミスを帳消しにした格好だが、

その裏で、

初の夫・京極高次が、大きな役割を果たしていたことは、

あまり知られていない。 

一望千里帰る男の野火の跡  萩原三四郎
 

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   三成・大吉の軍団

もし、大津城に釘付けされた1万5千人もの大軍が、

関が原に到着していれば、

家康にとって、
三成との戦いは、

もっと凄惨なものになったかも知れない。

高次が大津城に籠ったことの戦略的意義は、

実に大きなものがあった。  

皮肉なことに、初・高次夫妻が、

妹・江・秀忠夫妻の窮地を救ったことは、

裏返すと、姉・茶々、そして豊臣家の行く末を、

暗転させる結果となったのだが・・・。

  

ポップコーン生きてることが祭りです  たむらあきこ

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