地下道を出よう欠片になる前に くんじろう
慶長5年9月15日の関が原合戦の模様
≪家康の本陣には、
「厭離穢土、欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど)の旗が立っている≫
「関が原の火種―上杉景勝の事情」
上杉景勝は、秀吉が亡くなる年に、
越後から会津に移ったが、すぐに上京することになったので、
新しい領国内の整理が不十分だった。
そんな事情のところに、
越後には堀秀治との紛争を抱え、
南の宇都宮には蒲生、北東の岩出山には、
伊達という旧領主が、領主不在の不安定な上杉の領地を、
虎視眈々と狙っていた。
加えて上杉家は、大幅に領地が増えたため、
新しく家臣を抱え、領内運営のために、
公共事業を、起こさねばならない事情にあった。
大きく振り被った次の音 蟹口和枝
直江兼続
そこで上杉家家老の直江兼続が、
若松の北方にある「神指原」というところに、
大きな城の工事を始めた。
景勝や兼続の動きを封じたい家康は、こことばかりに、
景勝らの行動を非難すると同時に、
書状をだして釈明を求めた。
しかし、兼続は、これを拒否。
「武器を集めるのは、茶碗を集めるようなもの。
上杉を疑う徳川にこそ、企みがあるのでは」
同時に、兼続は挑発的な返答で切り返した。
世に言う「直江状」である。
底辺は天の不正を許さない 森廣子
兼続のこの自信は、どこからでてきたものか。
それは、兼続が秀吉から、
「羽柴」・「豊臣」の姓を、名のる事を許され、
米沢で、30万石を与えられていたからだ。
石田三成が19万石だから、
秀吉の兼続待遇と信頼は、破格である。
こうした、これまでの秀吉の恩義に応えるべく、
兼続が、家康の最近の胡散臭い態度に、
注射をうつものだった。
俎が立ってきゅうりが正座する 森 茂俊
自信に満ちた兼続像
いろいろと上杉に難癖をつけ、家康は、
「景勝は逆賊、謀叛の恐れあり」
として、秀頼に上杉討伐を申し出、会津へ向けて出発する。
これには、家康の計算があった。
≪自分が戦地に赴いている間に、
三成に「反・家康軍」を組織させる時間を与え、
それを粉砕することで、
天下の覇権を一気に握るという、思惑があった。
尻尾振りチャンス待って居たんだね 中井アキ
「慶長5年7月17日、針は関が原を向いて」
家康は、下野国(しもつけのくに)小山まで来たとき、
「石田三成挙兵」の知らせを受けた。
その際、家康は一芝居打つ。
随行した将を集め、
「三成に味方する御仁は、遠慮なく陣払いするがいい」
といい放った。
すると豊臣恩顧の福島正則が、
「家康につく」と宣言したことで、
大名たちは続々と、徳川の味方についたのである。
うず潮の円周率に乗ってみる 和田洋子
そこまでは、家康の思惑通りだったが、
予想外だったのは、
三成が、8万強という大軍を組織したことだった。
狸の家康に対して、狐・三成も、したたかに動いていた。
7月に、盟友の大谷吉継を佐和山城に招き、
家康打倒の計画を打ち明けた。
そして、かねてより示しあわせていた毛利輝元が、
大坂城に入って、総大将に決まり、
奉行らから、『内府違い』の檄文が送られていた。
炎沈めて黒はいよいよ黒となる 太田のりこ
そして、小早川秀秋を総大将にした軍勢が、
家康の留守居だった鳥居元忠が籠もる、
伏見城への、攻撃を開始した。
細川藤孝(幽齋)の田辺城にも、攻撃をしかけた。
こうして、迎えた9月15日、
家康率いる東軍・7万4千は、
三成率いる西軍・8万4千と美濃・関が原で衝突する。
八起き目は笑いの渦の中である 和田洋子
大河ドラマ「お江」・第36回-「幻の関が原」 あらすじ
天下分け目の戦いとして知られる「関が原の戦い」は、
茶々、初、江の三姉妹が、
敵味方に分かれた合戦でもあった。
当時、茶々は大坂城、
初は大津城、
江は江戸城にいた。
片方の耳はあしたに取ってある 石部 明
決戦が迫る中、近江・大津城の高次(斎藤工)は、
一旦は三成方として出陣しながら、
突然城へ戻って、守りを固め、
今度は、家康(北大路欣也)につくという、
綱渡りを演じてみせる。
これに激怒した三成(萩原聖人)は、
すぐさま大軍を差し向けて、大津城を攻撃。
悪いのはみんなあんたと低い声 佐藤正昭
初(水川あさみ)は、3度目の城攻めを経験することになる。
甲冑に身を包み、必死に城を守る初。
とそこへ、淀(宮沢りえ)と高台院(大竹しのぶ)の意を受けた、
大蔵卿局(伊佐山ひろ子)と孝蔵主(山口果林)が、
大津城にやってくる。
「和議を結べ」と説得にきたのだ。
のたうち回ってる 確かめあってる 前中知栄
その後、豊臣秀頼を擁し、家康打倒を掲げて挙兵した三成は、
主に西国の諸大名からなる軍勢を、
東に向かわせ、対する家康は、
三成に反感を抱く豊臣恩顧の諸大名を、
西に向かわせた。
≪まず福島正則たちは、城主・織田秀信の岐阜城を陥落させる。
三成の出鼻を挫くが、浅井三姉妹にとり、
秀信の父・織田信忠は従兄弟にあたる≫
陽炎が人の形になるよすが 蟹口和枝
家康は、秀忠にも、出陣を命じた。
徳川軍の先鋒隊として、
秀忠(向井理)は、3万8千の総大将を任された。
江は出陣前の夫に、信長から市に、
そして今は、江の手に渡った
「天下布武」の印判をお守りとして渡した。
マタタビのエキスを目薬に混ぜる 井上一筒
岐阜城陥落後、家康自身も、東海道を西に向かい、
決戦の地・関が原を目指す。
秀忠は、中山道を西に向かった。
家康が徳川家の当主だったが、
徳川勢本隊を率いていたのは、秀忠の方だった。
大将軍鎧の下は蚊の心臓 ふじのひろし
その頃、近江佐和山城の三成も動き出していた。
豊臣政権の5大老の1人で、
家康に唯一対抗出来る大大名の、毛利輝元を総大将に仰ぎ、
大坂城本丸にて、西軍の軍議が開かれた。
三成の反乱を下野の地で知った家康は、
小山で評定を聞き、
結城秀康を上杉の抑えに残して、
全軍、引き返すことにした。
足どりが弾む獲物の匂いする 三村一子
上田城大手門で衝突する秀忠隊(白)と真田隊(赤)
中山道を進む秀忠隊は、
東海道を行く家康隊と、美濃で落ち合う予定だった。
だが、兵を進める秀忠の前に、
戦上手で知られる信濃・上田城の真田昌幸(藤波辰爾)、
幸村(浜田学)親子の抵抗に遭い、
無駄に時間を費やしてしまい、
また、大雨の泥濘で行軍は遅々と進まず、
関が原の戦いに、間に合わなかった。
秀忠が、関が原に到着したときには、
既に5日も前に、東軍の勝利で決着していた。
中程で仏間がしてる生欠伸 岩根彰子
[5回]